三つの鎖 29 前編

484 三つの鎖 29 前編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/10/27(水) 21:52:20 ID:TckWV/As
三つの鎖 29

 今日の朝、私は幸せだった。
 幸一くんとのデート。何を着るかを考え、お化粧し、履いて行く靴を選ぶ。
 待ち合わせ場所に行くのも足取りが軽かった。
 幸一くんは誠実な男の子だ。にもかかわらず、夏美ちゃんという恋人がいるのに私と遊びに行く事を了承した。
 本来なら絶対にあり得ない。夏美ちゃんをほったらかしにして、他の女の子と遊びに行くなんて、幸一くんは絶対にしない。
 でも今回は私の誘いに幸一くんは応じてくれた。
 嬉しかった。例え幸一君が追い詰められていたとしても、私といる事を選んでくれた。
 隣町のショッピングモールで私は幸一くんと遊んだ。幸一くんの手を握り、腕を組んでも幸一くんは困ったように笑うだけで嫌がらなかった。
 楽しかった。幸せだった。嬉しかった。
 夏美ちゃんに勝ったと思った。幸一くんがあるお店に入るまでは。
 幸一くんが入っていったのは、シルバーアクセサリーを扱うお店だった。私のしている指輪を幸一くんが購入したお店。
 「夏美ちゃんにプロポーズしたいから、指輪選びに付き合って欲しい」
 最初、幸一くんの言っていることが分からなかった。
 「まだ高校生だし、ちゃんとした指輪は買えないけど、何かいいのをプレゼントしたい」
 誰が、誰に、何のために、何をプレゼントするの?
 どういう意味?
 私を選んでくれたんじゃないの?
 コウイチクンハナニヲイッテイルノ?
 視界が歪む。まっすぐ立っているはずなのに、足元が定まらない。
 私の考えをよそに、幸一くんは真剣な表情で指輪を見ている。
 その横顔に胸が締め付けられる。
 私と一緒にいるのに、私の事を考えていない。
 幸一くんが考えているのは夏美ちゃんの事。
 私じゃない。
 私じゃ、ない。
 気がつけば幸一くんはすでに指輪を購入していた。
 サイズの違う2つのシンプルな銀の指輪。
 私は拳を握りしめた。私の左手の指輪の感触。
 指輪をケースに入れる幸一くんの横顔。
 真剣な決意を秘めた表情。
 二人でバスに乗り、私達の街に戻る。
 バス停で降り、幸一くんは私を見た。
 「今日はありがとう。春子のおかげで気持ちが楽になった」
 そう言ってほほ笑む幸一くん。
 「今から夏美ちゃんの家に行ってくる。成功しても失敗しても後で報告する。それじゃあ」
 そう言って幸一くんは私に背を向けた。
 「待って」
 私は思わず幸一くんを引きとめた。
 振り向く幸一くん。私を見つめる誠実な瞳。
 「何で幸一くんは夏美ちゃんのためにそこまでするの?」
 握りしめた拳が微かに震える。
 「幸一くん、何も悪くないのに夏美ちゃんにひどい事をされたんでしょ?」
 幸一くんの瞳の色が微かに揺れる。
 「知ってるの?」
 全て知っている。リアルタイムで盗聴していた。
 夏美ちゃんが幸一くんに言った事は、全て聞いた。
 「うんうん。でも、幸一くん、泣いてたじゃない。お姉ちゃん、分かったよ。夏美ちゃんと何かあったって」
 幸一くんの表情が微かに陰る。
 夏美ちゃんがした事は、幸一くんを傷つける事だった。一人で泣くぐらい、幸一くんは傷ついていた。
 昔からそう。どれだけ悲しくても寂しくても、幸一くんは人前では絶対に泣かない。私の前でも泣こうとしない。悲しくて寂しくてどうしようもない時は、誰もいないところで幸一くんは一人で泣いている。
 「最近の夏美ちゃん、様子がおかしいよ。学校でも教師に目をつけられているし。噂、聞いたでしょ?」
 唇をかみしめる幸一くん。
 「夏美ちゃんは悪くない」
 「そうかもしれないよ。でもね、夏美ちゃんの評判が悪いのは本当だよ。お姉ちゃんね、心配なの。幸一くんの身に何か起きそうな気がするの」
 私は幸一くんの手を握った。
 大きくてごつごつした手。でも、温かかい手。
 「しばらく夏美ちゃんと距離を置いた方がいいよ。梓ちゃんの事もあるでしょ」
 幸一くんの瞳の色が微かに揺れる。


