536
三つの鎖 20 ◆tgTIsAaCTij7 sage New! 2010/06/04(金) 21:28:00 ID:NH/5rjcn
三つの鎖 20
味噌汁を一口味見する。悪くない出来だ。
気がつけばこの家のキッチンも随分慣れたと感じる。最初は使い慣れた調味料が無くて四苦八苦したけど、今は自宅のキッチン並みに調味料はそろっている。
火を止めて蓋をする。もう朝食はできている。
僕は夏美ちゃんの家に泊まった。夏美ちゃんと洋子さんの二人が心配だった。
一泊したところで何かできるわけではない。僕にできる事は、精々朝ごはんを作るぐらい。
手を洗っている最中にリビングのドアが開く音がした。
「お兄さん?」
夏美ちゃんは驚いたように僕を見た。
「おはよう」
「おはようございます」
僕の挨拶に夏美ちゃんはぼんやりと返してくれた。
「昨日のこと覚えている?」
夏美ちゃんは考えるようにうつむいた。やああって顔を上げる。
「思い出しました。私、寝ちゃったんですね」
昨日、夏美ちゃんは泣き疲れたように寝てしまった。
「お兄さんはどこで寝たのですか?」
「ソファーを借りたよ」
夏美ちゃんが申し訳なさそうな顔をした。
「いいよ。僕こそ勝手に泊まってごめん」
「いえ。うれしいです」
そう言ってほほ笑む夏美ちゃん。微かに腫れぼったい瞼が痛々しい。
「朝食を作っておいたから、洋子さんと食べてね」
「ありがとうございます」
夏美ちゃんがそういった時、奥から物音がした。
ついさっき夏美ちゃんが入ってきたリビングのドアの奥から。扉を乱暴に開け閉めしたような音。
「お母さん?」
夏美ちゃんはリビングを出た。僕も後を追う。
洋子さんの部屋は少し荒れていた。洋服入れの扉が開けっぱなしになっている。
ベッドの上には誰もいない。
物音が後ろからした。ドアが乱暴に開けられる音。
「お母さん?私の部屋にいるの?」
夏美ちゃんの部屋から物音がする。
部屋に入ると、洋子さんがいた。何かに憑かれたように洋服入れや物入れのドアを開け、中を確認している。
「お母さん?」
洋子さんは返事をせず、僕たちを押しのけて部屋から出て行った。
追うと、洋子さんはリビングに入ってベランダに出た。周りを確認してすぐに戻る。次に洋子さんはキッチンに入って周りを見回した。そして力尽きたようにへたり込んだ。
僕と夏美ちゃんは顔を見合わせ、洋子さんに駆け寄った。
「お母さん?どうしたの?」
洋子さんは虚ろな瞳で夏美ちゃんを見上げた。
「雄太は…どこ」
呆然とつぶやく洋子さん。焦点の合っていない虚ろな瞳。
「どこなの…雄太がいないよ」
洋子さんの瞳から涙が溢れる。頬をつたい、キッチンのフローリングの上に涙が落ちる。
「…どこ?…どこなの…?」
夏美ちゃんは何かに耐えるように唇をかみしめ、膝をついて洋子さんを抱きしめた。
震える小さな背中。僕は立ち尽くすしかなかった。
「お兄さん」
僕に背を向けたまま夏美ちゃんは言った。
「今日は学校をお休みします。申し訳ないですけど、私のクラスの先生に伝えておいてくれませんか」
夏美ちゃんの声は震えていた。
僕は夏美ちゃんの傍にいたかった。でも今はこの場を去らないといけない。夏美ちゃんがそれを望んでいるから。今の洋子さんの姿を、誰にも見られたくないのだろう。
「分かった。僕はいったん帰るよ。何かあったら遠慮なく連絡してね」
「ありがとうございます」
僕は夏美ちゃんに背を向けリビングを出た。
微かに夏美ちゃんの嗚咽が聞こえた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
537 三つの鎖 20 ◆tgTIsAaCTij7 sage New! 2010/06/04(金) 21:28:33 ID:NH/5rjcn
まだ朝もはやい。誰もいない。そんな中、僕はゆっくりと歩いた。
家に帰るのが億劫だった。頭のどこかで梓の事を疑っている自分がいる。
そんな事は無いと分かっている。梓が雄太さんを殺す必要などどこにもない。もし夏美ちゃんに害意を持つなら、真っ先に夏美ちゃんを狙うはずだ。そもそも梓と雄太さんに面識はない。
