月が、出ていた。


 深夜の空。青色を過ぎ、朱色を超えて、黒色に染まった空。
 人の往来が絶えない下天の街と対象的に、天では既に色が落ちている。
 遥か彼方で光る欠片は、今夜に限って瞬きひとつ見せなかった。
 夜を彩る、イルミネーションの飾られていない、少し寂しい空。
 照明の消えたステージのように暗く、物寂しい天蓋の闇の中でただひとつ己を誇示する、月がある。
 美しく幻想的な光を放って天に鎮座するそれは、あたかも闇を円状にくり抜いて、そこから光が漏れているとも見える。
 静かに月は浮いている。地上の喧騒、夜を忘れ街中を駆け回る人の群れとは関わりを持たず。
 真実に目覚めた者と白痴の夢をかけられる者の区別なく、平等に月は見ている。

 こんな騒がしい夜の時に、逆に見上げているのは自分だけだろうかと、霧子は考える。
 今宵の月は大きかった。輝きははっきりとして、辺りに星が見えないことが光を際立たせている。
 そんな自分の目立つ格好なのが気恥ずかしいのか、顔を半分隠してこっそりとこちらを覗き見ていた。

 上弦の月の形。
 弓張月、ともいった。

(……お月さまも……疲れてるのかな……)

 真円を描いてはいないけど、きれいな月だと霧子は思う。
 もし満月であったなら、いっぱいの笑顔を浮かべていると抱くだろう。
 三日月なら、少しへそを曲げていると感じるかもしれない。
 新月でも、今日はゆっくりおやすみなさいと労いの言葉をかけていた。 

(でも……見ていてくれるんだね……)

 月の満ち欠けの状態を何種類にも分けているのは、それだけ多くの人が月に物語を描いたからだ。
 季節を読み、時の運を委ねる占いに利用し、心象を文字にして書き写す詩歌の題材に用いて、夜毎に変わる姿を楽しんできた。
 ただこの星の上に浮かぶ白いだけの玊は、物語の中では女神になって、そこには兎が住むようになっている。
 昔の誰かが綴るままに続いてきた、誰かの為の物語を聞かせてくれたことが、霧子には嬉しかった。

「……すんすん………………」

 頼れるリーダーの真似をして、鼻をひくひくと動かしてみる。日が落ちても気温が下がらない残暑の、少し湿った空気が鼻孔を通った。
 毎年感じる夏の匂い。けれど今の霧子が欲しかったものではなくて。

(月のにおいは……あるのかな)

 お日さまのにおいは分かる。
 月のにおいとは、いったいどんなものなのだろう。
 お月見をした事もあったけど、そんな風に考えたりはしなかった。

 病院で干したシーツをしまう時に広がる、あたたかく柔らかな太陽の香りとは真逆の、冷たくて、鋭いかたちをしているのか。
 きっと違う。朝と夜を入れ替わるふたつの星は、対比されることはあっても、反発する両極ではないはずだ。
 霧子がそう思ってるだけの、そうあって欲しいだけのものだけど。
 兄弟のように。親子のように。傍にいられなくても忘れたりせずに、何度だって会いに来ている関係であればいいと願って。
 呼吸が整うまで体を休めていたベンチから、ゆっくりと腰を上げた。



 新宿の区内に留まってる霧子の足取りは軽くはない。
 朝に家を出てから皮下医院でボランティアに参加し、ハクジャを伴って摩美々達と話し、海岸に趣き、また新宿に戻ってきた後に梨花と出会ってからあの嵐だ。
 夜になっても続く酷暑さが消耗に拍車をかけて、体力はどんどん削られている。
 うっすらと額に汗が滲んでるが、息を切らしつつも音を上げないのは、ステージの場数を踏んだ賜物か。
 とはいえ身体をベッドに横たえて眠りたい誘惑は、正直に白状してしまえば、大分ある。
 それを足を止めていい理由にしなかったのは、梨花に頼まれたから。光月おでんという人物を探して、助けを呼んでほしいと。
 同じく事情を理解している……らしい七草にちかにも、事情を伝えるようにと。
 にちかとの連絡は済んだ。合間に、合流していた摩美々とも言葉を交わし合えて、少し元気ももらえた。
 気心知れたユニットメンバーと裏表なしに話せるのは、霧子の精神の緊張をほぐしてくれた。

(ふたりの……にちかちゃん……)

 ───界聖杯には、七草にちかが二人いる。
 齟齬のあった認識に摩美々が訂正してくれた真実は、霧子にとっても寝耳に水だった。
 言葉にしてみれば夢みたいな不思議な話、で済ませられなくもないでもないけれど。実情はそう簡単に収まるわけではないらしい。
 自分とまったく同じ、けれど自分の意思には繋がりのない人がいる。驚くし、大変だろう。
 霧子でなくても体験した人は中々いなさそうな話であるので、こちらとしてはいる、という知識を持って対応していくぐらいしか現状できるものはなかった。

 なので気にするのは、裏表ない友人関係でいる摩美々とにあった齟齬のほう。

 花屋での職業体験のこと。新しく事務所に加わったSHHisとの触れ合いのこと。始動し出した全国ライブに向けてのレッスンのこと。
 目まぐるしくなるほどたくさんのお話。一歩ずつ変わっていく、翼を羽ばたかせる物語。
 ただの確認作業、と流したりはできなかった。
 摩美々も一緒に参加して記憶を共有していたはずのそれを聞かせるたびに、電波の先にいる摩美々が、何か噛みしめるように頷いていた想像が浮かんできて。

(摩美々ちゃん……泣いていたのかな)

 鼻をすする音を聞いてはいない。
 涙の落ちる音を聞いてはいない。
 でも、声を聞いただけでも何を感じ、何を思ったのか。その声なき感情(こえ)を拾い損ねてしまったりはしない。
 それはひとりだけで完結する想像ではない。相互のもたらす信頼だ。
 霧子も摩美々も互いを信じ、思い、通じ合っている。そこに疑念という歯車の欠落は見当たらない。

 疑わなくてはいけないのは、常識を思い込み、考えを巡らせるまでもないと思考を放棄してしまうこと。
 霧子の日常を、どうしてか懐かしそうに耽る摩美々。違和感があったのなら、歯車の噛み合いのズレはきっとそこにある。
 少しすれば後で摩美々から正解が明らかになるのだけれど、教えてもらってばかりでは悪いから。
 霧子は霧子で、283プロのことを考えなくてはいかなかった。

