加賀と翔鶴の修羅場6-8



窓から差し込む夕日の光は、部屋をやんわりと赤く染めた。
その色の印象なのかはたまた別の要因か、執務室に流れる空気はいつになく穏やかでまどろんでいた。
自身の影によって暗くなった書類の文字は酷く読みづらく、しかしそれさえどうでもいいと思えるほどに、
今の提督はたしかな幸せを感じている。
彼女と二人きりで執務室に残ったのは、ただただ偶然が重なったためであった。
秘書の翔鶴が入渠し、そして早急に開発すべき装備が航空機であったことから、臨時秘書の枠に彼女の名前があげられた。
それは提督にとって思ってもみなかったことで、だからこそそれを好機だと感じてしまっても、無理のない話なのである。
およそいつから傍らに立つ彼女、加賀に恋慕の情を抱いたのか、提督はまったく覚えていなかった。
ただ気が付けば、いつもあのすました顔を目で追っていた。
落ち着いた声音や決して表には出さない隠れた優しさ、そしてごくたまに見せるゆったりとした笑顔は、彼の心をいつも魅了していた。
それが自覚され、そしてどうしようもない愛おしさを覚えても、
そこから一歩遠ざかる必要があったのは自身の立場から明白なことであった。
この気持ちは胸の奥にしまいこもうと、そういう覚悟をするまでに大して時間はかからず、
そしてそれはつい先ほどまで達成できていたことだったのだ。
ちらりと目を横に向けると、端正な横顔が視界に映る。書類を覗き込み落ちる髪を耳に掛け、加賀は提督のすぐ側にいた。
彼女の匂いが鼻腔をくすぐり、集中は雲のように霧散してしまう。確かに感じる幸せは、しかし同時に胸に痛みを走らせていた。
「ちゃんと私の話を聞いてるのかしら?」
視線に気が付いたのか、加賀は咎めるようにそう言った。
すまないと慌てて口にして、ぶつかってしまった視線への羞恥に思わず鼓動が速くなる。
女々しいものだと自虐的になりもするが、しかし沸きだす多幸感はどうしようもないものだった。
「お疲れのようですから、お茶を入れてきます」
加賀は呆れたようにため息をつき、そう言って踵を返した。途端、消失する彼女の香りは、提督に多大な喪失感をもたらす。
絨毯を踏みしめる小さな足音は、脳内から冷静さを欠かしていくようだった。
この時間が終わってしまうのではないかという不安感、湧き上がる焦りにも似た感情は偏に提督の精神状況によるものだった。
即ち、想いを告げるか否かという葛藤。感情の発露する絶好の機会に、悉く思考は短慮になっていく。
机を迂回し、提督に背を向けて加賀は歩いていく。その様子を眺めながら、提督の脳内は葛藤の処理に集中していた。
「加賀」
「何かしら?」
呼び止め、振り返る彼女を見、躊躇と期待が織り交ざって尚まだ思考は纏まらない。
怪訝そうな加賀の視線は、ようやく彼にある一つの決意をもたらした。
一呼吸の後、慣れないことへ挑む覚悟を持って、ゆっくりと口を開く。
「君にこんなことを言うのは、良くないことだとは分かっているのだがな」
「私、何か粗相をしましたか?」
「いやそうじゃない。そうじゃないんだ」
不安感は既に全身に溜まり、身動きできないほどに体を締め付けた。
どうにでもなれという諦観にも似た感情で、提督は更に言葉を続けた。
「もし私がお前に特別な感情を抱いていると言ったら、お前は困るか?」
「……どういう、意味かしら」
「加賀、お前の事が好きだ」
言い切り、途端に力が抜けてしまった。

覗き見た彼女の表情、驚きに目を見開き酷く狼狽したかのような顔は初めて見るものであった。
沈黙の中、しかし提督は自身でも意外なほどに冷静さを取り戻していた。
ただやるべきことをやったという、それだけのことだったのだ。
待つということは、別段先ほどまでと比べれば大した苦痛にもなりはしない。
