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暗闇に響く鼓動―前編 - (2006/04/09 (日) 15:35:17) の1つ前との変更点

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 お尻をしたたかに打ちつけた。  息をつまらせるほどの衝撃が、彼女の小さな体を突き抜ける。 「……あううっ……」  体をくの字に折り曲げ、苦悶にうめいた。  ぱらぱらと砂の跳ねる音が、急激に治まっていくと、やがて辺りは、空恐ろしいほどの静寂に包まれた。  雛苺は、恐る恐る両目を凝らした。  暗い。まだ目が慣れていないのもあるが、おぼろげに手のひらの形が確認できる程度だ。  光源を求めて頭上を仰ぐと、天井には直径一メートルほどの大穴が、ぽっかりと口を開いていた。  大穴までの高さは、三メートルほど。その向こうには、晴天を覆い隠すように、 四方から樹木の枝が張り出していた。  ……もしかして、あの穴から落ちたのだろうか。  怖気が、どっと押し寄せてきた。全身の震えが止まらなくなった。  予期せぬ事態に巻き込まれてしまった。  どうしよう、どうしよう、どうしよう。思考が、袋小路に迷い込んだ。  ……と。 「……いたたたたた……」  すぐ傍から聞こえた、知己の声。  はっと我に返った。雛苺は、打撲の跡がずきずきと痛むのも構わず、立ち上がった。  苦痛に顔を歪め、懸命に体を起こそうともがく親友に、力を貸す。 「かなりあっ、大丈夫……なの?」 「いいっ……一体、何が、起こったの……?」  話は、ほんの数分前にさかのぼった。  平日の午前八時。通勤途中の二人は、なぜか学園の裏山の真っただ中にあった。 「ここを通り抜ければ、通勤時間が二十分は短縮なのかしらーーっ♪ ちょーーっと骨が折れるけど、 お布団の中でまどろむ二十分には替え難いのかーーしらぁ。慣れてしまえば、どうってことないのかしらーーっ」 「夜更かしなんてしないで、もう二十分早く寝ちゃえば、こんな苦労、しなくても済むのに……」 「ふっふっふー、雛苺はやっぱりお子ちゃまねーー。いい? 片道で二十分短縮できると言うことは、 往復に直せば何と四十分!! これからは毎日、今までより四十分も多く、 有意義な時間を過ごせるのよーーっ。これってぇ、多忙な教職にある私たちにとって、 なーーんて素敵なことだと思わないかしらぁ?」 「かなりあは、四十分増えても、きっとだらだらするだけだと、ヒナは思うよーー?」  例によって、取らぬ狸に心躍らせる金糸雀と、腐れ縁から渋々つき合わされる雛苺の二人。  慣れない不整地の踏破に、とうとう音を上げそうになった、その時のことだった。  足元が、唐突にすっぽ抜けた。 「うわわっ、なのっ!?」 「かーーしらーーっ!!」  地面が、ぽっかりと口を開いた。二人は手を取り合ったまま、暗闇の中に吸い込まれていった。 「うーーっ!! 元はと言えば、カナがあんなこと言い出すから、こんな羽目になったのっ!!」 「そっ、それは……カナだって、たまには過ちを犯すことがあっても、不思議ではないのかしら……わわっ、 悪かったと思ってるのかしら……。ででっ、でも、今はそんなことよりも、 自分たちの置かれた状況を確かめるのが、先決じゃないかしら……?」  二人とも、小柄だったことが、落下のダメージを最小限に食い止めた。目立った外傷はなかった。 脂肪の厚いお尻から落ちたことも、運に味方したのだろう。  すり傷や切り傷の類は、普段から生傷の絶えない二人だから、携行している傷薬と絆創膏で、 充分に対処できた。  暗闇にも、目が慣れてきた。二人は、用心深く、辺りの様子を探り始めた。  そこは、明らかに人工的な建造物の一部だった。  石畳の床、レンガが積み重ねられた壁、漆喰で塗り固められた天井。  経年劣化こそ否めなかったが、造りは全体的に堅牢そのもの。  戦時中の防空壕の類だろうか? それにしては、造りに、意匠に凝った傾向が見受けられた。  二人が落ちたのは、どうやら通路の中ほどのようだった。前後に道が続いている。  闇に溶け込んだ先には、一体何が待ち受けているのか。興味を覚えなくはなかったが、 今は脱出が最優先だった。  急がなければ、始業時間に間に合わない。また、ラプラス教頭に、ネチネチと小言を言われる。  もしも、脱出できなかったら……。そんなネガティブな思考は、頭の中から追い払った。 「うわわっ、かなりあっ、危ないのーーっ。ここはおとなしく、助けを求めたほうが賢明なのーーっ」 「す、少し待つのかしら……。あとちょっとで、ここに手が届くのかしら……」  金糸雀は、天井から崩れ落ちた土砂を足がかりに、レンガの壁のすき間に、懸命に手を伸ばした。  指をかけたレンガがぐらつく。