お父さんの運転する車で新たな生活の場へと向かってゆく。
ぼんやりと窓の外を眺める。パッとしない高根の風景が流れてゆく。
行き先は、大久野屋旅館。
私の伯父である大久野正樹が営んでいる温泉旅館。
私の住んでいる高根町の東のほうにある。ちなみに私の家は西の方にある。
高根町は八ヶ岳南麓に位置する山梨県の田舎町。
北の方にある清里高原はバブルの頃はすごい人気だったそうだが、当時を知らない私にとって清里も冴えない場所でしかない。
お父さんの車が旅館の前に着くと早速、正樹おじさんが出迎えに出てきてくれていた。
「明夫君、わざわざ悪いねぇ。本当は私のほうから迎えに行くはずだったんだけど」
「いえいえ、そんなことはありません。……この度はウチの娘がお世話になります」
お父さんが深々と頭を下げる。
お母さんはお父さんの一族の『薬袋』に嫁入りしたのだが、立場はまるで逆。普段はお母さんの尻に敷かれて、正樹おじさんにも頭が上がらない。
まぁ、どんな家庭でも世間一般とは違うものは少なからずあるだろうし、お父さんがそのことで愚痴っているところは見たことはないので問題ない。
正樹おじさんは、私の方を向いた。
「久しぶりだね美雪ちゃん。少し見ない間に大きくなったねぇ」
……いや、多分変わってない。それに私はクラスの中でも背が低いほう。もっと身長欲しい。
正樹おじさんはお母さんの歳の離れた兄。年齢はもうすぐ五十代半ばの優しそうな人。
でも私はこの旅館に行きたくないもう一つの理由……この旅館の特殊性のせいか正樹おじさんもあまり好きではなかった。
どう対応したら良いかと困って何を言い出せずにいた私に、お父さんは「よろしくお願いしますって言いなさい」と促した。
「あのっ……よっ、よろしくお願いします!」
私は焦りながら出来るだけ元気に明るく振る舞い、挨拶した。
「ははは。元気があってなによりだ。早速、中に入ろうか」
「それではよろしくお願いします」
お父さんは再び頭を下げて、正樹おじさんに私を預けた。そして、旅館の中へと入ってゆく私を見送っていた。
正樹おじさんは私を旅館の中へと案内してくれた。
私は着替えなどが詰まった大きい鞄を持ちながら、正樹おじさんの後に続く。
「いゃあ、美雪ちゃんが来てくれたなら、ウチの将来は明るいなぁ。美雪ちゃんならきっと看板娘になれるだろうから、儲けも上がりそうだよ」
この旅館は正樹おじさんが一代で築き上げたもの。おじさんはこの旅館に強い愛着を持っている。
そのためなのだろうか、正樹おじさんは明るい話題を続ける。
「でも、この辺で和風の旅館をするより、清里の方でペンションでもした方が儲かるんじゃない?」
まぁ、今の清里はそこそこ人気があるとはいえ、ペンションもそんなに儲かるとは思えないのが本音なんだけど。
「ははは……。こっちにも色々事情があるんだよ」
正樹おじさんの僅かな声色の変化する。そして、気持ちが伝わってくる。
私をここで働かせようと勧めたことに対する、後ろめたさ……。
私が一方的にこの旅館を毛嫌いしていることを正樹おじさんは知っているはず。
今、私は何気ない一言が正樹おじさんを傷つけてしまったのだ。
私だって、本気の本気でこの旅館を嫌っているわけじゃない。だから、余計に質が悪い。
悪いのは一方的に私の方で、正樹おじさんが後ろめたさを感じる必要なんて全くない。
私はこの旅館に来るといつも気まずくなり、正樹おじさんとの間に見えない壁を作ってしまうのだった。
これからはそういうことは直していかなければいかないだろうな。最低でも正樹おじさんやこの旅館で働いている人たちとは……。
でも…………そう簡単に………………。
「美雪ちゃん、ここだよ」
正樹おじさんの声に我に返った。
部屋の前に着いていた。客室に見えるが、どこと無く生活臭がする。おそらく従業員の部屋だろう。
そういえば私は従業員のスペースは食堂以外で来た事がない。
「中に着替えがあるから、それを着てきてね。着物は自分で着られるって悠子から聞いてけど」
「うん。大丈夫だよ」
