第十五幕 大演説
王都の広場に集まった民衆が不安を隠さずにざわついている。当然だろう。いきなり現れた謎の集団があれほど自分たちが脅威に思っていた貴族たちを瞬く間に次々と殺害してしまったのだから。
奴隷として苦汁を舐めさせられる日々を送っていた民衆たちにとって、その光景はまさに圧巻の一言だった事だろう。
「かなり大勢集まっているな……実に結構な事だ」
「はい、流石は首都という事なのでしょう」
九条と榊原がこっそりと広場に集まった民衆を見て感想を言う。
見渡す限り一面に黒いものが蠢いているように見える。普通の人間なら圧倒されて声も出ないだろう。
民衆を集めた広場は実際には国王が出兵する兵士に訓示を出すための場所らしい。国王の姿を集めた兵士によく見せるために広場には小高い塔のようなものがあり、そこで大声で訓示を出していたようだ。
一度に何十万人もの兵士を出兵させる時があるらしく、そのためかなり広々としている。
現在はその広場に王都に住む民衆の殆どを集め、その周囲には我々の陸軍がその威容を民衆に見せつけながら待機している。
広場に収容し切れなかった民衆はある程度の数で纏めつつ、少々広場から離れてはいるが小高い塔が確認できる位置に集合させてある。
要所要所にスピーカーを設置して演説の声が王都中に届くようにしてある。ちなみに地方の制圧した都市や町にも同じような処置が取られている上、テレビカメラを使用して王都の演説の光景を地方にまで流すつもりだ。ちなみに異世界にテレビなどあるはずが無いので特殊な映像投影装置でもってどうにか対応している。
「さて、そろそろ始めようか」
実はもう既に九条と榊原は前述した小高い塔にいる。
塔の頂上にはマイクが幾つも備え付けられており、準備万端だ。
あとは演説を始めるだけなのだ。
「成功する事をお祈りしております」
榊原はそう言うと、すぐさま塔の中に引っ込む。
榊原は榊原で演説のための重要な仕事があるのだ。
「……さあ、行くか」
誰ともなしにそう言うと力強く一歩を踏み出した。
流石に緊張してくるが、そのままマイクの前にまで進み、立ち止まる。
「おい! 誰か出てきたぞ!」
広場にいる誰かがそう言って塔の頂上を指差す。
それにつられて民衆の大部分が塔の頂上へ目をやると同時に九条の演説が開始された。
「初めまして人民諸君、私の名はセイヤ=クジョウ。この王都を陥落せしめた者たちの長だ」
静かな口調であるが、堂々とした態度で言う。各所に設置されたスピーカーから九条の声が響く。
王都の民衆たちはどよめき、驚きと恐怖を表情に浮かべているようだった。
無理もない、自分たちが全く抵抗できなかった貴族を瞬く間に倒すような相手なのだ。貴族以上の力を持った者たちの長が目の前にいて、自分たちをどうにかしないか気が気ではないのだ。
そんな民衆たちの感情を読み取ったかのように九条は演説を続ける。
「人民諸君、恐れる事は何も無い。私は諸君らの救いの主だ。貴族の圧制から諸君を解放するためにやってきたのだ」
更にどよめきが大きくなる。広場の所々で「我々を救ってくださる?」「解放?」「救いの主?」等という疑問系の言葉がかすかに聞こえてくる。
ここからが勝負。民衆の心を掴みきれるかどうかの別れどころだ。
九条は自分にそう言い聞かせると、落ち着いた穏やかな声でそのまま演説を行う。
「そう、私は諸君らの言う救世主だ。諸君らの知る『伝説』に伝えられている救世主こそが私だ」
今回の作戦で、海岸の橋頭堡に物資集積中に情報収集でわかった事がある。
そのわかった事と言うのは、このレイジェンス大陸に奴隷階級の者たちに伝わるある伝説があるという事だ。