つと、加賀は一歩提督のもとに歩み出た。
次に発せられる言葉は疑問でも何でもなく、ただ先ほどの言葉への返信なのだと、彼女の表情からそう察する事ができた。
「提督。私は艦娘であなたは提督です。それにお答えすることはできません」
ただいつもと変わらない声音で、その言葉は発せられた。そして提督も、心に波風なくいつものようにそれを聞いていたのだった。
「あなたが望む限り、私が空母として有用である限り、私はこの艦隊にいます。どうか……どうかそれで、許してください」
夕日は沈み、部屋は暗く、加賀はゆったりと背を向けた。


目覚めは穏やかだった。
それは先ほどまで見ていた夢が記憶のリフレインだったとしても、もうそのこと自体には慣れていたからだ。
辛さより何より、またかという呆れ。真っ先に抱く感想はそれである。
腕に抱く体温が認知できたのは、そういった思考の後であった。
柔らかな肩に自身の二の腕が重なり、掌は背中の窪みにぴったりと収まっていた。
首筋を擽る長い銀髪。その美しさに見惚れながら、或いは彼女のものとは違う香りを嗅ぎながら、提督は、昨夜のことを思い出す。
嬌声や、白い肌の温もり。乳房の柔らかさ、膣内の感触。
生々しい情事の映像が脳内に再生され、途端底なし沼に漬かるかのように罪悪感に浸される。
これが初めてではなかった。しかしこの目覚めは、何回経験しても慣れないものであった。
穏やかな彼女の寝顔を見るたびに、がむしゃらに叫びたい衝動に襲われる。
またやってしまったと、そういった後悔に苛まれ、しかし同時にこの温もりが心地よいことも事実だった。
「おはよう、ございます」
瞼は閉じられたまま、まるで寝言でも言うかのように翔鶴は言った。
彼女はもぞもぞと提督に擦りよると、鎖骨のあたりに唇を寄せる。
啄ばむかのようなキス。くすぐったさは、後ろめたさをより増長させた。
提督の胸には茫漠たる罪の意識が、ただどんよりと横たわっている。
「すまない」
思わず呟いてしまった言葉に、翔鶴はようやく目を開けた。意味を察したのか、はたまたそういった所には無いただの衝動なのか。
彼女はゆるゆると腕を持ち上げ、提督の頭を優しく撫でた。
それからゆったり微笑んで、唇にもキスをする。彼女の表情に曇りはなく、それがひたすら辛く思えていた。
およそ今回で五回目の伽である。最早、それは習慣であった。
報われぬ恋心を抱いた両者は、それを紛らすためだけに体を重ねていた。
即ち、提督は加賀へ、翔鶴は提督へ。その想いを発散するための、二人秘密の同衾である。



第一艦隊の帰還は一七○○。夕日の翳り具合は、ちょうどあの時と寸分違わない。
そのことに憂鬱を感じながら、提督は損害状況のレポートに目を通していく。
唯一の損害は加賀であった。その他には小破した艦も無く、ただ一人彼女だけが多大な傷を被った。
錬度で言えば、本来今回の出撃任務はごく簡単なものであるはずだった。
艦娘たちに驕りが無かったかといえば首を捻らざる負えないが、
それでも加賀大破の大きな要因は彼女自身のメンタルによるものなのであろう。
あの日以来、彼女は提督の前で笑わなくなっていた。
多大な入渠予定時間と資材消費量。それが書かれたペラ一枚の紙は、マッチの火で灰へと帰した。
それは提督なりの気遣いで、即ちこれ以上加賀を何か追い詰めるようなことはしたくなかったのだ。
普段そのレポートが艦娘に渡ることはないのだが、念には念を入れたのである。
何か彼女のためにできることを探そうとし、しかしそれをする権利は自身にはないと提督は後から思い至る。
自身はただの提督職の男で、彼女はただの空母だった。上司と部下という関係に終始する以上、心配や配慮は全てお節介なのである。
そのことを心苦しく思い、だが全ては加賀のためと考え我慢する。