485 三つの鎖 29 前編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/10/27(水) 21:54:19 ID:TckWV/As
 「プロポーズなんてしてどうするの。幸一くん、まだ高校生だよ。そんな事してなんになるの。考え直して。今は梓ちゃんの事を解決するのが先決だよ」
 うつむく幸一くん。
 「お姉ちゃん、協力するから。きっと梓ちゃんと仲直りできるよ。そうすれば誰にもはばかることなく夏美ちゃんと付き合える。だから考え直して」
 もし幸一くんが夏美ちゃんにプロポーズしたら、夏美ちゃんはきっと受け入れる。
 そうしたら、幸一くんは完全に夏美ちゃんのものになっちゃう。
 そんなの絶対にいや。
 「春子」
 幸一くんは私を見下ろした。
 その真剣な表情に胸が痛くなる。
 考えているのは夏美ちゃんの事。
 私じゃない。
 私じゃ、ない。
 「馬鹿な事をしているって自分でも分かっている。でも、僕にはそれぐらいしか思いつかないんだ」
 大人びて落ち着いた表情。その表情に顔が熱くなる。
 それと同時に胸が苦しくなる。
 「僕の気持ちを伝えたい。好きだって。愛しているって。夏美ちゃんと一生いたいって。一生傍にいて欲しいって」
 幸一くんの一言一言が私の胸に突き刺さる。
 全て私の望み。
 それなのに、幸一くんが望むのは私じゃない。
 「だからプロポーズしようと思う。夏美ちゃんに知って欲しい。それぐらい好きだって事を」
 幸一くんはそっと私の手をほどいた。
 「馬鹿な弟でごめん。姉さん。行ってくるよ」
 そう言って幸一くんは笑った。
 落ち着いた大人の笑顔。
 私に背を向けて歩く幸一くん。その後ろ姿が徐々に小さくなる。
 幸一くんが、私の手の届かない場所に行ってしまう。
 気がつけば私は走り出していた。
 「幸一くん!!」
 振り向いた幸一くんに私は抱きついた。幸一くんの背中に腕をまわし、思い切り抱き締める。
 この腕をほどいたら、幸一くんは私の手の届かない場所に行ってしまう。
 「いやっ!!行っちゃいやっ!!」
 私の声は震えていた。
 「お願い!!行かないで!!夏美ちゃんのものにならないで!!」
 目頭が熱い。涙で視界がにじむ。
 「好きなの!!幸一くんが好き!!愛している!!」
 涙の雫が頬を伝う。
 幸一くんの胸に額を押し付けたまま、私は喋り続けた。
 「ずっと好きだったの!!小さい時からずっと幸一くんを好きだったの!!お願いだから私を見て!!」
 私は顔をあげた。幸一くんの顔が近い。
 戸惑ったように、悲しそうに私を見下ろす幸一くん。
 胸が締め付けられるほど澄んだ瞳が私を見つめる。
 幸一くんの瞳が雄弁に語る。
 一人の女として愛しているのは私じゃないって。
 「何でなの!?何で夏美ちゃんなの!?何で私じゃないの!?私の方が幸一くんの傍にいた!!ずっと見ていた!!ずっと好きだった!!それなのに何で夏美ちゃんなの!?何で私じゃないの!?」
 涙がとめどなく溢れる。頬を伝い、足元に落ちる。
 幸一くんはそっと私の涙をぬぐってくれた。
 「私の何がいけないの!?夏美ちゃんみたいに髪の毛が短い方がいいの!?小さい方がいいの!?お料理ができない方がいいの!?年下の方がいいの!?」
 幸一くんが悲しそうに私を見下ろす。
 その視線が堪らなくつらい。
 「幸一くんが望む女の子になる!!幸一くんが望むならなんだってする!!だからお願い!!行かないで!!夏美ちゃんのものにならないで!!傍にいて!!傍にいさせて!!」
 そっと私の肩を押す幸一くん。
 悲しそうに私を見つめる澄んだ瞳。
 「ごめん」
 申し訳なさそうに、本当に申し訳なさそうに答える幸一くん。
 「本当にごめん。姉さんの気持ちには応えられない」
 「姉さんって言わないで!!」
 幸一くんは驚いたように私を見た。
 「私が幸一くんのお姉ちゃんだから駄目なの!?お姉ちゃんだから恋人にしてくれないの!?」
 私はずっと幸一くんのお姉ちゃんだった。お姉ちゃんとして傍にいた。それが嬉しかった。
 でも、今はそれが足かせになっている。