その伝説の内容は、何処からともなく救世主が現れ、悪しき支配者たちを打ち倒して民衆を解放するという至極王道的な物語らしい。
ただ、この眉唾物の伝説は奴隷階級の間では信仰の象徴とも言うべき物で、これを希望にして毎日を生きているとの事。九条はそれを聞くなり、紫芝に予定されていた宣伝工作を止めさせ、その伝説を大いに利用する事に思い至ったのだ。
自分たちを伝説の救世主にして一気に民意を獲得する。実際に貴族を打ち倒して見せればまさしく救世主であると信じざるを得ない。
しかし、九条本人はこの伝説は貴族たちが流したものだと思っている。生きる事に絶望しきって死んだ方がマシだと民衆に思われては本末転倒だからだ。僅かに希望を与えて生きる活力を出してもらわねば搾取もできない事は自明の理である。
つまりは飴と鞭、政治の基本テクニックだ。
「きゅ、救世主様?!」
「あぁ……やっと、やっと来てくださったのですな」
「この日を、この日をどれだけ待ち侘びた事か……」
九条の救世主発言で広場どころか王都中から驚きと涙交じりの声が聞こえてくる。
予想以上に反響が大きい。まぁ、こちらにとっては好都合だが。
普通はここまで容易く信じないものだが、貴族に戦いを挑み勝利しているという事で信憑性も十分にあるのが大きいのだろう。それに、彼らの教育水準が低い事も関係していると思われる。
ようするに学が無いために色々と考えたり、判断するための知識や能力が無いのだ。愚民化政策はこの世界でも健在とみえる。
「人民諸君、私は諸君らを搾取し続けた悪しき貴族の存在を断じて許さない。諸君、その悪しき貴族の末路を思う存分見るといい」
九条がそう言うと、高さ三メートル、幅五メートル程の大きな台座が何台かの装甲車に引き摺られて広場に持ち込まれる。
その台座には民衆だけでなく九条たちも全く見慣れない物があった。
それは十八世紀に欧州の大国の一つ、フランスで生まれた物だった。
当時、そのフランスの内科医で国民議会議員だったジョゼフ=ギヨタンという人物が作り出した処刑道具。
断頭台、断首台とも呼ばれたその処刑道具の名は――『ギロチン』。
フランス革命後の恐怖政治に大いに活用された物。二本の柱の間に吊るした刃を落下させ、柱の間に寝かせた人間の首を切断する恐怖の死刑執行具。
民衆たちは何に使うのかまだ分かっていないようだが、そこへ身体中を特殊な装飾を施された鎖で縛られた巨漢の男が何人かの兵士に無理矢理連れられてくる。
それに気がついた民衆たちが何かを叫ぶと一転して巨漢の男に憎悪に満ちた視線を浴びせ、罵倒する。
それもそのはず、連れられてきた巨漢の男はザーブゼネ王国国王その人なのだから。
更に国王に続いて何人かの貴族たちが引っ張られてやってくる。巨漢の国王と同じく特殊な装飾を施された鎖でその身を縛られている。
そして、民衆から憎悪の視線と汚らしい言葉を痛いほど浴びせつつ、ギロチンのある台座へ上らせる。
いよいよ待ちに待ったショーの時間だ。
「人民諸君、ここに悪がいる! 断罪されねばならない悪がいる! これよりこの悪を我々が打倒する! 排除する! 抹殺する! この正義のギロチンの刃によって!!」
やたらと両腕を激しく動かし、さらにここぞとばかりに大きな声で捲くし立てる。
九条が喋っている間にある一人の貴族がギロチンに寝かせられる。この貴族もまだギロチンがどのように使われるか理解していないようだが、激しい危機感を感じたらしく大声で叫んだり、ひどく暴れる。
しかし、それは悪あがきでしかなく、最早その貴族の運命はどうにもならなかった。
「さあ、諸君! 人民裁判による判決を下すぞッ! 被告『貴族』! 被告『国王』! 判決は死刑ッ! 死刑だッ! 死刑死刑死刑死刑死刑死刑ッ!」
