助けてくれ。掠れた声で老人は言った。彼は身動きひとつできない。喉元に硬く、冷たい感触。刃だった。それは死だった。死。なぜ自分が殺されそうになっているのか、誰も答えてくれやしない。殺そうとしている、目の前の女でさえも。
「ああ。いやだ、いやだ、いやだ。死にたくない」
 男は泣いていた。情けなく顔を歪め、涙を流し、情けを乞いていた。だが女の顔は凍りついたままだった。刃を引くつもりがないことは明らかだった。抵抗できるものならとっくにしていたが、喉元に触れた刃と、体に蛇のように巻き付いた木が、それを不可能にしていた。自分の命は、この女にかかっていることを、男は否が応でも理解した。ああ、くそ、くそ、なんでこんなことに。
「お願いだ。殺さないでくれ」
 男はこの女に、慈悲の心があることを期待した。人間である以上、根気よく訴えれば、必ず殺意が揺らぐはずであると、この男は信じて疑わなかった。
 男の必死な泣訴に、しかし、女は少しも揺らいだ様子はなかった。まるで、そんな言葉は無意味だと言わんばかりの、どこまでも、冷たい表情であった。
「なら、質問に答えてちょうだい」
「な、なんだ。答えれば、助けてくれるのか」
「ええ。そうね。助けてあげる」
 そこで女は、初めて表情を崩した。それはとても小さな笑みだったが、男にはそれが、女神の微笑みのように思えた。男の目に、光が戻る。やはりこの女には人としての心が残っていたのだ。男は歓喜した。よし、よし、よし。神は私を見捨ててはいなかった。当然だ。私は何も悪いのことはしていないのだから。
「貴方、イーリングという名の村に、聞き覚えはあるかしら」
「は」
 まさかの質問に、男はなんとも間抜けな声を発した。イーリング。村。記憶を辿るが、見つからない。一度は聞いたことはあるかも知れなかったが、思い出せないということは、つまり、その程度なのだ。
「いや、ない。なんだ、それは。どこにある村なんだ」
 首を振って答える男の言葉に、女は再び、すっと表情を無くした。その女の瞳は、まるで深い穴のようだった。真っ暗なのだ。男は恐怖した。一瞬にして、身の毛がよだつ。
「Ultrix427」
 女は呟いた。それがひどい呪いの言葉であることが分かって、男は戦慄したが、もう、何もかもが遅かった。
 過たず、首を刎ねる。
 床に落ちた屑の頭を見ても、女の心は悲しみには、毛ほども動かなかった。

 なんと、愚かなのか。なんと、醜いのか。この残忍で横暴な男のせいで、どれだけの仲間が死んだことか、女は一度も忘れることはなかった。
 しかし、男は忘れていた。あまつさえ、滅ぼした村の名前すらも、憶えていなかったのだ。屑。救いようのない屑。死んで当然の屑。情けをかける道理など、どこにもありはしなかった。

 木の拘束を解く。首の無くなった胴体は、無気力に床に倒れ込んだ。
 女は、刃の先端を男の胸に突き立てた。そしてそのまま、字を刻む。一文字一文字、怒りと憎しみを込めて、ゆっくりと。
 出来上がったのは、一つの魔法名。Ultrix427。彼女が生きる意味。人生。
 死体をそのままにして、女は家をあとにした。いずれ死体は見つかってしまうだろうが、そんな些細なこと、今はどうでも良かった。
 みんなに、伝えなけれならない。一人、裁いたことを。
 ふらふらとした歩みで、女は霧の中へと消えていった。

◆ ◆ ◆

 寒い。
 小雨が降っている。
 魔女はそれでも構わず、墓の前に跪いた。湿った地面に触れて、膝が濡れた。
 この墓は、村人のものだった。遺骨は埋められていない。なんとなれば、遺体はすべて、狩人に滅ぼされてしまったからだ。
 村が襲われたのは、二十年も前のことだった。それまでは普通に暮らしていた。決して裕福ではなかったが、それでも皆、幸せに暮らしていたのだ。
「ずっと、みんなで暮らしていけたら良いね」
 そうだね、と言う母親の優しい顔は、今でも鮮明に思い出すことができる。
 まだ幼い子供だった頃のマージョリーは、この平穏がずっと続くものと信じていた。周りの人間も、それを信じて疑わなかった。

 一週間後、イーリングは炎に包まれた。
 草木の焼ける臭い。髪の毛の焼ける臭い。脂の焼ける臭い。臓腑の焼ける臭い。骨の焼ける臭い。思い出すだけで吐き気を催す。

 奴らは、何の罪もない人間を殺した。魔女の一族というだけで。何も悪いことはしていない。ただ。山奥で平凡に生活していただけなのに。
 唯一生き残った者として、仲間の仇を討つのは、なんらおかしい事ではない筈だ。あの屑は、殺されても仕方が無かった。女は自分に言い聞かせた。
 しかし、彼女は人を殺したのだ。それは、紛れもない事実だ。
 ああ。もう、引き返せない。いや、引き返すつもりなど、最初からなかった。この体は、この心は、この魂は、この魔法名は、全て、復讐のために捧げると、ずっと前に誓ったのだから。
「すぐに終わらせるから」
 黒魔女は言った。優しげな、悲しげな表情だった。
 だから、待っててね。
 すぐに終わる。どんなかたちであれ、悲しみと憎しみの連鎖は、かならずどこかで切れる。
 彼女は確信していた。この鎖が切れることを。自分が、あるいは、奴らが死ぬことで。