「あ……充電、切れちゃいそう……」

 いつ着信があってもいいようにと携帯を出すと、電源の残量が一割を切っていた。
 SNSなどを見ない霧子は頻繁にスマホを確認する習慣がない。朝出た時も充電器を持ち歩いたりせず置いてきてしまった。
 乾電池をはめて使う携帯式の充電器がないか探してみたが、この辺りのコンビニやスーパーはどこも品切れだった。
 新宿の被害が退勤ラッシュの時間帯を直撃したせいだろう。帰宅難民になった会社員達は、ネットカフェで時間を稼ぐ選択肢も先に奪われ電源を確保する手段に追われていた。

 なるべく、早めに目的地に急ごう。適宜に休憩を挟みつつ歩いて、ようやく新宿御苑の外周が見えてきた。
 光月おでんを探す、といっても、梨花からは特定の居場所を教えてもらったわけではない。
 新宿で起きた出来事を見て黙っていられるような人柄ではなく、区内には入ってるはずだろうと仮説を立てていた程度。
 あてがないなりに、災害下で一番新宿で人が集まっていそうな場所として選択したのが、避難所として開放された告知のあった広場だ。
 とにかく目立つ格好であるらしいので、混雑の中でも見分けやすいだろうし、話や休憩するのにも丁度いい。
 本当は避難民に食事を配給する炊き出しの手伝いに参加したいのは山々だったが、流石に今は見送るしかない。


 そこでなんとか上手くおでんを見つけて梨花を助けてもらって。
 摩美々のアサシン、ふたりのにちかも含めたみんなと集まって。
 マスターもNPCも問わない、生存を望む全ての人と、この世界の外へと臨む。
 霧子達283のアイドル、戦いを望まないマスターが元の世界に還れる、霧子にとっても理想の構図。



(……でも………………)

 でも。
 これ以上ない展望が実現しそうになって、希望が見え始めていながら、後ろ髪を引かれる思いが僅かに足を縛り付けている。

(それなら……セイバーさんは……どこに行けば…………)

 サーヴァントが生きていない幽霊、死者の容(かたち)であるのは勿論わかってる。
 寡黙で、厳しくて、そもそも人ですらなくて、むしろたくさんの人を襲って、たくさんの命を奪ってきた恐ろしい鬼。 
 客観的に取り扱えば、他の主従が傍に置くには甚だ危険で、かつ厄介過ぎる劇薬だ。
 夜逃げの算段を立てる集まりが雁首揃えた場で、撫で斬りにしない保証がなけく、最悪は霧子ごと乗船拒否の路もある。

 霧子はそこは気にしてはいなかった。
 令呪で手を出さないよう確約させるとか、契約を切ればいいとか、話せばわかってくれるとか呑気にも訴える気すらもない。


”だって、みんなに受け入れられても、そうでなくても、あなたはまた寒いところに置いていかれてしまうから”


 それは脱出派の集団に好戦的な人物を混ぜ込む不和を危惧してではなく。
 万事全てが上手く行った、その後に、海岸に取り残される孤独を不安してのもの。

 摩美々達のことも、黒死牟のことも、困らせたくない。どちらも掌から零さない選択があったらいいのにと
 優しさとも甘さとも判断はつかない。送る言葉は、受け取る側にも整理や準備が必要だ。
 相手に余裕がなければ、どんな優しくて暖かな気持ちも、上手く伝わってはくれないから。
 もし、どちらかを選ばなくてはいけない、手に抱えるものを捨てる岐路に立たされてしまったなら。
 その時、霧子は、いったいどちらを。

「……!」

 更新された新たな着信のバイブレーション。摩美々からかと画面を見ると、通知にあるのは283の共有メッセージに載った動画再生のファイル。
 そこには。

「…………プロデューサーさん……?」

 この世界では会ったことのなかった、いつも霧子の傍にいた人の顔と声が、ぎっしりとずっしりと詰まっていた。


 ■



 幽谷霧子が目下捜索中の光月おでんは、やはり新宿区内にいた。

 主敵との邂逅、再度の討ち入りを決め込む前の露払いに、区内での救助活動に勤しんでいた。
 実際に、おでんの働きは効果を見せている。屈強な体格から想像される何倍、山をも背負えるのではないかと余人に抱かせる筋力で命を救っている。
 崩落したビルの瓦礫に体を挟まれた主婦を、自動車ほどもある瓦礫を持ち上げて助け、
 扉が湾曲した家に閉じ込めれられた老人を、扉ごと十字に割いて担ぎ上げ、
 強風が呼んだ砂塵に巻かれ泣き喚く児童の群れを、手近な台車でまとめて運び出した。
 SNSでしばしば噂される『義侠の風来坊』の跳梁は、混乱の収束に動き出した峰津院財閥の肝が入った救助部隊に先んじて多くの人命を掬い上げた。
 救助班にしても、個人の民間人……市民登録を受けてるか確証のない根なし草に現場を荒らされて苛立ちがないでもない。
 ただ復旧したばかりのネットワークで頼みの人海戦術の効きが遅く、瓦礫の撤去のための重機を向かわせるのにも時間を食う。
 その間に単独で侵入し、火事もがけ崩れもなんのそのと負傷者を連れて帰り、確保や事情聴取の追求をかける暇もなく次の救助地に走っていってしまう後ろ姿を見れば、微妙な苦笑いと共に目をつぶる他なかった。

 無茶苦茶で、乱暴で、破天荒で、周囲に多大なる迷惑を振りまいて。
 なのに最後には、言葉にならない意気に呑まれて、惚れ込んでしまう。
 もっとこいつの活躍を見てみたい。ずっとこの人についていきたい。
 ワノ国で俗に『おでん節』と呼ばれる、広大な海を渡る舟を思わせる度量を目の当たりにして、それとなく災害現場の情報を教える隊員も、少なからずいた。
 そういう訳で、過去一ヶ月の間、飲み屋の乱痴気騒ぎ以来何かと世話になった警察官からの縁が、おでんを此処に手繰り寄せていた。


「ああ~~~っ!! どうなってんだこの町はよ! 夕方の゛真っ黒くろ介゛といい、ガキを拐うのが流行ってんのか!?」


 おでんは、叫んだ。
 鍋の中でぐつぐつと煮えたぎるおでんに喩えられる怒り。窮屈なれど泰平であった、街の治安に対する困惑への突っ込みだった。
 複数人を住まわせる寮の玄関前に、仁王立ちでふんぞり返る。  
 傍若無人と謗られる割合多しの横柄さ、いつ住居人に不審者の通報を受けるかわかったものではない。
 ただこの場限りでは、その図体は仁王像さながらの万人の守護の証と化していた。


