◇





 きっと夢は叶うなんて 誰かが言っていたけど
 その夢はどこで僕を待っているの

                            ♪いつだって僕らは ノクチル





 ◇




 日が沈んでも残り続ける燻すような熱気の中でも、中野警察署の内部は静かだった。
 この一ヶ月間、東京のいたる影で侵食を開始していた先触れともいえる複数の怪事変。
 それが最悪の規模で爆発した、新宿で起きた謎の爆発以来、警察・消防は完全に対処に忙殺されていた。

 世界に広げても例のない、都市の中心地でのテロリズム、あるいは事故。推定される被害者の数、建物の損害は時間を追うごとに更新されるばかりで、原因の究明もままならない。
 指揮系統が麻痺しても不思議でない、事態の推移によっては国家存亡もありえる窮状にいながらも、いち早く全面支援を名乗り出た峰津院により、行政は際どいところで保たれていた。
 国の屋台骨ともいえる大財閥の積極介入は、予想だにしない緊急事態でも変わらず辛辣を振るった。
 枢要たる英俊の当主が寄りすぐったお抱えの専門チームによる主導の元、ライフラインの復興、救出作業らといった急務が同時に並行して進行されていく。

 瞬く間に組み上げられた都心復旧プランは財閥の太いパイプを通じ、先に続くあらゆる部署に行き渡る。
 もはや国そのものといっていい峰津院が動いた事は、現場の職員達に安心感と使命感の双方を燃やし募らせた。
 今や非常勤から末端の巡査にまで明確な指示が与えられ、国が一丸となって救助や警備に全力で当たっている。
 この国はまだやれる。捨てたものじゃない。そんな声が作業に勤しむ誰かから漏れる。
 一向に進展の気配がない怪異に気を揉んでいた人々は、まだ見ぬ明日にも希望を抱き始めていた。



 熱狂と熱帯夜に浮かれてる東京都でも、中野警察署の内部は静かだった。
 殆どの動ける職員は出払い、新宿での活動に割かれている。区を跨いた協力体制が早急に敷かれたのも、峰津院の中継ぎがあったればこそだ。
 留まっているのは体力や運動に不備がある者、情報を伝達する連絡員、上からの指示を部下に下す署長等の一定の地位にいる者。
 また別の場所で予期せぬ事態が起きた場合に備えた数名の、計十数名のみだ。

 ……内部は静かだった。
 無人ではないかと思うほど静まっている。
 爆心地の新宿ではないにしても、隣接した中野にもその余波は届いていて然るべきなのに。
 広い署内とはいえ、ひっきりなしに更新される情報のやり取りは、騒動の現場以上に物々しい雰囲気であってもおかしくないのに。
 行き交う通信の音も、救援を求めて駆け込む市民の足音も、聞こえるものは此処にはない。

 密閉された真空の密室のように。
 くぎ取られた位帯のように。
 警察署の中だけで、全ての音というは絶えていた。





 いや。

 音は、ある。





 廊下を辿る音。重さの異なるふたつの足音を連れて、動くものがあった。
 そこにいるのは男と女。男は背丈は高く、僧衣を纏ってはいるが、街中で練り歩いていてもとても馴染まないような奇抜な装いをしている。
 女は、男が長身であるのを差し引いても小柄で、小学生を越えてはいないであろうことがすぐに分かる。
 こちらは不自然のない洋装をして、目立つ点のない女児の見かけであった。


 二人は───親子ではない。
 知り合いでもなく、学生と教師の間柄でもなく、また連れ合って警察に来たのでも救助を求めてのものではなかった。

 二人は、主従であった。
 主は、幼子。従者は大男である。
 彼等は真実を知るもの。願い求めるもの。惨劇を求め、地獄を求めるものである。
 証拠に、見るがいい。女の細い指がたおやかに絡みつく、黒い暴力の具現を。
 凶器の象徴の先端からは、射出されたばかりの排熱が煙となって揺蕩う。
 そして。地面を染めていく赤。仰臥するモノから溢れて、濁濁と。

「……聞こえていないようですわね?」

 砂糖を煮詰め、水分が蒸発した鍋の底に溜まった焦げのような声だった。
 見た目通りの幼気な声で、少女は従者の術の効果を確認する。

「ええ、それは無論。遮音に防音、視覚の修正による隔絶の魔境。共に内と外に万事仕込んでおりまする。
 民草が何を叫ぼうと漏れ聞こえる音は一切ありませぬ。何が起きようとも気づく者はおりませぬ」

 法師なる男の声は艷やかなるもの。性の根を蕩かせる腐乱した花の蜜を思わせた。
 男を構成する全ては毒である。
 見目は不穏を煽り、声音は心をかき乱し、所作は負を招く石となる。
 世の『悪』を司り、喚起される不幸を悦びのままに甘受するかのような男である。

「それでは、リンボさん。手早くお願いしますわ」
「おや、おやおや、おやおやおやァ? 拙僧が総てを浚ってしまった宜しいので?
 並み居る極道共を一蹴した、あの華麗なる手捌きが久方ぶりに拝めると、拙僧正直、期待していたのですが」
「手間を考えてくださいな。まさか私に、この中を練り歩いてひとりひとり撃ち殺していけと?」

 弾を確認しつつ、ゆったりと歩きながら。
 『署内の全員を殺し尽くす』と平然と言い放ちながら。
 取り合わせも、話の内容も、何一つ噛み合わないままに時は進む。その時を待つ。

「弾丸(タマ)はガムテさんから幾らでも補給されますので心配ありませんが、時間は有限なのですから。
 ですので手早く、です。この程度の簡単なお遣い、さっさと済ませてしまいたいのはそちらも同じでしょう?」
「ンン、正論、素晴らしく正論でありますなそれは。仕方なし。素晴らしき銃型(がんかた)の拝謁はまたの機会といたしましょう」

 面白い見世物が延期になって残念だと。
 その程度の気楽さで、頭蓋に風穴が穿たれる場面が見てみたかったと零す。
 変わりはしないのだ。男にとって。祭の囃子も殺戮の怨嗟も。
 悪を愉しむを私悦とする別人格(アルターエゴ)は、ここでも変わらずに快楽を貪る。どこまでも、どこまでも。


