「……ミ…キミ……キミ……」
底も天井も知らぬ闇の中、
朦朧とした意識で漂う少女の耳に、誰かが誰かに呼びかける声が聞こえる。
「…キミ……ツキミ…ミ、……ツキミ……ツキミキミ!」
ツキミキミ、月見輝海。そうだ、それは闇に漂う彼女の名前だ。
自分の名前を認識した彼女は、月見輝海は自分と言う存在を確定させる。
浮遊、あるいは潜行。
目を開いた月見輝海は自分が、
弓道場とも書道場ともつかぬ日本的な雰囲気を漂わせた室内に居ることを知る。
だが丸い月見窓から見えるのは水に墨汁を垂らしてかき混ぜたような渦を巻いた異様な空間。
ここは現実ではない!
ここはどこだ。月見輝海という名の自分は何者だ。
「月見輝海!」
突然自分を呼ぶ声に心臓がひとつ、大きく跳ねる。
「月見輝海!」
再び自分を呼ぶ声に心臓がふたつ、大きく跳ねる。
「月見輝海!」
カタンと音がして、床の間に書道が書かれた掛け軸が現れる。
月見輝海は書道は分からないが明朝体めいた文字でこう書かれている。
[ナンジ、死すべからず!]
「月見輝海!」
ガタンと音がして、鴨居の上にに書道が書かれた額縁が現れる。
月見輝海は書道は分からないが明朝体めいた文字でこう書かれている。
[ナンジ、死すべからず!]
「月見輝海!」
ガタリと音がして、壁の前に書道が書かれた屏風が現れる。
月見輝海は書道は分からないが明朝体めいた文字でこう書かれている。
[ナンジ、死すべからず!]
「月見輝海!」
カラリと音がして、障子の開いた先に書道で満ちた空間が現れる。
月見輝海は書道は分からないが明朝体めいた文字でこう書かれている。
[ナンジ、死すべからず!]
「月見輝海!」
自分を呼ぶ声に心臓が何度も、大きく跳ねる。
止まらない高鳴り?これを招くこの声の主は?
異様に上昇する脈拍に月見輝海はふらりと倒れ伏す。
倒れこんだ先に書道が書かれた布団が現れる。
月見輝海は書道は分からないが明朝体めいた文字でこう書かれている。
[ナンジ、死すべからず!]
包まれた布団のお餅のような柔らかさに月見輝海は安らぎを得る。
「月見輝海!」
高鳴る胸。布団の安らぎ。
[ナンジ、死すべからず!]
「月見輝海!」
高鳴る胸。布団の安らぎ。
[ナンジ、死すべからず!]
「月見輝海!」
高鳴る胸。布団の安らぎ。
[ナンジ、死すべからず!]
伏した月見輝海の前には「NO」と大書された枕。
「月見輝海!」
高鳴る胸。布団の安らぎ。
[ナンジ、死すべからず!]
伏した月見輝海は安らぎがもたらす緩慢さの中、
決断的意思を振り絞り「NO」と大書された枕を表に返す。
「月見輝海!」
いいだろう。
この高鳴りを確かめに行こう。
[ナンジ、死すべからず!]
いいだろう。
この高鳴りを確かめに行こう。
だが。
月見輝海は枕に顔を埋め静かに目を閉じる。
今はただ眠りたい。
月見輝海は心の片隅に燻る闘争の予感に目を瞑る。
今はただ眠りたい。
目を覚ましたとき、そこに誰がいるのか。
目を覚ましたとき、ここを覚えているのか。
それは分からない。
だが今は、今はどうでもいい。
今はただ眠れ、月見輝海。