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三つの鎖 23 前編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/06/28(月) 22:23:39 ID:IlOARWYJ
三つの鎖 23
朝のホームルームを告げるベルが鳴る。
幸一の席は今日も誰もおらへん。
あいつ、今日も休みかいな。
「田中?」
前の席の奴が怪訝そうに俺を見る。その手にはプリント。
こらあかん。ぼんやりしとったみたいや。
プリントを受け取り後ろに回す。
前で先生が何か説明しとるけど、頭に入って来ない。
幸一が学校を休んでもう一週間は立つ。
あいつは健康やし鍛えとる。滅多に体調を崩さへん。仮に体調を崩して欠席しても、次の日には平気な顔で登校してくる。
そんな奴が一週間も学校を休んどる。何があったんや。
学校には妹さんが連絡しとるらしい。体調不良やと。
最初こそすぐに治ると思っとったけど、ただの体調不良やないんか。
村田は何も知らへんみたいや。見舞いにも行っとらへんらしい。
これはこれでおかしな話や。あれだけ仲がええのに、見舞いの一つもせえへんなんて。
今日の昼にでも妹さんのとこに行って幸一の様子を聞いてみるか。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
コンビニのパンで膨れた腹をさすりつつ廊下を歩く。
足取りは重い。俺、幸一の妹さんが苦手やねん。
幸一の妹の梓ちゃん。綺麗な子やけど、怖い。
以前は不機嫌でちょっときついぐらいやったけど、最近は何かホンマに怖い。
この前もそうや。幸一が最後に登校した日。結局、早退したあの日。
あの日のお昼に梓ちゃんはお弁当を片手に教室に来た。せやけど幸一は早退しておらへん。
俺は村田が幸一を送った事を言えんかった。
あの時の梓ちゃんは普通やなかった。
ブラコン気味な妹が兄貴と一緒にお昼を食べに来たのとは何か違った。
うまい表現が浮かばへんけど、とにかく普通やなかった。
村田は幸一を送ってから結局そのまま戻って来んかった。
せやから村田はこの時教室におらんかった。梓ちゃんも幸一を送ったのが村田やって分かったと思う。
無表情に教室を見渡す梓ちゃんに背筋が寒くなるものを感じた。
村田は村田で様子がおかしい。最近、お昼休みになった途端に教室を出ていく。今日もそうや。
一緒に来てもらおうかと思ったのに、どこに行ったんやろ。
そんな事を考えていると梓ちゃんの教室に着いた。
中を覗くと、梓ちゃんはぼんやりと扇子で顔をあおいどる。
いつものポニーテールやなくて、艶のある髪が背中に流れとる。これはあれや、幸一が臥せっとるからやろ。
白い手には扇子。百均で売ってるような安物やなくて、一目で職人が作ったと分かる品のある一品。
そんな梓ちゃんと向かい合って夏美ちゃんがぼんやりと座っとる。
違和感を感じる光景。二人とも何か話しとるわけやない。ただ単に向き合ってぼんやりしとるだけ。
夏美ちゃんの様子もおかしい。あれだけ元気で快活な子やのに、ぼんやりとしとる。梓ちゃんの方を向いとるけど、梓ちゃんの事を見ているわけやなさそう。
あかん。変な先入観を持ったらあかん。
俺は二人に近づいた。
「梓ちゃん」
梓ちゃんは無表情に俺を見た。夏美ちゃんも振り向いた。
「こんにちは」
「何か用ですか」
うおっ。無表情に言われるとホンマに怖い。
「幸一の調子はどない」
俺はいきなり要件を切りだした。世間話してもしゃあないわ。
「熱は少し下がりました」
ふむ。一応体調は良くなってきてるんかいな。
夏美ちゃんの様子がおかしい事に気がつく。なんかそわそわしとる。
「今日の放課後にお邪魔やなかったら幸一のお見舞いに行ってええかな」
露骨に嫌な顔をする梓ちゃん。
その様子に嫌な予感がする。ホンマに幸一はただの体調不良なんか。
「幸一がこんなに休むなんて初めてやからさ、心配やねん」