執務室の暁色に反吐を吐く思いを抱きながら、彼は痛々しい告白の記憶を脳内に再生していた。
「夕日が綺麗ですね、提督」
悲しげな提督の瞳を見、傍らに立つ翔鶴はそう声をかけた。
それは見るからに落ち込んでいる彼をを元気付けようと、話題を探し探しようやく口にできた台詞であったのだが、
聞くや提督はなお更に心を痛めたのであった。
どんよりとした執務室の空気に鬱々となりそうなのをなんとか堪え、翔鶴は無理にでも明るく振舞う。
どんな時でもただただ献身的に尽くすことが、唯一彼に想いを伝えられる方法だと、そう彼女は常日頃感じていた。
いや、だがそれはあくまで建前なのかもしれなかった。
彼を助けるという名目で欲求を満たし悦を貪っているだけなのだと、そう自虐的にもなれるのである。
どうしようもない本能的な衝動を、気遣うという皮を被って解消する。
それは苦悩の果てに見つけた、一つの逃避なのかもしれなかった。
「お辛いですか?」
翔鶴はうな垂れる提督の後ろに回り込み、首にゆるりと腕を巻きつけた。
椅子の背もたれを挟んで、彼女の体温はどくどくと提督に伝わっていく。
早まる鼓動の音も、蟲惑的な女の匂いも、全てが彼の思考を緩慢にさせた。
「どうか私に甘えてください。提督」
耳元で囁かれる言葉。吐息が髪の毛をくぐり抜け、鼓膜の震えは理性をぐらつかせた。
しかし彼はまだ、なんとか意志の力でその場に踏みとどまろうとした。
提督としての矜持が、或いは一人の女を想う男としての矜持が、濫りがましい衝動を許さなかったのだ。
「今はまだ……明るい。執務中だ。駄目だよ」
「もうここには誰も来ません」
「しかしそういった問題ではないだろう」
鎖骨の窪みに伸びた掌が、首もとのボタンを丁寧に外した。
それに抵抗しないでいるのは、理性を差し置いての欲求の表れでもあった。
それが分かると、翔鶴の心内に躊躇は消え去る。
拒否されないという消極的肯定が、今の彼女には何よりも幸福を感じさせる蜜であったのだ。
シュル、シュルと布擦れの音を聞く。
提督はすぐ後方で行われているのであろうストリップに、内から湧き上がる烈しい情欲を覚えていた。
彼女は器用にも右手で提督のシャツを脱がしながら、もう片一方の手で自身の上着の紐を解いている。
普段の清楚な、おおよそこういった行為とは縁のなさそうな彼女の、淫らな行為。
視界の外のその様子が想起されると、理性は塵芥と化すまでに崩壊した。
提督は突然立ち上がった。吃驚し半裸のまま固まっている翔鶴を見、彼女の細い肩を掴むと、投げ飛ばすかのように机に押し付ける。
短い悲鳴があがった。その声音は益々興奮を促すものであった。

提督はまだ脱げていない彼女の赤いスカートに、乱暴に手をかけた。
反射的なものなのか翔鶴は抵抗するかのように裾を押さえ、しかしそれはまったく意味を成さない。
強引に引き摺り下ろされたスカートの、その後に残るのは下着に包まれた淫靡な脚。
透き通るかのような白い肌は、息を呑むほど婀娜やかだった。
下着も、半ば引きちぎられるかのように脱がされた。余りに乱暴な仕打ちに、しかし翔鶴は確かな悦びを感じている。
少なくとも今の提督の頭に、加賀の姿は無いはずであった。
ただ自分の体を求められるということ、彼の瞳に自分以外映っていないということ。
それが何よりも悦楽であり、幸福でもあったのだ。
赤く、官能的な唇に押し付けるようにキスをする。侵入してきた舌は、口内を好き勝手蹂躙した。
逃げるように動く翔鶴の舌が、だがすぐに捕らえられると、すかさず吸われ嬲られた。
びちゃびちゃと唾液の跳ねる音が、静かな執務室にやたら目立って響いていた。
胸を乱暴に掴むと、塞がれた口からは声が漏れた。欲望のままに指を、掌を動かすと、乳房は柔らかくその形を変えていく。
