375
三つの鎖 26 前編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/08/24(火) 20:49:22 ID:TxEfSWj7
三つの鎖 26
白衣を着た中年の男が頭から血を流して倒れている。
僕は跪いて倒れている男の脈拍と呼吸と確認した。
異常は無い。頭を打って意識を失っているようだ。
頬を軽くたたく。起きない。
「耕平。救急車を呼んで。頭を打って意識を失っているって。梓は先生を呼んできて」
「了解や」
「…分かったわ」
準備室を出ていく二人。
僕は立ち上がって夏美ちゃんと向き合った。僕の学ランの襟を握ったまま震えている夏美ちゃん。
叩かれたのか少し腫れた頬、上のボタンの取れた襟。
何があったか明白。
僕は夏美ちゃんを抱きしめた。
「大丈夫?」
「…はい」
震える声で答える夏美ちゃん。僕の背中におずおずと腕をまわし抱きつく。
「私は大丈夫です」
「何があったか、話せる?」
びくりと震える夏美ちゃん。
「嫌なら話さなくていい」
「…中本先生が、お父さんが死んで寂しいだろうって」
僕の背中に回された手が震える。
「先生の事をパパって呼んでごらんって言って抱きついてきて、止めてくださいって言ったら胸ぐらを掴まれて頬を叩かれて」
怒りが沸き起こる。
何という卑劣な行為。
「抵抗したら、中本先生こけて、頭を打って動かなくなって」
僕は震える夏美ちゃんはぎゅうっと抱きしめた。
「大丈夫だから」
しゃくりをあげる夏美ちゃん。僕は夏美ちゃんの涙をそっと拭った。
えらい事になった。
あの後、救急車が来て中本を運んで行った。頭を打って脳卒中らしい。
自業自得や。いや、夏美ちゃんに迷惑をかけたんは許せへん。
今、中本が運ばれた後の理科準備室で幸一と梓ちゃん、夏美ちゃん、俺と教頭がおる。
俺はこの教頭が嫌いや。口うるさくて権威主義者。
夏美ちゃんは真っ青になりながらも健気に何があったかを説明した。
中本の奴、あんなアホみたいな噂を信じて夏美ちゃんに迫るなんて、頭がおかしいんちゃうんか。
教頭は渋い顔で黙っている。
こいつの考えていることが手に取るように分かる。この不祥事をどうやって隠そうか。
「中村の言った事は本当なのか」
渋い顔で口を開く教頭。
「中本先生の勤務態度は真面目そのものだ。中村の言うような事があったとは信じがたい」
黙っている夏美ちゃん。
「自分に都合のいいように言っているんじゃないのか」
握りしめた手を震わせる夏美ちゃん。
「私、嘘は言っていません」
「どうだか。案外、自分で誘惑したんじゃないのか」
幸一の目がすっと細くなる。こらあかん。
「あー。教頭先生」
俺は口を開いた。
「教頭先生は知らへんのですか。中本先生、女の子をいやらしく見るので有名やで。確かそれで問題になった事もあったはずですよね。保護者から抗議でしたっけ」
押し黙る教頭。
俺は幸一に目配せした。頷く幸一。
頼むで。ここで爆発しても夏美ちゃんの印象が悪くなるだけや。
「どちらにしても、中村が言った事が起きた証拠はない。これはれっきとした傷害事件だ。厳正に対処する必要がある」
酷薄な視線を夏美ちゃんに向ける教頭。
こいつ、全部夏美ちゃんに責任を押し付けるつもりやな。
「教頭先生。夏美ちゃんの頬と襟を見てください。どう見ても夏美ちゃんが被害者ですよ」
「そんなもの、いくらでも自作自演できる」