バランスを失って、足場から滑り落ちた。間一髪、後ろで身構えていた雛苺に、 抱き止められた。 「だから、ヒナは危ないって言ったのーーっ!!」 「ううっ……仕方がないのかしら……」  金糸雀は、上着のポケットから携帯電話を取り出した。始業時間には間に合わなくなるが、 観念して仲間に頼ることにする。  二つ折りの筐体を開き、液晶ディスプレイをオンにした。圏外と表示された。 「うわわわわわっ、どうするのっ、どうするのっ、どうするなのーーっ!? 助けが呼べないのっ、 ヒナたち……ずっと、ここにこのまま放置されちゃうのーーっ!?」 「おおおおおっ、落ち着いてっ、雛苺っ!! まままっ、まだ、電波が届かないと、決まったわけではないのかしら……」  雛苺の携帯でも、結果は覆せなかった。  二人は、電波の届く位置を捜して、落下地点を離れ、暗闇の中へと踏み入った。と、その時だ。  地下通路が、轟と鳴動した。間近に雷が落ちたような衝撃が、鼓膜をびりびりと打ちのめした。  土煙が、もうもうと舞い上がった。天井から、漆喰の破片が、ぱらぱらと落ちてきた。  二人は、びくびくと身をすくませ、その場に立ち尽くした。振り返るまでもなかった。  光が閉ざされた。携帯のディスプレイ以外、一条の光も射し込まない、真の闇の中に取り残された。  二人の落ちてきた入り口が、跡形もなく消え去ったのだ。  雛苺と金糸雀は、お互いの手をきつく握り締めた。  有栖学園の職員室と連絡が取れたのは、それから数分後のことだった。  要領を得ない翠星石に代わって、蒼星石が受話器を取る。雛苺と金糸雀が、 入れ代わり立ち代わり電話口に出た。蒼星石は、そんな二人を懸命になだめつつ、事態の把握に努めた。  仲間の教師たちと共に、現場に急行した。  雪華綺晶が、慣れた様子で、山中に残された二人の足跡をたどっていく。  問題の場所は、程なく特定できた。が……。 「こっ、これは……」  蒼星石の表情に、険しさが増した。額の汗を拭うように、前髪をかき上げた。  眼下の山林には、直径十メートルほどもある、大きなクレーターがうがたれていた。  崩れた土砂の中に点在する岩石には、直径が一メートルを超える物も含まれ、また、 周囲の高木も何本か巻き込まれていた。  手作業で対処できるレベルではなかった。重機でもなければ、とても歯が立ちそうにない。  しかし、ここは、整備された道路から三百メートルは離れた、全く手つかずな山の中だ。重機など、 運び入れることすらおぼつかなかった。  と、雪華綺晶が、背負ってきたバックパックの中から、何かを準備し始めた。  カーキブラウンの紙に覆われたブロックを、かたわらに積み上げていく。  懸念を覚えた蒼星石が、その正体を訊ねてみると。 「……C4爆薬……」  俗に言う、プラスチック爆薬だ。蒼星石は、慌てて彼女を制止した。  雪華綺晶の技術を疑うわけではない。が、素性も明かされていない建造物に対して、 発破は早急すぎた。何がどう裏目に働くか分からないのだ。  何と言っても、ことは大切な仲間の生命に関わるのだから。  雪華綺晶も納得した。フィルムを逆に再生するように、爆薬の塊をバックパックに戻していく。  そうだ。最終的にどんな手段に訴えるにしろ、まずは、その正体を明らかにせねば、話にならなかった。  蒼星石には、心当たりがあった。この裏山は、学園の敷地も含めて、全てローゼン校長の私有地だったはずだ。  地下に埋もれた謎の施設も、校長に縁の物かも知れない。  見計らったかのように、彼女のポケットの携帯電話が鳴った。ローゼン校長からだった。 「事態は呑み込めた。全員、すぐに戻ってきてくれ」  滅多になく、威厳を感じさせる声だった。  雛苺と金糸雀を救出するため、有栖学園の会議室に、主要な仲間たちがそろった。  ローゼン校長は、作業用の大きなテーブルに、すっかりぼろぼろになった一枚の図面を広げた。  校長と教頭を除く全員が、目を見張った。そのくすんだ紙に描かれたのは、 明らかに建造物の一部だったからだ。校長は、鷹揚にうなずいて、一同の視線に答えた。 「しかし……この図面は、相当古い物と見受けられますが……?」  蒼星石が、ヘテロクロミアの目を光らせた。 「ああ。この図面も、裏山の地下の隠れ家も、1930年代の中頃に、 この俺の今は亡き祖父さんの手によって、こしらえられた物なんだ」 「1930年代と言うのは……第二次世界大戦の直前ですわね。校長は、隠れ家とおっしゃいましたが、 防空壕とは違うのですか?」  真紅が、割り込んだ。 「うむ。日本で防空壕が造られたのは、第二次大戦の末期になってからだ。そもそも、 航続距離の長い戦略爆撃機自体、当時はまだメジャーな存在ではなかった。 日中戦争すら始まってなかった時代に、誰が本土爆撃など予想できただろうか?」 