【とらうま様~呪われ屋】

 とらうま様~呪われ屋


 スパイダーちゃんがついにエンストした。
 今まで持ったのが奇跡だった。東京から休まず走ること実に五時間。天気は雨で道は山。どこかで釘か何かを踏んづけたせいでタイヤ交換を余儀なくされ、地図と首っ引きで一寸先も分からないような暗闇の中をのろのろ運転。おまけに最後に整備に出したのはけっこう前だ。車検がどうこう言われたので連れて行き、帰ってきたときには二度とこないでくださいという張り紙がくっついていた。無理も無い話だと思う。スパイダーちゃんは基本的にはいい子だが、整備されるのは嫌いだ。
 そのスパイダーちゃんはいま、うんともすんとも言わなくなってしまった。
「どうした。ガソリンまだあるだろ」
 叱咤しても反応なし。雨の中一人で――「一車で」というべきだろうか――走り続けたせいで心が折れてしまったらしい。スパイダーはいい子だが寂しがりやでもある。周りがにぎやかだとうれしくなって、後先考えず飛び込んでいってしまう。そのせいで呪いの車扱いされているが、何、慣れてしまえば大型犬を相手にするのと代わりはない。轢かれるのはもちろんゴメンだが、そこはしつけで何とかなる。
 スパイダーちゃんを元気付けるにはどうしたらいいだろうかとしばらく考えて、カーステレオにディスクを差し込んだ。唯一積んであったのは何か映画のサントラらしいが、暗くて文字は読めなかった。音楽でもかければ気分が治るだろうと思ったわけだ。
 誤算だった。
 イントロが流れ出すと、スパイダーちゃんの車体が震えた。
 すわエンジンがかかったかと身構えたが、べつにそんなことはなかった。小刻みな振動は車体そのものから伝わってくる。一度大きく車体を震わせると、それまでも頼りなかった車内灯が瞬き、ついには消えた。真っ暗な中、俺はハンドルに突っ伏した。逆効果だった。どうにか携帯電話のライトで原因と思しきディスクを検分すると、すぐに理由が明らかになった。曲目は「エデンの東」。たまたまその曲の元になった映画は主役がジェームス・ディーン。スパイダーちゃんのもと飼い主、じゃなかった所有者で、スパイダーちゃんとドライブを楽しんでいる途中、不穏な事故を起こして死んだ。スパイダーちゃんは飼い主と永久の別れをする羽目になった挙句に呪いの車呼ばわりされ、心に立ち直れない傷を負った。涙なくしては語れない話だ。
 そんなスパイダーちゃんのトラウマをえぐる選曲。我ながらいいわけの仕様もない。
 振動がやんだ。さっきまでは動いていたワイパーすらぴくりともしなくなったところから見て、スパイダーちゃんは本格的にしょんぼりしてしまったらしい。こうなってはどうしようもない。レッカー車を呼ぼうにも携帯は圏外だし、何より免許を出せとかいわれたら詰んでしまう。とにかく前に進もうにも、見知らぬ夜の山道を雨の中歩くのは自殺行為だ。俺は死ねないけれど、崖を転がり落ちて平気かといわれるとそんなことはない。つまり夜明かししかない。
 覚悟を決めてリクライニングを倒すと途中で引っかかった。後ろから伸びてきた髪が首を絞めあげてくる。そういえばエミリーの世話を忘れていた。
 後ろの席にはチャイルドシートが固定してあり、そこにはエミリーが鎮座している。タダでさえエミリーは退屈しやすい性質だ。えんえん続く山道にいらいらは最高潮、おまけにこちらのどじで一晩足止めとなれば、お叱りが飛んでこないわけがない。ぎゅうぎゅうと締め上げる髪の毛の力はけっこうなもので、首の骨が悲鳴を上げている。今回はどうやら折る気らしい。折れてもどうせ一分もすれば直るのだが、あんまり気持ちのいいものではない。
 もがきながらお詫びの言葉を捜していると、不意にクラクションが鳴った。すわ対向車かと期待が膨らんだが、鳴らしていたのはスパイダーだった。エミリーの髪が緩むとクラクションもやんだ。どうやらシートを締められて痛かったらしい。エミリーは戸惑ったように俺を見返してきたが、やがて身を乗り出してドアレバーを優しくなで始めた。小さくクラクションが鳴った。エミリーはしゃべれないし、それはスパイダーも同じだが、意思の疎通が出来ないわけではない。暴君そのもののエミリーもスパイダーには優しい。もしかしたら犬か何かと同じ感覚で相手にしているのかもしれない。
 三度車体が震えた。ダッシュボードに光がともり、ワイパーがフロントガラスをぬぐい始める。俺はシートベルトを締めなおした。ハンドルが勝手に動き、スパイダーは元気一杯に走り出した。あまりに飛ばすせいで脱輪しやしないかとひやひやしたが、観念してスパイダーに任せることにした。ここからはもう一本道のはずだし、出来れば目的地にさっさと着いてしまいたい。
 伸びてきた髪がカーステレオを操作すると、ディスクを取り出して後ろに放り投げた。確かに、これをスパイダーに積んでおくのはよくないだろう。バックミラーに映ったエミリーの目は、気の利かない男ねとあきれていた。


