暗闇の森を、私は走っていた。
ぎゃあ、と断末魔の悲鳴が、すぐ後ろから聞こえた。間近まで、死が迫っていることを、私は再認識した。足を停めれば、やられる。
「があぁ、ああ、ああ……」
火達磨でのた打ち回るブルーノ司教の息子は、つい最近、私の救団に入ったばかりだった。あまねく人々を苦しみから救いたいという、私の思想に共感してくれたのだ。
追手の中には、ブルーノ司教の手勢も少なからずいる。心優しい彼の命を奪ったのは、彼の父の配下かも知れないのだ。残酷だった。悲惨だった。父が子を手にかけるなど、決してあってはならない事だ。
だが、この悲劇を招いたのは、紛れもなく私なのだ。他の誰でもない、この私が。私のせいで、彼は、ファビオは死んだ。私のせいで、多くの人間が死んだ。死んでしまった。私が殺したようなものだ。いや、実際、私が「殺した」のだ。
「早くお逃げ下さい」
「だが、彼は、ファビオは」
「彼はもう助かりません」
そう言った彼は、犠牲となったファビオに代わり、私のすぐ後ろを盾となるように走っている。次に死ぬのは、彼だ。
ファビオは、貴女様を庇って、火球を抱いたのです。
「ですから、早くお逃げ」
言い終える前に、若き修道士は、追手の一人が放った氷槍に胸を貫かれていた。飛び散った血と肉と骨が、私の顔をべっとりと濡らす。血潮の生温かさと、弾けた水の冷たさが、私の感覚をひどく混乱させた。
修道士の絶叫は、迫り来る死の先触れに過ぎない。私は、分かっていた。
いま、走る足を止めれば、私も死ぬ。殺される。私は、無力だ。ただの人間なのだ。
「くそ」
私は走り続けることしか出来ないらしかった。そうでなければ、ファビオも、ジョヴァンニも、残してきた沢山の同士達も、犬死にだった。走らなければ、逃げなければ。生きなければ、皆の死が無駄になってしまう。それだけは、何としてでも避けねばならない。
私は、こんなにも無力だ。走るしかない自分が惨めだった。憐れだった。悔しかった。辛かった。
こんなにも走り続けて、私はいったい、何の為に走っているのか。
分からない。分からないが、だからこそ、今は逃げねばならない、走り続けねばならないのだ。
「走れ、走るんだ」
私達は、もう、走り続けるしかなかったのだ。
全てを無駄にしないために、私は、夥しい犠牲を払いながら走り続けるしかない。そうする以外に、途は無かった。
また一人、誰かが死んだ。私は振り返らなかった。
◆ ◆ ◆
異端審問の事実が明るみに出たとき、私は、ひどく混乱した。
「なぜ。なぜですか父上。なぜ、私たちが」
異端審問とは、無駄な手順を踏む処刑に過ぎない。審問の結果がどうであれ、最終的に審問対象は死ぬ。殺されるのだ。否応なく、神の敵だと定められる。
なぜ私たちが処刑されなければならない。私たちは、何も間違ったことはしていない。納得ができない。理解ができない。私は父に訊いた。
「分からないか」
「分かりません」
「お前が、そこまで愚かだったとはな」
「父上」
ああ。と父は言った。
「嘆かわしい」
父は頭を抱えていた。そして、私を見た。
父の、私を見る眼が、明らかに変わっていた。失望の眼差しだった。軽蔑の眼差しだった。私は今の今まで、父にこのような目で見られた事など一度も無かった。
「私が、何かしたというのですか」
「お前だけの問題ではない。お前と、お前の仲間たちの問題だ」
「救団」
「お前たち救団は、異教徒を救った。神の敵を、救ったのだ」
「父上。しかし」
「しかし、なんだ」
「彼らは苦しんでいました。救いを、求めていたのです」
あまねく人々を苦しみから救いたいと、父上も、私の理想に同意して下さったではないですか。だのに、何故。
