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法官試験 吾妻 勲」を以下のとおり復元します。
*星見司第3級試験 吾妻 勲 
“そこに答えが無くとも、僕には答えに近づく為の頭と足があります”


設問1 なぜ法をもて人を管理する必要があるかを答えなさい。

人は生きる為に社会を構築する必要性がある。
社会とは多くの人がそれぞれの個性を持ちながら、大きなシステムとして
生きる事である。そこには個人と個人、または個人と社会といった相互間で様々な軋轢や葛藤を発生させる。
人が社会を構築しなければ生きるのに大変な苦労を必要とする以上、
それは避けて通れない事だ。
個人としての得る物は得たい、しかしそれを完全に通せば隣の誰かが
怒って攻撃してくるかもしれない、また、社会全体が自分を攻撃してくる
かもしれない。そんな予測される大きな危険を前もって線引きする、それが
法の存在意義である。
法によって管理されれば、手を出してよい領域と、手を出せば制裁が加えられる領域が判別され、人は不必要な紛争を回避でき、社会は効率よく動く事が出来るのである。

設問2 未必の故意とはなにか、答えなさい。

自分の行為が特定の(主に悪い)結果に結びつく事を推測しつつも、
『推測が的中しない事に期待して』、
その結果に到達しない為の努力を怠る事。
なお、この用語は結果論として用いられなければならない。
何故なら、未必の故意とは過程においては存在しえない為である。
過程において未必の故意、即ち結果を推測しながらその努力を怠ろうとすれば、それは故意とみなされなければならないからである。
即ち、結果から省みて、『推測が的中しない事に期待』していた事を証明でき、またその期待を誘発する要因があった場合にのみ適応され得るものである。

設問3 殺人を犯したのに死刑ではなく懲役刑になることが多いのはなぜか、答えなさい。

殺人とは怨恨等の激しい感情の果てに起こるケースが多く、特定の人間を殺害すれば犯人にとってこれ以上犯行を重ねる理由が無い。その為、更生の可能性が高いからである。また、突発的な事態による殺人のケースもあり、この事態は情状酌量を与える余地が少なからずある事も考えられる。
また、経済的な理由から発生した殺人にしても、犯人は経済的な充足さえあれば殺人に及ばなかった事が考えられる。
いずれのケースにしても、犯人が更生不可能なほど殺人に対して常習性を持っているような人物で無い限りにおいて、死刑の適用はなされないのである。死刑とは更生の機会を完全に奪う刑罰であり、誤審があった場合の取り返しがつかない事も付しておく。

設問4 アイドレス世界での標準的な罰則金の額を答え、増減の仕組みを説明しなさい。

資料:アイドレス事務局からの発表
http://blog.tendice.jp/200701/article_106.htmlより
“通常は-10億の罰則ですが―”とあり、これを標準とするのは適正であると判断する。よって、標準の罰金額は-10億。
また、増減の仕組みについては、
資料:わんわん、にゃんにゃん両尚書省通達
http://blog.tendice.jp/200701/article_100.html
“名称:法官” の項を参照すると、“3等判断(罰則3億までの決定)”
とある。最軽量の罰金がこの数値であると仮定し、前述の資料
アイドレス事務局からの発表を再び引用する。
“資金-15億の制裁を課します。”
“通常は-10億の罰則ですが、(中略)重い罰則を与えます。”
以上より予測されるのは、増減値-3億を基点として、
-5、-7…
となる、-2の等差数列である。

設問5 法を厳しく適用する場合のデメリットと、法の適用を機械ではなく人間が行う意義を答えなさい。

法を厳しく適用する際のデメリットは、
法を適用する側の負担増大と、適用される側との関係悪化、それに伴う法の形骸化が考えられる。

まず、法を厳しく適用するには対象に綿密な監視が必要となり、適応する側に大きな負担を強いる事となる。対応するには増員するか、一人当たりの担当量を増やすしかない。また、適用したらしたで多量の手続きが発生する事になり、結果まともに法そのものが機能しなくなる可能性がある。
かと言って、法の適用に際して必要な手続きを軽視すれば、法の正当性が損なわれるばかりか、適用される側の不信感を招き、法そのものが無意味なものとして扱われてしまう事になる。
法とは適用される側が正当性を認める事によってのみ成り立つからである。
法の厳格な適用が法そのものを崩壊に導くのである。

法の適用を人間が行う意義とは、柔軟な適用という点がまず挙げられる。
法とはそれ自体は意志を持たない道具に過ぎない。
それを人の意志によって様々な状況に応じて使い分ける事こそが
法の本来の使い方なのである。
人の社会は杓子定規で図れない物事の連続である。
故に、法はその時々の状況を見て判断する人の手に委ねるべきである。

ここで、仮に人と判断を同じようにする機械があったとする。
しかしそれでも法は人の手によらなければならない。
人が何かを判断する時、その責任を免れる事は許されないからである。
それが他者の未来を断ずる事となれば尚更の事である。
どんなに小さな事であれ、誰かがその責を負わなければ、
その判断は直ちに意味を失墜する。
判断する者とされる者が法の下に対等の人間であるからこそ、
お互いに法の正当性を認め合う事が出来るのである。

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