処、七草にちかの住まうアパートにて。
集った彼女達は今、現在進行形で現実の壁の分厚さに直面していた。
普段は笑顔を振り撒きファンを魅了するその顔も今ばかりは芳しくない。
田中摩美々によってにちか達へと齎された情報はどれ一つ取っても楽観視を許さぬ情報ばかり。
絶望的。否破滅的と呼んでも決して誇張ではない程の事態が彼女達の周囲を取り巻いていた。
第一に
プロデューサーの拉致。
衝撃も冷めやらぬ内に他ならない彼自身によって発された声明。
素性不明の男"DOCTER.K"が放ったリークは283プロを立派なパブリック・エネミーに仕立て上げ。
挙句の果て、今まさに自分達には襲撃者の凶手が伸びようとしているというのだ。
まさに急転直下。
刹那の内に状況は最悪へと転び、少女達は為す術もなくそれに振り回されていた。
“…不味いな”
あらゆる意味で不味い。
旗色が悪い等という次元ではない。
アシュレイ・ホライゾンは顔を顰めて心中そう呟く。
先ず第一に、戦況の変化があまりにも速すぎた。
新宿を襲った怪物共の決戦が全てを変えた。
あれを呼び水にしたかのように次は豊島区が惨禍の舞台になった。
最早悠長に策を捏ね回している側が損をする、聖杯戦争はそういうステージに移行してしまっている。
そして自分自身を含めたこの"283陣営"はその変化にものの見事に乗り遅れてしまったと、そう言わざるを得ない状況であった。
“ああ、それ以上に気に入らない。はいそうですかと屈してやれるわけがないだろう――こんな現実(こと)に”
まるで自分達の。
この場に居る弱く儚い、しかしだからこそ強く眩しい少女達の生き様と物語を否定するような。
そんな現実に、運命の車輪にアシュレイは寧ろ強く反骨心を燃やした。
膝を屈し諦める事はこの世の何より簡単だが、それをさせない為に自分が居る。
灰と光の境界線(
アシュレイ・ホライゾン)は自己のオリジンを振り返り反芻しながら、重苦しい空気を切り裂くように口を開いた。
「俺達が見なければいけない当座の敵勢力は三つだ。
優先度順に挙げると割れた子供達、皮下医院の残党、そして峰津院財閥。
脅威度で言えばこの順の限りじゃないが…俺達に最も近く、それ故最も危険な陣営は間違いなく割れた子供達だろう」
「……」
「なるだけ急いで分析とプロファイリングをする。俺はW(あいつ)程頭が良くないが、それでも昔取った杵柄が多少はある。
その上で備える事が出来ればこっちからカウンターをかまして切り抜ける事も――」
「…いいですよ、ライダーさん。無理でしょ、絶対。私にだって流石に分かりますよ。今回ばかりは無理だって……」
アシュレイの言葉を遮ったのは七草にちか。
彼のマスターである方のにちかだった。
その声色は重く、そして暗澹とした感情に満ちている。
「まだ逃げた方が現実的じゃないですか。無理に抵抗しようとしたって、そんなの…!」
「……ああ、そういう事か。さてはマスター、先刻送られてきたメッセージを気にしてるんだな」
「…えぇそうですよ! 何処の誰だかも分かんない人が送ってきたあの厭味ったらしい文章!
性格の悪さが滲み出るような、アンチのツイートみたいな文面でしたけど……でも今ばかりは正しいでしょ、悔しいですけど……!」
「見誤るな、マスター。それを送ってきた奴は恐らくあのリンボと同種の人間だ」
にちかの脳裏に甦るのは夕刻、電車の中で相対した禍々しい悪僧だった。
悪意と嗜虐性に塗れた…もといそれしか無いような存在だったのを今でも覚えている。
というか忘れたくてもそうそう忘れられる相手ではない。
あれは間違いなく七草にちかがこれまで過ごしてきた人生のレール上には登場しなかった類の人物(キャラ)であったから。
「憎悪…というよりは嫌悪だな。多分根っこの部分は人種差別とかそういうのと一緒だ。
削りとかそういう次元の以前にただ気に入らないから送ってきただけの文章。要するに気晴らしの挑発だよ。まともに受け取れば思う壺だ」
283プロ、或いはアイドルという人種(ジャンル)そのものに対しての嫌悪。
それがこれでもかと滲み出た文章だったとアシュレイはそんな感想を抱いた。
リンボ程老獪ではないにしろ、加虐で装飾した物言いをしてくる点ではよく似ている。
明らかに此方に対して悪意を抱いている相手だという事実は見過ごせないが、しかし今は正直な所考える価値の低い相手だ。
その事をにちかに、そして彼女以外のこの場に居合わせた全ての人物に対しても周知させておく。
「ていうか、私達が焦ってもしょうがないでしょ。私達で思いつくような浅知恵、この人が思いつかないわけないと思いません?」
「ぐぐっ…うっさいですね……。口挟んで来ないでくれませんか。ライダーさんは私の、わ、た、し、の、サーヴァントなんで!」
「あーごめんなさいごめんなさい。あんまり見当違いな事言われちゃってるライダーさんが可哀想だったのでつい口挟んじゃいましたー」
「いちいち角立たせないと会話出来ないんですか!? 嫌われますよそういう人は」
