冬を迎えて春が来て

リビングから見えるオボン畑には、雪がちらちら舞い始めている。
少し肌寒かった秋が終わって冬になると、冷え込みがいっきに激しくなった。
ストーブを焚いている室内との温度差に、窓がうっすらと白く染まる。

「ポチエナ、餌だぞ」
ポケモンフードを皿に盛って、ストーブの前で転がっているポチエナに餌を持っていく。
普段なら尻尾を振って、ちょこんとお座りをして待っているのだが、今日は様子が違う。
しきりにガラス戸の外を気にしながら、ときおり俺の方に視線を向けてくる。
どうしたのだろうと思い、厚手のカーテンをめくって外の様子を確認する。

うっすらとした暗闇の中に、何本ものオボンの木がぼんやりと見える。
毎年たくさんの実をつけてくれる、わが家自慢のオボン畑だ。
そんなオボンの木の根元で、何かが動いているのがわかった。
おそらく、近くの森に住むタブンネだろう。
わが家のオボンの実を狙って、人がいなくなる時間に出てきたのだろう。

俺は思わずほほえんでしまう。
今年の冬は寒くなると聞いていたので、そうなる前にほとんどの実を収穫しておいた。
オボンの実を狙ってやってきたタブンネは完全に無駄足というわけだ。
俺はハンガーにかけてあったコートを着ると、ポチエナとともに畑に向かう。
オボンがなくて唖然とするタブンネの顔を拝んでみたくなったからだ。

近づいていくとタブンネの姿がはっきりと確認できるようになった。
おそらく、つがいのタブンネだろう。2匹のタブンネが体をぴったりと寄せあっている。
「そんなとこで何やってんだ?」
俺の声にタブンネたちがビクリと飛び上がる。
この距離に接近されるまで、俺がいることに気付いていなかったらしい。
オボンの実がなかったことがそんなにショックだったのだろうか。

おそるおそるといった様子で2匹のタブンネが振り向く。
頬がこけて目の下に隈をつくり、鼻水を垂らすその顔にはあわれみを感じてしまう。
本来ならピンク色の毛は茶色く汚れており、全体的に毛づやも悪い。
まともに餌をとれていないのだろう。脂肪が薄くなった体を寒さに震わせている。
そして、2匹の体の間では、離乳も済んでいないであろう小さな子タブンネが抱かれている。

あまりにも悲壮感ただよう姿に言葉を失ってしまった。
食べ物がなくて困惑するタブンネの姿を笑いにきたつもりだったのだが。
このタブンネたちは秋の間に十分な蓄えができなかったのだろう。
寒くなってからでは餌を探すどころか、外を出歩くのも一苦労だ。
必死の思いでたどり着いた畑には、自分たちが食べられそうなものが何もない。
こんな雰囲気を漂わせるのも当然だろう。

2匹に抱かれた子タブンネは、動くどころか鳴き声一つ上げることもしない。
胸がわずかに上下しているから生きてはいるのだろうが、この寒さではもたないだろう。
つがいであるタブンネ2匹の目からは光が失われている。
餌はなく、子タブンネは限界で、そのうえ人間に見つかってしまった。
すべてをあきらめた表情で、何も言わずに立ち尽くしている。

おもしろいという言葉が頭に浮かぶ。
これまで見てきたタブンネたちはこんな反応を見せなかった。
命乞いをするもの。逃げようとするもの。威嚇してくるもの。
だが、諦めて何もしないというのは初めて見る反応だ。

近くのオボンの木から実を選び、1つちぎる。
あまりにも小さくて収穫できなかった実を、タブンネたちの鼻先に突き付ける。
タブンネたちが顔を上げて、小さなオボンの実を見つめる。
「この実を食べたいか?」
俺が問いかけると、タブンネたちの瞳にわずかに光が戻る。いい反応だ。

ニヤリと笑って言葉を続ける。
「それなら、俺の仕事を手伝え。ついでに、ポチエナの遊び相手になってくれ。
 そしたら毎日でもオボンの実を食べさせてやるぞ」
タブンネたちが俺の顔を見て、俺の足元でピシッとすわっているポチエナを見る。
やがて、涙を流しながら「ミィミィ」鳴きながら、俺の足にしがみついてくる。
ありがとう、とでも言っているのだろう。