 発端は相棒からの申し出だった。
 宿敵からの言伝を果たし、同じく救命に精を出していた緑壱が、ふと明後日の空に首を向け立ち止まって言った。

『鬼の気配を感じた。私が知るそのものではないが、それに近い魔性の類だ』

 曰く、何らかの術で隠蔽をかけていたらしく、僅かに漏れ出たのを今になって探知したのだとか。
 気配探知の見聞色に突出してないおでんではまるで見当もつかないが状況は理解する、どうやら火事場に紛れてとんだ不届き者が出たらしい。
 止める理由はなかった。竜呼相打つ不可避の激突を控えた身だからといって、目の届く内でみすみすと民草の危機を見過ごすようでは侍の名折れ。
 主の了承を受けるや否や疾風の速度で去った緑壱を見送り、さあこっからは二人分の働きをするかと意気込もうとしたが、待ったをかける虫の知らせが動きを止める。
 同じような混乱に紛れてせせこましく悪事を働く輩が出ないとも限らない。
 盗みぐらいなら拳骨ひとつやれば簡便してやれるが、緑壱が捉えたのと同じく聖杯戦争に絡んだ企てだとしたら、行きがけの駄賃で払える額ではない。
 根拠のない勘任せ。
 しかしおでんの思いつきならばそれは天意にも等しい影響力を持つ。
 倒壊しかかった小高いビルの残骸の天頂に一跳びして、一区を俯瞰できる高所から眼力を集中してみれば、早速捉えた深い"染み"。
 お天道様も眠った街の闇にあって、なおドス黒く穴を穿った殺意の集束地点目掛けて、屋上から自らを射出させた。




 以上が、おでんが283プロダクション所属アイドルの寮施設に飛び込んだ経緯である。
 一般よりも広い家をぐるりと取り囲み、堅気には持ち得ない練度と殺意を放って屋内ににじり寄る集団を見て取った時点で、おでんの行動は完了していた。
 威を孕んだ気を解き放つ。殺意を上回る殺気が意識を撹拌させる。
 覇王色の覇気。王者の資質ともされる特殊な意志の力。彼我の差が激しい相手が受ければたちまち気絶させる強者の特権だ。
 致死には至らず、しかし暫く身動きは取れない塩梅で調節した覇気を飛ばしたことで、敵方の布陣は襲撃前に総崩れとなった。

「しかも襲う方も残らずガキときやがった。どいつもこいつも血走った眼ぇしやがってよ……!」

 撃退はしたが、勝利とは程遠い。口内に砂利とは違う苦味が混じる。
 地べたにへばりつく十数人は、どれも子供ばかりだった。
 おでんから見れば下手な隈取でもしているような、一様に顔面に巻かれたガムテープ。
 統率されていた手際といい、統一されたトレードマークといい。
 大海の狭間でおでんが戦ってきた、旗(シンボル)を掲げた海賊達との記憶と、この子供達が 被って見えた。

「なんてぇ顔だ……笑って地獄に落ちたいってのかよ」

 覇気に当てられて失神こそしているが、顔には張り付いた『狂』の面が取れないままだ。
 剥がれなくなり、顔の一部として癒着してしまって。
 海賊の子供なんて珍しくもない。少年が大志を抱き、遥かな海原へ飛び出すのは大物の証だ。
 だが倒れている子供は、おでんが海を出た頃よりもずっと若い。
 あさひと変わらぬ年頃、元服を越えてすらいない者もいるのではないか。

 彼等の振る舞いは、輝ける憧れを胸に懐く冒険者のそれではない。
 後ろ暗く、影から血と死臭を振り撒く殺し屋のそれだ。

 闇も底も知るおでんとはいえ、これほどまで精神(こころ)を壊された幼子の過去は想像だにできない。
 壊した上で、膿んだ傷を癒やしもせず殺しの技を仕込ませた者の性根も。

「おれが父上にしこたまどやされたのは、単におれが馬鹿なだけだったがよ。お前らにはそれすらなかったのか?
 なあ、どうだい別嬪」
「……」

 独り言かと思えた呟きだが、他の子供達のようにのぼせて倒れない視線がひとつ。 
 こめかみを押さえ、膝をぐらつかせつつも、毅然とおでんを睨み返す。
 黒の長髪、着崩しせずぴしりとセーラー服を纏う、美麗、という言葉がこれ以上似合う少女だ。

「聖杯戦争に一枚噛んでるやつだよな。なんでここを狙う?」

 ゛こっちが言いたい台詞を盗るんじゃないわよ゛。
 『割れた子供達(グラス・チルドレン)』No.2、舞踏鳥(プリマ)は胃液を嘔吐するのを耐えながら、そう突き返したくて仕方がなかった。

 283寮は複数人のアイドルが住まいとし、関係するアイドルがよく出入りしているのは調べがついている。
 半数のアイドルが都外へ出張にいったため残ってるのは二人だけだが、同じ事務所のアイドルなら顔パスで自由に入れる利点がある。
 何らかの事情で打ち漏らしたアイドルやマスター本人が、避難の駆け込み寺として使う目算は高かった。
 よって想定より数が増えても問題なく狩れるよう他のポイントよりも人員を多めに割き、副将である舞踏鳥(プリマ)が出張るまで万全の態勢を整えたのだ。

 だというのに、奇襲の任務(ミッション)は失敗に終わった。
 鉄火場に突如として吹いた颶風が、大男の姿を取って木っ端達を蹴散らした。
 天を突く巨漢。歌舞伎座から出てきた婆娑羅者。都内で風聞する『義侠の風来坊』であるのは明白だ。
 空から人工衛星の破片が落下して脳天に直撃したようなものだ。聖杯戦争に関与しない一般人を屠るだけの簡単な仕事のはずが、とんだ理不尽だ。


「サーヴァントの気配は感じねえ。ならここにいる奴はマスターじゃねえって事だし、おまえらの中にもマスターはいねえ。
 ……だっていうのに何だってここまで大事やらかす? 他でもやってんだろ!? あちこちで火が回ってやがるのもおまえらの仕業か!!
 聖杯も知らねえ!! 戦争も知らねえ!! 殺す理由が何処にある!?」
「そのセリフそのまま返すわよ中年親父(オッサン)。
 聖杯も知らない、戦争も知らない、あんたに守護(まも)る理由が何処にあるの?」

