魔道 その2

 仄暗く赤い、秋の陽であった。
 およそ新入部員の訪れるべき時期を遙かに外れて、その新参者は部室の戸を叩いた。白化病めいた髪。原稿用紙から見上げた矢先に合った白い虹彩が、空木啄木鳥(うつぎきつつき)の神経を、ふと、射竦めた。



 知覚不能の豪速に乗った重力が、梃子の如く、体を引き倒したかのような。それが志筑の文章であった。
 自らの背が木板の繊維を裂く音をすら知覚しながらも、空木は既に執筆を開始している。先の手を越される事も、予期の内に入る。志筑綴子(しづきつづりこ)こそは文芸部の生んだ、真正の魔才である。

「それほどの文才をもって、走った先が魔道か」

 跳び、起き上がったその時、両指には最終稿がある。入部より三年。生まれてより十八年。純文学の理念ひとつに忠を尽くし、基礎の執筆鍛錬のみで至った――仰天たる速筆の境地。

「――哀れ」

 筆の速さは機の速さとなる。志筑の次の動を待たず、片指四枚。両指に八枚。三千二百文字もの破壊描写が志筑の臓腑を揺らし、破裂音と共にその体は飛んだ。

「落ちよ、志筑。道を外れた書と命、今取り立てようぞ」

 一瞬にして八の打突が、硬く体幹へと撃ち込まれたが如く――空木の作品の描写は、そうであった。基礎に忠実でありながら、決して人間認識の否定し得ぬ、現実に法則した被打撃描写。それを三千と二百の文字に尽くし、志筑に知覚させた。
 正統たる文芸の道に、邪文奇文は無用である。希望崎学園文芸部に奥義はなく、このような基礎の文芸の極みにただ至ることこそが、それ即ち奥義であるとされる。
 ――故に真正奥義書の存在、断じて認められぬ。探索行の目的は取得ではなく破壊にあり、それを命じた者も“四文鬼”にあって最も秩序を重んじる、空木啄木鳥自身に他ならぬ。

「うふ」

 天井を仰ぐ志筑の呼吸が、笑いを含んだ。ゆらりと起こした瞳に、朝の反射光が灯る。その光を見て、空木の海馬はいつかの感情を思った。

「哀れはどちらか、姉者。貴女ほどの文芸者ならば、自ずと解ろうというもの。文芸に魔道無し。姉者が奉ずる純文の道すらも、もはや今の世……一のジャンルに過ぎませぬ」
「……邪道の文が我ら正統の文芸に並ぼうとは思い上がったものよ。野犬めいた貴様らは、道としての品位を持たぬ。伝統を」

 「ゴーイングマイジャンル」の書が風に揺れた。

「伝統。似た者故に落としまするか。他ジャンルの品位を貶めて得る品位など、愚の骨頂というもの――」

 ――この眼であった。この少女が妹弟子として文を磨いていた、修行の時。威を前に白い眼が折れる様を、空木は知ることがなかったのだ。

(ああ、その瞳が)

 既に知らず、空木は8枚の原稿を書き上げていた。日常的に鍛錬を課した筆先は、無意識の内にも文学のぶつかり合いを求めていた。自らと拮抗する、対手と。
 絶対的な文芸という秩序の日々に現れ、混沌を齎した対手と。伝統を嘲笑い、師父を殺し、そして消えた……霞のように、一度この手をすり抜けて失われた、その姿と、今。

(志筑。その白い瞳。白く滑らかな肌。その指先も。……文学少女の色は黒。許せぬ。ああ、貴様が文芸の道を踏むことを、この私が許しておけぬ)

 裏腹に、空木は白い文学少女の内に飛び込んでいた。歓喜していた。既に間合いだった。

「“絶招”」

 それが志筑の文芸。

「――“殺一警百”」

 重い塊が飛んだ。水を含んだ音が天井を打ち、落ちた。
 空木の左腕であった。既に書き上げていた筈の原稿八枚を打ち込むいとますらなく――空木は、志筑綴子の文芸を、読まされていた。一瞬のうちに。

「……ああ。ああ、志筑」
「終局にございますな」

 志筑の唇が、侮蔑の微笑を浮かべた。
 崩れる膝を自覚しながら、空木啄木鳥もまた嗤っていた。痛覚神経と致死の出血が、全てを証明していた。白い文学少女のしなやかな指が書いた文芸が、今、空木の命を絶ったのだ。
 不可解な一瞬、文学少女として踏むべきでない間合いを踏んでしまった理由。それは。

(……志筑……お前の白い肌に、初めて赤い血が)

 文学少女にあるまじき、悦びだったのだ。自らより歳も身分も下でありながら、決して手届かぬと思われた少女の肌に……紛れも無く己の文芸が傷を刻みつけた、その事実が。

 白い髪を疎ましく思いながら、その色がいずれ黒く変じていくことを、空木啄木鳥は恐れたのではなかったか。正しき文芸に依らぬ突然変異の才がこの世に在ることを、心のどこかで信仰したかったのではなかったか。
 志筑が師父を手に掛け、部から失せた事を知ったその時……門徒らに隠れ、空木は嗤っていたのではなかったか。文芸の檻に捕われぬ自由。それでこそ、私の想う志筑綴子なのだと――

(……ああ。今知った。真の魔道は……私)

 血を失った世界は、歪み、見えぬものと成り果てていた。
 欲望と卑屈を覆い隠し、強いて自らを律した日々。だからこそ欲を禁じねばならなかったのか。誰もの模範たる文学少女を演じながら、精神の奥底は。
 見透かすような瞳を持った志筑の名を、努め忘却し続けてきた。そうでなければ……

 無情に濁った白い瞳が、それを見下ろしていた。

「文芸の技量の程、これでお認めになられたかと。出場権、頂戴いたしまする」
「……待て、まだ」
「では――失礼」
「まだ、まだだ。この程度では、志筑」

 ――私の醜さを伝えきれないのだ。
 声は、白い後ろ姿に阻まれて消えた。誰よりも基礎文章力に秀で、禁欲と正道を知られた“四文鬼”の一角、空木啄木鳥は、一切を語ることなく果てた。



【第0ターン 文芸部室前】
志筑綴子○ ― ●空木啄木鳥






最終更新:2014年12月30日 23:34