376 三つの鎖 26 前編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/08/24(火) 20:50:30 ID:TxEfSWj7
このクソ野郎。
教頭は夏美ちゃんを睨みつけた。
「中村。正直に言ったらどうだ。今なら警察に言わずに対処してもいい」
「私は言うべき事は全て言いました」
静かに答える夏美ちゃん。教頭のこめかみがぴくぴく動く。
…しゃあない。
ここは警察に連絡して夏美ちゃんを保護してもらった方がええ。学校の中やと教師の権力が強い。このままやと夏美ちゃんに全ての責任が被せられる。
幸一の親父さんは警察官やからある程度は夏美ちゃんのために手助けしてもらえるかもしれへん。気はすすまへんけど、弁護士の両親も警察とパイプがある。
教頭は軽蔑したように夏美ちゃんを見下ろした。
「ふん。父親が殺されて寂しさのあまり教師を誘惑した挙句、傷害事件を起こすとは。死んだ父親の教育がなっていないんじゃないか」
こいつ。なんて事を言うんや。
夏美ちゃんは真っ青になって震えている。
口を開こうとして、やめた。
幸一が夏美ちゃんを庇うように一歩前に出た。
梓ちゃんと同じ無表情やのに、背筋が寒くなるような激情を感じさせる瞳。
幸一はでかい。その身長でその瞳を向けられたら、洒落にならへん迫力がある。
ビビったように一歩下がる教頭。額には汗が浮かんでいる。
「幸一」
俺は幸一の肩を掴んだ。ここでキレたら、夏美ちゃんの印象が悪くなるだけや。
「大丈夫」
そう言ってほほ笑む幸一。笑顔やのに、洒落にならへんほど恐い。
「先生。訂正してください」
静かな声。それなのに背筋が寒くなるほどの激情を感じる。
額に汗を浮かべ押し黙る教頭。
沈黙はノックの音に遮られた。
「誰だ」
「生徒会の村田です。お客様をお連れしました」
村田の声。何でここに。
返事を待たずに扉が開く。
村田とスーツ姿の男女。
男の方は知っとる。幸一の親父さんや。
「警察から来ました加原です。こちらは同僚の西原です」
無言で会釈する若い女性。ぴしっとした姿勢。間違いなく婦警さんやな。
せやけど、誰が連絡したんや。
「生徒さんから婦女暴行未遂が起きたと連絡を受けまいりました」
梓ちゃんか?村田か?
いつの間に連絡してたんや。
「先生。生徒さんとお話しさせていただいてよろしいですか」
幸一の親父さんの口調は丁寧やけど、お願いやなくて確認やった。
教頭は渋い顔でうなずいた。ここで断ったらまずい事があったのを認めるのと同意義やからや。
「西原。私は先生からお話を聞く。西原は中村さんからお話を聞いてくれ」
「分かりました。先生、隣の教室をお借りしますね」
若い婦警さんは夏美ちゃんの肩をそっと押して準備室から出て行った。
心配そうにその後ろ姿を見つめる幸一。
「先生。お話を伺えますか」
教頭は渋い顔で説明し始めた。
生徒に知らされてここに来ると、中本が頭から血を流して倒れていた事。
そのそばには夏美ちゃんが茫然と立っていた事。
恐らく、夏美ちゃんが中本を誘惑した挙句、拒絶した中本を突き飛ばして怪我をさせたと私見を伝えた。
こいつ、警察にまで夏美ちゃんが悪いと伝えるつもりか。
「先生のおっしゃった事を裏付ける証拠はありますか」
「中本先生の勤務態度は真面目そのものでした。また、中村の父親は殺されて、父親の面影を中本先生に見ていたと聞いています」
無言でメモをとる幸一の親父さん。
