『きっと、壊れてる』第9話

425 『きっと、壊れてる』第9話(1/9) sage 2010/10/21(木) 21:41:12 ID:v8AocJEJ
「あ~しらきたくま君だ~!!」

東京、夜の繁華街。
巧は特に用事もないクセに、ふらふらと出歩いていた自分を精一杯呪った。
よりにもよって、今現在一番遭遇したくない人物にバッタリ会ってしまったからだ。

「名前、違います」
巧は玉置美佐にそう言うと、そのまま通り過ぎてしまえばよかった、と思った。
何がそんなにおもしろいのか、美佐は満面の笑顔を見せながら巧に近付いてくる。
蜘蛛の糸に絡まった蝶の気持ちが今なら理解できる。

「そうだっけ? まぁなんでもいいじゃない。それよりも今ヒマ?」
「いえ、忙しいです」
無表情でそう答えると、巧は足早にその場所から去ろうとした。
雨が上がったばかりで、そこら中に汚い水たまりができていたが、
履いてきた新品のスニーカーが汚れようと、知った事ではない。

「よかったぁ~ヒマなのね? ついてきなさい。お姉さんがお酒奢ってあげるから」

美佐は巧の歩こうとした方角に先回りすると、どこか小生意気な顔をして道を塞いだ。
今まで人を殴った事などないが、この女は殴っても許されるのではないか。
巧は道行く人に一人ずつアンケートを取りたい気分になった。

「いえ、今ちょっと待ち合わせしてるんで」
冗談ではない。
ただでさえ関わりたくない相手なのに、近い内に、また得体の知れない物を届ける予定がある巧は、
できるだけ接点など持ちたくなかった。

「じゃあ、その待ち合わせ相手も連れてきなさい。どうせ男の子でしょ? こんな美人と飲めるんだから万々歳じゃない」
「……すいません、嘘です」
「うん、知ってる。大丈夫だって~。すぐ解放してあげるから! さっ行こう行こう」
これ以上抵抗しても無駄だと判断した巧は、「すぐに開放する」という美佐の言葉を信じて、ついて行く事にした。
何か悪い霊でも取り憑いているのか、首を傾げながら巧は歩いた。

5分程歩くと、美佐と巧は料理全品均一料金が売りのチェーン居酒屋に入った。

「あ~気持ち良い~」
美佐は店員から受け取ったおしぼりで首の周りを拭くと、「とりあえず生2つ」と注文した。

「……おしぼりで手以外を拭く女性、初めて見ました。」
「は~? 別にいいじゃん、汗でベタついてるし。ギャップ萌えってやつ? あのカワユイ美佐たんがこんなオヤジ臭い事を! みたいな」
「とりあえず、あなたがお酒を飲みたいだけって事は理解しました」
「そーゆー事。で~? 君は? 一人でフラフラと何してたわけ? あっ好きな物頼んでいいよ?」
「腹減ってないんで、けっこうです。……さっきは散歩してただけです」
箸でお通しの芋の煮付けを一つ掴み、口の中に放り込んだ。
素朴な味という表現が一番適切だろうか、下手に弄られていない芋の甘みが巧の好みだった。

店員の声が店内に響き渡る回数が増えてきた。
居酒屋の中は、美佐と巧が席に着いた直後から急に混み合い始め、入場待ちをしている人もそれなりに出始めたようだ。

入る前にもう少しだけ粘れば、帰る言い訳ができたのに。
巧は目の前にいる美佐を一瞥すると、深いため息を吐き、二つ目の芋を取った。

「一人で散歩? 私も嫌いじゃないけど、客観的に見ると少し寂しいね。君は彼女とかいないの?」

ありきたりな質問。
恋人がいるなら、あんなお使いをするわけがないだろう、と巧は言いたくなった。


426 『きっと、壊れてる』第9話(2/9) sage 2010/10/21(木) 21:41:45 ID:v8AocJEJ
「いないですよ」
「なんで~? おっ!! もうビール来た!! ハイ乾杯、お疲れ~!」
ジョッキを店員から受け取った美佐は、それを巧の前に置かれたもう一つのジョッキに強く押し当てた。

