「あれは、浜星……」
生徒会役員室。模府鋭(もぶ えい)が息を呑む音。大グラウンドのビデオ判定員は彼女一人ではない。故に、模府があの浜星昇(はまぼし のぼる)の試合審判に振り当てられたのは、単純な奇遇といえる。
野球の道を行く者でありながら、野球神(やきゅうしん)を討つ事が生涯の目的であるという。彼を最初に見た日を思い出す。神を殺す所業に一点の後ろめたさすら持たぬ、陽の狂気――
「一人全役……尋常ではない。それは、尋常の敵では……あなたが考えているような、志筑」
志筑綴子(しづき つづりこ)。音もなく浜星へと歩み寄る修羅の名称が、それであった。犠牲者の血に餓えたその文芸が第一の犠牲としてその男を捉えたことは、不運と言う他はないのだろう。それが浜星昇でなければ。
(……恐ろしい。第一の、まだ五分も経過していない――その試合が、浜星と志筑。鬼雄戯大会。何故よしお様は、このような事を……)
全てのポジションに完全を極めた野球選手は、もはや野球選手ではない。野球はチームプレーであるからだ。浜星昇はそれだ。この男は既に、野球の彼岸を踏み越えてしまったものである。そのような男が、神を殺し、野球という世間の頂の座に立つと豪語している。
また、生徒会役員である模府が、志筑の闇に関して知らぬはずがない。文芸部最強の一角と目される空木啄木鳥(うつぎ きつつき)を、何者が殺したのか。しかし今ならば分かる。彼女を前にした者は、白い虹彩のその暗黒を前に……最大の容疑者の参加を、受け入れざるを得なかったのだ。
異形怪才の徒二人。この第一戦で潰し合う事すら、運命の拒絶がためか。
『……ところで』
対手に背を向けたまま、浜星が呼んだ。
『さっきからそこにいる女子は』
「“絶招”」
その時にはもう、抹殺の文芸を打っている。志筑綴子は奥義を惜しむ精神を持たぬ。
一撃にして空木啄木鳥の命脈を絶った、正体不明の邪文。
――殺一警百という。
殺意が弾け、砂塵が波紋の如く流れた。……浜星は投球の構えを解き、残心した。その交錯で砂に座していたのは、仕掛けた志筑綴子だった。
「やるじゃねえか!」
にかり、と笑った。邪悪に淀んだ志筑の眼差しと対称を成す、まるで野球部員である。
「今の投球、防いだな。文芸部の……!」
「うふ……どうやら、速い」
立ち上がりつつ志筑が捨てたのは、原稿用紙に包まれた野球ボールである。先の砂塵を巻き上げる運動量で放たれたそれは、本塁直行レーザービーム。外野手の殺技に他ならぬ。
「野球技術に依るものであれば、全ての技を繰り出すことができる。全て。専門のポジションに遜色のない力量で」
自ら読み上げた技能詳細に幾度も目を通している模府にあっても、やはり、脳が認識を拒絶する映像であった。それが浜星の技。一人全役。
(一般的に、野球部員の戦闘能力は低いものと思われている。それは、技の応用性に劣るとされているから。しかし、一つ一つの技は……今のように)
野球の理を越える野球の技について、模府は想像で補完する他ない。例えば、150km/hの豪速球を見落とさぬバッターの動体視力を以て、志筑の文芸の初動を認識していたとしたらどうだろうか。それを二塁手の瞬発力で。そしてあの至近からの、外野手の投球……乱闘要員の無慈悲さで、それを直接人体に。
思考を巡らせる間に、凶人二人の交錯は続いた。先頭打者のバッティング。打撃認識を叩きつける文芸。一撃、二撃。三撃――彼女の処理機能ではもはや追いつかぬ。
……追いつかぬまま、志筑の肩が外れた。
(また使った。一人全役)
怒りの一本背負い。乱闘中にのみ許される、外道のラフプレーである。
「なあ志筑先輩! 前々から……許せねえ事があったんスよね、俺!」
少女の華奢な体で大地を割り、その肉体を破壊してなお、浜星の顔に罪悪の色はない。もっとも、文学少女を相手取って情けをかける愚者が、この学園の歴史に生存した試しはなかったであろう。
「アンタら文学少女とやらは……自分達の文芸だけが、人体破壊のエキスパートだと思い上がってやがる。気に食わねえ!」
「……くふ」
細かな血を吐き、志筑は身を起こす。損傷は明らかに志筑の側が深く、無論運動部と文芸部の基礎体力量には雲泥の差が開く。希望崎文芸部を知る者にとって信じ難い、文芸者の不利であった。
「俺は強い!」
それが事実。
「――だが、俺の強さを認めやがらねえ奴がまだ学園中にいやがる。だから俺が野球神と野球するには、この方法しかねえ。この大会しかな。志筑先輩……アンタらみたいに、他人から強え強えともてはやされてよォー……胡座をかいてる輩を、俺はどうにも許せねえ」
「……許せずに如何なさる、野球部の浜星とやら。その道理を押し通す力、貴方の技に果たして在るか否か……私は生きて二度、貴方の技を見たぞ」
「決まってるッスよ」
――俺の野球で、全員潰す。
にかりと笑った。浜星もまた、自らの力に微塵の疑惑を抱かぬ。
迅速の踏み込みが停止した。浜星はその速力のままにたたらを踏み、のめった。すれ違いに志筑の文芸を読み。
合気の理合の全重力が、顔面を砕くが如き文章表現。それを浜星は受けた。グラウンドの砂が、今度は浜星の血華を吸った。
(不発……!?)