「加原さん。生徒がこの様な問題を起こしたのは悲しい事ですが、厳正な対処をお願いします」
そう言って頭を下げる教頭。
「まだ何とも言えません」
「何故ですか。これだけ証拠がそろっています」
「全て推測でしかありません」
あくまでも夏美ちゃんに罪を背負わせようとする教頭。今のところ幸一の親父さんは教頭に同調してへんけど、どこまで安心してええのか分からへん。
「あのー。ちょっといいですか」
377 三つの鎖 26 前編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/08/24(火) 20:51:49 ID:TxEfSWj7
村田が手を挙げた。場にそぐわないのんびりとした口調。
「あれってビデオカメラですよね。動いているように見えるんですけど」
村田が指差した方に視線が集中する。
色んな標本が置かれた棚に隠れるようにビデオカメラが設置されている。
近づこうとする教頭を幸一の親父さんが制した。
手袋をつけビデオカメラを持つ幸一の親父さん。
見たところテープに保存するタイプ。少し旧型っぽい。
「まだ録画中ですね」
そう言って幸一の親父さんは機器を操作した。録画を止め、巻き戻し、再生モードにする。
側面のディスプレイに、中本と夏美ちゃんが映っている。
夏美ちゃんに抱きつき、頬ずりする中本。身をよじって抵抗する夏美ちゃん。中本は逆上し、夏美ちゃんの胸ぐらを掴み、頬を叩く。
抵抗する夏美ちゃんに突き飛ばされ、こけて動かなくなる中本。
幸一の親父さんはビデオカメラを止めた。
真っ青になって震える教頭。
「生徒さんの無実を証明する証拠として警察で預かっておきます」
「待ってください。それは中本先生の私物です。本人の承諾なしに押収するなど、許されません」
抵抗する教頭。何て見苦しい。
「大体、加原さんは幸一君と梓さんのお父上ですよね。中村さんは幸一くんの恋人で、梓さんは友人です。そのような方だと、公正な捜査を期待できません」
まくしたてる教頭。
「私達教師はあなた達警察と違って、生徒の未来に責任を持つ身です。公正な捜査を期待できないなら、生徒のためにも協力できません」
こいつ、ホンマに人間の屑や。
何が生徒のためや。学校の不祥事を隠すためやろ。
「私達教師は、生徒の未来のためなら、あえて鞭を振るう事もあります。それに比べあなた達警察はどうですか。息子の恋人が関係した事件の捜査を担当するなど、警察の良識を疑います」
勝ち誇ったように幸一の親父さんを見る教頭。
「もし加原さんの息子さんが犯罪に関わったら、加原さんは警察の使命を果たすことができるのですか」
「無論です」
静かに答える幸一の親父さん。
「警察官の使命は家族の絆に勝ります。例え血を分けた子供だろうが、その親友だろうが、恋人だろうが、罪を犯せば逮捕するのが私の職務であり役目であり使命です」
静かな言葉だけに、幸一の親父さんの気持ちが怖いほど伝わる。
本気だと。
「な、ならば、もし幸一君が罪のない市民を人質に取ったら、加原さんは息子を射殺できるのですか」
「それ以外に人質の命を救う方法が無いなら、実行します」
腹に響く言葉。
「ただ、現実的なお話をしますと、警察官の関係者が事件に関わった場合は担当を外されるのが普通です。そういう意味では先生のおっしゃる事は正しい。私はここにいる幸一と梓の父です。そのような立場だと捜査に疑いを持つのは当然です」
ちょ!何言うとんねん!
