【受験のカミサマ 3】

   4

 あれほどしぶとく残っていた暑苦しさはいつのまにか消えうせ、過ごしやすいというには少々肌寒い季節になっていた。田舎のいちょう並木はすっかり黄色くなり、金木犀の香りと、銀杏のつぶれた匂いが街に漂っていた。
 空気もだいぶ澄んできた。紅葉のなかを自転車で駆けながら、朝の冷たい空気を吸い込むと、重圧で押しつぶされてしまいそうだった高校生活の終わりごろをどうしても思い出す。嗅覚は昨年の悪夢を克明に記憶していた。
 しかし、もうその程度のことで雄眞は憂鬱に陥ることはなかった。夏の猛勉強の成果が出てきたのだ。先日返ってきた合格可能性判定欄の「A」を目にしたとき、雄眞は思わず飛び上がりそうになった。彼のがむしゃらな努力は報われようとしている。
 こうして安心感を持って日々を過ごすことは、とても健康に良い。落ち着いた精神を保てるのも、もうどれぐらいぶりか。雄眞は四年目の付き合いとなる相棒をかっ飛ばし、朝八時台の快速列車に飛び乗って千種を目指した。
 十一月も半ばになっていた。夏が終わると同時に、いよいよ校舎内に緊張感が漂い始める。この夏で実力が付いたもの、またそうでないもの。それぞれ思い思いの秋を迎えていることだろう。
 これがあと数ヶ月も経てば、もうセンター試験である。受験生の明暗がはっきり分かれる、運命の日。時間は限られている。そんな極限ともいうべき状況のなか、雄眞は昨年と違って冷静に自分と向き合えていた。何をすべきなのか、何が足りないのか、きっちり見えていた。彼は今、最高のコンディションであるといってよい。

 それは気温が低くて湿り気のある、曇りの土曜日のことだった。
 この昼も雄眞は非常階段で、みずほと一緒に過ごしていた。邪魔するものなど何一つない、二人だけの空間。木枯らしが吹き抜ける音や、誰かが廊下に筆箱の中身を零してしまった音などが、時折耳に入る程度であった。みずほと肩を寄せ合えば、クローゼットからジャケットを引っ張り出さなくてもいいぐらい暖かかった。
「そう、模試の結果良かったんだ。ほらね、やればできるんだよ」
 朗報を聞いたみずほは、静かな声でそう言った。そのぼんやりとして焦点の定まらない瞳は、雄眞でも千種の街でもなく、自分の革靴を捉えているようであった。
「それもこれも、みずほちゃんのおかげだよ。やっぱり一人ぼっちはよくないね。誰かに支えられてこそ、壁は乗り越えられるものだね」
「そう言ってもらえると嬉しいよ。ずっとそばにいて、本当に良かったと思える」
 と、抑揚のない調子でみずほは言った。体育座りをしていて小さく丸まっている背中を、雄眞は気にかけていた。
 真紅のスカーフが、しっとり濡れているかのような重みと潤い帯びてぶら下がっている。いつもと変わらない古びたセーラー服の胸元に、金色のピンが留められているのを彼は見つけた。
 きっと校章なのだろうが――半分ほど欠損している。それを凝視しながら、ぬるくなった麦茶を口にしていると、彼女がぽつりとこんなことを言った。
「楽しいな」
「うん?」
「楽しいの。私、今とても毎日を楽しんでいる」
 雄眞は発言の意図をつかめず、ただじっとみずほの横顔を見つめていた。
 春日井の製紙工場からやってきた紙輸送の貨物列車が、ゴトゴト街を揺らしてやってきた。青と茶の有蓋車が機関車に従えられ、どこまでも続く箱の列を作っている。 
 どうも秋を迎えてから、みずほに元気がない。
 口数はめっきり減り、あの明るい笑顔は影を潜めていた。雄眞は受験のことと取って代わって、今度は彼女のことを心配に思う日々が続いていた。貨物列車が走り去り、この空間が再び静寂を取り戻したところで、みずほは話を続ける。
「私、とても視野が狭かったんだなって反省してるの。私が知らなかっただけで、普通に暮らしていれば嬉しいことや幸せなことなんていくらでもあった」
「僕もそうだよ? みずほちゃんがいなかったら、浪人生活はずっとずっとつまらなかった」
