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三つの鎖 28 後編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/10/15(金) 23:50:55 ID:mebDjS4t
膝をつき苦しそうに私を見上げるお兄さん。わき腹を押さえる手から手が流れ床にこぼれる。
「何でですか。何で私を捨てるのですか」
私の声は震えていた。
「私を捨てるのでしたら、何で私と付き合ったのですか」
視界がにじむ。
お兄さんと過ごした日々が脳裏に浮かぶ。
学校でお昼ご飯を食べた。私はお料理が下手で作れるのがカレーしかないけど、お兄さんは私のカレーのお弁当を食べてくれた。おいしいって言ってくれた。
放課後、二人で帰った。恥ずかしそうに私の手を握るお兄さんが可愛かった。嬉しかった。
帰り道、よく寄り道した。ソフトクリームを買って、公園で他愛もない事を話した。
二人でスーパーで買い物した。いつも一人で食材を買っていたから、楽しかった。
私の部屋で抱いてくれた。優しく、時に激しく抱いてくれた。
家でお兄さんがお料理してくれた。いつもカレーばかりの私を心配して、栄養のあるご飯を作ってくれた。洗濯してくれた。お掃除してくれた。
お兄さんは時々意地悪だった。困る私を楽しそうに見つめた。でも、それも嬉しかった。
幸せだった。お父さんもお母さんも滅多に帰って来ない家でも、お兄さんがいてくれるだけで温かかった。
お兄さんが帰っても、寂しくなかった。例え傍にいなくても、お兄さんは私の事を想ってくれていると知っていたから。
そんな日々は、もう帰って来ない。
「私、お兄さんの事を好きです。愛しています。お兄さんが望むなら何でもします。お兄さんの好みの女の子になります。それなのに、私を捨てるんですね」
お兄さんはきっと髪の長い女の子が好きだから、伸ばした。まだ肩に届くぐらいだけど、お兄さんがほめてくれるのが嬉しかった。
分かっていた。お兄さん好みの女の子になるのは無理だって。
ハル先輩や、梓みたいな女の子になるのは無理だって。
涙がとめどなく溢れ頬を伝い足元に落ちる。
荒い息をつきながらお兄さんは立ち上がった。
こんな状況なのに、信じられないぐらい落ち着いた眼差しで私を見つめる。
その眼差しに、胸が痛くなる。
やっぱり、私はお兄さんに恋している。
だからこそ我慢できない。
私とお兄さんが、他人になるのが。
お兄さんの傍に、私以外の女の人がいるのが。
「お兄さん。好きです。愛しています」
私は包丁を持ったままお兄さんに向って走った。
包丁がお兄さんに突き刺さる寸前、お兄さんの右手が包丁の刃を握り締める。その手は血まみれだった。
お兄さんは傷口を押さえていた手で包丁を押さえていた。
「夏美ちゃん」
お兄さんの声はこんな状況でも落ち着いていた。さっきみたいに苦しそうな息遣いはもう聞こえてこない。
私はお兄さんの手を振りほどこうとしたけど、万力のようにお兄さんの手は動かない。包丁の刃を掴むお兄さんの手から、血が滴り落ちる。
「これを受け取って欲しい」
お兄さんはあいている手をポケットに入れ、何かを取り出し私に差し出した。
小さな白い箱。お兄さんは器用に片手で箱を開けた。
蓋が開き、箱の中が露わになる。
そこには二つの指輪が入っていた。
シンプルな銀の指輪。小さいサイズと大きいサイズが一つずつ。
私は呆然とお兄さんを見上げた。
お兄さんは真剣な表情で私を見下ろした。
「夏美ちゃん。僕と結婚してほしい」
お兄さんの言っていることが分からなかった。
言葉は聞こえるのに、意味が理解できない。
「僕なりに考えた。夏美ちゃんがどうすれば僕を信じてくれるか。僕は馬鹿だから、これ以外の方法を思いつかなかった」
お兄さんは淡々と言葉を紡ぐ。