 引きこもりが仕事みたいな俺が何故山奥に行くことになったのかというと、仕事だからだ。
 どうしても逆らえない相手というのはいる。俺の場合、それはマンションのオーナーだ。といっても無理難題を押し付けてくるというわけではない。逆だ。オーナーは何かとど壷にはまりやすい性質なのだ。それも思わず手を差し伸べざるを得ないようなどうしようもない奴に。
 今回オーナーがはまったど壷は、とある田舎の土地の権利書だった。
「なんか安かったんですよう」
 オーナーは半泣きになりながら、その債権がどれだけ安値で買えたかを強調した。『持ち主さんが急に金が入用になったから手放したが、将来的には国道が通ることになっているから絶対儲かる』、そういいきかされてつかまされたんだそうな。オーナーは何の気なしに手を出した小豆相場で巨万の富を獲得したなんともいえずすごい人だが、俺から見れば単なるお人よしだ。こんなのでやっていけるもんなのかと会うたびに思う。
 お人よしだから俺にはものすごく感謝してくれているし、事あるごとに色々世話を焼いてくれたりもする。いまのマンションにしてからが、住む場所が決まらなくて困っていた俺にオーナーが提供してくれたものだ。「どうせ誰も住んでませんから」。正確には住んだ人が次々急死するだけだったのだが、俺を殺すことは出来なかった。
 とにかくオーナーには世話になっている。だから困っているところを見過ごすわけには行かない。おずおずと相談に来たオーナーの話を聞くと、俺は太鼓判を推してすぐに出発した。目的地が思いのほか遠かったということには出発してから気付いた。外出しなくなってずいぶんたっていたからこれは仕方がない。
 そんなわけで、俺は本州縦断をする羽目になった。場所は長野県の山奥だ。