「では、そのように、致すとしましょう」


 毒色の長爪を生やした指を、弾く。
 音が鳴って消えない間に、地面に横たわっていたモノが勢いよく飛び起きた。
 少女が撃ち抜き絶命したばかりの警察官の亡骸が、生者の如く手足を駆動させる。
 落ちた帽子を拾いもせず、眉間の孔から零す脳漿を拭いもせず、血走った眼で痙攣しながら、曲がり角へ消えて行く。
 ───絶叫。魂切れる断末魔が惨劇のサイレンをけたたましく鳴らした。

「今のは?」
「拙僧の裡に修める秘奥のほんのひとかけら、今は微睡みにいる御方の力の一端を転写しました。
 移した呪いは生命を辿り喰らいつき、喰われた者にもまた呪いが宿る。有り体に言えば感染するのです」
「感染、ですか」

 少しばかり、感慨を抱く。
 まさかここに来て、その言葉を耳にするとは思わなかったと。

「意識を保ったまま呪い人形にすることもできますが、それは少しばかり手間が増えますので、やめました。
 親しき者が異形に置き換わる、醜き獣へ変貌する様を目にし、しかして変わらぬ言葉を紡ぎながら友人恋人の首に齧りつく様はさぞ甘美でありましょうが……ンン、残念無念」
「方法はなんでも構いませんが……最初の目的を忘れたりはしてませんわよね?」
「無論。生命を追い、貪る性質は自動のものですが、動きを操作するのは此方からでも自由にて。程よく手を抜いて、格好の餌場へ誘導してございましょう」
「よろしくてよ。ではそちらは私が引き受けましょう」

 撃鉄が引かれる。
 銃身は既に起こされてる。動かしたのは意識の方。

「どうしたのです? 意外そうなお顔をなさって」 
「……いえ。仕事はお任せすると承りましたが?」
「ええ。そう言いましたわね。けど、いちいち片付けるのが面倒というだけで、別に始末するのが嫌とは、一言も?」

 同僚の腹部に顔を突っ込ませて溺死している光景を、何でもないように隣を通り過ぎて。
 臓物を咀嚼する音、骨を噛み砕く音は既に聞こえていない。
 耳に残るのはただ追想のみ。輝いて、煌めいて、花咲く彩りの黄金時代(ノスタルジア)。

「誘導はお願いしますわね。狭くて、暗くて、逃げ場のない、兎小屋みたいな部屋を希望しますわ」

 リンボの玩具として遊び弄ばれた犠牲者を、沙都子は哀れだとだけ思う。
 同情も嫌悪も抱かない。惨劇の輪廻(ループ)の過程でまっとうな倫理は真っ先に削ぎ落とされた。
 ここにいるのは、表に出ているのは、ただひとつの目的に純化、最適化された新人格。
 記憶は連続している。感情もある。ただ、思考の優先順位が変化している。
 属性の混沌化。オルタナティブ。リンボを名乗るアルターエゴの主となったのにも、そこに縁があったのやもしれない。

 そんなリンボの悪食ぶり、悪辣ぶりは、今の沙都子でさえも手に余る強烈なものだ。
 有り余る才を全て、人の世を呪い膿ませるだけに用いる。
 祟りとすらいえない。あの男は怨んでもいないし、慰撫されたからといって恵みを与える守護神にもならない。
 あれが人を呪うのは自分の快楽のため。楽しくて気持ちがいいから苦しめる。
 そこに神の摂理はない。ただ人の業が孕むのみ。
 だからあれに巻き込まれるのは運が悪いのだ。運で決まるのだから、善悪だとか罪だとかの有無は関係がない。 
 極めて正当性のある望みを持つがために呪いに染まった沙都子にしてみれば、同志どころか悩みの種だ。
 ……まあ、自分をこうした元凶のあの存在も似たようなものかもしれないが、とも思いながら。

 とはいえ、好き勝手しながら仕事はきちんとこなす程には有能なのもいいところだ。
 獲物を閉じ込めたと知らせを受けた場所は取調室。狭くて逃げ場がなく、出入り口もひとつだけ。しっかりと要望に沿った形だ。


 従者を置いて、始まる地獄絵図の中を少女は歩く。
 網膜に焼き付いて剥がれない眩い理想を夢見て、誰かが流した血の道を歩き続ける。
 あるいは、散乱したカケラを踏み潰して滲んだ、自分の血なのかもしれないが。


 先にリンボに教えたように。
 沙都子が283プロのアイドルを殺すのは単純な嫌悪からだ。
 汚いものがキレイに振る舞い、キレイなものを奪っていく。
 沙都子から梨花を奪う、東京という社会の構図そのものが、疎ましくて仕方がない。
 ガムテの作戦にかこつけた形ではあるが、聖杯戦争の過程で機会があればきっと同じことをしていただろう。
 それをして梨花が手に入るわけでもないし、聖杯戦争に勝てるわけでもないのに。
 ただ『見てると気分が悪いかった』だけの理由で、沙都子を祟を下すと決めた。

 ああ、なるほど。
 沙都子は思い至る。
 そう違いはないではないかと。

 心のままに憂さを晴らすため祟る沙都子。
 心のままに快楽を求めて呪うリンボ。
 だからどうではなく、カケラの割れ目に相似点を見出すだけの発見。
 沙都子の可能性(カケラ)が導き出した、絶望の安寧を果たすサーヴァント。


 余計な感傷はお終い。目的の部屋の前にたどり着き、銃把を握りしめトリガーに指をかける。
 萎縮はしない。安堵すら覚えるほど冷たい硬質感。
 これから行うのは殺人ではない。狩りでもない。恐れさせるための儀式なのだと心を澄ませて。


【扉を、開けた。】


 ドアノブに触れ、回しただけで、中の息遣いが感じ取れた。
 死体が動き出し手当たり次第に生者に喰らいつき、動く死体を増やす有様を目の当たりにして、這々の体で逃げてきたところへの接触。恐怖の度合いが手にとるようにわかる。
 だが恐怖を通り越して恐慌になられては困る。銃があっても小柄な沙都子では、一斉に飛びかかれたりでもしたら対処が遅れる場合がある。
 だから行程を挟む。怯えた様子で、震えた声で、自分と同じ、恐ろしい怪物から身を隠そうと逃げ延びた被害者なのだと油断を誘う。

