「とりあえずー……話すこと、それなりにありますから。これ、飲んでください」

 さっき塗りなおしたばかりのように、つやつやした紫のネイル。
 その指先に掴まれて差し出されたのは、赤いアルミ缶だった。

「お、おう……こんなの、どこで」

 283プロでも御用達の銘柄。リカバリーソーダ。
 名前は炭酸水だが、成分としてはむしろいわゆるエナジードリンクだ。
 さぁこれから営業に出るぞという時には欠かせず、効果のほどは事務員もアイドルにもお墨付き。
 それも一番味が濃くて強い、赤ラベル。

「近くの壊れた自販機から……たった今、アーチャーさんがちょろっと」

 ちらと紫髪の綿飴おさげが振り向いた先には、もはや壁として見張りに徹しますという無言の傭兵がいる。
 なるほど、たしかにわずかでも体力と魔力を持たせるというなら、栄養補給としてはもっとも効果があるだろう。
 どすっ、と手のひらに液体の重みと冷たい缶の手触りを落とされて、妙ななつかしさに気が抜けた。
 もはや感覚もない壊死寸前の指をプルタブにつけて、のろのろと引き起こす。
 茶色く変色した指が露わになり、摩美々たちが必死にぐっと耐えるような息の飲み方をした。

 そう言えばいつもの摩美々なら、プルタブを開けておく気遣いをした上で手渡しそうなものだ、と違和感に気付く。
 そこはやはり、彼女も悲しみと動揺を背負っているのだろうと申し訳な――


 ――ぶしゃっと開け口から怒涛の勢いで噴水が暴発し、炭酸水が顔を直撃した。


「ぐぼはっ――――!?」


 鼻の頭あたりから泡の弾ける液体をぶち撒けられ、のけぞる。
 缶を取り落とす。
 何があった。
 いや、事態は分かる。
 アルミ缶は、手渡される前によく振ってあったのだ。
 そして彼女なら、それをやるかと言えば、過去にはよくやった。
 本当に、何回もあったことだ。
 ファミレスで一緒に食事をしたら、カレードリアにタバスコが入っていたり。
 ラーメンの中に、大量の一味を投入されたり。
 この感覚は、たしかに懐かしいのだが。

「ま、まみ……」

 ま、まみみ~~!!といつもの叫び声をあげられないのは、困惑があればこそ。
 いたずらをする子ではあったが、今する子では絶対にないと。
 彼女がそういう風に弁えた聡い子だと知ってたのだが。
 今、やるか?
 それが信じられず、呆ける事態となった。
 自分で言うのもなんだが、彼女は余命いくばくもない者にこんな事をする子では……。


「えい」


 ひょいっと。
 まるで無造作に。
 犯人を確保する女刑事のように、手際よく。
 缶を取り落として、大きく隙ができた右手を、摩美々の手が取った。

「捕まえました」

 右手が、摩美々の細い手にがっしりとホールドされていた。
 とても絶望的な宣告。
 何だったんだという現実感の無さ。
 それだけはできないんだと、あれほど伝えたのに。
 なまじ『頭を冷やす』という行為を、直前に比喩でなく仕掛けられたために。
『そんな……』と動転した声を出すこともできず、ただ茫然として。
 しかし、いささかの揺るぎも無い摩美々の声がすぐに届いた。

「救われたくない気持ちも、事情も、分かりました。
 その上で、私がこうしてる理由ならあります。
 でも、説明してる間にジタバタされても、もっと身体に悪いことになりそうなので…。
『別にあなたは救われてない。ただ罠に引っ掛かって無理やり捕獲されただけ』
 そういうことにして……先に話を聞いてください」

『暴力で意に反して捕まった』という体裁に持って行くための、空気が読めないまでの悪ふざけ。
 いや、さすがにそれは屁理屈だろうと抗議したくも、摩美々はこんなに理屈が先行する子だったろうかという違和感もあり。
 しかし相手に負い目を与えないためにあれこれと小理屈をつけるあたりは摩美々らしい気もした。
 少なくとも、『人に気を遣わせないために気を遣う』子だったのは覚えている。

「さすがに病人みたいな人に炭酸水ぶっかけるのは、ぎりぎりシャレにならないとは思ったんですけどねー……」
「それ以上に時間がない非常事態だし……私は何するか分からないって、作戦会議のときに予告はしたんで」

にちかとのハラハラしたような遣り取りにかぶせるように、さらに背後の傭兵が会話に差し込みを入れた。

「先に釘を刺させてもらうぞ。
 この子らは絶対に言わないだろうが、今のあんたはそもそも死に方を選べる立場じゃない。
 地獄に落ちるのも、言いたい放題に言われるのも避けられないが、握手だけは避けられる……なんて都合が良すぎるとは思わないか?」

 情け容赦の一切ない正論だった。
 なまじ『もう一人のにちかのマスター』という恨まれて当然の立場があるだけに、何も言えない。
『その少女が絡む一点だけに限れば、彼は方舟のスタンスから半独立している』ことは東京タワー地下の戦いで知っている。

「でも……俺の手で、摩美々の手を汚してしまった」
「それがー……プロデューサーがいない間に、こっちも色々ありまして。
 昔たくさん殺したーって言ってたサーヴァントさんと、フツーに手を繋いでたり。
 未遂に終わっちゃいましたけど、あの新宿事変を起こしたマスターさんともそうしたかったり。
 失敗もバッドコミュもしたけど……でも今さら、人を殺した人と手をつないで、汚れるかどうかの所にはいないんです」

 だからまずは話を聞いて。
 そう訴える裏側で、本音は煙に巻いてしまいこんでおく。

 ――君達の手は取れない。俺は、救われる事だけは出来ないから

(裏返せば『君たちの手を取れば俺は救われるんだ』って……かなり、殺し文句ですよねー……)

 そんなことを言われたら、真っ先に掴まずにはいられない。
 そう思っていたけど、さすがにこれ以上『お前の自業自得だ』という意味合いの言葉を重ねるのは憚られた。
 片手を繋いだままである限り動けない摩美々の後ろから、にちかが「今度は本当に普通のですよ」と改めて缶を差し出す。
 今度はちゃんと、プルタブのあらかじめ開けてあるリカバリーソーダ(赤)を。