その瞬間――冷たいギロチンの刃が落とされた。
広場は一気に静まり返った。ギロチンの刃によって貴族の首はゴロッ、と首を入れるための容器に落下した。
刎ねられた首の浮かべる表情は何が起こったか理解していないものだった。残された胴体の首の部分からは血がダクダクと溢れ出す。
途端に広場の民衆の瞳に恐怖が宿る。
実践して見せてようやく理解したのだ。あれが処刑のための道具だと。
そのまま自分の中に生まれた恐怖のままに悲鳴を上げようとしたところで九条が一喝する。
「恐れるなッ! 死んだのは愚かなる貴族である! このギロチンの刃によって葬られるのは奴らだけなのだ!」
広場の民衆たちが塔の頂上にいる九条に目を向ける。
「我々は正当なる判断を下したまでに過ぎん! それに私は言った! 悪しき貴族の末路を思う存分見るといい、と! ギロチンによって無残に死んだのは諸君らの敵である! 諸君らを人として扱わず、まるでゴミのように扱った悪の貴族である!」
段々と民衆たちの心が恐怖から憎悪に塗り替えられていく。九条の演説によって今までの苦痛の日々を回顧したのだ。
更に先程まで憎悪一色で染まっていたために塗り替える事自体が非常に容易であった。
「殺せ! 貴族を殺せぇッ!!」
「八つ裂きにするんだぁッ!」
「首を刎ねろォッ!」
広場は一転して殺意が渦巻く異様な空気へと様変わりした。
物騒な言葉が飛び交い、理性と言えるものが吹き飛んでいる状況だ。
「さあ、諸君らの望むように次に行くぞ!」
そう言うなり、ギロチンの二本の柱の間に次々と貴族が寝かされ、断頭台の露と消えていった。
最早、その光景は民衆に恐怖を与えるのではなく、むしろ逆に興奮と快楽を与えるようになっていた。
あれだけ自分たちを虐げてきた貴族たちが成すすべも無く次々と首が刎ねられていくのだから無理もない事であった。
そして、ギロチンの犠牲者は残すところ、あと一人だけになった。いよいよメインイベントの始まりだ。
「人民諸君! 遂にこの日がやってきた! 諸君らを虐げてきた根源! ザーブゼネ王国国王の首を刎ねる瞬間がッ!!」
王都中に怒涛の如き歓声が響き渡る。何かが大爆発したかのような大歓声だった。
声の暴風、そんな表現だろうか。その身が吹き飛ばされるような衝撃が九条を襲ったが、九条自身は平然とした様子で威風堂々とした姿を民衆に見せ付けていた。彼ら民衆の指導者となるのだから動揺する姿など見せるわけには絶対にいけないのだ。
「こ、この、離せぇッ! 離さぬか! 余を、余を誰だと思っている?!」
国王が醜く太った肉体を揺らして抵抗するが、数人の兵士に押さえつけられて無理矢理ギロチンにまで連れて行かれる。
その肉塊とも言える身体のせいでギロチンにセットするのは困難であったが、強引になんとか押し込むような形でギロチンに合わせる。
その姿を民衆は何か下等な生物を見るような視線で見下し、嘲笑を浴びせかける。
「ぐ、ぐぬぬぬ、何を笑っておるかッ! さっさと余を助け――」
「見るがいい! この醜悪なる国王の姿を! こんな存在自体が下劣な国王はどうするべきか! 人民諸君、答えは?!」
国王の言葉を遮り演説を続ける九条。
無論、国王もそのまま喋り続けようとしたが周りにいた兵士たちに猿轡を付けられて言葉を発する事ができなくなっていた。
「「「「ギロチン! ギロチン!」」」」
「もう一度大きな声で!!」
「「「「ギロチンッ!! ギロチンッ!!」」」」
「よろしい! ならば、ギロチンだ!!」
そう言うと九条は右手を高く上げた。
