私、柊晴美があの人と一緒の部屋に暮らし始めて数日が経った。
私が恋したあの人……拓弥はどこか子供みたいな人だった。
「あの……晴美、さん。晩ご飯作ってくれたのは嬉しいんだけどさ……、俺ってさブロッコリー食べれられないんだけどさ……」
拓弥はシチューの中に入っているブロッコリーを見ながら言った。
「そうだったの? でも、私ブロッコリーの入っていないシチューはシチューとは呼ばない主義なんで」
シチューに関してそれだけは譲れない。あの人はすっかり黙り込んでしまった。そういうところがまた可愛い。
「先に言っておきますけど、作ったものを残されるのとても嫌ですから」
それは私がお食事を作ることを生業にしてきたからの気持ち。
「………………」
最早、何も言い返せないみたい。
この人は本来人を傷つけることなんか出来ない人。この人の背負っている使命とは正反対。
「ふふ……仕方ないですね。では、ブロッコリーは私が食べますよ」
「うわっ、なんか馬鹿にしてないか? 俺」
「じゃあ、食べます? ブロッコリー」
「…………遠慮しときます」
そんな反応すら、思いっきり抱きしめたいほど可愛い。
「晴美……さん。ちょっといいですか?」
そこへこの旅館の主である正樹さんが部屋の中に入ってきた。
「何でしょうか?」
私は正樹さんの好意でこの旅館にいる。少しの頼まれ事くらいはなんてことない。
「それと、拓弥」
「何だ? 正樹のおっさん」
「今月から月々のお代を二倍な」
「へっ…………?」
「美雪ちゃん」
そう呼び止められ、振り返ると晴美さんがいた。
淑界から来てからというもの暇さえあれば拓弥さんにの傍にいる。
押しかけ女房的な思惑が見え見えなのだが、何故そこまで出来てしまうのか私には理解出来なかった。それを容認している拓弥さんも拓弥さんだとは思う。
「あなた、異聞があるんですって?」
「何で知っているんですか?」
淑界で真次さんに話した時に晴美さんはいなかったはず。やっぱり神様は違う?
「大久野さんに聞いたのよ」
「そうですか」
おじさんめ、余計な事を。珍しいモノ見たさに人が寄るのを幾度となく……。
「でも、何で訊いてきたんですか?」
「私はお酒を司る神なんだけど、どちらかと言えば術者なのよね。だから異聞が使える美雪ちゃんに興味があってね」
やっぱり珍しいモノ見たさか……。そのにこやかな笑顔の何処までが本当なのか?
「折角の才能だしさ、もっと使えるようにしてみない?」
「それって修業しろってことですか?」
隙が無いのなら……。
「ん? そういうことになるわね……」
隙を作るのみ……!
…………全神経を集中させろ。
……そして読み取れ。ウラガワを!
そして言い返してやれ。
「私が修業することで、晴美さんに何のメリットがあるんですか?」
「メリットって……」
「正樹おじさんの役に立って、ここのお金をうやむやにする気ですよね。今、考えた訳じゃありません」
「あなた、意外にやるようね。でもね、立場ってモノ知ってる?」
晴美さんの怒りが伝わってくる。顔は涼やかだが熱い怒りで溢れている。
神として永い時間を生きてきた者として、かなり年下にナメられるのが屈辱的らしい。
でも、あんただって私をナメているじゃないか。
「何か行動するとき何らかのメリットが存在します。大人ならなおさら。結局、大人は気に入らないです。私自身そんな大人になんかなりたくないし……」
晴美さんの気持ちが怒りから驚きに変わる。
当然か。幼い印象だとよく他人から言われる私の口からそんな言葉が出たのだから……。きっと晴美さんも私に対してまだ幼い印象を抱いていただろう。
………………ん? 何だ?
突然、晴美さんの心境が静かなものにと一転した。
それは例えるならまるで波の立っていない水面のイメージ。
「ちょっと悪いわね」
そう言うと晴美さんは素早く印を切り、右手の平を私のおでこに押し付けた。
すると、全身の力が抜けてへたり込んでしまう。
「ごめんね。本当は強引なのは好きじゃないの」
「なっ、何をする気?」
声に怯えが混ざる。
「今から私の質問に答えてもらう。……大丈夫。どうしても隠したいことは隠せる」
催眠術的な何かなのか? 自白させる何かなのか?