その一方で、僕が知る限り素手で四人も殺傷できる人物の筆頭に梓が上がるのも確かだ。特にオリンピック候補にもなった警察官を素手でたおすことの出来る者など、梓以外に思いつかなかった。
考え事をしているうちに家に着く。長年住んだ家の扉。ドアノブを握りゆっくりと回す。鍵は開いていない。僕は鍵を開けて家に入った。
リビングに入ると、京子さんと梓がリビングでお茶を飲んでいた。
「おかえり」
僕に気がついた京子さんが立ちあがった。微かに青白い顔。どうしたのだろう。
「夏美ちゃんの様子はどうだった?」
洋子さんの様子が脳裏に浮かぶ。京子さんの質問に僕は何も言えなかった。
「朝ごはんは食べたの?」
京子さんはそれだけで察してくれたようだ。他の事を聞いてくれた。
「まだです」
「そう。私はもう出るから、悪いけど適用に作って食べてね。お父さんはしばらく帰ってこられないって連絡があったから、戸締りだけは気をつけてね」
これだけの事件だ。父さんが帰ってこられないのは仕方がない。昔から何か事件が起こるたびになかなか帰ってこられなくなった。
「兄さん」
梓が僕を見た。
京子さんが微かに震えるのを、僕は気がついた。
「私が朝ごはんを作るわ。兄さんは着替えて。昨日からずっと同じ服でしょ」
梓の言葉に咄嗟に返せなかった。
「ありがとう。そうするよ」
僕の声が震えていないか気にかかった。
「私もう出るから、二人とも気をつけてね」
そう言って京子さんは鞄に手を伸ばした。
「玄関まで送ります」
僕は京子さんの鞄を手にした。
玄関で靴をはいた京子さんに鞄を渡した。
「あちがとう」
京子さんは微笑んだ。
違和感を感じる。何といえばいいのか、京子さんがいつもらしくない。お仕事で疲れているのだろうか。
「京子さん。どうしたのですか」
京子さんは不思議そうに僕を見た。いつも通りの京子さん。
僕の気のせいだろうか。
「私は大丈夫よ。行ってくるわ」
「はい。お気をつけて」
そう言って京子さんは家を出た。
僕は部屋に戻って着替えてからリビングに入った。
お魚を焼くいい匂いがする。
「もうちょっと待ってね。すぐ出来るから」
梓の声がキッチンから聞こえる。
その声に胸がざわつく。脳裏に浮かぶ夏美ちゃんとご両親の姿を必死に追いだした。
やがて梓は温かそうな料理をお盆に載せやってきた。
「お待たせ」
梓はそう言って食器を食卓に並べた。味噌汁にご飯、魚の塩焼きにほうれん草の煮つけ。簡単だけど丁寧に作られた料理。
「いただきます」
料理に箸をつける。梓の料理は相変わらず僕よりはるかにおいしい。丁寧に調理されている。それなのに食欲はわかなかった。
僕は無言で食べた。梓も何も言わない。いつも通りの静かな食卓。それなのに、何かが違う。
食べ終えた僕を梓は無言で見つめ続けた。
「兄さん」
僕を呼ぶ梓の声。いつも通りの梓の声なのに、胸がざわつく。
「夏美はどうしているの」
「分かっているだろ」
声が荒れているのが自分でも分かる。
「お父さんが亡くなったんだよ。元気なはずがない」
梓は気まずそうに視線を逸らした。
「ごめん」
素直な梓に調子が狂う。
そこで僕は気がついた。無意識のうちに梓を犯人だと決めかかっている。
「僕こそごめん。梓に八つ当たりしても仕方ないのに」
梓が犯人のはず無いのに。僕も疲れているのかもしれない。
538 三つの鎖 20 ◆tgTIsAaCTij7 sage New! 2010/06/04(金) 21:29:18 ID:NH/5rjcn
「夏美ちゃんが今日は休むって。先生に伝えてもらっていいかな」
「分かったわ。伝えておく」
梓はほっとしたように顔を上げた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
梓と二人で朝の道路を歩く。
微妙な距離。他人ほど遠くなく、兄妹ほど近くない。
触れるか触れない。そんな距離。
梓との距離の取り方が分からない。ずっと一緒にいた妹なのに。