 着いた。
 着いたことはすぐ分かった。雰囲気が全然違うし、何より目印は夜の雨の中でも分かりやすかった。ぼろぼろになった祠に懐中電灯を向けると、濡れた蜘蛛の巣が光を弾いた。
 レインコートの胸元でエミリーが身じろぎした。俺の首に回した髪の毛に力がこもる。何かいると教えてくれたらしい。そういえばここにどんな呪いがかけられているのか確認してこなかった。場合によっては出直す必要があるかもしれない。あのすばらしい往復をもう一度。考えただけで愉快な気分になってくる。
 何か手がかりがあるだろう。そんな楽観的な予想に身を任せることにした。
 祠の扉をあけると饐えたにおいが出迎えてくれた。床を踏み抜かないよう気をつけようと思ったら、そもそも床がなかった。外見は高床式に見えたが、実際には単に屋根つきの囲いのような構造になっているらしい。変わったつくりだと思ったが、祠の中央に鎮座しているものが目に入ると納得した。確かに、ここに床を作るわけにはいかなかったろう。なにしろ石碑がどーんと生えているのだから。
 人の身長ほどある自然石の表面はごつごつしている。その一部が平らに削られ、文字が掘り込まれていた。読めなかった。俺はそれなりに色々な文字を読める。なにしろ勉強する時間は山ほどあったから。それでも見覚えのない文字だった。縦書きとか横書きとかそういう次元ですらなく、文字は無秩序に散りばめられていてどの順番で読めばいいのかもわからない。
 文字にはもう一つ特徴があった。発光していた。
 頼りなく瞬いているかとおもえば、急に光は強さを増して祠の中を明るく照らしたりもしている。眩しさに目をつぶって再びあけると、文字の並びが変わっているようにも見える。俺の見ている前で、一本の赤い線がぱっと光ったかと思うと消えた。跡にはさっきまでなかったはずの溝。
 ここが山の中でよかった。こんなのが身近にあったら発狂してしまうだろう。これがどこから来たのかはよく分からないが、この土地を未来永劫他の人に使わせるつもりがなかったことは間違いない。ふもとからこれが光っているのをうっかり目にするだけでも有害だろう。国道なんかもってのほかだ。
 それにしても、どうしたもんだろう。石碑はこちらが近寄っても無反応。もうすこしリアクションを取ってくれるとやりやすかったのだけれど。怒るとか。
「エミリー、これちょっと引っこ抜いてみてくれないか」
 首を引っこ抜かれそうになったのでそれ以上は言えなかった。エミリーの力ならクレーンの真似事ぐらい出来るのではないかと思ったけれど、よくよく観察してみると石碑はどうも岩盤そのものから生えているらしかった。足元の土を引っかいてみると、はがれた土の向こうからは似たような文字が現れた。なんとまあ。問題の根はものすごく深そうだ。
 車に戻り、トランクからショベルを取り出した。別に掘るのに使うわけではなくて、石碑を破壊するのに使うつもりだった。まあ傷の一つもつけばめっけもんだろうけども、相手の関心を引くことぐらいは出来るだろう。
 すでに自分の仕事の範疇を超えている気がしないでもない。これはどっちかというと呪いじゃなくてただの変なものだ。少なくとも誰かの身代わりになって引きうけられるものには見えない。この石碑がかける迷惑といったら見た目に気持ち悪いぐらいで、それはこの山奥という場所と、めぐらされた祠のおかげで充分に隠されている。10メートルも離れれば無害だ。国道通すときにはちょっと気を使えばいいんじゃないかと思う。
 それはそれとして、何もしないまま帰るのもしゃくだ。来るのに散々苦労したわけだし。それに傷の一つも付けられれば、石碑だってこちらに注意を払うかもしれないし。
 何か起きたときのためにスパイダーを下がらせておこうか。そう考えて、俺はスパイダーちゃんの車体を叩いた。
 スパイダーちゃんはがたがた震えていた。
 正面に回ると、スパイダーちゃんはこちらに飛びついてきた。危うく下敷きになるところだったが、エミリーが車体を押さえて踏ん張ってくれたおかげで助かった。我に返ったようすのエミリーちゃんはおずおずとバックすると、ヘッドライトを瞬かせながらクラクションを何度も鳴らした。
「どうしたんだスパイダー。なんか怖いものでも見たのか」
 スパイダーは俺にバンパーを向け、また向こうを向いた。器用なターンを何度も繰り返す。なるほど、何か見ちゃったんですね、わかります。ところで何見たの?
 スパイダーちゃんは何も言わない。分かってちょうだいようとでも言いたげだ。俺はエミリーと顔を見合わせた。スパイダーちゃんはじれたようにばたつき、扉を開けた。言われるままに乗り込むと、スパイダーちゃんはクラクションを鳴らし始めた。しばらくきいているうちに、それがなんなのか分かってきた。音楽だ。さっきまで聞いていた。
 『東のエデン』のディスクは見当たらず、もしかしたらと思ってカーステレオをいじるとそこから出てきた。さっき取り出したはずなのに。まあとにかく、一つ進展があったわけだ。
「スパイダー、誰かお前に乗ったか?」
 ピーピーとクラクション一つ。ノーのサインだ。
「じゃあこのディスクはお前が入れたのか」
 ピーピー。じゃあどうやったんだろう。まあそれはこの際おいとこう。
「ジェームス・ディーンがどうかしたのか」
 ピー。イエス。
「幽霊でも見たのか」
 ピー。なんだそりゃ。
「祠が関係あるとおもうか?」
 ピー。
「とりあえずこれからあれにちょっかい出してこようと思うんだけど」
 すばやいピーピー。あんまりよくないものを見たらしい。
 それにしても、アレが何かしてくるならまず俺たちが餌食になるはずだ。スパイダーちゃんが一体何をしたって言うんだろう?
「何かきっかけに心当たりあるか? お前何かしたのか」
 スパイダーちゃんはゆっくりターンし始めた。ハンドルを思い切りきってぐるぐる回り、いったん反対側に切ってバックするとクラクションを鳴らす。向いているのはさっきまで回っていた部分の中心だ。この場所に何かあるといいたいらしい。
 車をおり、ライトを向けてもそれらしいものは見当たらなかった。せいぜい草が生えて土がめくれているばかり。変わったことは何も――
 躓いた。
 見つけたことはよく分かった。地面からちょっとだけ飛び出した岩の先端には、さっきの石碑と同じ文字が輝いていた。たぶん草に隠れていたんだろう。足元から這い上がってきた光が、俺の周りにパターンを描いたかとおもうと押し包んできた。とっさにエミリーを放り出すことは間に合った。いつものパターンだ。呪いは突然やってくる。機嫌を損ねられた相手が投げつけてくるわけだ。避けるなんてできるわけがない。