「よし、ついてこい」
俺の後をタブンネたちがついてくる。
さっきの暗い表情から一転して、今ではニコニコと笑顔だ。
これからよろしくとでも言うようにポチエナに話しかけている。

その様子を見ながら、俺はほくそ笑む。
見てみたくなったのだ。こいつらがどういう顔をするのかを。
すべてをあきらめた時に差し出された希望、そしてそれが裏切られた時の絶望。
そのときにどんなリアクションを見せてくれるのか。今から楽しみだ。

「チチィッ! チヤッ! チヒィィィ!」
甲高いタブンネの鳴き声が響く。
鳴き声の主はポチエナと遊んでいる……いや、ポチエナに遊ばれている子タブンネだ。
跳び付いてくるポチエナから必死に逃げ回るその姿は、かわいくはあるが少し滑稽でもある。
ポチエナは本気で襲い掛かっているわけでもないのに。

子タブンネの様子を心配そうにタブンネ夫婦が見つめている。
ポチエナがじゃれているだけだとわかってはいるのだろうが、子どものことが気になるのだろう。
「おい、作業するのが止まってるぞ」
俺がそう声をかけると、あわてて作業を再開する。

ここは収穫したオボンの実を保管している倉庫だ。
それなりの広さがあるため、ポチエナと子タブンネが多少暴れたところで、仕事に影響はない。
俺たちがやっているのは、オボンの実を出荷するための梱包作業だ。
重さや量を均等にし、実がつぶれないようにケースに小分けして箱に詰める。
ばらつきが出ないように調整しなくてはならないので、地味ながら、それなりに堪える作業だ。

オボンを詰めたいくつかの箱をタブンネたちが持ってくる。
俺はそれを見て顔をしかめる。一目見ただけでわかるほど量にばらつきがあったからだ。
「箱によって量がちがう。やり直せ」
そう言ってタブンネたちに突き返すと、渋々といった感じで作業を再開する。
納得いかない、といった表情だ。

「不満なら出ていっていいんだぞ」
俺の言葉に、タブンネたちは悔しそうな顔で「ミィィ……」と首を振る。
季節は真冬。
例年に比べて寒さの厳しい森の中には、タブンネたちが食べるような餌は何もあるまい。
だからこそ、危険を冒してまで俺の畑にやって来たのだ。
最低限の食事と寝床。それが確保されているここから出ていくなど、とてもできはしない。

しばらく作業を続けていると、父タブンネの後ろにポチエナがいるのが見えた。
尻尾を振って、タブンネに向かって「クゥン」と鳴いている。
子タブンネはどうしたのかと見てみると、倉庫の隅でくたっと倒れている。
最近になって歩けるようになった子タブンネにポチエナの相手はきつかったのだろう。
手足を投げ出して床に寝そべっている姿は、つきたての餅のようで思わずクスリとしてしまう。

子タブンネがあんな状態なもので、ポチエナとしては遊び相手がいなくて退屈なのだろう。
遊び相手に選ばれたのが、俺じゃなくてタブンネなのは少し悔しい。
しかし、当の父タブンネはポチエナのことを無視してオボンの実を詰める作業を続けている。
仕事熱心なのは悪いことではないのだが、ポチエナのことを無視するのはいただけない。
ポチエナの遊び相手をするのも、お前たちを飼ってやる条件なんだぞ。

「おい、ポチエナが遊びたがってるだろ。無視するんじゃない」
俺がそう声をかけると、父タブンネは作業の手を止め、ポチエナとともに倉庫の隅に移動する。
木の実の近くで遊ばれたら、木の実を潰してしまうかもしれないからな。
このことは後でほめてるとしよう。

ポチエナが跳び付いてくるのを父タブンネが受け止める。
その顔には、焦りや恐怖といった感情が浮かんでいる。
まだ小さいとはいえ、ポチエナは肉食のポケモンだ。
爪や牙はしっかりと生えているし、野生におけるタブンネは被捕食者のポジションだ。
じゃれつかれているだけとはいえ、タブンネの本能が肉食ポケモンに反応しているのだろう。

