アルビオン空軍工廠の街ロサイスは、首都ロンディニウムの郊外に位置している。
フネの造船所や製鉄所が立ち並ぶロサイスは、元々は王立空軍の発令所でもあったが、今ではアルビオンを掌握したレコン・キスタの指令所となっている。
その赤レンガの大きな建物には、誇らしげにレコン・キスタの三色旗が翻っている。
そして、一際目立つのは、天を仰ぐばかりの巨艦であった。
全長二百メイルにも及ぶ元アルビオン空軍本国艦隊旗艦の『レキシントン』号は、これまた巨大な盤木にのせられ、改装工事が行われていた。
アルビオン皇帝のオリヴァー・クロムウェルは供のものを引き連れ、その工事の視察していた。
「なんとも大きく、頼もしい艦ではないか!このような艦を与えられたら、世界を自由にできるような、そんな気分にならんかね?艤装主任」
「…わが身には余りある光栄ですな」
気のない声でそう答えたのは、『レキシントン』の艤装主任に任じられた、サー・ヘンリー・ボーウッドであった。
彼は革命戦争の時、レコン・キスタ側の巡洋艦の艦長であった時の功績が認められ、『レキシントン』号の改装艤装主任を任される事になったのである。
そして、艤装主任はそのまま艦長へと就任するのが王立であった頃からのアルビオン空軍の伝統であった。
「見たまえ、あの新型大砲を!わたしの友人による設計でね、東方のロバ・アル・カリイエからやってきて、エルフから学んだ技術をもとに設計したこの長砲身の大砲は、なんと従来の戦列艦が装備するカノン砲のおおよそ一・五倍の射程距離を持つそうだ!」
興奮して語るクロムウェルに対してボーウッドはつまらなそうに頷く。
元々ボーウッドは心情的には、王党派であった。
しかし、軍人は政治に関与すべからずとの意思を強く持つ生粋の武人でもあったため、上官であった艦隊司令が反乱軍についたため、ボーウッドもまた仕方なくレコン・キスタ側として革命戦争に参加したのである。
軍人として、指揮系統の上位に存在するものの決定に黙って従っていたが、一個人としてクロムウェルは忌むべき王権の簒奪者としてしか見ていなかった。
「これで『ロイヤル・ソヴリン』号にかなう艦は、ハルケギニアのどこを探しても存在しないでしょうな」
ボーウッドは間違えた振りをして、艦の旧名を口にした。
クロムウェルはその皮肉に気付き微笑んだ。
「ミスタ・ボーウッド、アルビオンにはもう王権(ロイヤル・ソヴリン)は存在しないのだよ」
「そうでしたな。しかしながら、たかが結婚式の出席に新型の大砲をつんでいくとは、下品な示威行為と取られますぞ」
トリステイン王女とゲルマニア皇帝の結婚式に、国賓として初代神聖アルビオン皇帝兼貴族議会議長のクロムウェルや、神聖アルビオン共和国(アルビオンの新しい国名)の閣僚は出席する。
その際の御召艦が、このレキシントン号であった。
「ああ、きみにはこの『親善訪問』の概要を説明していなかったな」
「概要と言いますと?」
また自分の知らぬ所で決められた策略か、とボーウッドは頭が痛くなった。
クロムウェルは、そっとボーウッドに二言、三言耳打ちした。
ボーウッドは顔色を変えた。
目に見えて、青ざめて、軽蔑のまなざしでクロムウェルを見た。
「馬鹿な!そのような王道から大きく外れた行為など!」
「これも軍事行動の一環だ。ミスタ・ボーウッド、きみならその事が理解していただけると思っているのだがね」
こともなげに、クロムウェルは呟いた。
「トリステインとは、不可侵条約を結んだばかりではありませんか!今まで自ら申し出た条約を破り捨てた国はどこにもない!このアルビオンが卑劣な条約破りの国として、ハルケギニア中に恥を振りまく事になりますぞ!」
