そこは山と森に囲まれた村だった。
 緑色の粘土をスプーンで繰り抜き、そこに茶色い絵の具を流したような立地である。こぢんまりとした村であり、そこの住人達は畑を耕し、家畜を飼い、時たま村の伝統工芸品である美しい彫刻を都会に売って生計を立てていた。日が登ったら働き始めて、日が沈んだら仕事は終わり。月に一度、村の皆で宴会をする。時代の移り変わりに合わせて多少は変われども、概ね百年近く、彼らは同じ生活を続けていた。
 都会の喧騒とは無縁の、穏やかな村。そんな村を、森に紛れて監視している二人の男の姿があった。
 一人は、胴体と両腕にのみ鎧を装着し、後はラフな格好をした、整った顔付きの若い男だ。ウェーブのかかった髪の毛を、うなじの辺りで一本に纏めている。彼の全身に程よく筋肉が付いており、それはまるで、活力に溢れた若々しい木から、彼という存在を丁寧に削り出したかのようであった。そして、見え隠れする素肌に刻まれた。癒やしきれぬ細かい傷が、彼が争いを生業とする人間だということを示している。
 彼は、柄に指紋のように細かな溝が幾つも存在している、奇妙な槍を支えとして、地面にしゃがみ込みながら、獲物を狙う鷹の如く、鋭い目付きで村を見据えていた。
 もう一人は、背の高い青年。鎧を装着しているもう一人の男とは違い、夜の闇を溶かして固めたかのような、陰鬱な印象を人に与える。奇妙なのは、彼がヴァイオリンを携えている事だろう。その風貌と手に持っているヴァイオリンから、隣にいる男とは正反対の、非常に文化的な青年にしか見えない。彼は忙しなく弓を動かし、弦に滑らせている。
 そのヴァイオリンはきらびやかな装飾のされたヴァイオリンであったが、その装飾は見る物に不思議な感覚を与える。まるで魂が引き込まれるような、そんな感覚だ。
 一見すれば、大道芸人かと見間違えるような趣の二人組であるが、見るものが見れば、彼らの格好と行動が伊達や酔狂では無いと言う事が分かるだろう。
 槍の柄に存在する溝はルーンであり、ヴァイオリンの装飾も、魔術的な記号だ。
 二人は、魔術師である。それも、必要悪の教会に所属する、一流の魔術師。
 鎧の男の名前は、オージル=ピサーリオ
 ヴァイオリンの男の名前は、ダレン=シンクレア
 彼らは『上司』の命令を受けて、この小さな村を――より正確に言えば、一人の『少女』を監視に来ているのである。

「今回の任務、おかしいと思わないか?」

 それまで沈黙しながら監視を続けていたオージルが、口を開いた。

「あのコの生活を守るため――なんていうが、わざわざこうやって周囲から監視する必要なんてありゃしない。本気で守りたいと思うなら、こっち側でさっさと保護してやるべきだ。あのコが最終的にどう選択するかは兎も角として……魔術サイドに組み込まれるという選択肢を提示しない理由がない」
「…………」

 オージルの言葉に、ダレンは口を開かず、ヴァイオリンの演奏を続けている。彼はこうやって演奏をすることで、魔術を行使しているのだ。ルーンを刻むように、糸を張るように、彼は周囲の木々に音を共鳴させ、木そのものを音の発生源とする事によって、結界を作り上げていた。人払いに、存在感の消失、痕跡の消去――監視任務には打ってつけである。

「ああ、そうなんだろうよ。あのコは結局、『寄せ餌』だ。群がってくる『魔術師』を危険勢力と見做して排除する為の。チッ……胸糞悪いぜ。あのババア、若作りだけじゃなくてこういう所でも嫌らしい」
「…………」

 やはりダレンは口を開かない。だが、奏でる音色に、僅かばかりの哀しみが混じったそれは、人知れず陰謀に巻き込まれている少女の為か。何れにせよ、彼らは任務を続けなければならない。そこにどんな思惑があるとしても、一人の少女を守るという彼らの気持ちは同じだからである。