「――不運よの、浜星昇」
遠く旧校舎内にて、垂水枕流(たるみちんりゅう)はくつくつと笑った。文芸部“四文鬼”の一角たる文学少女にとっては、報道部の映像放送も、実況すらも無用の長物である。
志筑の試合の様を、聴き、脳に書き記し、読んでいた。
「……文芸を記すのみが文学少女ではない。読書こそが、本懐。引き伸ばされた動作の描写を。対手の心理情景を」
……今まさに垂水がそうしているように、志筑は技と心理を読む。先んじて踏み込みを圧す文芸を読ませたことで、浜星の奥義は不発に終わった。そして、文芸を無防備に受けた。
「しかし、一人全役……本来であれば、読みの通じぬ――我ら文学少女の大敵たる絶技であったものを。投球の踏み込み。柔の踏み込み。貴様は同じ足で踏んだな」
それは偶然であったのだろう。無限の可能性を収束する一人全役という技そのものが、一種偶然性に支配された奥義であるとも言えるかもしれぬ。しかし、故に、志筑はそれを二度見た。同じ強烈な踏み込みが、一人全役共通の初動の開始であると誤認した。
さらに浜星は今また、レーザービームか一本背負いのいずれかを発動してしまった筈である。不運にも。確率の誤認に、浜星の技は狩られた。
「死合は無慈悲なもの……今の不運で、もはや勝負あった。貴様ほどの逸材であれば、文芸を汚した憎き志筑の首……口惜しいのう。くふふ。ああ口惜しや……」
心折れぬ浜星が立ち上がる。痛恨のカウンターを受けてなお、体力は互角。無論この程度で折れぬ浜星の闘志までもを、垂水は読んでいる。文芸。バッティング。そして次の一撃。既に未来は決まっている――この呼吸の刹那に、来る。
「見せよ。絶招」
「“殺一”」
原稿用紙が、浜星のバットを停止していた。
(違う。止めているのは俺自身だ。俺が)
極限の集中に鈍化した時間流の中、浜星はバットに絡む原稿用紙を読書させられている。微に入り細を穿つ心理描写。認識に訴える文芸にて、浜星がバットを停止する様が記されている故に、止めねばならぬ。レーザービームが致死に届かなかったあの時、どのようにそれを防いだか、疑惑に至るべきであった。
あと一手先にこの手の内を理解していたなら。偶然性の掛け違いが、そこになかったのなら。敵が、白い文学少女でなかったなら。
攻撃動作に同調して逆撃の文芸が――
「“警百”」
時が動いた。暗黒が浜星昇の視神経を侵し、あふれた。
「視力能わねば――」
「うおおおおおおおおおおっ!」
「――野球技、能わぬ。一人全役、浜星昇。討ち取った」
無残に摘出された眼球が二つ、地上に落ちた音を浜星は聞いた。腕を失えど、スライディングで攻める。脚を失えど、タックルを繰り出すことができる。しかし……しかし、ボールと敵を映す眼を失えば。それはもはや。
「て……めえ!」
次の瞬時、介錯の文芸を浜星は躱す。それは闇雲に発動した一人全役であった。短距離スプリント。そのスパイクを、志筑の脱臼した肩に、さらに螺子込んだ。
「負けねえ……俺の野球は負けねえ! 待っていろ! 俺は! 野球神を殺す男だ!!」
「うふふ。如何にも。くふっ、紛れも無き強者也」
多大な負傷に咳き込みつつ、志筑は嗤った。
真の強者――それを刈る事こそが、邪道に堕ちた文芸者にあって、唯一つの。
「 」
密着した耳元で、白い唇が文芸を囁いた。
視力を封じられた上で打ち込まれた文芸に……今こそ野球部の生んだ突然変異の異端、浜星昇が斃れる。
【第1ターン 大グラウンド】
志筑綴子○ ― ●浜星昇
「さあ」
昏い瞳は、感情を映さぬ。その行為が紛れも無く、文の殺戮に身を浸す悦楽でしかなかったとしても。
――そして希望崎学園の文芸部は、敵対者に決して容赦をかけぬ。
昏睡の中にある浜星の命を絶つべく、文芸が打ち込まれる。その時。