「そう。そうだ。確かに、お前の理想は素晴らしい。救済。ああ、良いことだ。とても」
「そうでしょう」
「だがな。異教徒は人ではない」
「どういう意味ですか」
「そのままだ」
「彼らは人です。私たちと同じ、人間なのです」
「やめろ。聞きたくない」
父はそれっきり、私と目を合わそうとはしなくなった。
「私の教えが、間違っていたのか」
「いえ。父上の教えは、何も間違ってはいませんでした」
「だが、現にお前は、罪を犯してしまった。何かが、何かが、間違っていたんだ」
父はうわ言のように、何が、何が、と繰り返した。
「ともかく、早くここから立ち去れ」
「追い出すのですか、私を」
「そうだ。お前は最早、息子でもなんでもない。異教徒を救った時点で、それは決定したのだ」
「他人ということですか」
「他人だ。だからこれ以上、言葉を交わす必要もない。賢いお前なら、もう理解しているな。残された時間は少ない」
「父上」
父はそれ以上なにも言わなかったが、父の言わんとしている事は、何となく察しがついた。なんとなれば、私は父の息子だからだ。親子。
「今まで、お世話になりました」
私は家を出た。それが、父と子の、最後の会話だった。
◆ ◆ ◆
男が家から出ていって、何時間か経ったころ、数名の騎士が部屋へ入ってきた。
「奴はどこだ」
「奴とはいったい、誰のことだね」
「とぼけるな。貴様の息子はどこにいる」
「さて。知らんな」
「なんだと」
「知らないと言ったのだ」
「貴様。神の敵を、庇うというのか」
「庇うも何も、私に息子などいない。人違いではないのか」
「は、は。なるほど。息子がああなら、父も、というわけか」
騎士の一人が、憐れむように笑った。
「泣かせるじゃないか。え、罪を犯した息子を助けるため、父も罪を負うとは」
「用事が済んだのなら、早く出ていってくれないか」
「ああ。出ていくさ。言われなくとも」
背中を見せて三歩歩いて、騎士は前向きのまま、後ろに跳んだ。腰を捻りながら、剣を鞘から抜き放っている。
次の瞬間、哀れな神の敵の頭蓋骨は、横に二つに分かれている。敵は、悲鳴もあげなかった。
断面から血が吹き出たのは、二呼吸ほどおいた後のことだった。
◆ ◆ ◆
あの逃走劇から半月が経とうとしていた。
私たち救団と正教の追手との争いは、最終局面を迎えようとしていた。この夜の内に、全てが終わる。
そこは朽ちかけた教会だった。残り僅かな同士は、教会の外で教皇の手勢と殺し合いをしている。戦いの音が、確かに聞こえる。
「あなた」
「マリア」
マリアは、歯の根も合わないほどに震えていた。マリアは、臆病な女だったのだ。
私は、震える妻の手を、固く握り締めた。そして、神に祈った。祈りは届く。人はそれで救われる。私と妻は、ただひたすらに祈りながら、戦いが終わるのを待った。
どれ程の時間、そうしていただろうか。外から音が聞こえなくなった。それが意味するもの。終局。
鈍い音を立てて教会の扉が開いた。
「おお。憐れな二匹の子羊よ」
芝居めいた口調と動きで近づいてくるのは、救団の一員ではなかった。だが、私の記憶の中にある人物。大学生時代、ともに十字教神学を学んだ友だった。
ニコラ。
「お前が、追手を率いてたのか」
「そうさ」
ニコラは、返り血に染まっていた。いったい、何人殺したのだろう。右手に持った剣も真っ赤だった。
「残るは、君たち二人だけ」
「そうだろうな」
「抵抗しないのかい」
「したところで、何になる」
応じる私の顔に恐らく、生気はない。妻も同様だった。何となれば、祈りが届かなかったのだから。
「なるほど。己の無力さを自覚してるんだね」
「ああ」
「なら、初めから諦めていれば良かったのに」
「逃げ切れると思っていた」
