第三十一幕 条約締結


 帝國暦二二年一月二二日

 インビンシブル大帝國 南部国境地域
 南方臨時司令部 大会議室

「……これで、宜しいのですな?」

「ええ。署名も今終えましたし、もう何も問題はありません。貴国との不可侵条約はこれにて締結されました」

 ダルフォード側の代表にそう告げる帝國の外交官。
 彼はニコリと笑い、代表の署名が入った外交文書を脇に抱えると握手を求める。
 代表は少し迷ったようだが結局それに応じた。
 グッと握った手に必要以上に力を入れるとかそういう子供染みた事はせずに握手している手を何度か上下に振る。

 今回の不可侵条約案ではインビンシブル側が多大な譲歩をした事になっている。
 何せ最初に提示した六つの条件のうち五つを完全に撤回したのだから。

 インビンシブル側が得たものは、隣接する西方二ヶ国及び譲歩の見返りに更に西の二ヶ国の領有を認めさせる事だけに終わった。
 最初の過酷な条件を考えると外交的な勝利はダルフォードが収めたことになるだろう。北方の国家全ての領土の統合を認めたのはダルフォードとしては少々拙いものの自国の北部国境に壁の如く存在する大山脈地帯がこの決断をさせたと言える。如何に北の領土を押さえられたとしても天然の要害によって防げると考えたのだ。
 それにこれはインビンシブル大帝國に対するある種のポーズとも取れる。『北はくれてやるから、南は自分たちに渡せ』という事だ。

 尤も、今回のこの条約で公にされるのはあくまでも相互の領土の不可侵という事のみであるため、前述された部分は秘密協定ということになっているが。

「私個人としては末永い友好関係が続く事を切に願っておりますよ、代表」

「それはこちらも同じです。無益な争いは何も生みませんからな」

「ええ、それについては同意見です。またも個人的なことですが使節団の方々が貴国への安全な帰路になることを祈ります」

「有難う御座います。それでは、これにて失礼を……」

 代表は一礼した後、立ち去っていく。
 その姿が完全に見えなくなると帝國の外交官は途端に冷やかな目付きになる。

「無益な争いは確かに何も生みません……しかし、この世は有益な争いが満ちているのですよ、代表」


















 インビンシブル大帝國 帝都ノーブルラント
 デオスグランテ城 帝國最高会議

「不可侵条約締結により南の脅威をある程度は気にせずとも良くなったわけだが、そんなに悠長にはしてはいられん」

「左様。早急に西方を平定し、然るべき後に一気に南下する必要がある」

「しかし、最近は出費が多くなり過ぎてはいまいか? 国内の開発費用も馬鹿にならんし――……」

 円卓にズラリと雁首を並べ、議論を進める各省庁の大臣たち。
 今回の議題は次の戦争、西方制圧に関する事である。

 西には更なる資源があると見られているし、また自分達の国家、インビンシブル大帝國という極々最近まで意図的に秘匿されていたものの存在が民衆にまで広まった事により、大陸の支配階級が軒並み浮き足立って来ている。
 彼らの場合、ここで油断すれば自らが支配しているものに寝首をかかれるのは言うまでも無い。如何に圧倒的な力を保持しているとは言え、数の差は如何ともしがたいのだから。

「問題ない。特権階級身分の財産を片っ端らに接収しているからな。それに国内には金銀の鉱脈もある」

「その通り。財政に支障はでない。むしろ、西方を平定する事が出来ればまた連中の財産を接収する事で潤う」

 平気な顔をして略奪を行う事を明言する。
 帝國にとっては現在の支配階級の人間は討ち滅ぼすべき存在であり、そのために人民の解放という大義名分の下で虐殺を行っているのだからどうという事は無いのだろう。

 ともあれ、貴族や大富豪などは民衆に恐怖されているが同様に憎悪もされている。それだけの悪事を重ねてきたのだから当然である。
 即ち、これは因果応報。自分のした事が自分に帰ってきているだけなのだ。
 これを反面教師としてインビンシブル大帝國は民心を掌握する事に骨を砕いている。自分達も同じように因果応報で崩壊するのは冗談ではないから。