でも、その裏で必死になっているのが分かる。
「残りの僕の人生を、全て夏美ちゃんに捧げる。一生傍にいる」
私の目の前に箱が差し出される。
白い箱の中で、銀色の指輪が鈍い光を放っている。
包丁から血が床に落ちる。お兄さんは包丁の刃を握っているから手が切れているはずなのに、その痛みを感じさせない真剣な表情で私を見つめる。
「好きだ。愛している。誰よりも夏美ちゃんを愛している。今は頼りない僕だけど、必ず夏美ちゃんを幸せにできる男になる」
お兄さんは息を吸い込んで口を開いた。
「だから、僕の傍にいて」
私、馬鹿だ。
本当に馬鹿だ。
何でだろう。何でお兄さんを疑ったりしたのだろう。
お兄さんはそんな人じゃないのに。
354 三つの鎖 28 後編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/10/15(金) 23:51:50 ID:mebDjS4t
誠実で、優しい人なのに。
包丁を握り締める手が震える。
「受け取って欲しい」
包丁を柄を握り締める両手を離して、指輪の入った白い箱を受け取ろうとした。
手が箱に触れる直前で私は固まった。
私の手は、血で真っ赤だった。
お兄さんの血でべとべとだった。
白い箱を私に差し出すお兄さんの手に血はついていないのに。
お兄さんの手から包丁が落ちる。血だまりの中に落ちて、乾いた音を立てる。
「あ、ああ、わ、わたし」
私、なんて事を。
涙でにじむ視界でもはっきり分かる。
両手が、お兄さんの血で真っ赤なのが。
この手じゃ、指輪を受け取れない。
「左手を出して」
お兄さんはそう言って箱を私の机の上に置いた。
そのまま箱を持っていた手で小さいサイズの指輪を取り出す。
私は言われるままに震える左手を差し出した。
お兄さんは、私の左手の薬指に指輪をはめた。
血に濡れた私の手で、銀の指輪が鈍い光を放つ。
「これで夏美ちゃんは僕のものだ」
お兄さんはもう一つの指輪を取り出し、私の手に握らせた。
「僕に指輪をはめて欲しい」
私は震える手でお兄さんの左手の薬指に指輪をはめる。
血についていなかったお兄さんの左手が、指輪とともに血で濡れる。
それでも、指輪は鈍い光を放っていた。
「これで僕は夏美ちゃんのものだ」
そう言って、お兄さんは私の両手を握りしめた。
私の手はお兄さんの血で濡れているのに、握ってくれた。
血まみれの私の手を握るお兄さん。
「愛している」
真剣な表情。綺麗な瞳が私を見つめる。
その眼差しに、醜い感情が全て融けていく。
私はお兄さんに抱きついた。
「ごめんなさい。私、どうかしていました」
「よかった」
お兄さんは安心したように微笑んだ。真っ青な顔色。
今、この瞬間も血が流れて床に落ちる。
「お、お兄さん、その、救急車を」
「慌てなくても大丈夫。出血はひどいけど、たいした怪我じゃない」
お兄さんがそう言った時、外で何かを叩く音が聞こえた。
『幸一君!!いるのか!?』
聞き覚えのある男の人の声。
続いてドアが開く音と共に複数の足音が近づいてくる。
部屋の扉が開きスーツの男女が入ってきた。
見覚えのある二人。学校でお世話になった刑事さん。
二人は部屋を見て表情を変える。淀みない動きで素早く銃を抜き、私につきつける。
「幸一くんから離れろ」
抑揚のない声で男の人が告げる。
お兄さんは立ち上がり、拳銃から庇うように私の前に立った。
「やめてください。夏美ちゃんは関係ありません」
視線を交わす刑事さん。素早く拳銃を懐にしまう。
「すまない。幸一君。怪我は大丈夫かい」
男の人がお兄さんの傷口を確認する。
「出血は派手ですが、たいした事ありません」
男の人はお兄さんの言葉には答えずに部屋を見回した。次に私の手を見つめる。血に濡れた私の手を。
女の人も私を見つめる。犯人を見つめる刑事の目。
「西原。中村さんを署にお連れしろ。私は幸一君を病院に連れていく」