もう1匹、母タブンネの方に目を向けると、いつのまにか作業を放り出していた。
子タブンネを抱き上げて、体をなめて毛づくろいをしてやっている。
俺は作業の手を止めて、母タブンネのもとに行き、無防備な頭を思いっきりはたく。
「ミッ!?」と声を上げた母タブンネの耳をつかんで、無理やりこちらを向かせる。
母タブンネは驚いた拍子に手を離してしまい、床に落下した子タブンネが「チィィ…」とうめく。

「勝手にサボってんじゃないぞ。役に立たないならお前だけ追い出してもいいんだからな」
その言葉に母タブンネはがっくりとうなだれる。
この寒さの中放り出されたら、夜を明かす前に凍り付いて死んでしまうだろう。
なにより、子タブンネの離乳は完全には終わっていない。
母親である自分がいなくなったら、子タブンネが死んでしまう。
不安そうに子タブンネを見ながら、母タブンネは作業をするために戻っていった。

さて、母親に放り出されてしまった子タブンネではあるが、ヨロヨロと起き上がってきた。
体をなめられたことによる刺激か、落下の衝撃かはわからないが、とりあえず動けるようにはなったらしい。
ポチエナの方を見ると、実に楽しそうに遊んでいる。
父タブンネの大きなお腹に乗っかり、あむあむと首の周りを何度も噛んでいる。
何度も振り落とされているのだが、そのたびに果敢に飛び乗っていく。
かなりエキサイトしているらしく、その様子に父タブンネは涙目になっている。

もちろん、これは父タブンネが手加減しているからこその現状だ。
肉食であるポチエナといえど、本気になった大人のタブンネにとっては敵ではない。
それでも今の状態になっているのは、初めてポチエナと遊ばせたときのことが原因だ。
子どもであるポチエナに手加減をしなかったせいで、ポチエナがケガをしてしまった。
その時に、制裁として一晩中、外に宙づりにしておいたのが効いているのだ。

タブンネとポチエナを引き離す。
父タブンネは「ミフッ、ミフッ」と息を吐きながら俺の方に笑顔を向けてくる。
ポチエナから助けてもらったとでも思っているのだろうか。そんなわけないだろ。
「いつまで遊んでんだ。さっさと作業に戻れ」
そう言って頭を引っぱたくと、のそのそと作業に戻っていく。

ポチエナは「キュゥン」と悲しそうに俺を見上げている。
遊び相手をとられてしまったと思ってるのだろう。かわいいやつめ。
ポチエナの顔を一瞬だけ見てから別の場所に視線を移すと、それにつられてポチエナの視線も動く。
視線の先にあるものを見ると、尻尾をパタパタと振りながら駆けだしていく。

俺が視線を向けた先には子タブンネがいたからだ。
体力が回復したのか、ぺたんと座り込んで自分で毛づくろいをしている。
ポチエナにとっては、大人のタブンネよりも、体の小さな子タブンネの方が遊び相手にして楽しいのだろう。
子タブンネの小さな背中にポチエナが跳びかかり、「チィッ!」という声を合図に遊びが再開する。

一方、ポチエナから解放された父タブンネはというと、まだ作業を再開していなかった。
それどころか、作業をする場所にまだ戻っておらず、のろのろと歩いている。
「たらたら歩くな。ちょっとだけでもサボろうとか考えてんじゃない」
父タブンネの尻を蹴っ飛ばすと、「ミキャァッ!」と叫びながら、床の上をゴロゴロと転がる。
そして、近くに積んであった箱の山に激突する。

ガヂャーン!と音を立てて、オボンの実が入った箱の山が崩れる。
箱の中に入っていたオボンの実が散らばり、一部の実は父タブンネの体や箱によってつぶれてしまっている。
何日も続けている作業があっという間にダメになってしまった。
「何やってんだ、この馬鹿!」
床に転がったままの父タブンネの腹に蹴りを入れる。
「ケハッ!」と息を吐き出す顔を踏みつけて床に押しつけると「ビウゥ……」という情けない声が漏れる。
大きな音と俺の剣幕に驚いたのか、ポチエナと子タブンネは遊ぶのをやめてこっちを見ている。
作業を続けていた母タブンネは何が起こったのかを理解したのだろう。
その顔からは血の気が引き、うつむいて涙を流しながらガタガタと震えている。
今回やらかしたことは今までとは比較にならないほど大きなことだ。
追い出されるか、最悪殺されるとでも考えているのだろう。

