三つの鎖 19

400 三つの鎖 19  ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/05/26(水) 18:37:15 ID:hbwZRgYX
三つの鎖 19

 公民館での葬式にはびっくりするぐらいの人が集まった。
 国籍も様々だ。明らかに英語でない言葉まで飛び交う。
 その中で明らかに一般人とは違う空気を醸し出す者も混じっていた。
 警察官だ。柔道の稽古で見知った顔も混ざっている。
 昨日、病院で雄太さんの遺体を確認した。
 そこで洋子さんは普段の様子からは想像できないほど取り乱した。
 今も喪服を着て呆然としている。
 葬式の段取り等は雄太さんの勤めている会社が行ってくれているけど、洋子さんが悲しみに打ちひしがれているため、実質的な喪主は夏美ちゃんだった。
 雄太さんは知り合いが多いのか、会社の通訳の人と一緒に夏美ちゃんは今も挨拶に走り回っている。
 そばにいても何か手助けできるわけでもない。それでもそばにいたかった。
 夏美ちゃんを捜していると、人だかりができていた。
 近づくと怒声が聞こえてくる。
 「あんたが中村さんを殺したんだろ!?」
 穏やかではない内容。
 一人の若い男が年かさの男につかみかかっている。
 「あれだけ功績をあげた中村さんを世界中に飛ばして、それでも業績を上げる中村さんを疎んじていただろ!?」
 怒声が公民館に響く。明らかに冷静でない状態だ。
 掴みかかられた年かさの男は蒼白になって突っ立っている。
 止めようと近づくと、知っている声が響く。
 「やめてください」
 夏美ちゃんの声。
 静かな声なのにざわめきを制する不思議な声。
 夏美ちゃんはゆっくりと歩いてくる。
 背の低い、どこにでもいそうな普通の女の子。
 それなのに参列者は気圧されたように道を開けた。
 「父は海外への転勤を誇りに思っていました。多くの方と知り合う機会を得たと生前に申していました」
 夏美ちゃんの静かな声が公民館に響く。
 「父は会社を誇りに思っていました」
 年輩の男に掴みかかっていた男は恥じたように手を離した。
 不謹慎かもしれないけど、僕は夏美ちゃんに見惚れていた。
 普段は元気で少し子供っぽいところのある夏美ちゃんとは違う姿。
 大人びて落ち着いた振る舞い。凛とした声。
 夏美ちゃんと目が合う。
 お互いに微かに会釈して夏美ちゃんは会社の人と一緒に去って行った。
 そばにいたいと思ったけど、いても邪魔になるだけだと分かってしまった。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 葬式は社葬という形で行われた。
 本来なら家族で弔ってから行うのが一般的だけど、雄太さんと洋子さんのご両親はすでに他界し、親戚も少ないために雄太さんの勤めていた会社が手伝う形になった。
 また、雄太さんの海外の知り合いが大勢来るため、日本式のお葬式とは少し違う手順で行われた。
 僕は会社の人とお供え物の整理をしていた。
 海外の人、特に欧米とは違う国の人がそれぞれの風習で贈り物を持ってきたおかげですごい事になっている。しかし、いちばん多いのが現金や宝石類、小切手だった。娘さんのこれからの生活に使ってほしいとのことらしい。
 雄太さんは海外にいる時でも娘の事をよく話したのだろう。
 「あの、お兄さん」
 会社の人とお供え物の整理をしていた僕に夏美ちゃんが声をかけてきた。
 微かに青ざめた顔色以外は全くいつも通りだった。それが逆に不安を感じさせる。
 「出棺の際にお兄さんも棺を担いで欲しいのですが、お願いしてもいいですか?」
 「…僕でよければ喜んで」
 一度しか会った事がない僕が引き受けていいのか一瞬迷ったけど、夏美ちゃんが望むなら引き受けようと思った。
 「ありがとうございます。お父さんもきっと喜びます」
 凛とした夏美ちゃんの声。
 何を言えばいいのか分からない。
 「お願いします。それでは失礼します」
 そう言って夏美ちゃんは背を向けた。
 気丈だけど、どこか儚く感じる背中。
 「夏美ちゃん」
 その後ろ姿に思わず僕は声をかけていた。