「では……何ゆえ、これほど大仰な物を、わざわざ地下に造られたのです? 確かに当時の日本では、 生粋のドイツ人であられたお祖父様は、多くの注目を集めたことでしょう。ですが、この建造物の規模は、 単なる隠れ家の範ちゅうを超えています。何か、特別ないわく因縁があったのではありませんか?」 「ひょっとしてぇ……警察に追われていたとかぁ?」  水銀燈が茶化すが、ローゼンは眉根一つ動かさず、こう答えた。 「違う。祖父さんは、ナチスに追われる身の上だったんだ」  空気が、一瞬にして凍りついた。  ハーケンクロイツ、ホロコースト、焚書……。血と炎に象徴された歴史の暗部が、 一同の脳裏に重く圧しかかってくる。  が、校長の続けた次の一言が、座を一転して白けさせた。 「祖父さんは、高名な錬金術師だったんだ」 「何を言い出すかと思えば……結局は、詐欺師に過ぎなかったんじゃないの……」  真紅は、眉根を押さえた。この校長を相手に、一瞬でも真摯に聞き入ってしまった自分を、深く恥じた。 「まあまあ……錬金術の真偽については、とりあえず置いといて……ヒトラーがオカルトに傾倒したのは、 周知の事実だろ? ナチスに利用されることを恐れた祖父さんは、潜伏先として日本を選んだ。 灯台もと暗しと言う奴さ……。当時の日本とドイツは、お互いに急接近しつつあって、遂には同盟国と相なった。 ナチの連中も、逃亡者が、まさか同盟国に潜んでいるとは思いも寄らなかっただろうし、仮に感づいたとしても、 日本の領土で大々的な捜査を繰り広げるわけにはいかなかった。……機嫌を損ねたくなかっただろうからね」  祖父が、まんまと逃げおおせたから、今の校長がある。  祖父が、莫大な財産を遺せたから、今の自由闊達な有栖学園が存在し得るのだ。 「……さて、真紅先生。君に一つ質問がある。君は……ラプラス教頭をどう思うかね?」 「は?」  真紅は、その質問の意図するところをつかみかねた。  ちらりとラプラスの様子をうかがうが、その赤い瞳は、虚空を見すえたまま、何も映してはいなかった。 「どうとおっしゃられても……教頭は、この学園の健全化に日夜尽力なさっている、見上げたお方ですわ。私、 ことあるごとに、こう考えずにはいられませんの。爪の垢の伝説が本当だったら、どれほど素晴らしかったろうかと」  真紅の当てこすりを、しかし、ローゼンはさらりと受け流した。 「ラプラス教頭は、ウサギだ」 「それが、どうかされましたか?」 「ウサギが、直立して二足歩行する。人語を自在に操る。果ては、我々人類と生活を等しくする……。 奇っ怪には思わないかね?」 「いいえ。その事実の一体どこに、異論を差しはさむ余地があるのです? 私には、見当もつきませんが」  ローゼンは、口元だけで薄く笑った。 「ふむ……では、具体的な事実とやらを列挙してみようか。例えば……こんなのがあるぞ?  身長一メートル八十センチのウサギの化石が出土された例は、ただの一度もない」 「……えっ?」 「どうした? ラプラス教頭とその一族が、進化の過程によって生み出された物なら、 化石が残されていて然るべきなはずだ。……もう一つ、こんなのもあるぞ? 人類の歴史が始まって幾星霜、 あまたの歴史書が綴られてきたわけだが、その中にただの一行も、人語を解するウサギの記述は載せられていない」  息苦しさを覚えた。  普遍であるはずの価値観が、ぐらりと揺らぐ。まがまがしい空気がじわじわと立ち込めてきて、肌があわ立った。  自明の理だった。何より、当のラプラス自身が、一言も異論を唱えなかった。  ややあって、翠星石が、重圧を振り払った。 「つまり、校長。おめーが言いたいのは、そいつが錬金術の力だっつーことですか?」 「そうだ。ラプラス教頭とその一族が存在するのも、この私に指摘されるまで、誰一人として、 露ほどの疑念も抱かなかったことさえも。大気中に放出されたエーテルが、君たちの無意識野に影響を及ぼし、 ラプラス教頭を一般人と何ら変わらない存在として認識させているのさ」 「それは……有り体に言えば、僕らは、一様にマインドコントロールされていると?」  蒼星石が、声を荒げた。怒りを覚えたからではない。ただ、戸惑う自分を抑えられなかっただけだ。 「……酷い……」  薔薇水晶が、ぼそりとつぶやく。 「おいおい、この俺をそんな目で見るなよー。今日まで実害はなかっただろ? ラプラス教頭の才覚は、 誰もが認めることだし。……第一、これは全て、祖父さんが一人で仕組んだことなんだ。俺と俺の親父は、 何一つ関与しちゃいない。そもそも、錬金術の具体的な仕様自体、一切受け継がれていないしー」 「なるほど……ここまでのところを総括すると、雛苺と金糸雀の二人は、かなり物騒な場所に閉じ込められていると、 校長はそうおっしゃるのですね?」  真紅に促されると、ローゼンは、こくりとうなずいた。 