「そう。それだよ。それが間違いだったんだ。世界三大宗派の一つを敵に廻しておきながら、逃げ切れる訳が無いことを、賢い君は理解していたはずだ。それも、大勢の人間を連れてね。君とマリアさんだけなら、もしかしたら、運良く逃げる事が出来たかも知れないのに、君は、救団ごと引き連れてしまった。全員が助かる途なんて無いのにね。まあ、君がそんな人間である事は、僕は十分に分かっていたけれど。ああ、惜しいね。あの誤謬に気が付いてさえいれば、救済はすぐそこにあったのに。君という人間は、どこまでも愚かだよ。君のせいで、いったい何人何十何百の尊い命が失われたのだろう。まさに、悲劇だね」
「その通りだ」
「でも、まだ救いはある」
「なんだと」
「僕だよ。僕が、救ってあげると言ってるんだ」
彼は私に微笑んで見せた。爽やかな笑顔だったが、その奥にある邪な本意を、私は見逃さなかった。
「どんな魂胆だ」
「魂胆だなんて。僕と君の仲じゃないか」
「何を望んでいる」
「僕はただ、マリアさんを差し出して欲しいだけだよ」
「な」
私は言葉を失った。いま、奴は何と言った。マリアを。妻を、差し出せと、そう言ったのか。
「本気で、言っているのか」
「この場面で僕が冗談を言うと、君は思っているのかい。だとしたら、君は本当に愚かだよ」
ニコラの瞳が、黒く染まる。もともと奴の目は黒かったが、今になって、ますますその深みが増す。暗い穴のように、覗き込んだ人間を不安にさせる、やけに濡れた漆黒の瞳。
「私からも言わせてもらおう。私が素直に妻を差し出すと、お前は思っているのか」
だとしたら、お前は本当に愚かだ。
「ふ、ふ。そうだね。その通りだ。君はそんな人間じゃない。でも、関係ないんだ。関係ないんだよ、君の意思なんて」
「どういうことだ」
「ニコラさん」
奴が答える前に、マリアが言葉を発した。私は、妻の目を見る。真っ直ぐと、ニコラの瞳を見詰めていた。嫌な予感がした。
「私が貴方に付いて行けば、夫を、助けてくれるのですか」
マリア。お前は、何を考えているんだ。いや、夫である私には分かるぞ。お前の考えている事が。駄目だ。駄目だ、マリア。
「ああ。そうさ。マリアさん。貴女さえ異端審問を受けてくれれば、夫の方は見逃してあげる」
「本当ですね」
「神に誓って」
「なら」
「やめろ」
私には、妻が次に放つ言葉が予想できた。だから、止めようとした。遮ろうとした。だが、マリアは、私の方を向かない。向いてくれない。
やめろ。マリア。それ以上言うんじゃない。やめろ。お願いだ、やめてくれ。お前がいなくなったら、私は。
「貴方に、付いて行きます」
「賢明な判断だ」
ニコラはにっこりと笑った。ここまで嬉しそうな奴の笑顔は、初めて見た。
奴はマリアの手を取った。やめろ。汚い手でマリアに触るな。
「マリア。どうして」
私は世にも悲しそうな顔をした。妻も同じだった。これが、今生の別れだと理解しているから。
「ごめんなさい。あなた」
でも、こうするしかないの。私も、とても辛い。けれど、それであなたが救われるのなら、それで良いし、むしろ、そうでなければならないんだと私は思う。喪ってこそ、意味有るものも、ある。あなたは、それを得る。
さようなら。
「ずっと、ずっと、愛してるわ、あなた」
マリアは、ニコルと共に、教会から出ていった。妻の背中が見えなくなるまで、私は、身動き一つできなかった。
◆ ◆ ◆
私は救われた。
その代償として、多くのものを失った。妻。友人。仲間。すべて、なにものにも代え難い、大切なものだった。けれど、もう戻らない。
目の前が真っ暗だ。めまいがする。頭が痛い。体が重い。
私は考えた。なぜだ。なぜ、こうなったのだ。