「この手が振り下ろされる瞬間こそがザーブゼネ王国の終焉の時であり、諸君らが奴隷から解放される瞬間である! 人民諸君、私につき従うことを誓うか?! 共にこの大陸から全ての悪しき貴族どもを打倒し、諸君らと同じく虐げられる者たちを解放する事を誓うか?! そして、恒久的な平和を手にするその時まで戦い続ける事を誓うかッ?!!」
「誓う! 誓います、救世主様!!」
「俺もだ! 俺も誓う!」
「誓うぞ! 当然だ! 奴らに吠え面かかせてやるんだ!」
極度の興奮状態に陥った民衆たちは我先に誓うと宣言する。
九条は内心ニヤリと笑いつつも真剣な表情を崩さずに大きく頷いて演説を続ける。
「人民諸君! 諸君らの誓いは確かに受け取ったッ! これで――ザーブゼネ王国は終わりを迎えるッ!!」
一気に右手を振り下ろす。それと同時にギロチンの刃が国王の首を切り裂き、切断する。
赤黒くドロドロと濁った血が吹き出し、刃を濡らす。醜き王の命が断たれたのだ。
瞬間、大歓声が王都中に、いや、ザーブゼネ王国中に響き渡った。
失念しているかもしれないが、これら一連の光景は全て王国中に流されているのだ。
王都の民衆と同様に地方の民衆たちも異常なまでの興奮状態にあり、自分たちがまるで王都にいるような印象を受けていた。
落ちた国王の首は兵士の一人によって高々と掲げられ、それによって更なる歓声が王国を……いや、元王国を包み込んだ。
民衆たちは九条に賞賛の声を浴びせ、自分たちが奴隷で無くなった事を喜んだ。
だが、そこへ冷や水を浴びせるように九条の演説は続いた。
「人民諸君! 諸君らは最早奴隷ではなくなった! だが、まだこの大陸から悪しき貴族が根絶されたわけではない! 奴らは諸君らを奴隷に戻すべく必ずや攻めてくるだろう!」
この言葉に民衆たちは喜びの声を鈍らせ、僅かなどよめきが生まれ始める。
それを見取った九条はここだと言わんばかりに一気に演説を終わらせにかかる。
「攻めてきた時はどうする?! 答えは簡単だ! 人民諸君の手で八つ裂きにしてしまえばいいッ! 恐れる事は何も無いのだ! それに諸君らには我々がついている! 悪しき貴族よりも強大な力を持った我々が! 人民諸君、私は約束する! 諸君らと共に戦い! 共に勝利し! 共に悪を討つ事をッ! さあ、人民諸君! 私への誓いを思い出し、平和を手にするその時まで共に戦い続けようではないかッ!!」
一瞬の沈黙。そして――大歓声と拍手の嵐。
気まずい雰囲気になりかけていたのが、また先程までの極度な興奮状態に戻った。
この広場が、この王都が、この元王国が、貴族への憎悪とやって来た救世主たちへの期待に狂い始めていた。
九条は民衆の歓呼の声にゆっくりと片手を上げて応え、そして、静かにその場を悠々と立ち去った。
「お疲れ様です」
榊原がそう言ってキレイに洗ってあるタオルを渡してくる。
汗でベトベトして服が張り付いていた為ありがたかった。
現在、王城のとある一室に九条と榊原はいた。
この部屋もまたやたらと豪華なものであったが、いい加減にそういうものにも慣れてきた。
最初は揃えられた調度品にあれこれと品定めするような視線を送ってはいたが、すぐに飽きた。
壁を金で埋めると夜眠る時に光が反射して寝辛いだろうな、とよくわからない事を考える余裕さえあった。
「ああ、本当に疲れたよ。あまりやりたくは無いものだ」
上着を脱いで椅子に被せると背中にタオルを突っ込んで答える。
「そう言わないでください。これからも恐らく何度か演説をしてもらわなければいけないのですから」
「すぐに、と言うのは少々嫌だな」
薄く笑って軽く拒絶の意思を伝える。
少なくとも今はもう演説はしたくない気分だった。
「まぁ、すぐには無いでしょうけど」
「ならいい。しばらくすれば、また我慢できるようになる――扇動と言うのはどうにも苦手だ」