「そんなに強く当てるとこぼれますよ。……なんで? と言われても。モテないからだと思いますけど」
「ノンノンノン」
「ん? 何ですか?」
美佐はビールで喉を潤しながら、左手の人差し指を左右に振った。

「ぷはぁ~! 私はね、『なんでモテないのか』と聞いているのさ。つまり自己分析は出来ているのかって事」
「オレは……あまり社交的ではないですが、顔はブサイクだとは思ってないし……正直よくわかりません」
美佐に言われ、自分に恋人がいない理由を考えて見ると、特にこれといった理由はないように思えた。
自分のような人間は他にはいるはずだ、オレだけが特別ではない。
巧は頭の中で整理すると、美佐にそう伝えた。

「ほほ~」
ニヤリと口元を緩めると、美佐は通りがかった店員にいくつか料理を注文した。
「居酒屋の刺身ってボッタクリよね~、こんなんで600円とか取るんだもん」
左手の親指と人差し指で輪っかを作り、刺身の量を表現している美佐を見て、巧はある事に気付いた。

おそらく、この人のリアクションがいちいち大きいのはワザと……いや、無意識だろうけど、天然の物じゃない。
オレにも経験があるから理解できる。
自分の話や仕草で、相手の性格や接し方、心理状態を図っているんだ。

なぜか、人間が怖いから。
怖くて恐ろしくて。
でも、一人で生きて行くのは寂しいから、境界線を乗り越えないように調査する。
相手の、キャパシティから自分が溢れないように。

自分と玉置美佐は違う人種。
今まで、そう弁別していた巧はなぜだか、少しだけ微笑ましい気持ちになった。

「そんでね、さっきの話だけど、確かに君はモテなさそうなオーラが出てる。シュワシュワ~って」
湯気を表現しているつもりなのか、美佐は人を小馬鹿にしたような顔で、ジェスチャーをした。

「そんなにモテないわけでもないですよ。ただ『付き合いたい』と思える人と出会っていないだけです」
美佐が自分と同人種、巧はそう考えるとなぜか今までより強気に、ハッキリと喋る事ができた。
おそらく、自分と目の前にいる人間が同価値だと思えたからだった。
よくニュースで見る、小さい子供や老人ばかりを狙った犯罪は、おそらく自分より弱いと確信しているからこそ、
ああいった凶行に走る事ができるのだろう、と巧は思った。
はっきり言ってテレビ越しに聞いていても、虫唾が走る。
ただ、そういった犯罪者達と自分は、さほど変わりない精神を持っているのかもしれなかった。

「ほう? どうでもいい女は寄ってくるけど、目当ての人には振り向いてもらえない感じ?」
「そんなところです」
「あ~あるねぇ! でもね、それって世の中が正常に回っているって事なんだよ?
男と女なんて、結局同レベルの人間同士がくっつくんだから」

「あなたは、オレにケンカ売ってるんですか?」
「うん! この前のお返し」
「そんなに明るく言われても」
「でもね、けっこうスッキリしたから。もういいや。これで水に流してあげる」

美佐は心底スッキリした顔を見せた。


427 『きっと、壊れてる』第9話(3/9) sage 2010/10/21(木) 21:42:17 ID:v8AocJEJ
「そうですか。じゃあ用も済んだ事ですし、オレはこれで」
美佐を覆う霧が、少しだけ晴れたからと言って、敵と慣れ合うほど巧はお人好しではなかった。
黒髪の美女から預かっている、封筒。
十中八九、あの中には美佐の気分を揺さぶる何かが入っているはずだった。
自分が美佐に、また悪意を届ける事になる事を思うと、巧は少しだけ心が痛んだ。