「で、肝心な地下への入り口は、一体どこに隠されているのです?」 「旧校舎の真下、地下十五メートルの深さに埋められている」  衝撃の事実を、ローゼンは、さらりと言ってのけた。 「……な、なぜ、そんなことに……?」  真紅は絶句するも、努めて冷静に質疑を続けた。 「真紅先生の言葉を借りれば、物騒だから封印された。地下の隠れ家は、戦後の日本の占領政策が終わりを告げた時点で、 役目を終えた。が、祖父さんが地下と決別したのには、もう一つ大きな理由があった。……からくり仕掛けの何体かが、 暴走して手に負えなくなったからだ」 「そのからくり仕掛けが、封印されてすでに半世紀以上が経過した今でも、まだ活きていると?」 「その可能性は、否定できない」 「ぐずぐずしてはいられない。すぐに手を打たないと、取り返しのつかないことになってしまう」  性急に席を立とうとした蒼星石を、真紅は押しとどめた。 「校長には、何かプランがあるとお見受けしますが?」 「うむ。図面のここのところを見てくれ……」  待ってましたとばかり、ローゼンに得意そうな表情が浮かぶ。が、真紅ににらまれて、慌てて改めた。  一同は、固唾を呑んで、校長の一挙一動に注目した。 「裏山の裾野。ここに、カモフラージュされた通気孔が設置されている。ここからなら、地下に降りられる。 ただし……通気孔の直径が、たったの三十五センチしかない」 「たったの三十五センチ? そんなに狭くちゃ、僕の体では、とても通り抜けられそうにないよ……」 「そうねぇ、私も胸がつかえちゃいそう。……そんな狭いところを潜り抜けられるのは、この中では、 まな板な真紅くらいなものねぇ」 「だ、誰がまな板なのだわ!? ……って、えええっ!?」  一同に期待を込めたまなざしで射られ、真紅はうろたえた。 「そう言うことだ。私の知る限りにおいて、この孔を通り抜けられるのは、真紅先生と雛苺先生、 金糸雀先生のお三方以外にない。そして、幸いなことに、真紅先生。君は、相当に腕が立つ。 二人を助け出せるのは、君をおいて他にはいない」  ローゼンは、プランを締めくくった。  最終的な判断は、真紅自身にゆだねられた。  仮に彼女が拒絶したとしても、誰も彼女を責められなかっただろう。それほどの危険を伴った。  しかし、彼女は、戸惑いつつも、仲間たちの説得に応じた。元より、手をこまぬいているつもりはなかった。  次善の策として、陥没現場に発破をかけるにしても、どのみち二人の安全は確保せねばならない。  身を護る術もなく、暗闇を照らす手段すら限られている二人に、自力で対処させるわけにはいかなかった。  必要な装備は、雪華綺晶がすぐにそろえた。  真紅は、夜間迷彩服に袖を通した。LEDヘッドランプ、現在位置を知らせる発信機、 軍用の小型携帯型トランシーバー、無線中継器、大型のマグライトを、それぞれ身に帯びていった。  雪華綺晶は、銃器を含むその他の装備の携行も強く勧めたが、真紅は丁重に断った。  真紅は、元来機械に疎く、トランシーバーすら満足に扱えなかった。うっかり銃器など預けられた日には、 味方を誤射しかねなかった。そうなったら、目も当てられない。  加えて、彼女は身軽さが身上だ。機敏な動作を妨げる要素は、とにかく徹底的に排除したかった。  愛用のステッキに手を伸ばそうとした彼女を制し、校長は、一振りの細身の剣を差し出した。真剣だった。 全長が一メートルほどの、俗にレイピアと呼ばれる物だ。それは、彼女の名前と同じく、 全体が真紅に染め上げられていた。 「……これは?」 「祖父さんが、こんな時のために遺してくれた物だ。錬金術の力が秘められている。試したことはないが、 どんなに手荒に扱おうと、刃こぼれ一つしないそうだ」  真紅は、抜き身の剣を受け取ると、利き腕で軽く構えてみた。その切っ先を、 ひゅんひゅんと上下左右にしならせた。  レイピアは、羽根のように軽く、あつらえたように手に馴染んだ。 「いい剣ね……」  我知らず、血がたぎった。真紅はかぶりを振って、そんな自分を深く戒めた。  指定された通気孔は、図面通りの場所で見つけられた。  カモフラージュのカバーが外された。真紅はロープで釣り下げられ、万歳の姿勢で中へと下ろされていった。  石造りのごつごつしたパイプの中を、何とか無事に通り抜けた。真紅は、額のヘッドランプをともした。  LEDの鮮烈な光に、奥へと続く通路の一端が照らし出された。中も、図面に描かれた通りのようだ。  真紅は、降下用のハーネスから、ロープを外した。ヘアピンを引き抜き、頭の上で束ねたツインテールを、 元通りに振りほどいた。  続けて下ろされたロープから、得物のレイピアを受け取った。  闇の中から、ぬらりと何かが顔を覗かせた。真紅は、気配を察した。  振り返りもせずに、床を蹴った。素早く間合いを確保した。  彼女の孤独な戦いが始まった。