ぎゃーぎゃーと言い合いを始める二人の"にちか"に思わず笑みが溢れる。
辿った人生の違いで随分と人間は変わるものだなとそう思わずにはいられない。
どちらが良いとか悪いとかではなく、この状況ではその違いが頼もしかった。
意外と面倒見が良い方なのだろう。
今のも口は悪いし確かに角は立ったが、もう一人の自分に対する粗野な助け舟であった事は想像に難くない。
辛い現実と運命の悪戯に翻弄されながらそれでも生きていこうとする少女の強さ、そしてしたたかさ。
そういうものを感じ取りつつアシュレイは
田中摩美々へと水を向けた。
「そういえば田中さん。アサシンからの連絡は何か来ていないかな」
「…特には。でも――あの人もあの人で、ちょっとリラックス出来たみたいですねー」
「はは。……なら良かった。あの手の人種は肩肘張ってない状態が最高のコンディションだからな」
これは
アシュレイ・ホライゾン個人のプロファイリングだが。
摩美々のアサシンには、兎に角真面目な奴という印象を受けた。
抱え込み背負い込み、それでも表情を変えず一人闇に姿を投じてしまうタイプ。
彼の能力は信頼しているが視野の狭窄というのは存外に恐ろしいものだ。
どんな軍師でも策謀家でも、余裕の無さは即ちミスに繋がる。
気合や根性で全て解決してしまえる馬鹿とは違い…彼らにはそれが出来ない。
一度のミスが泥濘のように足へ絡み付き何処までも付いて来る。彼らはそういう世界で生きている。
そんなアサシンだったが――摩美々は彼がリラックス出来たようだとそう言った。
であればもう何一つ心配する必要はないだろう。
解き放たれた身軽な頭脳屋程頼れるものはない。
大船に乗ったつもりで次の連絡を待てば良さそうだなとアシュレイはそう独りごちた。
「…ていうかもう一人の私。そっちのアーチャーさんは何処行ったんですか? いつの間にか居なくなってましたけど」
「あー…何かやる事があるとかで出ていきましたよ」
「やる事……。あーあー、何かすっごい嫌な予感します。今の内に心の準備済ませておいた方が良さそうな!」
床に足を投げ出してヤケクソ気味に叫ぶにちか(騎)。
そんな二人の姿を見てふとアシュレイは思った。
“…あっちのにちかは話を聞いてる筈だけど。まあ確かにうちのにちかには伝えないでおいた方が良さそうだな”
何しろこっちのにちかは良くも悪くも率直だ。
下手に事前知識を持っていると相手方に気取られてしまう可能性が捨て切れない。
その辺りまで理解しての事なのかと思って見つめていると、当の"七草にちか"と目が合う。
ふっと小さく笑うその顔を見て、アシュレイは「つくづく逞しい子だな」とそんな感想を抱くのだった。
――舞台を降りた七草にちか。
彼女の住まうこの辺鄙なアパートが惨劇の現場に変わり果てたのはその数分後の事である。
「…!? ちょ、はぁっ……!?」
壁を突き破り、天井を踏み破り。
文字通りの四方八方から室内に雪崩込んできた軍団。
人間を逸脱した膂力脚力で籠城の拠点へと突入してきたガムテープ面の子供達。
狂気の笑みを浮かべた彼らの襲来はしかし、アシュレイに言わせれば予想通りの展開でしかない。
「舌を噛まないようにしてくれ。吹き飛ぶぞ」
そんな端的な警告だけが辛うじて聞こえて。
それに誰かが何かを問い返すのを待つことなく"それ"は起きた。
これから惨劇の現場となる筈だった狭い部屋が、文字通り木端微塵に吹き飛んだのだ。
爆発。炸裂。大爆発。
閃光と爆音の中で偶像のにちかは何が何だか分からぬまま「ひゃああぁあああああああ――っ!!??」と絶叫するのであった。
◆ ◆ ◆
"これ"は、メロウリンク・アリティとの相談で決めた迎撃の布石だった。
アシュレイの星辰光を活用した感知式の地雷原。
サーヴァント相手の効き目はたかが知れているが、いざという時に離脱の隙くらいは作り出せる。
一応は家主である方のにちかには事前に相談を済ませ了解を得てもいた。
とはいえそれは裏を返せば、そうでない方のにちかには一切話していなかったという事であるのだが。
「――なんてことしてるんですかーっ! し、しし、死ぬかと思ったんですけど!」
「大丈夫。元は俺の星辰光だからな、身内には無害になるように調整してある」
「そういう事言ってるわけじゃなくてですねえ!」
そう、あれだけの爆発であったというのににちか達は傷一つ負っていない。
逆に攻め入ってきた刺客達は全身に火傷を負い見るも無残な有様だ。
付属性に長けたアシュレイだからこそ出来る、身内にのみ無害なブービートラップ。
尤も音や閃光は普通に凄まじいのでこの通りにちか等は心臓が口から飛び出そうな程驚く羽目になってしまった。
「…流石にびっくりしましたー。私からも後で抗議させてくださいねー?」
「いや、悪いとは思ってるんだ。ただ出来る限り敵方に感知されるリスクは避けたくてな」
げっそりした顔で言う摩美々に謝罪しつつアシュレイは敵を見やる。
不意の爆風と衝撃で焼き払われた肉体はスプラッターに片足突っ込んでいたが、驚くべきはその傷が既に再生し始めている事。