「じゃあ、まず最初に。あなたが異聞を使えるようになったのはいつ?」
自然に口が動く。
「……私が覚えている記憶で一番古いのが多分……一歳くらいかと思います。……その時には人の心を感じるくらいは出来ていたと……思います」
「寿命が短い人間でも赤ん坊の頃を覚えているなんて稀だわ。……それで?」
「たぶん、この旅館だと思います。何でかは分りませんけど、親戚が集まっていたんだと思います。塩山に住んでいるおじさんが、能力を見抜く力を持っているんです。だから、そのおじさんかと思うんですけど、私を見て何か言ったんです。すると、多くの人が集まってきて………………。その人たちが奇妙なモノを見るような……。いやっ……、怖いのは……、怖いのは……。私は何も悪くないでしょ? 私は何も悪くない……。私はなりたくて異聞を手に入れたわけじゃない……。なのに何で。人の心をなんでも見透かして性悪みたいになるとか決め付けないでよ! いやっ……、いやっ……、いやっ……!!」
「美雪ちゃん! 落ち着いて!」
「はぁ、はぁ、はぁ…………」
晴美さんに腕を掴まれて初めて私は自分の両肩を抱いていることに気付いた。私の顔をしっかりを見つめていた晴美さんはとても心配そうな顔をしていた。
晴美さんはそっと私の頭を優しく撫でてくれた。そして力強く抱きしめてくれた。
感じ取った気持ちは、一片の曇りのない慈愛だった。
あたたかい。
……見上げると晴美さんは私が落ち着いたと思ったらしく、私に微笑みかけてくれた。
それはさっきまでの幼さの残る笑顔ではなく、まさしく母の笑みであった。
「美雪ちゃん、……本当にごめんね」
「いえ……。晴美さんは何も悪くありません」
それを聞いて晴美はいつものあどけない笑顔に戻り言った。
「最初の話に戻るわね。さっき修業をやってみないって訊いたのは確かに拓弥が代金を払っている部屋に私は一銭も払わずにいるのが申し訳なくて、大久野さんの頼まれ事に乗ったのは事実よ。でもね、私が修業を勧めたのは美雪ちゃん自身のためにもなるの。異聞が極められるとかじゃなくてね」
「私のため……?」
「そう。美雪ちゃんは……大人は信用出来ないみたいな事を言ってたけど、大人全員が信用できない?」
大人全員って言われると……? なら、奈積さんも信用出来ないのかと考えれば簡単な話だ。
……奈積さんは私で妹のように可愛がって欲を満たしている所がある。そこから不信感に繋がる可能性はあるかもしれない。
「分からないですけど、……簡単な事がきっかけでそうなるかもしれません」
「でも、それじゃいけないってのは美雪ちゃん自身分かってる?」
私は小さく頷いた。
「美雪ちゃんだってもうすぐ大人になる。そしたら周りは大人が多い環境になることが多い。美雪ちゃんが相手を信頼しないと相手も美雪ちゃんを信頼しないわ。そしたらどんな小さな幸せをすら、逃してしまう。最悪、自分自身さえ信頼出来なくなってしまう。それは嫌でしょう?」
私はまた頷いた。
「それだけじゃない。美雪ちゃんは呪力の量は結構あるみたいだから生霊や悪霊なんかになっちゃうと並の術者じゃ鎮められないわね。下手したら葦原中国が終わるわ」
「……そうなんですか?」
「まぁ、最悪の場合だけどね。……美雪ちゃんも不幸を感じて相手も不幸を感じさせてしまうのは嫌でしょ?」
「確かに……そうです」
「私がやる修業っていうのは何かを信頼する心が必要なの。だから修業を通して美雪ちゃんに心を養ってほしいの。精神的に強くなれるし、集中力もついてくる。心がより豊かになれば、より多くの幸せを感じることができる。ここで出会ったのも何かの縁だと思う。だから美雪ちゃんにはより幸せになってほしいの。考えてくれる? その気になってくれたら明日、女風呂の清掃時間、女風呂へ来てね。待ってるから」
優しく言い終わると去っていった。
なんか胡散臭さもあったが晴美さんが私のことを考えてくれたのは本当だった。
私は少しでも不信感があればそれをどんどん募らせてしまう性格があるらしい。
今までこの旅館の人たちや真次さん、普段の晴美さんは優しかったから、黒い感情は抱かなかった。だけど、さっきの晴美さんのように高い位置から言われると反抗心を抱いてしまう。そこから不信感に繋がる。
これはいけないものを変えるいいチャンスかもしれない。
でも、それは私が今まで距離を置いてきた分野へさらに足を踏み入れることになる。
私の能力や神様が実際にいることなどは受け入れたのだが、深入りすることに対する恐怖がまだある。
どうすればいいのだろう…………?
