三つの鎖 22 後編

102 三つの鎖 22 後編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/06/22(火) 00:38:41 ID:8APhhmLJ
 お兄さん。
 頭に浮かぶのはその事だけ。
 お兄さんの事を考えると不安で仕方がない。
 どこか手の届かない場所に行ってしまう予感がする。
 何で昨日、引き止めなかったのだろう。
 そんな考えばかりが頭を駆け抜ける。
 私は走った。
 お兄さんの教室の扉を開ける。
 視線が私に集中する。
 中を見回すけど、見つからない。
 お兄さんが見つからない。
 「夏美ちゃん?」
 耕平さんが驚いたように私を見た。
 「どないしたん?」
 「お兄さんは!?」
 面食らったように耕平さんは後ずさった。
 「幸一は体調不良で帰ったで」
 体調不良。お兄さんが。
 「もうすぐチャイム鳴るで。教室に戻りや」
 耕平さんに促されるままに私はお兄さんのいない教室を出た。
 自分の教室に戻ると、誰もいなかった。次は移動教室だ。理科の実験。
 必要な教科書は鞄に入れたままだ。私は鞄を開けた。
 中にはお弁当が二つ入っている。私の分とお兄さんの分。
 お兄さんの事が脳裏に浮かぶ。体調不良。不安が全身を襲う。
 様子を見に行こう。私は鞄を手に教室を出た。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 顔に触れる柔らかい感触に目が覚めた。
 春子が僕の顔の汗をタオルで拭いてくれている。
 「あ。ごめんね。起きちゃった?」
 僕は上半身を起こした。ひどい体調だ。全身がだるく、熱っぽい。春子の渡してくれたスポーツドリンクを飲む。全身に水分がしみわたる感触。おいしい。
 春子の白い手が額に触れる。ほっそりとした冷たい指が心地よい。
 「全然下がってないね」
 春子の顔が近い。白い肌。柔らかそうなほっぺた。大きくて子供のように輝く瞳。綺麗なまつ毛。
 体調不良以外の理由で心臓が暴れる。
 「あれれ?ちょっと熱が上がったかも」
 にやにやする春子。分かっていてやっているな。
 「今はしっかり休んで」
 「ごめん」
 春子の指がぺちっと僕の額にぶつかる。
 「そこはありがとうでいいよ」
 「…ありがとう」
 春子はにっこり笑った。
 「幸一くんは疲れているんだよ。今はゆっくり休んでね」
 労わりと優しさに満ちた言葉なのに、胸が痛い。
 「僕は疲れてなんかいない」
 春子が憐憫の表情を浮かべる。
 脳裏に梓の事が浮かぶ。雄太さんを、夏美ちゃんのお父さんを殺した梓。未だに警察は梓に至る証拠をつかめず、梓自身も自首するつもりはない。
 涙を流す夏美ちゃん。夏美ちゃんがこの事を知ったらどうなるだろう。
 全身を悪寒が包む。熱っぽいはずなのに、鳥肌が立つ。
 夏美ちゃんが知ったら、僕は。
 「幸一くん」
 上半身を温かくて柔らかい感触に包まれる。
 春子が僕を抱きしめている。
 背中に回された腕があやすように撫でる。
 「今は何も考えなくていいよ」
 春子の囁き。
 「幸一くんは疲れているんだよ。今はゆっくり休んで」
 僕は顔を上げた。春子は微笑んだ。


103 三つの鎖 22 後編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/06/22(火) 00:39:36 ID:8APhhmLJ
 「お姉ちゃんが傍にいるから安心して」
 春子の細い指が僕の目元にのびて拭う。自分が泣いていることに僕は気がついた。
 慌てて目元をぬぐおうとすると、再び春子に抱きしめられた。
 「お姉ちゃんの前ならどれだけ泣いてもいいから」
 涙は止まらなかった。気がつけば僕は春子の背中に腕をまわして抱きしめていた。
 柔らかくて温かい。その感触に悲しくなるほど安心してしまう。
 「ひっく、ぐすっ、僕はっ、僕はっ…!」
 「お姉ちゃんがそばにいるから安心して」
 確かに僕は疲れているのかもしれない。
 立て続けに色々な事があった。
 梓の事、夏美ちゃんの事。
 どうにかしないといけないのに、どうすればいいのか分からない。
 誰かに相談できる内容でもない。
