己の気が取り敢えずは鎮まったと判断した伊藤一刀斎は、瞑想を止めて立ち上がった。
剣の道を捨て、悟りを求めて寺に向かっていた一刀斎だが、正午に聞こえて来た声によって心を乱され、足を止めたのだ。
それは、死者の名前が読み上げられる中で、小野忠明なる名が呼ばれた時の事。
一刀斎には忠明などという知己は居らず、動揺する理由などないのだが、その時、ふと弟子を思い出したのだ。
弟子の善鬼が小野姓を名乗っていた事、また神子上典膳の母方の姓が小野であった事が影響しているのだろうか。
「小野」と聞いた一瞬、一刀斎は弟子が死んだのかと連想して心を乱し、その事実が一刀斎を動揺させた。
一刀斎は既に剣の道を捨てたと自負しており、そうであるならば弟子が何時何所でで死んだとしても関知しない事の筈。
しかし、実際に弟子が死んだかと思って一刀斎は驚き慌てたのだ。
そして、一刀斎は己の心を探り、その動揺が弟子への愛よりも、己の剣技が絶える事を惜しむ気持ちに起因すると知る。
剣を捨てる事を決意した一刀斎は、最後に弟子に奥義の全てを授け、決闘により跡目を決める事を定めた。
それは即ち、愛弟子に嘗ての己と同じ修羅の道を歩ませる事。
そして結局、弟子に剣を継がせ、託す事で自身が剣を捨て易くする為にした事ではなかったか。
剣の道を離れたつもりでいながらも、弟子という分身を残して来たのでは、悟りなどとても適わぬのではないか。
そのような思いで心を乱した一刀斎は、暫しの瞑想によってその迷いをどうにか抑え込む。
無論、それは一時的なものであり、早く寺へと言って本格的に己の心を見詰め直す事が必要だが……

寺への歩を再開しようとした一刀斎の視界に、一人の女が入って来る。
若く美しい娘だが、その手の刀と眼に映る影が、内面の剣呑さを表していた。
もっとも、相手も同じ事を考えているのかもしれない。
一刀斎とて剥き出しの太刀を握っているし、先程までの荒れた心を鎮める為の瞑想中は殺気に似た気が漏れ出ていたやもしれぬ。
そうであれば……いや、相手が血に飢えた人斬りだとしても、何とか戦いを避けるのが一刀斎の方針。
とはいえ、声を掛けようにも、警戒する相手に大声で呼びかければそれ自体が闘いの呼び水になる危険もあろう。
また、相手の肢体には会話に適した間合いの外からでも一跳びで斬り付けて来るだけの力が秘められているようだ。
そう見て取った一刀斎は、例の……この島で会った最初の剣客に対して使った手をここでも使う事にした。

人斬り……香坂しぐれは、目の前に居る老人をそう断じた。
抜身の剣を提げている事、先程までこちらの方向から荒々しい気が流れて来ていた事もあるが、最大の根拠は血の匂い。
と言っても、現の臭いではなく、いわば目の前の男の人生に染みついた血と死の気配を直観で感じたのだ。
出会った相手が血に塗れた人斬りだとすれば、しぐれのする事は一つ。
老人が口を開きかけた瞬間、しぐれは跳躍し、老人に斬り付け……
寸前、迎撃に出た老人の予測を超える瞬速の一撃に、しぐれはあっさりと両断されたのであった。

「はっ!?」
そこで老人が歩いて目の前まで来ている事に気付いて慌てて飛び退き、剣を構え直すしぐれ。
確かに斬られたと思ったが、現実のしぐれの身体には傷一つない。
強烈な気当たりによる錯覚……それが、しぐれの推論だった。
一級の達人ならば、気当たりによって心得の浅い者を吹き飛ばしたり気絶させる事は不可能ではない。
また、気当たりによって分身して見せたり触覚すら錯覚させる使い手とも、しぐれは手合わせをした事がある。
しかし、こうまでリアルに死を錯覚させる程の達人が居るとは……
刃に切り裂かれる感触、血が噴出す音と匂い、内覚は心臓が止まるのを感じ、視界は濁って闇へ落ちて行こうとしていた。
下手をすると死の認識に引かれてそのまま本当に死んでしまうのではないかと思う程の現実感。
いやむしろ、矛盾する言い方だが、現実よりも更にリアルだったのではないだろうか。
死ぬまでいかずとも、放心した隙に本体に斬り付けられれば防ぐ術はあるまい。

再び、老人の姿が膨れ上がり、しぐれに刃が迫る。
先程同様に錯覚か、或いは今度こそ老人が本当に斬り付けて来たのか、それを見定める余裕はしぐれにはなかった。
全神経を集中させて老人の動きを探るしぐれ。
老人の気当たりによってしぐれの神経が刺激され、世界がリアルさを増す。
言い換えれば、刺激によって感覚が研ぎ澄まされ、普段は見えないものが見えるようになっているという事。
それをフルに利用して老人の動きを読み、両断しようとして来た剣を紙一重でかわし、致命の一撃を加える。
……瞬間、老人の姿が掻き消え、背後に気配を感じたしぐれが振り向くと、そこに剣を構えた老人の姿が。
また錯覚……しかし、今ので老人に対抗する端緒は掴んだ。
しぐれは、更に感覚を研ぎ澄ませて老人に立ち向かう。

