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オペラ≪ガリバー≫ - (2006/07/17 (月) 00:03:35) のソース
**オペラ≪ガリバー≫ オペラシアター・こんにゃく座 (改訂版初演) シアタートラム 5月のことだが,こんにゃく座の≪ガリバー≫を観た。 小人国や巨人国,飛島(ラピュタ)などを旅する<ガリバー>が演劇でどう表現されるのか,純粋に興味津々だったが,カメラを使った演出などに感心。 見る視点によって巨人になったり,小人になったりしてしまう<ガリバー>の本質をよく表わしていたと思う。 台本には原民喜による翻案を用いている。原民喜はジョナサン・スウィフト原作の『ガリヴァー旅行記』(1726)を再話し,自身もまた次のような詩を書いている(注)。 >ガリバーの歌 > >必死で逃げてゆくガリバーにとって >巨大な雲は真紅に灼けただれ >その雲の裂け目より >屍体はパラパラと転がり墜つ >轟然と憫然と宇宙は沈黙す >されど後より迫まくってくる >ヤーフどもの哄笑と脅迫の爪 >いかなればかくも生の恥辱に耐えて >生きながらえん と叫ばんとすれど >その声は馬のいななきとなりて悶絶す 原民喜は1945年8月8日,被爆した広島のまちを歩いていて,練兵場の柳の木のあたりに,一匹の馬が「ショウ然と」佇んでいるのを見た。その時のことを<ガリバー>に重ね合わせて書いたのが上掲の詩である。 『ガリバー旅行記』で,ガリバーが最後に訪ねたのは,理性を持つ馬フウイヌムと人間そっくりの野蛮な獣ヤーフとが住む国だった。練兵場の馬は,とどまることを知らぬ人間の蛮行によって焦土と化した街を見て何を思ったのだろうか。 誰もが小さい頃に絵本や童話で触れるポピュラーな『ガリヴァー旅行記』が,実は痛烈な社会風刺・批判と人間嫌悪の書であることを知ったのは随分後になってからのことだった(原作の『ガリヴァー旅行記』についてはこちら)。 「滅びよ我が生まれた日」。毎年自分の誕生日にヨブ記第3章を読んでいたというジョナサン・スウィフトは,メニエール症候群が悪化し,精神に異常をきたし廃人宣告を受けた末に死んだ。原民喜は妻を亡くし,被爆した末に,1951年に中央線の線路に身を横たえ自殺した。 21世紀のいま,『ガリバー旅行記』をいかに読むか。 このオペラには3人のガリバーが登場した。スウィフトの<ガリバー>,原民喜の<ガリバー>,そして現代の私たちの<ガリバー>である。3人のガリバーは,様々なベクトルを内包する多義性・豊かさを持った<ガリバー>というキャラクターの各側面を体現しているのであるが,こんにゃく座にとっての試みは,スウィフト・原民喜を経て,あるいは征服と戦争の近代を経て,ガリバー=人間はいかに生きていくかということを模索するということだったのかもしれない。 それを大胆に試みたのがラストシーンである。 物語は初め,概ね原作に忠実に進むが(B29爆撃機を思わせる音が挿まれたりしていたのは除いて),ついにフウイヌム国の段になって,決定的に違う道を歩み始める。結末は原作と全く正反対とも言っていい。 より正確に言えば,こんにゃく座の<ガリバー>に結末はないのかもしれない。 楽観も悲観もしすぎず,人間の野蛮さをも受け止めて,それでも我々は生きて行かなくてはならない。 ガリバー=人類の航海はまだまだ続くのである。 (注)原民喜の『ガリバー旅行記』は現在,[[青空文庫>http://www.aozora.gr.jp/index.html]]で読むことができる。あと現在入手が容易なのはフロンティア文庫の<風呂で読める文庫100選>『ガリバー旅行記』である。僕はこの塩ビ製の本を入浴しながら1日20ページ・ペースで読んだ。のぼせてしまうので,あまり一気にたくさんは読めないのだ。