何か言おうとしても、何を言えばいいか分からない。
結局何も話せないまま靴箱で別れた。
教室に入ると耕平が僕を見た。
「おはよ」
耕平の挨拶に手を挙げて答えた。
聞きたい事があるのだと思うけど、耕平は何も聞いてこない。今の僕にはそれがありがたい。
チャイムが直前に春子が入ってきた。少し眠たそうな表情。今日は生徒会でもあったのだろうか。
春子を目が合う。頬を微かに染めて、春子は眼を逸らした。
僕はため息をついた。色々ありすぎて頭が爆発しそうだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
お昼休みのチャイムが鳴る。
僕はお弁当取り出して耕平に近づいた。
「今日は学食やけど、ええか?」
「いいよ」
そんな事を話していると、春子の視線に気がついた。
憂いを含んだ切なそうな視線。目が合うと恥ずかしそうに春子は視線を逸らした。
「ん?村田も一緒に来るん?」
「いいよ。私、用事があるから」
耕平の誘いを春子はそっけなく断った。
背を向けて教室を出ていく春子。その背中が小さく感じた。
「幸一。村田と何かあったんか?なんか普段通りやないで」
あったと言えばあった。脅迫をもうやめると言ってくれた春子。その意味では僕達の関係は良くなったはず。
さっきの春子の視線が脳裏に浮かぶ。憂いを含んだ切なそうな瞳。
その視線の持つ意味を僕は知っていた。梓や夏美ちゃんが僕を見る時と同じ視線だった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
放課後、僕はいったん家に帰って父さんの着替えを紙袋に詰めて警察署に向かった。結局、学校で春子と話す事は無かった。
大勢の人が慌ただしく動き回っている。受付で父を呼んでもらった僕はそんな光景をぼんやりと見ていた。
警察に来ると嫌でも雄太さんの事を思い出してしまう。ニュースや新聞で見る限り、捜査に進展は無かった。
この事が意味する事は一つ。犯人は何の証拠もなく四人を殺傷した。
信じられないことだ。素手での喧嘩でも双方に傷が残る事が多い。引っかき傷や血痕や毛髪。これらは捜査の際に重要な手掛かりになる。
これらの痕跡が無いという事は、一方的に殺傷したということだ。オリンピック候補を含む大の男四人を。
そんな事を普通の人間はできない。
「幸一」
考え事をしている僕に聞いたことのある声がかかる。父さんだ。
「父さん。着替えを持って来たよ」
「ありがとう。すまないがこっちも頼む」
父は紙袋を受け取った。僕も父が差し出した紙袋を受け取った。
「晩ご飯はどうする?」
「外で食べるから今日はいい」
つまり帰って来ないということだろうか。
僕は躊躇しつつも口を開いた。
「父さん。捜査の進展はどう」
「捜査内容を話す事は禁じられている」
父さんの答えは警察官として当然だった。それでも聞かずにはいられなかった。
誰が雄太さんを殺したのか。本当に梓は殺していないのか。
「幸一。間違っても自分で調べたりするな。犯人は必ず捕まる」
539 三つの鎖 20 ◆tgTIsAaCTij7 sage New! 2010/06/04(金) 21:30:12 ID:NH/5rjcn
僕はその言葉を信じるしかなかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
警察署に寄った後、買い物を済ませた僕は夏美ちゃんのマンションに向かった。
買い物袋を片手にぼんやりと考える。夏美ちゃんのこと、梓のこと、春子のこと。
そして洋子さんのこと。今日の朝の洋子さんの様子。明らかに精神の均衡を失いつつある姿。
僕にできる事は何もない。
それでも買い物袋を片手に夏美ちゃんのマンションに向かう。
マンションの階段を上り夏美ちゃんの部屋のドアを目にした僕は眉をひそめた。
ドアが微かに開いている。
口の中がからからになる感触。
ドアを開け乱暴に靴を脱ぎ夏美ちゃんの部屋のドアを開ける。
