120.
肉体と精神は,切っても切り離せないものなのだろうか.または,簡単に遊離できるものなのだろうか.いずれにせよ,今の「私」という意識の集合体は,血の海に倒れている誰か―それは既に「クスフス」ではない―と,その誰かに向かって声を上げているオルテガと,記憶士の少年―彼こそが「クスフス」なのだ―を俯瞰している.もしこの意識の集合体なるものに「心」と名付けるのなら・・・.アンセーヌ,君は私について来てくれるかい?
骨蛮竜に刺され,意識が遠退いて行った後のこと.私は,暗闇を知覚した.黒ではない.本当に色のない,真っ暗闇だ.そして身体が剥奪されたにも関わらずに,胸に当たる場所に痛みを知覚した.今までバケツの水のなかをフヨフヨと漂っていた雑巾が,きつく絞られるみたいに.私はそこで思った.
「ああ,アンセーヌが心から離れていったのだな」と.
悲しみは光速のように過ぎ,「私」という意識の集合体は,俯瞰していてまもなく,声を知覚した.
「兄さん,夢をあきらめないで」と.
121.
「兄さん,夢をあきらめないで」だって・・・?何故,今更,私の妹の声を聞くことになるのだ.
「私」は,その声を知覚して妹のことを思い出すとすぐ,長い円柱状の光束のなかを昇っていくようになった.真っ暗闇から,いきなり光に満ちた円柱を昇る風になったものだから,「私」は急激な光闇の変化に最初は堪えられなかった.それにしてもかつて,同じような,光の円柱を昇っていくという経験した覚えがあるが・・・.
「そうよ.今,兄さんが昇っているのは,ヤントラタワー」
また声がした.
蘇る,幼き日々のこと.私はよく妹と遊んでいた.それは,独創的な遊びだった.人形に名前をつけては,毎日,違った物語を考え妹を喜ばせていた.思えば,おもちゃの兵隊たちに「ロイヤルナイツ」と名付け,竜討伐の話などしたことがあったな.
「あの頃は楽しかったね.一生の思い出になってる」
ふふ,「あの頃は」か.ヤントラタワーを昇りながら考えていたことがあった.それは・・・.
「私も随分時間を無駄に生きてきたものだ」
ということ.
122.
もはや意識だけの「私」だったからなのか,前よりヤントラタワーの先へ辿り着くのが早く感じられた.前に昇った時と同じように,「私」はタキオンに運ばれ,かのタワーの先へ行くことになっていた.とすれば,このタワーの底には六方星があって,その手前にはヘヴンズゲートがあるというのだろうか?ならば,「私」は綺羅の国の上空にいるのか?
「待って,兄さん」
再び,あの声を知覚した.
「早合点ね,もう.詳しいことは,行った先の人に聞けばいいことじゃない」
おまえは,随分考え方が変わったな.いつからそうなった?というか,どうやってハウスのなかの「私」に話しかけることができる?ああ,そのことも,このヤントラタワーを昇った先・・・つまり天頂国にいる人たちに聞いてみればいいというのか・・・.
最早時間を計る術はないが,前にも述べたように,天頂国へと辿り着くのは前よりも早く感じられた.意識だけの「私」は,天頂国側の転移ゲートをくぐり,かの国へ辿り着いた.
123.
見渡す限りの砂漠の海.以前来た時と,全く変わらない風景が広がっていた.広大な砂漠のなかに,相変わらず路面電車がひっそりと走っていた.砂漠の地面が人間の皮膚だと例えるのならば,その線路は,古い手術の跡のようだった.
「私」は,また例のちっぽけな,あの鬼火がいたゴーストタウンへやって来た.もう今は魔心眼が無いので,鬼火たちに生命泉を見出すことはできないが・・・.「私」は,ゴーストタウンにていくつかの問いを「私」自身に問うていた.
「何故,『私』は此処に来なければならない?」
「何故,今は妹の声を知覚できない?」
「そもそも,『私』は今,何に向かっているのだろう?」
と.
「確かに,あなたには此処へ来た意味はあります.そう,妹様の導きによって.今こそ,我々の出番です」
突然聞き覚えがある声を知覚した・・・と思うと,「私」の前にマクンプが現れたのを見た.よく覚えている.茶色の,クマのぬいぐるみの姿をしている彼だ.そして,彼の後ろには,四つの影が在ったのだ.彼らは一体・・・何者だというのだろう?
