三つの鎖 28 前編

662 三つの鎖 28 前編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/09/11(土) 19:37:13 ID:Fs9y37pK
三つの鎖 28

 目を覚ましたら、既にお昼前だった。
 最悪の気分。たっぷり寝たのに、眠った気がしない。
 手を見ると、皺くちゃになったハンカチ。お兄さんのハンカチ。
 私はなんて事をしてしまったのだろう。
 お兄さんを騙そうとした。それも最低の偽りを。
 ため息をついて部屋を出る。足取りが重い。
 玄関の前を通る時、見覚えのある靴が視界に入る。
 お兄さんの靴。
 私は呆然と立ち尽くした。
 お兄さん、来ているの。
 私はリビングに走り出した。
 会いたい。お兄さんに会いたい。
 リビングへの扉を開く。お兄さんはいない。
 キッチンだろうか。キッチンにもいない。肉じゃががあるけど、これはお兄さんが昨日作ってくれたものだ。
 ベランダにも、お手洗いにも、洗面所にも、和室にも、お父さんとお母さんの部屋にもいない。
 何で。何でいないの。
 靴はあるのに、何でいないの。
 私は部屋に戻った。携帯で連絡を取るつもりだった。
 携帯を手にすると、お兄さんからメールが。
 開くと、短い文章。
 靴を忘れたから、また取りに行きます。
 私はその場にへたり込んだ。
 お兄さんはいないんだ。
 それだけじゃない。お兄さんは靴を一足しか持って来ていなかったはず。靴を忘れたってことは、裸足で帰ったんだ。
 靴を履き忘れるぐらい、ショックだったんだ。
 私、なんて事をしてしまったのだろう。
 涙があふれる。私はお兄さんのハンカチで涙をぬぐった。
 お兄さんに会いたかった。会って謝りたかった。

 お兄さんの作ってくれた料理を食べて、私はぼんやりとしていた。
 謝りたい。そう思っても、行動できない。
 お兄さんに電話するだけでいい。メールでもいい。それなのにできない。
 恐い。お兄さんに嫌われていると思うと、怖くて何もできない。
 今度こそ愛想を尽かされたかもしれない。
 お兄さんからは何の連絡もない。
 部屋に戻りベッドに横になる。
 お兄さんのハンカチを握りしめて私は泣いた。

 誰かが私を優しく揺らす。
 誰かが私の名前を呼ぶ。
 まどろみから私は目を覚ました。気がついたら寝ていた。
 「夏美ちゃん」
 私の名前を呼ぶ聞き覚えのある声。
 お兄さん。
 目を開けると、お兄さんがいた。起きた私を見て微笑んだ。
 これは夢なの。それとも現実なの。
 もう何が何なのか分からない。
 でも、夢でもいい。
 夢の中でも、お兄さんに会えるなら、それでいい。
 「お兄さん」
 私はお兄さんに抱きついた。
 温かい感触。
 「昨日はごめんなさい。私、本当にひどいことしました」
 怖くてお兄さんの顔を見られない。
 もし、許してくれなかったらどうしよう。
 例え夢の中でも、お兄さんに嫌われるのは耐えられない。
 そんな事を考えていると、私の頭に大きくて温かい感触。
 お兄さんが私の頭を優しく撫でてくれた。