「ちょっとちょっと! まだこれからが本番なのに!」
席を立ち上がった巧の服を、テーブルを挟んだ向かい側から掴んだ美佐は、焦った様な顔をしていた。

「ちょっと! 引っ張らないでくださいよ!! 服が伸びる! わっ、わかりました!! 帰りませんから離してください!!」
どうやら、美佐は巧に報復をする事が目的で誘ってわけではなさそうだ。
しかし、赤の他人である自分に他に何の用があるのか、巧は不思議だった。

「なんです? 仕事の愚痴とか言われてもオレにはわかりませんよ?」

「そんなもん、同僚にすればいいだけの話じゃん。今日はね、恋愛の愚痴」

やはりこの女は異常だ。
恋愛の邪魔をしている男に恋愛の愚痴をこぼしてどうする。

「……やっぱり帰ります」
「なんでよっ! せっかくだから聞きなさいよ! ビール飲んだでしょ!」
「あっ! ちょ、本当に! 伸びる! 服が伸びる!! わかりましたよ!!」
「……ったく、最近の若い子は礼儀を知らないわね」

強引に巧を席に戻すと、美佐はいつの間にか取り出していた煙草に火を付け、気だるそうに煙を吐いた。
お前だけには言われたくない、と言いたかったが、話が進まないので巧は流す事にした。

「……煙草、吸うんですね。医療系の人ってみんな吸わないのかと思ってました」

「たまにね。嫌な事あった時だけ。……あぁ、別に君は関係ないから気にしないでも大丈夫」
「そうですか。で、その恋の愚痴とやらは友達にでも話した方がいいんじゃないですか?」

「それがさぁ! こういう時、女は面倒でね~。女の友達って、急な誘いだと断る奴多いのよ。
自分がヒマ人だと思われるのが嫌みたい。くだらないプライドよね~」
美佐はヤレヤレといった表情で、右手に持った煙草を灰皿に置き、枝豆の実を取り出して口の中に入れた。

「あなたの人望がないだけじゃないですか?」
「おっ!? 言う様になったね~青年。……そうかもね、私少し変わってるらしいし」
「……すいません」

美佐をからかう目的で軽口を叩いたつもりだったが、予想しなかった寂しそうな微笑みに、巧は戸惑いを隠せなかった。
まだ2回しか会っていない人物だが、こういう負の感情を露わにする事はないと思っていた。
「いいよ……でね! 仕方ないから一人で立ち飲み屋でも行くかな~っと思ってたら、丁度いい生贄を見つけたってわけさぁ!」

「生贄……ですか、まぁいいですよ。どうせヒマですし、聞きます」
人の心は不思議な物だ、と巧は思った。
ついさっきまで、帰りたくて仕方なかったのにも拘わらず、今は玉置美佐の話を聞いてみてもいいか、という気分になっていた。
玉置美佐が少しだけ見せた弱さに共感したからだろうか。よくわからなかった。
ただ、恋の話なら『村上浩介』についての情報も得られる事が出来るはず。
『村上浩介』と黒髪の美女との関係、彼女が自分を使って嫌がらせをしている理由。
真実に近付ける絶好のチャンスだった。

「おっ!! 良い子だね~!? デザート食べる? 私は今一つ食べて、最後の方にもう一回食べるけど」
「いえ、それよりも腹が減っていて。肉系の物頼んでいいですか?」
巧がそう言うと、美佐は少しだけ驚いた表情をして、母親のような笑顔で頷いた。


428 『きっと、壊れてる』第9話(4/9) sage 2010/10/21(木) 21:42:51 ID:v8AocJEJ
「おい少年!! 聞いてるの!! クソッ! 寝てんじゃねーよ!!」
「少年って歳でもないし……寝てませんよぉ……あんまり頭揺らさないで……」