 そうすると、後ろの少女達を庇うように立っていた壮年の男が一歩前に出てきた。
 襲う風ではない、緊張の糸が切れたと息を吐き、安心させようとこちらに手を広げて近づいてくる。
 がら空きの眉間に向けて発砲。はじめから決まっていたように銃弾は命中し、脳が損壊して制動を失った肢体は仰向けになって倒れた。

 「社長?」と、何が起きたか理解できず呆けて呟く妙齢の女性。最初に撃ったのが社長だろうから、こちらは事務員の方か。
 マスター候補の身内で人質に使えるということで殺害は控えるよう言われてる。太腿付近は動脈が太く失血死の可能性もあるので、狙いを脹脛に定めて撃つ。
 肉が抉れ、突然の激痛と灼熱に悶絶してその場に倒れ伏した。放置すれば傷口が化膿して危険だが、即死するわけではないので放置する。

 そこで、少しだけ予想外のことが起きた。
 銃撃のショックで動けないと踏んでいた三人組のうち一人が、猛然と飛びかかってきたのだ。
 標的の中では最も小柄だったが、踏み込んだ脚に迷いはなく、速度もかなりあった。
 被弾率を避けるためか身を屈め、腕で顔を覆ってガードするなど意外にも知恵が回る。

 が、まだ遅い。 
 ヘッドショットが無理と見るや、着地した方の足先に銃口を再設定。
 足の甲を貫いた衝撃で加速が途切れつんのめったところを、今度はこちらから近づく。
 互いに詰めてゼロになった間合いで、眼球に押し付けての第二射。
 眼窩から入った弾丸は頭蓋を跳ね回って、脳をシェイクしながらタップを披露する。無様な踊りだ。
 だが最初の加速の勢いか、後ろに倒れたりせず全身がもたれかかってきて、服が血で濡れてしまった。
 それが最期の抵抗のように思えたのが苛立たしくて、死体を押しのけて生き残りに数発叩き込んだ。
 少し狙いが浅かったが当たったのでよしとする。


 むせ返る血臭が、取調室に充満する。
 どうということもない。いつもの風景だ。
 カケラ合わせの繰り返しで飽きるほど見てきた、よくある惨劇だった。
 沙都子も体験してきて、今では起こす側に回った、雛見沢の日常の一幕だ。
 昭和58年の片田舎では、こんな様相は日常的に行われていたのだ。

 それを、まあ、よくもここまであっさりと全滅するものだ。
 奇跡も、運命も、ここには何もなかった。逆転の目を引き寄せる気迫など微塵も見れなかった。
 友情が聞いて呆れる。控えめに言ってここに転がってるものはクズ同然だ。ゴミ、と言い換えてもいい。
 見栄えだけよくするばかりで、現実では役に立たない有象無象。
 こんな奴らに、こんな世界に、あの故郷に勝るだけの価値が、塵ほども見いだせない。 

 圭一なら言葉巧みにペースを握っていた。レナなら僅かな違和感も見逃さないよう注意を払っていた。魅音と詩音なら逆に返り討ち、最悪でも相打ちに持ち込んででも殺していた。
 そして梨花なら、絶対に諦めようとはしなかった。命が絶える寸前まで運命の打破を目指し、未来を目指そうとしただろう。
 その五分の一の気概すら、彼女達には感じられなかった。脆い、紙細工でも握り潰すみたいに。
 くだらない。
 つまらない。
 偽物は志すら偽物というわけか。いや、この分じゃ本物の方だって同じように薄っぺらい歌みたいな存在なんだろう。
 ───そして、だったら何故、自分はこんなにも不快なのだろう。




 はじめから期待してもいなかった。
 なにもNPCに、そんな奇跡の発露を求めていたわけでもいない。むしろ起こされては困るのはこっちだ。
 今回はガムテへの得点稼ぎで、標的が丁度よく目障りだったのでこの手で消したかっただけ。
 予定通りに事は進み、何も予想外はなく完了した。期待してないのだから失望もないはずだ。

 なのに目障りなものを始末しても、まるで気分は晴れなかった。
 あれだけ溜まっていたアイドルへの苛立ちはすっかり醒めている。
 同時に───なにか自分が、とてつもなく意味のないバカげたことをしていたみたいで、ひどく白けた気持ちになってしまった。    

(……もういい。あとはリンボさんに任せましょう)

 仕事は終わった。これ以上留まる意味はない。 
 二人、まだ死に損なっているが……今更とどめを刺す気分にもなれない。
 放っておけばいずれ死に至る。それはそれで、無力感に苛まれながら惨めに息絶える制裁にもなる。
 何ならリンボに好きにやらしてもいい。この手の直接的に露悪な術技についてはあの法師は一枚も二枚目も上手だ。
 どの道、人質を運んで帰るにはリンボの手を借りなくてはならない。ご褒美がわりと言えば嬉々として飛びつく顔が想像できる。

(……リンボさん?)

 合図を送ったのに、いつもの少し煩わしい甲高い美声が返ってこないのが怪訝になり……そこで沙都子は異変が起きたと気づいたのだった。



 ◆



 踊り食い、という食の方式がある。

 捌き、調理した料理を食べるのではなく、活きた生のままで口にいれる食事だ。
 当然の帰結として、選ばれるのは捌かないまま人の口に収まるサイズの小魚や貝、イカ等の海産物に限られる。
 その魅力は言うまでもなく、食材の新鮮さを味わう点にある。
 なにせ活きたままだ。口の中で飛び跳ね暴れる動く生物を、自分の歯で噛み裂き、すり潰す。
 ヒトが発生したばかり、まだ火を文明として扱う以前の時代の原初の遺伝子がそうさせるのか。
 この、残酷ささえ感じさせる食事方式は今でも親しまれている。
 寄生虫などのリスクはあるが、多様化し過ぎた食事文化にあっても逆に新鮮であると、回帰的な理屈も影響するのか、いまだ人々の生活に根付いていた。

 ならば今中野警察署で行われるコレもまた文化の名残り。
 のたうつ獲物にのしかかり、手足を奪い、背に爪を突き立て、活きたまま喰らう始原の試み。
 長きに渡り紡がれる人の歴史。それが魚類と哺乳類であるかの違いに大して差などあるまい。




 そんなわけがなかった。




 ここに受け継がれてきた技術などない。
 人の食たる文明の気配などない。
 獣の内ですら、こんな原理は取り扱いはしないだろう。それほどまでに、その『食事』は逸脱していた。