「雄眞くんが教えてくれたんだよ? でも私は真実に気づくことなく、あるとき挫折してしまった。もう全てが遅いの。やり直しが効かないところまで来てしまったの。それはすごくすごく悲しいこと」
 これまで見たことのない、沈痛な表情。その声はとてもか細く、今にも途切れてしまいそうなほどだった。自分の足元に視線を投げ出したまま、彼女は両肘をぎゅっと握って体をこわばらせた。
「覚えてる? 雄眞くんが自殺しようとした日のこと」
「うん。覚えてる」
「言ったよね? あなたにはまだ将来があるんだ。若いんだ。命を大事にしなさい。家族を大事にしなさい。自分を大事にしなさい。って」
 そのとき、みずほは雄眞に自嘲気味な微笑を向けてきた。今にも瞳から涙粒が零れ落ちてきてしまいそうな、痛々しくて、物悲しい気持ちがそのまま伝わってくる。
「生意気だったよね? 自分がまったくわかってなかったことを、私は堂々と言った。それが、今になって、重く圧し掛かってきて苦しいの」
「みずほちゃん、いったいどうしたの?」
「悲しいよう雄眞くん。こんなのってないよぉ。何で今になって、私は幸せな日々を送ることができるの? 今、とっても楽しい。雄眞くんと一緒にいられてとっても幸せ。そう思えば思うほど、余計に悲しくて悲しくて死んじゃいそう」
 みずほは雄眞に対し、必死に助けを求めるような様子でそう言った。助けてもらいたくて、すがるような視線を彼に送り続けてきた。
「私は弱かった・・・・・・」
 雄眞は狼狽した。みずほの抱えこんでいる苦悩が、まったくわからないからだ。彼女が抱えているものは、雄眞が考えていたものよりもずっと大きくて、深刻そうで、複雑そうで、理解をはるかに超えている。
 かといってこのまま何もしてやれず、苦痛にあえぐみずほを見ているのは辛抱ならない。彼はみずほに予備校生活を戦い抜く活力をもらい、支えられてきた。苦手で大嫌いだった英語も、彼女がつきっきりで鍛えてくれたおかげでどうにか克服できたのだ。
 だからこそ、みずほがこんなにも悲しい顔をして塞ぎこんでいたら、今度は自分が彼女の力になって支えてあげるべきなのだ。それなのに!
 返事に困っている雄眞から視線を逸らすと、みずほはこんなことを言った。
「私ね、ここに来るのはもうおしまいにしようと思ってるの」
「え」
「私もあなたも、いつまでも一緒に過ごすべきではない。このままではやがて、二人ともひどく傷ついてしまうだろうから」
「いったいどうしちゃったんだよ、みずほちゃん! もう二度と来ないなんて悲しいこと、言わないでよ!」
 みずほは何も言わない。慌てふためいて立ち上がった雄眞を見ることもなく、ずっと下を向いている。
 雄眞は彼女の前でかがむと、両肩に手を当て、瞳の奥の奥を見つめてやった。みずほが雄眞にそうしてきたように、しっかりと彼女の目を見てこう言った。
「今更いなくなるなんて、そんなのなしだからな。僕はずっとみずほちゃんと一緒にいたい」
「でも、いけない。そんなことは許されない」
「どうして? 誰が許さないっていうんだ」
「だめなの。どうしてもだめなの」
 みずほは雄眞の視線からひたすら逃げ続けて、絶対に目を合わせようとしない。だから、とうとう彼は自分のまっすぐな気持ちをぶつけることとなった。この気持ちを抑えていることはもはやできかったし、何よりも彼女をどこか遠いところへ行かせたくなかった。
「そんなことは僕が許さない。僕はみずほちゃんのことが好きだから。大好きだから」
 まつげの長いぱっちりとした目を大きく開き、みずほは顔を上げた。しかしすぐにうつむいて両腕で顔を隠し、わなわな震えながらこう言った。
「言ったな。とうとう言ったなぁ、その言葉を。・・・・・・ばかあ」
 みずほはそうしてうつむいていていたから、どんな表情をしているのかは窺うことができない。腕にかかって垂れ下がる前髪が、小刻みに揺れている。雄眞は溢れんばかりの愛情と真心のままに、彼女に伝えたい言葉を続ける。