2時間後、酒に弱い巧はテーブルに頭を突っ伏し、うな垂れていた。
自分を揺すり、お構いなしに喋り続ける美佐に、情けない声で返事をする事が仕事になっていた。

「普通さぁ!! 復縁してまもない彼女を置いて、女と旅行とか行く!? 私には日程決めた後の事後報告で!!」
思考が半分停止しているので、情報はツギハギだが、要するに『村上浩介』が今現在、女性と旅行に行っているらしい。

「はははっそりゃアレっすね、浮気性ってやつっすね」
5分前後の休憩で、少しだけ気分が良くなった巧は顔を上げ、美佐を顔を見た。
酒に強いのか、美佐は顔つきもしっかりしており、あまり酔ってもいなさそうだ。

「はぁん!? 浮気とは限らないじゃない! 私の男、馬鹿にしてんの!?」
同調してほしいのかと思い賛同した巧だったが、もう何も言わずに聞き役だけに徹しようと思った。

「でも、女と旅行なら十中八九浮気なのでは?」
「……事情が少し複雑でね。そうね一番近い表現だと……もう関係は切れている『元彼女』と旅行に行ってる感じ」

「全然わかんないですよ。今の彼女置いて、なんでモトカノと旅行に行くんですか」
黒髪の美女は、『村上浩介』の元彼女という事だろうか。
もしそうならば、玉置美佐に嫌がらせをしている事について、納得まではいかないが理解はできる。
だが、それだと『村上浩介』の行動がよくわからない。
黒髪の美女と旅行に行きたいならば、行けば良い。ただ、なぜ現彼女である玉置美佐に、馬鹿正直に報告する必要があるのか。

考えても、答えは出なかった。
ただ、巧が一つだけ確信した事は、村上浩介は包容力のある男性、という事だった。
巧が突っ伏している間、美佐は延々と一人で喋り続けた。
お酒が入っているからか、それも一般人と少しだけずれた感覚の話。
『個性的』よりも、『変人』という表現の方が適切なその演説は、巧が途中疲れて反応を示さなかった間も続けられていた。

オレにはこんな女無理だ……。
巧は心から『村上浩介』に敬意を表した。

「うるさいわねぇ、それで納得しなさいな。とにかく!! 帰ってきたらたっぷりと説教してやる。慰謝料付きでね!!」
「それでフラれたりしたら、おもしろいですね、ハハハッ」
「何がおもしれーんだよ? おらぁ!!!」
「ちょっと! 頭振らないで! 本当にマズい! アーーーー!! 本当に……ウプッ」

トイレに駆け込む巧を見た美佐は、少しだけ落ち着きを取り戻し、
先程注文した抹茶パフェを口に入れ、これからの事を考えていた。

ていうか……まったく興味はないけど、異性と二人で飲みに来るのはマズかったかな。
ボカしてあるとはいえ、浩介達の事喋っちゃたし……。
後で、もう一回頭振っておくか。

でも浩介も浩介だ。
妹でも茜ちゃんはモトカノみたいなもんでしょうが。
それに加えて、楓とかいう小娘……じゃなかった、新しい妹……って言い方もおかしいか。
とりあえず、得体が知れないからUMAでいいや。

もし、茜ちゃんが浩介を取り戻そうとして、UMAを自在に使える立場にあったとしたら。
あぁ、考えてみれば……今トイレでマーライオンになってる子の雇い主もいるのか。
さらに、可能性は極小だけど『4年前の怪文書の犯人』すら別人で、
私と浩介が復縁した事を知っていたとしたら……最悪の場合、4対1。
さすがに、うっとおしいなぁ。
これは先手を打っておいたほうがいいかも。
こんな所で油売ってる場合じゃなかったわ~。

美佐は自分に気合を入れる様に力強く頷くと、店員の呼び出しボタンを押し、会計を済ました。


429 『きっと、壊れてる』第9話(5/9) sage 2010/10/21(木) 21:43:25 ID:v8AocJEJ
コンッコンッ

「う……スイマセン、もうちょっと待って下さい」
男子トイレの便器にしがみつき、胃の中から逆流してくる物を必死に吐き出そうとしていた巧は、
擦れるような声を出した。