「……お前はそのまま作業を続けてろ。できることなら崩れた箱を整理して、木の実を詰め直してくれ」
俺の指示を受けると、母タブンネは安堵の表情を浮かべる。
ホゥと息を吐くと、崩れた箱のもとに行き、無事そうな木の実を箱に詰め直していく。
制裁を回避できたことによって気分が高揚しているのか、テンポよくテキパキと作業を進めていく。
まあ、今回の大失態を冒したのはあくまで父タブンネだ。母タブンネには何の罪もない。
制裁を加えるなら、父タブンネの方だけだ。

「よし、そのまま続けてくれ。ひと段落したら休憩してもいい。ただし、勝手に木の実を食うなよ」
俺の言葉を聞いて、母タブンネは「ミッ!」と歯切れのいい返事を返してくる。
まあ、今回ばかりは多少サボっていても多めに見よう。
俺はコートを着ると、父タブンネの首に縄をつけ、そのまま引きずって倉庫を出る。

倉庫の戸を開けると、顔に細かい雪が飛び込んでくる。
風に舞った雪が道路や地面に積もり、景色を真っ白に染め上げている。
分厚い雲が空を覆っているせいで陽の光が差し込まず、昼なのにどこか暗く感じてしまう。
北から吹いてくる風のせいで、気温以上に寒く感じてしまう。
コートを着ている俺はいいが、栄養不足により体の脂肪が減っている父タブンネには非常にきついだろう。

積もった雪の中、父タブンネを引きずりながら目的の場所に向かう。
倉庫から10mほど離れたところに目的地である洗い場に到着した。
後ろを見てみれば、雪の上に父タブンネを引きずった跡がはっきりと残っている。
気温が低い中、雪の上を直接引きずられた父タブンネの歯がガチガチと音を立てている。
ギュッと体を丸めているのは、体温を逃がすまいとする本能的なものだろう。

俺はその場にしゃがみ込み、父タブンネの触覚をつかむ。寒さのせいか、いつもよりかたい気がする。
「まずは、オボンの汁で汚れた体をきれいにしないといけないな」
カランをひねって水を出すと、父タブンネが何度も首を横に振る。
触覚を通して、俺の考えていることが伝わったのだろう。
恐怖に顔をゆがめ、青い瞳からは涙がこぼれ、その涙は顔を流れるうちに凍っていく。

「きれいにしないと、汚れが気になって仕事ができないだろう?」
冷水を流す蛇口の下に父タブンネを蹴り込む。
「ビヒャァアァアァァァァッ!!」
さっきまでほとんど動かなかった父タブンネが、悲鳴を上げながらのたうちまわる。


近くに置いてあるデッキブラシで父タブンネの体を磨いていく。
……とはいっても、父タブンネが動くのでうまく洗うことができない。
水の冷たさに父タブンネが抵抗しているが、汚れが落ちるまでやめるわけにはいかない。
大人しくしてくれれば、すぐにでも解放してやるのだが。

しばらく続けていると、父タブンネは動かなくなった。
大人しくなったので、ようやく落ち着いて体を磨くことができる。
デッキブラシでガシガシと磨くたびに、父タブンネの口から「ヒウッ…」という声が漏れる。
やがて、その声も聞こえなくなる頃、父タブンネの体から汚れを落とすことができた。
完全にきれいになったとは言い難いが、まあいいだろう。
ぴくりとも動かない父タブンネの首についた縄を持って、倉庫まで父タブンネを引きずって戻った。

俺が倉庫に戻ってくると、倉庫の中はそれなりに片付いていた。
ぐしゃぐしゃに潰れたオボンは倉庫の隅に寄せられていたし、崩れていた箱はしっかりと積まれている。
中を確認すると、ほとんど同じ大きさのオボンがきれいに入っていた。
「全部お前がやったのか?」
母タブンネにそう尋ねると、胸を張り「ミフー」と自慢げな様子だ。
ふむ。この母タブンネは、タブンネにしてはなかなかできるやつなのか?
とはいっても「タブンネにしては」であって自分でやってればもっと早く片付けられるのだが。