 そのまま会議は進み、早期開戦が望まれるという意見が多くなり、また時期尚早と反対しているものも極めて消極的な態度であった。
 そして、最終的な結論としては――……

「陛下、御決断を……」

 ……――結局、九条に全投げである。
 しかし、同時にこれは九条の権力の強さを表す。最終決定権は誰にあるのかという事を明確に指し示しており、白か黒かを決めれる立場にある事を強調しているのだ。
 また皆の意見をしっかり聞いてから判断をするという姿勢で出来るだけ反感を持たれない様にしている――実は参考程度にしか聞いていなかったりするのだが。

 ちなみに決断を促したのは宰相である榊原であったりする。

「よかろう。可及的速やかに作戦計画を立案せよ。但し、短期決戦が絶対条件である。作戦期間は最長で三ヶ月。それ以上の戦争行動は認めない……以上で解散――全ては大帝國と人民のために」

「「「「「全ては大帝國と人民のために」」」」」
















 会議終了と共に榊原を同行させ、場所を自分の執務室に移す九条。
 早速執務室に入ると自分のいつもの席へ座る。
 それに続くようにして榊原が接近し、デスクを挟んで対峙する。

「些か……予定が早まったな」

「遅かれ早かれこういう事態は想定されていました。少々厄介かもしれませんが、再来月中での開戦を狙います」

 九条の独り言とも取れる呟きにサクサクと答える榊原。

「再来月? ……早いな」

 と、言いながらも大体そんなものかと九条は内心納得していた。
 今月や来月と言い出したら文句をつけたが、再来月は春の季節の始まりで自国を覆っている雪が溶ける頃だ。
 軍事的障害となる雪が消えてくれなければ自慢の戦車軍団の使用も不可能なのだから再来月に開戦というのは理解できる判断である。

「徴兵された兵士たちはそのままですから。まぁ、一定期間事に後方に一部を下げて休暇を出したり、国境に展開しているものたちも電話で家族との連絡を頻繁に取り合えるようにして士気の維持に努めています」

「有り難い。兵士の士気と疲労は大問題だからな」

 士気は高く、疲労は低く。
 極々基本的なことであるが、これを維持するのは大変難しい。
 軍としてはどんな些細な事でもいいから、そのための努力は惜しんではいけない。

「軍事の担当は私だがそうやってサポートしてくれると助かる」

「それが私の役目ですから。本来の任務を果たさせて貰っているだけです。ただ……」

 若干言い淀みながら人差し指で額をトントンと叩く。

「些か戦力的に不安です。更なる戦力の増強を御願いしたい」

 いきなりのこの発言に九条は眉を顰める。

 榊原としては昨年獲得した広大な領土の防衛及び治安維持に必要になるだろうとの考えからの発言だ。
 未だに自分達の手があまり入っていない地域であるため早急に、そして、完全にその掌中に収めたい訳だ。

 また再来月に開戦し、なおかつ九条の要求どおり短期間で終結させるためにも戦力の増強は不可欠である。
 それに伴う財政の出費はその戦争によって補えばいいのであるし。

 しかし、九条は難色を示す。

「……指揮官が足りん。いや、兵は何とかなるし、貴様が開戦を狙う三月には少しは指揮官の補充が出来る。だが、それほど大規模な数は用意できない。それに陸軍の編成を少し弄りたい」

「……ふむ」

 顎に手を当てて考え込む榊原。
 少しばかり唸るとすぐに解答を返した。

「では、緊急的措置として一部の兵を昇進させ、下士官にしましょう。同様に下士官を士官にして指揮官を補充しましょう。陸軍の編成については私が口を出す事ではありませんから陛下に御任せします」

 これでどうですか? と、榊原は九条の返答を待つ。
 九条は一瞬だけ顔を顰めたが、すぐに平然とした顔に戻して両眼を瞑って一考する。

 ――……一定以上の練度さえ保てるのならば、多少強引でもここは兵を揃える事が大事か。

 一時の沈黙の後、閉じられた眼を開くと仕方ないといった様子で了承する。

「やむを得んか……それでいくとしよう」

「有難う御座います」

「気にするな。私も軍拡は出来る限り推し進めたいのだからな」

「それは私も全力を持って協力致しますとも――と、そろそろ時間が押して参りましたので、急ですがこれにて失礼させて頂きます」

 壁に立て掛けられた時計を見ながら言う榊原。
 その言葉に九条もまた同じように時計を確認すると、馴れた様子で一時の別れの言葉を告げた。

 ――……帝國暦二二年一月二二日、帝國は更なる戦争を求めていた。


最終更新:2007年10月31日 00:41