「扇動ではなく演説です。そう割り切ってください。では、私はまだすることがありますので元帥閣下はどうぞお休みくださいますよう」
そう言って腰を折った後、榊原はすぐに部屋から出て行った。
バタンッ、と何処か寂しげに閉まった扉をチラリと見て、椅子に座る。
何分か経った時に視線を天井へと移すと九条はぼんやりとした表情のまま呟いた。
「さて、これからどうなるか……見物だな」
九条はそのまま目を閉じ、これから自分たちがどうなっていくかを思考の海に落ちて考え始めた。
真っ暗闇の森の中を走っていく馬車が何台も、何十台もあった。
それらは九条たちの軍団に領地を追われた貴族とその親類縁者の集団であった。
いや、正確に言うなら追われたというのは正しくない。戦わずして逃げ出したというのが正解であろう。
九条は地方制圧のために歩兵師団を解体してヘリによる奇襲制圧部隊を編成した。紫芝もまた同じ部隊を使用し、王都を制圧したわけだがそれは置いておく。
ともあれ、貴族たちの手元に兵が無い状態では襲われた時点で決着はついていたのだ。個体の戦力差はかなりのものなのだから。
ただ、九条の方も広大な大地を制圧するために部隊を細分化する羽目になり、必然的に少人数で襲わなければならなかった。それ故に彼らのように隙を突いて逃げ出す貴族が大勢いたのだ。
尤も、さっさと逃げ出してくれるため、制圧するのが楽だったのではあるが。
それに、そういう事態になって良いようにしっかりと『保険』が掛けられていた。
「ええぃッ! 何をしておる?! 急がぬか!!」
偉そうに怒鳴りつける身形のいい中年の男。この馬車集団の主のようだ。
その自らの豊かさを誇示するかのような立派な衣装に比べて、人間性は最下級のものと見える。
同じ馬車には自分の妻と娘が不安げな表情をして乗っており、彼を苛立たせる要因にもなっていた。
(クソ、クソ、クソ、クソォッ! 何故こんな目に会わねばならんのだ?! 下賎な奴隷どもめ、今に見ておれ! すぐに腸を引き裂いて殺してや――ぬおぅ?!ッ)
突然、馬が声高く鳴くと共に馬車が急停止する。
先頭の自分の馬車が停止したものだから、後続の馬車も止まらざるを得ない。
「ぬぅ……! どうして止まるのかッ?!」
急停止したせいで頭部を馬車の中で激しくぶつけて、痛そうにその部分をさすりながら馬車の運転手に聞く。
「は、はぁ……あ、あの者が馬車の前に来て……」
運転手は言い辛そうに告げる。
その言葉を聞いて馬車から身を乗り出して前方を見る。
すると、確かにそこには誰かがいるようだった。
暗くてよくは見えないが、背はあまり高くは無く、小柄で十二、三歳くらいの子供のような大きさのようだ。
しかし、そんな子供が何故こんな真夜中の森の中にいるのだろうか。近くには村さえも無いというのに……。
疑問が残るが、兎も角今はそんな事を気にしている場合ではない。
馬車の中に戻ると運転手に冷たい声で言う。
「構う事は無い。行け」
「で、ですが……」
「いいから行け! 退かぬならそのまま轢き殺してしまえッ!!」
「は、はい! 承知いたしました!」
行かないのであれば貴様を殺すぞ、と言いそうな自分の主に運転手はビクッと身体を震わせて馬に鞭を打つ。頼むから退いてくれ、と何度も心の中で呟いて。
だが、目の前に立ちふさがる子供は全く退く気配を見せずにいた。
このままでは馬に押し潰される、と思ったその時、その子供の姿が最初から無かったように突然掻き消えた。
「えっ……」
驚きを言葉で一瞬表現した後――運転手の首は吹き飛ばされていた。