激高したボーウッドが叫んだ。
「ミスタ・ボーウッド、それ以上の政治批判は許さぬ。これは議会で決定し、余が承認したものだ。余はきみが忠実なる軍人だとばかり思っていたが、いつからきみは政治家に転向したのかね?」
「しかし…」
「確かにいままでハルケギニアの歴史上に類を見ない事だろう。しかしだからこそ誰も成し得なかった事が達成できるとは思わないかね?ハルケギニアは我々レコン・キスタと言う旗の下一つにまとまるのだ。一時的な誹りなど、エルフどもの手より聖地を取り戻せば気にならんよ」
ボーウッドがクロムウェルに詰め寄った。
「条約破りがただの誹りですまされない!ハルケギニアが一つにまとまる前に、アルビオンは各国の敵とみなされるのは目に見えている!閣下は祖国を裏切るおつもりですか!」
クロムウェルの傍らに控えた
ワルドがボーウッドの喉元に杖を突きだして制した。
「艦長、改装作業にしては些か興奮しすぎのようだな」
ワルドはそう言うと帽子のつばを指で少しあげる。
「……ふん、国を裏切る事さえいとわぬ貴殿にはわからぬ事だな」
突きつけられた杖にも動じず、ボーウッドはワルドを睨み返す。
「大丈夫だ子爵、杖を下げたまえ。ミスタ・ボーウッド、きみは引き続き艤装作業を続けたまえ」
クロムウェルがそう促すと、ボーウッドは不服そうな顔をしながらも、艤装作業を確認するためにその場を去った。
「子爵、きみは竜騎兵隊隊長としてこのレキシントン号に乗りたまえ」
「目付け、というわけですか?」
「いや、そうではない。あの男はわかりやすいほどに頑固で融通がきかない人物ではあるが、それ故に裏切る事は絶対にしない。余は単純に、スクウェアメイジであるきみの能力を買っているだけだ、きみは飛竜に乗った事はあるかね?」
「いえ、ありませぬ。しかし、私が乗りこなせぬ幻獣はこのハルケギニアには存在しないと存じます」
「流石は子爵だ、何とも頼もしい。そうだ、子爵に会わせておきたい者がおってな。少し余の執務室まで来ていただけるかな?」
ワルドは恭しく頭を垂れる。
「是非とも」
そうしてワルドはクロムウェルに連れられて、レコン・キスタ司令所にあるクロムゥエルの執務室へとやってきた。
予め執務室に通されていたのか、二十代半ばぐらいの女性がソファーでクロムウェル達が現れるのを待っていたようだ。
細く、身体にぴったりとした黒いコートを身にまとい、ワルドが知る限りでは見た事のない、奇妙ななりだった。
マントも着けず、杖も見当たらないので、メイジではないのだろうか?
「おお、ミス・シェフィールド待たせたね。我々の『支援者』は元気だったかね?」
シェフィールドと呼ばれた女性は立ち上がり、冷たい目でワルドを眺めまわし、顔を一瞬しかめた。
そして何事も無かったかの様にクロムウェルに向き直る。
「以前変わりなく。クロムウェル様によろしく伝えて欲しい、との事です。ところでそちらの方は?」
「おお、そうであった。彼はワルド子爵、ハルケギニアでも有数のスクウェアクラスのメイジであり、我々の頼もしい同志だ。ワルド君、彼女が例の新型大砲の設計をした余の有能な秘書、ミス・シェフィールドだ」
ワルドは帽子を取り、シェフィールドに一礼する。
「ほう、遠くロバ・アル・カイリエで、エルフの技術を学んだ技師と聞いていたものだから、もっと厳つい人物を想像したが…」
ワルドはシェフィールドをじっと見つめる。
何度も確認するように、特に額を隠すように伸びた彼女の艶やかな髪を眺め回す。
「私の顔になにか?」
「失礼、以前どこかで会った様な気がしてな……ニューカッスルだったかな?」