部屋の中に入るとそこはやはりというか、当然というか和室であった。間取り的には客室と変わりないようだ。
「あれ?」
部屋の中には他の人のらしき物がある。きっと、誰かとの相部屋なのだろう。
「とりあえず、着替えとかなきゃ……」
しっかり畳まれている服を手に取った。
ここの制服なのだろう。和風旅館らしい、着物だった。
淡い赤をしていて、丈は私に丁度良い。
きっとお母さんに私の背丈を聞いて、丁度良いものを用意してくれたのだろう。
正樹おじさんのこういった心遣いはとても嬉しい。
……純粋な親切心。
洋服を脱ぎ、和服に袖を通す。
普通の高校生は着物の着付けなんか出来ないと思うけど、私は出来る。
自他共に認める過保護な両親に事ある度に記念撮影などを強要され、いつの間にか着付けを覚えていた。
唯一あの両親が役に立った例だと思う。…………言い過ぎか。聞かれたら怒られる。絶対に。
私個人としても和服は好き。着物を着こなせる大人の女性って素敵だなと思っているし、ちいさな目標である。
さすがに和装向きの下着は用意されていなかったので、今まで身につけていたブラジャーやショーツの上に肌襦袢、長襦袢の順に着ていく。
着物に袖を通し、帯を締め終えると途端に周りが気になり始める。
どこを見ても新鮮味に溢れている。
ちゃぶ台の上に置かれた、相部屋の人のものらしき小物入れとか。
許可なく触ってはいけないのは分かっている。だが、触ってみたい衝動に駆られてしまう。
私は和服好き……さらに言えば日本文化が大好きなのだ。
正直な話、和風なこの旅館には私の興味を引くものしかない。
「美雪ちゃん、着替え終わったかい?」
正樹おじさんの声が襖の向こうから聞こえる。
「いけない。結構時間が経ってる。待たせちゃったなぁ……」
部屋の様子を見るのを止め、私は部屋を出た。
和服の淡い赤と動くたびに揺れるポニーテール。
その姿は野原に咲く花の美しさのようで……って、自分で言ってちゃ世話ない。自分大好き人間、ナルシストみたいだし。
でも、一瞬見た鏡に映る自分の姿を見て、不思議とそう思えた。正直な感想だ。
「着方が分かりづらかったかい? 少し時間が掛かってたから」
「大丈夫です。ただ、部屋の中の物に興味津々で……」
私は照れくさくなり、はにかみながら言った。
「何も問題がなくてよかった。着物、よく似合ってるよ。うん」
正樹おじさんは腕を組み、大きく頷きながら言った。
「なんか正樹さん、まるでお孫さんに接しているみたいですよ。本当に姪なんですか?」
私が着替えている部屋の前に来ていたのだろうか、私と同じ色の和服を着ている女の人がいた。
……見た目的に歳は私のお母さんと同い歳くらいに見える。
「この人は鶴田愛さん。ウチの仲居頭だよ」
「鶴田愛です。よろしくね」
「薬袋美雪です、よろしくお願いします」
愛さんが会釈すると私も続いて深々と頭を下げた。
「私が偉いって訳じゃないんだから、そんなに頭を下げなくてもいいのよ」
「何言ってるのさ、愛さん。美雪ちゃんの直接の上司にあたるのは、愛さんだから」
「私は厳しい上下関係は嫌いなの。……でも、その気持ちはとても大事よ。ところで正樹さん、そろそろ行かなくて良いんですか?」
正樹おじさんは何かを思い出したかのように頭を掻いた。
「そうだったなぁ……。美雪ちゃん、おじさんはこれから寄り合いがあるんだ。愛さんと一緒に挨拶回りに行って」
「はい」
「じゃ、愛さんよろしくな」
「じゃあ美雪ちゃん、ついて来てね。私のことは正樹さんと同じで愛さんって、呼んでね」
愛さんは振り返り、廊下を歩き始めた。
「綺麗な髪……」
私は愛さんが振り返った時、広がった艶のある黒髪に一瞬……見惚れてしまっていた。
愛さんが歩く度に揺れ動く黒髪。
同じ女性の私から見ても、愛さんの黒髪にはとても引き付けられる美しさが宿っている。
「ほら、何やってんの? 早くおいで」
「あっ、はい!」
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