『……蝋の翼しか操れない俺で良ければ、飛び方は教えてあげるよ』
アシュレイ・ホライゾンがマスターと認めた女の子に、そんな恰好を付けてから。
またたく間に数日が経過しようとしていた。
その間、特に何もなかった。
(俺、こんなに『女の子』とやって行くことに不慣れだったか……?)
聖杯戦争の進展という意味でも、彼女の夢に対する進展という意味でも。
劇的なドラマの発生だとか、二人の関係の深化だとかは、全く何も。
まったくといっていいほど、何もなかった。
もちろんそれは差し迫った危険が起こらなかったということでもあるし、それは喜ばしいことだったが。
また同時に、彼女が『もう一度アイドルをやりたい』と叫んだあの時点から、何も前進が無いということでもあった。
当たり前のことではあるが。
ライダーのサーヴァントたる己は『アイドルになる方法』なんてものは詳しく知らない。
そもそも仮初の日常において『やっぱりアイドルになりたい』と七草はづきに直談判して、返り咲くための一歩を……といった活動ができる訳でもない。
だから、七草にちかにこうしてみようという提言を、まだ差し出せていないのが現状だった。
せめて彼女の理解者ではありたいと、親しくなるための会話を試みはしたが手応えは初対面ほど芳しくなかった。
用事があれば一緒にやらせてくれないか、と誘っても『サーヴァントって家政夫をしに来たんですかねー?』とすげなくされる。
数日かけて分かったのは、どうやら本来のにちかはかなり分別のはっきりした子だということだ。
多忙な姉と、家族は実質二人きりの生活だ。
そこに寂しさや『飢え』が皆無というわけでは無さそうな一方で。
周りの目上には、遠慮のない生意気さを発揮しながら、しかし『馴れ馴れし過ぎる』という不快感は抱かせない。
それは裏を返せば、『甘え上手』という性格と、『甘えは良くない』という裏腹がどちらも混ざっているということ。
要するに、いきなり出会ったばかりの『他人』と相方として一緒に生活しようということになって。
分かりました楽しくやりましょうと、『家族』のパーソナルスペースに受け入れるような子ではないのだ。
それはつまり、七草にちかが日々を生きるにおいては、『居候』としての己は無力であることを意味しており。
――って言うか、料理とか洗濯物とか手伝われたって、細かい置き方とかで絶対お姉ちゃん変に思うじゃないですか!
――私の護衛で大変なサーヴァントさんに家事まで手伝わせて、そのせいで家族バレするって、私はどんだけ無能なんですか?
こうしてアシュレイのサーヴァントとしての当面の仕事は、『家庭のゴミ出し』になった。
家事に加わる権利は獲得したけれど、『こんな顔をさせて……』という反省が残った。
にちかがアパートの玄関扉をばたんと開け、大きく膨らんだ『燃えるゴミ』表記のある指定ビニール袋を表札の下に出す。
アシュレイは霊体化によって玄関を通過し、実体化してごみ袋を掴む。
なるべく静かな足取りで、音をたてないようにアパートの共用廊下を歩き、戸外へ出てゴミ捨て場へと向かう。
賃貸の安価なアパートでの生活音というものは、存外に隣室へと響くのだった。
特に玄関を開け閉めする気配というのは明瞭で、室内にいても『ああ、お隣さんは今日も出勤するんだな』と察せてしまうものだ。
バタバタと玄関をくぐる音の重さ軽さや慌ただしさなどは、それが登校する女子生徒なのか出勤するサラリーマンなのかまで判別できてしまう。
つまり、幾らサーヴァントと言えど、アシュレイが通常人と同じように七草家で生活していく為には……。