 大見得切って喝破するおでんにも『舞踏鳥』は怯まず言い返す。
 理由はある。マスターが多数潜んでいるのが確定してる283プロダクションを襲って本物を炙り出す、明白の戦術の理由だ。
 マスターでなくても関係者に危害を与えることは、荒事に慣れないアイドルの削りにも利用できる。 
 そしてこれはプリマにしか教えられていないが、あの犯罪卿の善の仮面を剥ぎ取るというガムテの裏の狙いもある。

 翻ってこの風来坊はどうだ。
 一体何の縁があってこの家を守る? 何の目的があって自分達の邪魔をする?
 第一、どうして襲撃が露見(バレ)たのか。よもやあのプロデューサーが情報を漏洩させたのか。
 今回の作戦は当然軟禁中のあの男の耳には入れてないが、どこかでいずれ裏切る腹積もりなのは簡単に読める。
 サーヴァントが"無法(なん)でも可能(あり)"なのはさんざ実証済み。監視の目を掻い潜って援軍を寄越す可能性は、無いとは言えない。

 無いとは言えないとした上で、『舞踏鳥』は違うだろうと推測する。
 携帯はおろか住民票すら持ってるか疑わしい前時代的な服装と言動は露骨に過ぎる。
 とてもじゃないが密偵に向いてる気がしない。こういうタイプは、人質の位置を知ったら前後をふっ飛ばして奪還に討ち入る(カチコむ)手合いだ。
 合図から十五分、犯罪卿の暗躍があったと仮定してもロスがかかりすぎる。迂遠な連絡を経由して間に合う範囲ではない。

「そこで通りがかった! 縁なんざそれで十二分に足りらァ!!」

 ほら、やっぱり。
 睨んだ通りだ。コイツは、自分の意思だけでやって来た。
 多少の縁で全力で報いる。交通事故に割り込んで車の方を大破させる。立て籠もりがあったら正面玄関から突入する。
 そして恩を返して、犠牲者を出さず、力づくて事を丸めて解決してしまう。

 義人であり、武人。
 混沌の渦を生んでいながら、悪に堕ちず、善に生きる。
 だから、奴と私達は交わらないと了解する。
 寄り添い、歩み寄り、抱え込もうとする強さでは、割れた硝子の脆さは扱えない。
 自分を顧みない余裕を持った強い者に、自分以外の何もかもを奪われた弱い者の精神(こころ)は理解(わか)らないし、理解(わか)って欲しくもない。

「いいわ。此処は引き上げる。どうせ一人助けたところで無意味だし。撤収~~~~~!!」

 引き上げを告げる『舞踏鳥』の声に、それまで寝ていた子供達がのろのろと起き上がって、指令に従って退く。

(復帰が早ぇな。ただの町民上がりじゃねえのか?)

 前後が定まらぬ者も多いが足を動かせる程度の意識は戻っている。鍛錬を積んだというだけでおでんの覇気を耐えられるほどの安さじゃない。まだまだ知らないカラクリを隠してるらしい。
 迫害と中傷の煮凝りの晒された成れの果て。
 巨大な後ろ盾を持った事で歯止めの利かなくなった、支配でなく破滅を目的にした悪意の顔。
 ふと、どこかで聞いたような話を思い出した。

「おい」

 背中を見せ去りゆく『舞踏鳥』を呼び止める。
 刺客の中でも抜きん出た司令塔らしきこの女傑に、一つだけ問い質したいことがあった。

「おまえらの大将はカイドウか?」

 女は振り返らない。

「私達の英雄(ヒーロー)は唯一無二(たったひとり)よ。過去(むかし)からずっと、ね」

 そう、誰にともなく、独り言のように嘯いた。


 子供達が全員家から去ったのを見聞色で確かめて、浅く息を吐く。
 益荒男らしからぬ陰鬱を含んだ吐息。目を瞑りながら黙するのは、彼等の『縁』に立ち会えなかった事への黙祷か。
 だがそんな辛気臭い面はすぐさま立ち消え、元のふてぶてしさが面に満ちる。
 『ひ、ひとんちの前でなんばしよっと~~~~~~~~!!!???』と頓狂な声を上げる町娘に軽く侘びを入れてから、地面を強く蹴って跳ぶ。



 一寸の幕間は此れにて閉幕。 
 今宵、迎える大一番。その舞台に向けて、流浪の侍は夜を越えて行った。



 ■



 一陣の風に乗った音を聞いた時、私は自らの魂が爛れ、捻れ狂う結末を予感した。



 何の音がしたのかと、一瞬耳を疑った。
 実体を解れさせ、霊体と化していた状態で外の喧騒とは隔絶された。
 何かを見て娘の慌てふためく声も対岸を挟んでるかのように遠い。
 だが少し遅れて、それが刀を振り抜いて生まれた風切り音だと気づいた途端、空想で出来た胃の腑が火を吹いた。

 鬼を脅かす性質の日輪刀。
 鬼狩りの剣士の気配。
 記憶にある回顧録は点在した情報を繋ぎ合わせ、ひとつの結論を導き出す。
 "いる"と。

 有無を言わさず肉を得た指で無梅の首根っこを掴んで駆け走る。首にかかる指と風の圧で苦しげに喘ぐが頓着しない。

 体を持ったことで、幻覚だった肺腑の炎が現実の熱を伴う。
 灼ける肉の匂いがする。焦げる骨が摩擦で灰になる。腹の臓器がのたうち回って口からまろび出そうになる。
 だがどれだけ業火が我が身を焼こうと足が止まりはしない。たかが地獄より噴く小火、天から降り注ぐ絶滅の光と比較になろうか。

 進む度に五体が燃え盛り、気配が近づくほど目玉が焼け落ちる。
 全身がまさに火達磨になっても止まらず光を目指す。それ以外の命令は脳から抜け落ちた。
 太陽を掴もうと地平に這いつくばるような、永遠の追走。
 しかしこの夜のみに限って天命は我が身に傾き、月光が標となって誘い招く。
 私は進んだ。迷うことなく終着の場へと。 


 木々も草花も烏有に帰した森の跡。
 黒炭の大地。青い死花。あの日と同じ、禍々しい赤い月の下で。
 私達は邂逅を果たした。


「…………兄上」


 立っている。
 揺らめく陽炎の彼方に、網膜に焼き付き離れない往時のままの男が、立っている。
 千里をも見渡す透き通った目。額には炎の痣。
 腰に携えるは、紅蓮の華を咲き誇る鬼滅の刃。
 摂理に縛られた人間の無能を証明する、この世でもっともおぞましい聖者。