  お尻をしたたかに打ちつけた。   息をつまらせるほどの衝撃が、彼女の小さな体を突き抜ける。 「……あううっ……」   体をくの字に折り曲げ、苦悶にうめいた。   ぱらぱらと砂の跳ねる音が、急激に治まっていくと、やがて辺りは、空恐ろしいほどの静寂に包まれた。   雛苺は、恐る恐る両目を凝らした。   暗い。まだ目が慣れていないのもあるが、おぼろげに手のひらの形が確認できる程度だ。   光源を求めて頭上を仰ぐと、天井には直径一メートルほどの大穴が、ぽっかりと口を開いていた。   大穴までの高さは、三メートルほど。その向こうには、晴天を覆い隠すように、四方から樹木の枝が張り出していた。   ……もしかして、あの穴から落ちたのだろうか。   怖気が、どっと押し寄せてきた。全身の震えが止まらなくなった。   予期せぬ事態に巻き込まれてしまった。   どうしよう、どうしよう、どうしよう。思考が、袋小路に迷い込んだ。   ……と。 「……いたたたたた……」   すぐ傍から聞こえた、知己の声。   はっと我に返った。雛苺は、打撲の跡がずきずきと痛むのも構わず、立ち上がった。   苦痛に顔を歪め、懸命に体を起こそうともがく親友に、力を貸す。 「かなりあっ、大丈夫……なの?」 「いいっ……一体、何が、起こったの……?」   話は、ほんの数分前にさかのぼった。   平日の午前八時。通勤途中の二人は、なぜか学園の裏山の真っただ中にあった。 「ここを通り抜ければ、通勤時間が二十分は短縮なのかしらーーっ♪ ちょーーっと骨が折れるけど、お布団の中でまどろむ二十分には替え難いのかーーしらぁ。慣れてしまえば、どうってことないのかしらーーっ」 「夜更かしなんてしないで、もう二十分早く寝ちゃえば、こんな苦労、しなくても済むのに……」 「ふっふっふー、雛苺はやっぱりお子ちゃまねーー。いい? 片道で二十分短縮できると言うことは、往復に直せば何と四十分!! これからは毎日、今までより四十分も多く、有意義な時間を過ごせるのよーーっ。これってぇ、多忙な教職にある私たちにとって、なーーんて素敵なことだと思わないかしらぁ?」 「かなりあは、四十分増えても、きっとだらだらするだけだと、ヒナは思うよーー?」   例によって、取らぬ狸に心躍らせる金糸雀と、腐れ縁から渋々つき合わされる雛苺の二人。   慣れない不整地の踏破に、とうとう音を上げそうになった、その時のことだった。   足元が、唐突にすっぽ抜けた。 「うわわっ、なのっ!?」 「かーーしらーーっ!!」   地面が、ぽっかりと口を開いた。二人は手を取り合ったまま、暗闇の中に吸い込まれていった。 「うーーっ!! 元はと言えば、カナがあんなこと言い出すから、こんな羽目になったのっ!!」 「そっ、それは……カナだって、たまには過ちを犯すことがあっても、不思議ではないのかしら……わわっ、悪かったと思ってるのかしら……。ででっ、でも、今はそんなことよりも、自分たちの置かれた状況を確かめるのが、先決じゃないかしら……?」   二人とも、小柄だったことが、落下のダメージを最小限に食い止めた。目立った外傷はなかった。脂肪の厚いお尻から落ちたことも、運に味方したのだろう。   すり傷や切り傷の類は、普段から生傷の絶えない二人だから、携行している傷薬と絆創膏で、充分に対処できた。   暗闇にも、目が慣れてきた。二人は、用心深く、辺りの様子を探り始めた。   そこは、明らかに人工的な建造物の一部だった。   石畳の床、レンガが積み重ねられた壁、漆喰で塗り固められた天井。   経年劣化こそ否めなかったが、造りは全体的に堅牢そのもの。   戦時中の防空壕の類だろうか? それにしては、造りに、意匠に凝った傾向が見受けられた。   二人が落ちたのは、どうやら通路の中ほどのようだった。前後に道が続いている。   闇に溶け込んだ先には、一体何が待ち受けているのか。興味を覚えなくはなかったが、今は脱出が最優先だった。   急がなければ、始業時間に間に合わない。また、ラプラス教頭に、ネチネチと小言を言われる。   もしも、脱出できなかったら……。そんなネガティブな思考は、頭の中から追い払った。 「うわわっ、かなりあっ、危ないのーーっ。ここはおとなしく、助けを求めたほうが賢明なのーーっ」 「す、少し待つのかしら……。あとちょっとで、ここに手が届くのかしら……」   金糸雀は、天井から崩れ落ちた土砂を足がかりに、レンガの壁のすき間に、懸命に手を伸ばした。   指をかけたレンガがぐらつく。バランスを失って、足場から滑り落ちた。間一髪、後ろで身構えていた雛苺に、抱き止められた。 「だから、ヒナは危ないって言ったのーーっ!!」 「ううっ……仕方がないのかしら……」   金糸雀は、上着のポケットから携帯電話を取り出した。