『じゃあゴミ出しに行ってくるよ(バタン、コツコツ…、カンカンカンカン……)』などと家族同然に振舞うのはまず避けねばならない。
いくら偽りに設定された世界とはいえ『あのお姉さん、もしかして同棲を始めたんじゃないかしら』などと姉に噂が立つのはにちかが嫌だったし。
何より、七草はづきにだけは同居人が増えたことを勘繰られると、たいそう面倒なことになるのだから。
どさりと、ゴミ袋を近所共用の捨て場に投棄する。
『最近越してきた人だろうか』といった誤解を避けるために、用事を終えれば即で霊体化する。
こんな事しかできないなんてな……と溜め息が出そうになる。
もちろん身辺に不穏な者がいないかの警戒など、サーヴァントとしての最低限も並行してはいるつもりだけれど。
……いや、人によっては『こんな事どころか……』と眉を顰められるような関係であることは分かるのだ。
少なくとも生前の伴侶たちがこの光景を目にしようものなら。
『さすがに私達の大切な人がそんなぞんざいに扱われるのは…』と懸念したかもしれない。
客観視してみれば、自分たちの関係は『距離を縮めようと努力するサーヴァントに対して、マスターの女の子は刺々しい』というものだから。
――でも、家族の代わりになれないなんてのは、当たり前の話だからなぁ。
殺し合いを視野に入れた緊張感の中で、出会ったばかりの男を家族のように家庭に迎え入れろなんて、無茶を言ってるのはこっちだ。
それを『サーヴァントなんだからマスターと一緒にいるのは当たり前だ』なんて一般論で押し切るのはあまりに乱暴だろう。
――俺は、何をしに来たんだろう。
――俺には、何ができるんだろう。
だから、悩み続けよう。
なんせ、そんな彼女の家に入ることを許されているのだ。
玄関から先を当たり前のように踏ませてもらい、生活を見守らせてもらい。
今後こういう外出をするならと、父親の形見らしき衣服まで与えられ、それを着終われば同じ洗濯機まで使わせてもらっている。
これからアイドルとして皆に笑顔を振りまき、誰よりも幸せになる子の、そんな場面に立ち会わせてもらえている。
それも、普通に知り合うのであれば家の中に踏み込める立場になるまでに要する時間を、『サーヴァントだから』という一事で省略している。
これで頑張らなきゃ嘘だろうと気合を入れなおして『ただいま』と念話を送り、七草家のダイニングへと踏み込んだ。
食卓の上に、弁当箱が三つ並んでいた。
そう、三つだった。
小学生のお弁当だといっても通用しそうなほどに、こぢんまりとした箱。
それよりはまだ大きい、でも女性モノなんだろうなという小さく丸みのある箱。
そして、それらよりずいぶんと大きくて四角い形の、明らかに男性モノの弁当箱。
まるで父親と年長の姉と年少の妹との、三人家族であるかのように。
熱いものや水気があるものは先に盛り付けて冷ますというお弁当の原則通りにご飯が先に詰められ。
その横に昨晩のおかずの残りらしきラップのお皿が、これから副菜にしますという趣きで配置につき。
さぁこれからメインのおかずができるぞとばかりにエプロン姿のにちかがキッチンに向かい合っている。
そんな彼女がチラと振り向き、アシュレイがいる気配を察して、念話を送ってきた。
『……なんか不満でもあります?』
『い、いや……俺の分も作ってくれたんだなー、うれしいなーって』
絶対に『そこまでしてくれなくて良かったのに』とは聴こえないニュアンスを気を付けたが、伝わったかどうか。
『……余計なお世話だったなら、今のうちに言っといてくださいね?