シェフィールドは首を振る。
「ニューカッスルの時、私はとある『支援者』の下へ使いにでていたのだから、卿にお会いするのは本日が初めてだと思います」
そうか、と言ってワルドは首を傾げる。
クロムウェルが軽く笑う。
「子爵はさぞかし女性にもてるのだろうな、会った数々の女性の中にミス・シェフィールドに似た方でもいたのではないかね?」
「いえ、そういう訳では…」
「ところでミス・シェフィールド、我等の『支援者』から何か良い知らせはあったかね?」
「ええ、『親善訪問』作戦が行われる地がタルブと知り、地の利を活かせる水空両用艦を二隻、とそれに付随する降下隊を二隊、閣下のために送っていただけるそうです。クロムウェル様の皇帝就任祝いも兼ねてだそうです」
クロムウェルは満面の笑みになる。
「おお、それは素晴らしい!これでこの作戦の成功も確実なものとなるな!確か両用艦と言えばガリア王国の技術だったな。すると『支援者』はガリアの者かな?」
「クロムウェル様、例の約束をお忘れなきよう……」
シェフィールドが困った表情をする。
「おっと、すまない。『支援者』の素性は詮索しない、と言うのが約束であったな。しかし、我々と同じ志を持ちながら、名乗り上げる事ができない立場とは、難儀なものだな」
シェフィールドは視線でクロムウェルに合図して、そしてワルドの方へと視線を向ける。
クロムウェルはその様子を見て、シェフィールドの言いたい事を察した。
「ああ、すまぬ子爵。少し込み入った話をするのでな、少し席を外してくれるかね」
「御意」
ワルドは帽子を深く被り直し、一礼すると、クロムウェルの執務室を出た。
(あの女…確かに今まで会った事はない。だが、遠い昔どこかで見た事がある気がするこの感覚はなんだ?)
ワルドの胸に何か詰まるような不快感が広がり、咄嗟に手で胸を抑える。
執務室から離れた廊下で立ち止まると、ワルドは壁に寄りかかり、呼吸を整え、目を瞑り、耳を澄ます。
風メイジ特有の空気の流れを読む聴覚をもって、離れた執務室に聞き耳を立てる。
執務室のドアに直接耳を当てたかの如く、クロムウェルとシェフィールドの会話がはっきりと聞こえてくる。
『クロムウェル様、先ほどの者の心は支配されていない様に見受けられましたが』
『ワルド子爵の事かね?せっかくの数少ないスクウェアメイジを、余がその心を支配してしまってはもったいないだろう。自分で物を考えられぬ木偶は、蘇らせた死者どもだけで十分だ』
『強力なメイジであるからこそ、その扱いには用心する必要があります』
『余も無条件で子爵を信用しているわけではない。彼がなぜ、魔法衛士隊隊長と言う座を捨ててまで、余に忠誠を誓うのかがまだ見えてこない。ボーウッドと違い、子爵はいつ裏切ってもおかしくないだろう。しかし、その忠誠が本物であれば、彼以上に頼もしい味方はいない』
『それを見極めるために、敢えて泳がせていると?』
『その通りだよ、ミス・シェフィールド。今度の『親善訪問』では子爵をミスタ・ボーウッドの監視下に置くつもりだ。子爵とは対極な性格をしたミスタ・ボーウッドなら、子爵の思惑に対して敏感に感じ取る事ができるだろう』
瞼を閉じたまま、ワルドは静かに鼻で笑う。
(まさか、こちらが目付けを付けられるとはな。所詮クロムウェルの言う『信頼』とは人を利用するためのものか)
シェフィールドの事が気になり、聞き耳を立ててはみたが、なんて事はない、くだらない話しかないと思ったその時、
『もしそれで子爵が我々に害を成す者だとわかれば、ミス・シェフィールドより譲り受けたこの指輪で心を支配してしまえば良い』
ワルドの瞼はぴくりと動いた。
(指輪だと?)
