三つの鎖 17 後編

24 三つの鎖 17 後編 ◆tgTIsAaCTij7 sage New! 2010/03/05(金) 08:43:49 ID:RdCiqql3
 放課後、僕は吊るしてない方の手に鞄を持ち席を立った。
 「幸一君。よかったら家まで鞄を持つよ」
 春子が声をかけてくるのを僕は無言で首を振った。寂しそうな顔をする春子。
 「幸一。夏美ちゃんが来とるで」
 耕平が僕に声をかけた。教室の出口を見ると、夏美ちゃんが扉の端からひょこっと顔だけ出してこっちを見ている。ばればれだよ。
 「ありがとう。行くよ」
 「ほなさいなら」
 「またね」
 手をひらひらさせる耕平と考えによっては不吉極まりない挨拶をする春子に背を向けて僕は夏美ちゃんに近づいた。
 「夏美ちゃん。どうしたの」
 今日は何も約束をしていない。
 「お兄さん。お願いがあります」
 僕たちは廊下を歩きながら話した。
 「明日にお父さんとお母さんが来るじゃないですか」
 そう。明日、夏美ちゃんの家族と僕とで夕食を食べる。
 「そのですね、二人に料理を作りたいのです。でも私はカレーしか作れません」
 「カレー以外のお弁当はどうしていたの」
 「オール冷凍です」
 なにそのオール家電みたいな言い方。僕は心の中だけでつっこんだ。
 「ですから何かお料理を教えてほしいのです」
 明日は洋子さんと雄太さんの要望ですき焼きにしようと決まっている。
 「すき焼きの他に何か足すのは難しいと思うよ」
 「お酒のおつまみになるのでいいです」
 お酒のおつまみか。うーん。
 靴箱で履き替えて歩きながら僕らは話した。
 「お刺身とかはどうかな?切るだけでできるよ」
 「それどうなのでしょう。手作りって感じがしないです」
 「じゃあローストビーフは?」
 「難しそうです」
 「いや、スーパーで買ってきてお皿に並べると簡単だよ」
 「お兄さん!」
 ぷりぷりと怒る夏美ちゃん。ちょっと可愛いかも。
 「ごめんごめん。でもそうだね。できるだけ簡単でお酒のおつまみになる料理、か」
 「明日牛肉はありますから、お魚か鳥とかどうですか」
 「お肉ばかりだね」
 脳裏に鳥の照り焼きが浮かぶ。僕が最初に覚えた料理。
 「鳥の照り焼きなんてどうかな。それほど難しくもないよ」
 「いいですね。それにしましょう」
 乗り気な夏美ちゃん。
 「でもお肉ばかりでいいのかな。もっと軽いサラダとかのほうがいい気がするけど」
 「大丈夫です。お父さんもお母さんもお肉は大好きです。特にお父さんはお肉フリークです。焼き肉に行くといつも家族でお肉の奪い合いになります。いつもは温厚なお父さんもお肉が絡むと人が変わります」
 夏美ちゃんと雄太さんと洋子さんの三人がお肉を奪い合う姿が脳裏に浮かぶ。
 思わず笑ってしまった。
 雄太さんほど大柄な人だとお肉を食べる量も相当なのかもしれない。
 「分かったよ。明日はすき焼きと鳥の照り焼きでいこう」
 「お願いします」
 夏美ちゃんは僕の鞄を持った。両手に鞄を持ち僕の先を歩く夏美ちゃん。その小さな背中が浮かれているのが嬉しかった。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 夏美ちゃんの作った鳥の照り焼きはまあまあおいしかった。
 一応自炊しているだけあって包丁の扱いは手慣れている。本人いわく「包丁よりもピーラーを持つ事の方が多い」らしいけど。
 味見してサムズアップすると、夏美ちゃんも笑顔でサムズアップを返してくれた。
 「残りはどうするの」
 「今日の晩ご飯のおかずにします。明日また作ります」
 作った鳥の照り焼きをお皿に移しラッピングする夏美ちゃん。
 昔の光景が脳裏に浮かぶ。キッチンで僕に包丁の持ち方から教えてくれた春子。その料理を無言で食べる梓。
 「あの、お兄さん」
 夏美ちゃんが心配そうに僕を見ている。
 「梓の事、ですよね」