 「お姉ちゃんが傍にいるから安心して」
 春子が優しく抱きしめてくれるだけで、信じられないほど安心する。
 結局、何があっても春子は僕の姉さんで、僕は春子の弟。
 昔から春子は僕の事を可愛がってくれた。傍にいてくれた。助けてくれた。
 例え何があっても、何をされても、嫌いにはなれない。
 「駄目です!!」
 部屋に悲鳴じみた言葉が響く。
 気がつけば部屋の入口に夏美ちゃんが立っていた。
 今まで見た事ない怖い顔で僕たちを睨んでいた。
 「お兄さんから離れてください!!」
 夏美ちゃんは春子を引きはがした。春子の温もりが消える。
 たったそれだけなのに、心細さを感じてしまう。
 「ハル先輩。お兄さんと何していたのですか」
 夏美ちゃんは春子に詰め寄った。いつもの夏美ちゃんの声なのに、背筋が寒くなるほどの激情がこもっている。
 「夏美ちゃん。落ち着いて」
 春子があやすように夏美ちゃんの肩に手を載せた。夏美ちゃんはその腕を乱暴に払った。
 「幸一くんね、体調不良で寝ぼけてね、夏美ちゃんの名前を言いながら私に抱きついてきたんだよ」
 夏美ちゃんは虚を突かれたように呆然とした。
 「よっぽど心細かったんだと思うよ」
 呆然とする夏美ちゃん。やがて恥じたようにうつむいた。その頬が朱に染まる。
 「ご、ごめんなさい。私、その」
 「気にしなくていいよ。待っててね。飲み物を持ってくるから」
 春子はそう言って部屋を出て行った。
 二人だけの部屋。気まずい。
 「あの、お兄さん」
 夏美ちゃんはぎこちなく僕を見た。
 「その、体調はどうですか」
 「まあまあだよ」
 夏美ちゃんの手がためらいがちに僕の額に触れる。
 柔らかくてひんやりした感触。
 「お兄さん!すごい熱ですよ!」
 夏美ちゃんは慌てたように僕の肩を押して横にした。その上に布団をかける。
 「今はゆっくり休んでください」
 夏美ちゃんのその声に誘われるように僕は眠りに落ちた。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 お兄さんは目を閉じた。すぐに静かで疲れたような寝息が聞こえてくる。
 私、馬鹿だ。
 お兄さんはこんなに体調を崩しているのに家まで押し掛けて、疑って。
 部屋の扉が静かに開く。ハル先輩だ。手にしたお盆にはコップ。
 「幸一くんは寝ちゃったの?」
 ハル先輩は声をひそめて言った。
 私は頷いた。
 「じゃあ下に行こうよ」
 ハル先輩は滑らかな足取りで部屋を出た。足音がほとんどしない。
 お兄さんを起こさないように気を使っているんだ。


104 三つの鎖 22 後編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/06/22(火) 00:40:50 ID:8APhhmLJ
 私はとぼとぼとハル先輩のあとを付いて行った。
 自分が情けなかった。
 下のリビングで私とハル先輩は腰を落とした。
 ここに来るのは久しぶりに感じる。
 梓と喧嘩して以来、この家に来る事は無かった。
 「夏美ちゃん?」
 ハル先輩は不思議そうに私を見た。その手にはコップ。
 白くてほっそりとした指。大人の女性の手。
 「飲まないの?」
 私は慌ててコップを受け取った。
 自分の手が目に入る。ちっちゃい掌。子供みたいな手。
 私はため息をついてコップに口をつけた。ひんやりとしたスポーツドリンク。走ってきて渇いた喉に心地よくしみこむ。
 おいしいのに、おいしくない。
 私はハル先輩をちらっと見た。
 艶のある長くて綺麗な髪。白くて滑らかな肌。子供のように輝く瞳。柔らかそうな唇。コップを口にしている仕草だけなのに健康的な色気を発散している。
 私の視線に気がついたのか、ハル先輩と目が合う。
 ハル先輩はにっこりと笑った。美人なのに親しみやすい柔らかい笑み。
 「どうしたの?」
 鈴が鳴るような綺麗な声。
 どんどん自分が惨めに感じる。
 「何でもないです」
 私は視線を逸らした。
 「授業はいいのですか」
 私の馬鹿。私も同じなのに。
 「そうだね。サボりになっちゃうね」
 ハル先輩は可愛く舌を出した。私がやってもきっと似合わないけど、ハル先輩がすると愛嬌があって可愛い。