『死者に偽りの生を与え、又人の心を操る事ができるそのマジックアイテムは、誰でも扱える代物。くれぐれも他の者に知られぬよう、お願いいたします』
『心配はいらぬよ、ミス・シェフィールド。未だに皆は余が虚無の担い手であると信じておる。まさか余がただの平民の司教であるとは夢にも思っておらんよ』
驚愕の事実を聞いてしまったワルドは執務室から遠く離れた廊下で目を見開いていた。
「ふっ……ははは!まさか『虚無』と呼んでいたものがただのマジックアイテムとは。心にない信仰を説く司教が、まさか虚無を語るペテン師でもあったとは、とんだ皮肉だ!」
ワルドの顔に不気味な笑みが浮かぶ。
「しかし、人の心を支配できるマジックアイテムか。もしそれが本当であれば、『虚無』の力に匹敵する事は間違いない。いや、うまく使えば『虚無』の担い手ごと操る事もできるだろう。何としてでもその指輪を手に入れねばならぬな……それがあれば、今度こそ
ルイズを……」
その頃トリステイン魔法学院、
「
ブロント?今何か言った?」
タルブの村から学院に戻ったルイズは、自室で大量に積み重なった本がそびえ立つ机に向かっていた。
キュルケ達と共に無断で授業を数日間サボってしまったため、遅れてしまった分の課題を山盛り与えられていたのだ。
それに加え、エルザがまとめ上げたと思われる、過去数百年の間に使われた詔集が一番上に乗せられていた。
「おいィ?お前らは今俺が何か言ったのを聞こえたか?」
ブロントは油布で丁寧にイージスを拭き、手入れしていた。
「聞こえておらぬのう」
イージスは数百年振りに武具としての手入れ受けて、気持ちよさそうな顔をしている。
「何か言ったのか?てか、相棒、イージスばっかりじゃなくてさ。俺様もやってくれ。潮風が身体にべた付いて気持ち悪ぃったらありゃしねえ」
壁に立てかけられデルフリンガーがうるさく鍔を鳴らして、ブロントの気を惹こうとする。
「そう?気のせいかしら……あー、それにしてもこの量、気が滅入るわ。詔も考えないといけないし」
課題の筆休めに、詔集のページを何枚かぺらぺらと捲り、目を通す。
「火に対する感謝、水に対する感謝、と各四大系統に対する感謝の辞を、詩的な言葉で韻を踏みつつ詠みあげるなんて、困ったわ。詩的なんて言われてもわたし詩人じゃないもの」
ルイズがうー、と唸りながら頭を抱えている横でデルフリンガーが何やら騒がしく喚く。
「やい、てめ、イージス。姉御の時はてめえが先だったから身を引いてやったがよ、今度の相棒は俺様が先だぜ?先輩の俺様を差し置いてチョーシに乗っているんじゃねぇぜ!」
「そちは相変わらず器が小さいのう。何が先や、後やと悩んでおると、いらぬ錆が増えるだけだと言うのに。そもそもブロントの事はそちより先に知っておるわ」
「あ?それは相棒と組む前にちらっと会っただけの話だろ?俺が言っているのは、お互いに命を預けあい、幾多の戦場を駆け巡るため、『相棒』として組んでからの話だ!」
イージスは溜め息を吐くような表情を作る。
「愚かな。無知故に、その様な瑣末な事で優位に立とうとするそちの姿、いつ見ても哀れじゃのう。すでに勝負はついておるのに」
「ああ?誰が『哀れ』だって?おい!イージスちょっと表へ出ろ!相棒!俺を…」
デルフリンガーが言い終わる前に、ルイズが立ち上がりデルフリンガーを鞘に押し込めた。
「うるさいうるさい!ったく!気が散るじゃない!剣の癖にやかましいのよ!」
ルイズは鼻息荒くデルフリンガーを紐で縛りあげ、鞘に固定した。
「もう、こいつの声を聞いていたら、詩的も何もないわ。ブロント、そこの『詔集 第一巻』を取って頂戴」
「これか?」
磨き終わったイージスを自分のベッドの上に置くと、ブロントは机の上からルイズが最近一番使っている本を取った。
「それは『始祖の祈祷書』、それじゃなくて、『詔集』と書いてある本よ」
ブロントは祈祷書を元の場所に戻すと、本の山を見つめた。
ルイズが次に良く広げている立派な装丁が施された本を取るとそれをルイズに差しだした。