663 三つの鎖 28 前編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/09/11(土) 19:38:12 ID:Fs9y37pK
 「気にしないで。僕も夏美ちゃんが不安になっているのに気がついてあげられなかったから、僕にも責任がある」
 お兄さんの言葉に目頭が熱くなる。
 泣かないって思っても、涙があふれる。
 そんな私をお兄さんは優しく抱きしめてくれた。
 きっとこれは私の夢。私の願望が見せた幻想。
 それでもいい。幻でもいい。お兄さんが優しいのなら、それでいい。
 「ひぐっ、ぐすっ、ごめんなさいっ」
 「大丈夫」
 あくまでも優しそうなお兄さん。
 「夢でも、幻でもいいです。お願いです。傍にいてください」
 「うん。傍にいる」
 「私だけのお兄さんでいてください」
 「うん」
 私のお願いに素直に頷くお兄さん。
 例え夢でも、幻でも、嬉しい。
 「夢でもいいです。お願いです。覚めないでください。目を覚ましても、そばにいてください」
 「大丈夫」
 お兄さんは優しく微笑んだ。
 「夢じゃない。僕は傍にいる」
 お兄さんの言葉が、ゆっくりと頭に入り込む。
 抱きついた感触が、やけにリアルだ。
 「あの、夢じゃないのですか?」
 自分で言っておいて変な質問。
 「夢じゃないよ」
 徐々に思考がはっきりとしてくる。
 「でも、夢じゃないなら、どうやって入ってこれたのですか?」
 「玄関のカギが開いていたよ。インターホンを押しても電話しても出てくれないから心配したよ」
 そう言えば、昨日鍵をかけなかったような気がする。
 「あの、本当に夢じゃないのですか?」
 「本当に夢じゃないよ」
 お兄さんは私を抱きしめてすんすん鼻を鳴らした。
 そういえば、昨日からお風呂に一度も入っていない。
 恥ずかしさで頬が熱くなる。
 「わ、私、その、昨日からお風呂に入っていませんし、その」
 「大丈夫。夏美ちゃん、いい匂いがする」
 そう言って私をしっかりと抱きしめるお兄さん。
 やっぱり、夢でも幻でもない。
 だって、お兄さんがとっても意地悪だから。
 「…お兄さんって時々意地悪です。何だか、好きな人にいじわるする小学生みたいです」
 「意地悪されて困っている夏美ちゃんが可愛いんだ」
 お兄さんの言葉に頬が熱くなる。
 私の頭に顔をうずめ、鼻をすんすん鳴らすお兄さん。
 恥ずかしさで頭が爆発しそう。
 「お、お兄さん。その、お風呂に入ってきていいですか」
 「何で?」
 「で、ですから、その、昨日からお風呂に入ってないですから」
 身をよじる私をしっかりと抱きしめるお兄さん。
 逞しい腕に抱きしめられ、恥ずかしさに頬が熱くなる。
 私はお兄さんの肩をそっと押した。
 「そ、その、シャワー浴びてきます」
 私は着替えを持って部屋を出た。
 お風呂場でシャワーを浴びる。
 思考が働かない。
 さっきのお兄さんは、本当に幻じゃないのだろうか。
 分からない。
 私の身勝手な願望が作り出した虚像な気がしてならない。
 シャワーを浴び、体を拭いて着替える。
 部屋に戻ると、お兄さんはいなかった。
 私はその場に膝をついた。
 やっぱり、幻。


664 三つの鎖 28 前編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/09/11(土) 19:38:51 ID:Fs9y37pK
 さっきのお兄さんは、私の作りだした虚像。
 悲しさと虚しさに目頭が熱くなる。
 「ひっぐ、おにいっ、さんっ」
 泣き声がかすれる。
 喉がからから。
 水分が欲しい。私は涙をぬぐって部屋を出た。
 途中、玄関で靴が二足あるのが見えた。
 一足は学校指定の男子の革靴。お兄さんの。
 もう一足は、革靴の同ぐらいの大きさのスニーカー。
 私は弾かれたように走った。
 転がり込むようにリビングに入る。
 そこに、お兄さんがいた。
 「夏美ちゃん?」
 不思議そうに私を見るお兄さん。
 「お兄さんっ!!」
 私はお兄さんに抱きついた。
 温かくて逞しいお兄さんの胸。
 夢でも幻でもない。
 「ひぐっ、ひっく、ぐすっ、おにいさんっ」
 涙がとめどなく溢れる。
 「大丈夫。僕はここにいるから」
 お兄さんは私をあやすように優しく抱きしめる。
 「さ、さっきのっ、お兄さんっ、ひっく、幻かとっ」
 「僕はここにいる。幻でも夢でもない」
 お兄さんの背中に回した腕で思い切り抱き締める。
 手を離したら、どこかに行ってしまいそうな気がする。
 「落ち着いた?」
 お兄さんが私の髪の撫でながら口を開く。気がつけば涙は止まっていた。
 「はい。すいません」
 声がかすれる。お兄さんはコップに入った麦茶を渡してくれた。
 お兄さん、お茶を入れていたから部屋にいなかったんだ。
 考えたら、お兄さんが来てくれたのにお茶も出していない。
 羞恥心に私はうつむきながらお茶を口にした。
 よく冷えていておいしい。
 「夏美ちゃん。聞いてほしい」
 私は顔をあげた。真剣な表情のお兄さん。
 「今日は大切な話をしに来た」
 大切な、お話。
 お兄さんの言葉が脳裏にこだまする。
 まさか。
 別れ話。
 嫌だ。
 嫌だ。嫌だ。
 嫌だ。嫌だ。嫌だ。
 聞きたくない。
 「とりあえず座って」
 そう言ってお兄さんはソファーに近づく。
 「あ、あの、お兄さん」
 無表情に私を見下ろすお兄さん。
 「その、私の部屋でいいですか?」
 「うん」
 お兄さんは素直にうなずいた。
 「先に行ってください。飲み物を持っていきますから」
 「手伝うよ」
 「いえ、大丈夫です。これぐらいさせてください」
 お兄さんは頷いてリビングを去っていった。
 とりあえず時間は稼いだ。どうしよう。
 私はふらつく足取りでキッチンに入った。
 お盆の上にコップを載せ、冷蔵庫から取り出した冷えた緑茶を入れる。
 手が震える。水面が乱れる。


