三章・水槽編
新生活から一夜明けた正午過ぎ。
結局収納もタンスもいっぱいで暗所が用意できず、結局はこの家具一つ無い牢獄以下の部屋に水槽がポツンと置かれたままだった。
その水槽こと新居の中あるのはマット代わりの色褪せた新聞紙、そして水が染みた綿。
三匹のチビは兄妹、他兄の2対1のまま互いに水槽の両端に分かれていた。
「ミスン…ミスン…」
泣いているのはもちろん妹ンネ。彼女の優れた点は体力に合わせたような再生力。傷口はとっくに塞がっている。
しかし体の傷は癒えても心の傷まで再生力は適応されない。
♀ンネにとって大切なアピールポイントの尾を失った事は耐えがたい事なのだ。
「うるさいミィ!」
すすり泣く妹ンネに投げつけられたのはあの白いエサ、ではなく糞。
隅に座り、破った新聞紙を纏った他兄が投げつけたのだ。
新聞にある所々の染みは尿だろう。
他兄は前述の通り糞をあのエサと誤認し食するようになっていた。
というより食べることが現実からの目を背ける為の手段のひとつなのだろう。
出来ることと言えば兄妹への嫌がらせ、食う、寝るしかないのだから。
妹ンネの毛についたやわらかめの糞を新聞の切れ端で拭いてあげるのはもちろん兄ンネ。
兄ンネも責任からか必要以上に話さなくなり、ただ妹ンネの傍でこのような嫌がらせ被害の始末をするだけとなっていた。
ぬるくなった濡綿から水を吸い、それを妹ンネに口移しで飲ませようとするが丸まったまま顔も見せない。
新聞の上に転がる糞に対し、なぜかそれが食べ物に見える衝動を抑えつつ、兄ンネはそのまま口内でさらにぬるくなった水を飲み込んだ。
そして兄ンネは比較的綺麗な新聞紙片をひたすらちぎる作業に戻る。
兄ンネの傍には皿のようにみえる新聞の塊があった。
四日が過ぎた。
変わったことがあるとすれば朝に水綿に水がたされ、新しい新聞紙がきたくらい。
尿を吸った新聞紙は片付けられることはなく、隅に積まれたままだった。
変わらず他兄からの嫌がらせと塞ぎ込んだままの妹ンネ。
そしてひたすら新聞を破いていた兄ンネは空腹からついに糞へ手を出していた。
「うんち汚いから触っちゃダメってママは言ってたミィけど…」
以前から感じてはいたがあの時の沸いた感情だが、空腹感はついに兄ンネの思考を覆ったのだ。
一口頬張ると少し柔らかく少しだがあの時のエサの味がした。
「ほら、妹ンネも食べるミィ」
塞ぎ込んだままの妹ンネもやはり空腹には勝てないのか、それを無言で受けとると食した姿に兄ンネは安堵した。
他兄が嫌がらせ等が現実逃避なら兄は妹の世話が逃避なのだろう。
「お兄ちゃん…のど…かわいたミィ…」
妹ンネの言葉に兄ンネは急いで綿から水を吸って口移しに飲ませてあげた。まだぬるさを増していない水が兄妹の体に染み渡っていった。
「…………」
そんな兄妹の姿を睨み付ける他兄。彼は妹を惨殺された分、日に日に兄妹への不満を募らせていたのだ。
尿を吸った新聞紙片をかかえるとそれを妹ンネに擦り付け始めた。
「やめるミィ!」
兄ンネは制止しようとしたが…
「ミィも!ミィも!いもうとが…ミィッッ!!」
他兄の言葉に兄ンネは握った拳から力が抜けたように垂れ下がった。
頭を抱え抵抗しない妹ンネに、他兄は涙を流しながら尿新聞紙をひたすら擦り付ける。
「やめてミィ…やめミィ…」
体を震わせながら擦りきれた灰色の紙が体中にくっついて柔らかくツヤのあるピンクの体毛を汚していった。
「やめろミィーッ!!!」
ついに兄ンネは他兄に全身を使ってはね飛ばした。成体でいう捨て身タックル。
不意とはいえ、まともに受けた他兄は体勢を崩し、隠していた糞エサに顔から突っ込んでしまった。
その糞は硬化していた為か一部が眼球に食い込み、他兄は目を押さえのたうち回った。