 そこには”魔”があった。
 自然の法則にありながら必要とされず、総じて正当な流れにある者には邪に映る輩。
 人に依らず生み出された、人の手による怪。

 何故生み出されたのか。正なる者を害するのか。それを問う場面はここではなく。
 故にただ、ここでは起きた事それだけが目にする話。

 食べていた。同僚の頭を。
 食べられていた。友人の手足が。

 巡査が上司の首を食いちぎる。落ちた首が巡査の足にかぶりつく。情報係が増えた頭でその両方を飲み込む。
 食べる者が食べられて、食べられながら食べ返す。
 それは踊りにも似ていて、情交の激しさで互いの体を混じり合わせて、溶けている。
 理性という理性、二千年頑なに守り通されてきた常理が壊れて、蒙昧白痴に踊り狂ってる。

 無数の肉塊が寄り集まって、ひとつの生き物を成しているようだった。いや、体は本当に癒着している。
 食らいついた部分が溶接され、融解したゲル状になって繋がれている。
 肢体を欠損し、失くした部位を接合し合い、更に不揃いになった全体で損失を埋めようと彷徨う残骸(レムナント)。

「……ふむ……肉の接続、魂の改竄、共に滞りなく。自立できる程度の魔力は生産できますが、これでは余りにも微量。可能性の発露とは言えますまい。
 それになにより……臓を破って脳の奥底にまで手を入れたのに、彼等を生み出した界聖杯との繋がりを感じ取れませぬ。拙僧が手を加えた時点で我が所有物に切り替わった? いやいやそうではない、それは違う。
 大いなる根源から流れた枝葉でしかない人間から、元を至る道筋が続かないのと同じ。こちらの手落ちではないでしょうとも。
 より太く情報が繋がった……界聖杯の魔力を多寡に割かれた個体であれば反応も違ってくるはず。運営機構を預かる管理者? この舞台劇の絡繰りに気づいた覚醒者? ンンンンンン迷いますねェェ」

 飢えに震える死肉の傍で、至極冷やか検分している声がひとつ。
 夜空を仰いで星辰を読み解いて宇宙の理を明かそうとする学者のように。
 新薬を投与した実験動物に表れる症状を心待ちにする学者のように。
 真剣に、興味を注ぎながら、変貌の過程を眺めている。

 これが最新の科学道具で埋められ、情報と細菌の二重の意味で機密にされた研究施設であればよかった。
 しかし此処に立つのは。今また死体に指を突き入れ新たな呪を注入している男は。
 人類の発展と進歩に唾を吐きかける、闇より出る影である。

 キャスター・リンボを名乗る法師陰陽師は、与えられた任務と遂行に使う時間をふんだんに使い、己の欲求を満たしていた。
 界聖杯内に夥しく群れる人、NPCの操作。魂の潜行、霊的階梯の強制進行。
 生活続命、泰山祭を修めた身にかかればNPCの防護など丸裸同然。全てが詳らかとなる。
 予選段階では主の意向により悪目立ちする凶行を自重して雌伏していたが、今こそ絶好の機会。
 界聖杯から製造された木偶人形を解体し、その秘密を暴く。あわよくば正規以外の手順で界聖杯に接近し、競争形式そのものを茶番劇に堕とせないか。
 この怪僧は人知れずに、全てをご破算にできまいかと奸計を図っていたのだ。


 そうして散々に肉を漁り、脳を割ってはいいが、さしたる成果は実らず。
 界聖杯の真実、見通せず。
 聖杯戦争からの一抜け、叶わず。
 今宵は徒に血を浴び、罪なき人命を鋳潰しただけの労に過ぎない。

「ま、いいでしょう! 今生で漸く味わえた生命の壊れる音、悲鳴の味、実に甘露!」

 無駄骨、結構。
 芽の出ない作業、結構。

 これはこれでいいものだ。意味のない徒労でも益体のない行為でも───だからこそ、これは、楽しい。
 そも研究・実験なぞ建前だ。主に見咎められた際の体の良い方便でしかない。
 経路の探索、それは嘘ではない。本当に探している。ただそれだけの理由ではないだけ。全容でいえば半分か、それを割るあたりだ。
 結局は、より上質な快楽を得られないかの模索。
 楽しみ。趣味。すること事態に意味があり、利があるかどうかは二の次の些事。
 無辜の住民を醜悪な獣に変え、法悦を抱いた時点で、リンボの目的は半分以上達成されていた。

「さてさて、それでは用済みとなったコレはどうしたものか。
 処分してもいいが、久方ぶりの手ずから捏ねた作品、このまま誰にも披露せず腐らせるのはやや惜しいですな……」

 その後を何も考えず、とりあえず作るだけ作ってみた作品を眺めて、いい用途を思いつく。

「……そうだ。ならば、披露してしまってもよいのでは?
 生きながらに死に、同族を食らって肥え太った怨嗟と哀絶を、外にお裾分けしてあげてもよいのでは?
 拙僧なような外道が幕引きでは彼等も浮かばれますまい。清き英霊、正しき英雄の手で成仏なされてこその慈悲でしょう。彼等がどのような表情(かお)をあなた方に向けるかを想像するだけで……ああ、なんという……!」

 悍ましき所業を行った下手人への怒りか。死ぬ他ない生き物にまで貶められた者への哀れみか。己の手では救えないと悟った自責の念か。
 何でもいい。自分の生み出したもので高潔な英霊共の感情をかき乱せられれば、それだけで喉が潤う。
 そんな、聖杯戦争の趨勢にまるで関わらない、その場の適当な思いつきを、この男は本気で実行してしまおうとしていた。


 これが快楽主義の極み。
 万全の布石を、綿密な策を、瞬間瞬間の感情で踏み倒し全力で愉しむ。
 放蕩と無軌道が極大の爆弾となって、意思を持つ。悪夢とでもいうべき現象がここにある。

 任務を終えた主の声を合図に始めよう。そう一人で勝手に頷き結界を解く手順に入りながら、ふと視線を横に向ける。
 そこに、信じられぬものを見た。


「────────────────何?」


 眼を開く。
 美しく、しかし瞳の虹彩は腐り切った溝底色に濁った目玉が驚愕に剥かれる。

 リンボは見た。
 蠢動する肉塊。警察署の職員十余名を食い合わせた死体を接合した、未だ破壊の興奮止まぬ街に繰り出されようとしていた残骸の獣。
 その輪郭に何重もの落書きじみた線が走って、その線をなぞるように裂けてずり落ちていくのを。