少女達の前に躍り出て剣を振るい、彼らの振るう凶器を受け止めるアシュレイだったがその表情には怪訝さが宿っていた。
明らかに人間の機動力とスペックではない。
特に再生能力が異常だった。
全治数ヶ月は優に必要とする上、治ったとしても全身にケロイドが残るような大火傷だったというのに、それが今となっては痕跡一つ見えない。
“肉体への付与(エンチャント)…いや、もっと直球の肉体改造か? 何にせよ狂気じみてるな”
肉を焼かれ吹き飛ばされたというのに彼らは一様に狂ったような笑顔を浮かべており。
それが一斉に奇妙な程の統率で攻めて来る光景は実に異様なものだった。
しかし、あくまでも"超人"…人間の延長線上に収まる次元でしかなく。
サーヴァントであるアシュレイにしてみれば捌く事はそれ程難しくはないのが幸いであった。
敵を一体また一体と捌き、ないし再生不能になるまで焼き払って減らしていく最中に鋭い銃声が響く。
敵一人の首が着弾の衝撃に耐えられず千切れて空を舞った。
振り向けばそこには騒動を察知し駆け付けたらしい"もう一人"のにちかのサーヴァント、メロウリンクの姿がある。
「…驚いた。そんなもの何処に隠してたんだ?」
「アサシンに武装の工面を打診されてな。折角なので大分無茶をさせてみた」
「そりゃ頼もしい。状況の説明は要るか?」
「不要だ。この有様を見れば大方は分かる」
メロウリンクは、恐らく軍用であろう大型バイクを駆っていた。
不安定な体勢で見事な即殺の射撃をかましてのける辺りは流石だったし、彼にこれを貸与した男のコネクションの幅にも今更ながら恐れ入る。
「一体一体は弱いが、数が多いな」
「ああ、しかもやたらと頑丈だ。屍兵(ゾンビ)の群れを相手にしてる気分だ」
「まともに相手をしてやるのは愚策、だな」
メロウリンクはそう言ってひょいと自分のマスターを抱え上げた。
「わ、ちょっ」と戸惑うにちかを自分の前へと載せる。
それから
田中摩美々…アサシンのマスターである彼女に視線をやった。
「お前もだ、
田中摩美々。これからこの場を抜けてアサシンと合流する」
「…りょーかいです。流石に合流するの待ってられる状況じゃないですもんね」
「そういう事だ。そこでお前にはアサシンに念話で指示を仰ぐ役を頼みたい」
「分かりましたー。正直上手く出来るか解らないですけど、やれるだけやってみます」
その光景を見ながら七草にちか(偶像)はぼんやりと嫌な予感を抱いていた。
これは間違いなく、自分はアシュレイに抱えられて直接の高速移動を体験する羽目になる展開だろうと。
この中では頭の回転が一番遅い彼女にも流石にそのくらいの察しは付いたらしい。
とはいえこの状況で我儘を言う気にもなれず、いっそ最初から最後まで目を瞑っていようっと…と一人切ない覚悟を抱くのであった。
「か、かかか、覚悟はしてましたけどっ! それにしてもちょっと飛ばしすぎでしょ、これえぇぇえええええ――――!?」
が。そんな涙ぐましい等身大の覚悟などいざ始まって見れば瞬く間に霧散するのがオチだった。
何しろ速い。そしてとんでもなく粗い。
メロウリンクはライダークラスであるとはいえ法定速度を倍以上超過した死のドライブだ。
それ振り回される摩美々達もトラウマ物の騎乗体験だったろうが、もう一人のにちかの方は更に酷い罰ゲームを味わされていた。
アシュレイに抱きかかえられながら時速200km近いハイスピードに追随させられているのだから当然である。
三半規管を洗濯機に突っ込まれて回されるような地獄の加速にもう脳はぐわんぐわんと目眩で埋め尽くされている。
止まったら百パーセント吐くと確信しながらも、しかし状況が状況な為さすがのアシュレイも今ばかりは彼女に情けをかけられない。
「悪い、もう少しだけ我慢してくれ。後あんまり喋らない方がいいぞ、舌を噛んだら事だからな」
「う、ううう、うっさいです――っ! ダッシュでバイクに付いてく人がありますかこのおたんこなす――――!!」
摩美々さんはこの状態でちゃんとナビ出来てるんだろうか…。
そんな疑問を思わず抱いてしまいながら、にちかは目を閉じて早くこの地獄が終わるようにと祈りを捧げる。
文句を言うのは危ないので潔く諦めたらしい。
後は停まる前に色々撒き散らして、乙女の尊厳を捨てる羽目にならない事を祈るばかりだった。
時に。にちかにしてみれば兎に角災難の一言だったが、この暴走が逃走行為である事を踏まえると成果は挙がっている。
さしもの刺客…"割れた子供達"もこのレベルの超スピードには付いて来られなかったらしく今や振り向いてもその姿は確認出来ない。
鉄火場からの離脱には成功。
後はアサシンとの合流さえ果たせれば、無事死線を一つ切り抜けられた事になる。
そしてその事は――どうやら事が丸く収まりそうだという認識は、目下スピードの世界の中で撹拌されているにちかの中にもちゃんとあった。
“でも、でも…! 着いたら絶対文句言わせて貰いますからね……!”