  ※  ※  ※


 事の始まりは、小さな噂だった。
 曰く、奇跡の少女がいる。
 手を翳すだけで傷が治る。病気を無くしてくれる。悪魔を追い払う。
 森に囲まれた小さな村で、その少女は聖女様として皆から慕われている――と。
 その噂は、ほんの少しだけ流行して、直ぐ様消えた。
 否、より正確に言えば、消されたのだ。
 必要悪の教会。
 その耳に少女の噂が届くと同時に、彼らは事の真偽を確かめる為に人員を派遣。それと同時に、ゴシップ雑誌やネット上、更には裏社会の――魔術師同士のネットワークからすらも噂の根絶が図られ、それらは概ね成功した。
 しかし、その行為は、世間に魔術という物の存在が広まるのを恐れての事では無い。その噂の『流れ方』を、必要悪の教会が誘導する為だ。
 聖女。癒しの存在。奇跡の象徴。
 『そういうもの』を求める魔術結社と言うのは少なからず存在し、そしてその多くは危険思想の持ち主だ。つまるところ、必要悪の教会が警戒している魔術結社にこの『噂』を流し、その危険性が証明されたなら――一般人を犠牲にするなら――魔術サイドが危険視されるのを防ぐという大義名分の元、気兼ねなく『そいつら』を始末出来るのである。
 それが、ローラ=スチュアートが描いた、一人の『少女』を巡る『小さな陰謀』であった。
 概ねそれは成功したと言っていいだろう。前々から警戒レベルの高かった組織の大半は降って湧いた『聖女』というアイコンに飛びついた。そして、必要悪の教会の手によって壊滅させられた。
 最も――そんな事は日常茶飯事だ。小さな魔術結社等、朝日が昇り沈むように、日々の間に湧き上がっては消えていく。だからこその『小さな陰謀』。一人の少女を餌にしながらも、世界を大きく変える訳でもなく、言ってしまえば 『手間が省けた』程度の代物。
 だからこそ、なのだろうか。
 その『餌』の監視に、たった二人の『魔術師』しか派遣されなかったのは。


  ※  ※  ※


「フー……」

 オージルがため息をついた。
 監視を始めてからもう三日になる。
 不眠不休という訳ではないが、緊張を張り巡らせる仕事だ。僅かではあるが、重たい泥のような疲労の蓄積を彼は感じ取っていた。ダレンも眉根一つ動かさないが、同じ事を思っているはずだ。
 オージルは、首元がチリチリするような嫌な感覚を覚えていた。それは彼の直感とでも言うべき物だ。疲労が溜り、気が抜ける一瞬。もし敵が居るなら、それを見逃さない。だから、今この瞬間こそが最も危険なのだ。
 敵。二人が警戒している存在。その正体は分からない。集団か、それとも個人か。或いは、このまま来ないのかもしれない。その何れも可能性として存在していた。
 諜報部が情報を操作したのにも関わらず、想定外の敵が来るのはおかしいと思うかもしれないが、そうではない。オージルもダレンも、必要悪の教会の人員の殆どは、諜報部の技術力に関しては信頼を置いているだろう。そうでなければ、このような危険な任務に付くことは無いだろう。
 だが、完璧なシステム等と言うものは存在しないのだ。
 諜報部が針の穴に糸を通すように慎重な情報のリークを行い、特定の組織のみを動かすようにしたとしても、その情報が別の場所に漏れる可能性をゼロには出来ない。諜報部の知らぬ場所で組織同士が結託していたり、その組織に別の組織のスパイが潜入していたり――それら全てを抑える事は出来ない。
 だからこそオージルとダレンがここに居る。1%のミスを潰す為に。
 それが『組織』だからだ。個人個人が最大限の努力をしつつ、幾つものセーフティーネットを張り巡らし、最大の成果を発揮する。それが『組織』という物の強みだから。
 とは言え、二人だ。
 その重要度が低いから二人なのか。オージルとダレンに知らされていないだけで、どこかに人員が配置されているのかもしれないが、現状二人で監視すると言うのは中々に骨が折れた。
 勿論それを上に訴えることも出来たが、二人はそれをしなかった。第一に、二人が意見しても無駄だと言う事。第二に、自らの実力にはっきりとした自信を持っている事がその理由だ。

「……ま、今回のこの一件で、他の連中も大分忙しかったみたいだしな」

 危険な組織を同時進行で叩き潰すのに、相当数の魔術師を動員したという話はオージルも聞いていた。機密保持の観点から、誰が何処に向かったのかを彼が詳細に把握している訳ではないが、おそらく今回の作戦で三十の組織が歴史の闇へと消え去った。

「そっちの任務に回された方が少しはマシだったかもしれないが……」

 オージルは一人呟く。ダレンはそれには答えない。だが、様子がおかしかった。
 ダレンは元々冬の夜のように静かな人間であり、口数の多い質ではない。それでも人の話を聞かないという事はない。必要とあれば霊装であるヴァイオリンで意思表示をすると言う奇特な性質の持ち主だ。
 そんな彼が、オージルの言葉を意に介さず、何かに集中している。それは、目の前の村だ。