25 三つの鎖 17 後編 ◆tgTIsAaCTij7 sage New! 2010/03/05(金) 08:45:34 ID:RdCiqql3
 正確には違う。
 夏美ちゃんは調理に使った道具を洗いながらぽつぽつ話した。
 今日は梓に話しかけても何も言ってくれなかったらしい。放課後もすぐに出て行って話しかけても睨まれるだけだったと。
 夏美ちゃんの話を聞きながら僕は自問した。
 梓が夏美ちゃんを階段から突き落とした事を伝えるか否か。
 「あの、お兄さん」
 夏美ちゃんが心配そうに僕を見た。
 「その腕とほっぺたは」
 それ以上何もいわない夏美ちゃん。それでも続く言葉は分かっていた。
 梓に噛み千切られた頬と外された肩に鈍い痛みが走る。唇に感触が蘇る。吐き気を催すおぞましい記憶。恐怖と嫌悪に背筋が寒くなる。
 「お兄さん!」
 夏美ちゃんの声が遠い。
 僕は深呼吸した。熱い息を吐き出す。頭が霞みかかった感覚。
 「お兄さん。顔色が真っ青です」
 僕の吊るしていない手を握る夏美ちゃん。小さな手から夏美ちゃんの体温が伝わる。ささやかなのに心強い温度。
 「歩けますか」
 大丈夫と言おうとして失敗した。自分でも思っている以上に消耗している。
 「横になった方がいいです」
 夏美ちゃんは僕の手を引っ張り歩き出した。僕は夏美ちゃんの手に引かれるままに歩いた。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 「お兄さん。大丈夫ですか」
 夏美ちゃんがコップを片手に言った。心配そうに僕を見る。
 あの後、僕は夏美ちゃんのベッドに横になっていた。
 「ありがとう。もう大丈夫だよ」
 僕は体を起こした。少し横になっただけだけど、気分は楽になった。
 夏美ちゃんからコップを受け取り口にした。アイスティー。梓の好きな飲み物。
 僕は深呼吸した。不思議と気持ちが落ち着く。
 「何でだろう」
 「え?」
 不思議そうに夏美ちゃんは僕を見た。
 「自分でもよく分からないけど、気持ちが落ち着く」
 「きっとあれです」
 夏美ちゃんは片目を閉じて人差し指を立てた。
 「そのベッドには私の匂いが染みついているからです」
 空気が固体と化すような感覚。あまりに恥ずかしいというか痛いというかいたたまれない発言に動けない。どう反応すればいいのだろう。
 夏美ちゃんは笑っている。素敵な笑顔。いや、空気に合っていない笑顔。
 「夏美ちゃん。その発言痛すぎるよ。雄太さんより恥ずかしい事を言っているよ」
 お昼の仕返し。夏美ちゃんはショックを受けたように固まった。
 「お兄さんひどいですよ!お父さんなんかと一緒にしないでください!」
 その言葉を雄太さんが耳にしたら泣くよ。
 夏美ちゃんは顔を真っ赤にして僕に抱きついた。僕の腰に細い腕が回される。
 僕の胸に顔をうずめて夏美ちゃんは呟いた。
 「おしおきです。このままでいてください」
 夏美ちゃんの柔らかい体。温かい体温が伝わる。
 頭に血が上るのが分かる。
 「でもよかったです。お兄さんが元気になってくれて」
 夏美ちゃんは僕を見上げた。真っ赤な顔。恥ずかしそうにうつむく。
 僕は固定していない腕を夏美ちゃんの背中に回した。あの時、僕に勇気をくれた小さな背中。僕を守ってくれた後ろ姿が脳裏によみがえる。
 「お兄さん。あの」
 夏美ちゃんが僕を見上げた。少し落ち込んだ表情。
 梓の事。
 「今は梓とあまり話さない方がいい」
 今話しても話は平行線なだけ。それどころか梓を余計に刺激するだけになる。
 最悪の場合、再び梓が夏美ちゃんを傷つけるかもしれない。
 僕の背中にまわされる夏美ちゃんの腕に力がこもる。
 「でも、何かしないと始まらないです」
 夏美ちゃんは僕を見上げた。夏美ちゃんの小さな手が僕の頬に触れる。梓が傷つけた頬。ガーゼにそっと触れる。
 「それにお兄さんが傷つくのも、梓がお兄さんを傷つけるのも見たくないです」