ぼろぼろと涙が零れては風で蒸発していく中、にちかはそう胸に誓う。
いくら何でもこれは酷い、女の子を何だと思っているのか。
でも実際に文句言ったら言ったで真摯に謝られてまたもう一人の私にやいのやいの言われる事になるんだろうなぁとか。
あれこれ考えながら、騒動が一段落した後の自分達の姿に思いを馳せるにちか。
そんな中彼女は不意に、ふわりと身体が浮き上がるのを感じた。
「へ?」
目を開けると、本当に体が宙を舞っていた。
え。
何。
どういう事?
問いかける声を出すのもままならず、七草にちかの華奢な体は硬い地面に容赦なく投げ出されてしまう。
「――!」
…にちかはこの時。
確かに"痛い"と叫んだ筈だった。
しかしその声は彼女自身の耳にすら届かない。
もっとずっと格上の、もしかしなくてももう一人の自分のアパートが吹き飛んだあの時よりもずっと大きな。
轟音と閃光が轟いて、七草にちかの発する声もその他世界に満ちる景色や物音の何もかもを鎧袖一触に消し飛ばしてしまったから。
何も見えない、聞こえない。
そんな白と無音の世界の中にしかしただ一つ。
ただ一つ、はっきりと轟く音が一つあった。
「処断の時だ。羽虫めら」
◆ ◆ ◆
七草にちかを放り出したのは他でもないアシュレイ自身だった。
彼とメロウリンクの二人は少女達に先んじて"それ"の接近を認識した。
だがそれも、事が起きるほんの二秒前。
遥か先に気配を感知してから僅か一秒にしてそれは283逃亡軍の目前にまで接近を果たしたのだ。
かの者の気配に対し、二騎のサーヴァントが見たビジョンは各々異なる。
アシュレイは炸裂する超新星を見た。
メロウリンクは自分の隣に着弾した爆弾が爆ぜる死の錯覚を見た。
共通しているのは途方もない死の気配。
逃れ得ぬ、どう努力した所で全てが無意味に終わると本能で確信してしまう程の何か。
戦慄は声になるのを待たず現実的な衝撃となってその場に居合わせた全員を襲った。
どうにか彼らはそれぞれ、少女達が致命傷を負わないように逃がしの一手を打ちに走りはしたものの…しかしそれが限界。
順調に見えた逃亡劇は常軌を逸した暴力という名の破滅に横殴りにされ、呆気なく此処で行き止まりと相成った。
“何だ…こいつは……ッ”
アシュレイの脇腹は抉れ血を流している。
それでも致命傷ではないのが幸いだった。
刀を構えて、未だ状況を呑み込めていない少女達の前に立ち襲撃者と相対する。
襲撃者と一口に言っても、先刻アパートにやって来た小兵達とは比べ物にもならない。
絶望という概念が人の形を描いたような圧倒的な存在感を持って、その男は爆心地に独り立っていた。
「元より期待はしていなかったが…こうも見窄らしいものか。狡知の掌で踊る猿共というのは」
「…そりゃ、また――随分な辛口評価をどうも」
よく出来た彫刻のような男だった。
荘厳でありながら力強く、しかして神聖さだけは何処にもない。
ただ其処に立っているだけで他の全てを圧倒し平伏させる覇者の気風。
人の形をしている事が何かの冗談にしか思えないような規格外の存在圧。
故にアシュレイは、否彼だけでなくこの場に居合わせた全員が理解させられた。
自分達を羽虫と称したのは決して挑発や厭味ったらしい嗜虐等ではなく。
この男にしてみれば単に事実を述べただけでしかないのだろうと、そう悟らされた。
「狡知と言ったな。その言葉には心当たりがある」
これと戦ってはならない。
戦えば、大袈裟でなくこの場の全員の命が飛ぶ。
かつてない重圧に晒されながらもアシュレイは自らを鼓舞するように一歩前へと出た。
幸いだったのは、理解不能の存在と思われたこの美丈夫が"狡知"というある種解り易い言葉を吐いてくれた事。
付け入る隙があるのならば、それを逃してはならない。
背中をべっとりと冷や汗で濡らしながら、それでもアシュレイは自らの務めを果たさんとする。
「矛を収めてくれないか。そうすれば俺達に可能な限りで、お前の要求を――」
「そうか」
そんな彼が次に覚えたのは会心の手応えではなく。
自身の腹部から背中にかけてを突き抜ける強烈な衝撃と熱だった。
体が真上へと浮かぶ。
殴り上げられたのだと理解したのはコンマ数秒の後。
そして理解が追い付くなり、骨の砕ける激痛と肉が裂ける激痛、内臓という内臓がひしゃげる死にも等しい苦悶が彼の全身を蹂躙した。
「ぐぁ、が…ぁ、ッ……!?」
「ならば要求する。疾く死ね」
魔人が取った行動、それによって起こった事はそう大したものではない。
距離を詰め、アシュレイの腹を自らの拳で打ち抜いた。