「それは『不治の病と治癒のポーション』、ちゃんと題名書いてあるでしょ、ちゃんと見てから寄こしなさいよ」
ブロントは顔をしかめる。
「おまえもしかして文字が読めないと俺を馬鹿にしているんですか?」
「えっ?いや、馬鹿にしているわけじゃ…ってブロント、あんた字が読めないの?」
「俺がどうやって文盲だって証拠だよ言っとくけど俺は文盲じゃないから」
「そ、そこまで言ってないわよ」
不機嫌になり始めた自分の使い魔にルイズが狼狽する。
拗ねてしまったのか、ブロントは本を机に置いて、夢幻花の鉢植えの手入れを始めてしまった。
「そう言えば、ここはヴァナ・ディールとは違う言語体系だったのう。私もハルケギニアに初めて訪れた際は、暫し言葉に困ったわ。召喚されて数月も経たぬブロントではまだ字が読めぬのも無理ない故」
ベッドに置かれたイージスが天井を仰ぎながら、ルイズに語る。
「あれ?でも、ブロントは召喚された時からちゃんと話せていたわよ、ちょっと訛りが強いけど」
「セラーヌの時もそうであったが、召喚されし使い魔は、<サモン・ゲート>を潜り抜けた時、主人と問題無く意思の疎通を図れる様、言葉が通じる様になるそうじゃな。しかし、主人との会話にかかわらない文字の方までは<サモン・ゲート>の効力が及ばぬとは、都合が良いのか悪いのか判らぬ魔法じゃのう」
「そうだったの……詔集から幾つか詠みあげて貰おうと思ったのに……」
イージスの隣に座ったルイズはちらりとブロントの方を見ると、背中をルイズに向けて甲斐甲斐しく夢幻花の世話をしていた。
が、時々手を止めてはルイズとイージスの会話に耳を傾けている様だった。
「私はタルブで幾度も婚礼を立ち会った故、多くの詔を諳んじておる。片田舎の漁村の物で構わぬのであらば、詠み上げてもよいぞ。王室のそれとは趣に差異はあるが、似たようなものじゃ」
「もしかして、その中に初代村長様のも入っているのかしら?」
「セラーヌのか?入っているも何も、婚礼において詔を詠み上げる風習を始めたのが他ならぬセラーヌじゃ。それを気にいった時の国王が少し形を変えてしきりに王室中に広めた様だがのう。しかし誰が先に成したかや本来の形式はどうである等とは些細な問題じゃ、肝心なのは頼まれた巫女が相手をどう想って詠み上げたかじゃ」
「相手をどう想った、か…うん、イージス。お願い、聞かせてくれるかしら、そのセラーヌ様の詔を」
「セラーヌと聞いて、どうやらへそ曲がりの使い魔も興味惹かれた様じゃの」
ルイズはそう言われて、ふと気付くとブロントがいつの間にかイージスを間に挟んで、隣に座っていた。
「それほどでもない」
イージスはにっこりと微笑む表情を浮かべる。
「相変わらずじゃな、ブロント。まあ良かろう。まずはセラーヌが初めてハルケギニアで詠み上げたものからじゃな。では、『この麗しき日に……」
イージスが朗々と詔を詠み上げた。
ルイズはそれを聞きながら色々と想いを馳せる。
特に婚礼の巫女をルイズに態々指名した
アンリエッタ王女の事を強く思った。
ルイズにとって、アンリエッタはどれ程大切な存在なのか、そして今アンリエッタは何を思っているのだろうか。
「姫さま……」
その頃、トリステイン王国と、ガリア王国に挟まれた内陸部に位置する、ハルケギニア随一の名勝を誇るラグドリアン湖にて。
「何かおっしゃいましたか?アニエス」
緑鮮やかな森に囲まれた絵画の様に美しく澄んだ湖水に佇むのはアンリエッタ王女と、アニエスと呼ばれた女性だった。
「いえ、殿下。私は何も……」
短く切りそろえた鮮やかな金髪に、すっきりと簡素に整えた剣士風の出で立ちのアニエスは、恭しくアンリエッタに跪く。
「そうですか、わたくしの気のせいですわ。水精霊の囁きでも聞いたのでしょう」
ラグドリアンの湖は水の精霊が住まう場所として知られている。
湖の底奥深くに水精霊たちは城と街をつくり、独自の文化と王国を築いている。
その姿を見たものは、その美しさに心をうたれ、どんな悪人でも心を入れ替えるという。