 それにハル先輩は成績優秀で有名だ。一日ぐらい授業をさぼっても何の問題もないだろうし、教師からのお咎めも無いに違いない。むしろ私の方が成績に関しては心配だ。
 「こうなったら一日さぼっちゃおうよ。後で幸一くんに消化のいいものを作ってあげようね」
 ハル先輩はのんびりと言った。
 お兄さんの事を心配せずに嫉妬ばかりしている私と、お兄さんの事を考えているハル先輩。
 私、本当に馬鹿だ。
 恋人なのに、考えている事は情けない事ばかり。
 お兄さんの負担になってばかり。
 目頭が熱くなる。視界がにじむ。
 「夏美ちゃん?」
 気遣わしげなハル先輩の声。
 「見ないでください!」
 ハル先輩にだけは、今の情けない姿を見られたくない。
 それなのに、涙がとめどなく溢れる。
 ハル先輩はハンカチを取り出して私の涙をぬぐってくれた。
 振り払おうとして止めた。そこまでしたら私は救いのない愚か者だ。
 「私でよければ相談に乗るよ」
 どう考えても私よりハル先輩の方がお兄さんにお似合いだ。私といるより、ハル先輩といた方がお兄さんにとっても幸せに違いない。
 それでも、お兄さんを諦められない。
 こんな私を好きといってくれたお兄さんと、離れたくない。
 「わたし、お兄さんが好きなんですっ」
 気がつけば私は叫んでいた。
 止めなきゃと分かっているのに、言葉が止まらない。
 「好きなのにっ、お兄さんに迷惑ばかりかけて、今日もそうです、お兄さんは体調を崩しているのに、押し掛けてっ」
 お兄さんが体調を崩しているのも、きっと私のせいだ。
 いつも私を助けてくれた。そばにいてくれた。
 それがお兄さんの負担になっていることに気が付いていなかった。
 きっとお兄さんは私の事を迷惑に思っている。
 「お兄さんが私と一緒にいてくれてるのも、お父さんが死んだのを哀れんでに決まっています!!」
 心の奥底でずっと感じていた恐怖。
 今でもお兄さんが私と一緒にいてくれるのは、私の事を好きだからじゃなくて、私を哀れんでいるだけ。
 だって、そうじゃないとお兄さんが私なんかと一緒にいてくれる理由が無い。
 「夏美ちゃん」
 ハル先輩は視線を逸らした。
 その仕草に心をかき乱される。


105 三つの鎖 22 後編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/06/22(火) 00:41:34 ID:8APhhmLJ
 ハル先輩は何か知っているのですか。
 もしかしたら、お兄さんはハル先輩に何か言ったのですか。
 「幸一くんが夏美ちゃんの事を好きなのは、夏美ちゃん自身が一番分かっているでしょ」
 「でも、こんな事ばかり考えていたら、お兄さんも嫌いになっちゃいます」
 「大丈夫だよ」
 ハル先輩は微笑んだ。
 「幸一くんは器の大きい子だよ。私の自慢の弟だよ。恋人の悩みの一つや二つ、受け止められる子だよ」
 「本当でしょうか」
 私はハル先輩を見上げた。
 「本当だよ」
 ハル先輩は優しく微笑んだ。
 「夏美ちゃんはそれだけ幸一くんの事が好きなんでしょ?もっと自信を持っていいよ。きっと幸一くんも分かってくれるよ」
 お兄さん。本当にこんな私の事を受け止めてくれるのだろうか。
 分からない。
 「幸一くんを信じてあげて」
 そうだ。信じないと。お兄さんの事を。
 信じないと。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 微かに揺さぶられる感触。
 誰かが僕の名前を呼んでいる気がする。
 目を開けると、春子がいた。
 夢心地のまま僕は上半身を起こした。
 そうだ。僕は学校を休んで寝ていた。春子と夏美ちゃんが来ていた。
 全身が熱っぽい。
 部屋を見回すと夏美ちゃんがお盆をもって居心地悪そうに立っている。
 「お昼ご飯作ったけど、食べられる?」
 お昼。もうそんな時間なのか。
 食欲は全く無い。それよりも水分が欲しい。
 春子はスポーツドリンクのペットボトルを渡してくれた。口にする。
 おいしい。体中に水分が染み渡る。
 「ちょっとだけでも食べようね」
 そう言って春子は夏美ちゃんを見た。
 夏美ちゃんは僕の隣に座り、湯気の立つ陶器の容器を手にした。