露骨に安心した表情をする教頭。
「ではこのビデオは学校が保管します」
「それには及びません。別の同僚が向かっている途中です。もうすぐ到着する事でしょう」
「もう着きましたよ」
ドアが開き、スーツ姿の男が入ってくる。細身で長身。年は恐らく30過ぎ。
「警察の岡田です」
警察手帳を取り出す男。
「加原に代わりまして、私が担当します。私は今回の関係者とは何の接点もありませんので、ご安心ください」
そう言ってニヤリと笑う男。
「では先生、改めてお話を伺えますか」
結局、俺たちが解放されたのは放課後になってからやった。
警察は夏美ちゃんには何の咎も無い事を納得してくれた。
とりあえず安心や。
ただ、教頭の俺らに対する印象が悪くなったのは間違いない。まあしゃあないか。
一つ残る疑問。
結局、警察に電話したのは梓ちゃんと村田のどっちやったんやろ。
「田中君」
振り向くと、幸一の親父さんが立っていた。
「今日はありがとう」
「いえいえ、こちらこそお世話になりました」
「君のご両親とは仕事で何度かお世話になった事がある。よろしく伝えてほしい」
「分かりました。ところで、加原さんに連絡したのは誰だったのですか?」
「娘だ」
梓ちゃんが連絡したんか。
378 三つの鎖 26 前編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/08/24(火) 20:52:47 ID:TxEfSWj7
意外っちゃ意外や。
幸一の親父さんは視線を逸らした。その視線の先には幸一と、梓ちゃんと、夏美ちゃんと、村田がおる。
っと。時間がヤバイ。
「アルバイトがあるんで失礼します」
「気をつけて」
幸一達に挨拶しようと思って止めた。
寄り添う夏美ちゃんと幸一。
邪魔するのは気が引けた。
「ちょっといいかな」
振り向くと、スーツの男女がいた。
さっきの警察官。男が岡田さんで、女が西原さんやったと思う。
岡田さんが近づく。細身に見えるけど、相当鍛えているのが分かる。
「もう帰るのかい?」
「ええ。アルバイトがありますので」
「よかったら送るよ」
西原さんに目配せする岡田さん。西原さんは背を向けて歩き去った。
「駅前でいいよね?」
「…何で知ってるんですか?」
「田中先生ご夫妻には何度もお世話になっている。ご子息が駅前の居酒屋でアルバイトしているって聞いたよ」
俺は天を仰いだ。警察に俺のこと知られてるんかいな。
「文武両道だと聞いているよ。素晴らしい」
「それはさすがに持ち上げすぎですよ」
「高校で柔道部に入らなかったのは何でだい?中学では主将を務めたと聞いたが」
胸が痛む。
確かに俺は中学で柔道部の主将やった。大会でも公立にしてはいい結果を出した。柔道で有名な高校から誘われた事もあった。
それを、引退してからやめた。手を引いた。
「野暮な事を聞いてすまない」
俺がこの話題を好まないのを察したのか、岡田さんは目を伏せた。
「警察官の習性でね。気になる事があると聞いてしまう。申し訳ない」
「いえ、気にしてません」
大した理由は無い。
幸一と俺はライバルやった。いや、俺が一方的にライバル視しとった。その幸一は中学の途中で辞めた。その後、幸一は市民体育館の稽古に参加するようになって信じられへんほど腕をあげた。
気がつけば、柔道をする気を失くしてた。
俺は中学で柔道を頑張った。血反吐を吐く思いで努力した。その結果が公立にしては優秀な結果。
それでも、幸一の足元にも及ばへん。
軽くクラクションが鳴る音。
振り向くと、車を運転する西原さんが目に入った。多分、覆面パトカーやな。
岡田さんは後ろのドアを開けて俺を見た。
「ささ。座って」
できれば前の席に座りたかった。俺は仕方なしに後ろの席に座った。当然のごとく岡田さんも後ろの席に座る。
「西原。駅前まで頼む」
「分かりました」
車は動き出した。
「岡田さん」
「何かね」
「ええ加減に本題に入ってくれません?」
にやりと笑う岡田さん。
「さすが田中ご夫妻のご子息だ。話がはやくて助かる」
岡田さんという警察官がわざわざ俺を覆面パトカーに乗せて送る理由。
俺に今回の事件の事を聞くか、あるいは他に用事があるか。
「ふむ。どっちだと思う?」
俺の心を読んだかのように尋ねる岡田さん。
くそったれ。警察官ってこんなんばっかかいな。
西原さんが小さくため息をつく。
「岡田さん。田中君を脅さないでください。駅前まででしたらあまり時間がありませんよ」
「すまない。田中君。聞きたいのは中村さんの最近の様子だ」
何で警察が夏美ちゃんの近況を俺に?