 継国緑壱。
 血を分けた我が双子。
 最強の鬼狩り。太陽の具現。神仏の加護を一身に受け、あらゆる鬼の追従を許さぬ窮極の剣士。

 昔日の記憶と寸分違わぬ若い姿は、疑いなく全盛期。
 一手見ずして突きつけられた。否応もなく理解させられる。
 明鏡に達した精神。両肩を押しつぶす圧迫。人世の理を狂わせる領域外の才覚。 
 英霊と昇華された魂を収める器を、界聖杯は完全なる再現を果たしていたと。


「兄上も、招かれていたのですか。
 その、お姿で」

 人通りの波から遠ざかった園の外れで対面した顔は、予想だにしなかったという表情をして、憐れみを見せた。
 生前僅かな機微を一度しか見せなかった弟の、どこかとぼけた面持ちに顳顬(こめかみ)が軋みを上げる。
 内側から体を突き刺す苛立ちと吐き気。当時のまま蘇った往年の怨恨が、皮肉にも目の前の存在が本物であると認めざるをえなくさせた。 

「緑壱…………」

 焼け付き息もままならないかと思えた喉から出た声に、私自身が驚いた。
 まるで末期の到来を間近に察した老爺かのように萎びていた。迫りくる死を、逃れられぬと認めた諦観の念が肺を渦巻いた。
 それが諦め、という名をしているのだと気づき、私は愕然として震えた。

 何故だ。何故諦めなど抱くのかと自問自答する。
 緑壱に追いつくために剣技を磨いていたのではないのか。
 埋めようのない才能の差を補うために鬼になったのではないのか。
 あの時とは違う。あれから四百の月歳を鍛錬に費やした。数え切れない人間を喰らい力を高めた。鬼狩りも柱も幾度となく屠ってきた。
 死という永遠に留まった緑壱と違い、私は進み、勝ち続けた。
 亀の歩みだとしても、費やした時間は奴との距離を縮めた筈。今こそその結実を叩きつけ、明暗を分ける絶好の機会ではないのか。 


 …………いいや。いいや。そんなわけがない。


 そんなわけがないのだ。
 人間の尺度で奴の強さを図れるものか。思い上がりも甚だしい。
 賽の河原でどれだけ石を積もうが天を突く塔など建たない。亀は万年歩こうが地を這うだけだ。追いつく日など無限をかけても来やしない。

 上弦を束ねても勝ちの目は零に等しいあのお方すら、傷一つつけられず敗死寸前まで追い詰められた。
 老いさらばえた寿命で死ぬ寸前でさえ、鬼となった己を一蹴した。
 その、神の御業を最上の威力で放てる状態を保った男に、単騎でどうやって勝つというのか?
 語るでもなし。
 一呼吸の間、たった一合で勝負は決する。天が逆しまに覆そうが変わりはしない、確定した未来だ。

”……そうか。つまり、私は”

 緑壱の強さを手に入れるための戦いで、緑壱を倒さねばならない。
 この矛盾に対面した時点で、私はこの戦争の敗北を飲み込んでいたのだ。


 私をこの場で斬り捨てて、緑壱はこの聖杯戦争を破竹の勢いで勝ち進むだろう。
 いるやもしれぬあのお方も今度こそ逃さず、並み居る英雄を撃ち、強壮なる悪鬼を誅し、神すらも下に置くのだろう。
 そして緑壱は聖杯を手にする。無欲なる者が欲望の盃を掲げる、規定の結末を迎える。

 勝利と報奨を醜く奪い合う餓鬼の群れを、まるで天意だとでもいうように神の御使いが平定する。
 なべて世は事もなし。誰の望みも叶うことなく、聖杯戦争は安寧に幕を下ろす。
 そんなもの、承服できるはずがない。屈辱と敗北感で五臓六腑がねじ切れそうだ。
 だが、勝ち筋というものが一切見つからない。あらゆる足掻きは無意味だ。
 第二の生においても、黒死牟は何も掴めずに死ぬ。生まれた意味を見いだせぬまま。


”ああ…………だが、あの再演だけはまだ…………果たせるのか……”


 赤い夜での別離。
 呪いの始まり。
 頸を落とされず老衰による死で勝ち逃げされた時、私は一切の敗北を許されなくなった。
 最も強き侍に敗れる、最低限の誇りすら持ち去られた恥辱を振り払おうとするなら、勝ち続ける他ない。
 緑壱より劣る剣士に負けるようでは、得た強さも捨てた裏切りも無意味な愚行にしかならない。
 だが今、やり直しの機会が訪れている。
 緑壱との立ち会い。白黒の明暗が分かれた決着。
 取り残された後悔の精算だけは、少なくとも、此処で済ませられる。
 嗚呼ならば、それこそが私がこの戦場に招かれた唯一の───



「あの……セイバーさんの……弟さん…………ですか?」


 悔恨を晴らす決闘の最中に紛れた、雑多な小声が、納得しかけた心境に波紋を打つ。

「ぇと……その………………こ、こんばんは……。幽谷……霧子です…………」

 礼儀正しく身を屈める、空気を読まない娘に、緑壱は律儀にも軽く会釈で返す。
 私と娘とを交互に見合わせながら、暫くして口を開いた。

「その子が、兄上の主なのですか」


 かけられた問いに、何か、今までとは異なる部類の恥辱が全身を回り巡った。


「…………ただの……要石だ…………こんな弱卒…………この身を保つ糧に過ぎん…………」

 黙殺すればよかったものを真っ当に返してしまい、恥を上塗りする。
 困ったような微笑で応える娘がいやに癪に障る。
 また目の届かないところで令呪を切られるのも鬱陶しく連れてきたが、今は枷ごと連れてきたのを後悔した。
 私が消滅すればサーヴァントとの契約を失う。マスターではなくなれば戦いから解放される。
 黙ってれば望みは転がり込んでくるのに、それをわかっていないのか。

「兄上」

 意識が引き戻される。緩みかかった精神を引き絞る。
 指は柄に伸びている。たとえ刹那に散ろうとも、最後まで侍として戦おうと。

「予てより、兄上にお聞きしたい事がありました」

 なのに。
 緑壱は抜きの構えすらせず、いやに神妙な顔を浮かべてそう前置きをした。
 驚くべきことに、口に出すべきかを悩んで言い淀むという見た事のない、人間でいう逡巡の仕草をして。



「兄上。なぜ、鬼になったのですか」


「──────────────────────────────────────────」




















 なんだ、
 それは?





