そんな水の精霊は誓約の精霊とも呼ばれ、その御許においてなされた誓約は、決して破られる事が無いと伝えられている。
アンリエッタはここで
ウェールズに永遠の愛を誓った。
「アニエス、無理を言って世話をかけますわ。わたくしの我儘に付き合わせてしまって」
「殿下、どうかお気になさらずに。しかしメイジの近衛でなく、ただの平民である私でよろしかったのでしょうか?」
アンリエッタは深い溜め息をつく。
「力あるメイジの貴族を信用する事ができない王女など、さぞかし滑稽でしょう。魔法の使えぬあなたの様な平民を御す自信しかない無能な王女など」
「殿下、悪い御冗談はやめてください。このアニエス、殿下に拾われた大恩が胸中に溢れども、その様な事は……」
アンリエッタは軽く微笑む。
「ええ、わかっておりますわ、アニエス。ですが王宮にはそう思い、王権の簒奪を試みる貴族が多数暗躍しているのもまた事実。わたくしの魔法近衛隊の中にも潜んでいるのかもしれません」
アンリエッタが物哀しそうな表情をして、湖の前で屈みこみ、水面に映る自分の顔を覗きこむ。
「何よりも、わたくしの浅慮故、裏切り者にわたくしの大切な人の命を受け渡してしまったのですから……」
「殿下……」
アンリエッタは手で軽く水面を漉いて、そして立ち上がる。
「アニエス、これからわたくしがここで口にする事は一切忘れて欲しい」
「御意」
アンリエッタはドレスの裾をつまむと、水の中に入っていった。
足首まで水につかると、アンリエッタは神妙な顔をして、高らかに宣言した。
(身勝手なわたくしをお許しくださいまし、ウェールズさま)
「トリステイン王国王女アンリエッタは水の精霊の御許で改めて誓約いたします。この身、例えゲルマニアに捧げる事になろうとも、この心は永久にウェールズさまを愛し続ける事を!」
湖の水面がそっとゆらぎ、再び静寂が湖を包む。
アニエスは驚きを隠せなかった。
この事が自分以外の誰かに知られれば、大変な事になるであろう。
もっとも、発言力を持たぬ、ただの平民であるアニエスが口外した所で、何とかうやむやにできるとアンリエッタも見越した上でアニエスを護衛として連れてきたのだろう。
アンリエッタが湖からでてくる、ぽたぽたと水が靴から滴り落ちる。
「さあ、アニエス。王宮に戻りましょう。あまり長居しては王宮の皆が騒ぎだしますわ」
「殿下、早く馬車に戻り、着替えを。大事な御身体に障ります故」
アニエスはそう言って、頭を垂れる。
アンリエッタは湖を包む森の外れに停めてある馬車に乗り込む前に、最後に湖を一瞥した。
そして誰にも聞こえぬように小さく呟いた。
「あの時、何故貴方は愛を誓ってくださらなかったの?ウェールズさま……」
その頃タルブの砂浜、
「何か言ったかい?シエスタ君」
ウェントゥスはまるで瞑想しているかの如く、白い砂浜の真ん中で目を瞑っている。
背後から近寄ったシエスタだったが、振り向かずに誰であるかウェントゥスに言い当てられ、シエスタは一瞬驚いた。
「あ、いえ!その、ミスタ・ウェントゥス、お昼がまだのようでしたので。手軽に食べられる物お持ちしました」
「悪いね。私の様な根無し草に気を遣わせてしまって」
ウェントゥスは目を開き、立ち上がると、口笛を吹いた。
すると遥か上空から、使い魔の黒鷲が砂浜に舞い降りてきた。
「ミスタ・ウェントゥス、また使い魔を通して辺りを見回っていたのですか?」
「いかにも。この子は目が良いからね、傭兵どもの動きを監視するのに、大いに役立っているよ。ところでシエスタ君、『ミスタ』はよしてくれ、私は貴族ではないのだから」
ウェントゥスは懐から干した腸詰の様なものを取り出すと、それを使い魔の黒鷲に放り投げた。
黒鷲は軽く「クアッ」と鳴くと、それを嘴で器用に受け取り、飲み込む。
「ですが、メイジの方に失礼があっては……」
「ハハハ、つまらない魔法が使えるだけさ。勝手にこの村に邪魔しているこちらが本来気を遣わなければならぬのにな。呼び捨てで構わないよ」