◆ ◆ ◆

「マージョリーさん、どうしてですか」
「何が」
「どうして、こんな、酷いこと」
「分からないの」
「分かりません」
「私は、奴らが許せなかった。大勢の人を殺しておきながら、それでも、当たり前のように息をしていることが」
「マージョリーさん」
「私は罪人に罰を与えた。当たり前のことをしたのよ」
「でも、それは」
「そう。私も罪人。だからこそ、貴女は私を追ってきたんでしょう」
「……」
「でも、今は駄目。私にはまだ、やるべき事が残っているの」
「させません」
「無理よ。止められないわ。貴女じゃ」
「それでも、私は貴女と闘います」
「できることなら、貴女を傷付けたくはないのだけれど」
「私もです。けど」
「ええ。そうね。仕方が無いわよね」
 そう、仕方が無い。他に、とるべき途がなかった。
 そう、仕方が無い。自分は罪を犯した。人を、殺したのだ。咎人が裁かれるのは、いつの世も変わらない。受け入れるしかない、この現実を。
 でも、目の前の小さな魔女は、涙を流していた。仕方が無いと、割り切ることができずにいたのだ。
 ああ。私は今から、彼女を傷付けなければならないのか。何の罪もない、あの娘を。彼女はきっと、私を心配してくれているのだろう。それなのに、私は。
 私は悪い人ね。

◆ ◆ ◆

 処刑用の斧を持ったと赤黒い修道服を着たに、ボロボロにされた。自分の中から、赤い物体と黄色い物体が出てくる。肺に、強い痛みを感じた。
 まさか、これほどとは。必要悪の教会。対魔術師に特化した戦闘員。二十年以上も積み上げ磨いてきた自分の魔術を、こうも簡単に否定してくるとは。何とも恐ろしい連中だ。
 激痛。気づいたときには既に遅かった。男の振るった斧から放たれた凶刃が、マージョリーの左腕を根元から切断する。女が放つ正確無比なルーン魔術に気を取られていた。幸いにも、杖は右手に握っていた。戦える。まだ、戦える。杖の先端が爆散し、欠片が男へと飛来する。しかし、欠片は全て、ルーンの炎によって焼き尽くされる。
 炎が、マージョリーを包む。熱い。焼けるようだ。杖の加護が無ければ、炭の塊になっていただろう。しかし、それも時間の問題だった。加護が、絶大な火力に押されて、徐々にその効力を失いつつある。耐えるしかない。炎が消えるまで、耐えるしかない。マージョリーは、もう、動くことすら、ままならなかった。
 炎の勢いが衰える。よし、よし、もうすぐだ。
 突然、炎の向こうから、白い斬撃が飛んできた。一つだけではなかった。数えきる前に、刃は、マージョリーの全身を切り刻んだ。
 頭を、腹を、手を、足を。刃が切り裂く。消えた炎の向こうに見えた男の顔は、喜びに満ちていた。

◆ ◆ ◆

 死ぬ。死んでしまう。まあ、仕方が無い。仕方が無いのだ。なんとなれば、私は。
 あ、あ、あ。なぜ、死ぬ。なぜ私は、死ななければならない。私は、いったい、誰なんだ。思い出せない。何もかも、何もかも。すべて。
 脳みそが、記憶が、切り裂かれているんだ。仕方が無い。けれど、私はなぜここにいるんだ。思い出せないが、思い出さなければ。死ぬ前に、何としてでも。
 理由。私がここにいる理由。ああ、だめだ。思い出せない。混沌としている。
 私は何も思い出せない。自分の名前すら思い出すことができない。
 どうやら、私はこのまま死ぬらしい。どこまでも水の中を沈んでいく感覚が、私を支配していた。嫌な気分ではなかった。この感覚のまま死ぬのも、まあ、悪くない。
 ふいに視界が暗くなった。
 赤黒い修道服の女が、私を見下していた。女は何かを呟いたようだったが、私にはそれが何なのか分からなかった。
 女が、火炎を放つ。大きな火炎。これは、まるで、地獄の業火だ。咎人を焼き尽くす、裁きの炎だ。
 咎人。裁き。ああ、そうだ、私は。

◆ ◆ ◆

 苦しい。ああ、死にたくない。死にたくない。やっと、やっと思い出したのに。私がここにいる理由、私が生きる理由、私が戦う理由、魔法名。思い出したのに。嫌だ。こんなところで死ぬわけにはいかない。
 死にたくない。
 心臓の鼓動を感じる。だが、あと数回で、それも終わりだ。終わり。死。何もかも、終わるのだ。全てが無意味だった。全てが、無駄だった。まだ、終わってはいないのに、終わってしまう。死んでしまう。このときのために、私は、魔術を学んだのか。死ぬために。殺されるために。なんと、哀れな女。
 だが、仕方が無い。これは罰だ。仲間の仇を討つという口実で、仇の人間を殺した罰だった。無関係の人間を巻き込んだ罰だった。小さな魔女を傷付けた罰だった。
 大切だった。あの頃の、楽しかった仲間との思い出は、彼女にとって、何よりも大切だった。だから、仲間のために戦うことを、神様はきっと許してくれる。仕方が無いと。そう本気で信じていた。
 その結末がこれだった。これが許し。これが罰。これが贖罪。これが終わり。
 無様で無慈悲で悲惨な幕切れ。罪人にお似合いの最期だった。
「これが、報い」
 何かが、焼けている臭いがする。髪の毛の焼ける臭い。脂の焼ける臭い。臓腑の焼ける臭い。骨の焼ける臭い。魂の焼ける臭い。これは、村の焼ける臭いと同じものだった。死の臭い。
 マージョリーの肉体は、とっくに滅びていた。それは最早、人ではない。黒い黒い、ただの炭の塊だった。

 報い。

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最終更新:2012年12月15日 17:31