夏美ちゃんはそこにいた。布団をかぶり、疲れ切ったように寝ている。
僕はその場にへたり込んだ。自分でもびっくりするぐらい安心していた。
部屋をそっと出てキッチンに向かった。
その途中、玄関で乱暴に脱いだ僕の靴が目に入る。靴を整えた時、背筋に冷たいものが走った。
玄関には二足の靴があった。学校指定の靴が二足。僕の靴と夏美ちゃんの靴。
洋子さんの靴が無い。
リビングと洋子さんの部屋を探しても、洋子さんはいなかった。
僕は夏美ちゃんを揺さぶって起こした。
「洋子さんは?」
「え?」
夏美ちゃんは蒼白になった。
「いないのですか」
夏美ちゃんは両手で口元を覆い震えた。目尻に涙が浮かぶ。
突然夏美ちゃんは背を向けて走り出した。僕は夏美ちゃんの手をつかんだ。
「離してください!お母さんが!お母さんが!」
「夏美ちゃん!落ち着いて!」
僕は夏美ちゃんの両肩に手を載せた。華奢な肩は震えていた。
「洋子さんが行きそうなところ分かる?」
「わ、分からないです」
泣きそうな顔で夏美ちゃんは言った。
どうする。僕にも洋子さんが行きそうなところなんて分からない。
そうだ。マンションの外では警察官が覆面パトカーにいるはず。もしかしたら目撃しているかもしれない。
「ここにいて。すぐに戻ってくる」
夏美ちゃんの部屋を出て玄関に向かう。
靴を履いたところで玄関のドアが勝手に開いた。
洋子さんがいた。少し驚いたように僕を見る。
「幸一君?」
パタパタという足音。夏美ちゃんが駆け足でやってくる。
「お母さん!」
夏美ちゃんは洋子さんに抱きついた。そのまま体を震わせ嗚咽を漏らす。
「ひっく、ぐすっ」
洋子さんは困ったように微笑んで夏美ちゃんの背中を撫でた。
「ごめんね夏美。お母さん、もう大丈夫だから」
落ち着いた洋子さんの声。今朝の様な様子は見られない。
よかった。僕は安堵のため息を漏らした。
「お母さんどこに行ってたの」
夏美ちゃんは鼻を鳴らしながら洋子さんを見上げた。
「雄太のお墓」
洋子さんは寂しそうに微笑んだ。そして僕を見た。
「そうそう。幸一君のご家族に助けてもらった。墓苑まで私を連れて行ってくれた」
そう言って洋子さんはドアの外を見た。
「恥ずかしがらないで入ってきて」
洋子さんはドアを大きく開けた。そこには梓が立っていた。
梓は少し気まずそうにしていた。
僕は意味が分からなかった。
「外をふらふらしていた私を彼女が墓苑まで連れて行ってくれた。聞けば幸一君の妹だと。世の中狭いものだ」
洋子さんはそう言って微かに笑った。
540 三つの鎖 20 ◆tgTIsAaCTij7 sage New! 2010/06/04(金) 21:30:59 ID:NH/5rjcn
僕は笑えなかった。
「あ、あの、梓」
夏美ちゃんが恐る恐る梓に声をかけた。
「お母さんのこと、ありがとう」
梓はそっぽを向いた。
「別に。そんなに気にしないで」
そう言って梓は夏美ちゃんの手をそっと握った。
夏美ちゃんは驚いたように梓を見た。
「困ったことがあったら遠慮しないで言って。出来る事ならするから」
夏美ちゃんは呆然と梓を見つめ、突然梓に抱きついた。
「あ、あずさぁ。わたし、わたし」
泣きじゃくりながら梓に抱きつく夏美ちゃん。梓はそんな夏美ちゃんをそっと抱きしめた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
僕達は夏美ちゃんの家で夕食をしてから家を出た。夕食は梓が作った。夏美ちゃんと洋子さんはおいしいと言っていた。確かにおいしかったけど、味わえなかった。
暗くなった夜の道を僕と梓はゆっくりと歩く。
「梓」
梓は僕を見た。相変わらずの無表情。
「洋子さんのこと知ってたの」
「うんうん。でも夏美の家で写真を見たから」
嘘だ。夏美ちゃんの家の分かるところに写真は無い。アルバムはあるけど、分からないところに隠されているらしい。僕は何度も掃除したけど、見つけられなかった。
梓はなんでそんな嘘を。
そしてどこで洋子さんの顔を知ったのか。