先端は痛いほどに尖り、指は時折それを弾いた。その度に翔鶴は、喉をきりきりと震わせていた。
我慢するという思考は、完全に失せていた。
提督はズボンを中の下着ごと降ろすと、まだ充分に濡れていない陰部に、自身のそれをあてがった。
ヒッと息を呑んだ翔鶴は、次の瞬間多大な衝撃と痛みに容赦なく苛まれる。口から零れだした大きな声は、悲鳴か嬌声か判別できない。
背中から脳へと突き抜ける電流に、ただ彼女は翻弄された。
強姦されているかのような、そんな遠慮も慈悲も感じられない性行為に、だが次第に陰唇は湿り表情も蕩けていく。
押さえつけられた手首の重み。中で脈打つ彼の感触。荒い息づかい。全て提督の何もかもが、快楽に直結するのであった。
「どうして君は! 私を、貶めようとするんだ!」
知っているくせに。
笑みを浮かべながら、彼の言葉にはそう心の中で返答する。
泣きそうな彼の表情を心の底から愛おしく思い、そしてまるで支配したかのような愉悦にたっぷりと身を焦がす。
突如速まったストロークは、もう充分濡れそぼった膣内を遮二無二刺激してまわった。
それは泣き声かうめき声か。提督の口から漏れ出した音と同時、腹の中には温かみが広がっていく。
その生々しい精の感触に、翔鶴も思わず体を振るわせた。
一滴も残さず搾り取るかのように膣壁が蠢き、扱く。きつく締まった肉壷は、彼をまだ離そうとしなかった。
さながらそれは捕食である。肉体的に、或いは精神的にも、彼の一部を貪り啜る。
満たされた心を大事に抱え込むかのように、翔鶴は提督の背中に手を這わせた。



入渠を終え、加賀は重い心中を引き摺ったまま自室へと戻った。
今回も戦闘では何も活躍できないどころか、無駄に資材を消費してしまったという事実。
それは自責の念を呼び起こし、表情も纏う空気も、どんよりと暗くさせていった。
最近やたらに損害を被るその理由は、彼女自身が一番に理解していた。
だが原因が分かっていたのだとしても、それを治すことは到底不可能であって、立ち直る兆しは欠片も見えはしない。
今の結果に納得もしている。最良の結末だったと、そう分かっていてもあの日の記憶は目の前にやたらちらつくのであった。
提督の悲しげな顔も自身の抱いた胸の痛みも、薄まることなく再現される。
どこか後悔を感じているというその惰弱な精神性に憤りを覚え、
しかしその怒りの向かう先は自分であったから、より病んでいくのであった。
扉を開けた先、加賀は真っ先に自身のベッドに身を投げた。
枕に顔を埋め、そのまま死んだかのように動かなくなる。呼吸することさえ億劫に思えるほど、今の彼女は疲労を覚えていた。
それは肉体によるものではなく、常に陰鬱な感情を抱えた精神的なものであった。
覚醒している間、何時も思考はあの日の事に占拠される。逃避するには寝るしかなかったのだった。
どれほどか時が過ぎ、再び扉の開く音を聞いた気がした。
同室の赤城が入ってきたのであろうことを察しながら、それでも加賀は口を開くこともせず、狸寝入りを決め込む。
今、誰かと会話をしたい気分ではなかったのだ。
「加賀さん。提督の所に出頭はしたの?」
すぐ側にまで寄って、赤城は言いにくそうに、それでも一つ明確な意思でそれを口にした。
入渠終了の報告はきちんと本人がするというのは、この鎮守府の習慣であった。
別段提督が加賀を急かすよう言ったわけではなかったが、それでも規律は規律である。
今の彼女をきちんと出頭させる事ができるのは自分しかいないと、そういった責任感を持って赤城は加賀の肩を揺する。
「行きたくない、わ」
顔は上げないまま、彼女は搾り出すようにそう口にした。
赤城とて、提督と彼女とのこと、その一部始終は知っていた。
自棄酒の入った加賀本人から、それを聞き出したこともある。