401 三つの鎖 19  ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/05/26(水) 18:37:52 ID:hbwZRgYX
 夏美ちゃんは振り向いた。
 「何かあったらいつでも言って。僕にできる事なら何でもする」
 夏美ちゃんは微かにほほ笑んだ。
 「ありがとうございます」
 そう言って夏美ちゃんは去って行った。
 凛々しい後ろ姿。小さな背中なのに、不思議な頼もしさを感じる。
 突然の父の死にも気丈に振る舞い、僕の気遣いに対しても笑顔で対応する夏美ちゃん。僕よりも年下の女の子なのに、芯は僕とは比べ物にならないほど強い。
 微かに感じてしまう身勝手な寂しさ。
 夏美ちゃんの立派な姿に安心する気持ちと、頼って欲しいという相反する身勝手な気持ち。
 僕は雑念を振り払って目の前の作業に集中した。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 お葬式は滞りなく進んだ。
 火葬場に棺が運ばれる。
 洋子さんは呆然と棺に寄り添っていた。
 夏美ちゃんが洋子さんの手をとり棺から離した。
 棺が火葬炉にゆっくりと運ばれていく。
 それを見つめていた洋子さんが突然棺に走りだした。
 「やめろ!雄太を焼かないで!」
 棺を運ぶ係の人に掴みかかる洋子さん。
 洋子さんは棺にしがみついた。血走った眼で周りを睨みつける。
 尋常でない様子の洋子さんに誰も動かない。僕は意を決して洋子さんに近づいた。
 「洋子さん。落ち着いてください」
 「何が落ち着いてだ!」
 洋子さんの叫びが響き渡る。
 「もしかしたら、もしかしたら雄太は動くかもしれないじゃないか!息を吹き返すかもしれないじゃないか!それなのに焼いたらどうなる!本当に終わってしまう!」
 洋子さんは棺にしがみついてまくしたてた。
 明らかに普通でない。洋子さんの瞳には熱に浮かされたような奇妙な光を放つ。
 「ちょっと前まであれだけ元気だった!昨日電話した時の声もいつも通りだった!死んだなんて嘘だ!疲れて眠っているだけだ!」
 「落ち着いてください」
 洋子さんは僕の胸ぐらをつかんだ。
 こんな小さな手なのに、驚くほどの力で締め付ける。
 「幸一君だって電話の声を聞いただろ!?雄太が私を置いて死ぬはずない!死ぬはずがないんだ!」
 洋子さんは僕の方を向いているけど、僕を見ていない。
 焦点の合っていない瞳に背筋が寒くなる。
 僕には洋子さんの気持ちは分からない。ここまで深く人を愛した経験も、失った経験もない。
 でも、もし夏美ちゃんが亡くなったら、僕も洋子さんのように取り乱すかもしれない。
 「お母さん!」
 夏美ちゃんの凛とした声が火葬場に響く。
 「お母さん。お父さんは死んだんだよ」
 洋子さんは呆然と夏美ちゃんを見た。
 夏美ちゃんはゆっくりと近づき、洋子さんの手を握り僕の胸ぐらから離した。
 「私達がしっかりしていないと、お父さんも安心できないよ」
 しっかりとした声で洋子さんを励ます夏美ちゃん。
 洋子さんは夏美ちゃんにしがみついて泣いた。夏美ちゃんはそっと洋子さんの背中に腕をまわして抱きしめた。
 火葬場に洋子さんの泣き声が響く。
 参列者も涙ぐんでその光景を見守った。
 夏美ちゃんは火葬場の係の人を見た。その毅然とした姿に係の人は気圧されたように一歩下がる。
 「続けてください」
 その声は凛としていて、微塵も震えていなかった。
 「あの、いいのですか」
 係の人は恐る恐る尋ねた。
 「続けてください」
 夏美ちゃんは繰り返した。
 棺が火葬炉にゆっくりと入って行った。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 最後は夏美ちゃんの挨拶でお葬式は終了した。


