【エクソン】

 エクソン

 標的は喫茶店のカウンターに腰掛けていた。
 マスターと親しげに言葉を交わしているようだが、標的がこの喫茶店に出入りしたことはない。初対面のはずだ。人懐っこい男だ。自分は緩やかな笑みを貼り付けたまま、他人の仮面をあっさり剥ぎ取って警戒心を溶かし去り、そのまま心に腕を伸ばして掌握してしまう。標的と放すとき、人はまるで温かい腕に抱かれたときのようにリラックスしてしまうという。それを可能にしているのは、人間心理に対する超人的な洞察力だ。学んだ心理学をどのように生かせばこのような能力が得られるものか、周りのものはいぶかしむばかり。そんな心理学的超人にとって、初対面の人間に取り入ることなどは赤子の手をひねるようなもの。
 厄介だ。
 私の用意したエージェントたちはいずれもたらしこまれ、標的を追い詰める事を頑なに拒んでいる。ゆえにこうして直接出向く羽目になった。おそらく私もまた誘導されているのだろう。標的は私の存在をかぎつけ、何らかの罠をめぐらした上で私をおびき寄せた。私の噂を聞いているならそうすると見て間違いない。私に出会った『名探偵』の運命はたった一つであって、それは彼らにとって愉快なものとは言いがたい。
 ドアを押し開くと、店内の目がいっせいにこちらを向いた。平日の昼にしては人の入りが多い。コーヒーをすする楽隠居の向かいではサボりの学生がタバコをふかし、常連と思しき中年が神経質そうに顔をしかめている。一息ついていた様子の営業マンは私を目にするとそそくさと席を立った。おそらく罪悪感をごまかしきれなくなったのだろう。私の外見は罪の意識を暴き出すようデザインされている。
 全員をスキャンしてみたが、標的以外は無害な一般人《モブ》。因果の混乱は起こっていない。少なくとも、今はまだ。
 標的から一つはなれた席を選ぶ。注文したコーヒーを待つ間、周辺視野で標的を観察。標的は私を認識し、外見から私だと特定している。私が標的を観察しているように、標的もまた私の心を覗き込んでいる。私の本質は人間らしいとはいえないものだが、少なくとも容貌は人間そのもの。加えて、表向き社会に溶け込めるほどには人間らしく振舞うことが出来る。
 ゆえに、標的に付け込まれる可能性がある。
「待ってましたよ」
 現に、こうして先制攻撃を許してしまった。
「どうして私が来る事を知った」
「簡単な推測です。私の事を探っている人間がいて、にもかかわらず必要な情報をつかめずイラついている。他人を介して調べることに不満を感じたなら、本人が直接訪れるでしょう」
「飛躍がある。私がその本人だと特定するには根拠が弱い」
「カマをかけてみただけです。仮にはずれだったとしても、その人と楽しくお話しするだけですよ」
 標的の笑みは堅牢。会話のイニシアチブを握り、こちらの思考を誘導する準備に取り掛かっている。同時に論理界面下では構造侵食が進行。事件が形成されつつある。私が反駁を試みて失敗し、それでも何事かいわんとしたところにタイミングよくドアベル。状況から見て発生する闖入者はこの喫茶店の常連。常ならぬ表情でドアをくぐり、マスターに相談しようとしたところで標的がさりげなく割り込む手はずになっている。事件そのものは現時点では詳細が定まっておらず、ただ二日前に発生したことだけが決定済み。時空をつらぬく因果が改ざんされ、印象的な事件が発生したことにされていく。『名探偵』による事件の創出現象。忌むべき行為だ。因果連続体をおもちゃのようにもてあそぶ行為。
 即座に因果を修復した。
 二日前に発生していた事件を消し去ることは影響が大きいため、現時点への介入を選択。今しも後ろ手にドアを閉めた常連客はカウンターに駆け寄る代わりに私の姿を目撃。外見を調整し、見慣れない存在である事をアピール。常連客の警戒心を誘発、成功。唇を舐めた常連客は適当な席を探して着座。コーヒーを注文して窓の外に目をやり、カップを運んできたマスターといくつか言葉を交わす。事件のことを相談しようとする様子は無い。詳細が決定されていなかったのが幸いした。事件は顕在化していない。
 標的がコーヒーをすすり、顔をしかめた。
 意識下ではなんらかの異常を察知しているはずだが、私が邪魔したとは気付いていまい。名探偵といえどそのほとんどは自らの力に無自覚だ。彼らは自分の下に偶然事件が飛び込んでくると信じている。そこに付け込みどころがある。
 反撃に転ずる。
「***、お前はこれまで何件の事件に関与してきた?」
「犯罪ですか。最後にやったのは駐車違反でしたかね」
「お前は記録されているだけで48件の殺人事件に居合わせている。それもたった三年の間に」
 標的の笑顔にわずかなひびが入った。
「そしていずれの事件においても犯人ではなかった」
「もしかしてこうおっしゃりたいんですか? 『実はお前こそが殺人犯なのだ』とでも?」
「明白な証拠がある。お前はどの事件の犯人でもありえない。それと、私は警察ではない」
「そうでしょうね。警察の方にしては変わっていらっしゃる」
「その論理は飛躍だ」
「どうでもいいです。私なんか調べてどうされるおつもりですか? 本でも書くんですか? だとしたら素材をもう少し選んだほうがいい。私はあんまり面白くないですよ」
「必要はないはずだ。お前はすでに『記録者』を獲得している。お前が事件をどのように解き明かしたかについては事細かな記録がすでに存在する」
「京子ちゃんの事ですか? やめろっていってもやめないですよあの子は。助手気取りなんです。警察にも怒られましたけど、出版なんかはしないと信じてます。あ、京子ちゃんに余計な手を出すのはやめてくださいね。僕の我慢にも限度があります」
 標的の笑みはすでに剥がれ落ちている。代わりに顔をのぞかせたのは怒り、ごく普通の感情だ。先ほどまでまとっていた超越的な雰囲気はもはや存在しない。
 いい兆候だ。
「私の任務は『記録者』を排除することではない。実のところ、彼女の記録には大いに助けられている。お前がこれまでにやってきたことを吟味し、お前の能力を理解する上で大きな力になってくれた。感謝を伝えておいてほしい」
 私は手を伸ばし、標的の頭部を掴んだ。暴力的な行為ではあるが、有無を言わせるつもりは無い。標的は蛇ににらまれた蛙のように身動き一つとれない。適切な表現だ。捕食者と、その獲物。
 決まりきった手続きを愚直に実行するのは、形式にこそ意味があると考えるからだ。形式は美であり論理、『名探偵』が気ままに引き裂き組み替えているものの対極にある。私がいわゆる機械的な自我を持っているのも、そうした理由に基づいている。
「お前は『名探偵』だ。少なくとも、その機能を持っている。ゆえに私が送り出された」
 標的はいまや、彼の現実から切り離されている。見えているのは私だけだ。準備が整った。
「お前の機能を停止する」