486 三つの鎖 29 前編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/10/27(水) 21:55:34 ID:TckWV/As
 「私ね、幸一くんの事が好きだった。幸一くんが望む私になろうって思ってた。覚えてる?最初に会った日。私ね、今でも覚えているよ」
 公園で梓ちゃんと一緒にいる幸一くん。梓ちゃんは幸一くんにべったり甘えていた。
 幸一くんは寂しそうだった。甘えたい年頃なのに、甘えられるご両親はいつもお仕事。
 だから傍にいてあげようと思った。幸一くんが甘えられる存在になろうと思った。
 私の方が一日だけ早く生まれたから、幸一くんのお姉ちゃんになろうって思った。だから私は幸一くんのお姉ちゃんだった。
 それが幸一くんのためだから。幸一くんの望みだから。
 「私ね、幸一くんのためにお姉ちゃんでいたんだよ。幸一くんが望むからお姉ちゃんでいたんだよ」
 幸一くんを抱きしめる手が震える。
 「それなのに、夏美ちゃんを選ぶの。お姉ちゃんとしての私が必要なくなったから、私はもういらないの。幸一くんはお姉ちゃんとしての私を必要としてくれたのに、女の子としての私は必要としてくれないの」
 涙が足元にぽたりぽたりと落ちる。
 「こんな事になるなら、幸一くんのお姉ちゃんになるんじゃなかった」
 私は顔をあげられなかった。幸一くんの顔を見られなかった。
 「春子には言葉に尽くせないほど感謝している。ずっと僕の傍にいてくれた。ずっと僕を助けてくれた。梓に嫌われていた日々、春子の存在にどれだけ支えられたか、春子でも分からないと思う」
 落ち着いた声で話す幸一くん。
 「春子のためなら何でもしてもいいと思っていた。でも、それだけは駄目だ。僕の恋人は、夏美ちゃんだから」
 幸一くんの言葉が胸に突き刺さる。
 涙がとめどなく溢れ、地面に落ちる。
 「春子の気持ちは嬉しい。でも、応えられない」
 嬉しくなくてもいい。感謝してくれなくてもいい。
 憎んでもいい。嫌われてもいい。
 恋人じゃなくてもいい。都合のいい女でもいい。
 お姉ちゃんでも、そうでなくてもいい。
 だから、私を幸一くんの傍にいさせて。
 そう言おうとして、言えなかった。
 幸一くんは泣いていた。
 顔をぐちゃぐちゃにして、私を見下ろしていた。
 涙は頬を伝い、地面に落ちる。
 「ごめん。本当にごめん」
 幸一くんは泣いていた。
 本当に悲しそうに泣いていた。
 私の気持ちに応えられなくて。傷つけて。
 その事で、本当に泣いていた。
 嬉しくない。嬉しくないよ。
 涙なんかいらない。
 ただ、私の傍にいてくれたらいい。
 それなのに、私は何も言えなかった。
 悲しそうに泣く幸一くんに、何も言えなかった。
 だって、幸一くんは何も悪くない。
 幸一くんは自分の気持ちに嘘をつかなかった。私の言う事に適当に合わせることもできるのに、しなかった。あくまでも誠実に、真剣に私の気持ちに応えた。
 その結果が、拒絶。
 でも、幸一くんは何も悪くない。幸一くんは私の気持ちに誠実に真剣に応えただけ。
 例えその結果が拒絶でも、それは幸一くんが真剣に考えた結果。
 幸一くんは悪くない。
 悪いのは、私。
 「ごめん。僕、もう行くよ」
 幸一くんはそう言って私の顔を見た。
 大人びて、落ち着いた男の人の表情。
 そっと私の涙をぬぐい、私にハンカチを握らせ、幸一くんは私に背を向けた。
 だんだんと小さくなっていく幸一くんの背中。
 幸一くんは振り返らなかった。
 私は追えなかった。