 エルサレムでは靴屋をやっていた。のれんわけが上手く行って、目抜き通りに面した店を持たせてもらえた。一生懸命働いて金を貯め、結婚したばかりだった。幸せだった。あの日までは。
 処刑が行われることになっていた。何でも有名な詐欺師で、ローマに反逆しようとしたそうだった。山ほどの見物人が通りを埋め尽くしていて、その日は商売にならなさそうだった。開き直って店の前で場所代を取ろうかとしたけれど、上手く行かなかった。業突く張りに値切られて、妻の前ということもあって退くに退けなかったが、結局妻に諌められてやめにした。業突く張りはさんざん俺を罵ってたち去り、祭りのようになった通りの中で、うちの前だけががらんとしていた。
 そこにあいつがやってきた。
 十字架を背負い、兵士に引っ立てられて苦しそうに息をついていた。途切れた人垣に顔を上げたあいつと目があった。
「休ませてもらえないか」
 あいつは足を止めてそういった。とても自然な調子だった。兵士に小突かれながら、あいつはもう一度休ませてくれないかと口を動かした。
「やなこった」
 俺はそういった。
「休みたければショバ代払ってくれ」
 意地になっていたんだろうと思う。こいつさえいなければこんな気分にならずにすんだのに。そんなこどもっぽい苛立ちが、そのまま言葉になっていた。
「わかった」
 あいつは顔を背けた。
「ならば、私がショバ代を持ってくるのを待っているがいい」
 問い返そうにも、あいつはすでに歩き始めていた。
 そのときの背中を忘れたことはない。


 どうにか意識を取り戻せた。首に手をやると、絡まっていたエミリーの髪の毛が解けた。立ち上がるとスパイダーのそばまできていた。どうやら引っ張り戻してくれたらしい。
「ありがとう」
 礼を言うと、エミリーはぷいと顔をそらした。ずぶぬれのエミリーから泥を払い落としてやると、髪の毛が胸板を軽く叩いてきた。うんうん、わかるわかる。
 振り返ると、さっきの石ころはまだ弱弱しい光を放っていた。たぶんスパイダーの方が先に餌食になったのは、地面から露出していたアレを轢いてしまったからだろう。少なくとも触れば反応してくれるわけだ。それなりにやりやすくなってきた。
 エミリーを車に戻した。積んでおいたタオルでぬぐってやり、「おとなしくしてろよ」と言い渡すと殊勝な頷きが返ってきた。エミリーは何かと手を出そうとするけれど、肝心なところではちゃんと弁えてくれる。いい子だ。
 呪いを引き受ける方法にも色々ある。一番簡単なのは、呪いそのものの関心を引く。それまで呪っていた相手のことなんかどうでもよくなってしまうぐらいに。こいつにも、きっと同じ方法が使えるだろう。
 スコップを握りなおし、さっき躓いた石にたたきつけた。あっさり切り取ることが出来た。地面の下の大きな塊からはがれた小石の周りには光が踊り、拾い上げると光は指に絡みついた。暗転しそうになった意識を、危ういところで捕まえることが出来た。露出した岩盤に土をかけて隠し、発光する小石に声をかけた。
「そっちの話をしてくれよ。こっちを覗くんじゃなくて」
 しばらくすると、『向こう』が流れ込んできた。