 『名探偵』こそ、事件を作り出す第一原因だ。
 因果が逆転しているという者たちもいる。「消防車が出動するから火事が起きる」といったナンセンスだと。だがまぎれも無い事実だ。『名探偵』こそは、凶悪で不可解な事件を引き起こす存在に他ならない。
 『名探偵』は優雅で、超越的で、どこからともなく現れる。足元に転がる死体に眉をひそめ、膝を突いて何事か検分する。いぶかる関係者たちは見事な推理を披露して掌握し、名探偵は事件解決のキーパーソンとして振舞う。犯人が張り巡らせた機略を見抜き、あるいは複雑に絡み合った事実関係をやすやすと解きほぐして、その奥に隠された真実へと手をかける。恐るべき手際で白日の下にさらされた犯人はひとたまりもなく観念し、関係者は賞賛でもって名探偵を見送る。一見するとヒーローそのものであって、そのイメージは彼らの悪行が露見した現代でも根強く残っている。結局のところ、彼らは事件を解決しているんだろうというわけだ。
 一理ある。『名探偵』は事件を解決するその過程で生れ落ちる。どれほどそれらしい雰囲気をまとっていようと、事件に出会えない名探偵はただのでくの棒に過ぎない。
 そしてそれが問題なのだ。名探偵が事件を要求することが。
 『名探偵』は己の周りに事件を構築する。ちょうど蚕が、自ら生み出す糸で自分をくるんでしまうように。そうして事件が充分に形を現したとき、名探偵は内側から事件を解体し始める。ばらばらになった繭を脱ぎ捨てて再び姿を現したとき、『名探偵』は『名探偵』としていったん完成する。彼が次の繭を生み出し始めるかどうかは神のみぞ知ることだが、多くの場合一度では終わらない。世界は削り取られ、探偵の繭に組み込まれては捨てられる。
 『名探偵』とは、特殊な能力の持ち主でなければならない。すなわち、世界を自らにとって都合のいい状態に整える能力だ。そうした存在は許されない。神ならぬ身には余る技、世界を冒涜する業だ。
 ゆえに、私が生み出された。
 私は探偵だ。だが『名探偵』ではない。私が『名探偵』たることなど絶対にありえない。ちょうど、狩人が獲物となることがありえないように。
 狩人といっても、私が直接機能停止を行うわけではない。私の仕事は名探偵を見つけ出すことだ。見つけ出してしまえば、あとは私を作った存在が勝手に事を終えてしまう。どういったメカニズムで『名探偵』機能が分解されているかは理解しないし、その必要もない。それは私の機能ではない。