グラリと首から上を無くした身体は馬車から転げ落ち、先程まで操縦していた馬車の車輪に轢かれて、馬車そのもののバランスを崩す要因となった。
バランスを崩した馬車はそのまま横転し、後続の馬車が行く道を塞いでしまった。
いきなりの事態に横転した馬車に乗っていた男の妻と娘はパニックに陥った。
外から何かが壊れる音や爆発音、悲鳴、そして、断末魔が響き始める。
ただ馬車が横転しただけではない。でなければ、今聞こえてくるこの悲鳴は一体なんだと言うのか。
男にもそれぐらいは分かった。だが、一体何がどうなっているのかが全く皆目見当がつかない。
兎に角、馬車から出て逃げるべきだ。ここに留まるのは命に関わる。
そう思って、今は天井になってしまった馬車の扉を抉じ開けて、そこから這い出る。
自分の妻と娘がまだ中に残っているが、それは見捨てていく事にした。足手まといになるのが関の山だと判断したからだ。
「い、嫌だぁ……嫌だぁ、まだ死にたくない、死にたくないんだ……」
「カヒュ……カヒュ……」
「う、あ……ぁ……誰、か……」
やばい。馬車から出た瞬間にそう思った。
木の陰に隠れてガタガタ震えて命乞いをしている者や上手く息ができなくなっている者、そして、身体から骨が突き出して血をダラダラと流し、今にも死にかかっている者など、非常に危険な状態を匂わせる者たちがそこにはいた。
これを誰がやったかなんてどうでもいい。兎に角、逃げなければ自分も同じ目に合いかねない。
しかし――……背後に何かがいる気配を感じる。
ガサリ、と地面の葉を踏みしめる音が聞こえた。自分に接近してきている。確認はできていないが、直感的に分かった。こいつが敵だ。
どうするどうするどうする……自分にひたすら問いかける。
最早、やるしかない。腰の剣の柄に手をやると、相手が自分の間合いに入るのを待つ。幸いにして地面の葉を踏む時の音が相手の位置を知らせてくれる。
ガサリ……あと、三歩。ガサリ……あと、二歩。ガサリ……あと、一歩。ガサリ……今だ!
一気に剣を引き抜いて回転し、背後の敵に斬撃をくわえる。
だが、剣は空を切り、何の手応えも無いまま振り抜いてしまう。
と、同時に何か横から鋭いもので自分の腕を切り裂かれる。しまった、側面に回られたかッ?!
自分の腕から何か温かいものが出ている感触がする。言うまでも無く血だ。このままでは拙いと思って横っ飛びに逃げ、間合いを取る。
そうする事でようやく相手がどんな姿をしているか確認できた。そこにいたのは想像以上の――『化け物』だった。
人の形はしている。二本の腕と二本の足を持ち、背筋を伸ばして真っ直ぐ立っている。だが、顔には三つの眼と二本の角が一段と特徴的に存在して、特に眼は獣のように縦に割れていて異様な恐怖感を煽らせた。背丈は自分をもう半分追加したくらいあり、腕は丸太のように太く、足は更に太かった。武器と言える武器は持ってはいないようだが、両手の五本指の爪が鋭く血に濡れて光っているところを見るとそれが武器らしい。
足の五本の指にも両手の爪のように鋭く太い爪があった。しかし、それらの攻撃手段よりもその鎧そのものだと言えるような肉体が印象的だ。いや、何処を斬ろうとしても弾かれるのではないか、と思わせるその強固なまでの肉体は鎧と言うには手緩い。これは城壁、鉄壁の城壁だ。
なんと恐ろしい事か。まさしく攻防一体の完璧なる存在ではないか。
勝てる気が全くしない。だが、逃げる事もできない。
――もう自分の死は確定と言う事か。
「ハハ……アハハハハハハッ!!」
狂ったように哂う。
こんな終わり方など想像していなかった。貴族として生まれ、そのまま何も変わらずに人生を謳歌するのだと信じていたのに。
畜生。悪夢であればどれほどいい事か。畜生、畜生!!