(何とも未熟な……)
一刀斎は静かに自嘲した。
近藤勇に対した時と同様に、殺気によって相手を幻覚の中で殺し、その隙にこの場を脱するのが当初の目算だった筈。
近藤の時は彼が根負けするまで幾度も殺し続けなければならなかったが、あの時と違い、今の一刀斎には剣がある。
それだけで気迫は強くなり、斬られる側が感じる迫真性も遥かに増す。
一度目はすり抜ける寸前で我に返られたが、二度目に殺気をぶつければ今度こそ上手く逃げられる筈だった。
いや、実際、しぐれが幻と渡り合っている間に、一刀斎はしぐれの横を抜け、そのまま走れば十分に逃げられただろう。
しかし、一刀斎はしぐれが幻の己を完璧に斬った事を悟り、それによって立ち去る事が出来なくなったのだ。
剣客を捨てたつもりで居ながら、己の技を脅かす相手に出会えば決着を付けずにはいられない。
剣に生きる者の業は、未だ一刀斎の魂に深く深く根付いていた。

剣を交え、時に激しく打ち合い、時に互いの出方を読み合う一刀斎としぐれ。
時の経過と共に、二人が剣を振るう頻度は減り、じっと睨み合う時間が増えて行く。
だが、多少の心得がある者が見れば、二人の闘いの激しさは少しも減じていないのがわかっただろう。
互いの動きを読み合い、殺気で牽制し、隙を見付けたと思った時のみ攻撃に転じ、相手の予想以上の動きに防がれる。
一部では技撃軌道戦などとも呼ばれる駆け引きを交えつつ戦う二人。
当然、戦いが進んで相手に対する理解が深まれば、より正確に先の展開を読む事が出来るようになる。
結果として、簡単に防がれる無駄な攻撃が減り、傍目には静かに睨み合っているように見えるという訳だ。
ただ、このまま技撃軌道戦が続いていれば、この読み合いによる死闘も自然と終わっていたかもしれない。
相手の技を読み意図を読むという事は、その根にある心や人生を読むという事に通じる。
為に、彼等は互いに相手がただの人斬りではない事に気付き、内に秘めた想いを読み取り始めていた。
一刀斎の人を斬り続けた上で到った悟りを希求する境地や、しぐれの活人剣の誓いとこの島に来てから宿した迷いを。
互いを理解し合えば自然と戦いは収まり、相反する剣道を歩んできた者の悩みを知る事は自らの悩みを断つ助けとなったろう。
しかし、それは全て有り得たかもしれない仮定の話。
現実には、二人が相手の迷いの正体を悟るより前に、その場に現れた怪物が、彼らを更なる迷いと惑いへと突き落したのである。

「温過ぎる……」
渡り合う二人に近付く老人が呟く。
その存在には二人とも気付きながら、目の前の相手との勝負に忙しく目を向ける暇もなかったのだが……
「少しはマシな剣士が居るかと思うたが、これではこの塚原卜伝の相手には、到底ならぬな」
塚原卜伝……その剣名は二人も聞き及んでいるが、彼等を振り向かせたのはそれより、言葉と共に噴出したあまりに剣呑な殺気。
一刀斎のように武器として磨き上げた殺気ではなく、ただ老人の内にある危険さが滲み出た結果によるもの。
それを悟った故に、二人は目前の敵を捨て置いて、揃って横合いから歩み寄って来る卜伝に剣を向けたのだ。
二人に剣を向けられながら、卜伝はそれを歯牙にもかけず冷笑すると剣を抜く。

近付いて来る卜伝に対して一刀斎が殺気を放ち、一刀斎の剣が卜伝を貫く姿が幻視される。
だが、卜伝は微かなの反応すらも見せず、何事もなかったかのように近付いて行く。
熟練の剣客ならば斬られたのが錯覚だと気付き、敢えて無視する事で受け流す手を取ってもおかしくはない。
しかし、錯覚とわかっていたとしても、自分が殺される感覚にああも無反応でいられるとは……
一刀斎の仕掛けが無駄に終わったのを見て、今度はしぐれが仕掛ける。
卜伝に向かって跳躍……と見せて、実際に飛んだのは上衣のみ。しぐれ本人は転がって足元から仕掛けた。
「くっ!?」
だが、卜伝はしぐれの偽攻を全く無視して足元を払い、無視された服はそのまま卜伝の顔に掛かる。
視界を塞がれた形の卜伝にしぐれが再び仕掛けるが、卜伝はまるで心眼でも開いているかの如く完璧に防ぐ。
これでは、目線や表情で次の手を読めない分だけしぐれが一方的に不利。
思わずしぐれが退くのを見て、今度は一刀斎が前に出ようとする。
とはいえ、しぐれも一刀斎に譲るつもりも共闘する気もさらさらなく、二人は先を争うように卜伝に剣をぶつけて行く。
卜伝も二本の剣に迫られながら動じる事なく、防御を省みぬ必殺の剣を放つ。