梓ちゃんは渋い顔をしていたけど、やああって口を開いた。
182 三つの鎖 23 前編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/06/28(月) 22:24:53 ID:IlOARWYJ
「兄さんの体調はまだ万全ではないです。その事に配慮してくださるのでしたら、構いません」
この子が考えた事が手に取るように分かった。本当は来てほしくないけど、断ったら変に疑われそう。
ますます嫌な予感がする。幸一は無事なんか。
「ありがとう。今日の放課後にお邪魔するわ」
夏美ちゃんはそわそわしながら俺と梓ちゃんを見比べた。
その様子にピンと来た。夏美ちゃんも見舞いに行きたいんやな。
「夏美ちゃんも一緒にこうへん?」
夏美ちゃんはびっくりしたように俺を見た。眼をきょろきょろさせながら落ち着きのない様子。
どないしたんやろ。何を迷ってるんや。
梓ちゃんをちらっと見て夏美ちゃんはうつむいた。
「いえ。結構です」
言葉短く断る夏美ちゃん。その表情は暗い。
何かあったんか。気になるけど、ここで聞く事やない。
「そう。梓ちゃん、放課後に家にお邪魔するわ」
梓ちゃんは微かに頷いただけで何も言わなかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
夢だと分かっていた。
夏美ちゃんが全てを知り、泣きながら僕を責め立てる。
何で梓が雄太さんを殺したのかと。
夢だと分かっていても、心がかき乱れる。
はやく、覚めて。
夏美ちゃんが泣いている姿なんて、夢でも見たくない。
この悪夢から、覚めて。
そう願うと、誰かが僕の手を握った。
温かくて柔らかい感触。
この感触を僕は知っている。
見知った天井が目に入る。自分の部屋の天井。
右手にひんやりとして柔らかい感触。
「幸一くん。起きた?」
顔を向けると、制服姿の春子がいた。ベッドに腰をかけ、僕の手を握ってくれていた。
その事が嬉しくて恥ずかしい。
「起きられる?」
僕は春子に手伝ってもらって上半身を越した。全身が熱っぽい。体調は最悪。
春子の差し出したペットボトルを口にした。熱っぽい体にスポーツドリンクがしみこむ。おいしい。
「春子?学校は?」
「今はお昼休み。幸一くんの事が心配で走ってきたの」
そう言って春子は笑った。
柔らかい笑み。その笑顔を向けられるだけで悪夢に脅える心が落ち着く。
僕が寝込んでから、春子は毎日のようにお昼休みにお見舞いに来てくれる。
それがどれだけ嬉しくて、心強く感じるか。
「ごめん」
「そこはありがとうでいいよ」
「…ありがとう」
春子は笑って立ち上がった。机の上にあるお椀とスプーンを手に僕の隣にちょこんと座った。
「お粥作ったけど、食べられる?」
「…あまり食欲がない」
春子はスプーンでお粥を掬い、僕の口元に持って来た。
「食べないと元気になれないよ」
僕はスプーンを口にした。
思わずむせかける。熱い。
「あれ?大丈夫?」
涙目になりつつも何とか飲み込む。春子の差し出したコップを口にする。中身はぬるめの緑茶。
「熱いよ」
「ごめんね」
春子は笑いながらもう一口掬った。
「ふー、ふー」
自分の息でお粥を冷ましてから春子は僕の口元にスプーンを持って来た。
183 三つの鎖 23 前編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/06/28(月) 22:26:43 ID:IlOARWYJ
恐る恐る口にする。今度は大丈夫。
薄味で食べやすい。
「どうかな?」
「…おいしいかも」
「本当?もっと食べてね!」
春子はにっこり笑ってお粥を掬った。息でふーふー冷ましてから食べさせてくれる。
「自分で食べるよ」
「だめ。お姉ちゃんが食べさせてあげる」
笑顔でスプーンをつきつけてくる春子。
なんだかんだで全部食べる事ができた。
「ごちそうさま」
春子は立ち上がった。
「ごめんね。もう行かなきゃ」