 何を言っている。
 何を聞いている。
 今更になって、死んだ後の、刀を一振りすれば終わる死合にあって、どの口がそんな駄法螺を吹くのか。

 お前は、私が望まず鬼にされたと思っているのか。
 憎き始祖に無理やりに血を注がれ、鬼へと変じる事への怒りと嘆きを叫びながら変貌したと思っているのか。
 当時の産屋敷の当主の首を斬って、鬼にしてもらう手土産にしたのを知らぬ筈があるまい。
 それすらも、従う他ない、止むに止まれぬ事情があって魔道に堕ちたのだと、そう思っているのか。




 お前はずっと───あの日の私も、そんな憐れなものを見る目で見ていたのか?




「緑壱……っっっ!!!」


 全身を蝕んでいた諦観が、一瞬で極大の憎悪に変換された。
 怒りで血管が破裂して至る箇所で内出血を起こす。青紫に腫れた肌が再生し、また崩れる。
 これ以上なく憎んでいた弟に臨界が振り切れる。心臓を抉るような嫉妬心すらこの時は忘れた。
 視界が真紅で染まる。脳が色をそれしか受け付けない。
 地面も空も焼かれた炎熱の世界で、ひとつだけ燃えないモノ。炎以上の温度で火を寄せ付けない星。

 憎しみだけで殺すのは気持ちがいい。一色で完成した宙はこんなにも爽快だ。
 ああ、矜持も勝敗もどうでもいい。衝き動かすのは殺意だけだ。
 俺にある全てを擲って、あの光を貶めてやる。輝きを翳らせてくれる。
 ただ、あの星を周りと同じ色に翳らせられれば、この乾きは止まってくれるだと譫妄を信じて。

「だめ…………! そっちに……行っちゃ…………!」 

 縋り付く声が横合いからする。聞こえない。煩わしい雑音で酩酊した気分が削がれる。
 この女は、邪魔だ。邪魔ばかりしてきた。目障りな事ばかりしてくるものは、もう要らない。
 雑音に向けて腕を振り下ろす。赤い月が、黒焦げた大地に墜ちた。


 ■



 今度は、間に合うだけ近づいていた。

 警察署で救助した負傷者を、被災者を集めて保護してるという広場の人間に託したところで再会した兄に戸惑いを憶えながらも、躯体は遅延を起こす事なく反応した。
 主である筈の少女に凶刃を向ける兄を、刃が到達するより先に頸を斬るのも可能な範囲だった。

「ぇ…………」 

 掠めた月牙が銀砂の髪を夜空に散らす。
 叩き切られたのは携帯端末のみ。霧子は抱えられて遠ざけられた現実を理解するのに数秒を要した。
 腰元の刀を抜かずに霧子だけを拾い上げた緑壱。不可解な行動は血を分けた肉親への引け目ではない。
 自身の刃よりも先に、上から降ってきた月が黒死牟の刀を受け止めたからだ。

「巨人に腕六本の剣士、龍に鳳凰地震親父……いろんな奴を見てきたが、眼が六つもある奴は初めてだな」

 斬撃を生み出したのが凶つ月なら、防ぐのもまた月。
 光背負う十字。二振りの刀は墜落する三日月に立ち向かい見事に押し返す。
 握る指は野太く。肉の漲りは月すら背負えるほど硬く、大きい。

「何だ……お前は……」
「ぶった斬りに来といてご挨拶だな。だがしかし、聞かれたからには答えて進ぜよう!」

 刀を弾かれ極寒の殺意を放つ黒死牟に負けじと、二刀を構え足を開いて大見得を切る。

「狭い里を抜け、広い海を出て三千里。馬鹿見て歌舞いて鍋の上で大往生。
 そのまま具材の出汁かと思えば、またも窮屈な檻の中。金なし住まいなし甲斐性なし!
 たった一つ残った刀携え、開いた祭りに出向くは一匹侍。無敵の相棒引き連れて、ひとまず狙うは盃で一献、美味い酒!
 ───セイバーのマスター、光月おでんたぁ、おれのことよ!!!」

 枯園に舞い散る花の音頭。
 侘しい避難所を酒場の宴会に盛り上げる謳い手。
 「わあ……!」と感嘆する霧子を囃子に、光月おでんは登壇した。

「で……嫌な気がして来てみたらどういう状況だ。誰だアイツ?」
「私の兄だ。鬼となった姿で限界した」
「んだと? そいつァまた奇縁なこった……」

 生前のしがらみは厄介なもんだと緑壱に向き直った先で、おでんの顔は固まった。

「おでん、下がれ。これは……私がやるべきことだ」

 おでんが来てくれたことは緑壱には僥倖だ。抱える少女が万に一つも巻き込まれる目を摘んでくれる。
 生前を寿命の終わりで討ち漏らしてしまった無念は未だ胸に刻まれてる。
 界聖杯の巡り合わせがどうあれ、これもまた己の役目だ。
 いざ責務を果たすべく出ようとした緑壱の前を、おでんの丸太を思わせる腕が柵になって塞いだ。

「……………………あー」
「おでん?」
「いや、だめだ。悪いがこいつとは俺がやる。お前さんは引っ込んでいてくれ」

「……何」
「何………?」

 異口同音に戸惑う兄弟。
 緑壱は思いもしない主の命に、黒死牟は対戦札を代わるという宣言に、同じ意見を口にした。


「っつってもそう言われて止まるお前じゃねェのはよくわかってる。んで、力づくで止める事もおれにはできねェ。まことに情けねェ話だがな。
 白吉っちゃんやロジャーなら拳骨で黙らせられる事にも、おれはこんな気に食わねえ代物に頼るしねェ」

 後ろ姿のおでんから、薄ぼんやりと鈍い光が輝いた。
 緑壱と黒死牟は、共通した視覚からおでんの体内の意気や覇気とも呼べる活力が賦活し、右手の甲の一点に集約していくのを見て取り。



「もう一度言うぜ。悪いな、緑壱。
 『この試合、お前は一切手を出すな』」



 赤光が眩く闇を灯す。
 個人に収まりきらない莫大な魔力が、おでんの手の内で一気に消費される。
 三角で編まれた月の紋様。サーヴァントとの契約の証にして、縛る戒め。
 自身のサーヴァントに意に沿わぬ命令を従わせる事もできれば、通常では叶わぬ奇跡を行使させる事もできる。
 聖杯戦争の趨勢を担う切り札を、途轍もなく無意味な使い方でおでんは消費したのだ。