気持ちは痛いほど分かるのだが、だからこそ彼女には無理をさせなければならなかった。
艦娘としての仕事を果たすという、何より彼女本人がした誓いを守らせないと、
ますます腐っていくのであろう事は誰の目にも明らかだった。
赤城は加賀の両肩を掴むと、無理やり体を起こさせた。
顔の退いた枕には、大きな染みが広がって、泣き腫らした瞳には真っ赤な充血の跡があった。
加賀の正面に回りこみ、そっとその体躯を抱きしめる。背中を摩り頭を撫で、赤城はどうにか彼女を慰めようと言葉を掛ける。
そのどれにも、加賀はこくこくと頷き返して、そのまま時間は過ぎ去っていった。
十分ほど経つと、自身の晒した痴態に羞恥を感じるくらいには、加賀は回復していた。
あれほど重かった心中が少しはましになり、体全体が軽くなったかのようにも感じられる。
一言礼を言った後、洗面所で顔を洗ってから加賀は部屋を後にした。
赤城の呆れた、それでも慈母のように優しい視線に送られると、体の奥からじわじわと勇気も湧き出すようである。
親友への感謝はきちんと行動で示そうと、しっかりとした足取りで加賀は廊下を進んでいった。


時計を気にする間隔は、時間が経てば経つほどにどんどんと短くなっていった。
既に加賀の入渠終了時刻を一時間過ぎ、扉のノックを期待するのにも気疲れを感じ始めてしまう。
雑念を取り払うかのように傾注していた書類仕事も、つい先ほど完全に無くなった。
待つことしかできなくなってしまうと、提督の意識は苦痛の針筵の上にどっぷりと鎮座をし始めて、
じわじわ迫る疼痛は胸の中を侵食してゆく。
生憎眠気は欠片も無く、拷問のような時間は刻々と彼の下を過ぎ去っていった。
「遅いですね、加賀さん」
苛立ちを微かに匂わせ翔鶴は一人、そうぼやいた。
それは、この後提督は加賀のフォローに回るのだろうと、そう予想した上での腹立たしさであって、
果たしてそれはまったく正解だったのだ。
「仕方ないよ。そうさせている一因は俺だ。加賀に責任はない」
「提督はまったく悪くありません! 何でも責を負おうとするのはやめてください」
語気がかなり強くなってしまったことには、言った後から気が付いた。驚きに目を見開く提督を見て、ようやく羞恥と後悔の念が噴出する。
すいませんと慌てて口にして、翔鶴は気まずさに目を背けた。

提督の目の前で感情の波を抑えられなかったことに反省はしながらも、しかし腹の底から湧き出す怒りは微塵も収まりはしなかった。
提督に、愛する彼にここまでの精神的負担を強いている。いや、ただ告白を断っただけならばまだ許しようはあったのだ。
まるで悲劇のヒロインを気取るかのように、無意識的に提督を追い詰め、
苦痛を与え続けているということが翔鶴には我慢ならなかった。
無自覚の悪意ほど性質の悪いものは無く、今の彼女はまさしくそれを振りまいている。
こと、何よりも腹立たしいのは、その毒気に提督が自ら意図的に晒されにいっていることであった。
およそ彼女の与えるものは体を蝕む劇物であっても喜ぶという、
そういった姿勢を見せ付けられているようで心底不愉快に思ってしまう。
「提督、こちらを向いてください」
見下ろし、そう言い放つと提督はゆるゆると顔を向けた。
その瞳を見、翔鶴は自身の苛立ちをぶつけるように乱暴に彼の唇を奪った。
きぃと椅子の軋む音が鳴り、想像以上の抵抗がなされる。
肩が押され顔は背けられ、体勢を維持できなくなったために、彼女は仕方なく一旦口を離してやった。
「やめろ翔鶴! 加賀が来る」
今まで見たこともないほどに険しい表情をしながら、怒鳴るように彼は言う。
それを見て翔鶴の怒気はますます燃え上がり、そして言葉の理解が追いつくと、尚一層理性は崩壊した。
