第三十六幕 流転
ガヤガヤと五月蝿いざわめきが波のように私に近づいてはぶつかる。
街頭にあるそこそこ大きめのビルにあるスクリーンではニュース番組が流されている。
しかし、その五月蝿いざわめきも、ニュース番組の内容も自分の耳には入ってこなかった。
――……いや、入ってくる余裕が私には無かったのだ。
「うわぁ……」
思わず間抜けな声を出してしまう。
だが、それも仕方の無い事だろう。田舎から出てきたばかりの私は……『エルルート=デュレンダス』は帝都の凄まじさに、ただ圧倒されるしかなかったのだから。
天高く聳え立つ大きな建物の群れ、見た事のない程の膨大な数の人間、そして何より活力に溢れたこの空気!
自分の故郷では決して感じる事は出来ないだろうと断言できるくらいだ。まるで世界が違って見える。
故郷にはこんなに人はいないし、大きな建物も学校や工場くらいのものだ。それに手に入る物だって限られてくる。
でも、この帝都は違う。大抵の物は何でも揃う。仮に欲しいものが売り切れで無かったとしても注文すれば殆どの場合一週間ほどで手元に届く。
それを聞いて私は凄いと思ったが、不思議な事じゃないとも思った。何故ならここは帝国の中心なのだから。
「……あっ、やば!」
近くの柱にあった時計が眼に入って、唐突に声を上げる。
指定された時刻まで行かねばならない場所があるのだが、あまり時間的余裕が無かったのだ。
そもそも彼女がこの帝都にやってきたのは、故郷で中等学校優良学生に選ばれたからだ。
帝國では地方にいる将来性のある学生を帝都に集めて、その人物に適正のある専門教育を行い、優秀な人材として育て上げ、活用している。
その将来性のある学生という基準は一般公開されていないが、これに選ばれると地方から帝都に招集され、帝都の学校に編入される。
拒否する事は一応可能だが、周りがそれを許さないため、どうあっても帝都に行く事になる。
しかし、家族には支度金が渡されるし、本人も将来のエリートが約束された事と同じなので、そう悪い話ではない。
――特に未だに貧困層が多数を占める地方の人間にとっては。
まぁ、それは兎も角として、彼女は急いで手提げ鞄から故郷で貰った書類に同封されていた地図を出す。
現在地を探して、地名を確認。すぐさま行くべき方角を割り出し、疾走する。
「間に合えっ! 間に合えぇぇぇぇッ!!」
必死の形相で叫びながら彼女はその場から消えていった。
――後日、新聞に『奇声を上げて帝都を激走する少女』として彼女の記事が小さく載った。
インビンシブル大帝國 帝都ノーブルラント
デオスグランテ城 宰相執務室
「全ての問題は予算なのですッ!」
「そうです! 是非、増額を!」
今日も私の執務室に何処かの官吏がやってくる。
正直、もう相手にするのも億劫なのだが、いつもと同じ台詞を吐く。
「無理だ。そんな余裕は無い」
「宰相閣下、そこを何とか曲げて欲しくて御願いしているのです!」
「多少無理をすれば幾らかの纏まった予算が確保できるはずです! 御再考を!」
短い言葉で切り捨てたが、まだまだ食い下がってくる。
これに榊原は深い溜息をつき――そして、こめかみに青筋を数本浮かべた。
多少の無理と言うが帝國の財政は段々余裕がなくなってきている。
これも自分が進言した陸軍大拡張のせいなのだが、そのせいで一気に予算が食われているのだ。
特権階級の使い潰しを行っていても補填できる額は限られている。まぁ、かなりの負担軽減になっているが……。
とりあえず、当面の予算は昨年併合した各国の宝物庫や特権階級の者たちから接収した財産を切り崩せばなんとかなるだろう。
しかし、それをやり過ぎれば貴金属類を始めとした物価が下落してしまうので、出来る限り少しずつ放出するのが望ましい。
――……いざとなれば『帝國物価調整法』を盾に強引にやるだけだが。
まぁ、とりあえずは目の前の連中を黙らそう。
「駄目だ。何を言われようとも予算は出せない。そもそもそんな予算があるのなら、今は軍備に回される」
「しかし、我らとしましては……っ!」
「くどい。もうこの話は終わりだ」
相手の言葉を斬って捨てる。
こちらの方が圧倒的に立場は上なので相手は大人しく押し黙るが、当然不満そうな表情を浮かべてこちらを見てくる。
ここで何もせずに追い返すような真似をすれば少なからず恨みを買うだろう。まぁ、そんな馬鹿なことはしない。いつも通りに対処すれば良いのだ。
榊原は少しばかり思考を纏める。
そして、軽く溜息をついた後で、目の前の二人の官吏に告げた。
「しばらくは辛抱してくれ。次の戦争が終わればどうにかすると確約する。……今、少しばかり待て」
極めて複雑な表情を見せる榊原。苦悩とやるせなさが見事に『表現』されている。
これは相手にどうしようもなかったのだという事を印象付けるための演出である。
腹の底では相手の思考・心理を完全に把握するべく、その頭脳をハイペースで回転させている。
どのようにすれば相手が引き下がるか? どのように言えば相手は満足するのか? どのように振舞えば相手は自分に敬意を抱くのか?