「なんで君たちは……こんな奴に、こんな至れり尽くせりなんだ?」

 なけなしの使命感として、飲み物に口はつけながらも。
 救われること自体には、やはり納得していない。
 ズタボロのメタメタなのに、そんな頑固さだけはある声で彼はそう言った。

「まず誤解がないように言っときますケド……怒ってはいるんですよ、わたしたち」
「ですねー、もうめちゃめちゃに怒ってると言っても、言い過ぎじゃないです」

 ちら、とにちかが摩美々に促すような目を向ける。
 自分がさっきかなりのことを話した分、今度は摩美々の番だと言ってくれているのだろう。 
 内心でありがとうと頷き、もう話をするのを待ちに待っていたのは本当なので、厚意に甘える。

「話を聞きたいと言われたので、もう正直に言っちゃいますねー。
 あのお別れの動画のメッセージは、かなりショックでした」
「ああ、うん…………さすがに徹底的に突き放した、自覚はあるよ」
「もう私達のところに帰って来ないって言われたことも哀しかったですけど。
 それよりも、私達のプロデューサーを、あなたが死なせようとしたことに一番怒ってます」

 ――君達のプロデューサーは死んだものと思ってくれて構わない。

 あの時点で、かつてのプロデューサーは本当に死んでいたのか、面影もなくなっていたのか。
 まずその時点で色々と疑問というか『違うんじゃないかなぁ』とは思っているけれど。
 どっちにせよ、プロデューサーが、『皆が大好きだったプロデューサー』のことを。
 目的のために殺してもいい男だと思っていたのは、確かな事で。

「プロデューサーの命が……プロデューサーにとって軽かったことが、哀しかったですね」
「…………」
「あなたが覚悟していた糾弾と、違うところを責めてるのは、分かってますよ」
「まぁ……さすがに、裏切りを責めるような言葉の方を……覚悟していた、かな」
「そっちをあれこれ責めた方が……プロデューサーさんも気が楽になりますよね。
 楽にしてあげた方がいいのかもしれないとも、思いましたけど。
 でも、あの動画が出たあとのチェインでも、みんな責めるより『何があったの?』って心配してたから。
 さすがにそれを無視して、『みんな裏切りにショックを受けてました』とは言えないですねー……」
「つまり、完全に裏目だったってことか…………俺が皆を、突き放したのは」
「あんまりプロデューサーさんの良心をえぐり続けるのもアレなんで……。
 心配したってことだけじゃない、ただの恨み言も言わせてもらいますね」

 たとえプロデューサーが、今にも生き恥で死んでしまいそうな顔をしていたとしても。
 摩美々は、『貴方はとても愛されていました』という事実だけは、偽ることはできなかった。
 それを伝えようとしたのは、摩美々だけでなく他のアイドルたちも同じだったのだから、なおさら。
『その上で伝えたい事』がこの先に控えていたというのもあるし。
 ただ、その話をする前に、『これまで目をそむけていたものを見せてくれ』という彼の要望も叶えるため、話題を変えた。

「私と真乃の家族(サーヴァント)に、『いなくなれ』ってスタンスだったことは、フツーに怒ってますよ」

 聖杯を狙うために、アイドル達のサーヴァントを斃した。
 それだけなら、まず聖杯を狙う是非から始まる話だし、そもサーヴァント側も覚悟して応じたという経緯を無視して彼だけを責めたりしない。
 あの頃のプロデューサーたちが『せめてマスターであるアイドル達だけでも助かってほしい』と必死だったことは分かっているし。
 それだけ追い詰められていたプロデューサーの孤独を、誰かが掴んであげなきゃと思った気持ちは今でも変わりない。

「プロデューサーは、余裕がない中で、命を懸けて、私達を一人でも助けようとしてくれた。
 その為にやったこと全部は肯定しないけど、それだけ心配してくれたことには『ありがとう』って思ってるんです。
 でも、私も、真乃も、一か月ずっと一緒にいて、支えてくれた人のことだから。
 私たち、もう一人のにちかとだって、仲良くなっていたから。
『サーヴァントが一緒にいるより、はぐれマスターにしておいた方が私達のためになる』なんて。
 そんな理由で、本当にそんな理由で、あの人を狙ったのも、にちかが死ぬことになったのも、怒ってますよ」

 プロデューサが襲ってきた事情に脅迫があったことは察しているし、襲ってきたこと自体を今さら咎める気持ちにはならない。
 でも、メールでも彼のランサーも『アイドルのためにサーヴァントはいない方がいい』という態度だったことには、腹に据えかねるものがある。

「すまない。そこは本当に……返す言葉は、無いよな。
 君たちからすれば、俺にとってのランサーを『これ以上は役にたたないから』と殺されたようなものだから」

 そもそも一か月事務所を離れていた奴が『戦いから身を引いた方が君たちの為だ』なんて押し付けること自体がお門違いだった。
 そう独白したのは『プロデューサーを辞めた自分が、こうした方が身の為だと押し付けた』ことに矛盾を感じるほどの、とてつもない生真面目さゆえか。

「プロデューサーらしくないやり方、ではありましたね……。
 プロデューサーは、アイドルの話を聴かない押しつけは、しない人だから」

 自分の考えた最適の、生存戦略という靴に合わせろと。
 こうすれば、この芸能界(セカイ)で生きていけるのだから、ただこちらの方針に従ってほしいと。
 それがかつてのプロデューサーが、もっとも忌避しているやり方だったし、だからこそ今までの彼もまた『合わない靴』を履いていた。

「たぶんプロデューサー……嫌われようと、してたんですよね」
「ははっ……そうだな、君たちから『以前のプロデューサーはまだ死んでないんだ』と思われるわけには……いかなかったからな」

 プロデューサーという仕事は、誰かを巻き込んで初めて成立するから。
 彼は自分の見たい結果をもたらす為に、誠意を示して、人の協力を請うことができる。
 みんなが彼の為なら少し位がんばってもいいかと思うようになる。
 それが貴方の持つ一番大きな力だったから。