夏美ちゃんが入院していた時しかない。あの時、夏美ちゃんの家を出た僕と梓はすぐに会った。恐らく僕をつけていたのだろう。
もしそうだとすれば、梓は雄太さんの事も知っていることになる。
嫌な想像をしてしまう。そんな事は無いはずなのに。
「兄さん?」
梓の声。気がつけば家の玄関の前に立っていた。
慌てて鍵を取り出す。腕が震えて鍵がうまく鍵穴に入らない。カチカチという音が微かに響く。
何とか鍵を開けて家に入る。
梓は何も言わずに二階に上がった。
僕はリビングの電気をつけた。まだ父さんも京子さんも帰ってきていない。
明日はゴミの日だ。今のうちにキッチンのゴミをまとめておこう。
キッチンに入り生ごみの入った袋を取り出す。僕は眉をひそめた。やけに多い。
中身を確認すると、大きなビニール袋に何かが入っている。微かにクリームの甘い匂いがする。
開けると、ケーキの箱らしい白い紙の箱が入っている。中にはぐちゃぐちゃになったケーキが入っている。いくつあったのかは分からないけど、一つや二つではない。
ラベルが貼られている。京子さんがたまに買ってくる駅前のケーキ屋。
日付は雄太さんが死んだ日。
調べると、レシートがあった。
購入した時間は啓太さんが電話をかけてきた時間の少し前。
「兄さん」
突然声をかけられる。
振り向くと梓が僕を見下ろしていた。
「何をしているの」
梓の瞳が僕を貫く。
背中に冷たいものが走る。
「そっか。明日はゴミの日だよね」
そう言って梓はゴミ袋を取り出し、中に生ごみを入れた。
「どうしたの兄さん?怖い顔をして」
梓は不思議そうに僕を見た。
僕は何も言えなかった。
「変な兄さん」
そう言って梓は僕にもたれかかった。僕の背中に梓の腕が回される。
「兄さんが何を考えているか当ててあげようか」
囁く梓の声。その声に背筋が寒くなる。
「やめろ」
僕の口から出た言葉は自分でもびっくりするぐらい硬かった。
この先を聞きたくない。聞いてはいけない。
「疑っているんでしょ。私を」
541 三つの鎖 20 ◆tgTIsAaCTij7 sage New! 2010/06/04(金) 21:33:35 ID:NH/5rjcn
それなのに梓はやめない。
「私が夏美のお父さんを殺したと思っているんでしょ」
僕は歯を食いしばった。
「梓、なのか」
梓は僕を見上げた。無表情な瞳。無言の肯定。
それが何よりも雄弁に語る。
梓が、殺したと。
「なん、で」
なんで殺した。
雄太さんは何の関係もないのに。
娘との食事を楽しみにしていたのに。
「…兄さんが悪いのよ」
震える声。梓はそう言って僕の胸に顔をうずめた。
僕に抱きつく梓。震えているのは僕なのか梓なのか分からなかった。
梓の腕をつかみ引きはがす。
「何で殺した!?」
梓は悲しそうに僕を見上げた。
「雄太さんは何の関係もない!!何で殺したんだ!?」
「うるさい!!」
梓は叫びがこだまする。
「兄さんに何が分かるの!?兄さんに私の気持ちなんて絶対に分からないわ!!」
梓は泣きながら叫んだ。
静寂がキッチンを支配する。梓は涙を流しながら僕を見つめた。
僕は唇を噛みしめた。
「梓。自首しよう」
梓は唇をかみしめて僕を見上げた。頬は涙でぬれている。
「馬鹿じゃないの」
吐き捨てるように梓は言った。
「もういいよ。もう遠慮しない。もう躊躇わない」
それだけ言って梓は背を向けた。
「兄さんの馬鹿」
梓はそう言って去って行った。
僕は立ち尽くすしかなかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
市民体育館までの道のりを僕は歩いく。市民体育館で行われる柔道の稽古に参加するため。
まだ梓に外された肩は完治していない。それなのに練習に参加するのには理由がある。
警察がどれだけの情報をつかんでいるかを知るためだ。
ニュースを見る限り、犯人の逮捕につながる情報を警察は掴んでいない。しかし、実際はどうなのかは分からない。
知り合いの警察官からそれとなく聞き出すつもりだ。
本当は梓に自首してほしい。でも、梓の様子を見るに自首してくれるようには見えない。