「悩み事があるなら僕に任せてよ。あれだけ元気をもらったのに、みずほちゃんのために何もできないなんて絶対に嫌だからな。一緒にいようよ。何も別れなくていいじゃないか。残りの受験生活を支えあって、一緒に乗り切ろう。僕らならきっと上手くいくから」
 雄眞はみずほに、かつて自分が言われた台詞をそのまま言った。今の雄眞なら、あの子の辛い気持ちがよくわかる。みずほの弱弱しい姿は、去年の彼をそっくり投影していた。
 みずほは、受験で何か大きな悩みを抱えているに違いないと思っていた。本番がもうすぐそこまで差し迫るなか、自分たちを圧迫する緊張感や焦燥感は半端なものではない。この子は一人で悩みこんでしまっている。天才ばかりの進学校や、居心地の悪い家庭も原因だろう。
 みずほは全身を大きく揺らし、感情いっぱいにこう叫ぶ。涙粒がぱっと弾け飛んだ。
「私いっつも思ってた! あなたのような優しくて頼りにできる人が、あのとき私の周りにいたらって!」
「いないわけがない、僕がいる! だから泣かないで。みずほちゃんが泣いているのを見るのは、耐えられない」
 雄眞が精一杯の気持ちを込めてそう言うと、みずほはようやくいつもの可愛いえくぼを見せてくれた。その笑顔を見ただけで、胸の鼓動は加速した。
「えへへ、おかしいね。私はただ、追い詰められてたあなたの力になりたかっただけなのに。今じゃ私も、これからもいつまでも一緒にいたいと思ってる」
「それでいいじゃないか」そう雄眞はささやく。「僕たちはこれからもいつまでも一緒。それはなんもおかしいことじゃない。僕はみずほちゃんのことが好きだから、一緒に桜を眺めて歩くときまでそばにいたい」
 生気のなかった冷たい頬に、赤みが差したのを見た。そしてその頬の上を流れていった、一筋の涙も。
「ありがとう雄眞くん。本当にありがとう。私幸せだよ。とっても・・・・・・!」
 みずほは声を震わせながら言うと、雄眞をドンと強く突き飛ばした。そして階下へと逃げるように駆け出した。
「みずほちゃん!」
 雄眞もすぐに立ち上がって階段を駆け下りたのだが、黒いセーラー服はもう影も形もない。
 ちょうど三時間目の鐘が鳴った。屋外から勢いよく飛び込んできた雄眞を、通りがかった男子生徒が怪訝そうに一瞥していた。
 雄眞はベランダに戻り、非常階段を力なく上がる。とてつもない喪失感が、彼の繊細な心に重く大きく圧し掛かかる。一段一段と時間をかけて上がるたび、鉄製の階段は覇気のない小さな足音を、その骨組みの中に震わせた。
「みずほちゃん、僕と一緒にいることの何がそんなに辛すぎるんだよ」
 また、大学受験に大切な存在を奪われてしまったようだ。雄眞は踊り場に戻るとあぐらをかき、颯爽と中央線をやってきたワイドビューしなの号をため息混じりに眺めていた。
 分厚い雨雲に眼前を覆いつくされ、今にも冷たい雨が降り出そうとしている。彼は身震いをした。一人ぼっちの非常階段はとても肌にしみる。
 その日を境にして、雄眞はみずほに会うことはなかった。

   5

 田舎は記録的な大雪だった。北国でもないのに、凍てつくような寒い朝が続いた。
 チェーンを巻きつけたバスに散々揺られ、雄眞は今日も予備校を目指す。銀世界を駆け抜ける快速列車の中で、極度の疲労から左右にふらついた。しっかりつり革を握っていても、立っていることが困難であった。彼は昨晩、三十分程度しか眠れなかった。
 いつもよりもざわめいて落ち着かない、異様な雰囲気の教室。すでにクラス担任の原さんが緊張した面持ちでマイクを握り、教壇に立っていた。雄眞はすぐに着席し、鞄から小冊子を取り出した。
 大学入試センター試験。それは模試などではなく、本物の問題冊子である。
 運命の「自己採点日」がやってきた。試験が終了したすぐ次の日に予備校生は登校し、講師陣が徹夜で作成した模範回答冊子を利用して自己採点を行う。そしてこの点数をもとに、二次試験で受ける国公立の大学を最終的に決定する。