124.
「あなたは,我々のことについて良く知らなければなりません」
四つの影から,マクンプへと視線が移った.彼は続ける.
「紹介しましょう.我々,綺羅の国魔導親衛隊,『バナナリアン』を」
やがて,四つの影が晴れていった.
…「私」が知覚した限りでは,その四つの影の正体は,二羽のヒヨコと,一匹のカエル,そして一匹のウサギのぬいぐるみが,ただあるようにしか見えなかった.しかし,彼らにはちゃんと名前がついており,それぞれピ&ワッフ,ルカーエ,ラパンと言ったし,マクンプと同じように馴染みのある言語を話した.「私」は,バナナリアンのリーダーであるマクンプからこう告げられた.
「ヤントラフィールド以来ですね.改めまして,私はバナナリアンのマクンプと申す者.再会できて光栄です.あなたは真実と向き合うべき時を迎えています.即ち,あなたがカモメに乗って今に至る旅をする以前のことを知らなければなりません.『神の護り子』として,今,お伝えするべき時が来ました.それでは,語りましょう.目を瞑り,じっくり耳を澄まして聞いて下さい.
125.
あなたには,父上,母上,そして妹様がいらっしゃることを覚えていますか.幼い頃,あなたは親君に見守られながら妹様とよく遊んだことをも覚えていらっしゃいますか.エコールを卒業してから何年もの間,あなたは夢を持つこと無しに,ただその日暮らしにあけくれていました.やがて,長いこと音信不通だった妹様から連絡があなたのもとへ届きました.
『兄さん.私,結婚することになったの』と.
妹様は,あなたと同じ姓を手離さなければならなくなった.妹様は,あなたの暮らしぶりを人伝に聞き悲観し,あなたに『あるもの』を差し出しました.それが・・・,幼い頃,あなたと妹様とが仲良く遊ばれていた時の『記憶』であり・・・,このハウスでもあり・・・,あなたを一時的に夢を見させている状態を作り出しているのです.あなたが使っている言葉で言うと,『眠眼の世界』は,あなたの妹様がもたらしているものなのです.『起眼の世界』は,正に生物学的に『寝ていない状態』のことを指します.
つまりあなたは,ずっと,所謂『夢』を見続けているのですよ.
126.
ハウスを作った・・・或いは現実のあなたに『眠眼の世界』を与えた妹様は,幼い頃,ぬいぐるみを大切に過ごされていました.一つ一つ,名前をつけて・・・.なかでも,5つのぬいぐるみを特に大切にされていました.そうです,妹様は,あなたのハウスに於いて彼らに命を吹き込んだのです.それこそが,紛うこと無き我ら・バナナリアンなのです.
私たちには,もちろん妹様から与えられた使命がありましたが,もっと別の意思による使命もありました.そうです,あなたの父上・母上の,子どもを想う心です.そもそも『バナナリアン』という我々の存在は・・・,ひと組の夫婦から生まれる,『神の護り子』とされています.バナナの房のように沢山の子宝に恵まれ,いずれ生まれる子どもに夢を追いかけて欲しいと願う心によって作られる我々です.
妹様・・・サピエンタ様は,あなたより早くに夢を叶え,そして遠い地へ行ってしまわれた.サピエンタ様は,夢を追おうとしないあなたに,ご自身の『神の護り子』をおつけになったのです.本来なら,人の子であるあなたも持っているはずの『神の護り子』に,更にもう一つ余分についたおかげで,『ハウス』が生まれたのです」
マクンプは,静かに語り終えた.
127.
遠いところから,誰かの声が聞こえた.マクンプのすぐ後ろに控えていた,ウサギの姿をしているぬいぐるみ・・・ラパンは,「私」に唐突に話しかけてきた.
「聞こえますか?昔の,幼き日のあなたの声が・・・」
と,ラパンは一歩踏み出し,指を鳴らした.「私」は,言う.
「思い出したよ.この声は確か・・・僕が保持し得る最古の思い出の一部だ」
それは,私と妹が一緒に遊び終えた日の夕暮れの出来事.台所で,母親が何かガサゴソ行っているのをみつけた私は,訊いたのだ.
「おかあさん,なにをやっているの?」
私に意表を突かれのけぞった母の先に,見たものは.
つい先程まで妹と一緒になって遊んでいた玩具が,ゴミ袋に入れられているところだった.