それに自首したところで梓が犯人という確たる証拠がないと警察は信じない。小柄な少女が大の男4人を殺傷したなど、証拠がない限り自首しても無駄だ。
警察の捜査はどれだけ進んでいるのか。もう梓が犯人と分かるまで進んでいるのか。
本来の柔道の稽古とは全く違う目的で行う事に抵抗を感じた。
久しぶりの柔道なのに、自分でも信じられないぐらい体が動いた。練習していないのにもかかわらず技は向上している。
理由は分からない。
練習の後、僕は知り合いの警察官に話しかけた。
「お疲れ様です」
「お疲れさん」
知り合いの警察官は疲れたように答えた。
「加原君すごかったな。久しぶりの練習なのに。怪我したって聞いたけど、全然そんな風に見えないよ」
僕は曖昧に頷いた。
「ところで、なんだか少しピリピリしているように感じますけど、あの事件の影響ですか」
知り合いの警察官は渋い顔でうなずいた。
「まあね。何せ2名も殉職している。犯人も捕まっていないし。重傷を負った警察官の奥さん、今回の件で倒れたらしいよ。可哀そうに」
「4人も殺傷しているのに、犯人の痕跡は無いのですか」
「僕は捜査に関わっていないから詳しくは知らないけど、関わっている連中は走り回っているよ。余所からも応援が大勢来ている。ただ、すぐに犯人が捕まる事は無いと思うよ」
知り合いの警察官はため息をついた。
「知り合いの捜査官が言っていたけど、手掛かりが全然ないらしい。目撃も遺留品も無い。普通これだけ派手な事をしたら証拠だらけですぐに捕まるはずなのにだって。多分、そのうちに情報提供に対して高額の報奨金を出すって発表が出ると思うよ」
542 三つの鎖 20 ◆tgTIsAaCTij7 sage New! 2010/06/04(金) 21:34:33 ID:NH/5rjcn
「報奨金…ですか?」
「うん。本来は指名手配の犯人逮捕につながった場合に出したりすることが多いんだけど。上層部も相当切羽詰まっているみたい。ま、報奨金があっても犯人逮捕につながるとは限らないけどね」
警察は梓につながる証拠は手に入れていないようだ。
僕は礼を言ってその場を後にした。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「春子ねーちゃん!おつかれさまー!」
「おつかれさま。気をつけて帰ってね」
元気に手を振る子供達に私も手を振った。
合気道の稽古に参加した子供達と親御さんが帰っていく。
小さな女の子が男の子の手を引いて帰っていく。恥ずかしがる男の子を笑いながら手を引く女の子。
私はその光景を立ち尽くして見つめた。
今日は合気道の稽古だった。ずっと昔から参加している。今は子供達に教えたりもしている。
正直、稽古に参加したいとは全く思わなかった。とてもそんな気分じゃなかった。それでも体を動かすと多少はすっきりした。
ふと昔の事を思い出す。梓ちゃんがふさぎこんでいた頃。梓ちゃんの手を引いてこの市民体育館に通った日々。
私はため息をついた。無性に幸一君に会いたいと思った。
幸一君の事を考えるだけで胸が締め付けられる。幸一君の事を諦めるって決めたのに、その決意が揺らぐ。諦めたくない。離したくない。そう思う私がいる。
盗撮した映像のデータは未だに破棄していない。捨てないといけないと思っても、削除できなかった。仕掛けた盗聴器もそのままだ。
私は頭を振った。帰ろう。こんな事を考えていると気が滅入るだけだ。
市民体育館の入り口に向かっていると、見知った背中が見えた。
細身だけど広い背中。
気が付いたら走っていた。
「幸一君!」
幸一君は驚いたように振り向いた。私は幸一君に思い切り抱きついた。
逞しい胸板。運動した後なのか、普段より体温が高い。
練習直後の幸一君の汗の匂い。頭がくらくらする。
「は、春子!?」
慌てた様子の幸一君の声。
「ちょ、ちょっと春子?聞いている?」
幸一君の手が私の肩をそっと押す。私はようやく我に返った。
いけない。もうこんな事をしてはいけない。幸一君に嫌われる。