 ついにこの日が訪れた。一年間の努力は、本当の意味で報われるのだろうか? 広い教室が満席になるころには、張り詰める緊張感はピークに達していた。
 時間がずっと止まっていたかのような、長い三十分。そして雄眞は深いため息をついた。その一息には、全てを出しつくした満足感と達成感が込められている。
 雄眞は周りの受験生に気づかれないよう、口元を歪めて笑っていた。今にも爆発しそうな歓喜を抑えこむため、英語の問題冊子をきつく握り締めていた。
「やった・・・・・・! とりあえず、センターはクリアだ!」
 採点の結果、志望校のボーダーラインを大きく超えた最高の点数であることがわかった。雄眞は過去の挫折を本当の意味で克服し、乗り越えられたのだ。
 原さんが雄眞のもとに駆けつけ、よくやったなと背中を叩く。彼はとうとうこらえきれなくなり、傷だらけの机にたくさん大粒の涙をこぼした。
 そんなはちきれんばかりの感動を、いち早く伝えたい人物が彼にはいる。

 あの日を境にして、雄眞はみずほの姿を見ていない。
 彼女は本当に姿を消してしまった。夜のホームや夏場のデート、思い出の中の彼女全てが、秋風とともに去っていった幻のようであった。
 雄眞は毎日、非常階段で一人ぼっちの昼食をとってきた。いつみずほが階段を上ってきて、お互い目と目を合わせて照れくさそうに笑いあってもいいよう、雨の日も、雪の日も彼女のことを待ち続けていた。
 屋外にさらされた錆だらけの階段は、冬場を過ごすには余りにも寒すぎて過酷だった。それでも雄眞はみずほのことを待ち続けた。すっかり冷えて味気のなくなった冷凍食品を、口いっぱいに頬張りながら待っていた。
 会いたかった。ちょうど一年前に命を救ってくれた、優しいみずほに。一年間を戦いぬく力と学力をくれた、愛しいみずほに。いつでも隣にいてくれた、かけがえのないみずほに。
 そんな切ない気持ちを抱いたまま、あっという間に時は過ぎていき、雄眞はとうとうこの日を迎えてしまった。後姿のそっくりな子を見つけては、みずほだろうかと思い胸をときめかせたものだった。
 それにしても、あの特徴ある真っ黒な制服を、この校舎の中でまるで見ないことが疑問であった。これはみずほがいなくなって初めて気づいた違和感である。
 東城高校という全国に名を轟かせる進学校の生徒なら、この大手予備校の中で、一人や二人遭遇してもいいと思う。けれどもすれ違う女子高生たちのほとんどが、赤いチェックのミニスカートに金のエンブレムも誇らしげな緑のブレザーを羽織っており、雄眞の強く求める古めかしいセーラー服はいつまでたっても見つけることができなかった。
 雄眞は昼食をとったあと、携帯電話で母親に自己採点の報告をする。一年間ずっと弁当を作ってくれた母へ、無性にお礼が言いたくなったのだ。そしてそれから、お世話になったクラス担任のもとへ立ち寄ることにする。
 二児の父でエネルギッシュな三十代である原俊介は、この校舎の中でも有能で優秀なベテランクラス担任であった。
 彫りの深い顔。日焼けしたような黒い肌とスポーツ刈り。そしてど派手な色のネクタイが彼の特徴だが、外見とはよそにおおらかで面倒見のいい性格をしていることから、女子生徒にとても人気があった。
 原さんは雄眞が良い成績を収めることができたことを、本当に喜んでくれた。高校時代の苦悩や挫折、そして浪人生活の不安など、彼はいつも熱心に話を聞いてくれた。原さんはみずほの次に、親身になって雄眞を支えていた人物である。
「ここで気を緩めちゃダメだからな? 二次試験に向けてもっと気合を入れていこう!」
そう激励の言葉をいただいたあと、雄眞は思い切って、黒いセーラー服を着た女子高生についてきいてみた。この校舎に勤めて長い人物なら、何か知っていると思ったのだ。
 ところが彼が耳にしたのは、全く予測できなかった内容の返事であった。原さんは怪訝そうな顔をしてから、ボールペンをくるくる回しつつこんなことを言ったのだ。