… … …
ラパンは言う.
「もう一つ,あなたの心に深く致命的な傷を負わせた思い出があります.思い出せますか?あなたは繊細過ぎるが故に,思い出を,心傷を引きずりそして何より負い易い.だけど,今はそれに向き合い,克服しなければならない時が来ているのです.『夢追わざる人』から『夢追い人』になるために」
128.
「私」は言う.
「『夢追い人』になるために,か・・・.確かに,私は夢を追うのをしなかった.でも,それと思い出に向き合うことがどうして必要なんだ?」
今度はルカーエが一歩踏み出し,言った.
「あなたは,過去の辛い思い出を引きずり過ぎていて,前に進むだけの力が損なわれているのです.だから夢を持てなくなった.明日への希望を信じることができなくなった.生きるのに,苦しくなってしまった」
ルカーエは,そう言い終えると両の手を弾いた.すると,「私」はまた一つの過去を思い出した.
居間で,父親が,幼き日の私が造りかけのプラモデルをようやっと完成させた.それは,飛行船のプラモだった.自分の力では到底造れなかったそれを見せてもらい,私は素直に喜んだ.・・・だが,思い出はそこで終わりではない.場面は移り,夜.父と母がいつもの夫婦喧嘩をしていた.飛び交う罵声に怯えて弱っていた私に,更にトドメを刺したのが・・・.父親が,おそらく腹いせだろう,例のプラモを,私の目の前で思いっきり投げ捨てたのだ.
129.
「私」があらかた過去の悲劇を思い出すと,今度は二人組のヒヨコが話し出した.
「あなたは,人間としての機を熟してから夢を追い始めた.『理想郷』を求めようとする夢を」
「私」は,返す.
「ああ.ちっぽけで,くだらないかもしれない夢をな」
と,アイロニカルたっぷりに.しかし,もう一羽のヒヨコは,真剣そうに語り出した.
「でも!サピエンタ様は,そんなあなたを嬉しく思い,ご自分のバナナリアンを手離し,あなたに託したんですよ!」
僅かだが,沈黙が訪れた.しかし,マクンプは唐突に,話し始めた.
「言うまでもなく,綺羅の国の女王というのは,サピエンタ様のことです.そして,キラというのは,あなたの母上の名前.綺羅の国の古での呼び名は,『キランド』と言ったのですよ.とにかく,サピエンタ様は,御自身の『神の護り子』,つまり我々をあなたに捧げています.そして,ユニバースに旅立ちました.サピエンタ様は,もう我々を必要としなくても生きていけるだけの力を持っています.我々『神の護り子』は,夢を叶えようとするあなたの思いを成就できるよう,妹様から遣わされた忠実な僕なのです」
と.
130.
「私」は,問うた.
「今までの話を聞いていると,僕がずっと眠っていて,夢を見続け,ハウスを旅させているのは・・・全部サピエンタがさせていることのように思えるんだけど?」
マクンプは,答える.
「そうです.サピエンタ様は,このハウス・・・を,本来なら一人一つしかない精神世界を,あなたにもう一つ余分に与えた,言わば創造主です.このハウスの何処かでは,サピエンタ様のことを『女神』だと奉る地域があるらしいのですが・・・.我々も,サピエンタ様のことは,『女神』と呼ぶに相応しい存在でいらっしゃると思っていますよ」
「私」はまた,彼に問うた.
「待ってくれ.僕は今も『夢』を見ているんだろう?じゃあ,現実の僕は,今どうしているんだ?まさか,ただ眠っているわけじゃないだろう?アンセーヌやオルテガは,僕にとってそれぞれ大事な恋人だし大事な友だちだ.彼らは今,一体どうしているっていうんだ」
マクンプの表情が,悲しげな風になった.
「彼らは・・・あなたの心のなかで生きています.それだけは確かなことです.意識の集合体であるあなたは,やらなければならないことがあります」
と言うと,遠くから見覚えのある魔導機械人・・・ミュレーゴが一体,やって来た.
131.
マクンプは,そのミュレーゴを指差して言った.
「覚えていますか.儀羅の国の入り口で,あなたにロゼッタシステムを注入した・・・」
「私」は応えた.