 だからこそ海賊陣営の所に行っても、『人質になる』ことを抜きに価値を見出された、渡り合えていたし。
 その一方で彼の立ち回りは、『かつての知り合いとその縁者に関すること』にだけ限定して、精彩を欠いた。
 アイドルに対してだけは、彼はいつものプロデューサーらしく振舞い、自分の罪(やるべきこと)に巻き込むことは、できなかったから。

「……だから、そうやって全部自分だけで背負ったことに。私たちは……一番、怒ってるんですっ!」

 今だってそうですよ。
 無関係な人を犠牲にしたから救われることができない、という話なのに。
 貴方は、今まで何を背負っていたのかを。
 自分が何をしたのかを、打ち明けてくれないじゃないですかと。
 泣いてしまったせいで言葉を止めることだけはできないから、かなりぶつ切りに、ぽつぽつと訴えた。

「三人、殺したんだ。予選で」
「……はい」
「最初の子は、君たちと変わらない年の少年でね。
 ただ、生きたいと望んでいただけの子だった。
 悪い子じゃなかったんだ。同盟さえ組もうとしてた子だった。
 ……そんな子に、俺は殺意を向けた」
「一人目から…………重たい……ですね」
「他にも、俺のせいで犠牲になった人がたくさんいる。
 事務所の子たちもそうだし、『海賊』にいる時も、そうだ。
 他のマスターと協力して、女の子のマスターを一人殺した。
 最期に一緒にいた友達を突き飛ばして庇うような、そんな気立ての良さそう子だった」
「はい」
「……摩美々たちだって、ずいぶん色々あったみたいじゃないか。
 たくさんのお別れをした摩美々に、これ以上の犠牲を乗せるなんて、できないよ」
「お別れしたのは本当ですけど……一緒に背負う人がいなくなった、とは思ってないです」

『アンティーカー───!!』

 ついさっき、恋鐘と一緒にいたあの時、手と声はたしかに五つあったから。
 それを忘れなければ、私はきっと自分だけで背負っているとは思わずにいられる。

「プロデューサー、言ってたじゃないですか。
『仲間になれると思った』から、皆を集めたんでしょ?
 だから仲間が間違えた時に……誰かだけのせいってことはないです。
 だって、ここまでプロデューサーが拗れる前に……もっと、話し合うべきだったし。
 事務所が閉じて会えなくなるまで、いくらでも踏み込めたのに、そうしなかった」
「その……摩美々がそこに、責任を感じてくれたことまでは否定しないよ?
 でも、この世界にいた俺は、仲間として、プロデューサーとしての仕事なんてしてない。
 全く役立たずで、この先さえ一緒にいられないのに、業だけは押し付けていくなんて。
 ……そんな救われ方をしたら、それこそ俺は俺を許せなくなる」
「そうですね……手を掴んでいても、一緒に分け合おうとしても。
 ……そこにプロデューサーが納得してなかったら、意味がない」

 だから話は、いったん区切り。
 俺はどうしてもそちらには行けないのだと、プロデューサーは拒絶する。
 摩美々はいつだって、『こっちに来ていいんだよ』というドアは開けておいた方がいいと思っているけど。
 同じドアをくぐれないという信仰を相手が持っていたら、その光が行き届かないことも、分かっていて。

 彼に体温(ぬくもり)を与えたとしても、それを彼が享受しないなら、どこまでも彼との間には並行線が横たわるのみ。
 守るなどと妄言を履き散らかし、それさえも尽くしたい相手には余計なお世話だった男に巻き込まれて、一緒に堕ちるなと男は語る。
 でも、まだだ。

「だけど。プロデューサーは、もしにちかが自分の勝手な事情で家出してて……とことん堕ちた結果で、人を殺したら。
 よくもはづきさんを裏切ったな、とかで嫌いになったり……そんな子は救われちゃいけないって、そう言うんですか?」

 アイドルは、他の人達の犠牲にまで、全てに許しを与えられる女神ではないけれど。
 にちかの為に皆がさんざん迷惑をかけられた、というなら。
 せめて、『その結果はにちかの為になるのか』と、迷惑はかけよう。

 それに対して帰ってきたのは、溜め息だった。
 苦笑にさえならないし、苦笑するほどの元気も残ってない。
 ただ、『そんなたとえ話を前提にして考えることはできない』という拒絶。

「そのたとえは、いくら何でもにちかに失礼すぎるよ。
 俺がにちかのプロデュースを失敗したから……にちかの役に立てなかったから。
 だからにちかは出て行ったんだ。仮定であっても、にちかに罪があるように言うもんじゃない」

 そもそも自分がにちかに対して役立たずだったからこんなことになった、そこを取り違えてはいけないのだ、と。
 あの無意味でくだらないプロデュースを否定して、彼女をやり直させたかった。だから自分はこんな事を始めた。
 その原点を、もはやにちかに全て捧げることは『贖罪』ありきだと結びついてしまった『役立たずの狛犬』としてのこれまでを。
『にちかが幸せになれないのが理不尽ではなく、彼女自身の落ち度だったならば』なんて想像をすることはできない。

 罪があるとすれば、子どもにそこまで思いつめるほどの選択をさせてしまった大人の方なのだから。


「だったら、本人に聴いてみればいいじゃないですかねー?」


 けたたましく突き刺すような。
 プロデューサーをしていた頃に何度となく聴いた。
 むすっと機嫌の悪い声が割り込んだ。
 彼の期待に反して。摩美々の期待通りに。

「ずばり七草にちかがここにいるんですけど。
 本人がその場にいるのに、本人をスルーして『きっとにちかはこう思って出て行ったんだ』とか。
 そっちの方が、よっっっぽど、失礼じゃないですか?」

 ふんす、と鼻息を荒く。
 腰に手を当て、両足をやや広げて立った仁王立ちに近い形で。
『なぜ七草にちかはあなたの元から去ったのか答えよう』と、とんでもないことを彼女は言う。