「お前、そんなん着た東城の生徒がほんとにいると思ってんのか? 一体何年前の話だよ?」
 雄眞は自分の耳を疑った。彼の言っていることが、まるで理解できなかった。
「東城がセーラーだったのは、もう八年前までの話だぜ? 今は赤いチェックのスカートに、『東』の字のワッペンをはっつけてた緑のブレザーだな。ほら、そこかしこにいっぱいうろついてるだろ?」
「そんな・・・・・・あれが・・・・・・東城高校の制服なんですか・・・・・・?」
「百五十人ぐらいだったっけなぁ、この校舎にいる東城の現役生。んな中で東城の旧制服なんて着てうろついている子がいたら、昔からいる講師なんかびっくらこいて、一気に話題になっちまうぞ? やっぱりお前の見間違いだよ」
 もう、話を途中で聞くのをやめていた。話がおかしい。みずほは確かに東城高校の生徒で、東城高校の制服を着て、ゴールデンウィークの時も、夏期講習の時も、雄眞の前に姿を見せていた。
 だが原さんは言った。その制服は実は八年前までのもので、そんなものを着た生徒はいるわけがないのだと。
 ぐにゃりと視界がひしゃげる。うっすらと目の前が暗くなる。傾いた視野の隅っこから、立派なブレザーを身にまとった女の子が視界に割り込んできた。
 事務室のカウンター越しに見える、自販機でジュースを買っている女の子。
 雄眞のすぐ後ろで、先ほどからずっとクラス担任と個人面談をしていた女の子。
 たった今、向こう側の廊下を爆笑しながら走ってやってきた、三人の女の子たち。
 ひどい寒気がした。こうして周りを見渡せば何人も何人も何人もいる、赤いスカート・緑のブレザーたちこそが、本物の東城高校の生徒だと言うのだ。
 なら、吹上みずほっていったい何者なんだ? 
 混乱の収拾がつかない思考を止めて、雄眞はもっと、直接的な質問を原さんに投げかけてみた。
「じゃあ、吹上みずほって女の子、原さんはご存知ですか?」
 原さんの手からペンが零れ落ち、書類にインクの赤い染みを刻み込む。
 ボールペンがころころと床を転がっていく。顔を硬く引きつらせ、原さんは雄眞にこうきいた
「お前その子の名前、どこから聞いた」
 それはひどく据わった恐ろしい声であった。
 鋭い目つきで睨まれて、雄眞は身じろぎをする。なぜ、触れてはいけないタブーに言及してしまったかのような扱いを受けるのだろう。萎縮から少し声を震わせ、正直にこう答えた。
「どこからって・・・・・・。僕、みずほちゃんと友達なんです。土曜日とか夏期講習のときとか、お昼食べながら一緒に過ごしてたんですよ?」
「馬鹿なこと言うんじゃねえ! くだらねえ冗談ぬかしてると怒るぞ!」
 爆発を起こしたかのように怒声が響き、騒がしかった事務室が沈黙に押しつぶされる。カウンターの向こうにいる生徒たちが、一斉にこちらを向いた。
 気さくで明るい原さんが、眉間に青筋を立てて怒鳴り散らしている。生徒も、他のクラス担任も、用事があって事務室に来ていた講師までも、信じられないものを見たような目をして黙りこくった。怒鳴られた雄眞は愕然としていた。
 原さんが「悪かった」と謝るのと同時に、事務室はもとの活気と喧騒を取り戻す。不在であるクラス担任の椅子を転がしてきて雄眞によこし、座らせてやった。床に落ちていたボールペンを拾い上げてから、こんな話を始めた。
「あんまり思い出したくないけどな。吹上みずほのことは今でも忘れられない」
 もうわけがわからない。雄眞にとって、このクラス担任こそが笑えない冗談を言っているようにしか見えない。つじつまが合わなくて狂っているのは、この男をはじめとする現実のほうだとしか思えない。そしてこれから明かされる真実は、自分にとって知るべきではないという直感を抱いたのだが、遅かった。
「今からちょうど十年前、吹上みずほはセンターの報告に来たんだ。お前と同じ大学を目指して頑張ってたんだが、可哀想なことに結果がついてこなかった。