「それで結局それ全部引き受けて帰ったのか。その――なんだっけ」
「とらうまさま」
「おーそれそれ。ところでどういう意味なんだそれ? 日本語か?」
「今適当に作ったよ」
 何しろ俺たちが使ってる言葉は二千年前になくなっている。コンピュータもケータイも語彙には入ってない。勢い事あるごとに新語を付け足すことになる。もちろん二人ともしゃべれるような現代語で会話すればいいんだろうが、いつものやり取りには故郷の言葉を使うことになっている。
「それにしてもよ、ほっときゃよかったんじゃねえの? お前が背負い込むにはちょいと重すぎるだろうよ」
「まあでも仕事だからなあ。それに、オーナーも喜んでたよ。地主さんに買い戻してもらえたってさ」
「俺のところに送ってもいいぜ。どうせ俺もうすぐ死ぬし、そのときに頭の中もちょっとは綺麗になるからさ」
「初めて聞いたぞそれ。色々忘れてるのか?」
「すまん。実を言うと雰囲気でごまかしてるところもあってな」
 これは今年一番のショックだったといっていい。二千年来の付き合いだが初めて知った。道理で能天気な生き方ができるわけだ。
 カルタは決まり悪そうに喉を鳴らした。
「いや別に何もかもまっさらってわけじゃねえよ。忘れられないこともあるさ。それこそあいつのこととかな」
 急にしんみりした雰囲気が流れ始めた。ずるい話だ。都合が悪くなるとカルタはいつもあいつの話をする。何度か止めてくれと注意した覚えもあるが、今のカルタの言葉からすると忘れてしまっているんだろう。ずるい。
「まあアレだ、お前もあんまり妙なもん背負い込むのやめて、外の世界に出ろよ。俺みたいに」
 確かにカルタは外に出ているらしい。カルタの背中に覗く夜空には見たことのない星座が光っていて、画面も緩やかに揺れている。どうもボートに乗っているようだ。
「お前いまどこ居るんだ? なんか嫁さん貰ったんじゃなかったのか? 新婚旅行中なら邪魔して悪かったな」
「傷心旅行中さ。振られちまったからボートを買って旅に出た。今は大西洋にいると思う」
「何やってんだおまえ」
 確か一月前に話したときにはクアラルンプールにいたはずだ。そこでいいところのお嬢さんとねんごろになりかけていたはずなのに。相変わらず唐突な奴だ。
「ピラトにもお別れしてきた。最後まで付いてやれたのが救いだなあ」
「そりゃよかったな。ピラトも幸せだったろうさ」
「うん」
 カルタが鼻をかんだ。これでもかとばかりに音を立てて鼻水をこすりつけると、カルタはタオルを投げ捨てた。
「やっぱ気が変わったわ。そのとらうまさま? 俺のところには送らないでくれ。思い出したくないんでね」
「出来れば送ってやりたかったけどな。もう無理だ」
「そりゃよかった。じゃあまたな。適当に漂流してみるわ」
 向こうのほうから接続が切れた。最後の言葉はちょっと不穏当だが、まあネットにつながってるぐらいだし、それなりに近代的なボートのようだから大丈夫だろう。あてもなく彷徨うのは慣れているだろうし。
 なにより、俺たちは海の藻屑になったぐらいでは死ねない。こんなに心配が要らない相手もいないだろう。


 スカイプを切って視線を部屋の隅に向けると、ガーゼにくるまれたとらうま様をエミリーが恐る恐るつついていた。うっかり触ってはまずいから禁庫にでも入れておこうかと思っていたのだが、エミリーを中心とする我が家の愉快な住民たちに反対された。きらきら光っておしゃれだからというのが主な理由だそうな。確かに今のとらうま様は俺以外にとっては無害な石だ。
 結局、あの石碑に宿っていたものはこの小さな石ころに収まってしまった。地面の下で岩盤全体に広がっていた文字は寄り集まり、みっしり詰まったモザイク模様になってしまった。予想よりフレキシブルな存在だったらしい。俺についてくるためなら、自分自身を圧縮できたわけだから。
 おそらく、最初とらうま様はあの石碑に封じられたんだろう。それが地面の下を通って染み出し、なんだかよく分からないうちに封印も解けた。とらうま様から流れ込んできたものの中には、とらうま様を封じた何者かの印象も入っている。どう贔屓目に見てもこの世の存在とはいいにくい何かだった。それをいうならとらうま様もそうだ。
 今でも何を引き受けてしまったのかは分からない。分からないけど、呪いであることだけは分かる。毎晩散々悪夢を見せてくださるからだ。なぜか昼寝をしているときは放っておいてくれるけれど。おかげでますます昼夜逆転生活に拍車がかかった。
 とらうま様が俺をノイローゼで殺してくれる日が来ればありがたいけれど、それは当分なさそうだ。


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最終更新:2010年04月23日 01:08
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