「さすがに呼び捨てする訳にはいけませんわ。えーと、そのウェントゥス…さん?」
橙の色眼鏡を掛けているせいか、表情が読み取りにくいが、ウェントゥスがにこりと微笑む。
「ウェントゥスさんって、メイジにしては随分と変わっているんですね。立ち振舞いは貴族みたいな気品があるのに、その、あまり他の貴族みたいに威張り散らさないと言いますか」
「何、メイジとて平民と同じ人間さ。刺されれば同じ赤い血を流し、夜になれば眠り、年が経てば老いる。そして日が真上に昇れば……」
その時ウェントゥスの腹がぐぅと鳴る。
「腹が減るものさ」
シエスタは思わず笑ってしまった。つられてウェントゥスも笑う。
シエスタは持っていた紙の包みを開くと、それをウェントゥスに差し出す。
「サラダをタコスにしたものです、どうぞ召し上がってください」
「ああ助かるよ。どんな偉大なメイジでも、空腹に打ち勝てる魔法など唱えられないのだからね。その点で言えばきみの方がメイジよりずっと偉大と言えるかな?」
ウェントゥスはそう言って、包みからタコスを手で受け取り、かぶりつく。
焼いたトウモロコシの生地がパリリ、と小気味良い音を響かせる。
シャキシャキと立った細切れの野菜が零れそうになる。
ゴロゴロとした海の幸に絡むアップルビネガーの香りがまた食欲をそそる。
手づかみで豪快に食べるウェントゥスだが、やはりどこか気品が漂い、絵になるとシエスタは感じ取り、思わずその食べっぷりに見とれる。
「とてもおいしかったよ。やはりこの村の料理は絶品だな」
すっかりタコスを平らげてしまったウェントゥスは満足そうな顔をする。
「気に入って頂けたようで、よかったですわ」
「さて、一休みもした所で、また少し見回りをするか」
ウェントゥスは羽を休めていた黒鷲の頭を軽く撫でると、黒鷲は頷き、また大空へと飛び上がった。
紙の包みを丁寧に折りたたんでいたシエスタがウェントゥスになんとなく聞いてみた。
「あれから何かわかりました?集められている傭兵たちが何をするか」
ウェントゥスは突然、真剣な表情になる。
「いや、ここ数日は目立った動きは無いな。二千人程の傭兵どもが今ラ・ロシェールに留まっているようだが、何か事を起こす様子もない」
「王宮の方はこの事を御存じなのでしょうか?」
「匿名でだが、何度か知らせている。流石に今は知るべき者に知れているだろう。王宮の方も特に動きを見せていないから、危惧するような問題では無いのかもしれないな。だが用心する事には越したことがないな」
「……ウェントゥスさんはなぜそこまでして、この村の事を気にかけてくれるのですか?」
「ん?なぜ、と言われてもな……最初はとある私の大切な者の力になりたくて、成り行き上でここに辿りついてな。そして、偶然が重なるものなのか、ここが我が友に縁がある地と知り、少し興味を持ったと言うのもあるな」
「友、ってブロントさんの事ですか?」
「そうとも、我が友であり、もっとも憧れている人物さ。そして彼には返しても返しきれぬ恩がある。その彼の姉が治めたと言うこの地に何かがあっては、私は友に顔向けできんよ」
シエスタはそれを聞いて、なんだか自分の事みたいに嬉しくなった。
「やっぱりブロントさんって凄いですよね。わたしも何かあの人に憧れちゃいます。でもあの寺院でびっくりしました、まさかこの村の領主様の弟さんだっただなんて」
ウェントゥスは突如、思い出したかのように手を叩く。
「ああ、そうだシエスタ君。前から聞こうと思っていたのだが、あの寺院いざという時に、村の避難場所として使えそうかね?」
「ええ、大昔にそういう使い方もしていたそうですよ。頑丈な石造りなので、あの大きな扉を閉めてしまえば、下手な砦よりも安全だとか」
ウェントゥスは「ふむ」と答えると、その場に座り込み、目を瞑った。
使い魔と視界を共有し、トリステインを上空から見渡す。
そして空の遥か彼方に小さく浮かぶアルビオンを見つめて、小さく呟く。
「さて、どう動くか……レコン・キスタよ……」
最終更新:2009年11月09日 01:56