体を許した間柄だというのに、欠片も気持ちは向けてくれず、その残酷さに微塵も気が付かない朴念仁ぶり。
加賀も加賀なら提督も提督なのである。
「あの人のことは忘れてください」
彼の頭を胸元へ導く。距離を話そうと提督は彼女の腰のあたりを強く押すが、それでも立っている者の方が力を加え易い。
抵抗むなしくまるで母親にあやされるが如く、彼は抱きすくめられた。
「私には何をしてくれてもいいんです。何時でもどこでも、なんでも言うことを聞きます。
だから、もうあの人のことは忘れてください」
体を離し、再度顔を寄せていく。彼の腕に動きは無く、二度目のキスは長い。
抵抗無く、むしろ自ずから差し出された舌を舐り、翔鶴は支配の悦を感じていた。



彼が提督で自身が艦娘である以上、恋仲になることは絶対に許されない。
あの日彼の言葉を聞いたとき、想いが通じたことに甘い疼きを覚えた彼女であったが、それでも意思の力でその悦びは封じ込められた。
提督の可能性を狭める事は、絶対にあってはならないことだった。
たとえ相手から望まれたのだとしても、真に敬慕の念を抱いたならば断るべきであった。
そういった精神こそが高潔で純真な愛なのだと信仰する加賀は、だからこそ提督の意に背きあの告白を退けたのだ。
加賀は憤慨する。そういった思いを積み重ねてきたからこそ、彼女は翔鶴に対し並々ならぬ怒りを抱いていた。
執務室を覗き見て、そして目にしたあの場面。翔鶴の言葉と行動は、到底許すことのできるものではなかった。
提督の傷心に入り込み自身の感情を好きなだけぶちまけ、挙句篭絡しようとするなど畜生にも劣る下劣な行為である。
翔鶴はドブ犬だと、そう加賀は断定していた。
尻尾を振り汚い体を摺り寄せて、世話をしないことは悪であると、
そういった雰囲気を作り出し提督を貶めようとする腐った雌犬そのものであった。
救い出す必要がある。彼女はそう思った。
それは自身の感情の為ではなくあくまで提督のために、あの雌犬を追っ払うのだという決意だった。
そしてその為にたどり着いた一つの方法は、はるか昔からの願望だったのかもしれない。
都合の良い言い訳が目の前に転がってきた、その機会を利用して欲望を果たすという点は、翔鶴とまったく変わらないのかもしれない。
夜中提督の寝室の前、しかし加賀は自身の口角が釣り上がっていることに気が付いてはいなかった。
恐る恐る部屋の戸に力を加えると、音も無くそれはあっさりと開いた。
鍵を掛けないその無用心ぶりに呆れにも似た感情を抱いたが、しかし今はそれが非常にありがたい。
ほんの少しあった躊躇は、このおあつらえ向きな環境によって完全に消失した。
暗い部屋の中足音を忍ばせ、加賀は寝息をたてる提督の元へ向かっていった。
掛け蒲団から愛らしい寝顔が覗き見え、それに言いようも無い興奮を覚える。
誰かに見られたら言い訳のしようも無いこの状況は、背徳という刺激を現出させた。
とうとう蒲団のすぐ側にまで寄って、加賀は彼のすぐ横にしゃがみこんだ。
胸元が僅かに上下するのが見え、そして呼吸音さえ耳に届く。
普段、物理的にこの距離まで近づくことはしばしばあったが、
それでも存在感というものをここまで間近に感じられたのは初めてのことであった。
一度何かを確かめるように、心臓の辺りに顔を寄せる。
掛け布団から香る匂いが、情欲の呼び水となった。加賀は意を決すと、隙間から彼の蒲団の中へ自身の体を滑り込ませる。
組み伏すかのように提督の体に馬乗りになって、徐々に体重をかけてゆく。
何度かの身じろぎの後、提督はゆったりと目を開けていった。
彼の瞳には、途端困惑や動揺の色が表れた。それが消えぬ内に、加賀は彼の唇に自身のを当てる。
啄ばみさえしない触れるだけのキスであったが、しかし提督はうめき声にも似た間抜けな声を発し、寝起きに鈍る思考は更に混乱を極めていった。