始業時間には間に合わなくなるが、観念して仲間に頼ることにする。   二つ折りの筐体を開き、液晶ディスプレイをオンにした。圏外と表示された。 「うわわわわわっ、どうするのっ、どうするのっ、どうするなのーーっ!? 助けが呼べないのっ、ヒナたち……ずっと、ここにこのまま放置されちゃうのーーっ!?」 「おおおおおっ、落ち着いてっ、雛苺っ!! まままっ、まだ、電波が届かないと、決まったわけではないのかしら……」   雛苺の携帯でも、結果は覆せなかった。   二人は、電波の届く位置を捜して、落下地点を離れ、暗闇の中へと踏み入った。と、その時だ。   地下通路が、轟と鳴動した。間近に雷が落ちたような衝撃が、鼓膜をびりびりと打ちのめした。   土煙が、もうもうと舞い上がった。天井から、漆喰の破片が、ぱらぱらと落ちてきた。   二人は、びくびくと身をすくませ、その場に立ち尽くした。振り返るまでもなかった。   光が閉ざされた。携帯のディスプレイ以外、一条の光も射し込まない、真の闇の中に取り残された。   二人の落ちてきた入り口が、跡形もなく消え去ったのだ。   雛苺と金糸雀は、お互いの手をきつく握り締めた。   有栖学園の職員室と連絡が取れたのは、それから数分後のことだった。   要領を得ない翠星石に代わって、蒼星石が受話器を取る。雛苺と金糸雀が、入れ代わり立ち代わり電話口に出た。蒼星石は、そんな二人を懸命になだめつつ、事態の把握に努めた。   仲間の教師たちと共に、現場に急行した。   雪華綺晶が、慣れた様子で、山中に残された二人の足跡をたどっていく。   問題の場所は、程なく特定できた。が……。 「こっ、これは……」   蒼星石の表情に、険しさが増した。額の汗を拭うように、前髪をかき上げた。   眼下の山林には、直径十メートルほどもある、大きなクレーターがうがたれていた。   崩れた土砂の中に点在する岩石には、直径が一メートルを超える物も含まれ、また、周囲の高木も何本か巻き込まれていた。   手作業で対処できるレベルではなかった。重機でもなければ、とても歯が立ちそうにない。   しかし、ここは、整備された道路から三百メートルは離れた、全く手つかずな山の中だ。重機など、運び入れることすらおぼつかなかった。   と、雪華綺晶が、背負ってきたバックパックの中から、何かを準備し始めた。   カーキブラウンの紙に覆われたブロックを、かたわらに積み上げていく。   懸念を覚えた蒼星石が、その正体を訊ねてみると。 「……C4爆薬……」   俗に言う、プラスチック爆薬だ。蒼星石は、慌てて彼女を制止した。   雪華綺晶の技術を疑うわけではない。が、素性も明かされていない建造物に対して、発破は早急すぎた。何がどう裏目に働くか分からないのだ。   何と言っても、ことは大切な仲間の生命に関わるのだから。   雪華綺晶も納得した。フィルムを逆に再生するように、爆薬の塊をバックパックに戻していく。   そうだ。最終的にどんな手段に訴えるにしろ、まずは、その正体を明らかにせねば、話にならなかった。   蒼星石には、心当たりがあった。この裏山は、学園の敷地も含めて、全てローゼン校長の私有地だったはずだ。   地下に埋もれた謎の施設も、校長に縁の物かも知れない。   見計らったかのように、彼女のポケットの携帯電話が鳴った。ローゼン校長からだった。 「事態は呑み込めた。全員、すぐに戻ってきてくれ」   滅多になく、威厳を感じさせる声だった。   雛苺と金糸雀を救出するため、有栖学園の会議室に、主要な仲間たちがそろった。   ローゼン校長は、作業用の大きなテーブルに、すっかりぼろぼろになった一枚の図面を広げた。   校長と教頭を除く全員が、目を見張った。そのくすんだ紙に描かれたのは、明らかに建造物の一部だったからだ。校長は、鷹揚にうなずいて、一同の視線に答えた。 「しかし……この図面は、相当古い物と見受けられますが……?」   蒼星石が、ヘテロクロミアの目を光らせた。 「ああ。この図面も、裏山の地下の隠れ家も、1930年代の中頃に、この俺の今は亡き祖父さんの手によって、こしらえられた物なんだ」 「1930年代と言うのは……第二次世界大戦の直前ですわね。校長は、隠れ家とおっしゃいましたが、防空壕とは違うのですか?」   真紅が、割り込んだ。 「うむ。日本で防空壕が造られたのは、第二次大戦の末期になってからだ。そもそも、航続距離の長い戦略爆撃機自体、当時はまだメジャーな存在ではなかった。日中戦争すら始まってなかった時代に、誰が本土爆撃など予想できただろうか?」 「では……何ゆえ、これほど大仰な物を、わざわざ地下に造られたのです? 確かに当時の日本では、生粋のドイツ人であられたお祖父様は、多くの注目を集めたことでしょう。