 「お粥ですけど、食べられますか?」
 心配そうに僕を見る夏美ちゃん。
 「ありがとう。いただくよ」
 無理やり笑顔を作って応じる。食欲は無いけど、少しでも食べておいた方がいい。
 夏美ちゃんはスプーンでお粥を掬って僕の口元に持ってきてくれた。
 「どうぞ」
 僕は促されるままにお粥を口にした。薄味であっさりしている。食べやすい。
 夏美ちゃんは何も言わずに食べさせてくれた。ちょっと恥ずかしいけど、腕を動かすのも億劫なほど体調が悪い。よく登校できたと自分でも不思議に思う。
 何とかお粥を全て食べる事が出来た。
 「ごちそうさま」
 春子はにこにこと笑った。夏美ちゃんはぎこちなく笑った。
 「お姉ちゃんたちはお弁当にするね」
 春子が手にしたのは梓の作った僕のお弁当。夏美ちゃんは鞄からお弁当箱を取り出した。
 「あれれ?夏美ちゃん何で二つもあるの?」
 目ざとく夏美ちゃんのお弁当が二つある事に気がつく春子。
 「えっと、その」
 しどろもどろになる夏美ちゃん。
 夏美ちゃんのお弁当が二つ。もしかして。
 「梓のぶん?」
 春子は無言で僕にデコピンした。
 「そんなわけ無いでしょ。幸一くんの鈍感」
 そうか。僕のお弁当を作ってくれたんだ。
 体調不良で熱っぽい頬なのに、さらに熱く感じる。
 「よかったらもらえるかな」
 夏美ちゃんはびっくりしたように僕を見た。


106 三つの鎖 22 後編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/06/22(火) 00:42:36 ID:8APhhmLJ
 「だ、だめです!お兄さんは体調不良じゃないですか!」
 「体調が良くなったから、お腹が減った」
 嘘だ。体調は最悪。
 でも、良くなったのは嘘じゃない。
 「…無理しないでくださいね」
 夏美ちゃんは僕の目の前でお弁当のふたを開けてくれた。
 香ばしい匂い。
 顔をひきつらせる春子。
 「どうぞ」
 恥ずかしそうにスプーンを僕の口元に持ってきてくれる夏美ちゃん。
 口にする。冷めているけどおいしい。
 「今回はお野菜たっぷりのカレーです」
 おいしいけど、やっぱりカレー。しかも冷えている。
 あまり消化にいいとは思えない。
 「どうですか?」
 「おいしいよ」
 でも、嬉しそうな夏美ちゃんを見ていると、残すわけにはいかない。
 そんなわけで何とか全部食べた。
 さすがにお腹いっぱいだった。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 「ごちそうさま」
 少し苦しそうにお腹をさするお兄さん。
 ちょっと悪い事をした気がする。
 「ゆっくり寝てください」
 お兄さんは疲れたように頷いて横になった。
 すぐに静かな寝息が聞こえてくる。
 私はお兄さんの額に触れた。
 すごい熱。
 こんなに熱があるのに、私のお弁当を食べてくれた。
 「夏美ちゃん」
 私を促すハル先輩。
 後ろ髪をひかれる思いで私は立ち上がった。
 二人で一階に下りて手早く洗い物を済ませる。しっかり水気をとり、元の場所に戻す。
 梓には内緒にしようってハル先輩と決めた。もし私達が何も言わずに家に上がったのを梓が知ると、きっと気分を害する。
 私と梓の仲は、以前より良くなった。でも、仲直りできたわけでもないと思う。
 それでも、梓はお母さんを助けてくれた。お母さんを家まで送ってくれた。
 …そういえば、なんで梓はお母さんの事を知っていたんだろう。
 写真とか見た事ないはずなのに。
 「夏美ちゃん?」
 怪訝そうに私を覗き込むハル先輩。
 「出るよ。忘れ物は無い?」
 「大丈夫です」
 忘れ物があったら梓にばれちゃう。
 私達は家を出た。
 「ハル先輩はこれからどうするのですか?」
 「授業受ける気分でもないし、家でのんびりしてるよ」
 ハル先輩は物憂げに答えた。ハル先輩の家は隣だから、すぐにお別れだ。
 「じゃあね夏美ちゃん」
 「はい。今日はありがとうございました」
 ハル先輩は何も言わずに隣の家に入って行った。
 その態度に不安が募る。
 ハル先輩は何か知っているの。
 もしかしたらお兄さんから何か言われたの。
 私が、重たいって。
 背筋が寒くなる。