一応こっちも、荷物があったら霊体化できないから邪魔なんだよなーとか思われたら即引っ込めるつもりなんで』
『い、いや、決してそんなことは無い! 男として、こういう事をしてもらえるのが嬉しくないはずないだろう!』
なるほど、たしかに今日の予定はあらかじめにちかに伝えていた。
ここ数日で日常訪れる場所の安全は確かめたし、別行動して会場外に出ようとした場合の事なんかを試そうと思う、と。
それを聞いてからの彼女は、なら日中にアッシュが一息つく時のお弁当を、と姉妹の分だけでなく作ろうとしてくれている。
『いや、『男として』とか、そういうカンドー的な深読みをされると重いんですけど。
べつに二人分でも三人分でも、作るの大差ないんで。
学校がある私と、仕事があるお姉ちゃんの分は作らないわけにもいかないし』
念話は相変わらず、つっけんどんではあったけれど。
目線はアシュレイに向けられることなく、フライパンの隣にある小鍋の汁物を確かめていたけれど。
その口元は、少しだけうれしそうに、ゆるんでいたように見えた。
『まーそれに、三人分作るのは別に初めてじゃないですしね。
プロデューサーさんにも作ってたことはあったんで。特別扱いを期待したなら、残念でした』
念話での言い方は相変わらず突き放すような態度だったが、それはまったく気にならない。
だって、贔屓目なんていっさい抜きに、彼女はあまりに可愛いのだ。
いや、贔屓目を抜いて彼女を見るのは、それはそれで難しいけれど。
――お弁当食べます? 作ってきたんですけど
想像してみた。
彼女が
プロデューサーなる人物に対して、初めてそう言ったところを。
さっきの彼女は、何でもない、手間としては変わらないことだと言ったけれど。
社会人の男性に向かって、年頃の女の子が、『そんな昼ご飯よりも私が用意したこっちを食べてみて』と口にするのは。
リスクを孕んだ好意……とまで言うにはやや大げさだが、十分に、とても、勇気が要ることだろう。
そして、過去に
プロデューサー相手にそういう勇気を発揮したことがあるから。
今の彼女は、アシュレイにも同じ優しさを発揮する歩み寄りを示してくれたのだ。
――これじゃ、俺が一人だけで空回りしたようになってたみたいだな。
『サーヴァントだから』という立場に恵まれて、共に暮らすことを許されていたように思っていたけど、違っていた。
彼女の父親が残してくれた『衣服』や『弁当箱』という郷愁だとか。
そして
プロデューサーがにちかに芽生えさせてくれた、歩み寄りの努力だとか。
にちかを幸せにしようとしていた人達の、そういった遺産があったおかげで。
七草にちかが、知り合って間もない若い男を、立ち入った家族の場所に迎えてくれている。
俺はもしかして、他の誰かが入れないものかと舗装した道の上を、近道させてもらっているんじゃないか。
『あ、そうだ。霊体化じゃなくて実体化して外に出るなら。
……ついでに、スーパーへのお使いとかお願いしても、いいですか?』
『それぐらいなら喜んで……晩ご飯の買い出しかな? 何を作るんだ?』
『…………焼きそば、です』
だから、迷うことなんてどこにも無くて。
俺はただ、最後まで俺ができると思ったことを全部やるだけなんだと。
小さな目印がそこに灯ったように、心は明るくなった。
ここは、彼女から入ることを許してもらえた場所で。
俺でない誰かが歩いた足跡のおかげで、ここにいることを許してもらえたのだから。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