「君は……失踪した……俺にとっての、にちか、なのか?」

 その確認は、もはや彼にとってブラックボックスだった。
 もはや確かめる気も起こらず、野暮といってさえ良かったかもしれない。
 この世界に、にちかが何人もいると知ったばかりの頃は、『自分にとっての彼女がいるのか』を気にしていたけれど。
 にちかは幸せになる、という答えについては共通の答えなのだろうと確信を得られた今、改めてそれを問う必要はなかったし。
『久しぶり……じゃないか』と別人を匂わせる発言もたくさんあったのだから、たぶん違うんだろうなと思っていたけれど。 

「それはどっちでもいいです」

 しかし、彼女はすげなく真実を拒否した。
 そこは『なぜ当人に聴かないのだ』という質問に答えるために、むしろ必須事項だと思うのだが。

「だいたい、私、WINGに敗けた日に事務所から帰る途中で、他のサーヴァントにいきなり予選一発目で襲われたんですよ?
 運よくライダーさんが来てくれたけど、死にかけたし、めちゃくちゃ危なかったんですからね。
 気が付いたら頭の中に聖杯戦争の情報がたくさん詰め込まれてるし、ライダーさんはまた夢を叶えようってなんだか口が上手いし。
 その後ずっとお姉ちゃんとも暮らしてたんだから、一か月前に手紙を書いた気持ちなんて、もし当人でもとっくに思い出せないですよ」

 どっちなのかという核心部は重要じゃないという小理屈をあれこれ並べた上で。

「でも私は『あなたのプロデュースしたにちか』が、何て言うかは知ってます」

 あまりに断言するものだから、力の入らない身体でなお困惑するしかなかった。

「俺が知ってるあの子は……そんなに、自分を見つめるのが得意じゃなかったよ?」
「私も、得意じゃなかったですよ。でも最近、色々ありまして。
 もう一人の私もそうだけど、けっこう価値観違いめの知り合いが増えたりとか。
 本当に最近、なんか、自分そっくりだなっていう人を見かけたりもして。
 ……一番最悪な時の自分って、なんかこういう事するやつなんだなって」

 彼女のそっくりさんが、そうそういるとは思えないけれど。
 そう思う自分をよそに、彼女はこちらに近づいて、膝を折り曲げぎみにして。
 ものすごく、こちらを凝視するように監察するように見据えて。

「だから……私がプロデューサーさんのことをどう思ってたのか、言わせてもらいます」

 ついでに、まだ言ってなかったことをはっきり言わせてもらうので、と。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 決着をつけるためのそれぞれの戦いと会話とに、至る前に。
 七草にちかも、未だ知らないところで交わされた会話の続き。


『片翼。その仮説が正しかったとして、一つだけ腑に落ちん存在(モノ)がある
 ……いや、違うな。存在しないからこそ腑に落ちないと言った方が良かろう』
『存在してしかるべき存在……それはもしかして、【WINGの決勝を敗退した七草にちか】のことか?』
『その通り。界聖杯が【可能性の培養環境】を優遇するというなら、事の発端となる者は存在させて然るべきではないか』

 世界の真実についてはなるほど分かった。
 しかし、それを彼女らの物語に当て嵌めてみれば、看過できぬ違和感がある。
 ましてそれが『七草にちか』の物語を左右する違和感であれば、他らなぬアシュレイもまず発想して然るべきことだと。
 頷き、その違和感は誤っていないという確認のためにアシュレイは語る。

『まず、【七草にちかがWINGを決勝敗退し、失踪した世界】……仮に【失踪世界】とでも呼ぼう。
 界聖杯に可能性を見出されたアイドルの『器』は、失踪世界から偏って蒐集されている。これは事実だろう。
 少なくともそうではない世界から来た関係者、幽谷霧子、二人の七草にちかそれぞれには、同じ世界から訪れた知人の実例が無い。
 一方で失踪世界から来た者は、これまで判明しただけでも櫻木真乃田中摩美々、プロデューサー、そして推定白瀬咲耶がいる。』
『白瀬咲耶なる故人と我々に一切の面識はなかったはずだが、そこに含められるのか?』
『一応283プロに関係するマスターの来歴については、世田谷のアパートにいた時にかなり詳しく聞き込んでいるよ。
 そこで摩美々さんから【今思えば、いつにも増してはづきさんに優しくて、働き過ぎを心配していた】と聴いている』
『失踪世界の住人であれば、そうもなろうという事か』

 故にこそ、【界聖杯は失踪世界にこそ多くの可能性を拾った】という前提を元に先の論は展開される。

『可能性がある世界……と言うよりは【願望機を求めようとする動機がある世界】ぐらいの眼の付け方かもしれない。
【奇跡でも無ければもう一度前に進まない】というのは、プロデューサーに限らずあの世界の関係者の総意だったようだから』

 もちろん、その為に犠牲を払っても良い者となれば、さらに絞られることは確かだけれど。

『願望を持たない者より、持つ者が優遇して吸い上げられるか。さながら選抜基準を設けた第二太陽(アマテラス)だな』
『飛躍した仮説だという自覚ならあるよ。そして新たな疑問も生まれる……お前が抱いた違和感もそれだな』

 そこまで『願望機に至ろうとする動機の有無』と『培養環境の構築』を基軸として世界を創り、可能性の器を集めるというならば。
 やはり、『アイドルを目指さなかった七草にちか』であったり、『決勝戦に至らず失踪していない七草にちか』であったりを蒐集するよりもまず。
『アイドルになれなかったことで決定的に挫折し、失踪した七草にちか』を、この世界の『元アイドルにして七草はづきの妹』のロールに据えるべきではないか。
 失踪世界の七草にちかであれば、聖杯を求めようとする動機も、他のアイドル達やプロデューサーと係わるだけの因縁も、まず申し分は無い。
 少なくとも界聖杯は、NPC配置にともなうバグもあったとはいえ『二人以上の七草にちか』を確保するだけの関心を彼女たちに示しているのだから。

『俺としての結論を言う前に……状況証拠から出させてくれ。
【界聖杯は、招いた器が聖杯に託す願いの有無と具体性を見抜いている】という根拠だ』
『何処からだ?』
『俺に残された資料の中には、MとWとの通話記録がある。そこに、櫻木真乃さんの証言も併せた結果だ。
 Mの陣営には、【星野アイ】というマスターがいる。少なくとも今朝の時点では。
 そのマスターは、運営に自らの願いを把握されているとしか思えない環境(ロール)を与えられているんだ』