 模試の成績はC、D、ついにはE(志望校再考せよ)にまで落ち込んでいた。あの子は焦りとプレッシャーですっかりパニックになっていて、志望校合格に向けて何をすべきなのか、そして何が必要なのか、全く見えていなかった節があったよ。
 当然だろうなぁ。東城は天才ばかりが集まる学校で、アイツのような努力型の秀才はおちこぼれの扱いを受けていたほどだった。担任も両親も友人たちも、悩める彼女を単なる努力不足だと軽くあしらっていたらしい。頑張っても頑張っても、もっと頑張れと言われるような環境だったんだよ。そりゃあ何が悪くて何が足りないのか、わからなくなってしまうだろうね。
 彼女は本番のセンター試験に全てを賭けたんだが・・・・・・結局点数が足りなかった。せっかく苦手科目が合格点に達したのに、得意の英語で致命的なマークミスを犯してしまったんだ。それはとてもやりきれない失敗だった。
 だから、その日は遅くまで話し込んだよ。まだ受験は終わってないから頑張れって。志望校はもう無理でも、吹上の実力で行けるいい大学は他にあるから『頑張れ』って。最後まで投げ出すことなく『頑張れ』って。
『頑張れ』、『頑張れ』。今思うとな、それが良くなかった。あいつは一人ぼっちで、十分すぎるほど頑張っていたってのに。・・・・・・いや、全てはまだペーペーで大学受験を何も知らなかった、あの日の俺が悪かったんだ」
 ぞくぞくと雄眞を凍りつかせる悪寒。
 号泣の涙が溢れ出すのよりも早く、喉の奥から嗚咽が漏れ出すのよりも早く、両手が自分の両耳を塞ぐのよりも早く、クラス担任はとても悲しい過去の真実を告げた。
「・・・・・・そのすぐ後、千種駅であいつは電車に飛び込んだんだ」

 プラットホームのベンチに、見覚えのある何かが置いてあるのを見つけた。
 それは雄眞がUFOキャッチャーで捕まえ、みずほにあげたパンダのぬいぐるみだった。この場所でずっと待ち続けていたかのように、一人ぽつんとベンチに座っている。
 雄眞はぬいぐるみを手に取り、抱きしめる。人目のつかない非常階段で枯れてしまいそうなぐらい泣いてきたのに、こんなにもぽろぽろ零れ落ちてしまう。
 笛のような音を立てて、北風が堀の中を通り抜けていった。親しみのある懐かしい気配を感じ、雄眞はゆっくりと振り向いた。
「久しぶりだね、雄眞くん」
 闇に溶けてしまいそうな、古い制服。白く浮かび上がった血の気のない顔。特徴ある丸い瞳だけが、曇った暗い輝きを雄眞にさらしていた。
 しっとりとした滑らかさを帯びて垂れ下がるスカーフは、まるで血の海に浸されていたかのように赤黒かった。「東」の字を象った校章ピンはざっくりと欠けており、一瞬くすんだ光を放ったような気がした。
「ごめんなさい、急にいなくなっちゃって」
「あはは、ひどいよ。まったく」
 雄眞はジャケットの袖で目を拭い、虚無から現れたみずほに笑顔をつくってみせた。頬骨の皮膚がひりひり痛んだ。彼の目もとはひどく真っ赤に腫れている。
「もう二度と会えないと思ってた」
「だって」
 夜風が吹き込んできて、掘割のホームはぐんと冷える。寿命の近い蛍光灯が点いては消えるたび、二人を取り巻くほの暗い世界も点滅する。
「あなたに会うのが辛かった。生きているうちに会えていたらなんて思うとね、とっても辛かった」
 雄眞は下を向き、リュックサックの紐を固く握り締めた。左手に持つパンダのぬいぐるみに、指がきつく食い込んでいる。
「私はもう死んでいるのに。それは分かりきっていることなのに。今更どうしようもないことなのに。それなのに」
「関係ねえ」
 悲しい微笑を見せるみずほに、雄眞は言った。物音のない二人だけの空間で、彼の悲痛な声だけが響いて暗闇に染み渡る。
 みずほは俯くのをやめて、じっと雄眞を見つめていた。夜風が渦巻いたかと思えば粉雪が舞い、二人を優しく包み込んだ。
「言ったじゃないか、僕はみずほちゃんが好きだから、ずっと一緒にいたいって」
「だけど私とあなたは一緒にいることは許されない」