一刀斎としぐれの剣が卜伝の顔に掛かっていた上着を切り裂き、その身に届く……寸前、急停止する。
二人が止めたのではなく、止められたのだ。止めたのは、二人の間の地面に刻まれた刀痕。
彼等の刀が卜伝に届くより早く、卜伝の剣が振り下ろされて地面を切り裂き、それを知った二人は咄嗟に剣を止めたのだ。
それはつまり、卜伝が二人のどちらかに攻撃対象を絞っていれば、その者は死んでいたという事。
もっともその場合、無視されたもう片方は剣を咄嗟に止める事はなく、卜伝も斬られていた公算が高いが。
しかし、彼等は二人掛かりで卜伝と戦っていたつもりはなく、一対一の戦闘だとすれば、今回は一刀斎としぐれの完敗。
無論、勝敗は時の運であり、まして相手が塚原卜伝となれば、二人が敗れたとしてもおかしくない。
だが、彼等も一流の剣客であり、万全な状態であれば敵が何者であろうとも、こうも完全な形で負ける事は有り得ない筈。
なのにこのような結果になったのは……
「迷うておるな」
卜伝はその原因を見抜く。その上で、
「無益な事だ」
そう断じて見せた。
「剣は悟道とは違う。仏道の如く、定められた正道がある訳でもなく、解脱という終着点がある訳でもない。
 道なき無限の荒野を永遠に開拓し続ける、それが剣士の生涯というものだ」
あっさりと断言する卜伝。
その意見は一刀斎やしぐれの見解とは必ずしも一致しないが、迷いを抱えた二人は咄嗟に反論できない。
「己の道が正道か迷うなど、終わりなき剣士の道行きに疲れた弱者の逃げに過ぎぬ」
そして、卜伝は二人を冷たく睨む。
「主等の如き凡百の剣客では、生涯励み続けようとも、切り拓けるのは広大な剣の野のほんの断片のみ。
 でありながら疲れて立ち止まるようでは、斬り捨てるにすら足りぬ」
言いたい事を言い放った卜伝は、ふと振り向いて「公方様か?」と呟くと、もう二人を一顧だにせずに立ち去った。

卜伝が察知したのであろう異変については二人も漠然と感じ取ってはいた。
島に満ちていた妖気のようなものの感触が、先程から微妙に変化しているのだ。
そして、卜伝の向かった東方からは、少し前までは感じなかった奇妙な気配が微かに感じられる。
誰かが島全体に影響を与えるような何かをしたのか……だが、今の二人にとってそれより大事なのは己の心。
一刀斎としぐれは、今まで歩んで来た剣の道から外れようとし、その事で迷い、迷いの中から新たな境地に到ろうとしていた。
その二人の懊悩をあっさりと否定し揶揄しててみせた卜伝。
だが、剣の競い合いで遅れを取った以上、今の二人には卜伝に反論する資格も、卜伝を追う資格もないだろう。
その資格が生まれるのは、彼等が新たな境地に辿り着いて今度こそは卜伝に勝てる見通しが付いた時のみ。
塚原卜伝という存在は、剣の道に惑っていた二人の剣士に強い刺激を与え、結果として早い脱皮を促した。
但し、脱皮した後に生まれようとしている剣の姿そのものも、卜伝の影響を受けて大きく歪められているかもしれない。
果たして、殺人剣を捨てようとする老剣士と活人剣から外れようとする女剣士が掴むのは、どんな剣の形なのか……

【にノ陸 街道/一日目/午後】

【塚原卜伝@史実】
【状態】左側頭部と喉に強い打撲
【装備】七丁念仏@シグルイ、妙法村正@史実
【所持品】支給品一式(筆なし)
【思考】
1:この兵法勝負で己の強さを示す
2:勝つためにはどんな手も使う
3:妙な気配を探ってみる
【備考】
※人別帖を見ていません。
※参加者が様々な時代から集められたらしいのを知りました。

【伊藤一刀斎@史実】
【状態】:頭部に掠り傷
【装備】:村雨@史実(鞘なし)
【所持品】:支給品一式
【思考】 :もう剣は振るわない。悟りを開くべく修行する
一:刀を決して使わない
二:新たな境地を拓き卜伝に示す

【香坂しぐれ@史上最強の弟子ケンイチ】
【状態】右手首切断(治療済み)、肩に軽傷
【装備】蒼紫の二刀小太刀の一本(鞘なし)
【所持品】自作の義手
【思考】基本:殺し合いに乗ったものを殺す
一:塚原卜伝に勝つ
二:富田勢源に対する、心配と若干の不信感
三:近藤勇に勝つ方法を探す
【備考】※登場時期は未定です。

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最終更新:2015年12月29日 11:44