 私は失意のままに家に戻った。
 その後、夏美ちゃんの家をずっと盗聴していた。
 警察に連絡したのは私だ。
 非通知設定で、ボイスチェンジャーを使用した。
 夏美ちゃんを必死に庇う幸一くん。
 もし警察が夏美ちゃんを連れていけば、真実は全て明らかになる。
 夏美ちゃんが幸一くんを殺そうとした事も。
 警察は尋問のプロだ。素人の夏美ちゃんは簡単に真実を話してしまうだろう。


487 三つの鎖 29 前編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/10/27(水) 21:58:10 ID:TckWV/As
 幸一くんはそれを分かっているから、必死に庇う。
 夏美ちゃんにあれだけ酷い事をされ、刺されても、幸一くんは夏美ちゃんと別れない。
 ただ単に夏美ちゃんにお父さんに頼まれたからだけじゃない。
 幸一くんは、心の底から夏美ちゃんに惚れている。
 それが悔しい。悲しい。
 私は幸一くんのお姉ちゃんだった。
 手間のかかる弟は、どこに出しても恥ずかしくない立派な男の子になった。
 でも、幸一くんが選んだ女の子は夏美ちゃん。
 私じゃない。
 姉としての私の期待に応えてくれても、女の子としての私の気持ちには応えてくれない。
 弟として幸一くんは私の期待に応えてくれた。けど、男の子としては私の気持ちに応えてくれない。
 幸一くんはやってきた警察の人と夏美ちゃんと一緒に部屋を出ていった。
 しばらくして、幸一くんと夏美ちゃんは帰ってきた。
 音だけだから良く分からないけど、幸一くんは夏美ちゃんの部屋をお掃除しているみたいだった。
 きっと、夏美ちゃんが幸一くんを刺した痕跡を全て消すつもりなんだ。
 ぼんやりとそんな事を考えていると、がたんという大きな音が聞こえた。
 いえ、もしかしたら小さい音なのかもしれない。盗聴器のすぐそばで発生した音は大きく聞こえる。
 『春子。聞こえている?』
 スピーカーから聞こえた幸一くんの声に、心臓が止まるかと思った。
 『警察に連絡したのは匿名だったらしい。僕が刺された状況を知るためには、この家の状況をどこかで知るしかない。盗撮か盗聴。そう思って調べたら、これがあった。多分、盗聴器だ』
 淡々とした幸一くんの声。
 『盗聴器を仕掛ける人の心当たりは春子しかいない。救急車に連絡してくれたのは感謝している。聞いていたと思うけど、夏美ちゃんにプロポーズした』
 幸一くんの言葉が胸に突き刺さる。
 『夏美ちゃんは承諾してくれた。もちろん、結婚は当分先になる』
 そうだ。幸一くんは夏美ちゃんにプロポーズして、夏美ちゃんはそれを断らなかった。
 幸一くんは、夏美ちゃんのものになってしまった。
 「やめて」
 私の気持ちが言葉となって溢れ出す。
 「お願い。そんな事言わないで。夏美ちゃんのものにならないで。お姉ちゃんね、幸一くんの事が好きなの。愛しているの。だから、そんな事言わないで」
 幸一くんに言葉は届かないのは分かっている。幸一くんの音声はこっちに届くけど、私の音声は幸一くんに届かない。
 それでも、言葉は止まらない。
 「お願い!!夏美ちゃんのものにならないで!!お姉ちゃんを見て!!私を愛して!!」
 目頭が熱い。頬を涙が伝う。
 『春子には感謝している。ありがとう』
 「ねえ!!幸一くん!!」
 『また会った時に報告する。それじゃあ』
 「幸一くん!!」
 音声は途切れた。モニターには、盗聴器からの信号が途絶した事を示す表示が映るだけ。

 気がつけば随分と時間が過ぎていた。既に夜遅い。
 いつの間にこんなに時間がたったのだろう。
 遠くでシロの吠える音が聞こえる。
 窓から見下ろすと、幸一くんが歩いていた。
 見るからに悲壮な表情。
 夏美ちゃんにプロポーズして、受け入れられたとは思えない思いつめた瞳。
 そういえば幸一くんは梓ちゃんに報告したのだろうか。
 まだに違いない。もし報告していたら、幸一くんも夏美ちゃんも無傷のはずがない。
 幸一くんは加原の家に入って消えた。
 私は急いで盗聴のためのツールを再起動した。



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最終更新:2010年11月07日 18:12
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