「ミィのおめめギャミィ!?」
もちろん洗い流す水などない。まだ幼稚な他兄はひたすら目を擦り続けるしかできない。
手に付着していた新聞紙片、抜け毛が眼球に触れ、それらを流すはずの涙で張り付いて痛みはさらに増した。
「ミハー、ミハー…い、今綺麗綺麗するミィ!ごめんミィ!ごめんミィっっ!!」
もがく他兄を背に、兄ンネは汚れた妹ンネからひたすら新聞紙片を取り除きながら謝るしかできなかった。
その努力も虚しく妹ンネは再び塞ぎ混んだ。
五日目。
窓から射す陽光のおかげで時間の感覚はあるが、それでもチビ達には無限のように感じられているのだろう。
ささやかな娯楽も、たくさんいた家族も、母もいない。ただ曇ったプラ面から見える何もない室内だけの世界。
今日も兄ンネは塞ぎ込む妹ンネと、隅で新聞を被り糞エサを食う他兄を背に新聞紙をちぎっていた。
他兄は一晩中擦り続けたせいか眼球と瞼が真っ赤に腫れ上がり、このまま放置すれば失明、またはバイ菌によりさらに悪化するだろう。
そこまでは理解出来ない兄ンネはとっさとはいえ、傷心の他兄を傷つけたことに精神をすり減らしていた。
さらに頭にこびりついて離れない他妹惨殺。思い出さないようにしても精神の疲労に合わせるよう鮮明に思い出される。
兄ンネも限界に近づいていたが、それを繋ぎ止めているのは妹ンネの存在だ。
どんなことがあっても妹ンネを守る。それだけが兄ンネの生きる意味になりつつある。
だが悪化するばかりでもなかった。こんな日々でも諦めず前向きにいるのがタブンネの根幹にあるもの。
なんと妹ンネが立ち上がり他兄に歩みだした。
「妹―――――」
兄ンネはひらきかけた口を閉じた。
「お目目、みせてミィ」
他兄は驚いたように反応し、拒みかけたが妹ンネは他兄の目を優しく舐め始めた。
「いだいミィ!!」
突き飛ばされても再び近づき、再び患部をなめ始めた。
兄ンネは手を出しかけたが、妹ンネの目を見てそのまま黙った。
「ママと同じ目をしてるミィ」
この極限状態で妹ンネが現したのはなんと母性だった。同年ながらも幼稚な他兄だからかもしれないが。
生まれてわずか一ヶ月の♀でも授乳の真似事をした。それは本能的なもので、自然と体が反応するという事例があったとか。
妹ンネが手をかざした姿は癒しの波動だろう。
もちろん完全ではないが痛みが少しはひいたのか他兄は不思議そうに瞼をさわっていた。
この兄妹がきちんとした人目につく場にあったならば、タブンネの価値観を変える存在になっていたであろう。
「どうして?ミィはひどいことしたミィのに」
「ミィが妹ちゃんの代わりに妹になるミィ!だから…仲良くしてミィ」
「ミィ……」
兄ンネは驚くのも無理はない。いつも付きまとっていたあの妹がまるでママのように大きく感じた。
それと同じく寂しい気持ちもあったが、それを口にはしなかった。
その夜。
くっついて寝る兄妹に、なんと他兄が身を寄せてきたのだ。
兄妹は笑顔で他兄を真ん中にし、三匹川の字で一夜を過ごした。
ここに来てから一番温かく感じられた夜だった。
「他兄…ごめんなさいミィ」
兄ンネは涙を流しながら謝罪した。
六日目
朝はまだぎこちなかったが、他兄がため込んでいた糞エサを兄妹にわけてから状況は変わった。
兄ンネは持ち前の器量のよさから三匹でおうちの掃除をする提案をしたのだ。
今までが嘘のように明るく振る舞う他兄と妹ンネ。
妹を殺された他兄、尾を失い焦燥しきっていた妹ンネ。それぞれ笑顔を見せながら新聞紙を片付けている中、
兄ンネは二匹には見えないがどこか複雑な表情だった。
「どうして二人は明るくできるミィの…?」
死が訪れるかもしれない絶望の淵にあるはずの自分達なのになんで明るく振る舞える?