「あらかじめ言っておくが、私も西原も中村さんのお父上の捜査には関わっていない」
胡散臭い。意味が分からへん。
再び西原さんがため息をついた。
379 三つの鎖 26 前編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/08/24(火) 20:54:32 ID:TxEfSWj7
「田中君。ごめんなさいね。岡田さんが質問すると尋問になっちゃうのよ」
「…そうかな」
肩を落とす岡田さん。
「岡田さん。私から話します」
西原さんは運転しながら話しだした。
「今回の件は私達にとって屈辱的な事件なの。夏美さんのお父上だけじゃなく、勤務中の警察官二名が殉職し、駆け付けた非番の警察官も殺害された。にもかかわらず犯人は捕まっていない。
同じ警察官が命をかけてまで中村さんのお父上を守れなかった。犯人を逮捕しない限り、彼らの魂は報われない」
「それと夏美ちゃんの近況がどう関係あるんですか?」
「私達警察は夏美さんのお父上の命を守れなかった。ここで娘の夏美さんまで守れないとなれば、殉職した警察官に顔向けできない」
真剣な表情の西原さん。ルームミラーに映る西原さんの表情は使命感に溢れていた。
隣の岡田さんが口を開く。
「田中君。実は今日の学校の件も、私達が志願して向かった。正直言うと、今回の件に関して言えば私が捜査に関わるのは不適切だ。私は加原さんのご子息と柔道の稽古を通じて付き合いがある。それを隠して捜査に加わったのは、中村夏美さんの事を思ってこそだ」
「梓ちゃん、いえ加原さんの娘さんは警察に連絡した際に夏美ちゃんの事を伝えていたのですか」
「加原さんはそう言っていた。何でも、中村夏美さんに濡れ衣をかぶせる奴がいるから、力になって欲しいと」
皮肉な事や。教頭の言う事は半分当たってた。
岡田さんの言う事が全て真実なら、今日来た警察官はみんな夏美ちゃんの味方なわけや。
俺の表情から考えていることを読みとったのか、岡田さんは苦笑した。
「無論、捜査に私情を加えたりはしない。捜査は公正に行う」
「それは幸一の親父さんに言われましたよ」
思い出しても怖い。仮に俺が罪を犯したら、幸一の親父さんは俺を問答無用で逮捕するに違いない。
「中村夏美さんの近況を聞く理由を納得してくれたかな」
笑みを浮かべて尋ねる岡田さん。
「半分は納得しました」
俺の言葉に不思議そうな表情をする岡田さん。その表情から動揺は見えない。
警察官ってのは役者ばっかかいな。
「半分、とはどういう意味だい?」
「お二人が夏美ちゃんの事を心配して力になろうとしてくれているのは分かりました。ですが、それだけではないですよね?」
「何を根拠に?」
「俺よりも適任がいますよ。幸一に梓ちゃんです。
幸一は夏美ちゃんの恋人ですから、夏美ちゃんの最近の様子をよく知っているはずです。親父さんが警察官だから、警察に抵抗は少ないはずです。岡田さんとは知り合いらしいですから、聞き出すのに都合もいいです。
梓ちゃんは夏美ちゃんのクラスメイトです。少なくとも俺よりも夏美ちゃんの様子に詳しいはずです。
にも関わらず俺に聞く。おかしくないですか?俺は普段は夏美ちゃんと接する機会はほとんどないですよ」
苛々する。こいつらの考えが読めてしまう。
岡田さんは笑顔を浮かべた。人の良さそうな笑み。その裏にあるものはなんやねん。
「それは勘違いだ。実はね、加原さんのお子さんからはもう既にお話をうかがっている。それに加えて参考になる様に田中君からもお話を聞きたいだけだ」
「嘘ですね。幸一はつい最近まで体調を崩して家にいました。梓ちゃんから話を聞いたかは分かりませんけど、少なくとも幸一から話を聞いたってのは嘘です」
これはハッタリや。学校の外で幸一と警察が話をしていたとしても、俺には分からへん。