 私がコーヒーを味わっている間、標的はその様子をずっと観察していた。そうすることによって事の真相が明らかになるか、少なくとも手がかりが得られるとでも言うように。無意味なことだ。『名探偵』の分解は閾値下で進行していて、目に見える兆候は一切ない。感知不能だ。
 それでも、上手く言った事を疑わない。事態は収束へと近づき、その中心に居るのはもはや標的ではない。もし彼がいまだに『名探偵』であるならば、ここから謎解きが始まるはずだ。私が行った何かは白日の下にさらされ、解剖され、糾弾される。
 そうはならない。
 標的が肩をすくめ、恐る恐る頭に手をやった。先ほどまで私が掴んでいた場所だ。
「さっぱり分からないですね。あなたは何者で、何をしたんです?」
「お前は今後事件に遭遇することがなく、『名探偵』として振舞うこともない。『名探偵』としてのお前はすでに死亡している」
「へえ。それが本当だとしたらけっこうありがたいですね。意味が分かりませんけど」
「超人的な洞察力を発揮することもなければ、偶然事件の手がかりに出くわすこともないということだ。普通《モブ》としての人生を満喫するがいい」
 私は席を立ち、喫茶店を後にした。
 標的はもはや元標的に過ぎない。現に事件は顕在化することがなかった。本来なら何らかの役割を演じるべく配置されていた喫茶店の面々は、いまや名もなき存在として埋没してしまっている。そのことが重要なのだ。
 『名探偵』が作り出す事件には必ずどこかしら破綻が生じる。謎を、それも解き明かしうる謎を生み出すために、不自然な閉鎖状況や心理の推移、時には物理法則の歪曲すら持ち出される。そうしたゆがみがもたらす影響は地震に似ている。プレートがたわみ、溜め込んだゆがみが開放されて破綻が起きる。
 私は破綻を引き起こしうる全ての『名探偵』を除去・無効化し、この世を守る存在として生み出された。
 私はXON《エクソン》・K。『名探偵』を狩る探偵だ。
 実のところ、この境遇はけっこう気に入っている。


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最終更新:2010年04月23日 01:08
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