 星野アイは若干二十歳のアイドルにして隠し子を持つ母親であり、その愛する我が子こそが戦う動機である。
 それはかつて二匹の蜘蛛が双方ともに太鼓判を押した【推理】であり、櫻木真乃がその愛に触れた【推察】でもある。
 そして、それを前提とする推察がもう一つある。

 星野アイの動機であった、その『隠し子』は、この世界においてNPCとして存在しない。
 苺プロダクションの人々、B小町のメンバーといった彼女にとっての日常は再現された上で、我が子だけが欠落している。
 我が子にあたりそうな年頃のNPCが星野アイの周囲には存在しない、という事実は二人の知恵者の通話記録でも触れられていたし。
 何より苺プロに愛する我が子を残していたのだとすれば、都内のNPCが大量虐殺される中で拠点に身を潜めることは母として難しい。

『これは明らかに恣意的だろう。星野アイさんのモチベーションと直結するNPCだけが、初めからいないものと設定されているんだ。
【星野アイの動機を把握し、我が子との再会が叶う環境に置かない方がいいと判断している】以外には説明がつけられない』
『理解した。界聖杯は、器の抱くであろう願いに応じて、再現元の世界から設定を改変している、と』
『ああ、だから、ここから先の仮説は全部それを前提にする』

 界聖杯は、参加者ひとりひとりの動機に対応して、相当に細かい事情の斟酌と対策を施した【設定の改変】ができる。
 それが行われているならば、283プロダクションを巡る設定(ロール)の複雑さにも見えてくるものがある。

『これはWの言っていたこととも重複するが、【283プロダクションを用意しない】という選択肢は界聖杯にとって有り得なかった。
 アイドル達の、人としての可能性をこれまで養ってきた土壌なんだからと、事務所単位で移植する必要ありと判断されたんだ。
 俺も283プロにまつわる事情について詳しく知ったのは昨日からのことだけど、相当に特異な事務所だったことは間違いないんだよ。
 徹底したアイドルファーストの姿勢と、良くも悪くも『仲良し事務所』と評判になる甘さ。事務所の方針押しつけを断固として避ける潔癖さ。
 たぶん283プロ以外の移籍先を用意してそこで芸能活動をさせるようなロールでは、育成ノウハウはとうてい再現できなかったんだろうな』

そして。
ここから先は、その都合に合わせて設定(ロール)が改変される。

『283プロダクションという環境を用意するためには……。
【七草にちかの失踪によって事務所が閉じている】という設定(ロール)を採用することができなかった
七草はづきの発病と、天井社長の挫折。この二つは、にちかが失踪すれば不可逆で発生してしまうからな』

 失踪世界から招かれたプロデューサーが欠勤するかどうかまで、界聖杯が見越していたかは分からない。
 だが、この世界では設定(ロール)こそ用意されるけれど、そうやって創られた社会が壊されること自体は容認される。
 はじめに開業している事務所(モノ)さえ置いておけば、そこが閉鎖しようが壊れようが参加者の選択の結果として放置されただろう。
 そもそも開戦時にたしかに存在していれば、どんなに脆い土台の上であっても【縁故の者同士が交流する】という目的は果たされる。

『かといって、【にちかが優勝した世界を採用する】だとか【事務所に入らなかった世界を採用する】こともできなかった。
 それは、きっと星野アイさんの子どもがこの世界で再現されなかった理由と同じなんだ。
 七草にちかを、願望機によって幸せにするために戦おうとしている参加者(プロデューサー)がいる。
 だから『選択しだいで別の人生をまっとうしている七草にちか』なんて設定を、見せるわけにはいかない』

 結果的に『もう一人の七草にちか』を見たことは、プロデューサーにとって却って刺激となってしまったけれど。
 そもそも『奉仕対象は聖杯が無くとも幸せになれかもしれない』と思わせる余地など、運営にとっては無い方がいい。

『だから、【失踪】という事件だけを排除した上で、【にちかは幸せになれてない】という世界にする必要があった。
 そこで作り出したのが、【決勝戦に進出する前にアイドルを辞めて、失踪までには至らなかったにちか】がいる世界だ』

 七草にちかの敗退と挫折だけを採用し、失踪するほど思いつめたという経緯を削除する。
 そのやりくりをした結果、七草にちかは準決勝の時点で敗退しているという設定(ロール)ができた。
 なるほどと納得した話し相手は、しかしすぐさま意を汲んだ追及を切り返す。

『貴様……【採用した】とは言わず【作り出した】と言ったか?
 まるで、この世界はどこかの再現ではなく、無から設定を生み出したかのような言い様ではないか』
『……理解が早くて助かるよ。っと、これは皮肉じゃないぞ。
 いきなり切り出すには衝撃が大きいことだから、白状する機会ができて良かった』

 咳払い。
 ある意味では、ここから先にあるだろう真実こそが。
 七草にちかという少女に奉仕していた、これから対面するプロデューサーの主従にとっては重要だ。

『ここまでの仮説が全て通ったとして。
 おかしいのは、俺とマスターが出会った時のことだ。
 何故なら……俺たちは、WINGを敗退した彼女が帰路についた直後に出逢ったんだから』
『其処に何か不審があるのか?』
『これは世田谷のアパートで、ここ一か月の283プロの運営やら何やらの話と一緒に聴いたんだけどな。
 本来の283プロの事務所は、東京都【二十三区外】の、聖蹟桜ヶ丘という土地にあるんだそうだ。
 ……じゃあなんで、俺のマスターは元の世界の事務所を出てすぐに【二十三区内で】襲われて俺を召喚したんだ?
 そして何故これまで、283プロが初めから中野区にあったかのように違和感を口にしなかったんだ?』
『…………』
『俺が抑止力だった時のことを覚えていないように。
 俺の契約者であるマスターの記憶にも、齟齬がある』

 もともと、『七草にちかはたしかに準決勝敗退を経験した』という事実を保障するものは、七草にちかの記憶のみ。
 あとは強いて言えば、『WINGの準決勝を敗退した帰路で、そのままサーヴァントに襲われるという形で呼ばれた』という状況証拠がせいぜい。
『NPCは設定(ロール)を己の記憶だと認識する』『予選以前に一次審査が行われている』という前提条件が加われば、それらは覆される。