「畜生ッ! この化け物風情めえええぇぇぇぇぇッッ!!!」
負傷した腕はもう剣を握れない。
片手だけで剣を握り締めて立ち向かっていく。
最早、魔法を使う事すら考えられないほどに冷静さを失っていた。
大きく振りかぶって大上段に斬りかかる。だが、化け物はその巨体に似合わない俊敏性であっさりと避ける。
当然できた隙を化け物は逃さない。その豪腕を一気に胸に突き出され、心臓を一撃の下に貫かれる。
口から血の塊をゴボッと吐き出し、僅かに痙攣するとそのまま静かに息絶えた。彼の人生はここで終幕を迎えたのだ。
残された僅かな貴族の生存者の殆どはそのまま化け物に殺された。
上半身と下半身を二つに分離させられたり、首を引き千切られたり、頭を握り潰された者もいた。
唯一、残されたのは女性だけだった。心臓を一突きにされた男の妻と娘もまた生き残っていた。
だが、残った女性たちは逃げなかった。いや、正確には逃げられなかった。
恐怖に縛られて足に力が入らないのだ。立ち上がる事さえ困難極まる事だった。
故に彼女たちは何とか這って一箇所に纏まり、ただ耳を塞ぎ、両目を閉じて終わりを待つ事しかしなかった。
化け物はその強靭な肉体を返り血によって染め上げ、ゆっくりと彼女たちの元へと歩いていった。
遂に来た。彼女たちは恐怖に打ち震えながら、己の終焉の時が来るのを待った。
一歩、二歩、三歩……徐々に接近してくる。背中が嫌な汗でベタベタする。
だが、そんな事を気にして入られない。化け物がもうすぐそこまで来ているのだ。自分達の命を奪いに……。
恐ろしい、恐ろしい。だが、逃げられない。足が動かない。でも、もう逃げたって無駄だ。終わりが目の前にやってきたのだから。
彼女たちの目の前にまでやってきた化け物は、ギョロッと三つの眼で彼女たちをじっと見る。ただひたすらにじっと、じっと見詰め続ける。
どれくらい経ったか、かなりの時間が経過しても化け物はただ見ているだけだった。
不思議に思った彼女たちの一人が代表するかのように恐る恐るその疑問を口に上らせた。
「な、なんで襲ってこないの……?」
その時、彼女たちが全く予想していない事が起こる。
「任務規定ニ反シマス、攻撃ハ認メラレテイマセン」
目の前の化け物が若干固い口調で確かにそう言ったのだ。
驚愕のあまり口元を押さえて息を止めてしまう者や意識を失って倒れる者まで出た。
そんな状況でワタワタしていると、虫の羽ばたきのような音が遠くからドンドン大きくなって聞こえてきた。
なんだろう、と思っていると突如空から光が降り注いで辺りを照らす。
真夜中の暗がりばかりにいたせいで彼女たちには非常に眩しかった。
光が降り注いでくる方向に眼を向けると、何かが空から降りてくる。
大きい。目の前の化け物よりも更に大きい。あんな巨大なものがどうやって空を飛んでいるのか彼女たちは不思議でならなかった。
そのまま見ていると、その巨大な何かが偶々木々が開けた所の大地にふわりと着陸して中から幾人もの人が出てきた。
先頭に立った目立つ白い服を着た男がそれぞれに指示を出しているようだった。辺りの壊れた馬車や惨殺された死体を見て、何処か嬉しそうにしているように感じられた。
「うんうん、良い調子だ。これなら総監も満足いくはず……二十四号、ご苦労だった。あとで記憶情報を貰うからな」
「ハッ、アリガトウゴザイマス」
白い服の男が化け物に向かって話しかけると、化け物は膝を折って頭を下げる。
一体全体この人物は何者なのか、先程恐る恐る疑問を口に上らせた彼女が気になって視線をずっと飛ばしていた。