「──────ッ!?」

 衝撃。驚愕。動揺。
 いずれの感情も爆発する寸前でそれ以上の意識が押し留め、一足跳びで大きく距離を取る。
 目にしたからだ。一瞬の解体の直後、迅風に乗って現れた影の姿を。



 照明の落ちた正面ロビーの玄関前。
 窓から薄く差す月の加護に照らされて、それは輪郭を露わにする。
 結わえた髪。朱色の羽織。黒い袴。
 指に握られるのは黒い、黒曜石のように輝輝として鈍く光る刀。

 侍。
 あるいは武士。
 絵巻物に記される衣装そのままに、一人の剣士が、リンボを深く見ていた。



「……ほほう」

 思いがけない郷愁に目を細める。
 侍という、日の本の兵士。この期に及んでまで我が身に纏わりつくかと、運命の皮肉を嗤う余裕を保つ。

 何をしに来た。どうやってここに気づいた。
 今更過ぎた話は問わない。ここで慌てふためくのは二流の仕草。
 落ち着き払った態度を崩さずに、対峙する敵手を見やる。

「これはこれは、このような夜更けにお急ぎの足でどうされました、侍よ。
 見ての通り、ここはとうにもぬけの殻。あなたの待ち人は恐らくおられぬかと」

 慇懃な口調で歓待の体で遇し、片手を掲げて無人の広間を示す。
 指した先にある散乱物、乱暴に荒らされた空間に転がった肉片をこれ見よがしに見せて。

「それとも、よもや、拙僧に用向きがあると? 確かに我等はサーヴァント、生前果たせずにいた望みがため、浅ましくも現世に舞い戻った身。
 出会えば、戦うのが必定。その恐ろしい刀を我が身に向けるというならば、それもまたよいでしょう」

 しかし、と。
 法師は念を押して、言霊を放つ。

「先にお聞きしたい事がございます。
 先程のソレ、斬れ味はどうでしたか?」
「──────────────────」

 斬られてから部位が崩れ、原型を留めず消失していく残骸に、剣士はこの場で初めて反応を示し、視線を地面に這わせた。

「人に似た感触でありましたか? 刀を通して肌を裂かれる彼等の苦痛が伝わりましたか?
 そうであったなら、これほどの喜びはございませぬ。手ずから丹念に拵えた甲斐があったというもの。
 お答えください、正しきお人。義を志す者。怪物へと変じた、守るべき民草を慈悲深くもその手で斬り殺したその感想を。さあ、さあ、さあ!」

 興奮で上気した顔で、詰め寄らんばかりに捲し立てる。
 方法は不明なれどリンボの凶行の気配を感知し参じたからには、この英霊も善に連なる者だろう。
 勇み足で突入しておきながら間に合わず、何もかもが手遅れになった後になって到着した間の悪さ。
 もっと早く気づいていれば、気を張って急いでいれば止められたかもしれない無念の程は如何ばかりか。
 守りし者が守るべきを喪う無能ぶりを堪能したくて、英雄気取りの敗者に舌鋒を突き刺す。



「私は、人を殺した経験はない」
「……は?」

 返答は、予想したものとはまったく異なるものだった。

「私が狩るのは鬼だ。人が成ったものであるが本意ではなく、始祖の血を受けたことで蝕まれた彼等は、皆一様に心を失っている」

 晴天の下、湖の凪いだ水面でも眺めている気分だった。
 波一つ立たず、ただそこにあるだけで完結している、無我の境。

「……心は痛みはしないのですか?」
「奪われた者の無念は痛いほど分かる。我が身の不徳の致すところというならば返す言葉もない。
 だが、私が嘆こうと時間は止まらず、共に悲しんでもくれない。ならば私がやるべき事は、その災いを広める者を止めることのみだ」

 無貌のままに、抜き放たれた切っ先を持ち上げる。
 ただ、お前を斬るという意思だけが、現実に偽らざる干渉を果たすかのように。

「……過去に、数多くの侍、武士と合いまみえた拙僧にございますが……あなたほど軟弱な剣士はついぞ見た覚えがありませぬ。
 人を殺さぬ侍などとは笑止千万。あなたの時代の侍は、さては腑抜けの類語であるのか?」

 宣戦の布告にも、リンボは侮蔑もあらわに見下す姿勢を隠さない。
 なにしろこの男には殺気がない。目に入れるだけで首を飛ばしかねない、剣豪の覇気を欠片にも感じられない。
 破壊された人理定礎の修復を巡る特異点、打ち捨てられた剪定事象との生存権を争う異聞帯にて鎬を削った、古今東西の豪傑達と比べれば、この英霊の意気はそれこそ小波にも満たない飛沫だった。

 英霊ともなれば、絶望と苦痛は壊れる限界まで丹念に積み重ねてこそと志向するリンボだが、これは駄目だ。
 前菜なぞ幾らでも次がある。これから盛大な馳走を戴く準備をしなくてはならないというのに、この程度の小物にかかずらってはいる暇などあるものか。

「この身に蓄えし本領を見せるまでもなし!
 いまこの場で! 縊り殺してくれようぞ!」

 ───黒い波動が噴出する。
 蛆湧く瘴気と邪気が魔力に染み渡って、周囲一帯を深く闇に侵す。
 芦屋道満という英霊の霊基を餌に蚕食した3つの神、その指先から頭髪まで染み込んだ威容を毒々しくも溢れ出す。

 本物の殺意とはこれだった。
 身体を中心に浮遊する数々の人形の符。燃え上がる焔。沸騰する毒の光芒。
 手段は多々分かれども、収束するのは対象の生命活動を完膚なきまでに破壊し尽くす、たったひとつの行為。
 稚児でも持つ単調な悪意を、老爺ですら及ばぬ妄執で振るう。魔導の陰陽師はその両極を併せ持った極めつけの怪人だ。
 怨嗟と執着、輝く者を貶めたい妬み嫉み。人間ではどうしようもなく抗えない我欲の陥穽。