私はとっさに神に縋った。幾日も教会に通い、神に祈りを捧げた。
だが、神は何も教えてはくれなかった。
◆ ◆ ◆
賢い私は、しばらくして気がついた。これは、鉄槌なのだと。愚かな私に下された、神の裁き。
私は思い出す。己が目標を。その胸に抱いていた夢を。父に、母に、友に、そして、妻に語った理想。
「あまねく人々を苦しみから救いたい」
だが、現実はこうだ。私がこうして腑抜けている間にも、世界のどこかで人が苦しみ、救いが来ないまま、絶望しながら死んでいっているのだ。
マリア。
私が愛した人の名前。
自らを救えず、自らの愛した一人の人間さえ救えない者に、どうして世界を救えようか。
神の鉄槌を受けた私は、ようやく理解した。
私の信じた神は人を救えない。
すなわち、十字教で世界は救えない。
そうだと分かった時には、何もかもが遅かったが、それでも、私にとってこの事実は革命的だった。
私が信じた神は人を救えない。だが、絶対に神は人を救える。我々が幸運と呼んだり、災厄と呼んだり、天上の意思と呼んだりするもの。それこそが、神だ。
では、なぜ私が信じた神は人を救えないのか。神は絶対に人を救えるのに、なぜ、神は人を、私を救わないのか。
私は悟った。
私の信じた神は、正しい神ではなかったのだ。真の神ではなかったのだ。偽りの神だったのだ。そもそも、神ですらなかったのだ。神でないものに、人が救えるはずが無かったのだ。
ならば、真の神とは、いったいなんなのか。
◆ ◆ ◆
それは、冷たい雨が降りしきる、体の奥の奥から冷えてくる日の昼下がりの出来事だった。
暖炉の前で、真の神の正体について思考を巡らせていた私は、扉を叩く音を聞いた。
扉を開けると、黒いローブを纏った男が立っていた。
「何者だ」
「旅をしている者です」
「旅?」
「ええ。各地にいる人間と触れ合い、見聞を広めているのです」
「そうか」
なんだか怪しい人物だ、と私は思ったが、取り敢えず旅人を家に入れる事にした。旅人。この男が旅人でないことは一目で分かった。そういった道具の類を持っていないからだ。
どういう目的で、俗世から離れたこの家へとやって来たのか。それを聞いてから追い出しても遅くはないだろうと思った。
暖炉の前で、私と旅人は、向かい合って座った。
「どこから来たんだ」
「イタリアから」
「そうか。いいところだな」
「ええ。街並みが綺麗だし、美味い食べ物もある。何より、人が優しいのが良い」
「そうだな。優しいのは、良いことだ」
何だか嫌な男だな、と私は思った。悪人面をしているわけでは無い。むしろ、人の良さそうな顔立ちだ。しかし、何故だか信頼できない気がする。旅人と、嘘をついているからではない。例えこの男が嘘を言っていなくても関係ないのだ。
彼の目は、まるでどこまでも続く深い穴のようだった。真っ黒なのだ。真っ暗なのだ。迂闊に覗き込めば、そのまま落ちてしまいそうになるほどに。
私は、この旅人と同じ目を持つ人間を知っている。ニコラ。あの日、妻を連れ去った男。
「どうしました」
「ん。いや。少し、昔の事を思い出していたんだ」
「イタリアに、何か嫌な思い出でも」
「ああ。だが、そればかりでもない」
良い思い出もあった。望んだ女と巡り会えた。そして結婚できた。マリア。彼女との生活は、とても良いものだった。良い事は、とても良い。陳腐な表現だが、あの日々は「幸せ」だったと断言できる。
「旅をしていると言ったか」
「はい」
「一人で」
「はい」
「家族は、いないのかい」
「妻がいます」
「私にも妻がいる」
「愛して、いましたか」
「ああ。世界中の誰よりも」
「そうですか。愛していましたか」
「君は、どうなんだ」
「私も愛していました」
「それなら、良いな」