二度目となる雪の結晶と銀炎の喰らい合いは、一度目とまるで色彩を違うものにしていた。
銀の炎と相対する拳は、漆塗りをしたようなあまりに硬い輝きを纏っていた。
雪の結晶に陣を敷き、銀炎の剣尖と爆ぜ散る花火は、毒より黒い漆黒をしていた。
「ガァァアアアアアアアアアアアアアアッッ!!」
「オオオオオオオオオォォォ――――!」
一度目の応酬で交わされたような停戦を求める呼びかけはない。
あるのはただ全身全霊で、野人に戻ったかのように力を振り絞るための号砲。
黒き流星雨という、自然界に有り得ざる嵐。
嵐が銀炎を掻い潜り激突音を鳴らすたびに、血片を飛ばす。
それは拳の風圧が、
アシュレイ・ホライゾンの身体を斬り刻む血潮であり。
その風圧を銀炎の推進力で突破して、
猗窩座へと打ち込まれる剣戟の血潮だった。
みるみると増えていく総身の血糊に、両者とも呻かず歯を食い縛るのみ。
生前に味わった慣れも含めて、身体に刃物が入る感触などとうに既知と化している。
一対一において、緒戦から大きく様相を変えたのは色合いだけでなかった。
緒戦において、アシュレイはただ殺されまいと銀炎を鎧にしての防戦一方に徹していた。
比翼の相棒からの置き土産である炎の防陣と快癒とがなければ、ろくな戦いにならなかっただろう。
武術家としての闘いにおいて、
猗窩座が極めた者でありアシュレイが永遠の不向き者である構図は覆しようなかった。
その一方的な攻勢と、防戦だったものが。
攻勢と攻勢のぶつかり合い、という構図にまで双方が肉薄していた。
命を削るだけの気迫を持った攻勢と、それを躱すのではなく迎え撃とうとする攻勢だった。
「お前……っ! さっきより、少し……背が、縮んでるんじゃ……ないのか!?」
「もう息を切らしている貴様よりよほどマシだ」
命を削る攻勢とは文字通りでしかなく。
鬼の側に、もはや無限高速の再生はないと承知の上で。
己が現界の為に維持されるべき力を、
猗窩座は猛攻激化の為だけに費やしている。
鬼という種が、徒党を組んで始まりの鬼に反乱しない為だけにある『共食い』という捕食の本能。
それを『己自身』に適用し、筋肉や血液といった戦いに必要な部位以外の細胞をエネルギーに置換。
なぜなら、主(マスター)から供給される経路(パス)はもはや蜘蛛の糸ほどにも僅かなのだ。
であれば、燃やす薪を追加するより他の思案はなかった。
とはいえ、それで消滅の際にいる主君から搾り取る量が和らぐというわけでもない。
『遠慮なく全てを使い果たしてくれ』という最後の命令に対して、どこまでも忠実に。
主君にとっても敵にとっても死をもたらす悪鬼であるまま、最期まで地獄の底を抉じ開け続ける。
「――ガッ……く!?」
ガギギキィィン……と、腕と金属が衝突したとは思われぬような鈍く甲高い激突音が何重にも連鎖した。
猗窩座の手の甲に血の筋が数本ばかり走ったが、拮抗に耐え切れずに退いたのはアシュレイの方だった。
追撃に対応するためにかろうじて構えは維持するが、黒い覇気を強引にまとった猛打によって脚はみっともなく笑っている。
――ずいぶんと、愚直な真似をするようになった
見下すとまでは言わないが、呆れに似た実感を
猗窩座は抱く。
防戦に回らないようになった
アシュレイ・ホライゾンは、むしろ敢えて強引にでも
猗窩座の拳を『受ける』戦い方を選択していた。
覇気によって重みを増した攻撃に耐えるために、生前に仕込まれたのであろう剣の型から『いなし』や『受け』に使えるものを厳選。
銀炎による推進力を刀剣の速度と破壊力に上乗せして、『回避』ではなく『迎撃』を主にして継戦する。