「マーライオン君、私。大丈夫?」
「!? ちょっとここ男子トイ……げほぉ!」
「お~盛大だねぇ、きっと綺麗な虹が掛かるよ。悪いけど、急用が出来たから私帰るね。話、聞いてくれてありがとう」
「別に……不本意ですけどオレも良い気分転換に……ゴホッ! ゴホッ!」
「ハハハッ、会計はしておいたから、気を付けて帰るのよ? じゃね~」

軽やかな口調で別れを告げ、美佐は出て行った。
バタンとトイレの入口ドアが閉まる音がして、遠くから聞こえる喧騒と巧の息遣いしか聞こえない状況に戻った。
こんな状態でどうやって、気を付けて帰るんだよ、と巧は思ったが、なぜか怒りの感情は湧き上がってこなかった。

玉置美佐は掴み所がない。
ただ、黒髪の美女とは違い、対等な対場で巧と接してくれているような気がした。
自分と同じ位置に立ち、同じ目線でぶつかってきてくれる、それが例えノーガードの毒舌だったとしても。
それが巧にとっては嬉しかった。

居酒屋を出て、駅で言うと3つ離れた自宅のある街まで、夜道を歩く。
頬に当たって酒で溜まった熱を冷ましてくれる風が、心地良い。

『村上浩介』という男。

年齢は玉置美佐と同じ25歳。
玉置美佐とは4年前も交際していた。
現在、旅行に行っている。

ハッキリ言って、何の役にも立たない情報だった。
おそらく玉置美佐が、情報統制していたのだろう。

本当に可笑しな女だ。

巧は、居酒屋での美佐との会話を思い出していると、自然に笑みがこぼれた。
久しぶりに『会話』をして、体の中にある溜まっていた物を吐きだしたからなのか、
巧は自分の身体が、少し透明になった気がした。


…………北海道富良野、午後1時。

浩介達は青空のもと、紫色に輝く大地を目の前にしていた。
日本一のラベンダー畑は、言葉を失うほど美しく、デジタルカメラを構えるのも忘れ、3人は美景を瞼に焼きつけていた。

空は快晴。
遠方には山が連なっていて、青く光っているように見える。
視線を下ろすと、サッカーコートが3つ入るぐらいの敷地に、縦20メートル程の列が横に50列程。
柵で囲まれているそれを1ブロックとし、全体では10ブロックの花畑がその色彩を披露していた。

「すごい……本当に綺麗……」
口元を両手で押さえた楓は、まさに感無量といった目を花畑に向けている。

「兄さん、ラベンダーではないけど、あっちも綺麗よ」
茜に言われ、顔の向きを90度右へ向けると、赤、黄、白、オレンジなどの色とりどりの、画が浩介の前に広がった。

「綺麗だな」
その言葉以外に適した言葉はなかった。
「本当に自分が住んでいる場所と同じ国なのか」と疑いたくなるほど、浩介は花が放つ甘美な香りに酔いしれていた。


430 『きっと、壊れてる』第9話(6/9) sage 2010/10/21(木) 21:43:51 ID:v8AocJEJ
「そうね、でもね花畑は勝手に出来上がるわけじゃないわ。除草したり、刈り取りをしたり、
管理者たちの努力があってこそ、この美しさがあるのよね」
「そうだな。すごいよ。俺も定年したらやろうかな」
「フフッ、ぶきっちょな兄さんじゃ、花ごと刈ってしまいそうね」