「それでも気持ちは変わらない! みずほちゃんも昔、勉強が上手くいかなくて苦しんでたんだろ? 受験で失敗して、絶望してたんだろ? 頼りにできるような存在が欲しかったんだろ? 電車に飛び込もうとした僕と全く同じだったんだ」
 雄眞の問いかける一つ一つに、みずほは首肯してくれた。
「みずほちゃんは僕を救ってくれた。僕を支えてくれた。だから今度は僕が、みずほちゃんを支えてやりたいんだ。これからも、その後も、ずっとずっと・・・・・・!」
「ありがとう」
 こみ上げる感情のせいではっきり話せない雄眞に、みずほは言った。もう彼女の瞳には何の迷いも見られない。弱りに弱った雄眞の瞳をしっかりと見据え、彼にこう言う。
「ありがと雄眞くん。もし十年前に出会っていたら、私たち同じ大学に通っていたのかもしれないね。そのときこそ欲しかったものも手に入って、素晴らしい毎日が待ってたかもしれないのにね。えへへ、私も雄眞くんのこと好きだから、こういうこと、いっぱいいっぱい考えてたんだよ・・・・・・!」
 それを聞いたとたん、彼の熱い想いが溢れ出た。雄眞はみずほとの距離を詰め、彼女がもう逃げ出してしまわないよう、小さなセーラー服を抱き寄せて捕まえてしまおうとした。
 だが――。
 彼の両腕は彼女の体の中を通り抜けて、とてもむなしい空振りを見せたのである。
 これが二人にとっての現実であり、結果だった。
 今年一年の、二人の積み重ねの結果であり、終わりの瞬間。
 迷い込んだ綿雪がみずほの体のなかで、きらきら、明かりに反射してきらめきを見せた。
「もう私の浪人生活もおしまい。雄眞くん、あなたは私のぶんも輝いてね。私のぶんも充実した毎日を送ってね」
 その場に崩れ落ちて絶叫する雄眞を見ることなく、みずほは線路に向かって歩き出す。足音ひとつ立てることなく、白銀に染まりゆくホームを汚すことなく、静かに軌道へと向かっていく。
 雄眞はひたすら彼女の名を呼んで泣きじゃくっていたから、そのとき案内放送が何を言ったのかなどまったく分からなかった。轟音が迫り、プラットホームが軋み、看板に反射する電車のライトが強くなってきた。
 みずほは、最後くるりと、体ごと振り向いてくれた。
「こんなさまよえるユーレイだけど、私のこと忘れないでね。ばいばい、大好きだよ――」
 そう言ってにっこり笑顔をたたえたまま、かかとを軸にして倒れていった。みずほの体は頭から、線路へ転がり落ちていく。雄眞は飛び出していた。
 のどが破れそうなぐらいみずほの名を叫び、ホームに薄く積もった雪を蹴り飛ばす。涙が雪に混じって四方に散らばっていった。列車の警笛などない無音のなかに彼はいた。雄眞はみずほの手を掴み取ろうと、右腕を伸ばす。
 みずほは後ろへ倒れこみながら、そんな彼を驚愕の表情で見ていた。当然だろう、この男は輝かしい未来をつかみかけているのに、すでに死んでいった者を追いかけるような、非常に馬鹿な真似をしているのだから。
 最後、みずほは雄眞のとても愛した小さなえくぼを見せた。安らかな笑顔のまま電車に轢かれ、真っ黒な冬の夜空へ溶け込むよう、霧散したのである。
 彼の右手は、彼女に届くことはなかった。

 所定よりも随分先の位置で、普通列車は停止していた。
「おい大丈夫か! 怪我してないか!」
 がっくり両膝をついている雄眞のもとへ、列車の運転士が駆けつけてきた。
「けが、してません・・・・・・」
 雄眞は黄線の外側、あと少しで列車に触れてしまいそうな危ない位置で座り込んでいる。車内は騒然としていた。乗客たちがざわついた様子で、ホームでうなだれている雄眞を見下ろしている。運転士が触車の危険を感じて、とっさに非常制動をかけたのだ。
「どこも怪我してないな? ああよかった、もうすぐ駅員が来るからそこで待ってろ! まったく何やってんだ! 危ねぇだろうが! もしぶつかってたら、ただじゃ済まなかったんだぞ!」