「でも、失ってしまいました」
「奇遇だな。私も妻を失ってしまった」
「似ていますね」
「ああ。何だか、他人とは思えない」
「そうですね。まるで」
旅人は何かを言おうとしたが、途中で口をつぐんでしまった。顔を伏せ、しばし考える素振りを見せたあと、彼は顔を上げ、私の目を真っ直ぐ見詰めてこう言った。
「貴方は、神を信じていますか」
「神か」
「はい」
「信じてはいる。しかし、信じるべき神が、未だに見つからない」
「見つかりそうですか」
「多分、見つける事は出来ないだろう」
「どうしてそう思うんです」
「見つかることを、神が望んでいるとは思えない」
「いえ。神はきっと、それを望んでいます」
「なに」
旅人は黙った。私はそれを見て、何故だか不思議な気持ちになった。もしかしたら、この人間は、真の神について、世界を救う存在について何かとても大切なことを知っているのではないか。彼は、それを私に伝えに来たんじゃないか。そう思わずにはいられない。
「私は、貴方に会いに来たんです」
「私に何の用だ」
「それは」
「もう一度聞こう。お前は、何者だ」
「私は、貴方と同じ、偽の神に絶望した者。そして、真の神を知っている者です」
「真の、神」
やはり、この男は知っていたのだ。真の神の正体を。
「真の神とは、なんだ」
「ルシフェル」
「なんだと」
私は驚いた。真の神が、ルシフェルだと。ルシフェル。光を掲げる者。天界の三分の一の天使を率いて主に反逆し、地獄におとされた堕天使、悪魔。
「悪魔が、堕天使が、真の神だと」
「悪魔、ですか」
「そうだ」
「なぜ、ルシファルが悪魔なのですか」
「主に反逆しただろう。反逆は悪だ」
「それは間違いですよ。別に、反逆が善と言うつもりはありません。しかし、隷従が善とも言い切れない」
「それはそうだが、しかし」
「ルシフェルは、革命を起こそうとしたのですよ。神に支配される暗黒の世界に、夜明けをもたらそうとしたのです」
だからこその、光を掲げる者、明けの明星、と彼は言った。
ルシフェルの革命が成功していれば、今頃は、人間が唯一神に盲従する「神の時代」はとっくに終わりを迎えており、全ての人間が自己の中に神性を見出す「人間の時代」の最中だったのだと。
「賢い貴方は、既にこの真実に気付いていたはずです。しかし、反逆は、傲慢は悪だという先入観があった。だから、ルシフェルが真の神だと認める訳にはいかなかった」
「お前は、どこまで、私の事を知っているんだ」
「全てではありません。しかし、少なくとも、この世界を救う為には、貴方が必要な事を知っています」
世界を救う。
それは、私の理想だった。あまねく人々を苦しみから救い出し、世界を安寧へと導く。文字通りの夢物語のために、この身を捧げるのならば、救いはすぐそこにある。
「暁の子よ。貴方が必要なのです。この世界を救うには、貴方が光を掲げ、人々を導かなければならない。正しい方向へと。それは、貴方にしか出来ないことだ」
ああ。その通りだ。
私は立ち上がった。恐らく、その金色の瞳には、光が戻っていた。光。私が、光となるのだ。ならなければならない。今の世界には、それが必要なのだと、私は信じて疑わなかった。
この胸の高鳴り。まるで、あの頃に戻ったようだ。志を同じくした仲間達と、人々を救おうと決意したときの。夢を現実にするために、ただひたすら、前ばかり見ていたあの頃。それが、再び。
◆ ◆ ◆
私は、ルシフェルに祈りを捧げた。
そのとき初めて気づいたのだが、どうやら私は、ルシフェルに似た魔術的記号を持っていたらしい。
儀式魔術を行った瞬間、体の奥の奥から力が溢れて来るようだった。光が灯ったとでも形容すべきか。テレズマが私を包んでいた。