ですが、この建造物の規模は、単なる隠れ家の範ちゅうを超えています。何か、特別ないわく因縁があったのではありませんか?」 「ひょっとしてぇ……警察に追われていたとかぁ?」   水銀燈が茶化すが、ローゼンは眉根一つ動かさず、こう答えた。 「違う。祖父さんは、ナチスに追われる身の上だったんだ」   空気が、一瞬にして凍りついた。   ハーケンクロイツ、ホロコースト、焚書……。血と炎に象徴された歴史の暗部が、一同の脳裏に重く圧しかかってくる。   が、校長の続けた次の一言が、座を一転して白けさせた。 「祖父さんは、高名な錬金術師だったんだ」 「何を言い出すかと思えば……結局は、詐欺師に過ぎなかったんじゃないの……」   真紅は、眉根を押さえた。この校長を相手に、一瞬でも真摯に聞き入ってしまった自分を、深く恥じた。 「まあまあ……錬金術の真偽については、とりあえず置いといて……ヒトラーがオカルトに傾倒したのは、周知の事実だろ? ナチスに利用されることを恐れた祖父さんは、潜伏先として日本を選んだ。灯台もと暗しと言う奴さ……。当時の日本とドイツは、お互いに急接近しつつあって、遂には同盟国と相なった。ナチの連中も、逃亡者が、まさか同盟国に潜んでいるとは思いも寄らなかっただろうし、仮に感づいたとしても、日本の領土で大々的な捜査を繰り広げるわけにはいかなかった。……機嫌を損ねたくなかっただろうからね」   祖父が、まんまと逃げおおせたから、今の校長がある。   祖父が、莫大な財産を遺せたから、今の自由闊達な有栖学園が存在し得るのだ。 「……さて、真紅先生。君に一つ質問がある。君は……ラプラス教頭をどう思うかね?」 「は?」   真紅は、その質問の意図するところをつかみかねた。   ちらりとラプラスの様子をうかがうが、その赤い瞳は、虚空を見すえたまま、何も映してはいなかった。 「どうとおっしゃられても……教頭は、この学園の健全化に日夜尽力なさっている、見上げたお方ですわ。私、ことあるごとに、こう考えずにはいられませんの。爪の垢の伝説が本当だったら、どれほど素晴らしかったろうかと」   真紅の当てこすりを、しかし、ローゼンはさらりと受け流した。 「ラプラス教頭は、ウサギだ」 「それが、どうかされましたか?」 「ウサギが、直立して二足歩行する。人語を自在に操る。果ては、我々人類と生活を等しくする……。奇っ怪には思わないかね?」 「いいえ。その事実の一体どこに、異論を差しはさむ余地があるのです? 私には、見当もつきませんが」   ローゼンは、口元だけで薄く笑った。 「ふむ……では、具体的な事実とやらを列挙してみようか。例えば……こんなのがあるぞ? 身長一メートル八十センチのウサギの化石が出土された例は、ただの一度もない」 「……えっ?」 「どうした? ラプラス教頭とその一族が、進化の過程によって生み出された物なら、化石が残されていて然るべきなはずだ。……もう一つ、こんなのもあるぞ? 人類の歴史が始まって幾星霜、あまたの歴史書が綴られてきたわけだが、その中にただの一行も、人語を解するウサギの記述は載せられていない」   息苦しさを覚えた。   普遍であるはずの価値観が、ぐらりと揺らぐ。まがまがしい空気がじわじわと立ち込めてきて、肌があわ立った。   自明の理だった。何より、当のラプラス自身が、一言も異論を唱えなかった。   ややあって、翠星石が、重圧を振り払った。 「つまり、校長。おめーが言いたいのは、そいつが錬金術の力だっつーことですか?」 「そうだ。ラプラス教頭とその一族が存在するのも、この私に指摘されるまで、誰一人として、露ほどの疑念も抱かなかったことさえも。大気中に放出されたエーテルが、君たちの無意識野に影響を及ぼし、ラプラス教頭を一般人と何ら変わらない存在として認識させているのさ」 「それは……有り体に言えば、僕らは、一様にマインドコントロールされていると?」   蒼星石が、声を荒げた。怒りを覚えたからではない。ただ、戸惑う自分を抑えられなかっただけだ。 「……酷い……」   薔薇水晶が、ぼそりとつぶやく。 「おいおい、この俺をそんな目で見るなよー。今日まで実害はなかっただろ? ラプラス教頭の才覚は、誰もが認めることだし。……第一、これは全て、祖父さんが一人で仕組んだことなんだ。俺と俺の親父は、何一つ関与しちゃいない。そもそも、錬金術の具体的な仕様自体、一切受け継がれていないしー」 「なるほど……ここまでのところを総括すると、雛苺と金糸雀の二人は、かなり物騒な場所に閉じ込められていると、校長はそうおっしゃるのですね?」   真紅に促されると、ローゼンは、こくりとうなずいた。 「で、肝心な地下への入り口は、一体どこに隠されているのです?」 「旧校舎の真下、地下十五メートルの深さに埋められている」   衝撃の事実を、ローゼンは、さらりと言ってのけた。 