「ミィィィィィィ!?」
突如、母タブンネの叫び声が倉庫の中に響き渡る。
俺が引きずってきた父タブンネの様子にようやく気付いたようだ。
トタトタと俺のもとに走って来て、足元に転がっている父タブンネの体に触れ、
「ミヒャッ!?」
すぐに手を離してしまった。

毛づやが悪くボサボサしていたピンク色の体毛は、体にカッチリと張り付き、
涙や鼻水によって凍ってしまった顔は、歪んだままの状態で固まっている。
身動き一つしないその姿から、完全に凍り付いてしまっていることがわかる。
完全にふさがってしまった鼻に空気は通らず、口でかろうじて呼吸をしている状態だ。

「ミィッ! ミィッ!」
母タブンネは床に膝をつくと、両手を地面につけてペコペコと何度も頭を下げる。
俺が教えた土下座だ。父タブンネを助けてくれと必死に懇願しているのだ。
しゃがみ込んで母タブンネの顔を覗き込むと、その顔にはいくつもの感情が浮かんでいる。

父タブンネを助けてほしいという切実さ。
父タブンネを氷漬けにした俺に対する憎悪。
そんな俺に対して頭を下げることしかできない屈辱。
母タブンネの心の中はマイナスの感情に彩られていることだろう。

「わかった。助けてやるよ」
そう言って立ち上がると、倉庫の奥へとと向かう。
母タブンネは不安そうな顔で、俺と、俺に引きずられている父タブンネについてくる
倉庫の奥には、古い小型の冷蔵庫を置いている。このタブンネたち用に木の実を保存しているのだ。
冷蔵庫を開けて、中からマトマの実を取り出す。
今年の夏に収穫したもので中に入れっぱなしにしていたものだから、すっかり色が変わっている。

色も感触も変わり果ててしまっているが、そこに含まれる発熱効果は失われていない。
以前、父タブンネを外に吊るした時に確認したのだから間違いない。
凍り付いてほとんど動かない父タブンネの口を無理やりこじ開けて、中にマトマの実を無理やり押し込む。

最初の内は何の反応も示さなかったが、数十秒ほどすると「ブフォッ!?」という音とともに父タブンネが息を吹き返す。
口の中に広がるマトマの辛みと、腐った木の実の持つ風味に「ミギギギ……」と言いながら苦しんでいる。
しばらく待っていると、ある程度落ち着いてきたのか、四つん這いになってゼェゼェと荒い息を吐いている。
ときおり「ミエッ、ウエッ」となる父タブンネの背中を、母タブンネが心配そうにさすっている。

「おい」
俺の声に2匹がこっちに顔を向ける。俺の声から不穏な何かを感じ取ったのだろう。
不安そうに俺のことを見てくる2匹を見ながら、床を指さす。
「これをどうするつもりだ、お前たちは?」
俺の指さした床には、父タブンネが吹き出したマトマの食べかすが散乱している。
さらに、父タブンネが悶えたせいで、倉庫の床にべったりとこびりついてしまっている。

父タブンネの首についていた縄を再びつかみ、父タブンネを引っ張る。
マトマで低体温状態を脱したとはいえ、体力が回復するわけではない。「ミィ!?」と声を上げて父タブンネが転倒する。
「体が汚れてしまったからな。もう一度、きれいにしてやるよ」
父タブンネを引きずっていく俺の足に母タブンネがしがみつく。
あんなことはもうやめてとでも言ってるのだろう。

頑張っている母タブンネのいうことを聞いてやりたい気持ちはある。
だが、父タブンネはまともに仕事をしていない。
それに、このタブンネたちに仕事を手伝ってもらっているが、はっきりいって効率的ではない。
数が増えた分、1日にできる仕事量も増えたのだが、失敗も多く、そのリカバリーで時間を取られてしまう。
こいつらがどんなリアクションを取るかも大体わかってきた。
正直言って、タブンネたちのことはどうでもよくなってきてるんだよな。

