ヒルクライム編

大量の石が転がる急斜面を体長50cmにも満たない子タブンネたちが見上げている。
斜面の角度は45度。距離は10m。
子タブンネにとって絶望的な「壁」がそこにある。
この斜面を登らなくてはならない。そもそも登りきることができるのか。
どの子タブンネの表情もすっかり青ざめてしまっている。

タァン!という乾いた音が静かな採石場に響く。
レースの始まりを告げる火薬の音だ。
子タブンネたちは意を決し、次々と斜面を登り始めた。
レースには制限時間が設けられている。
スタート地点でもたもたしている時間はないのだ。

子タブンネたちがスタートしてから約5分。
1mと少しをのぼったところで、子タブンネたちはほぼ横一線になっている。
激しいデッドヒートなのかと思える光景だがそれはちがう。
子タブンネたちは少しも進んでいない。それどころか、落ちないように必死に歯を食いしばっている。
競り合いになっているわけではない。
子タブンネたちには、早くも登る限界がおとずれていたのだ。

子タブンネたちが情けないのだろうか? いや、ちがう。
さて、一般的に急な坂というと何度くらいをイメージするだろう。
30度だろうか? 45度だろうか? それとも60度以上だろうか?。
ここに面白い話がある。

傾斜の角度が5度を超えると、人間はそれを急な坂だと感じるという。
この5度というのは、一般的な電車であれば前に進むことすらできない。
角度が25度から30度になると、人は前かがみにならなければ歩くことが困難になり、
車に至っては特殊なモーターやタイヤでもない限り上ることはできない。
そして40度を超えると、人間であっても手を使わずに移動することはほぼ不可能となる。
人間のイメージと実際の数字には大きな開きがあるのだ。

現在、子タブンネたちが登っているのは、角度45度の急斜面。
いや、坂というより「壁」と言った方が近いかもしれない。
まだまだ筋力の弱い子タブンネが急斜面を登りきることは相当に困難なことなのだ。
それでも子タブンネたちは登らなくてはならない。
最初に登りきれなければ、待っているのは自分自身の死なのだから。

何匹かの子タブンネが動き出す。
斜面には大小さまざまな石が存在している。
石をつかみ、足場にし、少しづつではあるが体を前に進めていく。
斜面の上からは親であるタブンネたちの声が聞こえてくる。
子タブンネたちに「がんばって」と声援を飛ばしているのだ。

レースが開始してからすでに30分が経過していた。
子タブンネたちの多くが半分以上の距離を進み、トップの子タブンネはすでに9m地点を通過している。
このまま決着がつくかと思われたそのときだった。

「ミィィィィィィィッ!」
独走状態だったトップの子タブンネが斜面を転がり落ちていく。
わずか数秒で地面に到達した子タブンネの体はピクピクと痙攣している。
力なく開いた口からは「ヒュー、ヒュー」という息が流れだす。
ゴール地点近くまで到達していたせいで長い距離をはめに転がることになり、その分だけ大きなダメージを受けてしまった。
レースへの復帰は絶望的だろう。

そして、1匹のが脱落したのを合図とするかのように、次々と子タブンネたちが転落していく。
転がってくる子タブンネに巻き込まれた子タブンネもいた。
転がり落ちた子タブンネのほとんどがその場から動くことすらできない。
中には、なんとかしてもう一度登りはじめようとする子タブンネもいたが、今から制限時間内にゴールするのは不可能だろう。
レースに残された子タブンネの数は、たったの3匹だけになっていた。

「ミィィ!?」「ミッミッ!?」
次々に聞こえてくる子タブンネたちの悲鳴に、親であるタブンネたちが騒ぎ出す。
わが子の悲鳴を聞いた親タブンネは、子どもを助けるために斜面に向かってあわてて駆け出す。
しかし、斜面に近づくにつれてスピードは鈍り、斜面を目の前にするとその動きは完全に止まってしまう。
この斜面の角度は45度。
イメージしにくいかもしれないが、この角度になるともはや「崖」にしか見えなくなる。

