書物という異界3 - (2005/09/24 (土) 17:19:45) の編集履歴(バックアップ)
書物という異界3:狂っているのはどちらか
しりあがり寿
『“徘徊老人”ドン・キホーテ』(朝日新聞社)
『“徘徊老人”ドン・キホーテ』(朝日新聞社)
(暫定稿)
周知のとおり2005年は節目の年で,戦後60周年,阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件から10年の年,そして「一石仙人」のところで述べたように世界物理年…などと様々な記念の年とされているが,もう一つ,セルバンテス『ドン・キホーテ』(前篇)の刊行から400年にあたる年でもある。
近代文学の曙にあって燦然と輝くこのセルバンテスの作品は,その内容の豊穣さのために様々な解釈に晒されてきたが,私はここでそれに立ち入ることはしない(できない…)。目下この大著を楽しんでいる最中である。
周知のとおり2005年は節目の年で,戦後60周年,阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件から10年の年,そして「一石仙人」のところで述べたように世界物理年…などと様々な記念の年とされているが,もう一つ,セルバンテス『ドン・キホーテ』(前篇)の刊行から400年にあたる年でもある。
近代文学の曙にあって燦然と輝くこのセルバンテスの作品は,その内容の豊穣さのために様々な解釈に晒されてきたが,私はここでそれに立ち入ることはしない(できない…)。目下この大著を楽しんでいる最中である。
代わりにと言ってはなんだが,ここでは(またしても)しりあがりの漫画を取り上げたいと思う。舞台は現代社会。主人公は折り紙の兜をかぶった徘徊老人(ちなみにサンチョは介護士)。弱いものイジメや不正を許さぬ彼は,妻を捜しながら,臆することなくヤンキーや世の堕落に立ち向かっていく。
しりあがりはドン・キホーテの舞台を現代へと移し変えることに見事に成功しているように思われる。馴れ合いと惰性を激しく批判し,現代に生きる人間の心の病理へと切り込むメスの鋭さは,読む者をドキッとさせるほどである(第五話「環状線」を見よ)。
狂者という鏡を前にして読者はパラドクスの迷宮に入り込み,ドン・キホーテと我々,狂っているのはどちらか分からなくなってしまう。
しかし狂者の眼を通して社会の病理を暴くというその手法は,エラスムス『痴愚神礼賛』へと遡ることのできるもので,オリジナルの『ドン・キホーテ』の作者セルバンテスもまたエラスムス主義者であった。しりあがりのドン・キホーテが,このルネサンス文学の豊かな伝統を現代に蘇らせたと言ったら言い過ぎであろうか。
ところがルネサンス期における諷刺の陽気さは,ここでは大きく失われ,代わりにカタストロフのオブセッションが作品の基底を成しているように見える。しかしクライマックスにおいて我らがドン・キホーテが神と交わす会話は,矜持に満ちて崇高さすら感じさせ,そしてラストシーンは,生きづらくなったこの世においても,今なお,愛の可能性を(実は不可能で逆説的であるにせよ?)追うことができるということを示しているのではなかろうか?(menocchio)
しりあがりはドン・キホーテの舞台を現代へと移し変えることに見事に成功しているように思われる。馴れ合いと惰性を激しく批判し,現代に生きる人間の心の病理へと切り込むメスの鋭さは,読む者をドキッとさせるほどである(第五話「環状線」を見よ)。
狂者という鏡を前にして読者はパラドクスの迷宮に入り込み,ドン・キホーテと我々,狂っているのはどちらか分からなくなってしまう。
しかし狂者の眼を通して社会の病理を暴くというその手法は,エラスムス『痴愚神礼賛』へと遡ることのできるもので,オリジナルの『ドン・キホーテ』の作者セルバンテスもまたエラスムス主義者であった。しりあがりのドン・キホーテが,このルネサンス文学の豊かな伝統を現代に蘇らせたと言ったら言い過ぎであろうか。
ところがルネサンス期における諷刺の陽気さは,ここでは大きく失われ,代わりにカタストロフのオブセッションが作品の基底を成しているように見える。しかしクライマックスにおいて我らがドン・キホーテが神と交わす会話は,矜持に満ちて崇高さすら感じさせ,そしてラストシーンは,生きづらくなったこの世においても,今なお,愛の可能性を(実は不可能で逆説的であるにせよ?)追うことができるということを示しているのではなかろうか?(menocchio)