言葉を用いることで呼びかけてこなくなった青年は、引き換えに
猗窩座の拳を無理にでも受けるようになった。
まるで、
猗窩座たちにもはや言葉によって何かを語るつもりが無いならば。
猗窩座の拳を食らうことが、受け止めることが、残された語らいの手段になると信じるかのように。
さりとてそこに、相手は死にかかっているのだからこれぐらいの余裕はあるという慢心はない。
明日を棄てた者の力強さを、過小評価も過大評価もしていない身の引き締めがある。
すぐにでも命尽きそうな重病人を、看取るまで死合った経験でもあるかのようだ。
――主(マスター)の残り寿命が更に削られてしまうと、決着を焦ることはしないのだな
まさかこの期に及んで戦いに応じないとまでは思ってはいなかったが。
少女たちとあの男とが会話をする時間が欲しいというのが青年の望みだと言うのならば。
これ以上魔力を浪費してあの男の残り寿命を削ってくれるなと、勝ちを焦ってくるやもとは予期していた。
さすがにこの局面ともなれば甘さを請う余地はないと身に染みたのかと、
猗窩座は解釈したが。
まるで、
猗窩座がそう思考するのを見計らったかのような機先の制し方をしてきた。
「言っても止まらないことは分かっているし……さっきこっちにも念話が届いたからな。
プロデューサーに聴かれたことと、それにどう答えたのかは聞いた。
こっちは言いたいことを言うから、そっちもぶつけてくれ、だそうだ」
何をだ、と尋ねて悠長な会話劇を引き延ばすつもりはなかったが。
相手方も時間稼ぎの意図はないと示したかったのか、早口ぎみに結論を述べる。
「向こうは大丈夫だと俺は信じる。
だから俺が今、借りを返したいのはあんただ」
何をどうすれば大丈夫だというのか。
それを問うつもりも起こらず、
猗窩座はドッと地を蹴って拳を振りかぶる。
あの男から己は滑稽だろうかと問われて、
猗窩座は否定しなかった。
滑稽で、役立たずでしかいられないなら。
せめて『説得されたら撤回する程度の決意で、何人も殺していた恥知らず』にはなりたくはない。
鬼になろうとしてなりきれず人のまま苦しみぬいた男の、最後の砦とさえ言っていい心のよりどころだ。
それを『まだやり直せる』などと阻もうとすることは身体の芯から受け付けないし、微塵も容赦は起こらない。
次の一撃は、断じて受け止めさせない。受け止められるわけがない。
この局面においてなお、
猗窩座の拳は破壊力を増すための極意を掴んでいた。
元より素流――『拳が内包する衝撃を、物質に伝導すること』には、
猗窩座は極意を持っている。
衰えた肉体のさなかであっても、習得した覇気の『より応用された使い方』に勘付き始めていた。
これから降りぬく拳は、『内部破壊』の力を内包する。
拳が撃ち抜く力だけでなく、激突点から衝撃が無限に拡大して全てを破壊する。
青年剣士はかろうじて斬りかえしの型を構えようとする。
しかし、明らかに剣速が追いついておらず、
猗窩座からすればもたついてすら見える。
すでに降りぬかれる一撃の射程内に置かれ、治癒術も追いつかぬほど『砕かれる』ための的になり――
――ぞわりと、嫌な具合の既視感が走った。
嫌な予感がする、という事実をいぶかしむ。
なぜならその青年に、かつて頚を斬った痣の少年のような『潜在性』は絶対に無かったからだ。
土壇場で何かしらの劇的な打開策に目覚めるには、闘士としての才覚が無さすぎる。
それなのに、覚えのある『変化』を感じさせたのは、どういうわけか。
この敵にはこれまで会敵した暴君や皇帝のように、武の境地に達するだけの資質は無い。