榊原のような宰相という立場は特に『計算』が大事になってくる。
元々、榊原はエリートの道を歩み、有能さを発揮していたが、それ故に謀略で落とされた。
その苦い経験を無駄にしないために心理学を学んで人心掌握術を身に付けることにより、立ち回りが随分上手くなった。
権謀術数を巡らす事も容易に出来るようになった。
尤も、宰相という役職に必要とされる能力であるため当然とも言える結果であるが。
「……承知しました。宰相閣下の顔を潰す訳には参りませぬ故、今しばらくは忍耐の時と覚悟いたします」
「こちらも同じく耐え忍びます。しかし、次の戦争が終わり次第、予算の方を御願いしたく……」
「判っている。予算については戦後に必ず一考しよう」
やはり追求して来ない。まぁ、そもそも自分よりも立場が上の人間に我慢してくれと頼まれれば断るのは大変難しい。
更に彼らは戦後には予算を考慮するという譲歩を取り付けたのだから、一応の目的である予算確保については時間こそ掛かるが、達成できたと考えていいのだ。
少なくとも、この場でこれ以上何かを求めるのは非常に難しい事だろう。
「では、宰相閣下。時間も押してきておりますので我々はそろそろ……」
「うむ、分かった。気をつけてな」
二人とも一礼して退出する。
榊原はそれを静かに見送り、扉が閉まったところで苦々しい表情を浮かべた。
引き出しからいつものシガーカッターとシガーケースを取り出して一本の葉巻を手に取った。榊原のお気に入りのものだ。
淡々とシガーカッターで吸い口を切り、ポケットからライターを出して時間を掛けて火をつける。
そして、またいつものようにゆっくりとふかすように喫い始めた。
「全く、余計な事に無駄な労力を使ってしまったものだ。こっちは比べ物にならん位に忙しいというのに……」
フゥー、と煙を吐き出す。
自分のデスクにシガーカッターとシガーケースを戻すと、ごそごそとそこら辺を漁りだして色々な書類をボンッと目の前に置いた。
「……今日も徹夜だな」
何処か他人事のように言いながら、榊原は書類との格闘に入った。
ダルフォード大帝国 帝都エルリーフォード
フォートグランティス城
「我が大帝国の勇者諸君ッ! よくぞ集まってくれたッ!!」
鋭い大きな声が辺りに響く。
高台の上に乗って、その声を発している皇帝ダルフォードの眼前には幾千、幾万の兵が整然と並んでいた。
今、ダルフォードは大陸最強と信じるその軍団と、それを鼓舞する自分自身に酔いしれていた。
自分が歴史を作っている実感、自分こそが世界の中心であるという意識が彼を高揚させていた。ダルフォードの声は続く。
「此度の戦は後に語り継がれるであろう大戦となるっ! 諸君らはその戦いに参加した偉大なる勇者として後世にその名を残す事になるだろうッ! そして、諸君らは栄光を手にするのだッ! 誰もが望んでも決して手にする事の出来ない不滅の栄光をッ!」
書記官や絵描きが隅の方で忙しなくその腕を動かす。
歴史書にこれらの言葉が載せたり、この場面の絵画を美術品として後世に残すためだ。
そして、子々孫々と受け継がせ、自らの名誉をより高める道具に使う。
偉大なる大帝国初代皇帝、その肩書きを永遠のものとするために。
「いざ、出陣であるッ!!」
その瞬間「オオォーッ!!」と、一斉に波のような声が上がる。
幾万もの兵士たちの叫びは、見る者に天を揺るがすほどの錯覚を覚えさせる。
その兵士たちは一斉に背後に向き直ると、ゆっくり、しかし力強くその歩みを進め始めた。
ダルフォード大帝国軍、出兵。
目指すは怨敵、大デルフリード帝国が帝都ランズベルク。
そして、大デルフリード帝国皇帝ダリス=ジュス=デルフリードの首、唯一つ。
――歴史は、加速を始めた。
最終更新:2007年10月31日 00:58