「ご、ごめん。お、お姉ちゃん、その、えっと」
私は顔を上げた。幸一君の顔が近い。
顔が熱くなるのが分かる。
「びっくりしたよ」
苦笑する幸一君。どうしたのかな。顔に陰が差している気がする。何か悩み事でもあるみたい。
無理もない。夏美ちゃんのお父さんが殺されたのだから。楽しい気分でいる方が難しい。
幸一くんは鞄を手にしている。柔道の稽古に行く時に幸一君が使う鞄。中には汗だくの道着と帯があるはずだ。
そういえば、なんで幸一くんは練習に参加しているのだろう。脱臼の怪我は完治していないはずなのに。
そんな疑問も幸一くんと視線が合うと吹き飛ぶ。頬が熱い。
「あの、幸一君は今から帰るところ?」
頷く幸一君。
「だったらお姉ちゃんと帰ろう。お姉ちゃんも帰るところだから」
幸一君とこの体育館で会うのは久しぶりな気がする。
私達は夜の帰り道をゆっくりと歩いた。
微妙な距離。以前はもっと近かった。手をつないで帰った。
幸一君の手。大きくて温かそうな手。
私達は無言で歩いた。何か話したと思うのに、何も思い浮かばない。昔は何でもお話できたのに。
このままだとすぐに家に着いちゃう。焦って周りを見ると、小さな公園。自販機の頼りない明りが目に入る。
「こ、幸一君!」
どうしようもなく声が上ずっているのが嫌でも分かる。
「あ、あの、喉が渇いたし、ちょっと休憩しない?」
幸一君は不思議そうに私を見る。その眼差しに顔が熱くなる。
「い、いこ。お姉ちゃんがおごってあげるから」
私は返事を聞かずに公園に足を向けた。後ろから幸一君がついてくる気配がする。
自販機の前で私は財布を取り出した。
「こ、幸一君はお茶でいいよね」
聞かなくてもいい事を聞いてしまう。幸一君は昔から緑茶が好きだった。
小銭を取り出そうとして財布を落としてしまった。チャンリンチャリンという音とともに小銭が散らばる。
543 三つの鎖 20 ◆tgTIsAaCTij7 sage New! 2010/06/04(金) 21:35:19 ID:NH/5rjcn
「春子?大丈夫?」
幸一君はかがんだ。
「ご、ごめんね」
私もしゃがんで小銭を拾う。
硬貨を拾おうとしたら、幸一君の指と私の指が触れる。
「ひゃひっ!?」
変な声をあげて思わず指を引っ込めてしまった。
幸一君と触れたところが熱い。
「どうしたの」
幸一君が心配そうに私を見る。
顔が近い。頬が熱くなる。
「さっきからおかしいよ」
労わりと優しさに満ちた声。幸一君に対してあれだけの事をしたのに、それでも私に優しくしてくれる。
それが泣きたくなるほどうれしい。
「な、何でもないよ」
私は硬貨を自販機に入れて飲み物を購入した。
幸一君に渡す時、幸一君の指が触れる。
温かい。ずっと触れていたいぐらい。
でも幸一君の指はすぐに離れる。温もりが消える。
思わず幸一君の手を握っていた。
大きくて温かい幸一君の手。ずっと握っていたい。
「春子?」
幸一君の声に我に返る。すぐに手を離した。
「ご、ごめん。い、いこ」
私は幸一君に背を向けて歩き出した。私の馬鹿。すぐそばにベンチがあるのに。何で歩いちゃうの。
二人で並んで歩く。飲み物を口にしながら。
幸一君がお茶を飲む音がはっきりと聞こえる。
何も話さないまま歩く。
私はすごく気まずく感じているのに、幸一君は平然としている。
そういえば昔幸一君に女の子を紹介した時も、緊張して何も話せない女の子に対して幸一君は何も話さないで平然としていた。
梓ちゃんに何度も無視されたせいか、幸一君は沈黙を気まずく思わなくなっているみたいだった。
そんな事を考えていると、家が見えてきた。私と幸一君の家。
「シロ」
幸一君がシロを呼ぶけど、来ない。
「あれ?」
「あの、シロは多分、一人でお散歩していると思う。最近夜のお散歩できてないから」
「そうなんだ」
幸一君はちょっと残念そうに言った。
そこで私達の会話が途切れる。
「春子」
幸一君の声に思わず体が震える。
名前を呼ばれるだけでこんなにも切ない気持になるなんて。
「おやすみ」