明るさを取り戻した二匹とは逆に、疑心暗鬼に陥る兄ンネ。
理由はタブンネらしく前向きになった二匹とは逆に、頭の良さが災いした兄ンネは不安にかられていた。
だが怪我を負わせた自分を許した他兄、淵から這い上がった妹ンネを見て、それを考えないよう自分も掃除を続けた。
這い上がった先も淵に変わりはない。しかしそれでも諦めないのがタブンネなのだろう。
「新しいお兄ちゃんそれは何ミィ?」
他兄が指差した先には兄ンネがずっと集めていた新聞の山。
赤みはひいたがまだ腫れた片目を健常な目のように動かす他兄。
「ミィも気になってたミィ、教えてミィ」
本来なら振りながら訪ねたであろう尾を失った妹ンネ。
尾は自分のせいではないが、いつのまにか兄ンネは自分の責任のように感じていた。
そんな二匹の姿に必死に笑顔を作り、
「ひミィつ!」
と笑った。
二匹も顔を合わせて「ひミィつ!」と笑いあった。
少しだけ兄ンネは心が軽くなった気がした。
今までのように過剰に期待させるのはやめにしたいが、この新聞紙の塊だけには期待を持たせたい。
笑顔で兄ンネは汚れた新聞紙を隅に置いた。
自分もタブンネらしく生きればいい、と無意識に思い始めたのかもしれない
その「タブンネらしさ」の意味が自分の考えの真逆に行き着くとは気づかぬまま
七日目
今の彼らにとっての幸福が訪れた。
朝方人間が新しい新聞紙、水綿、そしてあのエサを撒いていったのだ。
糞ではないきちんとしたエサは三匹の空腹を満たし、さらに新しい新聞紙、水とチビ達からすれば、和解を祝うようにも思えただろう。
「すごくおいしいミィ!」
「あまーいミィ!」
「二人とも、たくさんあるから焦っちゃだめミィよ!」
ショップ以来のきちんとしたエサは、今まで口にしてきた糞エサに比べれば甘味は多い。
三匹は皆笑顔で食し、冷たい水綿を吸い喉を潤した。
さらに人間が自分達にエサや新聞をくれたことも彼らの心を癒したのだろうか。
妹ンネと他兄が昼寝したのを確認すると兄ンネは改めて室内を見渡した。
荒れていた水槽内も見違えるほど整頓され、トイレ用新聞が隅に、二匹が寝息をたてる場所にはシートのように敷かれた新聞紙。
反対隅にあるのは兄ンネいう秘密の新聞紙の山。
もはや他妹の死の恐怖も、眼前の幸福からか封印されてしまったのだろう。
兄ンネも秘密の新聞紙の山に向かい、再びちぎりはじめた。
かつてのような沈んだ顔ではなく、笑顔で。
…
十日目
「どうれ、
お楽しみのお肉ターイム!」
「ウワハハハー」
廊下を歩く人間達の足音がチビ達の部屋に近づく。
だがそれに気づくチビはいない。
三日間平穏にすごした三匹は安堵からか、16時現在すっかりお昼寝中。
封印していた悪夢が再び起きるとは知らず三匹寄り添い寝息をたてていた。
「さあーて、お待ちかねのディナーにございますわよ?」
人間は笑顔でフカマルを撫でた。
最終更新:2016年07月27日 19:03