無表情になる岡田さん。
「さすが田中先生ご夫妻のご子息だ。頭の回転はご両親譲りだ」
俺のハッタリはきいたみたいや。その事実は俺にとって嬉しくない。
なぜなら、俺の考えが当たっていることを示しているからや。
「私達が田中君に聞きたい事も分かっているようだね」
「…夏美ちゃんのお父さんを殺した犯人として、幸一を疑っているんですね。夏美ちゃんの事を聞くのは建前で、聞きたいのは幸一の事ですね」
無表情に俺を見つめる岡田さん。西原さんは沈黙を保っている。
「ここからは正直に言おう。私と西原が夏美さんのお父上の件に関して捜査に関わっていないのは本当だ。加原さんのお子さん二人からお話は伺っていない。無論、村田春子さんからもだ」
幸一の交遊関係は把握しているみたいや。
「何で捜査に関わっていないお二人が何で捜査のまねごとを?」
「中村夏美さんのお父上の件は、不可解な事が多いの」
口を開く西原さん。
380 三つの鎖 26 前編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/08/24(火) 20:56:39 ID:TxEfSWj7
「厳重な緘口令が引かれ、捜査に関係ない警察官は一切の情報を知らされていない。外からの応援も不自然なほどに多い。一般的にね、外からの応援が多い時は単純に人手が足らないという理由もあるけど、その地区の警察官が信用できないという理由の場合もあるのよ。
例えば、不祥事を身内ぐるみで隠蔽している場合とかね」
確かに、現役の警察官の息子が警察官を殺害したとなれば立派な不祥事や。
「にもかかわらず加原さんは捜査に加わっている。一般的にね、警察官の身内が事件の関係者の場合、その警察官は捜査に加わらないのが普通なの。それなのに加わっている。これは加原さんを泳がしていると考えるのが自然だわ」
西原さんの言葉に胸糞悪くなる。
「お二人はこう考えているわけですね。
外からの応援が不自然なほどに多い。これはこの地区の警察内部で不祥事があった可能性がある事を示している。
その不祥事は何なのか。夏美ちゃんの親父さんの事件に関係するなら、警察関係者が犯人か、あるいは犯人を手助けしているかのどちらか。
捜査に加わっている面子を見ると、何故か幸一の親父さんがいる。被害者の娘の恋人が息子なのに、捜査に関わっている。
息子が恋人のために警察官である父親に捜査の内容を聞く可能性があるのにもかかわらず、捜査から外されていない。
その理由は何か?」
俺は吐き捨てた。
「幸一が犯人と思われるけど証拠がない。だから父親をあえて捜査に加え、息子のために何かアクションを起こすのを待っている。そういうわけですね」
無言の二人。痛いほどの沈黙。
沈黙を破ったのは岡田さんだった。
「…君は田中先生ご夫妻をこえる弁護士になれる。私が保証する」
その言葉を他の機会に聞けば嬉しかったに違いない。
でも、今聞いても何も嬉しくない。
「はっきり言っておきますけど、幸一が犯人のはずありません」
「正直なところ、私もそう思う」
岡田さんは無表情に口を開いた。
「重傷を負った非番の警察官はオリンピック候補に選ばれるほどの腕前だ。幸一君の腕前は高校生とは思えないほどだが、それでも到底勝てない。動機もない。知る限りでは、中村夏美さんと幸一君の仲は良好で、中村ご夫妻も幸一君を高く評価している。
何よりも、幸一君が殺人を犯すなど思えない」
岡田さんは疲れたようにため息をついた。
「私は幸一君と何度も稽古をした。まっすぐな少年だ。その幸一君が恋人の父親を、警察官を殺害するなんて考えられない」
重傷を負った警察官の試合をテレビで見た事がある。
はっきり言って、幸一よりも遥かに上や。