拳圧は彼の肉体を一瞬で生命活動続行不可能の状態にまでシェイクし、受け切れなかった分の衝撃が推進力となって彼を真上に打ち上げた。
かの者はこれを只常軌を逸した速度でやってのけただけ。
たったのそれだけで、それまでの事だった。
「言うに事欠いてこの余に交渉事なぞ持ち掛けて来ようとはな。惰弱も脆弱も想定の内だが、その間抜けさは流石に読めなんだ」
呆れ返ったように呟く瞳は何処までも冷めていて。
その声色は、非人間的を極めた乾きに満ちている。
「…は? え、ちょっ……」
強き者、その極北。
余りにスケールの違い過ぎる存在を前にして、無力な少女は只戸惑うしか出来ない。
現実が呑めなかった。
いや、呑み込んだ上で脳がそれを消化する事を拒んでいるのか。
「な、何してるんですか…。そんな事したら、し、死んじゃ――」
べちゃりと地面に落ちたアシュレイは血袋と成り果てていて。
にちかは思わず場違いな声を漏らすが、下手人である男は彼女になど一瞥もしない。
路傍の石という言葉があるがにちか達は彼にとってまさにそれだった。
地べたを這う蟻よりも尚格下。
路傍に転がる、砂と見分けが付かない程小さくてどうでもいい石ころ。
道を歩きながら石ころの声に耳を傾ける奇人など世の中にはそうは居ない。
「…ッ……ぉ、おぉおおおお……!」
壮絶な吐血をしながら、アシュレイが何とか立ち上がる。
その傷は誰の目から見ても明らかな致命傷だったが、構うものかと無視をした。
幸いこの場にはメロウリンクも居る。
自分がどうにかして一分一秒でも状況を引き伸ばせれば、彼がにちか達を連れ逃げ遂せる可能性が生まれる。
自らの死を悟りながらもアシュレイはその僅かな可能性に賭けた。
炎が夜暗を照らし、熱の抜け行く体を爆縮する炎熱が強引に加熱する。
煌々と輝く爆熱の帯が魔人を包み込まんと後先考えない自滅覚悟の大火力で炸裂し、巨大な爆発音を響かせた。
「――はああああああああァッ!」
殺せる等とは最初から思っていない。
為すべきは一秒でも長くの足止めだ。
肉が焼ける痛みを歯を食い縛って押し殺しながら、アシュレイは惜しみのない最大火力を放ち続ける。
迫った炎は間断なく魔人を巻き込みミルフィーユ状の構造でその玉体を閉じ込め、熱と炸裂の二段構えで封殺した。
「何か、勘違いをしているようだな」
その檻が内側から爆散した。
断末魔の嘶きをあげる炎の渦から歩み出る魔人の肌には傷はおろか変色の一つもない。
アシュレイ・ホライゾンの最大火力を肉体一つで受け止めておきながら、全くの無傷。
それでもと。
まだだ、と。
アシュレイは霊核が罅割れるのも厭わず後続の炎を用立て放ったが――
「余は死ねと言った。貴様のような見るに堪えぬ蒙昧の羽虫の奮戦になぞ何一つ期待していない」
炎の波を彼は只歩いて踏破する。
そよ風の中を歩むように事もなく。
先刻アシュレイの腹を貫いた時とは打って変わって鈍く迫っていった。
虚空が渦を巻き、彼の右手に一振りの槍がまろび出る。
「口を開くなり出る言葉が下らぬ交渉沙汰とは見下げ果てるぞ塵屑が。
痛みと傷を忌み、喰われる事踏み潰される事を恐れ…寄り合い傷を慰め合うしか術を持たない無能の虫螻」
「…ッ」
「あげく狡知にすら届かぬ出来損ないよ、そろそろ分という物が理解出来たか?」
それは――黒い、漆黒(くろ)い槍だった。
死だとか不吉だとかそんな段階を遥かに超えた規格外の魔槍。
否、魔などという月並みな概念で形容する事すら果たして正しいのかどうか。
本来であればアシュレイ等という格下の英霊に抜く必要は一切ない滅尽滅相の混沌槍を此処で抜く意味は、それ即ちより純度の高い虐殺を実現する為という以外にはなかった。
狡知を気取り交渉を仕掛けてきた目前の羽虫は、どうやら彼の機嫌をいたく損ねたらしい。
「であれば泣いて喜べ。余には貴様の矮小な魂を活用するアテがある」
滅尽滅相、ケイオスマター。
それが一薙ぎされた瞬間アシュレイの炎は火の粉一つ残さずこの地上から消滅した。
咄嗟に刀を構え迎え撃ちに掛かるが、ひとえに瑣末。総じて無意味。
「――ぁ」
黒槍の鋒は一秒の拮抗も許さず彼の銀刀を粉砕し。
勢いを微塵たりとも殺されなかった刀身は
アシュレイ・ホライゾンの心臓を容易く貫いた。
刹那にして彼の総身、そして霊基そのものにまで死より恐ろしい滅びが伝播する。
もはやアシュレイは悲鳴すらあげられない。
存在のありとあらゆる要素を腐らされ滅ぼされ殺され、文字通り虫螻のように心優しき青年は散った。