 すぐに駅員が雄眞のもとへやってきて、運転士と同じようなことをきく。「ふらふらと列車に接近してきた。自殺未遂かもしれない」。そう運転士は駅員に状況を伝え、列車に戻っていった。
 駅員はまず雄眞をベンチに移動させてから、ホーム上の安全を確認する。普通列車は所定の位置に停まりなおすと、すぐに乗降の扱いに入った。
 普通列車が出ていったあと、雄眞は駅員に抱えられてゆらりと立ち上がる。一人の駅員がパンダのぬいぐるみを拾ってくれた。彼はそれを受け取ると薄く笑い、両手に抱いて歩き始めた。
 事務室へ連行される途中、雄眞は後ろを振り返った。視線の先には、粉雪を葉に抱いた、白い菊の花がある。彼は原さんからこんな話も聞いていた。
 千種駅の線路脇には、白い菊が一輪、どういうわけか年中咲いている。この駅には受験を苦に自殺した女子生徒がおり、献花の種子が何らかの拍子で線路脇に付着して、芽を出したものだと言われているそうだ
 それからおよそ十年、菊は不思議と枯れることなく咲き続け、あらゆる場所からやってくる受験生を見守ってきたという。雄眞は全く聞いたことがなかったが、あの花に祈ると志望校に受かるという言い伝えがあの校舎にあったらしい。
 確かに吹上みずほは彼の命を救い、頑張る力を与えてくれた上、ずっと隣にいてくれた、素敵で可愛くていとしいお人よしだった。
 しかし、何も彼女は受験の神様ではないのだ。彼女もまた受験の厳しさに追い詰められ、頼れる存在を得られぬまま独り悩みこみ、こらえきれずバラバラに散っていった儚い命に過ぎないのだから。
 ありがとう、みずほちゃん。僕はいつまでも君が好きだよ。
 そう呟いた瞬間。長く咲き続けた白い花が初春の夜風に煽られて、ぱらぱら散っていくのを見た。

   6

 輝かしい朝日が天頂を目指していくにつれ気温は上がり、冷えた町並みを暖める。地下鉄の駅から、ぞくぞくと初々しい新入生たちが出てきた。長い受験戦争を勝ち抜いた彼らは、これから夢にも見た新しい生活を始めるのだ。
 伝統ある重厚な正門を、伏見雄眞はくぐった。校門では娘の入学を祝う父親が、彼女に負けないぐらいの嬉しそうな表情でフラッシュを焚いている。 
 構内の桜並木を楽しみながら、雄眞は春先のおいしい空気を胸いっぱいに吸い込む。うららかな陽気を全身に浴びて、自然と足取りも軽やかになる。新品の鞄にぶら下がったパンダのぬいぐるみも、ゆらゆら弾んだ。
 立派な講堂の前で、雄眞にとって親しい顔が数人、手を振っていた。それを認めると、雄眞も大きく手を振って駆け出した。
 ほんのり涙を浮かべながら、最高の笑顔を見せながら彼は走る。先に進学していった友人たちのもとへ、後から追いつくかのように。
 今この瞬間、滞っていた雄眞の時間は動き出した。本当の意味で、彼に春が訪れたのである。
 桜吹雪がさらさら音を立てて彼を祝福した、そのときだった。
「・・・・・・おめでとう、雄眞くん!」
 雄眞は立ち止まった。
 誰かに呼ばれたような気がして、すぐに後ろを向いた。
 とっさに声のしたほうを振り向いたのだが、誰もいない。彼と同じように、晴れやかな顔をした女生徒が、ガイダンスの資料に目を通しているのみである。
「おかしいなぁ」
 雄眞は小首を傾げるのだが、それほど気に留めることもなく、再び友人たちのほうを向いて走っていったのである。

 そんな彼のことを、黒いセーラー服がくすくす笑って見下ろしていた。
 彼女は桜の枝に腰掛けて、志望校に合格した雄眞を祝福していた。友人たちに胴上げされている遠くの彼に、こうささやく。
「雄眞くん、頑張ったね。・・・・・・本当におめでとう!」
 吹上みずほはふっと微笑む。そして舞い上がるたくさんの花びらと一緒になり、どこまでも高く潤う青空へと消えていった。


【終】

タグ:

SS
+ タグ編集
  • タグ:
  • SS
最終更新:2010年04月19日 00:04
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。