幸一の腕前も大したものや。もしかしたら百回試合すれば一回ぐらいは勝てるかもしれへん。
それでも、無傷で、何の証拠もなく殺害するのは不可能や。
「田中君。いいかしら」
西原さんが口を開いた。
「私達が私的な捜査を行っているのは、加原さん親子の疑いを晴らすためでもあるの。私は幸一君の事は知らないけど、加原さんの事は知っている。警察官の鏡よ。その加原さんにあらぬ疑いをかけているとしか思えない今回の件。
許容できる事ではないわ。殉職した警察官の魂も報われない」
「…他にも疑わしい点はある。四人も素手で殺傷しておいて何の証拠もないなど、ありえない。犯人につながる何らかの証拠があるはず。にもかかわらず捜査の内容は一切公表されていない。進展も発表されていない。
今回の事件は警察に対する批判は多い。二人も殉職している。事件からこれだけの日がたっても犯人は捕まっていない。にもかかわらず、捜査に加わっている者たちから焦りは感じられない。
何が何だか分からないといのが私達の正直な考えだ」
俺はため息をついた。とりあえず、この二人が幸一の敵やない事だけでも確認できた。
「分かりました。可能な限り協力します。ですけど、お話はまた今度にしてください」
怪訝そうに俺を見る岡田さん。
「理由を聞かせてくれるかい?」
「バイト。遅刻です」
多分やけど、西原さんは話を聞くためにわざと遠回りしていたのだろう。
おかげでバイトには完全に遅刻していた。
381 三つの鎖 26 前編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/08/24(火) 20:58:15 ID:TxEfSWj7
苛々する。
青い顔で震える夏美ちゃんを寄り添い支える幸一くん。
「幸一」
振り向くと、幸一くんのお父さんがいた。
「田中君は帰った。よろしく伝えて欲しいと」
そう言えば耕平君がいない。気がつかなかった。興味がないから、仕方がない。
「夏美ちゃん。僕の父です」
「幸一の父です。いつも息子がお世話になっています」
淡々と自己紹介するおじさん。
「え、えっと、中村夏美です。お兄さん、いえ、加原先輩にはお世話になっています」
「中村さんは自炊しているのですか?」
「え?ええと、カレーばかりです」
「中村さんさえ良ければ幸一に料理させましょうか。こう見えて、なかなかの腕前です」
気まずそうに頷く夏美ちゃん。いつも幸一くんに作ってもらっているもんね。
「幸一。中村さんを送って行きなさい。今日の晩ご飯はいい。私も京子も外で食べる」
頷く幸一くん。きょとんとする夏美ちゃん。分かっていないみたい。
要するに、夏美ちゃんと食事をしていいという事。
今日は大変な事があったから、できるだけ夏美ちゃんの傍にいるように、って事だろう。
おじさん、気を遣っているんだ。
「春子ちゃん。よかったら梓と一緒にご飯を食べてきてくれないか」
眉をひそめる梓ちゃん。
「分かりました。任せてください。今日は父も母もいませんから、助かります」
「いつも本当にありがとう。私は署に戻る。気をつけて」
そう言って背中を向けるおじさん。
「あ、あのっ!」
夏美ちゃんの声におじさんは振り向いた。
「その、今日はありがとうございました」
「警察官として当然の事をしたまでです」
言いづらそうにうつむく夏美ちゃん。
「その、お父さんを殺した犯人は、捕まりそうですか」
夏美ちゃんの握りしめた手が震えている。
私は梓ちゃんの表情を横眼で確認した。相変わらずの無表情。何を考えているか、推し量れない。
幸一くんの表情を確認する。眉一つ動かさない。それでも、握りしめた拳は微かに震えている。
「必ず捕まえます」
断言するおじさん。静かな声なのに、力強さと頼もしさを感じる。
それだけ言っておじさんは去って行った。