茜はラベンダーに負けないくらいの可憐な微笑みを見せると、ゆっくりと歩き始めた。

浩介は昨夜の事を思い出した。
茜の目。一人の女としての瞳。
本人に聞くべきなのか、浩介は迷っていた。
仮に聞くとしても、なんと言えばよいのか。

「まだ俺の事を愛し続けるつもりか?」とでも言うのか。

浩介は、自分の対応力のなさにほとほと呆れ果て、『とりあえず茜の様子見』という結論を出さざるを得なかった。

いつの間にか、花畑を挟んで向かい側まで歩いていた茜の姿を目で追いかけていた。

柵に囲まれた花畑を、眩しそうに見つめる茜の横顔が印象的で、周りにいる他の観光客など浩介の目には入らなかった。
ラベンダー畑と茜。
その情景は、どんな名画よりも浩介の心に世界の美しさを印象付けた。

…………。
……。

「きゃ~! 超かわい~!!」
花畑を満喫した浩介達は、ファームの入口近くにある土産屋に立ち寄っていた。
材木で立てた小屋のような建物から、素朴さが滲み出ていて雰囲気の良い店舗だ。

楓は、ラベンダーで作られたらしい透明石けんを手に取ると、甘えるような顔で浩介を見た。
言葉を発さなくても楓の言いたい事はわかる。
こういう時、喜怒哀楽がはっきりしていると便利なものだ、と浩介は思った。

「いいよ、買ってやる」

「やった! でもね、ボディソープも欲しいから、やっぱり入浴セット一式が良い! お願い! おにいちゃ~ん!」

最初からそれが目的だったのか、楓は上の棚に陳列されていた石鹸、ボディソープ、ハンドソープなどがセットになった商品を指差した。
安い物で許可を取り、後付けで本来の目的を果たそうとする行動は、倫理上あまり好ましくないと浩介は思ったが、
腕を取り、さらに甘える声で纏わりつく楓に、頷く事しかできなかった。
ただでさえ、美人の女性二人を連れて歩く浩介は目立っていたからだ。
おそらく浩介が恥ずかしがり、ヤケになるのを計算した上でのオネダリだった。

「兄さん、私はこれ」

振り返ると、それまで一人黙って何かを熱心に見ていた茜が後ろに立っていた。
手に持ったぬいぐるみのような物を浩介の胸の前に突き出すと、茜は「よろしくね」と言わんばかりに頷いた。

受け取った物を見る。
『ラベンダー色』とでも言うのか、薄い紫の体色をした小さい熊のぬいぐるみだった。
雌なのだろうか、頭に付けられた一房のラベンダーの装飾が、間抜けな顔をより一層引き立てる。

「……これ? ……これが欲しいのか?」
「うわぁ……お姉ちゃんの趣味、相変わらず」

そんな浩介達の文句にも顔色一つ変えず、茜は黙ったまま目で浩介の答えを待った。


431 『きっと、壊れてる』第9話(7/9) sage 2010/10/21(木) 21:44:27 ID:v8AocJEJ
『熊嵐』読んだ後でよく熊のぬいぐるみ買う気になるな。
俺が楓のワガママを断れないと察して、便乗しただろう?

言いたい事は山ほどあったが、茜の真剣な表情に押され、結局浩介は妹達の甘えを受け入れた。

後になって気付いた事だが、茜がせがんだ熊のぬいぐるみは、値段が比較的手頃だった。
おそらく浩介のお財布状況を知っていたのだろう。

浩介は、人に気付かれない、偽善的ではない優しさを持った茜が、とても誇らしかった。

それでも。茜が物を強請るなんて、いつ以来か。
浩介は温かい気持ちが胸から溢れそうだった。

札幌のホテルの一室。
街から少しだけ離れたこの宿の外は、散歩するのにも注意が必要なほど完全なる闇だった。
時計の針は深夜の2時を指し、大勢の人間が一つ屋根の下に宿泊しているのにも拘わらず、
辺りは何の音もしない。

近頃、真夜中に急に目が覚める事が多い。
先日受けた健康診断では、特に異常は見当たらなかったので、体の問題ではなさそうだ。
浩介はベランダ側のベッドの中で「フゥ」と溜め息をつくと、何の変哲もない天井を見つめていた。