その最期を見届ける事すらせずに魔人が振り向く。
此処で初めて、三人のアイドルともう一方のサーヴァントの存在が彼の視界に真の意味で入った。
「…は、ッ……」
三人の中で一番落ち着いた性分であろう
田中摩美々が顔を蒼白にし声にならない声を漏らしている。
摩美々でさえこうなのだ。
そして二人のにちかも彼女と同じだった。
言葉を紡げない。
泣き叫ぶ事も恨み言をぶつける事も出来ない。
蛇に睨まれた蛙等これに比べればまだずっと救いようのある存在だろう。
蛙が跳ねて水に飛び込めば蛇から逃げる事は可能かもしれないが、彼女達は何をしたとて逃げられないのだから。
「そこな羽虫。そして三匹の蛆虫共。貴様らに告いでやろう」
しかし彼はこの期に及んで尚、残された者達を同等に見下げていた。
メロウリンクもアイドルの少女達も彼の前では等しく虫螻でしかない。
故に個別に認識してやる意味がないのだ。
言葉を掛けて誰か一匹にでも通じればそれで善しと、有無を言わさぬ傲慢さで暴君は言う。
「狡知の首を余に捧げよ」
この場に狡知の蜘蛛は居ない。
ならば引きずり出すまでだ。
この羽虫と蛆共に、自らの手で捧げさせる。
それが彼の決定だった。
「実際にこの場へ呼び出すのでも、余にその居所を伝えるのでも構わん。狡知に繋がる道を示せ」
この物言いも決して温情などではない。
本当にどちらでもいいからこう言っているだけだ。
直接身柄を差し出すなら話は早いが、結局生まれる結果は何も変わらない。
そして更に言うなら、この勧告を受けている者達の運命も何一つ変わらない。
答えようが答えまいが、差し出そうが差し出すまいが、彼女らが生き延びる未来はあり得ないのだと滾る眼光がそう告げている。
破綻した交渉。
しかしそれも、かの者が持つ圧倒的な暴力の前に正当化される。
生物の根底に語り掛ける恐怖の圧力が破綻そのものをねじ伏せて交渉を成立させていた。
拒めば殺す、従っても殺す。
変わるのはそれまでの道程だけ。
傲岸不遜にして傍若無人、故に絶対。
これぞ覇者。天の頂を目指す蝿の王。
混沌担う鋼翼の魔王――
ベルゼバブの道理であった。
「答えないのか? であれば一匹ずつ踏み潰していくとしよう。
貴様ら羽虫には、同族を殺されると泣き喚く習性があると聞いた」
「っ…待って!」
摩美々が声を張り上げた。
無理に絞り出した声は調子が外れていたが、切実だ。
それでも
ベルゼバブの振り上げた足は止まらない。
手始めにアシュレイを喪ったばかりの七草にちか、その生命を靴裏に踏み抜いてやろうとして――
「させ――ないッ!」
その無情な歩みを。
覇者の冷酷を阻む光が一つ。
涙に終わりを告げるべく、絶望に希望を見せるべく。
星の光を纏う拳と共に戦場へ到着した。
◆ ◆ ◆
「ほう」
ベルゼバブが感じたのは足底への微かな痺れだった。
それは小さな、蚊に刺されたのにも等しい痛痒。
だが蹂躙される彼ら彼女らが全身全霊を注いでも得られなかった一歩。
星の力と見果てぬイマジネーションをその霊基に宿す小さな戦士。
キュアスター…アーチャー、
星奈ひかる。
櫻木真乃のサーヴァントである彼女の拳は覇者の虐殺を許さない。
「及第には程遠いが…ようやく見れる輩が出てきたか」
ひかるの表情は硬い。
咄嗟に助けに入ったのはいいが、対面して初めて自分がこれから相手取らねばならない存在の大きさを理解したからだ。
ひかるの目には、
ベルゼバブが一つの宇宙に見えた。
途方もない、全体像を推し測ろうという気さえ起きなくなる巨大さ。
只でさえ異次元の巨躯を有した概念であるにも関わらず、毎秒ごとにその質量を無限大に膨張させていく闇の大海を彼女は確かに見た。
無数のイマジネーションに溢れた希望の宇宙ではなく。
星も命も全て喰らい呑み干す絶望の宇宙。
強い――そう認識した次の瞬間にはひかるの矮躯は遥か後方まで吹き飛ばされていた。
鬩ぎ合いの状態から、
ベルゼバブは純粋な力だけで彼女を蹴り抜いたのだ。
「ぐ、ッ…」
余技にも満たない軽い攻撃でさえ口から血が溢れる。
格が違う。次元が違う。
そう理解しながら、しかし叫ぶ言葉は弱音に非ず。
「――離れて! 此処はわたしがどうにかします!」
事情は理解している。
いやそうでなくとも、何も知らずともこの状況に遭遇したならひかるは何度だって同じ行動を取っただろう。
プリキュアとは弱き者を守る存在。
誰かにとっての希望の光に他ならないのだ。
彼女であろうと、先人達であろうと…プリキュアの名を冠する英霊ならば此処で日和る事など有り得ない。