「ミュレーゴ零号!」
「そうです.あなたの父親はギラと言いました.儀羅の国の古の名がギランドと呼ばれていたのは,もうお察しがつくでしょう.・・・さて,これからあなたには,キラとギラの優しいあの頃を経験してもらいます.それが,何よりの心傷の癒しになると思うからです」
マクンプは,ミュレーゴ零号の胸部にあるタッチパネルを素早く操作すると,「私」に目を瞑るよう促してきた.「私」は,成されるがままにした.
こえが,きこえる….
… … …
「なぁ,キラ.あの子・・・将来はどんな風に生きるのだろう」
「分からないわ.でも,ただ一つ心に留めて欲しいのは,『自分は,お父さん・お母さんの子』ということ・・・.ギラ・・・大丈夫,あなたと私の子だから,強く生きてくれるわ」
「そうだな・・・.この子には,大きな夢を持って生きて欲しいものだ」
… … …
私は,小さい頃から,「安定」や「穏やかさ」を大切にして生きてきた.こんなに仲睦まじい両親を見るのは生まれて初めてで・・・.もしこれが,偽りのものだとしても,「私」は,この両親を,古い思い出に上書きすることにしたのだった.
132.
思い出など,また作り直せば良い.過去の陰惨な出来事も,どんどん記憶を更新していけば良いのだ.そうすれば,錆びついた壁をペンキで塗りかえるように,心は満ち変える.新しい自分が,明日を越え,未来へ紡ぐ架け橋になってゆく.「私」には,夢がある.自分の理想郷をみつけることだ.例えそれが,ちっぽけで,くだらない夢かもしれなくても,生きる指針は,常に持っていたい.
マクンプは言う.
「大分,あなたは変わりましたね.なぜ,そこまで変わることが出来たのですか?」
「私」は返した.
「『夢を持つことの素晴らしさ』を持てたからさ.みつめるべき未来が無いと,人は死んだも同然になることを,僕が身を持って経験している」
この一言を発した後,バナナリアン五人全員が,「私」という意識の集合体の一部になった.そして,ラパンの声で,
「おめでとう.これであなたは,立派な『夢追い人』です.我々は,夢を持ち続けるひとを守る『神の護り子』です.そして,あなたは,元の身体を取り戻す為に,儀式を受けなければなりません」
と言われた.
133.
「儀式,だって?」
「私」の問いに,今度はルカーエが答える.
「そんなに堅苦しいものではありません.ただ,名前を変えるだけです.これからあなたは,ハウスに戻り,理想郷を求める旅を再開するでしょう.あなたの他に,同じ名を持った人はいませんでしたか・・・?」
「私」は,記憶士の少年を思い出した.私の過去を体現していた,それも同じ名を冠する・・・.
「彼がどうしてあなたの過去を投影しているのかは,私たちにも分かりません.ハウスに戻ったら,南の国へ行ってみると良いでしょう.・・・とにもかくにも,ハウスには,同じ名前の人間はいてはいけません.新しい名を名乗ることにして下さい」
「私」は即答で,「カイクスフス」と答えた.
瞬間,私は僅かに見覚えのある場所で目を覚ました.五感もしっかり取り戻せているし,なにより自分の身体がなんともないことに安堵した.辺りの様子から見て,此処はヤントラフィールドだと認めることができた.周りには草原が広がっていて,地面には六方星が描かれていたからだ.
134.
私は地面から起き上がると,六方星より少し離れた場所に,カモメが置かれてあるのに気付いた.私は,ゆっくりとカモメへと歩み寄った.すると,三枚の置き手紙がカモメの側に几帳面に並べられてあることにも気付いた.それぞれ,アンセーヌ,オルテガ,クスフスからのものだった.私はまず,クスフスからの手紙を読んだ.
「今,僕たちは,天空の食卓国にいます.これを読んだら,すぐに来てください!
P.S. アンセーヌさんの心は,とてもじゃないけど共有できなかったです」
そして,オルテガからのは,
「特製のカモメを作ってやったから,早く来な」
だった.そして,最後にアンセーヌからの手紙を読んだ.
「私が,既に魂だけの存在であることは,あなたが良く知っていることよね.あなたに死なれて,とてもショックだった・・・.だって,もうあなたの心の片方にいられないと思ったら・・・.ねぇ,いつか,私たちだけの思い出の場所に行かない?そう,ランキザッシュの丘の上よ!」
アンセーヌ・・・.君は今,誰の心のなかにいるんだい?
最終更新:2013年11月18日 15:27