母タブンネに雑巾を渡して掃除するように言って、父タブンネを洗うために引きずっていく。
倉庫の端っこでは、ポチエナが子タブンネで遊んでいるが、子タブンネがぐったりとしているので退屈そうだ。
このままではポチエナが面白くないだろう。
倉庫の隅に寄せられたオボンの実。父タブンネがダメにしてしまったオボンの実だ。
ぐしゃぐしゃに潰れてしまったうえに、隅にたまっていた砂埃をかぶってしまっている。

「ポチエナ、待てだ」
ポチエナは子タブンネにじゃれるのを止めると、ちょこんと座って俺のことを見上げてくる。いい子だ。
ポチエナの頭をなでてほめてやり、潰れたオボンの山から適当に実を1つ取る。
皮が破れ、果汁と埃でどろどろになっているそれを、子タブンネの口に入れる。
オボンの味が口の中に広がったのだろう。子タブンネがオボンの実を咀嚼し始める。
ときおり聞こえてくるジャリジャリという音は砂埃を噛む音だろう。

離乳が済んでないとはいえ、オボンの実というのはタブンネにとってはごちそうだ。
のどを詰まらせて「ケフケフ」とせき込みながらも一心不乱にオボンを食べていく。
やがて、口の中に入っていたオボンをすべて食べ終わったのだろう。
フラフラと立ち上がると、ありがとうとでも言うように、弱々しい笑顔を俺に向けてくる。

「ポチエナ、いいぞ」
俺の言葉を着たポチエナは、バッと駆けだして子タブンネに襲い掛かる。
笑顔だった子タブンネの顔が一瞬で恐怖に引きつる。
遊び相手が元気になったことで喜ぶポチエナと、悲鳴を上げて転がる子タブンネ。
俺の持つ縄の先では、父タブンネが涙を流しながら「ミィミィ」と泣いている。
子どもの心配をしている場合じゃないぞ。
雪風の中、父タブンネを引きずりながら俺は思う。
もう飽きたな、と。

空も景色も、何もかもが白に染められていた冬が終わった。
冷たかった空気は消え、眠気を誘うぽかぽかとした暖かさが春になったことを実感させる。
青い空には雲が浮かぶ。ぽわっとした白い雲はタブンネの尻尾のようだ。
あくまで普通のタブンネなら、の話だが。

俺の目の前では3匹のタブンネが深々と頭を下げている。
冬を迎えた時からわが家で飼い始めたタブンネたちだ。
3匹とも毛づやが悪く、毛が抜けてしまった尻尾はとてもみすぼらしい。
タブンネを知らない人が見たら、子どもが散々に遊んだぬいぐるみのように見えることだろう。

このタブンネ家族が俺に頭を下げている理由は簡単だ。
もともと住んでいた森に帰りたいのだ。
春になって暖かくなったことで、野生の世界でも生きていけるようになったから。
そして、俺のもとでの地獄のような生活から早く解放されたいから。
おそらくは後者の比重が大きいだろうが。

冬の間、タブンネたちには心休まる暇がほとんどなかったはずだ。
慣れない仕事を朝から手伝わされ、何か失敗をすれば罰を受ける。
時間があればポチエナの遊び相手にされ、ポチエナが飽きるまで休憩することもできない。
罰として食事を抜かれることもあれば、余った木の実をゴミ処理のように食べさせられる。
悪夢でも見たのか、夜中に飛び起きることもあったようだ。

休めないことで、肉体的・精神的に疲弊し、顔からは生気が失われている。
姿勢はうつむきがちになり、笑顔を見せることはなくなってしまった。
家族で過ごす時も、1か所に集まるだけで何もせず、ぼーっとしているだけだった。
もはや生きていることに何の楽しみも見出せなくなっていたのだろう。
それでも、野生の本能なのか、暖かくなってくると次第に活力を取り戻し始めた。
そして、家族全員で土下座をしてまで、解放してくれとお願いするまでになった。