「分かりました。中村さん。申し訳ないけど、署まで来てくれる。何があったか聞かせてちょうだい」
お兄さんは西原さんに向き合った。
355 三つの鎖 28 後編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/10/15(金) 23:52:50 ID:mebDjS4t
「岡田さん。夏美ちゃんを署に連れていく必要はありません」
お兄さんが私に視線を向ける。その瞳が伝える。何も言わないでと。
男の人、岡田さんは無表情にお兄さんを見つめた。
「詳しい話は治療の後に聞く」
「僕が誤って怪我をしただけです。彼女は関係ありません」
女の人、西原さんがお兄さんの手を掴んだ。
「幸一君。何があったかを聞くだけよ。任意同行じゃないし、尋問するわけでもないわ」
お兄さんは首を横に振った。
岡田さんは無表情にお兄さんを睨んだ。
「幸一君。もしやましい点が無いなら、中村さんからお話を伺うのに不都合は無いはずだ。それなのにそこまで拒否するのは、何かあったのかと勘繰ってしまう。不幸な勘違いをなくすためにも、中村さんを落ち着ける場所にお連れして話を伺うのは必要だ」
お兄さんは落ち着いた態度で岡田さんの方を振り向いた。
「夏美ちゃんは僕の不注意で怪我をした僕を必死に応急処置してくれただけです」
「幸一君」
西原さんが困ったようにお兄さんに声をかける。
「僕は今日、夏美ちゃんに求婚しました」
思わず顔を合わせる刑事さん二人。
「夏美ちゃんは承諾してくれました。僕の婚約者は、誤って包丁で怪我した僕を応急処置してくれた。それだけです。ですから夏美ちゃんを署に連れていく必要はありません」
「あー、幸一君」
岡田さんが困ったようにお兄さんを見る。
「出血が多すぎるようだ。早く病院に行こう」
「…別に幻覚を見た訳じゃないです」
西原さんは私を見つめた。
「村田さん。幸一くんの話した事は本当なの」
私が答える前にお兄さんが口を開いた。
「本当です。証拠に、僕も夏美ちゃんも婚約指輪をつけました」
刑事さん二人の視線が私とお兄さんの左手に集まる。
「僕の怪我は、僕の不注意です。夏美ちゃんは関係ありません」
傷口を押さえ、額に汗を浮かべても、お兄さんの声は微塵も震えていなかった。
刑事さん二人は顔を合わせ、やあって岡田さんは口を開いた。
「…分かった。怪我をしたなら婚約者の付き添いがあった方が安心するだろう。中村さん。幸一君に付き添ってもらえますか」
「は、はい」
ふらつくお兄さんを私は支えた。
病院の待合室で、私はお兄さんの治療が終わるのを待っていた。
私は、なんて事をしてしまったのだろう。
お兄さんを、刺した。
この手で、刺した。
私の手に、お兄さんを刺した時の感触が今でも残っている。
「中村さん」
顔をあげると、岡田さんと西原さんがいた。
「幸一君の怪我は大した事ないです。数針縫う程度だから安心してください」
私はほっとした。
「いくつかおたずねしたい事があります。あ、いえ、包丁が刺さった状況じゃないです。あれは幸一君の言うとおり、幸一君の不注意が原因です。伺いたいのは、幸一君がプロポーズしたのは本当かどうかです」
「本当です」
私は正直に答えた。
「では中村さんが承諾したのも本当ですか」
今更になって何があったかを理解した。
お兄さんは、私にプロポーズしてくれたんだ。
結婚してって言ってくれたんだ。
私は、それを受けたんだ。
嬉しさと恥ずかしさに頬が熱くなる。
「…はい。受け入れました」
顔を合わせる刑事さん二人。
困ったような表情を浮かべる岡田さんに、西原さんは軽く咳払いした。そして西原さんはにっこりと笑った。
「婚約、おめでとうございます」
「…ありがとうございます」
何だか不思議な感覚。他の人からの祝福が、何だかくすぐったい。