 程なくして消えた魔力は、渦巻く風を生んだ後に虚しく消える。
 目に見える大きな変化はない。宝具の開帳も、能力上昇による魔力の波も起きはしなかった。
 変わったのは、おでんの手から消えた一角の令呪。
 そして。

「……ぐっ」

 緑壱の喉から、誰も聞いた事がない苦悶が漏れる。
 不可視の赤い鎖となって、令呪の戒めは緑壱に絡みついた。
 如何に無法の強さを持っていようと、緑壱がサーヴァントである前提に変わりはない。令呪の効果は当然適用される。
 強力な対魔力、神性や霊格に由来する束縛への耐性があれば抵抗の機会を得られるが、剣士として純化されきった緑壱に魔術に抗する術は備わってない。
 降りかかる呪いを剣で斬り伏せる事はできても、契約のラインを通じて流される令呪には斬りようがなかった。

 令呪の効力の強さは、具体的な命令、マスターの能力値、サーヴァントの霊基質量によって増減する。
 その点において、おでんの使用法は的確だった。目の前の戦いに助太刀しないという内容に限定し、縛りを強くしている。
 しかも発動のついでにおでんの自前の覇気も流し込んでいる。
 一定以上の実力があれば『覇王色の覇気』による居竦みは通じないが、令呪で抵抗力を奪った後なら話は別だ。
 令呪と覇気の相乗で撃った『手を出すな』という主の言葉は、緑壱をこの戦場から蚊帳の外に弾き出したも同然にした。


「おでん……お前は……」

 案山子のように立ち尽くすしかない緑壱は唖然とする。
 どれだけ理屈を並べ考えても、この手に及ぶだけの理由が見当たらない。
 主君の破天荒ぶりは一月の連れ合いで理解していた筈なのに、その斜め上を行った。
 大和、銀翼のランサー、カイドウ。東京を廃都に変えんとする猛者を相手取るのは、自力だけでは一手が届かないやもしれぬ熾烈を極めた戦になる。
 おでんも緑壱も命を捨てる覚悟で臨まなければ敗北は必死。それほどの敵なのだ。
 その時のためにこそ、令呪の支援は必須だった。魔術師ならずマスターと神秘に触れぬサーヴァントといえど、与えられた聖痕は一律に使える。
 それを、まさか勝たせるのではなく戦わせない用途で用いるなぞ、どうして想像できようか。


「おい緑壱。
 お前、自分がいまどんな顔してんのかわかってんのか?」

 当惑のままにいた緑壱に、さらに投げかけられる不可思議な問い。
 そう言われても顔を歪めてる自覚がない。手で頬を撫ぜてみても、表情筋に強張りはない。
 傍から見ている黒死牟にも、変わらぬ鉄面皮を保ったままとしか映らなかった。
 ……ひとり、気遣うような瞳で緑壱の顔を見上げている霧子を除いては。

「何が最強の鬼狩りだよバカタレが。今にも泣き出すガキみたいな顔しやがって。あさひ坊といい勝負だぜ。
 そんな顔をしてるやつを───このままおれが戦わせると思ってんのか?」

 沸々とした、風呂釜の湯が置かれたような錯覚。
 白煙が元より大きな背中を何倍にも膨張させる。
 漠然と、茫洋としたものでしかないが、どうやらそうらしいと推測する。
 おでんは今、怒ってる。緑壱の顔に。いいや、緑壱が黒死牟と戦おうとしてる事に、何やらとても腹を立てている。
 父に疎まれ、母に愛され、鬼狩りには畏敬の言葉のみ送られてきた緑壱には、友の空洞を指摘する叱咤であると気づけない。

「文句がありゃ言ってくれ。酒の席で好きなだけ聞いてやらあ。
 まあ、あれだ、とんだバカ殿を引いちまったと観念してくれりゃあ、助かる」

 ずんずんと歩くおでんは止められない。
 令呪による拘束より前に、この男はもう止められないのだと肌で感じた。
 最早こうなっては全てを見届けるしかないと腹を決める。兄のマスターにも手振りで下がるよう制して。


「さて、と。待たせたな兄ちゃん。そいじゃ始めようかい」

 誰何の兄であった鬼の前に立って、云って、一笑い。
 抜き身の刀を持ったまま二人の遣り取りを見入るだけだった黒死牟に、ようやくおでんは話しかけた。

「……何の……つもりだ…………私に施しでも…………しているつもりか……」
「お? なんでえなんでえ、口に出さなきゃわからねェってか? 粋じゃねェなあ。弟とそういうとこは似てんだな。
 こう言ってんだよ。『あいつと戦いたいなら、まずはおれを倒していきな』ってな!」

 遂に見えた望外の展開を、あらぬ方向に捻じ曲げられた。
 熱くたぎった熔鉄を呑んで、腹に溜め込まれていく。炎獄のごとし怨毒が黒死牟の手足を痺れさせ、脳に回る。
 度し難き乱入者。自分と緑壱の間に割って入って、あまつさえ取って代わったうつけ者に残り火が鎌首をもたげる。

 マスターでありながら英霊の粋に至った剣腕を持っているのは、最初から視えている。
 それがどうした。英霊に抗せる技量の強者、生まれつきの天才がいる前で惜しむものではない。
 この日だけを待ち望んでいた。灰になるまで焦がれ続け、泡沫の二度の生を迎えてまで願った相対なのだ。 
 腕が立つ程度の、何処の馬の骨とも分からぬ侍が阻んでいい決闘では断じてない。

「────────────では……そのまま死ね」

 湧き上がる月輪。
 黒死牟の意思をこれ以上なく表す、夥しい数の斬撃が群れをなして飛びかかる。
 倒せというなら是非もない。瞬くうちに殺してやろう。
 乱れきった心を無関係に、月を呼ぶ息吹は変わらぬ機能を発揮する。



 第一。
 この男は絶対にしてはならないことをした。
 緑壱を跪かせるという、見てはいけないものを見せた。
 令呪の機構を理解していてなお、縛られる緑壱の姿を晒したことが許しがたい冒涜だ。
 頸を落とすだけでは釣り合いが取れない。四肢を削ぎ”はらわた”を残らずぶち撒けてから殺してやる。
 振りかざす刀が、弟の才への嫉妬心以外の理由が混じっていることの自覚を持たぬまま先手を見舞った。