残される四人。少し気まずい。
「じゃあ僕たちは行くよ」
「今日はありがとうございました」
そう言って幸一くんと夏美ちゃんは去って行った。
寄り添う二人の後ろ姿。
胸が痛い。
梓ちゃんは無表情に去りゆく二人を見つめていた。瞳は形容しがたい感情を放っている。握る拳が震えている。
「梓ちゃん。行こうよ。今日はおいしいご飯にしよ。やけ食いしちゃおうよ」
私は歩き出した。梓ちゃんも何も言わずについてきた。
今日もお父さんもお母さんもお仕事でいない。
私の家で梓ちゃんと晩ご飯を食べた。
二人で食べたのは本当に久しぶりだった。
食後のお茶を梓ちゃんに渡す。梓ちゃんは無言で受け取った。
梓ちゃんの足元にはシロが寝そべっている。
「梓ちゃん」
私の問いかけに視線で応じる梓ちゃん。
「何で警察に連絡したの?」
あの時、警察に連絡しなかったら、夏美ちゃんは退学になっていたかもしれない。
そうなれば、梓ちゃんは学校で幸一くんを一人占め出来たのに。
「何となくよ」
言葉短く答える梓ちゃん。
理由は大体想像できる。もし夏美ちゃんが退学になれば、幸一くんはますます夏美ちゃんに構うようになるだろう。それは梓ちゃんにとって楽しい事ではない。
もちろん、私にとっても。
382 三つの鎖 26 前編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/08/24(火) 20:59:16 ID:TxEfSWj7
「春子は何でビデオカメラを指摘したの」
今度は梓ちゃんが質問した。
理科準備室に隠すように置かれていたビデオカメラ。
「おじさん気がついてたよ。多分、後でこっそり回収するつもりだったんじゃないかな」
そうすれば、今日みたいに教頭と手間のかかるやり取りをする必要が無くなる。勝手に持ち出すのは良くないけど、悪いのは学校側だから強く言えないだろう。
だから私はビデオカメラの存在を指摘した。どうせ後で警察の手に渡るなら、幸一くんに恩を売った方がいい。
「春子」
梓ちゃんは私を見上げた。
「何であんな噂を流したの」
心臓の鼓動が微かに大きくなる。
「春子でしょ。夏美が化学の中本に父親の面影を見ているっていう噂を流したの」
何で分かったのだろう。
確かに私だ。それとなく噂になるように、噂のもとが私だとばれないように細心の注意を払った。
噂の対象をあの教師にしたのは、あの教師が生徒に欲情する変態だと知っていたからだ。この噂を耳にすれば、きっと夏美ちゃんに迫ると思った。
あの教師がこんなに早く行動を起こすのは予想外だったけど。
梓ちゃんは無言で私を見つめるけど、やがて飽きたように立ち上がった。
「帰る」
そう言ってリビングを出る梓ちゃん。シロもその後ろをついて行く。
私は玄関まで見送った。
「じゃあね」
私の言葉を無視して梓ちゃんは去って行った。
自分の部屋に戻りベッドにうつ伏せになる。
噂を流した理由。
夏美ちゃんをもっと幸一くんに依存させるため。
父親を殺され、クラスで孤立し、教師まで信じられないとなれば、夏美ちゃんはもっと幸一くんに依存する。幸一くんはそんな夏美ちゃんを見捨てられない。傍にいるだろう。
そうなると、梓ちゃんはきっと爆発する。夏美ちゃんを傷つける。
夏美ちゃんのお父さんを殺したみたいに、夏美ちゃんを殺すのが理想だ。そうなれば、幸一くんのお父さんが容赦なく逮捕するだろう。
そうならなくても、夏美ちゃんと幸一くんの仲は今まで通りにはいかないだろう。
どちらにしても、私に損は無い。
寄り添う幸一くんと夏美ちゃんの姿が脳裏に浮かぶ。
夏美ちゃんを支えるように寄り添う幸一くん。幸せそうな夏美ちゃん。
苛々する。
梓ちゃん、はやく爆発しないかな。
私の方が先に爆発しそう。
最終更新:2010年08月30日 04:26