402 三つの鎖 19  ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/05/26(水) 18:38:39 ID:hbwZRgYX
 本来なら喪主の洋子さんがするはずだが、洋子さんは火葬場から戻っても呆然としていた。
 夏美ちゃんは日本語と流暢な英語で挨拶をした。
 その凛とした姿に他の参列者は胸をうたれた様子だった。
 夏美ちゃんが英語を得意な事を僕は知らなかったけど、得意な理由は察しがついた。
 海外に住む事の多いご両親に会いに行くときに困らないようにだろう。
 お葬式が終わって後片付けを手伝っていると、会社の方が僕に声をかけてきた。
 その人から雄太さんからの遺書を渡された。
 雄太さんはもともと海外勤務が多く、中には政情が安定していなくて治安の悪い国に行くことも多かったらしい。それで多くの人にあてた遺書を残していた。
 一度しか会ったことのない僕に遺書を当てる理由は一つしか思い浮かばなかった。
 僕は礼を言って遺書を受け取り懐に入れた。
 会社の人に夏美ちゃんと洋子さんを家に送るように言われた。後は会社の方でやってくれるらしい。
 僕は礼を言って夏美ちゃんと洋子さんを探した。
 二人はすぐに見つかった。呆然とする洋子さんに寄り添う夏美ちゃん。
 「夏美ちゃん」
 声をかけると夏美ちゃんは振り返った。少し疲れた様子。
 「会社の人が後は任せてだって。家まで送るよ」
 その後、タクシーを呼んだ。
 タクシーの中で、誰もが無言だった。洋子さんは疲れ果てたように眠った。
 マンションの郵便受けには多くの手紙が入っていた。エアメールもたくさん入っていた。
 僕は洋子さんをベッドまで運んで横にして布団をかぶせた。
 部屋を出てリビングに行くと夏美ちゃんが飲み物を入れてくれた。
 「今日は本当にありがとうございました」
 夏美ちゃんはそう言ってコップを渡してくれた。
 微かに青白い顔以外はいつも通りの夏美ちゃん。それが危なっかしく感じる。
 「夏美ちゃん。台所を借りていいかな。何か作り置きしていくから」
 夏美ちゃんは遠慮したけど、僕は押し切って台所に入った。
 冷蔵庫を確認する。すき焼きのための材料が入っている。
 雄太さんの遺品となった牛肉もある。神戸牛に松坂牛などの高級な牛肉。
 冷蔵庫を確認してカレーにする事にした。ねぎなどを入れて煮込む
 料理の途中で雄太さんの手紙を読んだ。
 『幸一君がこの手紙を読んでいるという事は、残念ながら僕は死んでいるということだろう。万が一なにかの手違いで受け取った場合は以降の文章は無視しても構わない。
 夏美はまだまだ脆い所がある子だ。僕の死に嘆き悲しむだろう。幸一君がこの手紙を手にした時、夏美との関係がどうなっているかは分からない。もしかしたらすでに別れているかもしれない。
 それでも夏美の事を気にかけてあげて欲しい。支えてあげて欲しい。勝手な頼みで申し訳ないが、娘を頼む』
 短い内容。それで一度しか会ったことのない僕に出した内容は夏美ちゃんを頼むと。
 雄太さんは夏美ちゃんの事を分かっていなかった。夏美ちゃんと雄太さんは離れて暮らしていたから娘の成長に気が付いていなかったのだろう。今日の夏美ちゃんの姿は誰がどう見ても立派だった。僕の支えなど必要ないぐらいに。
 料理を続けながらぼんやりとそんなことを考えた。霜降りのお肉を煮込むとただでさえ柔らかいお肉がさらに柔らかくなってしまうので、フライパンで炒めてから鍋に入れて短時間煮込んだ。
 僕にできる事はこれぐらいしかなかった。
 料理を終えて台所を出ると、夏美ちゃんはソファーの上でぼんやりとしていた。
 「カレーを作ったから、お腹がすいたときにでも食べてね」
 夏美ちゃんはぼんやりと僕を見た。
 「今いただいてもいいですか。カレーの匂いを嗅いでいると、なんだかお腹が減ってきました」
 僕はすぐに用意した。ご飯は冷凍したものを解凍した。
 用意しながら僕はほっとした。食欲があるうちは大丈夫だ。
 「お待たせ」
 作ったばかりのカレーを夏美ちゃんはゆっくりと食べる。
 「おいしいですね」
 わずかに頬を緩ませる夏美ちゃん。
 「三大和牛が全部入っているから」
 「すごい豪華ですね」
 夏美ちゃんの表情が曇る。
 「お父さん、本当に馬鹿です。はしゃぎすぎですよ。会社の人が言っていました。お肉を手に入れるために会社の知り合いの方に頼んだらしいです。完全に公私混同ですよ」
 力なく笑う夏美ちゃん。
 僕は戸惑った。どう対応すればいいのだろう。
 「昔からそうです。お父さんは親バカでした。すごく恥ずかしかったです。お兄さん、私にも反抗期があったんですよ。小学生の時、お父さんなんか大嫌いって言った事があります」
 夏美ちゃんは懐かしそうに笑った。