『……大切な人の記憶が弄られてるかもしれないってのは、不愉快なもんだな。
 蝋翼になってた俺と再会した時のナギサたちの気持ちが、今はもう少し分かったかもしれない』


 アシュレイ・ホライゾンが想像するマスターの辿った経緯とは、つまりこういうことだ。


 七草にちかは、WINGの準決勝を危なげながらも『勝ち残った』。
 未だに八雲なみのステップを取り入れてノイズが生じるという悪癖は顕在だったけれど。
 その上で当時の審査員はなお響くものがあったのかトップアピールの配転を与え、決勝のステージに進ませた。

 ――ごめんな――――もう、笑顔じゃなくたっていい
 ――大丈夫だ、仏頂面してたって

 ――笑えとか…………笑うなとか
 ――鏡見てきます…………

 そしてそこから先は、かのプロデューサーが眼にした顛末と同じものとなる。
 七草にちかは彼女のものだったロッカーを片付け、シューズを廃棄した。
 プロデューサーと言葉を交わすことなく、283プロダクションを去った。
 やがて『夢を見て、ごめんなさい』という書置きだけを残し、失踪する。
 その家出に至った心境は、アシュレイには正確に判断しきれないけれど。

 けれど彼女の物語は、挫折をした果てに失踪を遂げた旅路としては締め括られなかった。
 万能の願望機に挫折と燃え尽きた痕に残った燻りの願望を掬い上げられ、箱庭に招かれたのだ。
 初めは、『WINGの準決勝を敗退した後、失踪もせず実家住まいをしている』という設定(ロール)を与えられて。
 すぐに『可能性の器足り得ないノンプレイヤー』だと篩を落とされ、設定(ロール)としての記憶を己のものだと上書きされて。

『七草にちかは、自分の設定(ロール)を疑わないNPCにまで、一度落とされている。
 この前提があれば、齟齬はすぐに解けるんだ』

 端的に言って。
 七草にちかは、本来であれば新人アイドル登竜門の決勝戦にて敗退を経験した世界の住人であり。
 櫻木真乃や田中摩美々ら、何より失墜したプロデューサーと同世界の人であり。
 それが界聖杯の篩分けによる『NPC化』の境遇に堕とされた際に、『界聖杯内界の設定(ロール)』に適合させられた。
 結果として、傍目から見れば『己の境遇を優先した設定(ロール)を作ってもらったかのようなマスター』が生まれたのではないか。

『俺のマスターの境遇に合わせて、この世界の設定が作られたんじゃない。
 界聖杯の都合で作られた設定に、マスターの記憶の方が巻き込まれていたんだ』
『ならば蝋翼に堕ちた歌姫たちの導き手は、違いなく己が愛した女と同じ舞台にいたということか』
『ああ。プロデューサーの方が、俺のマスターを自分の世界のにちかだと認識してるかは分からないけど
 ……でも、プロデューサーの認識がどうであったとしても、今のにちかが出す答えは変わらないと、俺は思う』

 何故なら七草にちかはもう、『自分』を見つける一歩を踏み出しているから。
 他のアイドルと係わり、鏡に映したような自分自身と係わり、誰かと対話することを知り。
 プロデューサーという他者から見た自分を知り、結果として自分自身を見つめなおしたから。

 七草にちかは、きっと『決勝を敗退した七草にちか』が何を想っていたのか、もう知っている。
 だから今のにちかは『七草にちかが失踪した理由』だって、たとえ覚えてなくとも答えられる。


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「結局、WING決勝まで私はなみちゃんのステップに頼って。
 ……それで、順当にツケが回ってきたって感じだと思うんですよね。
 アレさえなかったら絶対に勝ってたって言ってくれた人がいて、そう思うようになったんですけど」

 すらすらと、言葉はつい昨日体験したことのように口から出てきた。
 よくもまぁ見てきたように、と昨日までの自分が見ていたら呆れそうなふてぶてしさだけど。
 なぜだろう、嘘をついてるとか、口からでまかせを言っているという感覚はない。
 存在しないはずの記憶を、今思い出したような既視感ともまた違う。
 言うなれば、『七草にちか』という少女はこうだったんだろうなという確信のような、直観のような。

 少なくとも、決勝でもなみちゃんのステップを踊ったのは絶対にマジだろうなと思っている。
 ファンができたんだと直視する前の自分に、そのステップを外す度胸があったとはとても思えない。

「……悔しいとか哀しいって言うより……あー、これで終わった、って感じだったんですけど。
 これで、自分はなみちゃんでもアイドルでもないって思いながら、踊るのは終わったんだなって。
 そんなことを考えてるうちに……ごみ箱にシューズを突っ込んだりして……」

『準決勝を敗退した記憶』と、『失踪した七草にちかの話』との間でくい違うところに、思いを馳せる。
 その時の七草にちかに寄り添うことは、思いのほか難しくなかった。
 世田谷のアパートで事情を聴いたときは、『その世界の私は何やってんだ』とひっくり返ったというのに。

 きっと、『追い詰められた七草にちか』にそっくりな人が、目の前にいるからだ。
 ああ、自分は役立たずだって思いこみながら無茶しすぎる人は、近くで見たらこんな風に見えるんだなって。
 目の前にいるボロボロの人と、過去の七草にちかの姿と、その人達はどんな痛みを抱えているのか。
 だんだんと像を結んで、心の痛みがじくじくと伝播する。
 それさえも分かったふりかもしれないけど、これが共感だったらいいなとにちかは望む。

「プロデューサーさんが、いつもみたいに暗い顔して私のところに来るんだろうなって思いました」

 待ってました、とは言わない。
 少なくとも当時の自分は、『待ってた』と言えるほど露骨に甘えることは良しとしていなかったと思う。
 けれど。
 来ることを疑っていたかと言えば、疑っていなかったと思う。
 少なくとも『準決勝までの記憶』の時点で、それぐらい誠実な大人であるように見えていたし。