665 三つの鎖 28 前編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/09/11(土) 19:39:57 ID:Fs9y37pK
 お兄さんの大切なお話。
 きっと、別れ話。
 それ以外考えられない。
 今日のお兄さんが妙に優しいのも、最後だからに違いない。
 最後だから、うっとうしい私にも優しくしてくれる。
 嫌だ。
 お兄さんと別れるなんて、絶対に嫌。
 私と別れて誰と付き合うつもりなんだろう。
 ハル先輩?梓?それとも他の知らない誰か?
 私以外の女の人と仲良くしているお兄さんなんて、見たくない。
 震える手で緑茶を冷蔵庫に戻す。
 お盆に私とお兄さんのコップを載せ、その下に隠すように包丁を持つ。
 よく手入れのされた包丁。切れ味の悪くなっていた包丁を、お兄さんは丁寧に研いでくれた。おかげでよく切れる。
 もしお兄さんが私を捨てるなら、お兄さんを殺して私も死ぬ。
 だって、お兄さんに捨てられたら、生きていけない。
 お兄さんだって私の気持ちを知っているはず。私がどれだけお兄さんを好きか知っているはず。
 それなのに私を捨てるんだ。
 私にはお兄さんしかいないのに。
 お兄さんに捨てられたら、生きていけないのに。
 ひどい。ひどいよ。
 そんなの、許せない。
 誰にも渡さない。
 お兄さんは誰にも渡さない。
 私の手から離れるなら、誰の手にもできないようにする。
 例えお兄さんを殺してでも。
 お盆と包丁を手にリビングを出る。
 もう、手は震えていなかった。

 部屋に入ると、お兄さんは立っていた。
 私の部屋には椅子は一つしかない。遠慮せずに座ってくれていいのに。
 「どうぞ座ってください」
 そう言って私はベッドに腰をおろした。こうすればお兄さんは隣に座る。
 もくろみ通りお兄さんは私の隣に腰をおろした。
 「どうぞ」
 私はお兄さんにコップを渡した。中身はお兄さんが作ってくれた冷えた緑茶。
 「ありがとう」
 お兄さんは笑顔で受け取り、口にした。
 私は包丁をお盆の下に隠したまま、私の隣に置いた。いつでも取り出せるように位置を確認する。
 妙に頭がはっきりとしている。思考が信じられないぐらいクリアだ。
 今から、お兄さんを殺すのに。
 もっと動揺するかと思った。
 大好きなお兄さんを殺すのに、何でこんなに落ち着いていられるのだろう。
 お兄さんと過ごした日々は私にとってその程度だったのだろうか。
 「夏美ちゃん」
 コップを机に置いてお兄さんは私を見つめる。真剣な表情。
 今から、お兄さんに別れを告げられるんだ。
 今まで恋人だったのが、他人になる。
 そう思った瞬間、胸に痛みが走る。
 もう、お兄さんとは恋人じゃなくなる。
 そう考えるだけで、耐えがたい痛みが走る。胸が苦しくなる。
 「夏美ちゃん?どうしたの?」
 私の様子に気がついたのか、お兄さんは心配そうに私を見つめた。
 「いえ、何でもありません」
 私は無理やり笑顔を作った。泣きそうになるのを必死に我慢した。
 落ち着いているなんて、できるわけない。
 やっぱり、私はお兄さんを好きなんだ。
 どうしようもないぐらい恋している。
 別れるって言われたら、殺してしまうぐらいに恋している。
 だって、お兄さんが他の女の人のものになるなんて、絶対に我慢できない。
 私はお盆の下に手を滑り込ませた。包丁の柄の感触を確かめる。固くて冷たい感触。


