幸福な男
その日私は死の恐怖を味わった。
「大人しくしていないと、こいつで頭を撃ちぬくぞ」
英国語で話すガラの悪い男は私のこめかみに銃身を押し付ける。
リヴァプールの港でたちの悪いチンピラにからまれてしまった。
港の人気の無い所に連れ込まれ、銃を突きつけられては助けを呼ぼうにもどうしようもない。
「こいつけっこう金持っているわ、生意気だねえ」
銃を持った男とは別の人物、恐らくその男の愛人の女は私の財布を漁っている。
悔しいが、金で命が買えるならば安い物だ。
私はその財布の金で男たちが満足することを願った。
「あんた、ちょっとこれ見てみなよ」
女は私の財布から紙を二枚取り出す、私は横目でそれを見る。
ああ、なんてことだ!あれは、あれは!!
「ん、なんだそれチケットか?売れば金になるな」
「馬鹿ねあんた、これあのでっかい客船のチケットだよ、私乗ってみたかったのよ!」
あれは、私が苦労して手に入れた物だ。金は持っていっていい、それだけは、それだけは!
「ああ、しかもちょうど二枚あるじゃねえか。こいつぁ都合がいいぜ」
あれは愛する妻のために、普段迷惑をかけている妻のために買ったものだ。
私は仕事が忙しく、いつも妻に寂しい思いや辛い思いをさせてきた。だからその償いにと思い…。
ああ、神はなんて無慈悲なんだ。
この客船の話題を新聞で読んだ妻が「一度でいいから豪華な船に乗ってみたいわ」と言ったのだ。
普段妻は何も文句や我儘は言わない。そんな妻が乗りたいと言ったのだ。夫の私がそのために手を尽くすのは当たり前だろう。
愛する妻の願いを聞けぬ男のどこが夫だと言うのだ。
「えっと、出港日は……おい今日じゃねえか! それにもう時間だ」
そうだ、今日は私と妻の結婚記念日なのだ。
「あんた、早く行きましょうよ、間に合わないわよ」
そう言ってその二人はチケットと私の財布を持って場を離れようとする。
私はチケットを取り返すべく、男に掴みかかった。
銃声。
焦げた臭いと共に腹に激痛が走る。
「あんた、殺しはやばいよ。早く逃げましょう」
「やべえな、だが客船に乗り込んじまえばこっちのものだ。おいあんた、暴れた自分を恨めよ」
その言葉を最後に、足音は遠ざかって言った。
傷口はもはや痛みではなく、熱さを感じる。
目の前が暗くなり意識が遠のいていくのが解る。
私は死ぬのだろうか。
愛する妻を一人にして死んでいくのだろうか。
妻の願いを聞けぬまま…。
私は、私は。
次に目が覚めた時には目の前に白い天井が視界に写った。
生きている。
ここが天国でも地獄でもないのなら私は生きているのだろう。
「あなた、あなた目が覚めたのね!」
そう言って妻が私に抱きつき泣きじゃくっている。
撃たれた傷口が痛い、しかしそれも生きている証だ。
妻の話ではどうやら貫通したことが幸いして傷は大したことなく、私は数時間ほどで目が覚めたようだ。
それでも妻は心臓が潰れるほど心配したと言っていた。
私はそれを含め、今日のことを妻に詫びた。私も思わず泣いてしまった。
「いいんです、いいんです。船なんて貴方の命に比べたら…。それに貴方がいないなら船に乗る意味なんてありませんもの」
妻は涙を拭い、私にキスをした。
生きている実感。愛しい妻。私はきっと幸福なんだろう。
私が目を覚ましたと聞き、事情を聞きに刑事が病室に入ってきた。
私はかいつまんで事情を話し終えた。
「その強盗はもう船の中ですか、船長に連絡をして逮捕に協力してもらわないといけないな」
刑事は眉間にしわを寄せて質問を続ける。
「それでその船の名前はなんていうんですか?」
私は船の名前などうろ覚えで、回答に困っていると、横から妻が質問に答えた。
「タイタニック号ですよ、豪華客船の。もう出発してしまったでしょうね…」
(了)
最終更新:2010年04月07日 23:52