痣の剣士のように至高の領域に至る呼吸術も、鬼を灼くと記憶する赫い刀も宿る余地が――
「銀月墜翔(アルテミス・スラスター)」
ボッ――と火の手が勢いづいて点ったかのような、耳障りとともに。
――銀炎の刀が、それまでの火力上限を大きく超えて炎の大河をつくった。
かつて
猗窩座の頚に一刀を入れた、斜陽をの現し身のように。
剣速も、威力も何もかもが、刀そのものに推進装置を取り付けたかのように増大した。
鬼狩りの剣士たちは剣技において無から炎の影を表わしたが、その面影と青年の剣筋が重なる。
『内部破壊』の破壊殺と、またたく間に速度をあげた炎刀の一騎打ちとなる。
――速さで、追い抜かれた。
「爆血刀(バースト)……!!」
裂帛の叫びとともに。
アシュレイの一刀が、初めて
猗窩座の胴体を袈裟斬りで大きく斬り裂いていた。
噴水のような失血と、多段斬りされたような灼熱ともに、己の身体が抗えず傾いでいく。
それはただ『燃えている刀で斬られた』という熱と痛覚に留まらない。
銀炎の奔流と、最高温度に達した鋼の剣と、『燃える液体状の劇薬』の、三重奏で斬られた。
刃の推進力が上乗せされ、拳速をつきはなす寸前。
銀の炎渦の透き間から垣間見えた刀身は、たしかに『赫い』色をしていた。
「ガッッッ、ガ、が、アァァアアアアアアアアアアアア!!」
脚が頽れる。
断ち割られた胴体が、今の再生力では復元しないと激痛で悟らせる。
実際の威力にしてみれば、それは鬼狩りの赫刀ほど覿面の相性ではなかったのだろう。
しかし再生が大きく衰えた気迫頼りの身体で、袈裟斬り、深手の火傷、延焼する『何か』を同時に浴びてしまえば。
「――再生、不発……確認」
ゼィという呼吸の合間に、青年の一声。
ぽたりと、降りぬかれた剣尖から滴ったのは、『食欲』を齎す血液――つまり
猗窩座ではなく青年の血液。
血の区別がついたことで、気付く。
緒戦において、この青年が吐き散らした血と肉片は、爆炎を帯びていた。
その爆炎を、青年は己が速度を上げたり敵手を退けるための推進剤にしていた。
戦いのさなかに刀身を少しずつ血で濡らし、刀が緋色に染まったと見抜かれないために銀炎で覆い隠す。
本来なら火力に上限がある銀炎刀を『引火する血液』によって連鎖爆発させ、推進力と威力を底上げした。
「潮時と……言うか……!」
斬り落としは成功した上で、青年は拳の届く範囲外に着地している。
これでは後はただ、癒えない半裂きの身体で細切れを待つのみ。
猪口才な小細工勝ちだとは言えない。己も既に、この戦法を一度真似た。
上弦の鬼だけの血戦で、血と肉片を推進剤に替える戦法を模倣している。
ああ、だからこそ。
「――まだだ!!」
猗窩座もまた、己の血肉と術とをどこまでも使い潰すのみ。
男を殴れずに倒れようとしている?
それがどうした、男を破壊するために、男を殴る蹴るする必要はない。
破壊殺・万葉閃柳の軌道を、そのまま黒く武装した拳に応用する。
あとひと刹那で青年を粉微塵にしていた覇気の収束を、拡散させずにいっそう右拳にまとめる。
初めは打突、須臾の時を挟んでから血鬼術の呪力、黒き花火を閃かせる頃合いは決して過たない。
再生も阻害され、限界に近付いている肉体で行使することは度外視である無茶。
自覚する。気迫で押し通す。
一度は上弦の壱を超えて■■■■■の肉体に至ろうとして得たものを全て使い潰し――『鬼の最期の悪あがき』たる衝撃波を放つ。
青年は異様な闘気の増大に戦慄の顔をつくり、炎を身体に纏わせて空気の層を鎧にしようと試みるも、追いつかず。
ドン――――!!!!