時計を見るとあまり時間が無い。午後の授業に間に合うためには、もう出ていかないといけない。
春子が行く。そう思っただけで心細く感じてしまう。
昔から体調を崩した時、春子はいつもそばにいてくれた。
病気で心細い時、いつもそばにいてくれた。
「幸一くん」
ベッドに腰をかけている僕の目の前に春子は来て、僕を抱きしめた。
春子の胸の柔らかい感触。後頭部に春子の手が添えられる。
「寂しそうな顔をしないで。お姉ちゃん、行きづらいよ」
頬が熱くなる。
そんなに心細そうな表情をしていたのか。
「僕は大丈夫」
「うそつき」
春子はそう言ってニッコリと笑った。
「お姉ちゃん行くね。お大事に」
そう言って春子は去って行った。
部屋が広く感じる。この部屋ではいつも一人でいるのに。
すぐに眠気が襲う。僕は目を閉じた。
悪夢は見なかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
私は一階に下りてキッチンで洗い物をした。
持参したキッチンタオルで食器の水気を拭い元の場所に片づける。
梓ちゃんの用意した幸一くんのお昼ご飯に使われていた食器も洗う。幸一くんの体調を考慮した病人食。
こっちは私が食べた。捨てるのはもったいなかったし、梓ちゃんのご飯はおいしかったから。
それでも幸一くんに食べてもらいたいのは私の作ったご飯だけど。
幸一くん、すごく疲れている。
無理もない。梓ちゃんの事で、とても悩んでいるのだろう。
この家の盗聴器で入る音声は全て録音している。
それをチェックしていた時、信じられない会話が聞こえた。
幸一くんと梓ちゃんの会話。
夏美ちゃんのお父さんを殺したのは梓ちゃんだと。
私は笑った。幸一君が悩むわけだ。
梓ちゃん、本当にひどいよ。
幸一くんがこんなに困っているのに。
やっぱり、私がいないと幸一くんも梓ちゃんもだめだよね。
そんな事を考えながら私は食器を洗い、幸一君の家を出た。
急いで帰らないと。お昼休みは残り少ない。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
見舞いの品を片手にインターホンを鳴らす。
しばらくの静寂の後、ドアが開いて私服姿の梓ちゃんが顔をのぞかせた。
「こんにちわ。幸一の見舞いに来たで」
「…どうぞ」
にこりともせずに梓ちゃんは言った。あかん。めっちゃ帰りたい。
「大したものやないけど、見舞いの品。どうぞ」
184 三つの鎖 23 前編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/06/28(月) 22:28:32 ID:IlOARWYJ
「…ありがとうございます」
俺の差し出した袋を梓ちゃんは無表情に受け取った。ちなみに中身は果物の詰め合わせ。
「兄さんの部屋まで案内します」
「ありがとう」
何回も来たから知っとるんやけど。
そう思いつつも梓ちゃんを先導に二階に上がる。
梓ちゃん、目のやり場に困る服装や。
ホットパンツに肩がむき出しのキャミ。白くて細い素足が妙に艶めかしい。
梓ちゃんを知った時から、いつもこんな格好や。幸一いわく、暑がりらしい。
幸一の部屋の扉をノックする梓ちゃん。
「兄さん。耕平さんが来たわよ」
「どうぞ」
久しぶりに聞く声。聞く限りはいつも通り。
梓ちゃんは扉を開けた。
幸一はそこにいた。
ベッドの上で上半身を起こしてこっちを見ている。
「久しぶりやな。元気にしとる?」
「まあまあかな」
そう言って幸一は笑った。顔色は悪くない。
わずかに頬がこけた気がしないでもない。一週間も寝込んどったら多少痩せてもおかしくはない。
「体調悪いて聞いたけど調子はどないなん」
「まだ熱っぽいかな」
俺は幸一の額に触れた。
ふむ。推定八℃五分。そこまで高熱なわけやない。
「自分なー、心配したで。一体どないしたん?こんなに学校休むの初めてやろ」
「僕も良く分からない」
「村田も何も知らへんて言っとったから何かあったんかと思ったで」
俺は思わず振り返った。