複雑そうな表情をしている岡田さん。西原さんが岡田さんのわき腹を肘でつつくと、慌てたように口を開いた。
「あ、いえ、婚約おめでとうございます」
「ありがとうございます」
356 三つの鎖 28 後編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/10/15(金) 23:53:33 ID:mebDjS4t
そんな事を話していると、見覚えのある男の人が近づいてきた。
お兄さんのお父さん。片手に紙袋を持っている。
「岡田君。息子はどうだ?」
あくまでも冷静な声で尋ねるおじさん。
「大した事ありません。数針縫う程度です」
「そうか。息子が迷惑をかけた」
そう言って頭を下げるおじさん。
「中村さんも、息子が迷惑をおかけしました」
「え、あ、その」
何て言えばいいのだろう。その、私が刺したわけだし。
「お父さん。夏美ちゃんが困っているよ」
聞き覚えのある声。
「お兄さん!!」
兄さんがゆっくりとした足取りで近づいてきた。
私はお兄さんにそっと抱きついた。
「その、大丈夫ですか」
「大丈夫」
そう言ってお兄さんは微笑んだ。力強い笑顔。
「幸一。怪我はどうだ」
「大丈夫」
会話する親子。
「迷惑をかけた人にちゃんと挨拶をしなさい」
お兄さんは岡田さんと西原さんにも頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしてすいませんでした」
顔を見合わせる二人。やあって西原さんは口を開いた。
「幸一君。それよりもお父上にご報告することがあるんじゃないかしら」
微かに眉をひそめるおじさん。
「お父さん。紹介するよ」
「中村さんとは既に知り合いだ」
「改めて紹介するよ。僕の婚約者の中村夏美さん」
沈黙するおじさん。黙ってお兄さんを睨みつけるように見ている。
お兄さんはその視線を平然と受け止めている。
「え、えっと、その、ご紹介にあずかりました中村夏美です」
「今日、結婚を申し込んだ。事後報告でごめん」
お兄さんの言葉におじさんは天井を仰いだ。
「幸一。本気か」
「本気だ」
「まだ高校生というのを理解しているか」
「正式な結婚は就職してからにする」
おじさんはお兄さんの顔をまっすぐに見た。
「事件の被害者だから、同情で結婚するのか」
慌てたように顔を合わせる岡田さんと西原さん。
「もしそうなら、婚約を許すわけにはいけない」
「違う」
お兄さんは否定した。力強い言葉。
「夏美ちゃんとずっと一緒にいたいと思ったから、プロポーズした。同情とかは一切無い」
にらみ合う親子。
しばらくして、おじさんは私の方を向いた。
「中村さん」
「は、はい」
私はすごく緊張していた。
おじさんの表情は無表情だけど、痛いぐらいに真剣な気持ちが伝わってくる。
「ご存知の通り、息子は単純で世間知らずで考えの浅い男です。この年で結婚を申し込む時点でそれを証明しています。こんな馬鹿息子ですが、よろしくお願いします」
「いえ。それは違います」
自然と言葉が出た。
「幸一さんは優しくて思慮深い人です。結婚を申し込んでくれたのも、私の事を考えての事です」
私を無表情に見下ろすおじさん。
「私は、幸一さんがプロポーズしてくれたのを嬉しく、誇りに思います」
おじさんは微かにほほ笑んだ。お兄さんの面影が、確かにあった。
「息子をよろしくお願いします」
357 三つの鎖 28 後編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/10/15(金) 23:54:50 ID:mebDjS4t
おじさんはそう言ってお兄さんの方を向いた。
「幸一にはもったいない女性だ」
お兄さんは頬を染めてそっぽを向いた。そして視線だけを私に向ける。
「夏美ちゃん」
「はい」
「もう一回言って欲しい」