猗窩座を起点に、雷が中空に生まれたような轟音と黒い大閃光が迸った。
全方角の空間が、全てを粉塵に帰すように空気を爆裂させる。
全方位の土地に、大蜘蛛の巣のごとき亀裂が地割れとして刻まれる。
拳圧へと呪力と覇気の刃が上乗せされた一撃が、全方位への無差別な衝撃波として一帯を刻んだ。
「ガ………ガ、ガ……ガ……ガッ……」
アシュレイもまた、血と皮膚の亀裂にまみれた襤褸となって吹き飛び、血に落ちる。
内臓の攪拌と、横隔膜の止まらない痙攣による音程の乱れたうめき声。
衝撃波そのものに血鬼術の効力はないために銀の炎は作用するものの、損傷が深いために癒しは遅々とするのみ。
そこには胴体のぐずぐずに崩れた男二人が、瀕死そのものに地面をのたうち回る絵図が描かれた。
三半規管が完全に狂わされた激痛の中で、アシュレイはやや離れた場所に修羅も倒れ伏していることを感じ取る。
その男が、崩壊の進行する身体を酷使した反動でやはり立ち上がれずいることも。
その男の乾坤一擲によって、相討ちも辞さぬほどの殺意で殺されかかったことも。
痛みを無視することはできずとも、痛みの中で思考を続けざるを得なかった環境の杵柄で、足掻きの傍らに思う。
これほどに濃密な殺意を浴びたのは、人生でもそうそう縁が無かったなと。
お前を殺すという執心の殺意ならば、何度も身に染みてきた。
蝋の翼になった男を斃して、ただの
アシュレイ・ホライゾンを取り戻そうとするレイン・ペルセフォネからの殺意。
どうしても弟子に最後の稽古をつけるべく、気を抜けば死ぬぞと本気で相対された恩師からの殺意。
しかし、男の拳からはそのような『思うがゆえの殺意』は僅かも無い。
ただ殺さずにはおかないものを殺すというだけの殺意。
しかしその意を受けて、アシュレイはまったくかけ離れた感想を抱いた。
(…………やはり――アンタは、慈しい)
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
もしも合理の話をするなら、この戦いでアシュレイが死なないに越した事はないのだ。
プロデューサーは最後まで偶像たちと方舟の敵でありたい一方で、この先にちかが死ぬことまでは望んでいない。
そしてアシュレイの消滅は、七草にちかのその後の生存率を大きく脅かすのだから。
だが、このサーヴァントはどこまでも『方舟の敵たる狛犬』という概念に殉じている。
お前にはあの男が守りたかった者達を、まして全てを擲ったたった一人の少女を含めて託すことになるのだから。
修羅の殺意ぐらい踏み台にしてみせろという
プロデューサー側の餞別にして最終試練。
その役割を忠実に果たす『
プロデューサーの武器』としての立場に徹している。
それを思考の放棄だ、マスターにとっての最善を考えていないマニュアル対応だと上から目線になるのは簡単だが、適切じゃない。
今の
プロデューサーの在り方が蝋翼のそれで、ランサーがその意向に従うだけだというなら、その真意はおそらく。
――極論、男にとってはこれからどうなるという事情よりも、『
プロデューサーを望み通りの形で死なせてやる』ことこそが大切だから。
男が救いなど要らないと言うなら、救いを取り除く。
男が地獄に落ちないわけにいかないと言えば、落としてやる
男が怨嗟の責め苦を、滑稽だという糾弾を受けたいなら、受けさせてやる。
男が『最後まで敵として憎まれ役として死にたい』というなら、引継ぎ役の安否などより『敵であること』を最優先に置く。
アシュレイには、恩師のように武力から人柄を理解する才覚はない。
だがそれでも、闘志を応酬させ、殺意の質を推しはかることで伝わってくるものがあった。
拳を受けたことで感じ取ったのは、必要以上に嫌われようとする突き放しの大仰さだった。
似た人を知っている。ここ一か月で詳しくなった。
他人が自分をそうそう好きになるはずないと、いつも心のどこかで思っている。
形振り構わない、己自身を削って融かすような戦いを厭わない者は、己のことも嫌うものだ。
他人がやがて自分のことを嫌いになるのを待つぐらいなら、いっそこちらから見放されたいと自滅行為に走る。
……それでも、根っこのところでは情が強く、身内に甘い性格をしているから。
大切な人から『もうやめて』と腕をひかれたら、足を止めてしまう性格をしているから、敢えて突き放す。
そういう性格でなければ、これまでの没交渉を、サーヴァント側が積極的に加担していた説明がつかない。