 嫌だ。
 お兄さんに捨てられるのは絶対に嫌だ。
 私はため息をついて歩き出した。


107 三つの鎖 22 後編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/06/22(火) 00:44:19 ID:8APhhmLJ
 家に帰ろう。私も授業を受ける気分じゃない。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 家の階段を上り兄さんに部屋をノックする。
 返事は無いけど、微かに寝息が聞こえる。
 ドアを開けると、兄さんがいた。ベッドに横になり寝ている。
 兄さんの額に触れる。熱い。すごい熱だ。
 今日のお昼に兄さんの教室に行って、兄さんが早退した事を知った。
 教室に春子はいなかった。耕平さんは何も言わなかったけど、春子が兄さんを送って行ったのだろう。
 苛々する。
 あれだけ痛めつけたのに、まだ私の兄さんに近づくなんて。
 もっと徹底的に痛めつければよかった。
 私は部屋を見渡した。鼻につく匂い。微かに残る女の残り香。
 春子と、夏美。
 今日、夏美は途中で学校からいなくなった。
 さぼりかと思っていたけど、まさか兄さんの部屋にいたなんて。
 苛々する。
 私のいない間を狙って、私の兄さんに会いに行くなんて。
 許せない。
 夏美は兄さんの恋人なのに。兄さんに愛してもらっているのに。
 それなのに、私の家までやってくる。
 兄さんが一緒にいられる領域を遠慮なく侵していく。
 私から兄さんを奪っていく。
 夏美は兄さんの心も体も奪ったのに、兄さんと一緒にいられる時間と場所まで奪っていく。
 許せない。絶対に。
 私はため息をついて兄さんを見た。
 苦しそうに眠る兄さん。額に汗が浮かんでいる。
 私はハンカチを取り出して兄さんの汗をぬぐった。
 何かを探すかのように宙をさまよう兄さんの手。私はその手を握った。
 大きくて熱い手。
 私の手を微かに握り返す兄さん。まるでどこにも行かないでと言うかのように。
 昔を思い出す。時々だけど兄さんは風邪をひいた。
 お父さんも京子さんも村田のおばさんも忙しい人だったから、私や春子が看病することも多かった。
 私は兄さんが風邪をひくのが好きだった。
 兄さんが風邪を引けば、兄さんのそばにいられるから。
 苦しそうに眠る兄さんの手をずっと握っていられるから。
 兄さんが薄らと目を開けた。起しちゃったかな。
 焦点の合ってない瞳。不安そうに私を見つめる兄さん。
 「大丈夫よ。私は兄さんの傍にいる」
 私の囁きにほっとしたような表情を見せる兄さん。
 安心したような兄さんの表情が嬉しい。私で安心してくれた。
 「ゆっくり休んで」
 兄さんは微かに頷き目を閉じた。
 微かに兄さんの口が動く。何かを言おうとしている。
 私は耳を寄せた。
 「…あり…がとう…」
 弱弱しい声で囁く兄さん。
 兄さんの言葉に頬が熱くなる。
 嬉しい。
 兄さんはさらに何かを言おうとしている。
 私は耳を澄ました。
 「…ねえ…さん…」
 兄さんの囁く言葉に血の気が引く。
 何でなの。
 兄さんは安心したように私の手を握ったまま眠りに落ちた。
 私の手を握り、眠り続ける兄さん。
 でも、兄さんは私の手と思って握ったわけじゃない。
 何であの女なの。
 兄さんが握っているのは私の手なのよ。


108 三つの鎖 22 後編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/06/22(火) 00:44:47 ID:8APhhmLJ
 なのに何であの女を口にするの。
 あの女が兄さんにした事を忘れたの。
 私があの女を追い払ったのに、何で兄さんはあの女の事を口にするの。
 兄さんは何も言わずに眠っている。
 苦しそうだけど、どこか安心したように私の手を握ったまま眠り続けている。


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最終更新:2010年06月30日 19:08
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