26 三つの鎖 17 後編 ◆tgTIsAaCTij7 sage New! 2010/03/05(金) 08:47:23 ID:RdCiqql3
 僕の頬に添えられた夏美ちゃんの小さな手が微かに震える。
 夏美ちゃんの目尻に涙がたまる。
 「僕はもう大丈夫。夏美ちゃんが勇気をくれたから」
 あの時、手を広げて梓から庇ってくれた夏美ちゃん。小さな背中が何よりも頼もしくて嬉しかった。
 もう逃げない。
 涙をぽろぽろ落とす夏美ちゃん。悲しそうに僕を見上げる。
 「やっぱり私のせいですよね」
 落ちる涙が僕と夏美ちゃんを濡らす。
 「違う」
 僕は否定した。もし僕と夏美ちゃんの関係がなくても、いつかは破綻していた。歪な関係は長くは続かない。
 夏美ちゃんの頬に涙がとめどなく伝わる。
 「お兄さん。別れましょう」
 言葉の意味を理解するのに少し時間がかかった。恐怖に鳥肌が立つ。
 まさか。夏美ちゃんは知っているのか。
 僕と春子の事を。
 「これ以上お兄さんが傷つくのを見たくありません。梓がお兄さんを傷つけるのも見たくないです」
 夏美ちゃんはうつむいて僕の胸に額をつけた。
 「今は私と一緒にいない方がいいです。梓との関係の修復に専念した方がいいです」
 僕の背中に夏美ちゃんの腕が回される。
 別れるという言葉とは裏腹に、離さないというかのように抱きついてくる。
 「お兄さんと梓の関係が良くなって、その時お兄さんがまだ私の事を好きって思ってくださるのなら」
 背中に回される腕に力がこもる。ささやかな力。それでも僕はこの腕を振り払う事は出来ない。
 「私は嬉しいです。きっと嬉しくて泣いちゃいます」
 夏美ちゃんは顔を上げた。涙でぐちゃぐちゃの顔で精いっぱいの笑顔を向けてくる。
 私は大丈夫だと言うように。
 「嫌だ」
 僕は夏美ちゃんを片手で抱きしめた。吊るした腕がもどかしい。
 夏美ちゃんを離したくない。傍にいたい。いて欲しい。
 「別れたくない。好きだ。夏美ちゃんが好きだ」
 「私もです。お兄さんが好きです。傍にいたいです。傍にいて欲しいです。でも、そのせいでお兄さんが傷つくのは嫌です」
 夏美ちゃんは僕の胸に顔をうずめて震えた。
 「私何もできません。お兄さんを守ることもできませんし、お兄さんの怪我の治療もできませんし、料理はカレーしかできません。本当に足手まといです。それなのに独占欲は一人前です。お兄さんを一人占めにしたいです」
 僕の背中にまわされた夏美ちゃんの腕に力がこもる。
 「最初はそれでもいいと思っていました。付き合っていく中でお兄さんにつり合える女になれたらいいと思っていました。でも、そんな時間は無いです」
 夏美ちゃんは腕をほどいた。一歩下がって僕を見上げる。
 「私がお兄さんを守る方法は別れるしかないです」
 違う。違うんだ。
 全部僕の力不足だ。梓の事も春子の事も。僕がふがいないから、梓を説得できず、春子には脅迫される。
 夏美ちゃんは悪くない。
 僕は心の中で絶叫した。何もかもぶちまけたかった。自分の身に起きている事を全て打ち明けてしまいたかった。
 「今すぐにとは言いません。明日はお父さんとお母さんも来ますし」
 夏美ちゃんはにっこりと笑った。私は大丈夫と主張するように。
 「でも、梓がお兄さんを傷つけるばかりなら」
 僕を見つめる夏美ちゃんの瞳。強い意志を感じさせる綺麗な瞳。
 「私、お兄さんをふっちゃいます」
 夏美ちゃんははっきりと言った。声は微塵も震えていなかった。
 胸に強烈な罪悪感と羞恥心がわきあがる。
 非力なのは夏美ちゃんではなくて僕だ。春子に脅迫されるままに従い、梓には一方的に怪我をさせられて、夏美ちゃんに害が及ぶかもしれないのに夏美ちゃんの傍を離れられない。
 夏美ちゃんは違う。僕と別れてでも僕を守ろうとしている。
 僕は守っていない。守られているだけ。
 「今日はもう帰ってください」
 うつむいて夏美ちゃんはそう言った。
 僕はかける言葉が無かった。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 夏美ちゃんは鞄を持って玄関まで見送ってくれた。
 マンションの夏美ちゃんの部屋のドアの外で夏美ちゃんは僕を見上げた。
 「お兄さん」
 鞄を渡しながら夏美ちゃんは僕を見た。


27 三つの鎖 17 後編 ◆tgTIsAaCTij7 sage New! 2010/03/05(金) 08:48:29 ID:RdCiqql3
 「明日の事を梓は知っていますか」
 僕は何も言えなかった。まだ伝えていない。
 色々あったのもある。それでも結局は伝える事が出来なかった。
 夏美ちゃんが別れると言うのも仕方がないほど情けなさ。
 「伝えると梓が、その、暴れそうだったら、明日は来なくていいです」
 そう言って夏美ちゃんはそっぽを向いた。
 「私がちゃんとお料理してお父さんとお母さんに御馳走します」
 「行くよ」
 僕は夏美ちゃんの頬に触れた。夏美ちゃんは無言で僕を見た。
 「鳥の照り焼きだけだと物足りないよ」
 「すき焼きもします。おいしいお肉をたくさん食べます」
 「鍋奉行がいないとだめなんでしょ」
 「…失敗した時はカレーにします」
 脳裏にカレーを食べる夏美ちゃんと洋子さんと雄太さんの姿が脳裏に浮かぶ。
 あまりにリアル過ぎて笑えなかった。
 「心配してくれてありがとう。だけど、夏美ちゃんの傍にいたい。僕は夏美ちゃんの事を好きだから」
 夏美ちゃんの頬が微かに赤くなる。
 「だから」
 それ以上の言葉は紡げなかった。
 夏美ちゃんの唇が僕の唇をふさいだ。温かくて柔らかい感触。
 唇を離した夏美ちゃんはうつむいた。どんな表情をしているのかよく分からない。
 「それ以上恥ずかしい事言わないでください。頭が爆発しちゃいそうです」
 夏美ちゃんは消え入るような声で言った。
 「無茶だけはしないでください」
 そう言って夏美ちゃんはドアを閉めた。
 僕は立ち尽くした。
 唇をなぞる。夏美ちゃんの唇の感触と温もりが残っていた。


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最終更新:2010年03月07日 20:53
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