プロデューサーには寿命という覆せない枷があり、ゆえにどんな会話も無為であるという彼の結論。
それが心からの本心で、また正論でもあることは確かだと思う。
だが、すでに
幽谷霧子と対話を行って『そのやり方でにちかは幸せになれない』、と。
話を聞いた限り、それ自体は至極もっともで真っ当な指摘を受けているのだ。
『にちかの幸せはなんだ』と聴かれたと、にちかが念話してきたことからも、指摘に意味はあった。
それらも見てきた上でなお、アイドルとの対話など無為であると断じてきたというなら。
『
プロデューサーとアイドルの間には、まだ交わされるべき言葉がある』という可能性を見ないよう、わざと目を瞑っている。
己のことを心底から愛している人達から呼び止められたら、止まってしまうかもしれないという心を知っている。
ことここに至るまで、主従ともに正視できなかったのは当たり前だ。
『
プロデューサーが裏切って犠牲にしようとした女の子たちは、
プロデューサーを憎むどころか最後の最後まで心配していました』なんて。
そんな物語を、まっとうな良心を持った男が直視してしまったら心が潰れる。
だから、ここに至ってもなお敵対しか有り得ないのは必然だ。
もはや地獄に落ちていく末路しかないなら。
『最後まで皆から愛されていたのに』と嘆かれて消えていく末路ではなく。
最後まで迷惑な男達だった、役立たずだったと憎まれて消えるほうが、マスターの望みにかなっているから。
マスターを想うがために、救済ではなく破滅を求めてアシュレイを殺す。
(絶対に……そんなことにはさせない)
うめき声は止まった。
双方ともが、同時に。
立ち上がるべく足掻いていたランサーの身体が、膝をかろうじて曲げ伸ばしできる態勢を見つけ、四つん這いから浮上する。
血走った羅刹の眼光で、二本の脚で地を踏めるようになりしだいお前を終わらせると射殺しながら。
挙動の意図は分かりやすい。
もう再生が見込めない彼は、アシュレイが回復しきる前に強引にでも致命傷を追撃するしか勝ち筋がないのだ。
そしてアシュレイの選択肢も、同じく立ち上がってその追撃に真っ向から応じること一択となる。
地面に血肉がぼたぼたこぼれ、膝をがたがたと笑わせながら。
それでも這いずって逃げながら、回復しきる時を稼ぐような真似だけは有り得ない。
これは、狛犬たちが七草にちかというアイドルの担当を継いでいく男を見定めるための機会でもあるのだ。
『残り寿命の差で負けた』なんて理由で勝ちを持って行かれたとして、先任の
プロデューサーが安心できはしない。
この男達には絶対に、アシュレイが持てる力の全てを動員して、ぶつかり合いで上回られたという決着を与えなければならない。
それに、この勝負に勝ち残った上で伝えなければならない。
そもそも、前提が違うのだということを。
大丈夫。
君のマスターは、悪いところへは落ちないよ。
彼がプロデュースしたアイドルたちが、そんなところに落とさないから。
七草にちかは、幸せになるのだと。
念話からの報告で答えを識った時に、
アシュレイ・ホライゾンからもまた迷いが祓われた。
――だから、全部ぶつけてやります
――あの子が言えなかったこと、私が言いたかったこと、誰かが言うべきだったこと
七草にちかが幸せになるなら、彼にぶつけるべき言葉はおのずと定まる。
それはきっと今のアシュレイが、あの男に伝えたい言葉とかけ離れていない。
だから彼のことは彼女たちに任せられる。己はただ全力でランサーに示せばいい。
「人でありながら再生するというのに、その脆弱さか…………やはり貴様は気に入らない」
「再生する身体で……再生しない女の子をぼこるために……ずいぶん手間取ってた奴の台詞か?」
「抜かせ……貴様はあの小娘の……影さえ踏めていないぞ」
七草にちかは弱くないし、俺たちもこの先やって行けるぐらいには弱くないんだと。
少なくとも好きな女の子を初対面で『つまらん』呼ばわりされたことは忘れてないし、その借りは今ここで返せる。
その上で、先刻の問答の最後の問いかけには答えよう。
「「――参る!!」」
狛犬と呼ばれた男とかつて蝋翼だった男は、最後の突撃を敢行した。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
最終更新:2023年09月27日 17:58