明日には東京へ帰る。
そして1週間もしない内に、また日々の生活に戻るかと思うと、
このまま瞼を閉じて、すぐに二度寝してしまうのはもったいないような気がした。

少しだけ顔を横に向けると、入口に一番近いベッドに茜の後ろ姿が見えた。
こちらに背を向け、規則正しく肩が上下している。
思えば、ついこの間まで一緒に寝ていた相手だ。
浩介は恥ずかしくり、そして罪悪感が湧いた。
すぐに目線を自分と茜の間で眠っている楓に向けると、浩介は思わず仰け反りそうになった。

妖しい目。

普段とは何かが違う楓の瞳がこちらを凝視していた。
シーツに包まり、浩介の方を向いて寝そべっている。
いつから起きていたのか、浩介と目が合うと楓はクスリと笑い、小声で声を掛けてきた。

「こんな時間にどうしたの? 眠れないの?」

「驚かすなよ。心臓止まるかと思った」
昼間とは違い、全て下している楓の黒く長い髪は、
日本人形を思わせ、暗闇の中では美しくも不気味な何かのように思えた。

「俺はさっき急に目が覚めたんだ」
「ん? 聞こえないよ」
「さっき、目が覚めたんだ」
「あぁ、『さっき目が覚めた』ね。……ねぇお兄ちゃん、そっち行ってもいい?」
楓は浩介の返事を待たず、自分にかかっていたシーツを剥がすと、
小動物のように素早く浩介のベッドの中に潜り込んできた。

「おっ、おい! 何やってんだ!」
「ヘヘヘッ久しぶりだね、お兄ちゃんとこうやって話すの。温いなぁ」
楓の顔が目の前にある。
こうしてマジマジと見ると、普段は細か過ぎて気付かない茜の顔との違いを発見する事が出来る。

「いいから、戻れ。もう子供じゃないんだから」


432 『きっと、壊れてる』第9話(8/9) sage 2010/10/21(木) 21:44:56 ID:v8AocJEJ
浩介はそう言いながらも、多分素直には従わないだろう、と思った。
楓の行動には振り回されてばかりだからか、ある種あきらめのような気持ちもある事は事実だ。

「少しだけ。眠くなったら、戻るから」

その内飽きて、自分のベッドへと帰るだろう。
浩介はそう思い、もう肯定も否定もしなかった。
吐息がかかるほど楓の顔が近くにあった。
それに、子供時代とは決定的に違う場所、白い胸元が少しだけはだけた浴衣から、垣間見えた。
目のやり場に困った浩介は、顔を再び先ほど眺めていた天井に向けた。

「久しぶりだね、お兄ちゃんとこうやってお話しするの」
浩介の方を向いたまま、楓は身を擦り寄せた。

昔、楓が夜に怖い夢を見ると、浩介の部屋まで駆けて来て、ベッドに潜り込む事があったのを思い出した。
同じ部屋に茜が居るじゃないか、と浩介が聞くと、「おねーちゃんは女の子だからオバケを退治できない」と真剣な表情で、
言い張っていたのを憶えている。
そうやって、浩介は半泣きになりながらも部屋まで駆けてくる楓を、自分のベッドへと迎え入れ一緒に寝ていたのだ。

当時の事を思い出し、浩介は苦笑いを浮かべた。
そしてチラリと目を配り、茜の定期的に上下している肩を確認した後、胸をなでおろした。

「ありがとね、お兄ちゃん」

先程から浩介がまったく返事をしていないのにも拘わらず、楓は一人ボソリと呟いた。
そして楓はシーツの上位置を上げると、浩介と楓の頭を覆うように被せ、密閉した空間を作った。
浩介の視界には真っ白なシーツが広がり、横を見ればシーツの白以外は、楓の顔しかない状態になった。