そう言って去っていく幸一君の袖を思わずつかんでしまった。
「春子?」
振り向く幸一君。不思議そうに私を見る幸一君。
いけない。手を離さないと。
私と幸一君は姉と弟なのだから。
もう、普通の姉と弟に戻るって決めたのだから。
それなのに。手を離せない。
「春子?」
不思議そうに私を見る幸一君。
私は幸一君の胸に飛び込んだ。
幸一君の背中に腕をまわし抱きつく。
大きな背中。たくましい胸板。幸一君の匂い。
顔が熱い。頭が爆発しそう。
「春子?」
戸惑ったように私を見る幸一君。
だめ。諦めたくない。幸一君を誰にも渡したくない。
好き。幸一君が好き。
544 三つの鎖 20 ◆tgTIsAaCTij7 sage New! 2010/06/04(金) 21:36:43 ID:NH/5rjcn
嫌われてもいい。憎まれてもいい。軽蔑されてもいい。
それでも幸一君を離したくない。
顔を上げる。戸惑ったように私を見下ろす幸一君。
その背後に梓ちゃんがいた。
無表情だけど、瞳には激情を湛えていた。
鳥肌が立つような視線を私に向けていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
僕に抱きつく春子の表情が凍る。
今日の春子は訳が分からない。学校では僕から距離をとっていたのに、今は僕に抱きつく。
そして今は脅えたような視線を僕に向けている。
その事に悲しみを感じている自分がいる。
春子は腕をほどいて脅えたように後ずさる。
それが悲しい。春子に脅えられるのが。
震えながら僕を見る春子。
ここでようやく僕は気がついた。
春子が見ているのは僕じゃなくて、僕の背後。
「兄さん」
底冷えするような声。
振り向くと梓が立っていた。
一見無表情に見えるけど、僕には分かる。
梓が怒り狂っている事が。
「どいて」
僕を細い腕で押しのける梓。
脅えた表情で後ずさる春子に近づき、手を挙げた。
夜の冷えた空気に、頬をはる音が響いた。
何が起きたのか分からなかった。
梓が手を振り上げて、春子の頬をはった目の前の光景が理解できなかった。
春子は頬を押さえて呆然としている。
「私の兄さんに触れるな」
梓は春子を突き飛ばした。受け身も取れずに地面に転がる春子。
春子は脅えたように梓を見上げた。
「ご、ごめん。ゆ、許して」
梓の踵が春子のお腹に食い込む。
苦しそうな悲鳴を上げる春子。
僕はようやく我に返った。
「梓!やめろ!」
後ろから梓を羽交い絞めにする。梓は無言で春子の下腹部を執拗に蹴る。
涙を湛えて春子は梓を見上げた。
「げほっ、やめっ、お、お姉ちゃんは」
次の瞬間、視界が反転して僕は地面にたたきつけられた。
かろうじて受け身をとるけど、衝撃に息が詰まる。
ついさっきまで梓を羽交い絞めしていたのに、何が起きたか分からなかった。
「何がお姉ちゃんよ!」
頬を張る音。春子の悲鳴。
「私を!!騙してっ!!裏切ったくせにっ!!」
梓の踵が春子の下腹部にめり込む。
「げほっ、やめっ、いたいっ」
泣きながら悲鳴を上げる春子。
「兄さんにっ!!抱いてもらったんでしょっ!?私の兄さんにっ!!」
ぎりっという歯軋りの音がここでも聞こえた。
「言ったよね!?兄さんに近づくなって!!」
「やめろ!」
僕は梓の腕をつかんだ。
瞼の裏に火花が散る。
梓の掌底が僕の顎を打ち抜いた事に気がついたのは地面にたたきつけられた後だった。
受け身をとる暇すらない。強烈な衝撃に意識が霞む。
霞む視界の端に梓と春子が映る。
梓は春子の襟をつかみ立ち上がらせた。細い腕のどこにあんな力があるのか。
545 三つの鎖 20 ◆tgTIsAaCTij7 sage New! 2010/06/04(金) 21:38:16 ID:NH/5rjcn
泣きじゃくる春子。可哀そうなほどに脅えている。
止めたいのに、体が動かない。
「二度と私の兄さんに触らないで!!」
砂と涙に汚れた春子の頬を梓は思い切り張り飛ばした。春子の悲鳴が耳に響く。
僕の意識はそこで途絶えた。
最終更新:2010年06月06日 20:39