 苛立ちや悲しみを、迷惑にぶつけるしかできないのに。
 それでも、誰もいないより、そばにいてくれた方がうれしい。
 七草にちかは、そんなわがままな女の子だから。



「プロデューサーさんは、私のところに来ませんでした」



 だからきっと、そのぐらいに些細なきっかけだったのだ。

 七草にちかが家出に至った心境は、書置きをのぞけば一切不明。
 WING敗退に『彼女と深く話した人間はいない』ため、彼女の悩みについてはブラックボックスの中だと。
 その失踪の経緯を聞いた上で、ひとつ勘付いたことがあった。

 審査をひとつ勝ち上がるたびに、プロデューサーは必ずにちかの元に話をしにやってきた。
 ……にちかはそう覚えている。

 もしかすると、その決勝戦後に限っては、プロデューサーはにちかの元を訪れなかったのではないかと。
 どんなアイドルとのコミュニケーションにおいても必ず行われていた過程が、その時だけは欠けた。

「あの頃の私は、今にもまして面倒くさいやつだったので……」

 そして、それならばとにちかはトレースできる。
『追い詰められた自分』の前にそんな状況が提示されたら。
 この世界に来るまでのにちかならどう受け止めるだろうかと。

「ああ、とうとうプロデューサーさんも、私に愛想を尽かしてくれたんだなって思いました。
 そうですよね。私、めちゃめちゃ当たりがきつかったですもんね。
 当時の私、ほんとうにめちゃくちゃネガティブでしたから、そんな風に思って。
 ……それで、あの手紙に、『夢を見て、ごめんなさい』とか書いたんです」

 当然、姉が入院までしたのに家を空け続けるつもりなんか無く。
 だからきっと、そのにちかが帰れなくなったのもやむにやまれぬアクシデントなんだろうなと思うし。
 そのアクシデントみたいなことが無ければ、きっと。
 さ迷っていた七草にちかが、またプロデューサーにばったり見つけてもらえて。
 もう一度、アイドル七草にちかが始まるような、そんな未来だってありえたかもしれない。


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「今思えば、声かけられるわけないだろって、感じですよね。ほんとに。
 自分のシューズを敗退からすぐにゴミ箱にぶちこんでるアイドルなんて、声かけづらすぎますもん」

 君はアイドルになれると。君の姉は必ず俺が説得すると。君は最高のアイドルだと。
 そう告げるつもりだった。
 彼女が、自らのシューズをゴミ箱に捨てる姿を見るまでは。

 そこで、世界は分岐した。

「もし、あの夜にプロデューサーさんと会話することがあったなら。
 たぶん、『もう何も考えられないやー』とか言ったりして。
 ロッカーも片付けなきゃですねー、みたいな無駄な空元気で喋って。
 それでも、このまま家に帰るしかないんだなって気持ちになって。
 ……けど、夢をまた諦めきれなくなって、お姉ちゃんに頼んだりして。
 きっと、それだけのことで終わってたと思います」

 それは七草にちかが、WINGの決勝戦を負けた場合の話ではあるのだろう。
 しかし、七草はづきからいつも通りに『プロデュースお疲れ様でした』と労われて区切りがつく、そんな結末。
 ずっと『どうしてだ』と問いかけ続けていた、七草にちかという箱の中身は。
 いざ答えを聴いてみると、不謹慎ながらも呆けたような気持ちになった。
 あっけなさ、と言ってしまっては本当に失礼だが。
 何度も何度も、視界の端にいたにちかの幻影から聴いていた恨み言のような、憎しみは一切ない。

「そうか……」

 けれど、目の前の彼女が嘘をついているようにはとても見えなかったし。
 ならば真実はそうだったのだろうと受け入れる。
 つまり、己がアイドルとのコミュニケーションを決定的な場面で怠ったのが敗因であったのだ。
 最終的に事務所が閉鎖され、多くのアイドルの未来が閉ざされた過ちの原因は、やはり己にあったのだと納得があり。

「結局、ぜんぶ俺のせいだったんだな――俺がにちかと話せない、役立たずだったから」

 己の罪状はいっさい詳らかになった。
 俺は、大事な人間が心を危うくしている時に、そばにいないような奴だったのだ。

 やはりそんな男は、救わ「違いますよ、全然そこじゃないですよ今まで何を聞いてたんですかバカじゃないですか?」

 今までで一番の暴言が、食い気味に、ものすごい早口で飛び出した。
 もうこれ以上の自傷の連鎖など、一切を終わりにしようとばかりに。

「私は、ささいな行き違いの、ちっぽけな家出だったって言ってるんですよ?
 私がバカだったのも、ほんとのことですけど」
「あ、ああ。それは俺がにちかを一人にしたから――」
「そうなるぐらいには、プロデューサーさんに甘えてたって言ってるんですけど」

 ……もしかして今にちかから、普段なら絶対に聴かない言葉を聴いたか?

 にちかが、自分に、甘えていた。
 その言葉のインパクトだけで、空いた口がふさがらない。 

「最後の最後に、行き違いが起こっただけです。
 だからわたしが、プロデューサーさんにプロデュースされた時間は、間違ってなかったって言ってるんですよ。
 さんざん迷惑かけたし、黒歴史もたくさんあるけど、けっこう大事な思い出なんです」

 思い出づくりに、事務所に来たわけじゃないと、言っていたのに。

 いや、そこじゃない。
 この子は、いったい何を言っているのだろう。
 まず有り得ないような言葉がつぎつぎに飛び出して、意味をつかむために間があいてしまう。

「いや……だってにちかは、さっき、幸せじゃなかったって」
「べつに、お互いに、失敗しなかったとは言いませんよ。
 でも私のせいで落ちる気だったものを『俺のせいで落ちた』なんて言われたくないし。
 そもそも283にあなたがいなかったら、私の研修採用自体がありえなかったでしょ。
 今さらですけど、こっちに来てから283プロも悪くないなって、思えるようになってきて。
 ああいう毎日が続いてたら、いつか普通に笑える時だって来てたんじゃないかと思います」