「失礼します」
襖を開けて柊……晴美さんが入ってきた。歳のせいなのかもしれないが、いい加減早く名前を覚えるようにしないといけないな。
彼女はいつも小袖に女袴で昔の女学生のような格好をしている。小柄で童顔気味な彼女とあいまって独特の雰囲気を持っていた。
「美雪ちゃんのことでお話が…………」
「そうか、美雪の修行についてか?」
「はい」
彼女は基本的に酒を司どる女神だ。彼女自身はがなんかの神話に出て来ることは来るようなことはなく、有名な存在ではない。
だが、彼女は呪術に長けていた。攻撃系は少ないがそれ以外ではかなりの技量をもっている。
美雪ちゃんの指導役に晴美さんを立てた理由、それは彼女は自らの努力で技を掴み取ったからだ。(晴美さんの場合、主に恋愛がきっかけになっているようだが……)
その晴美さんは机の上においてあった菓子を食べていた。猫背で頬杖をつきながら……。
なんというか……やる気がなさそうというか……。普段の行儀はちゃんとしていないらしい。
「それで、率直なところを聞かせてくれ。美雪はどうなんだ?」
彼女は猫背に頬杖、やる気の無さそうな目つきのまま答えた。
「素質はすごいですね。美雪ちゃん能力は異聞のみですけど、呪力の量に関しては私なんか足元にも及びませんね。奴らが偶然現れた彼女を全力で狙ったのがわかります。天性の才能っていうのはああいうモノを言うんですね」
そう言いながら晴美さんはテーブルの上に置いてあるお菓子を手に取った。ばりぼりとお菓子を食べながら続ける。
「恐らく感度を最大限に引き出せられたら、近くに居るだけで一般人の心は丸裸ですね。……まぁ、そのレベルに到達するには相当な努力を要しますが」
やはり美雪ちゃんは逸材だったということか。
「それでも力のピークは過ぎていますよ? 大人より幼い子供の頃の方が感受性は強いですからね」
「ん……。それはそうだろが……」
「じゃあ、解りますよね?」
晴美さんの声色に冷たいものが混ざっている。
「解るって、何がだ?」
「美雪ちゃんは大人の言動に懐疑心を常に抱いています。それの原因ですよ」
「美雪がそんな事を常に……」
まさか……。だが、それが本当だとしたら……。そして、その原因は間違いなく……。
「抱いてますよ。ちょっと強引ですけど、術を使って吐かせました。本当、聞いて呆れました。異聞の才能を見抜かれたのは美雪ちゃんが一歳くらいの時でしたよね」
「ああ……。そうだ」
「美雪ちゃんは赤ん坊の頃もある程度思い出せるみたいです。それで親族の見世物を見るような心境を感じたのをはっきり覚えているみたいです」
確かに幼い頃の美雪ちゃんは親族と一緒にいる時はいつもぐずっていた。
「大人に対して懐疑的な美雪ちゃんは大人の行動には必ず下心があるものだと考えています。実際、私も美雪ちゃんの指導をやるのは旅館の代金を踏み倒すためだって言われましたよ。……まぁ、事実ですけどね。幸い、この旅館の方々は皆さん優しいですから、不の感情は抱いてなかったようですけどね」
「それがどうしたと……」
「しらばっくれる気かぁ!? こんのくそジジイめ!」
ドン! と、晴美さんが机を叩いた。
この歳になって怒鳴られるとは思ってみなかった。見た目は幼さが残って、甘そうなのに……。私より年上の風格をはっきりと感じる。
「術を会得するには仮のものだとしても疑わない心が必要不可欠なんです。美雪ちゃんは常に懐疑心を抱いている。つまり、美雪ちゃんは才能を駄目にしてしまう……いえ人として駄目になってしまう直前なんです。その原因があなたの親族にあったって事なんです。事の重大性が解っているんですか?」
「………………」
「敏感だった幼い頃の美雪ちゃんは邪な醜い感情に晒されてたってことです。結果はたった六十年位しか生きていないあなたにも理解は出来るでしょう? ……失礼します」
晴美さんは冷たい一言を残して立ち去った。
幼い子供が沢山嫌な事をされてしまう悪影響なんて今更教えられる必要なんてない。
全てはもう遅い。だが、手遅れではない。
晴美さんに美雪ちゃんの心を託すしかない。
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