すると、それに気付いたらしく白い服の男がこちらを向く。
「おやおや、私に興味があるみたいだ。だけど、残念。君たちはここで『ある意味』で人生の幕を降ろしてもらうんだよ」
「何を言って――」
「やっちゃえ」
白い服の男に問い掛けようとしたところで、何故だかドンドン眠くなっていく。
瞼が重い、眼を開けていられない。思考が鈍って、何も考えられなくなる。
いつの間にか白い服の男は顔に何かをつけて表情を隠しているようだったが、こちらをニヤついた表情で見ているに違いない。
そんな事を思いながら、ドサッとその場に倒れて眠りについた。深い、深い眠りに……
飛鳥島 地下兵器研究所
科学技術総監執務室
「いいねぇ、流石は僕の作品だ。失敗作かと思ってる奴も中々に活躍してくれるじゃないか。そう思わない、大林君?」
氷室は椅子に乱暴に座りながら言った。
その手には書類を持ってパラパラと適当に読み進めている。普通はそんなやり方では頭の中に全く入らないだろう。
だが、これできちんと内容を氷室は把握しているのだから侮れない。腐っても天才なのは事実なのだ。
「そうですね。しかし、実際に運用した結果被検体にどのような影響がどの程度でたかが気になるところです。活躍しても使い潰しになるのではお話しになりませんから」
あくまで冷静に自分の意見を述べる大林。
今回、逃げ出した貴族に対する保険として、九条は氷室に支援を秘密裏に要請していたのだ。その結果が氷室の実験大隊の投入というのは九条も暗黙の了解であった。
ただ、氷室としては真正面からの戦闘を望んでいたのではあるが、それは色々な問題から妥協せざるを得なかった。
生体細胞強化という生物学的、遺伝子学的人体強化技術を用いた氷室の唯一にして最強、最狂、最凶の暴力機関『実験大隊』。
これに対する自信がそれだけ巨大で、自分の作品への絶対的な信頼感があったとも言える。
「そうだねぇ……まぁ、それはあとで回収して調べるとして、だ。本当に貴族の婦女子の方々は無傷なんだろうね?」
「大丈夫です。命令には完璧に従うようになっています」
「だと、良いけどね。僕の実験大隊が女性に傷を付ける事などあってはならないからねぇ、本気で面倒な事になるし」
書類をバサバサと揺らして上の空で言う。
氷室自身は女性蔑視でも女性重視でもなんでもないのだが、はっきり言って他の連中が五月蝿いのだ。
やれ女性はもっと優しく扱うべきだの、やれ女性は弱いのだから守ってやるべきだの……全く持って迷惑にも程がある。
それに騎士道精神をマッドサイエンティストに押し付けるのは激しく間違っている気がする。
だが、確かに現在の状況で国が崩壊すれば憎悪の対象となっている貴族の女性たちがどうなるかは分かりきっている。
そういう事もあって、氷室はあくまで乗り気ではないが、しっかりと保護には努めるつもりなのは間違いなかった。
「ところで総監。これからどうなさるおつもりですか?」
「別にどうもしないさ。ただ、九条元帥閣下の御命令のままに動くだけの話。それだけだよ」
「……分かりました。とりあえず現状維持という事で」
それでは、と言い残すと大林は軽く会釈をして退出して行った。
それを見届けると氷室は束の間の休息を取るために椅子から立ち上がり、室内にあるソファーの元まで行ってごろんと横になる。
僅か数秒経過しただけで氷室の意識がゆっくりと闇の中に堕ちていった。
最終更新:2007年10月30日 20:10