「えっと、何をですか」
恥ずかしそうにうつむくお兄さん。その姿が、何だか妙に可愛い。
「その、もう一回、名前を呼んで欲しい」
「名前、ですか?」
「初めてだ」
「?」
「初めて、夏美ちゃんが僕の名前を言ってくれた」
そう言えば、お兄さんの下の名前を口にしたのは初めてかもしれない。
顔が熱くなる。
「い、言いますね」
「うん」
「こ、ここ、幸一、さん」
「うん」
嬉しそうに頷くお兄さん。
うわっ。すごく恥ずかしい。ただ単に名前を口にしただけなのに。
「こ、幸一さん」
「うん」
「幸一さん」
「うん」
西原さんは咳払いした。
「とりあえず出ませんか。中村さんも着替えないといけませんし」
そう言えば、私の上着は血が結構ついている。
お兄さんの上着も血がついている。
西原さんが落ち着いた様子で口を開いた。
「加原さん。とりあえず、中村さんを家に送ってから幸一君を家に送ります。二人ともこの格好だと表を歩けませんし」
おじさんは手にある紙袋をお兄さんに渡した。
「着替えが入っている。中村さんの家の掃除を手伝ってから帰る様に。西原。手間をかけてすまないが、二人を中村さんのお住まいまで頼む」
「分かりました」
「岡田君はどうする?私は今から署に戻るが」
「僕も加原さんと一緒に帰ります」
挨拶もそこそこに岡田さんとおじさんは去っていった。
「行くわよ」
歩く西原さんに私とお兄さんはついて行った。
西原さんは車でマンションまで送ってくれた。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
お礼を言う私とお兄さんに、西原さんは微笑んだ。
「夏美ちゃん。しっかりと旦那の手綱を握っていないと駄目よ。男って単純だからね。すぐに落ち込むし、弱気になるから」
そう言って西原さんは左手を掲げた。その薬指には指輪が鈍い光を放っている。
「お互い頑張ろうね」
西原さんは笑いながら去っていった。
二人きり。何だか気恥ずかしい。
「行こう」
そう言ってお兄さんは私の手を握ってくれた。
大きくて温かい手。二人で並んでマンションの階段を上る。
私の部屋は凄惨な状況だった。
床に赤黒い汚れ。お兄さんの血。
私が、お兄さんを刺したから。
心臓の動悸が激しくなる。寒くないのに体が震える。
私、なんて事を。
「夏美ちゃん」
お兄さんは私の手をしっかりと握ってくれた。
「気にしないで。夏美ちゃんは悪くない」
358 三つの鎖 28 後編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/10/15(金) 23:55:21 ID:mebDjS4t
「で、でも」
お兄さんは私を抱きしめた。
温かくて逞しいお兄さんの腕の中。お兄さんの心臓の鼓動を微かに感じる。
「夏美ちゃんは疲れていただけだ。悪い夢を見ていただけ」
お兄さんの落ち着いた声が、私の心にしみこむ。
「リビングに行こう」
そう言ってお兄さんは私の手を引いて部屋を出た。
ふと眼を覚ますと、私はリビングのソファーで寝ていた。
電気の消えたリビング。体を起こすと、タオルケットをかけられていることに気がついた。
病院から帰ってきて、リビングでお兄さんにもたれかかっていて。
そこから記憶が無い。いつの間にか寝てしまったようだ。お兄さんはどこにいったのだろう。
外はもう暗い。何時だろう。
リビングの電気をつける。既に遅い時間。
「夏美ちゃん?起きた?」
お兄さんがリビングに入ってきた。
「ごめんなさい。寝てしまったみたいで」
「気にしないで。夏美ちゃんの寝顔、可愛かった」
そう言ってほほ笑むお兄さん。
お兄さんに寝顔を見られたんだ。恥ずかしさに頬が熱くなる。
「ご飯作ったけど、お腹すいてる?」
正直、あまりすいていない。お兄さんを刺した後で、食事をとる気にはなれなかった。
「気が向いたら食べて」