「……な、なぜ、そんなことに……?」   真紅は絶句するも、努めて冷静に質疑を続けた。 「真紅先生の言葉を借りれば、物騒だから封印された。地下の隠れ家は、戦後の日本の占領政策が終わりを告げた時点で、役目を終えた。が、祖父さんが地下と決別したのには、もう一つ大きな理由があった。……からくり仕掛けの何体かが、暴走して手に負えなくなったからだ」 「そのからくり仕掛けが、封印されてすでに半世紀以上が経過した今でも、まだ活きていると?」 「その可能性は、否定できない」 「ぐずぐずしてはいられない。すぐに手を打たないと、取り返しのつかないことになってしまう」   性急に席を立とうとした蒼星石を、真紅は押しとどめた。 「校長には、何かプランがあるとお見受けしますが?」 「うむ。図面のここのところを見てくれ……」   待ってましたとばかり、ローゼンに得意そうな表情が浮かぶ。が、真紅ににらまれて、慌てて改めた。   一同は、固唾を呑んで、校長の一挙一動に注目した。 「裏山の裾野。ここに、カモフラージュされた通気孔が設置されている。ここからなら、地下に降りられる。ただし……通気孔の直径が、たったの三十五センチしかない」 「たったの三十五センチ? そんなに狭くちゃ、僕の体では、とても通り抜けられそうにないよ……」 「そうねぇ、私も胸がつかえちゃいそう。……そんな狭いところを潜り抜けられるのは、この中では、まな板な真紅くらいなものねぇ」 「だ、誰がまな板なのだわ!? ……って、えええっ!?」   一同に期待を込めたまなざしで射られ、真紅はうろたえた。 「そう言うことだ。私の知る限りにおいて、この孔を通り抜けられるのは、真紅先生と雛苺先生、金糸雀先生のお三方以外にない。そして、幸いなことに、真紅先生。君は、相当に腕が立つ。二人を助け出せるのは、君をおいて他にはいない」   ローゼンは、プランを締めくくった。   最終的な判断は、真紅自身にゆだねられた。   仮に彼女が拒絶したとしても、誰も彼女を責められなかっただろう。それほどの危険を伴った。   しかし、彼女は、戸惑いつつも、仲間たちの説得に応じた。元より、手をこまぬいているつもりはなかった。   次善の策として、陥没現場に発破をかけるにしても、どのみち二人の安全は確保せねばならない。   身を護る術もなく、暗闇を照らす手段すら限られている二人に、自力で対処させるわけにはいかなかった。   必要な装備は、雪華綺晶がすぐにそろえた。   真紅は、夜間迷彩服に袖を通した。LEDヘッドランプ、現在位置を知らせる発信機、軍用の小型携帯型トランシーバー、無線中継器、大型のマグライトを、それぞれ身に帯びていった。   雪華綺晶は、銃器を含むその他の装備の携行も強く勧めたが、真紅は丁重に断った。   真紅は、元来機械に疎く、トランシーバーすら満足に扱えなかった。うっかり銃器など預けられた日には、味方を誤射しかねなかった。そうなったら、目も当てられない。   加えて、彼女は身軽さが身上だ。機敏な動作を妨げる要素は、とにかく徹底的に排除したかった。   愛用のステッキに手を伸ばそうとした彼女を制し、校長は、一振りの細身の剣を差し出した。真剣だった。全長が一メートルほどの、俗にレイピアと呼ばれる物だ。それは、彼女の名前と同じく、全体が真紅に染め上げられていた。 「……これは?」 「祖父さんが、こんな時のために遺してくれた物だ。錬金術の力が秘められている。試したことはないが、どんなに手荒に扱おうと、刃こぼれ一つしないそうだ」   真紅は、抜き身の剣を受け取ると、利き腕で軽く構えてみた。その切っ先を、ひゅんひゅんと上下左右にしならせた。   レイピアは、羽根のように軽く、あつらえたように手に馴染んだ。 「いい剣ね……」   我知らず、血がたぎった。真紅はかぶりを振って、そんな自分を深く戒めた。   指定された通気孔は、図面通りの場所で見つけられた。   カモフラージュのカバーが外された。真紅はロープで釣り下げられ、万歳の姿勢で中へと下ろされていった。   石造りのごつごつしたパイプの中を、何とか無事に通り抜けた。真紅は、額のヘッドランプをともした。   LEDの鮮烈な光に、奥へと続く通路の一端が照らし出された。中も、図面に描かれた通りのようだ。   真紅は、降下用のハーネスから、ロープを外した。ヘアピンを引き抜き、頭の上で束ねたツインテールを、元通りに振りほどいた。   続けて下ろされたロープから、得物のレイピアを受け取った。   闇の中から、ぬらりと何かが顔を覗かせた。真紅は、気配を察した。   振り返りもせずに、床を蹴った。素早く間合いを確保した。   彼女の孤独な戦いが始まった。

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