403 三つの鎖 19  ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/05/26(水) 18:39:51 ID:hbwZRgYX
 「お父さん、ショックで部屋から出て来なくなっちゃいました。体調不良って言って会社もお休みしちゃいました。本当に体調不良になっちゃったみたいでした。そんな日が三日続いて、なんだか可哀そうになっちゃいました。それで私の反抗期はおしまいでした」
 夏美ちゃんはうつむいた。スプーンを握る手が微かに震える。
 「お父さんは家にいる事の方が少なかったです。お仕事で世界中を飛び回っていました。私、すごく寂しかったです。でも、お父さんは外国からいっぱいお手紙出してくれました。メールしてくれました。電話してくれました」
 僕は黙って耳を傾けた。
 夏美ちゃんは淡々と語った。
 「それにですね、家にいるとお手紙がたくさん来るんです。お父さん当てです。英語のお手紙もたくさんありました。内容はお父さんに感謝するってお手紙ばかりでした。お父さんは商社マンでしたけど、お金儲けよりも取引相手の利益を考える人でした」
 雄太さんの姿が脳裏に浮かぶ。一度しか会ったことのない人だけど、優しい人だとは感じた。
 夏美ちゃんはそんな雄太さんを見て育ったから、優しい子に育ったのかもしれない。
 「私、そんなお父さんは誇らしかったです。だから寂しいのも我慢しました。お父さんは世界中で色々な人のために頑張っているんだって。時々帰ってきてくれて一緒にカレーを食べるだけで我慢しようって思っていました。それなのに死んじゃいました」
 夏美ちゃんの目尻に光るものがたまる。
 「ひどいです。お母さんとお兄さんと四人ですき焼きしようって言ってたのに。寂しかったのも我慢してたのに」
 夏美ちゃんの目から涙がぽろぽろあふれる。
 「お父さんの嘘つき!」
 夏美ちゃんは立ち上がって叫んだ。リビングに悲痛な叫びが響く。
 「一緒にすき焼きしようって言ってたのに!帰ってくるって言ってたのに!」
 雄太さんの手紙の内容が脳裏に浮かぶ。
 分かっていないのは僕の方だ。
 「お父さんなんか大嫌いです!昔からそうです!いて欲しい時にそばにいなくて!授業参観の時も運動会の時も誕生日の時もです!寂しかったのに!」
 僕は夏美ちゃんのそばに近づいた。夏美ちゃんは僕の胸を叩いた。
 小さな手。叩かれても痛くもかゆくもないのに、胸に響く。
 「お父さんの馬鹿!なんで死んじゃったの!お父さんなんか大嫌い!」
 夏美ちゃんは小さな手で僕の胸を何度もたたいた。悲しくなるぐらい非力な力で。
 「電話もメールも手紙もいらなかった!誕生日のプレゼントもいらなかった!生きてそばにいてさえくれたらよかったのに!なんで!なんで死んじゃうの!ひどいよ!お父さんの馬鹿!」
 涙で顔を濡らしながら夏美ちゃんは小さな手で僕の胸をたたいた。
 僕は黙って夏美ちゃんのなすがままにまかせた。
 夏美ちゃんは僕の背中の腕をまわして思い切り抱きついてきた。
 僕もそっと夏美ちゃんを抱きしめた。
 体を震わせて夏美ちゃんは泣きじゃくった。お葬式の時涙を見せずに毅然としていたのに、僕の胸の中でわんわん泣いた。
 雄太さんは正しかった。僕は何も分かっていなかった。
 夏美ちゃんは泣くのを我慢していただけだった。雄太さんのお葬式でみっともない姿を見せる事が出来なかっただけ。
 雄太さんの手紙が脳裏に浮かぶ。短い文面。娘を頼む、と。
 その言葉が胸にのしかかる。僕に何ができるか分からない。
 今の僕にできるのは、そばにいる事だけ。
 僕は泣き続ける夏美ちゃんをそっと抱きしめた。夏美ちゃんは泣き続けた。