私の表情から察したのか、お兄さんはそう言ってくれた。
「いえ、いただきます」
「いいの?」
「少しでも食べないと、体が持たないです」
考えたら、今日は何も食べていない。
「分かった。ちょっと待ってね」
そう言ってお兄さんはキッチンに消えた。
私は顔を洗おうとお風呂場に入った。鏡を見ると、服に血がついていない。気がつけばお兄さんを刺した時とは別の服になっている。
お兄さん、着替えさせてくれたんだ。
私は顔を洗って自分の部屋の前に立った。深呼吸して部屋に入り明かりをつける。
明るくなった部屋に、赤黒い染みは無かった。
私は呆然と立ち尽くした。どうなっているのだろう。
寝ている間にお兄さんがお掃除してくれたのだろうか。
リビングに戻ると、おいしそうなカレーの匂いが漂ってくる。
「夏美ちゃん。できたよ」
「ありがとうございます。あの、もしかして私を着替えさせてくれましたか?」
お兄さんは申し訳なさそうな顔をした。
「うん。勝手に着替えさせてごめん」
「いえ、ありがとうございます。あと、私の部屋をお掃除してくれましたか?」
お兄さんは黙って頷いた。
恥ずかしさと申し訳なさにお兄さんを直視できない。
怪我をしているお兄さんにお掃除までさせて。私、何をしているのだろう。
「その、本当にすいません」
頭に温かい感触。
お兄さんが私の頭をそっとなでる。
「気にしないで」
そう言ってお兄さんは微笑んだ。
「さ。冷める前にどうぞ」
おいしそうなカレー。お兄さんがカレーを作ってくれたのは、お父さんのお葬式以来だ。
私は椅子に座り手を合わせた。
「いただきます」
私はスプーンを手に一口食べた。おいしい。
「どう?」
「おいしいです」
私の一言に嬉しそうに微笑むお兄さん。その笑顔に頬が熱くなる。
誤魔化すようにカレーをもう一口食べようとして、背筋が寒くなった。
スプーンを通して伝わる感触。多分、牛肉の角切り。
359 三つの鎖 28 後編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/10/15(金) 23:56:26 ID:mebDjS4t
その感触が、お兄さんを刺した時の感触と同じだった。
かちかちと音がする。握ったスプーンが震え、お皿とぶつかっている。
「夏美ちゃん?」
心配そうに私を見るお兄さん。
私、お兄さんを。
この手で、刺して。
たくさん血が流れて。
鋭い頭痛。歪む視界。込み上げる吐き気。
「夏美ちゃん!!」
お兄さんの声が、遠い。
気がつけば私は椅子から転げ落ちて床にうずくまっていた。
耐えがたい頭痛と吐き気。食べたばかりのカレーと胃液が込み上げてくる。耐えきれずに私はもどした。
せっかくお兄さんが作ってくれたのに。
乱れる思考の中で、明確な言葉になったのはそれだけ。
気がつけば私はお兄さんに抱きかかえられていた。
「夏美ちゃん!?しっかりして!!」
吐しゃ物に汚れるのにも関わらず、お兄さんは私を抱きかかえてくれた。
「あ、だめ、です」
私はお兄さんの両肩を押そうとした。手に力が入らない。
「だめ、です。よごれ、ます」
悪いのは私なのに、お兄さんが汚れるなんて耐えられない。
それなのにお兄さんは私を抱きしめる。
お兄さんの温かい腕に抱かれ、徐々に意識がはっきりしてくる。それと共に、微かに嗚咽が聞こえてくる。
「おにい、さん?」
お兄さんの顔が見えないからよく分からないけど、お兄さんは泣いていた。
「…ごめん」
何でお兄さんが謝るのか、分からない。
悪いのは私なのに。
お兄さんを刺したのは、私なのに。
私はお兄さんの背中に腕をまわして抱きしめた。お兄さんはびくりと震えた。
「お兄さんは、悪くないです」
私の言葉に、お兄さんは何も答えない。
ただ、静かに泣きながら私を抱きしめるだけ。
最終更新:2010年10月24日 21:57