666 三つの鎖 28 前編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/09/11(土) 19:41:51 ID:Fs9y37pK
 顔をあげると、お兄さんと目が合う。真剣で誠実な瞳。
 「昨日、夏美ちゃんの家を出たあと、自分なりに考えた。どうすれば夏美ちゃんが僕を信じてくれるかを」
 胸が微かに痛む。
 信じるって何をですか?何を信じればいいんですか?
 だって、お兄さんはもう私の事を好きじゃないのですか?
 私の事を重いって思っているのじゃないですか?
 「僕は馬鹿だから、いい方法が思いつかなかった」
 何ですか、それ。
 私がお兄さんを信じるいい方法が思いつかないから、私と別れるのですか。
 そんな言い訳で、私と別れるのですか。
 正直に言ったらいいじゃないですか。
 もう、付き合いきれないって。
 他に好きな人がいるって。
 私の事が、嫌いだって。
 「これから僕が話す事が変だと感じるかもしれないけど、落ち着いて聞いてほしい」
 お兄さんはベッドから立ち上がって膝立ちになり、私と視線を合わせた。
 嫌だ。
 お兄さんの口から、別れるなんて聞きたくない。
 そんな事言われる前に、終わらせる。
 私はお盆の下に隠していた包丁を取り出し、お兄さんのお腹に突き刺した。
 固い何かに突き刺さる感触。
 お兄さんの表情が凍りつく。
 「何を、落ち着いて聞けと言うのですか」
 私は包丁を握る両手に力を込めた。固い。それでもわずかにお兄さんのお腹に包丁が食い込む。
 「別れてなんて、落ち着いて聞けるはずないですよ」
 額に汗をびっしりと浮かべるお兄さん。顔から表情は消えうせているけど、私には分かった。お兄さんが痛みを必死にこらえているのを。
 私は包丁を握ったままお兄さんに体をぶつけた。包丁が抜け、お兄さんはお腹を押さえて倒れた。
 お兄さんはお腹を押さえて立ち上がろうとして立てなかった。膝をついたまま私を見上げる。押さえた手から血が流れる。
 私はお兄さんに包丁を向けた。包丁の先っぽはお兄さんの血で濡れていた。
 「なつ、み、ちゃん」
 顔に汗を浮かべ苦しそうに言葉を紡ぐお兄さん。
 私を見上げる瞳には、恐怖と疑問が渦巻いている。
 何でだろう。何でこんなことになってしまったのだろう。
 ちょっと前まで屈託なく笑うお兄さんを見られたのに、何で今はこんな表情のお兄さんを見ているのだろう。
 私はお兄さんを好きだったのに、何で今はお兄さんを刺したのだろう。
 傍にいても、お兄さんを遠くに感じる。
 刃物で突き刺すほどの距離にいても、お兄さんを遠くに感じる。お兄さんを刺した時の感触だけが生々しく手に残っている。
 荒い息をつき震えながら私を見上げるお兄さん。その足元に血の滴が落ちる。
 血の滴る音とお兄さんの苦しそうな息遣いだけが私の部屋を満たした。


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最終更新:2010年09月12日 21:15
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