目の前に現れた崖に対して、親タブンネは尻込みし、意気消沈して元の場所に戻っていく。
もちろん、子どもを救出しようと斜面を下りる親タブンネもいるのだが、ほとんどの場合、
足を滑らせてしまって子タブンネを巻き込んで、斜面を転がり落ちていってしまう。
タブンネの持つ思いやりが、結果として子タブンネを死なせてしまうわけだ。

さて、レースの方はいよいよ佳境に差し掛かっていた。
残った3匹はすでに斜面の終わりに手が届きそうなところまで登って来ていた。
どの子タブンネも体力の限界であるが、「助かりたい」「親に会いたい」と最後の気力を振り絞っている。
そして、ついに1匹が斜面の終わりに手をかけて登り切ろうとしたときだ。
後ろにいた子タブンネが手を伸ばし、トップの子タブンネの尻尾をつかむ。

「ミッ!?」
もともと不安定な体制であった上に、ゴール目前であったことによる気の緩み。
家族のもとまであと少しであった子タブンネは、悲鳴を上げながら斜面を転がり落ちていった。
そして、文字通り相手を「引きずり落とした」子タブンネがついに斜面を登りきる。
ゼエゼエと荒い息を吐きながら、その顔には斜面を登りきったことによる嬉しさが浮かんでいる。
もうすぐ家族と再会できる。子タブンネは家族のもとに行こうとしたのだが。
斜面を登ることで体力を使い切ってしまい、立つことができない。
親が自分を呼ぶ声は聞こえている。その姿も視界にとらえている。
それなのに、体は少しも動いてくれない。

そして、遅れて登ってきた1匹がフラフラした足取りで、力尽きて動けない子タブンネの横を通り過ぎていく。
このレースは斜面を登りきることがゴールではない。
登りきったうえで、自分の両親のもとに到達することがゴールなのだ。
絶望の涙を流す子タブンネの目の前で、最後に登ってきた1匹が親の腕の中に倒れ込む。

わが子との再会を果たした1組の家族があげる歓声。
それ以外の、子どもとの別れが決定した家族の慟哭。
そして、スタート時と同じように響く乾いた火薬の音。
異なる3つの音が、レースの終了を告げる。

レース終了後、敗れた子タブンネたちを待っているのは家族との別れだ。
子タブンネたちは口から串を刺され、次々と火であぶり焼きにされていく。
生きていようと死んでいようと、関係なく平等に。
生きている子タブンネは苦悶の声を上げて必死に抵抗し、何とか逃れようとするがやがて完全に沈黙する。
そして焼きあがった子タブンネたちは、それぞれ親の元に返される。

変わり果てたわが子の姿に、親タブンネたちはいっそう深い悲しみを覚え涙を流す。
しかし、親タブンネたちの悲しみはこれで終わりではない。
どんな姿になったとしても、わが子はわが子だ。
そんな親タブンネたちの気持ちは、容赦なく踏みにじられる。

焼けた子タブンネの死体を食わされる。
檻に入れられ、目の前で腐っていく様子を見せられる。
大事なわが子の死体を、他のタブンネたちに食べさせる。
虐待愛好会にとっては、子どもの死体すら、タブンネを虐待するための道具にしか過ぎないのだ。

そして、今回生き残った子タブンネもそのまま生き残れるとは限らない。
死への恐怖にさらされながら、体を限界まで酷使するのだ。
心身ともに消耗してしまった子タブンネは、一晩と持たずに死亡することが多い。

大量の木の実をもらい、わが子との再会を喜び、幸せな気持ちで眠る親タブンネ。
しかし、朝になってみれば、地獄から生還したはずのわが子が冷たくなって死んでいる。
このときの親タブンネの悲しみはいかほどのものだろうか。
そして当然のように、死んでしまった子タブンネの体は、他の子タブンネたちと同じ末路をたどる。
火で焼かれ、親タブンネを精神的に虐待する道具として使われてしまう。

『ヒルクライム』
それはタブンネたちにとって地獄の代名詞だ。
タブンネたちが幸せになることは、決してありえない。

(『ヒルクライム編』おわり)

最終更新:2015年02月20日 17:03