「……加賀? 何を、している」
口が空くと、上ずった声音でそう問いかける。加賀は、その疑問には微笑み返すだけであった。

再び唇を寄せる。慣れぬことに周章狼狽していることを、だが決して表にはださないようにする。
おずおずと舌を差し込んで、とにかく触れるもの全てを舐めまわった。
唾液が零れ、それは重力で提督の頬を伝い落ちる。蒲団に垂れる前に指で掬い取り、そのまま頬に掌を当てる。
顔が動かないようになると、彼女はより深く提督を求めていった。
しゅるり布擦れの音が響き、ようやく彼女は自身の寝巻きが肌蹴られていることに気が付いた。肩口から襟がずり落ちて、色白の滑らかな肌が露出する。
羞恥で思わず口付けを止め、加賀は必死に服を手で押さえた。
「私に夜這いをかけたんだな」
襟から服の中に手を差し込み、提督はどろりと濁った瞳で加賀を見つめた。
眠りの淵から覚醒し、最早疑問も何もいらなかった。ただ、加賀がこの部屋に来てくれたということだけで、後は何も必要ない。
ずっと求め続け妄想の中何度も汚したその身体が、今眼前にある。それが全てで、それ以上は思考の中から弾かれる。
何もかも後から聞けばいい。彼女はもう逃げはしない。
歓喜の極みに打ち震え、ただ劣情に全てを任し彼は寝巻き浴衣の襟元を勢いよく開いた。
予定と違う展開に、加賀は酷くうろたえていた。
提督の目の前で自身の体を晒しているという羞恥は、冷静な思考を悉く粉砕する。
待って待ってと連呼して、だが彼の手は躊躇無く体を弄り撫でまわる。
何時しか体勢さえ入れ替わり、加賀は提督に見下ろされるような格好になった。
容赦の無い愛撫にはしたなくも嬌声が上がり、なされるがまま気が付けば服は全て脱がされていた。
その技術が恋敵によって培われたものだと思うと胸中には複雑な感情も沸くのだが、
それでも背中を電流のように流れる快楽は本物であって気分は悪いものではない。
荒い息づかい、優しく大きい掌の感触。
全て翔鶴に先んじられた事については嫉妬で殺意さえ抱いてしまうが、大切なのは未来であった。
陰唇に当たる感触が、指でないことくらいは分かっていた。
提督が躊躇無くそれを膣内に入れようとするのを、加賀は一回制止させた。
なんて事は無く、ただ胸板に手を置いて、見つめるだけである。
「もう翔鶴とはしないで。それなら、入れてもいいわ」
言葉は無い。だが貫かれたその感触が、紛う方無き返答だった。
何度も何度も腰に重たい衝撃が走り、加賀の胸中はその度に真っ黒な情欲に侵されていく。
もう二度とあの女がこれを味わうことは無い。何よりもそれが、ひたすらに甘美な快楽だった。
獲物を捕らえた悦に、加賀の瞳は陽炎のように揺らぐ。
蜘蛛が巣にかかった虫を啜るように、彼女は提督の唇を貪る。蟲毒は彼の自由を奪い、精神は最早掌握されたのだった。



肌寒い廊下に、二人が対峙する。一方は悠然と微笑みを湛え、もう一方は瞳を血走らせて、正面から向かい合っていた。
凍てついた空間の、しかし終端は今であった。
「私は感謝をしているの。あなたのお陰で道を違わずに済んだわ。だから、もう私達には関わらないで」
言葉の後、そして加賀は彼女を横切り歩いていく。向かう先には彼の部屋があり、しかし翔鶴にそれを引き止める術は無い。
悉く何もかも一切合財敗北した。その事実は彼女の矜持をバキリと容赦なく圧し折った。
背中を睨む。瞳から流れ出す涙は意に返さず、歯を剥きひたすら睨み続ける。その形相に普段の面影は絶無であった。
折られた心はそれでも尚殺意と嫉妬にとらわれ続け、決してその想いは途切れる事が無い。
石にでもなったかのように、翔鶴は何時までもその場に立ち尽くしていたのだった。
 

最終更新:2014年06月21日 02:35