もしこの事実に早く気付いてさえいれば、あのとき、友を、仲間を、妻を、救うことが出来たろうに。いや、よそう。後悔は。すべて終わってからだ。世界を救ってからだ。
世界が平和になったのならば。あまねく人々が苦しみから救われたのならば、そのときは、世界の片隅に小さな墓を作るのだ。マリアのための墓を。
それまで待っていてくれ、マリア。
私の愛した人よ。
◆ ◆ ◆
世界を救う。
それは、私が夢見た目標だ。
しかし、夢が覚めたとき、人は、否が応でも現実と向き合わなければならない。
その日は、必ず来る。来るのだ。何となれば、永遠に夢を見ることは出来ないからだ。
◆ ◆ ◆
私たち
黎明教団と十字教との宗教戦争は、終わりを迎えようとしていた。
賢い私は確信していた。この戦争は、我々の敗北に終わるだろう。数が違い過ぎるのだ。抵抗する教団の魔術師達も、あまりの物量と質の違いになす術が無く討たれてゆく。次々に防衛線を突破され、ついに教団の本拠地たる大神殿に、十字教の魔術師団は迫っていた。
いや、しかし、十分だ、十分だろう。世界三大宗派の内の二つも敵に廻しておきながら、一日も抗う事が出来たのだから。これ以上を望むのは、強欲にも程があるというものだ。
窓辺に立つと、神殿の入り口で、十字教の精鋭と教団の幹部が殺し合っているのが見えた。
「
ルーチェ様」
振り向く。そこには、以前からの友人がいた。黒いローブを纏っている。初めて会った時と何も変わらない。
「早くここからお逃げ下さい」
彼は言ったが、私は従わなかった。再び、窓の外を見る。
「私はここに残る」
「ルーチェ様」
「教団の最後を見届ける。大神殿と共に逝く。私には、その義務がある」
私のわがままを、聞いてくれるな。
「貴方は、ここまで強情な方でしたか」
「そうだ。知らなかったのか」
「いえ」
おそらく、彼は肩を竦めたのだろう。
「でしたら、私もご一緒に」
「いいのか」
「はい」
「そうか」
彼は、私の横に並んだ。
外の惨状を見詰めながら、彼はこう言った。
「終わりですか」
「終わりだ」
全て、この日の内に終わる。私も、彼も、教団も。そして、世界が救われることも、無くなるのだ。
なあ、マリア。世界を、人類を救いたいなどという私の目標は、所詮、泡沫の夢でしかなかったのだろうか。人の子である私には、土台、無理な事だったのだろうか。
或いは、ルシフェルすらも、偽の神だったのかも知れない。そう考えれば、この惨劇にも納得がいった。
ああ、そうか。また私は、間違ってしまったのか。そもそも、ルシフェルも十字教の被造物ではなかったか。十字教を軽侮しておきながら、私は、同じ宗教の存在を狂信していたのだ。こんなにも短い間に、根本的で救いようのない過ちを犯してしまうとは。最後の最後まで、私という人間は愚かだったな。最早、笑い話ですらない。
神は絶対に人を救える。神とはそういう存在だ。それは既に証明し尽くされている。
だとすれば、真の神とは、いったい何なのだろうか。神の子でも、暁の子でもない。十字教の中でも最高の神格を持つこれらの存在すらも超越する、絶対的な「神」とは。
賢い私は悟った。
真の神とは、十字教では説明できないのだ。或いは、現代の宗教では。真の神を見つけるには、その先を見通す必要があるのだ。
しかし、この真実に気付いたところで、もう何もかもが遅かった。気付くには、遅すぎたのだ。私にはもう時間が無い。その先を追求する事は、出来ない。
だから、願う。ただ、これだけは、真摯に祈ろう。ひたすらに、ただひたすらに、これだけを願おう。
何処かの誰かが、真の神を見つけ、世界を救ってくれることを。
最終更新:2013年03月11日 17:16