背後からよく分からん得体のしれない何かを感じたからや。
そこには梓ちゃんがおるだけ。
相変わらずの無表情で俺らを見ている。
それだけやのに、背筋が凍えそうな威圧感を感じる。
「梓。耕平に何か飲み物をお願いしていいかな」
「…分かったわ」
梓ちゃんは静かに部屋を出た。
その後ろ姿を見送ってから俺は額を拭った。汗でべっとりや。
「幸一。自分、何かあったんか」
何も言わない幸一。梓ちゃんによく似た無表情やけど、瞳には苦悩が渦巻いているのが一目で分かる。
似ているのか似ていないのかよく分からない兄妹。
「困った事があったら何でも遠慮せずに言ってな。俺に出来る事なら何でもするで」
「…ありがとう」
言葉少ない幸一。
「夏美ちゃんの様子もおかしかったで。あれだけ元気な子が何か暗かったわ」
微かに幸一の瞳の色が揺れた気がした。
「あれだけの事があったから仕方がないかもしれへん。ただ、一緒に見舞いに行こうって言っても、梓ちゃんをちらっと見てから断ったで」
幸一の表情が曇る。分かりやすい奴や。ここは梓ちゃんと違うわ。
しかしホンマに何があったんや。梓ちゃんと夏美ちゃんが喧嘩したんか?いや、それやったら今日のお昼に一緒におるはずがない。
夏美ちゃんの事も気になる。あれだけ健気で芯の強い子が何で幸一の見舞いに来うへんねん。何か梓ちゃんの事を気にしてたみたいやし。
村田も何か関わってるんか?さっき村田の名前が出た時の梓ちゃんの様子がおかしかった。
ホンマに訳が分からへん。
そんな事を考えていると、ノックがして梓ちゃんが入ってきた。片手のお盆の上には色々ある。林檎の甘い香りがする。多分俺が持って来たやつや。
梓ちゃんはお盆を置いてスプーンと小皿を取り出した。小皿にはすりおろした林檎がはいっとる。
梓ちゃんは幸一の隣にちょこんと座った。すりおろした林檎をスプーンで掬い、幸一の口元に持ってくる梓ちゃん。
「あーん」
梓ちゃんは笑顔で言った。頬は微かに朱に染まっている。
幸一は何も言わずにスプーンを口にした。
「兄さん、おいしい?」
疲れた表情で頷く幸一。
「えーと、梓ちゃん?」
「飲み物でしたらお盆にあるのをどうぞ」
185 三つの鎖 23 前編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/06/28(月) 22:29:22 ID:IlOARWYJ
冷たい視線を俺に向ける梓ちゃん。その視線は雄弁に語っている。邪魔するな。
俺はお盆の上のコップを手にして口をつけた。スポーツドリンク。
「あーん」
梓ちゃんは幸一にすりおろしたリンゴを食べさせている。ものすごく幸せそう。
謎は全て解けたわ。
俺が見舞いに行くのを梓ちゃんが嫌がった理由も、夏美ちゃんの元気が無くて見舞いに行かない理由も、村田が弟分である幸一の見舞いに行かない理由も、全て分かったわ。
そりゃそうやろ!?実の妹がこんなに甲斐甲斐しく看病しとったらそらそうなるわ!!
見てや今の俺!完全な空気やん!
梓ちゃんが俺の見舞いを嫌がった理由は、幸一と二人の時間を邪魔されたくなかっただけやろ!
夏美ちゃんの元気が無いのも納得やわ!彼氏の妹がこうやったらそら元気も無くなるし見舞いに行きづらいに決まっとるで!
村田が見舞いに行かないのもこれが原因やろ!そら行きづらいし、梓ちゃんも歓迎せえへんわ!
疲れ切った表情で梓ちゃんに林檎を食べさせてもらっている幸一。
幸一の体調不良が長引いとるんも、梓ちゃんの看病が原因ちゃうんか?
俺は天を仰いだ。何か心配して損したわ。
「幸一。俺帰るわ」
「もう帰るのか」
幸一が俺を見る。その瞳が必死に訴えてくる。帰らないで。
梓ちゃんも俺を見る。その瞳が雄弁に語る。さっさと消えろ。
すまん、友よ。
「はよ元気になりや。いや、見送りはいらんよ。お大事に」
ベッドから降りようとする幸一を制して、俺は部屋を出た。
階段を下りて玄関で靴を履き、家を出る。
当然のごとく、梓ちゃんは見送らなかった。
最終更新:2010年06月30日 19:13