「……ダレン」

 オージルがその気配を察し、地面に突き刺さっていた槍を抜いて、肩に担いだ。全身に力が漲り、駆け出す直前のチーターのような筋肉の緊張が生まれる。

「音がする」

 ダレンがポツリと呟いた。
 何処から敵が進入するかわからない為、二人は村全体を見渡せる位置に陣取っていたが、その中でも一番に注目していたのは、勿論『少女』が住んでいる家だ。家族は居ない。今は、一人。だが、決して村人から迫害されている訳ではない。むしろ可愛がられていた。
 魔術によって、そんな家の周辺の音を拾い上げ、不審な音が近づかないか、ダレンは警戒をしていたのだ。お気に入りの楽団が、新しい音楽を発表した時のように、念入りに、隅々まで。
 ダレンは『チェリーニのヴァイオリン』と呼ばれる霊装を扱う魔術師である。
 その霊装はありとあらゆる『音』を生み出す事が出来、それ故『音』によって発動できる魔術を自由自在に扱うことの出来る霊装だとされているが、その性能を引き出すために、ダレン自身も非常に『音』に敏感だった。
 そのダレンが、『何か』を捉えた。それは『少女』の生活において紛れ込む筈の無い異音。
 ダレンの耳に届いたのは、物が壊れる音と、悲鳴だ。

「……やられた」
「……行くぞ!」

 オージルが駈け出し、それに遅れてダレンも跳ぶ。
 身体強化によって人並み外れた近距離を得たオージルは、数メートル毎に足跡を残しながら、山の斜面を駆け下りる。対して、ダレンは魔術による低空飛行だ。風を纏い、速度を得る。

「どうやりやがった……!」

 オージルは、そしてダレンも、それがミスであるとは考えなかった。そんな事を考えても無駄だと言う事を理解しているからだ。二人の監視の目をくぐり抜ける、そんな『敵』が既にこの村に攻撃をしていたと考える。

「地下だ……」

 ダレンの声が風に乗ってオージルの耳に届く

「なるほどな」

 その言葉に、オージルも肯定を示した。

「可能性としちゃそれが一番高い。俺の目とお前の耳、両方をすり抜けるには姿を隠して音も消す、両方を高いレベルで行使しなきゃ無理だ。確か――音の欠落も察知できるんだよな? 下手に『無音』状態を作り出せば、それも分かる――」

 二人は既に森と山を抜け、野生動物避けの柵を一瞬で飛び越え、村へと足を踏み入れていた。何人かの村民は外で何らかの作業をしていたが、ダレンとオージルの姿はその速度と魔術が合わさって、色のついた風のような、奇妙な形でしか捉えることが出来ないだろう。

「地面から突然。それだけなら空間転移の魔術かもしれない……ただ奇妙な風の流れがあった」
「床に穴を開けたってワケか! それなら床に風が流れ込んだって事で説明がつく!」

 ダレンとオージルは急ぐ。敵の目的が『少女』だったとして、その『利用方法』が不明であるからだ。ただの『アイコン』ならばまだ良し。もし仮に『研究材料』だった場合――。

「ダレン! 『広げろ』!」
「……」

 オージルの言葉に、ダレンは何も返さない。ただ、ヴァイオリンが奏でる音が、微妙な変化をした。魔術が一気に変質し、拡大する。それはまるで立体のパズルだ。正方形の箱を一度バラバラにして、組み直したら別の形に変形したように。音の微妙な変化は、ダレンが行使していた『音を拾い上げる魔術』の効果を組み替えた。

「ッ……」

 ダレンがその『情報』の変化に顔を顰める。今まで限定された空間のみだったが、それを一気に――地下を含めて――拡大した。その負荷に、一瞬脳が追いつかなかったのだ。魔術が乱れ、減速するダレンを、いつの間にか傍に移動していたオージルが支える。

「西の方向――既に地下を移動してる……」
「オーケー……このまま直進だ」

 両者が観察していた位置と正反対に連れ去っているのは、偶然か、それとも必然か。

「ッ、これは……」

 ダレンが、その顔を顰める。

「心臓の鼓動は、一つだけ……」
「――チッ!」

 オージルはその速度を更に早めた。ダレンはオージルに言葉数少なく指示を出しながら、魔術によって移動のサポートを行う。一瞬にして村を駆け抜けた二人の姿を、完全に捉えた村人は一人たりとて居なかった。

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最終更新:2014年01月05日 08:29