秘密基地のように、境界を張った空間。
おそらく、多少声のボリュームを上げても外に漏れないからだろう。
茜への配慮だ。

「満足したなら、自分のベッドへ帰ろうな」
「あははっ、違うよ。この旅行の事」
「楽しかったか?いや、まだ後1日あるけどな」
「うん、もちろん楽しかったよ。お姉ちゃんもすごくハシャいでいたみたい。本当に来れて良かった」

確かに茜は近年稀に見る上機嫌だったように思う。
昨夜の事だけは気がかりだが、全体として見ればやはりこの旅行は正解だった。

「また、その内連れて行ってやるよ。今度は函館行こうな」

優しい目をして、そう語りかける浩介の声に楓はゆっくりと頷いた。
しかし、次に楓の口から出た言葉は、浩介の予想に反したものだった。

「ありがとうお兄ちゃん……でもね、もう終わりなんだ」

「終わり? 何が?」
「こうして兄妹3人、昔のままの関係で、昔のように仲良くするのが」
楓の瞳は真実を語るものだった。

「え? なんでだ? まさか結婚でもするのか!?」
「相手は誰だ!」と、続けて言おうとした浩介は楓の様子がおかしい事に気付き、軽口を叩くのをやめた。
浩介は冗談で言ったつもりだったが、楓は少しだけ微笑んだだけで、すぐに真剣な表情に戻っていたからだ。

「ううん、違う。でも……もう実家へ帰れなくなるって所は同じかな」
「はぁ? 意味がわからない。楓、ちゃんと説明してくれよ」
話をぼやかす楓に少しだけ焦れた浩介は、問い詰める様に楓の目を見た。


433 『きっと、壊れてる』第9話(9/9) sage 2010/10/21(木) 21:45:31 ID:v8AocJEJ
深く黒い瞳。
……どこかで、見た事がある。
浩介は気付かないフリをした。

「お兄ちゃんはさ、お姉ちゃんの事好き? 愛している? それとも今の彼女の方が良い?」

心の傷口を塞いだ絆創膏を、不意に一気に剥がされたような感覚だった。
楓の表情に変化はない。
黒い瞳は瞬きもする事なく、浩介の瞳まで取り込まれてしまいそうな気がした。

「っ……楓……俺達が家を出た理由を知っていたのか?」
浩介はおそるおそる楓の口元に視線を向けた。
「何の事?」と言ってくれるのを、祈る様な気持ちで歯軋りをした。

「知ってるよ」

どこから漏れたのか。やはり両親か。
仕方ない。自分はそれだけの事をしたのだ。
実の妹に忌み嫌われ、一生を過ごそう。しかし、それでも茜だけはなんとか救わなくてはいけない。
浩介が「茜は何も悪くないんだ」と言いかけた、その時だった。

「私も同じだから」

「『私』……? 『同じ』?」

「きっと私達兄妹は、生まれた時から壊れているのね、兄さん」

それは低く、冷たい、凍えてしまいそうな声だった。

そして、気付いた時にはもう遅かった。
すぐそこにあった楓の柔らかそうな唇は、浩介の唇と繋がり、中の唾液を啜るように音を立てていた。

「ちゅ……ぴちゃ……。はぁ……兄さん、あなたを迎えに来たの。フフッ……私の可愛い兄さん」
浩介の頬を左手で撫でると、楓は妖しく笑った。

「あ……かえで……」

頭の中が混乱して、どうしていいかわからなった。
浩介は被さっていたシーツを力任せに取り除くと、火事でも起きたかのようにベッドから抜け出した。

「どうして……楓……」

薄暗い部屋の中、浩介は助けを求める様に茜を探した。
デパートで迷子になった子供のように、不安が溢れた。
茜を視界に捉えるまでの1秒と掛からない時間が、やけに長く感じた。

茜は、こちらに背を向けたまま、微動だにしなかった。

第10話へ続く


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最終更新:2010年10月24日 22:06
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