全身が余す所なく総毛立つような殺気に奥歯を噛み締め挑み掛かるは星の戦士、キュアスター。
「聞き違いか? 何やら妄言が聞こえた気がしたが」
目視すら出来ない。
瞬の速度にして目前に現れる
ベルゼバブ。
その裏拳がひかるの顔面を真正面から打ち抜く。
揺れる大脳、震撼する意識。
それをどうにか踏み止まって放つは流星の正拳。
だが
ベルゼバブは回避すらする事なく、己の胸板一つで少女の一撃を受け止めてみせた。
「つまらん。あの塵共に比べれば見所はあるが、所詮羽虫は羽虫だな」
「…ッ! 皆さんは――塵なんかじゃありませんッ!」
「教えてやろう。拳(それ)はな、こう打つのだ」
湧き起こる義憤の怒り。
それに任せて振るう拳は今度は
ベルゼバブに触れる事すらなかった。
命中するよりも先に、
ベルゼバブの鉄拳が彼女の顔を再び打ち据えたからだ。
「――か…ッ……!」
自分の身に何が起きたのか、ひかるは最初解らなかった。
比喩でなく意識が弾けた。
視界が真っ白に染まり盲人の世界を体感した。
後少し前に出ていたなら自分は死んでいたとそう確信させる衝撃。
この界聖杯で受けた全てのダメージを一瞬にして飛び越えていったそれが、単なる拳の一打でしかないなどと一体誰が信じられるだろう。
地面を転がり、ようやく止まった時には既ににちか達の姿は遥か彼方。
そしてこうして運動が止まるまで、ひかるは完全に意識を失ってしまっていた。
その不覚を噛み締める暇はない。
戦士としての直感が自らに迫る濃密な死の兆しを悟った。
「あ、あぁあああ…!」
「貴様のような手合いは時々見る。やたらにしぶとく、何度打ちのめそうが立ち上がってくる。
そして偶に口を開けば下らん説法じみた会話を仕掛けてくる手合いだ」
アシュレイ・ホライゾンを滅殺した黒き槍。
振り下ろされたそれをどうにか回避して、未だ朦朧とした意識を気合と根性だけを頼りに無理やり覚醒。
その上でひかるは己が魔力を一点へと凝縮させる。
イマジネーション、その極致。
対城宝具にも匹敵するエネルギー量を全て目前の敵を退ける為だけに集約させていく。
「ッ、プリキュア――」
それは数多の悪を退け人の営みを守ってきた希望の象徴。
星辰光(アステリズム)とはまた種類を異にする星の光。
超新星の輝きをひかるは右手に宿し、大きく振り被って黒槍の魔人へと放つ。
「――スター、パァァァアアアンチッ!!」
まさに闇を消し去り悪を挫く煌き。
キュアスターの必殺が、夜闇に隠された
ベルゼバブの面影を瞬時に光の中へと塗り潰していく。
如何に対魔力を有したランサークラスのサーヴァントであろうと、まず間違いなく只では済まないと確信出来る大火力。
その気になれば何処までも凄惨な暴力へ姿を変えるだろう光はしかし誰かを守る為にのみ輝いて。
誰かを壊し呵々大笑する蝿の王の歩みに断固として否を唱える。
貴方の考えは許さないと、どんな言葉より如実に突き付ける星光は紛れもなく正義という概念の結晶だった。
誰もに少女の勝利を否応なしに連想させる燦然たる光景の中。
「だがその底は押し並べて知れている。死に難い事しか能のない軟弱な愚図よ」
――軌跡を描く闇の穂先が、只の一閃にして希望の全てを破壊した。
袈裟に斬り裂かれた刀傷から広がっていく漆黒が光を喰らい塵へと変える。
それは宛ら、無数の蝿が灯りに群がり覆い隠していく様のようであった。
正義は勝つという優しい法則(
ルール)を塗り潰す"力"という名の絶対不条理。
次の瞬間、星の光を切り裂いて尚余力を有り余らせていた衝撃波が
星奈ひかるを地面へ叩き伏せた。
地面に小さなクレーターを作りながら、押し潰された少女は見るも無残に吐血する。
口の中から零れた小さな物体は、先の打撃でへし折れたひかるの歯か。
「く…あ、あああ……ッ」
「総じて下らん。その体たらくでよくぞ余の前に出られたものだ」
まだ、まだ。
負ける訳にはいかないと。
立ち上がろうとするひかるだったが敵わない。
ベルゼバブの靴底が彼女の頭を乱雑に踏み付けているからだ。
そのまま万力の圧力が籠もり、ひかるの小さな頭蓋骨が嫌な音を立てて軋んでいく。
「…あなたは、どうして――!」
ひかるは問わずにはいられなかった。
この男が強いのはよく解った。
これ程の力があるならば、聖杯戦争を勝ち抜く事など確かに容易だろう。
それそのものを否定する気はひかるにはない。
譲れぬ願い、至りたい境地。
或いは英霊としての矜持。