「わかった、森に帰してやるよ」
俺の言葉を聞いて、タブンネたちが顔を上げる。
あっさり聞き入れてもらえるとは思っていなかったのだろう。その顔には、戸惑いと驚きが半分ずつ含まれている。
俺としてもこいつらを飼うのには飽きていたところだ。最後に希望を与えてやるのもいいだろう。
せめて、楽しませてくれよ。

まだ困惑している様子のタブンネたちを外に出す。
外に出たことで解放される実感がわいてきたのか、3匹の顔にかすかな笑顔が浮かぶ。
久しぶりに見せる笑顔。自分たちの明るい未来に期待している顔だ。
やがて、自分たちが暮らしていた森に向かって、ぽてぽてと歩き始める。

「グラエナ、やれ」
母タブンネの無防備な背中にグラエナが襲い掛かる。
完全に無警戒だったのだろう。母タブンネが「ミミッ!?」と声を上げて地面に倒れる。
倒れた母タブンネの喉にグラエナが噛みつくと、母タブンネの顔が苦痛と恐怖に染まる。
しばらくは抵抗を続けていた母タブンネだが、やがて体から力が抜け、完全に動かなくなった。

母タブンネを仕留めたグラエナが、父タブンネに襲い掛かる。
何が起こったかわからないという顔をしていた父タブンネだが、グラエナが自分に向かってきたと理解すると、
その表情が恐怖で一気に凍り付く。
喉をグラエナに噛まれ、気道を圧迫されて窒息していく父タブンネが俺を見る。
苦痛に満ちた顔には「どうして?」という疑問が浮かんでいる。

父タブンネの疑問に答えてやる。
「お前たちさ、木の実を盗むために俺の畑に来てただろ。泥棒には罰を与えないといけないからな」
その言葉で父タブンネは思い出したのだろう。その顔に絶望の色が浮かぶ。
木の実を取りに来なければ。この人間についていかなければ。
後悔の念が父タブンネの中を占めているだろう。だがもう遅い。
父タブンネの目から光が消えて、体から力が抜ける。
グラエナは父タブンネの体を離すと、次はお前だと言わんばかりに子タブンネをにらみつける。

ポチエナはもともと木の実を守る番犬用に飼いはじめたポケモンだ。
冬の間に成長し、タブンネという練習相手で経験を積んでグラエナに進化したのだ。
そして、本物でたっぷりと練習を積んだ以上、タブンネを仕留めそこなうということはありえない。
そのグラエナににらまれて、子タブンネは完全に竦んでしまっている。

「うちに残るっていうんなら、木の実を盗もうとしたことは見逃してやってもいいぞ。
まあ、それでも野生に戻りたいっていうなら俺は止めないけど……どうする?」
あのときの子タブンネはまだ離乳も済んでいなかったし、木の実を盗むつもりなど全くなかっただろう。
ただ、この状況ではそこまで頭は回るまい。
地獄の日々から解放されると思った瞬間、目の前で両親が死に、その上で2択を突き付けられた。
俺のもとで今まで通りの暮らしを続けるか、グラエナにやられるかという究極の2択を。

子タブンネは「ミィ……」と一声鳴くと、俺のズボンのすそを持つ。
今までの通りの暮らしを受け入れることを選んだのだ。
さきほど見せた笑顔が嘘のように、その顔からは表情が失われている。

「じゃあ行こうか」
歩き出した俺にグラエナと子タブンネがついてくる。
タブンネたちが俺に飼われることになった、あのときを再現するかのような光景。
あのときと違うのは、ポチエナがグラエナになったこと、子タブンネはたった1匹だけになったこと。
そして、子タブンネの心の中には何の希望もないということ。
苦痛と絶望しかないということがわかっていながら、それを受け入れた子タブンネの気持ちはいかなものか。

おそらく子タブンネは長くはもつまい。
どれだけ生きても希望などないとわかっているから。
絶望を分かち合うことのできる両親もすでにいないのだから。

(おしまい)

  • 子タブンネどうなったんだろう… -- (名無しさん) 2017-05-15 07:45:51
  • 最後は心身のバランスが崩れて衰弱死だと思う -- (名無しさん) 2017-06-17 03:32:47
  • 引き込まれてしまった。名作の一つ -- (名無しさん) 2019-05-02 01:35:31
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最終更新:2014年06月19日 23:04