 この世界に来てから、憧れるようなったアイドルも増えた。
 そのアイドルを望む空に羽ばたかせるプロデュースをしたのは、やはり彼だった。
 だったら、誰かが彼にこう言ってやるべきだった。
 そして、誰もが彼にこう言ってやりたかった。 
 けど、彼だけがそれを受け取らなかった。

 誰もの想いをまとめて、にちかはぶつける。



「もっと分かるように、シンプルに、はっきり、言います。
 あなたは、あなたが言うような『役立たずのプロデューサー』なんかじゃないって言ってるんです。
 あなたのことをそんな風に言うヤツがいたら、そいつに私がパンチを食らわせてやりますよ」



 あなたは役立たずの狛犬なんかじゃない。
 彼だけが彼のことを、そう思っていなかった。

「……………っ???」 

 だから、彼はそう言われて『知らない』という顔をする。

 このまま役立たずの何もなせなかった男として死んでいくはずだった。
 それを良しとしていたら頬に拳をいきなり叩き込まれたような、間の抜けた顔をする。

「え……いや、だって。……俺は、確かに、人を」
「失敗もやらかしも、人殺しもしたのは分かってます。
 でも、あなたは283のアイドルに、たくさん、色々くれた。
 プロデューサーとしては働き者で、たぶんすごい人ですよ。シンプルなことじゃないですか」

 だからこれを、たとえ貴方の命が残り短いのだとしても絶対に伝えなければいけなかった。
 だって伝えなければ、あなたは勘違いをしたまま去り逝くことになるんだから。

「いや……だって、にちかはさっき、ファン一号のおかげだって。それは俺じゃなくて……」
「もちろん、プロデューサーさんだけのおかげでここにいるわけじゃないですよ。
 でもあなたのした事だって、今日までのにちかの中に入ってます……おかしくないでしょ?」
「だいいち……もう一人のにちかが、にちかを見てファンになったステージってー、WING再放送ですよね。
 それって設定(ロール)かもしれないけど、元々プロデューサーが連れて行ったステージじゃないですか」

 だったらきっかけはプロデューサーの働きですよ、と摩美々も援護射撃をする。
 君たちは強かったと、アシュレイ・ホライゾンは言った。
 その強さを磨いたのは、誰と出会ったことによるものだったか。
 まだ暗い夜空にひっそりと、輝いていた頃の私達を見つけてくれたのは。
 羽に虹が生まれるための魔法をくれたのは、望む空に連れ出してくれたのは。

 初めから彼女たちが強かったと言うなら。
 初めから彼が、努めを果たしていたことと同義である。

「で、でも、今になって、いきなり、そんなことを……」
「や……いきなりこの話しても、『摩美々は怒ってないの?』って、説得力ないじゃないですか……」 
「もし、ですよ。もしも、私の言うことが、言葉だけで納得できないなら……」

 はぁ、と心を決めたように。
 にちかは膝を伸ばして背筋もまっすぐにして。

「歌とダンスを見てもらう……には狭いですけど。
 歌だけでも、聴いてください」

 すべての始まりと、同じ提案を持ちかけた。
 あの時の倉庫よりもさらに狭い路地裏で。
 閉じ込めるまでもなく、動けないその人に向かって。

「きっと平凡な女の子だって思われそうですけど。
 あなたから、余計な真似をねじ込むなって言われた意味は、分かるようになってきたので」

 既視感に息をのみ、血走った目を見開いたその人は。
「いいのか……?」と、与えられてはいけない機会を貰えたように、身を震わせる。

「聴いてください」

 七草にちかの、精一杯の声と、最高の笑顔を。
 あなたに届けたいので。

「聴いて行けばいいじゃないですか」

 プロデューサーの右手の甲を隠すように握りしめて、摩美々は後押しした。
 その時間を稼いだもの、リカバリーソーダのおまじないと、『右手に贈ったプレゼント』のことは隠す。
 令呪は、素人の手で、おいそれと奪うことができるものではない。
 しかし譲渡するだけなら、与える方が手を重ねて譲渡の意思を示すだけで行える。
 彼に生じる外見的変化が、過労死や老衰死ではなく『サーヴァントのような消失の前兆』だった時点で。
 摩美々は、その消滅が『界聖杯側からの采配』であるならあるいは、といちかばちかで譲渡を実行。
 賭けはどうやら成功し、その死因は『マスター権喪失で今すぐ』から『寿命で間もなく』にまでは猶予ができた。
 憔悴したプロデューサーは、衝撃の発言の連続で余裕をなくしており、サーヴァントとの念話も遮断。
 ライダー達の戦闘もおそらくクライマックスで、それに気づくだけの余裕は誰にも無いだろうともなれば。
 このお節介(トリック)をわざわざ種明かしするような無粋を、彼女は犯さない。

 ただ、己の言いたいことも代わりに言ってくれたアイドルのステージを促すのみ。

「ここにいるにちかの歌を聴いて、自分がプロデュースした女の子の続きを見て。
『にちかをプロデュースして良かった』って思えたなら、それ以上の納得はないでしょ」

 そう言っている間に、アーチャー・メロウリンクがごそごそと気を効かせてくれていた。
 手近に転がっていた、黄色い、プラスチックのビールケースをひっくり返し、にちかのそばへと台座のように設える。
 なるほど、確かによく声を聴きとるなら、実際のステージのような高低差が少しでも必要だろう。

「ちょっとー。アーチャーさん、気が利き過ぎじゃないですか? 本当にアイドル詳しくないんですかー?」
「いや……酒場だと、歌って踊れる女がいる店もけっこうあるから。割とこういうノリもあるんだ……」
「ああそっか、アーチャーさんも男の人ですもんね」
「情報収集の為に出入りしてただけだからな」
「……どうもです」

 背中を押してくれた摩美々たち主従に感謝して、手を握られたままたにちかを見上げるその人に、一礼。
『狂い哭け、お前(にちか)の末路は偶像なんだから』と呟き。
 右の拳を胸元でぎゅっと握りしめて、ビールケースへと足を乗せた。


 七草にちかは、奈落を上がってステージに立つ。
 プロデューサーは、奈落を引き上げられて特等席に座る。
 奈落(ここ)を上がって、二人がいる。


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最終更新:2024年04月22日 17:27