それを貫き押し通す為に聖杯の獲得という勝利の形を希求する事を間違いだなどと傲慢に罵るつもりはないのだ。
だが。
「どうして、マスター達を…! 未来ある人々を巻き込む事が、出来るんですか……!」
その過程で関係ない人々を巻き込み。
あまつさえ命を奪おうとする事に対しては話が別だった。
断じて認められない、そもそも理解が出来ない。
人の営みを守る者だからこそ投げ掛けられる心からの問い掛けに、
ベルゼバブは。
「フッ」
心底下らない三文芸を見せられたように鼻で小さく笑った。
いや、事実彼にしてみればそのシチュエーションと同じであったのだろう。
「死に物狂いで見出した活路がそれか?」
「何を、言って……」
「余を笑い死にさせる事以上の手は見つからなかったのかと聞いているのだ」
糞にも劣る稚拙な詰問。
子女の夢見を引きずっているとしか思えないその善性は覇道を歩む
ベルゼバブにとって物笑いの種にしかなり得ない。
だがその笑みもすぐに消え、残るのは心底興醒めしたような無味乾燥とした表情だけ。
感情が冷めるのとは逆に足に籠もる力は強くなる。
「が、っ…!」という痛ましい呻き声が靴底の下から漏れ聞こえてくる。
「羽虫の分際で余の歩みを止めた罰だ。文字通り――踏み潰してやろう」
ひかるは動けない。
全力で足掻いて尚
ベルゼバブに遠く及べない。
故に彼女の運命は確定した。
数多の人を救け、夢と希望を与え。
他ならない自分自身も無限の夢へと漕ぎ出した星のプリキュアの物語は此処で終わる。
羽虫のように踏み潰されて。
只、無慈悲に――
「…ほう」
その筈だった。
誰も止められぬ
ベルゼバブの動きが止まる。
彼は少女達が居る地点の方へと振り返り、嗜虐とも失笑とも異なる笑みを浮かべてみせる。
一方でひかるが覚えたのは、驚愕であった。
ベルゼバブの視線が見据えているその方向から、明らかに尋常ではない莫大な魔力の反応を感じ取ったからだ。
“なに…これ……”
驚愕の次に訪れるのは戦慄だ。
ベルゼバブの底知れない強さを初めて理解した時のそれにもよく似た、途轍もなく巨大な質量を有した存在への畏怖。
熱い。肌が、肉が、霊基が、魂が…焼け焦げるような熱を感じる。
一体何が起こっている。
アレは……誰だ。
篝火のような炎を纏い佇むあの男は――誰だ?
「糞にも劣る蒙昧だとばかり思っていたが……存外に魅せるではないか」
足元のひかるを蹴り飛ばして解放するのは善意から出た行動ではない。
取るに足らない格下よりも余程目を引く何かが顕れたから。
ベルゼバブをして意識の全てを注ぎ相手取らねばならないと確信させるモノが、胎動を始めていたから。
必殺必滅の混沌槍に貫かれながら五体を維持し立ち上がっているという空前絶後の不条理が、視界の先で彼を睥睨していたからだ。
「その炎。今度こそは余を灼き焦がせるか? 羽虫よ」
嘲りを多大に含んだ不遜な声に。
「――是非も無し」
荘厳さすら思わせる重厚な声が応えるや否や――篝火だったそれが煌炎と成って世界の全てを覆い尽くした。
◆ ◆ ◆
「あの日お前が言った言葉を覚えている」
青年は、確かに死んでいた。
ベルゼバブの宝具『滅尽滅相・混沌招来(ケイオスマター)』は不死すら殺す"死"だ。
不滅なる原初の獣さえ弑してみせたその槍の前で、下の中程度の霊基質量しか持たない彼が例外になれる道理はない。
故に末路の時は訪れ、
アシュレイ・ホライゾンは確かに死んだ。
抱いた決意も誓った言葉も何一つ残る事なく腐り落ちた。
その筈だった。
にも関わらず、今彼は焔を灯し立っている。
その双眸に黄金の輝きを煌めかせ、戦神の如く独り立つ彼は一体何者なりや。
「お前が俺に見せてくれた世界を、覚えている」
七草にちかは彼を"彼"だとは思わなかった。
それはもう一人の彼女も、
田中摩美々も、傭兵の青年でさえ同じ。
優しい笑みを浮かべて笑う青年の顔は巌のような厳しさを湛え。
"彼"そのものの姿形からはこの世の全てを塗り潰すような、猛烈な戦意が発散されていた。
「何一つ忘れはしない。全てこの胸に抱き、言祝ぎながら成し遂げるとも」
彼こそは
アシュレイ・ホライゾンの内に眠るもの。
星辰界奏者が成し遂げた無二の偉業。
灰と光の境界線が手を伸べ救った、永久に封じられた筈の極晃奏者。
怒りの救世主。
悪の敵。
煌めく翼。
「さらば蝋翼、我が半身。今こそ焔の総てを再び担おう」
――星辰烈奏者(スフィアセイヴァー)。
境界線を超えて現出した煌翼(ヘリオス)が、此処に全ての涙の終わりを告げた。
最終更新:2023年03月19日 20:37