 夏美ちゃんは泣き疲れたのか僕の胸の中で眠ってしまった。
 僕は夏美ちゃんをベッドまで運んで布団をかけた。
 どうしようか。あの二人をそのままにするのは不安を感じる。
 残ろう。少なくとも明日の朝までは。
 携帯を取り出し父の電話にかけた。ワンコールでつながる。
 『幸一か。どうした』
 感情を感じさせない父の声。
 「今中村さんの家にいる。明日の朝までいていいかな」
 『迷惑をかけないようにしなさい』
 「うん」
 『もし何かあれば外の覆面パトカーに警官がいるから、遠慮なく頼りなさい』
 「分かった」
 『おやすみ』
 それで電話は切れた。
 僕はテレビをつけた。ちょうどニュースが始まっていた。ディスプレイ上にアナウンサーが無表情にニュースを読み上げていた。
 『警察官三人を含む四人が殺傷された事件は未だ解決の糸口はつかめていないようです。入院している生存者の警察官は今も意識不明です。警察はこの件に関して広く情報を求めています』
 僕はテレビを消した。


404 三つの鎖 19  ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/05/26(水) 18:40:37 ID:hbwZRgYX
 雄太さんは殺害された。
 巡回中の警察官二人も殺害された。それに加えランニングしていた非番の警察官一名も意識不明の重傷を負った。
 未だに犯人は捕まっていない。
 警察の発表によれば、事件の発覚は次のようになっていた。
 巡回中の警察官二名が不振な物音を聞き、現場に向かうと連絡があり、それ以降連絡が途絶えた。
 他の警察官が捜索したところ、人気の少ない道で雄太さんと警察官二名の遺体、そしてジャージ姿で意識不明の重傷を負った男が発見された。
 三人は首の骨を折られて死亡していた。病院に運ばれた一名も首の骨を折って重傷。
 全員が素手で殺傷されたと断定された。全員頭から投げ落とされた。
 重傷を負った男は現役の警察官で、僕も知っている人物だった。柔道の稽古で何度も見た事がある。
 この警察官は非番の夜はいつもランニングしている事は知られていて、殺人の現場もランニングコースだった。恐らく通りがかったところを犯人に殺されたのだろう。
 僕にはあの警察官が素手でたおされた事が信じられなかった。オリンピック候補選手にも挙げられた事がある強豪だ。何度か練習した事があるけど、僕とは比べ物にならないほど強い。
 その人物が素手でたおされるなんて、信じがたい事だった。

 テレビでは雄太さんの事が詳しく説明されていた。
 雄太さんは商社の世界では有名な人物だったらしい。南アフリカや中東など、一般的に治安が悪いと言われている国を駆け回っていた。仕事の関係で逮捕、誘拐されたことも何度もあるらしい。
 また、かなりの業績を上げていたらしい。取引相手だけでなく、会社にも大きな利益をもたらしたようだ。雄太さんの勤め先の成長につながる結果を出していた。
 テレビでは犯行の動機として仕事関係が挙げられていた。
 犯人像についてはまとまった見解は出ていない。
 雄太さんは大柄だ。身長は190cmを超え、体重も体格相応。殺害された警察官もそれなりの体格だったらしい。特に重傷を負わされた警察官は僕よりも大きく、重い。
 大柄な男四人を投げ飛ばし首の骨をへし折る。そのうち一人はオリンピック候補選手にも挙げられた男。そんな事が出来る人物は限られている。
 それなのに未だに犯人は捕まっていない。

 僕は心の底で恐れていた。
 この凶行を行うことのできる人物を一人だけ知っている。
 彼女なら実行できる。
 重傷を負った警察官とは何度か練習した事がある。桁違いの強さ。それでも彼女には遠く及ばない。
 動機もある。直接雄太さんに殺意を持っているわけではないけど、動機には違いない。
 梓にとって夏美ちゃんの父親というのは動機に含まれるに違いない。

 気がつけば随分と時間が立っていた。
 額を手の甲で拭うと、汗がべっとり付いていた。
 僕はため息をついた。まだ梓が犯人とは決まったわけではない。
 というよりも僕の考えすぎだろう。梓がそこまでする理由は無い。本当に夏美ちゃんが憎いなら、直接夏美ちゃんに手を出すに違いない。
 梓は冷静に見えて沸点はかなり低い。良くも悪くもすぐに怒る。それでも今回のように関係の無い人物まで殺す事はしないはず。
 それでも僕は不安をぬぐえなかった。
 ため息をついて僕は窓の外を見た。外は微かに明るくなっていた。
 娘を頼む。雄太さんの手紙が肩に重くのしかかった気がした。


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最終更新:2010年06月06日 20:23
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