「死なねェよ。惜しむ命なんざもうないが……おれはまだ死ぬわけにはいかねェんだ」

 おでんは怯えも動揺も見せず型を取る。
 腹がふくれるほど、大きく息を吸う。大道芸にあらず、取り込んだ空気は脳内から指先足先の隅々まで行き渡り血の巡りを加速させる。

(まさか─────────)

 不格好なれど、その動きはよく知っている。
 常に鬼の前に現れる剣士が体得している術。己も学び、今も怠らず常用してる、太陽を登る階の一段目。



「”全・集・中”!!!」



 吐くと同時に隆起する上腕二頭筋。
 練り上げられ、この先はないというほど高められた体が、新たな地平へ身を乗り出す。

「”おでんの呼吸 壱ノ具材”」

 腰を深く落とし、二刀を水平に。
 構える腕が、握られた刀身が、黒曜石色に”武装”を纏う。
 守りの型はない。弦が切れるまで引き絞られた強弓のように、解き放つのみ。


 刮目せよ六眼。
 神妙にして見よ。
 この一閃こそ人の夢。鎖された牢獄を破る意思を伝えた鏑矢。



「”桃源白滝”!!!」



 通過する横一文字。
 動く山と形容される威容の神獣すらも叩き割る至大の剣撃が、囲い込む月輪を羽虫の如く撃ち墜とす。
 受ける黒死牟。刀身が半壊しながら頸への到達を免れるが、殺しきれない衝撃で足が浮き、踏ん張りが効かず後方へと吹き飛ばされる。

 振り抜き終え、地に立つはワノ国の剣豪。
 お披露目された新境地は、取りも直さず、鬼の膂力を上回る超力を繰り出した。




「感謝する。
 俺はまだまだ、強くなれる」

 相克する禍月と光月。
 夜空に双つの月は不要と、互いの輝きを否定し合うように光を強める。
 戦う必要のまるでない、だが絶対に避けてはいけない剣豪の勝負が始まった。



【新宿区・新宿御苑避難所の郊外/一日目・夜】

【幽谷霧子@アイドルマスターシャイニーカラーズ】
[状態]:健康、お日さま
[令呪]:残り二画
[装備]:包帯
[道具]:咲耶の遺書、携帯(破損)
[所持金]:アイドルとしての蓄えあり。TVにも出る機会の多い売れっ子なのでそこそこある。
[思考・状況]
基本方針:もういない人と、まだ生きている人と、『生きたい人』の願いに向き合いながら、生き残る。
0:黒死牟さん……そっちに行っちゃ……
1:色んな世界のお話を、セイバーさんに聞かせたいな……。
2:病院のお手伝いも、できる時にしなきゃ……
3:包帯の下にプロデューサーさんの名前が書いてあるの……ばれちゃったかな……?
4:摩美々ちゃんと一緒に、咲耶さんのことを……恋鐘ちゃんや結華ちゃんに伝えてあげたいな……
[備考]
※皮下医院の病院寮で暮らしています。
※"SHHisがW.I.N.G.に優勝した世界"からの参戦です。いわゆる公式に近い。
 はづきさんは健在ですし、プロデューサーも現役です。

【セイバー(黒死牟)@鬼滅の刃】
[状態]:焦瞼
[装備]:虚哭神去
[道具]:
[所持金]:なし
[思考・状況]
基本方針:緑壱の強さを手に、いやもう意味はない。ただその御業で頸を落としてくれれば、そんなことはない聖杯があれば超える強さを、
0:私の邪魔をするな。
1:私を見るな。
2:私を憐れむな。
3:私に触れるな。
4:何故……………お前は……………………。
[備考]
※鬼同士の情報共有の要領でマスターと感覚を共有できます。交感には互いの同意が必要です。
 記憶・精神の共有は黒死牟の方から拒否しています。


【光月おでん@ONE PIECE】
[状態]:全身にダメージ(中)、右肩に刀傷(行動及び戦闘に支障なし)、疲労(中)、呼吸術習得
[令呪]:残り二画
[装備]:なし
[道具]:二刀『天羽々斬』『閻魔』(いずれも布で包んで隠している)
[所持金]:数万円程度(手伝いや日雇いを繰り返してそれなりに稼いでいる)
[思考・状況]
基本方針:界聖杯―――その全貌、見極めさせてもらう。
0:緑壱のためにも、このバカ兄貴をぶん殴る。
1:他の主従と接触し、その在り方を確かめたい。戦う意思を持つ相手ならば応じる。
2:界聖杯へと辿り着く術を探す。が――
3:カイドウを討つ。それがおれの現界の意味と確信した。
4:ヤマトの世界は認められない。次に会ったら決着を着ける
5:何なんだあのセイバー(武蔵)! とんでもねェ女だな!!
6:あの変態野郎(クロサワ)は今度会った時にぶちのめしてやる!
7:あさひ坊のことが心配。頃合を見て戻りたい
[備考]
古手梨花&セイバー(宮本武蔵)の主従から、ライダー(アシュレイ・ホライゾン)の計画について軽く聞きました。
※「青い龍の目撃情報」からカイドウの存在を直感しました。
※アヴェンジャー(デッドプール)の電話番号を知りました。
※廃屋に神戸あさひに向けた書き置きを残してきました。
※全集中の呼吸を習得してました。

【セイバー(継国縁壱)@鬼滅の刃】
[状態]:疲労(中)、全身各所に切り傷や擦過傷(いずれも小程度)、令呪による拘束
[装備]:日輪刀
[道具]:なし
[所持金]:なし
[思考・状況]
基本方針:為すべきことを為す。
0:この戦いの結末を、見届ける。
1:光月おでんに従う。
2:他の主従と対峙し、その在り方を見極める。
3:もしもこの直感が錯覚でないのなら。その時は。
4:凄腕の女剣士(宮本武蔵)とも、いずれ相見えるかもしれない。
[備考]
※鬼、ひいては鬼舞辻無惨の存在を微弱ながら感じています。
気配を辿るようなことは出来ません。現状、単なる直感です。



時系列順


投下順


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090:sailing day 北条沙都子 104:力と銃弾だけが真実さ
アルターエゴ(蘆屋道満)
092:Hello, world! ~第一幕~ 幽谷霧子 103:真月潭・月姫
080:てのひらをたいように(前編) セイバー(黒死牟)
090:sailing day 光月おでん 103:真月潭・月姫
セイバー(継国縁壱)

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最終更新:2023年03月18日 00:46