「確認をしておく。お前の殺戮はお前自身の意思か。それとも、お前の主の意向か」
「共に! 我が望みと我が主の望み、降り立つ場所は大きく違い相容れない。
 しかしその過程においてはひとつとして差異はなく、ぴたりと当てはまるが故に」

 指ひとつ、呼気ひとつで号令を為す。
 充溢していく魔力は爆裂寸前まで膨れ上がり、開城の瞬間を待ち望んでいる。
 陰陽術の歴史に知らぬ者なき伝説の術師、その手腕を遺憾なく発揮された死の方式が、ただひとりの剣士を呑み込もうとしている。

「作るのですよ! 惨劇を、地獄を!
 貴様もまた、その一助となり散れぇい!」






(等と、云いつつ)

 嘲弄と挑発を繰り返すリンボだが、彼は消して目の前の侍を侮ってなどいない。
 傲慢な物言いに反して、水面下では策謀を緻密に組み上げていた。

 リンボは知る。英霊を殺戮の悪鬼に変える宿業の陣を、刀の一振りで霧散させる老境の剣聖を。
 リンボは知る。真正の神、虚無を体現する惑星を、無の概念ごと斬り捨てた彷徨の剣豪を。

 武士なるもの、侍なるものは、いつだとてリンボの目論見を真正面から打ち砕いてみせた怨敵だった。
 アルターエゴという違法の霊基が登録されサーヴァントとして召喚される形となった、
 つまりリンボが滅ぼされた最大要因もまた、平安の京を鎮護する源氏の益荒男の奮戦によるものであるのだから。

 抑止の輪とは、人理とは、かくも悪辣に駒を配る。下総と平安京、二度の敗北での教訓は肝に命じた。
 この名も知れぬ剣士も、弱々しい見た目からは想像もつかない反撃を繰り出してくるやもしれぬ。
 故に──────。

(疑似神格体内励起、無限加速。熱量臨界制限解除。
 仙術の秘奥には届かずとも、この程度であれば式神一体分の炸裂で十分ッ)

 攻撃用の術式は布石。これで沈めば、それはそれでよし。
 だが万に一つもこちらの弾幕を潜り抜け、この首を飛ばそうと間合いを詰めたならば、それこそが真の終わり。
 取り込んだ神格の魔力を限界以上に注ぎ入れ、霊基一騎分を薪にした爆弾を零距離から受けることになる。
 良くて、即死。幸運を掴みきれなかった場合は更に悲惨だ。
 肚にたっぷりと詰め込んだ呪詛の大瀑布を浴びれば、致死に至るまでの間、地獄の鬼の拷問に匹敵する責め苦を負う羽目になる。

 さあ仕掛けてみよ。邪悪なるモノを征伐する責務を果たしてみよ。
 その時こそ前言を翻そう。奮闘を讃えよう。
 どうせ死ぬのに無駄な足掻き、ご苦労様でした! と。 

 勝とうが、負けようが、どちらでも掌の上。
 仕込みを済ませた死合舞台とは、愛玩動物の遊戯台と変わりない。 
 分かりきった結末を面白くするのは犠牲者の断末魔。想像だけでも身を震わす喜劇を開演すべく、小手調べの符呪術を見舞おうとした零秒前に、当の侍は位置からかき消えていた。

「グッ──────!?」

 何処に───目を丸くしたリンボが補足するより先に、異変は発生した。
 まず感じたのは灼熱。痛みはその後にやってきた。肉を焦がす匂いは一番最後だ。
 胴の真ん中よりやや左下、器官でいえば脾臓あたりの部位に、黒から赤へ変色した刀が突き刺さっている。
 弾幕を躱すどころの段階ではなかった。撃つ、という工程すら挟ませない無音の侵掠。
 単なる速度のみならず、狙いや弾数、射出のタイミングまで、心の内を読まれたかと疑うほどの意識への滑り込み。

(疾い! だが……──────ッ!?)

 隙とすらいえないほどの、僅かな間に差し込んだ仙術紛いの足運び。なるほど英霊だけのことはある。
 しかしそれは、待ち構える二の矢の配置に見事に飛び込んだのと同意。
 眼前で突きを繰り出した侍を諸共に消し飛ばすべく起爆させようとし……第二の異変が今度こそ、完全な慮外から襲いかかった。

 仕掛けが、作動しない。
 幾度と魔力を与えようと、体内に置いた爆弾が、湿気てしまったかのように着火しなかった。


「……何故、起動せぬ!?」

 思いもせぬ事態に、自ら侍から退いてしまったのも気にしていられない。
 たとえ首が落ちようとも、融解した炉心が自動的に爆発するようにしてあるのだ。自爆前提の策に解除の手順などあるはずもない。
 だのに炉心の熱は上昇の気配を一向に見せない。逆に段々と機能を冷めさせてすらいるではないか。

 何故、何故──────? 解けない疑問に回す思考を、腹部からの激痛が遮った。
 先程侍に入れられた一太刀。引き抜かれても未だ消えない余熱が肉を炙って煙をくゆらせている。
 その皮膚の下に何があるのかを思い出して、そこでリンボは己の不明を悟った。

「その宝具……退魔の剣か!」

 斬撃の時のみ赤熱化する黒刀。
 おそらくは、魔性の獣を数多無数に斬り殺し続けた経験が補正として刀に乗ったもの。
 人理の輪から逸した化外の種に特効効果を有した宝具が、リンボの術式を阻害したのだ。
 人の皮を剥ぎ、三柱の神を喰らって人類の脅威となったリンボはその判定に含まれる。
 鬼狩りと称した、敵の来歴が詐称なきものだと知る。人狩りの武士なぞより、よほど厄介な手合いだ。

 だがそれだけでは、不発の理由づけには不足している。
 特効を有していれば与えられるのはリンボへの致命傷であるのみのはず。
 不味かったのは武具ではなく、部位。
 刀が貫いた箇所にある、体内の脾臓付近を通る神の器を収めた場所だ。
 魔力を流す疑似神経……魔術回路に傷をつけられた。
 悪霊左府を取り込んで生前より遥かに増大した回路は、魔性特効の範囲内に及ぶ逆効果となってしまっていたのだ。

「莫迦な、有り得ん!

 魔性殺しについてはどうでもいい。単にそのような宝具を有していただけのこと。瞠目するに値しない。
 だがこちらの術式を不発に終わらせた一転。これだけは絶対に認められない。
 見ただけで魔術回路の機能を見抜き、神の器を収めた箇所を看破する?
 初見の、それも戦闘の間合いにあった相手に対してそれを成し、一太刀目で機能を封じる。
 ただ魔術の知識があるだけで実践できるものではない。
 経験則や勘で可能とする技術を身につけたという域を突破している。
 『目に見える生物が透けて見え、筋肉の動きから神経の位置、魔力の発露加減まで読み取っている』でもない限り、そのような芸当は不可能なのだ。

「直に触れたならいざ知らず、見ただけで儂の術の芯を捉えたと!?
 あまつさえ、そんな低級の宝具の差し込みのみで神との接続を不全に陥れるなどと!
 そのような出鱈目、たとえ剣聖であろうと罷り通るものか! そんなものはまるで■■の───────」




 喉から声が失せた。酸欠に喘ぎ口を開閉させる。
 口にした禁句を聞かせまいと、脳が停止した。

 今、何を言いかけた?
 失墜の原点。全霊で藻掻き、足掻き、焦がれに焦がれてもなお止まぬ執着を焼き付けた、何よりも誰よりも憎らしい男の名を、吐き出そうとしなかったか?


「貴様……! 貴様は!」


 迫る死の到来を目前にしながら、リンボは吠える。 
 憎悪と恥辱に塗れた、遊興の戯れとはかけ離れた激情を噴出して。




「貴様は!!! 何だ!!!」




 返礼は、壱斬を以て。
 疾走する火車が、凝固した黒泥を轢き潰す。
 宙を舞う首も、華と咲く血飛沫も、床を汚すより先に塵に帰る。
 刻んだ破壊と惨劇の爪痕、後には何も残らなかった。



 ■



 (間違いなく斬った。だが、手応えがない)

 残心を終え、血を振るい、刀を収める。
 生態の一部にまでなった所作を済ませ、緑壱は討ち取ったばかりの相手を、しかし討ち漏らしたと見做した。

 恐るべき敵だった。
 あやかしの術を自在に使いこなし、多方面にて被害をもたらすことのできる技量と、人の不幸を悦とする性質を備えている怪人だった。
 透かして見えた英霊の体内は人とも鬼とも違う奇怪な構造体が埋められていた。
 本人が呼ぶところの、神なる異物を埋め込んだ影響は人とは呼べない変貌を遂げさせた。
 鬼ですらここまで異様なる改造を施していたのは、始祖の鬼舞辻無惨の他にいない。

 今しがた交戦を交わしたのも本体とは違う。分身、身代わりの類か。
 そもそもその場にいない者を討つ手段を、緑壱は持ち合わせていない。
 自己変革と再定義。分身体への人格付与。
 それほどの才、正しく用いれば、自分などより多くの人を助けられるだろうというのに、何故あのように狂える面を持ってしまったのか。

 だがそれとこの惨事に間に合わなかったこととは関係がない。
 巧妙に隠していた気配に、気づくのが遅れた。そのまま見過ごしていた可能性もあった。
 軟弱。そう嘲られても致し方ない。

(…懊悩に身を委ねる権利など、私にはない)

 自責も、煩悶も、捨てて置く。
 死人たる身で惑うようではただの亡霊だ。サーヴァント、英霊の末席を汚す者として、止まることは許されない。
 この場でできる最善は、ひとりでも生存者を保護すること。魔物の消滅と同時に空間を包む緊張感も霧散している。反響しやすい壁の作りもあって、上階でした足音の位置を如実に教えてくれる。
 歩幅の感覚や体重移動からして童子、十を超えるかどうかの幼子だ。
 聖杯に与えられた知識で、此処が現代の詰所であることはわかる。親とはぐれたところを保護されたか。
 奇妙なことに、聴こえる足取りに迷いはなかった。しかもこれは、速さからして走ってもいる。
 あてもなく助けを求めて迷う者の歩調ではない。何処か明確な行き先が定まった進み方だ。
 気にしながらも追いかけ曲がり角を過ぎれば見つけられるというところで、唐突に足音が消えた。
 立ち止まったのではなく、気配ごとごっそりと消失したのだ。
 只事ではないと先へ踏み出す。赤い印のついた個室の引き戸が開きっぱなしにしてある。中を改めればそこは便所だったが、用を足してるわけでもない。神隠しにでも遭ったかのように姿は消え失せていた。

 備え付けられた姿見に視線をやる。磨かれた鏡面は幽世の住人である自身をも寸分狂いなく映し出している。
 こちら側にはない、この眼でも見分けがつき難いほどの微細な波紋が揺れていた。

「……」

 鏡面へと指を伸ばす。
 触れたところで返ってくるのは冷たい硬質のみ。けれどこの剣士ならば決まりきった摂理の境界すらも障子を破るが如く越してしまうのではないかと抱かせる雰囲気がある。
 現実と虚構とが触れ合い突破する事はなかった。
 触れるよりも先に、聴覚が拾った人の呼び声に踵を返し、即座にその場を去ったからだ。

 鼻孔を刺激する香り。
 耳元で早鐘を打つ蠕動。
 卓犖した五感は目で見るよりもずっと早く克明に映し出す。
 待ち受ける末路を理解しながらも脚を緩めたりせず、縁壱は現場に急行する。


「……」

 手狭な個室に広がるのは、見慣れたくなどなかった光景。
 鬼の報せを受けて向かえば、必ずこのような惨状に行き遭う。
 長閑な日々、慎ましやかでも家族と過ごせる平和。
 小さくとも、この世のありとあらゆる美しいものが、瞬きもしないうちに壊されてしまう。
 鬼が跋扈した時代、世の裏ではこのような悲劇が幾つも起きていたのだ。
 豊かで物に溢れ、大きな争いもなく、親が子を愛し育む、そんな細やかな幸福が許される世界においてすら。

 異なるのは、鬼ならば体を食い千切られるが、個室に横たわる遺体は局所を撃ち抜かれての絶命である事か。
 六人の内の四人は事切れていた。いずれも死因は同じ武器によるものだ。
 一人は脹脛を穿たれていただけで命に別状はないので、手早く処置した。
 おでんと共に災厄に巻き込まれた者を助ける途中で、この街の役人から分け与えてもらった道具が役に立った。

 そして。
 残る最後に。




「え。誰」


 地面に横たわりながら、自分を見上げる透明な瞳と目が合った。

「わ。侍じゃん。すげ。あと六人いるのか、な」

 溢れる声は、寝言かうわ言かのようにか細かった。
 音のしない施設の中にいても早々拾えない。少女の命の残量が、もう録に声を張れないほど示していた。

「……ここには私しかいない。もう、敵はいない」

 足を屈めて距離を近くする。
 音を拾える自分はともかく、少女の薄れた意識ではこちらの声が届かないかもしれない。

「え、そうなの。足りないじゃん、用心棒」
「雇うのか」
「そう、野盗の。守るんだって」
「……? …………………そうか、野盗か」
「ふふっ、なに、いまの間」

 不思議な時間が流れていた。
 噛み合ってるような、合わないような、緩やかな会話が続く。
 とりとめなく、実りのない会話であっても、誰かと話をすることは緑壱の性には合っていた。

「何を守るという」
「んー。お百姓さんとか、貧しき民とか。神も仏もねぇだよって、野盗に襲われそうな」
「そうか」

 曖昧模糊とした喋り口だが、どうやら何かの映画の話を語っているらしい。
 召喚に合わせて付与されたこの時代の知識から検索する。音と映像を記録し、いつでも映し出せる機械。
 どのような話なのか聞いてみたい関心が湧くが、そのような時間は残っていなかった。緑壱にも、少女にも。


「みんなと、雛菜ちゃんは?」
「……」
「─────そっか」

 掠れた声が、更に一回り音階が落ちたのを肌で感じる。

「私も、駄目かな。これ」

 何も答えないのを少女は肯定と受け取ったようで、小さく息を吐いた。
 助かる見込みがあったのなら話も聞かずすぐさま運び出しておでんを呼んでいた。
 出血が多すぎる。視えた傷は、腹腔に二発分の貫通。内蔵も損傷している。痛みすら感じていないのだろう。
 呼吸術を学んだ剣士でも、英霊でもない市政の人では回復する機会も掴めない。少女を見た時から、脱落者の烙印を押されているのはわかっていた。
 とうに意識を失っているのが自然。こうして話ができているのが無用な奇跡だ。

「すまない。私では、助けられなかった」
「え、いいよ。謝らないで。ていうか、来てくれたんでしょ、助けに」

 看取る相手に怒りも嘆きも見せず、少女は穏やかだった。怒る気力もないだけかもしれないが。

「それでも、間に合わなかった。私はまた、しくじってしまった」

 少女の死に行く様を、ただゆっくりと見届ける。
 緑壱が、セイバーのサーヴァントが、最強の鬼狩りが最後にしてやれるのがそんな気休めでしかないのが心苦しくて。
 その気持が伝わったみたいに、少女は動かなくなってきた唇を薄く伸ばして。


「じゃあさ、食べてくれないかな、私を」 


 そんな、奇妙なことを、言い出した。

「なんか、ぜんぜん違ったんだ、ここのてっぺん。
 狭くて、ちっちゃくて、近づいてるって気がしない。登る夢も、ぜんぜん、見なかったし」

 地面を濡らす血糊は、少女の意識を白く霞に包んでいく。
 記憶の前後もあやふやになって、夢でも
 にも関わらず、言葉は続く。息が続く確率は、可能性は、もう残ってないのに。

 緑壱に違和感という名の疑問が芽生えた。
 足を撃たれた女性は痛みのせいか数分前に気絶していた。
 残る四人は絶命している。
 では誰が、緑壱を呼んだのか。階層を隔てて届く声を上げたのは誰なのか。

「こんなになっても、食べてもらえたって気、しないし。
 誰かの一部になれる、そういう輪の中に、入れないのがめっちゃ、めっちゃ、やだなって」

 骨肉から臓器まで透かして見える世界の中で、彼女は完全なる「人間」だった。
 真も偽もない。優劣を競うでもなく、ただそこにいるだけで可能性を見せた。心臓に代わる鼓動と熱をもたらしている器官などその前には些末なものだ。

「だから、ここに来てくれた人なら、いいかなって。
 あげるよ、ぜんぶ。私の」

 言っている意味は、実のところ半分ほどしか理解が叶わない。
 漠然としながらも、それでも言いたいことは感じ取れた。彼女が何を願って、自分に求めているのか。

「……私も、同じく仮初の住人だ。永くはこの世に留まれない。近くに消えることになる」

 なら、この問いに答えなくては。
 末期の痴れ言と流すのも、自らを卑下することも許されない。
 迫られる義務感は、問答よりも戦いの激しさにも似ている。邪法師よりも遥かに強大な激戦を迎えてる気がした。
 故にこそ、あらん限りの誠意と心を込めて。

「だから、それまでの間でよければ、憶えていると約束しよう。ここに確かに存在した、生きていた"誰か"の声を」
「───────────────」

 返事はない。ちゃんと聞こえていたのか、満足したのかどうかもはっきりせず、少女は息絶えていた。
 心臓の音が聞こえなかったのは、いつの頃だったか。








 暫くしてから、生存者を抱えて警察署を飛び出す。
 名も知れぬ少女から、緑壱は命のバトンを受け取った。
 誰かの命を、食べたのだ。




【中野区・中野警察署内/1日目・夜】

北条沙都子@ひぐらしのなく頃に業】
[状態]:健康、軽い頭痛。
[令呪]:残り3画
[装備]:トカレフ@現実
[道具]:トカレフの予備弾薬
[所持金]:十数万円(極道の屋敷を襲撃した際に奪ったもの)
[思考・状況]
基本方針:理想のカケラに辿り着くため界聖杯を手に入れる。
0:鏡面世界を移動中。
1:最悪脱出出来るならそれでも構わないが、敵は積極的に排除したい。
2:割れた子供達(グラス・チルドレン)に潜り込み利用する。皮下達との折り合いは適度に付けたい。
3:ライダー(カイドウ)を打倒する手段を探し、いざという時確実に排除できる体制を整えたい
4:ずる賢い蜘蛛。厄介ですけど、所詮虫は虫。ですわよ?
5:にっちもさっちも行かなそうなら令呪で逃亡する。背に腹は代えられない。

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最終更新:2022年03月08日 22:58