292 :
翼をください 1 ◆.MTsbg/HDo :2010/12/16(木) 22:25:48 ID:+Dw3/ozY
#0-1
ゆっくりと、視界が開けて行く。淡い光。
目を覚ました、彼の事を考えてなのか、節約のためなのか、部屋の照明は落とされて、カーテンの閉じられた窓から射す光が仄かに室内を照らしている。
目覚めたばかりの彼、御鏡朝陽(みかがみ あさひ)の視界いっぱいに天井が広がっていた。
所々がくすんだ白い天井。見慣れない天井だな、と思う間もなく、目を反らした。
起きぬけの彼にとってはくすんだ白い天井さえも眩しく感じられた。目を反らすだけでは足らず、首をひねり、顔を横向けに。勿論、光の漏れる窓ではない方向を。
――何故だろう。
首をひねる。たったそれだけの動作が、妙に鈍かった。ばきばき、と首から不穏な音さえ聞こえてくる。
まるで、寿命が近づいて、処理が重くなってしまったPCのような、そんな感覚。
自分の身体は、もう年老いてしまったのだろうか。朝陽は、こちらも処理の重い頭で状況を掴もうとする。あの日から、どれくらいが経ったのだろう。
「――?」
あれ?そう朝陽は呟いたつもりだった。しかし、喉がへばりついてしまっていて、どうにもうまく声が出せない。結局、ひゅう、と細い息が漏れただけであった。
しかし、そんな異変もいまの朝陽にとっては、優先順位が後であった。
そんなことよりも。
朝陽は、先の自分の思考に疑問をもった。
あの日っていつだ?自分の身体は、年老いているのか?じゃあ、自分は一体何歳なのだ?
朝陽の中に、ふつふつと疑問がわいてくる。それは、濁った泉に浮かぶ泡のように、弾ける事なく、次から次へと。
ここはどこだ。どうして、僕はここで寝ているのか。僕の身体はなぜ動かないのか。
僕?一人称が僕という事は、性別は男なのか?それとも、女なのか?一人称が僕である女というのも存在しないわけではない。
そもそも。
ズキンと頭に鋭い痛みがはしった。朝陽は、反射的に頭を抑えようとして、けれど腕は持ちあがらなかった。
そもそも、僕は、誰なのだ?
通常ならば、おかしな疑問だ。けれど自分という輪郭がぼやけて、掴めない。まるで雲をつかもうとしているかのような。
朝陽は、自分を探して記憶を探っていく。言葉をはじめとした知識はある。どうやら、記憶が全くないわけではないようだ。
けれど、思い出がひとつもない。
思い出の欠片を探して、更にさらに奥へ。不意に、朝陽の中で何かが過った。
――ゾクリ、とした。
黒く澱んだ塊のような感情。それは後悔や悲しみ、憎悪、罪悪感や無力感、そんな昏い感情を濃縮し凝らせたような。
恐怖に、体が震えそうになった。自分の意志では、上手く体を動かせないというのに。
怖いのに、朝陽の思考は止まらない。一歩一歩、確実に近づいていく。
ソレは暗闇の中、目を光らせてじっとこちらを見ている。
やがて、すぐ傍にたどり着いた。
朝陽の思考は、ゆるゆるとソレへと手を伸ばし――
――触れた。
「……っぁぁあああああ―――!?」
瞬間、泉一面を漂っていた泡が、計ったかのように一斉に弾けて行く。
原因は分からないのに、ただ昏い感情だけが朝陽を急き立てて。
朝陽は、無我夢中にへばりついた喉を乱暴に引き剥がしながら、叫んでいた。
その声は、まるで産声の様に白く、暗い部屋に響き渡った。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
叫びながら、朝陽はその言葉をまるで呪詛の様に、心の中で呟いていた。
ああ、どうして。
どうして目を覚ましてしまったのだろう。
ひときわ強い後悔の念が朝陽の胸をぎゅうと締め付ける。
つ、と朝陽の瞳から涙が伝う。
その涙が一体何に齎されるものかも分からないまま、朝陽は、一人涙を流し続けた。
陽の昇らない毎日は、ゾッとするほど退屈で、色あせたものだった。
彼女の陽が沈んで既に1年が経とうとしていた。
彼女は、表面上はいつもと変わらぬ凛とした様を見せながら、心の中を巧みに覆い隠してこの1年を過ごしてきた。
もしこの世に他人の心の中が覗ける超人がいて、彼女の心の中を覗いたならば恐怖に怯え、眠れぬ日々を過ごす事になっただろう。
そして、人を超えた力をもって生まれてきた事を心から後悔する事になる。そのくらい、彼女の心中は澱み、蠢いていた。
2年前は、特に気にする理由もなかった何気ない日常の何もかもが、彼女をイラつかせた。
彼がいなくなった事を蔭ながら、けれど聡い彼女にはありありと分かるくらい喜んでいる親族。昔からそうだったが、最近、何かにかけて纏わりついてくる弟。
それら取るに足らなかったはずの事柄が、あの子が居なくなった途端に彼女の気に障るだけのモノになり果てた。
「ああ――」
そして今夜も、鬱陶しい弟を適当な理由でかわし一人部屋に篭り、月を見上げ嘆いている。
あの子がまさかこんな事になってしまうなんて。
全ての元凶は、あの女だった。思い出すだけで、ぎりり、と歯軋りが鳴る。あの女が忌々しくてたまらない。いや、あの女だけではない。
あれほど目にかけてやっていたのに、裏切られた。今より少し幼かったとはいえ、のうのうと信じ切っていた自分が忌々しいのだった。
それでも、何とかあの女に裁きを与えたまでは良かった。しかし、そこで想定外の失敗が生じた。
素性も知れない野蛮な屑共に任せたせいで、あの子にまで被害が及んでしまった。ぎゅう、と彼女は拳を握りしめた。あの屑共。怨嗟の言葉を呟く。
あの屑共には、ありとあらゆる苦痛と絶望を味あわせたのちに処分したけれど、それでも気持ちがおさまる事はなく、思い出すたびに腸が煮えくりかえる思いだ。
「ああ、朝陽」
彼女は、月を見上げたまま愛しい弟の名を呼ぶ。
あと数時間後には月は沈み、朝の陽が世界を照らすだろう。しかし、その陽は彼女の世界を照らす事はない。
そんな彼女をあざ笑うかのように、でっぷり肥った月が夜空を漂っていた。
彼女は、何を思ったのか、知らず、その月に向かって手を伸ばそうとして――
「夜空様」
――闖入者の声に、はっと我にかえる。
彼女の部屋、障子の戸の向こう、正座する男が頭を下げているシルエットが映っていた。彼女の事を夜空様とよんだその影の主は、彼女の家の使用人であった。
……こんな夜更けに訪問してくるなんて、少し配慮に欠けるわね。彼女は、形のいい眉をひそめた。
「何か用?」
底冷えするような、低い声で答えた。
例え自ら望んでの思考ではなかったとはいえ、思考を無遠慮に邪魔され、彼女、御鏡夜空(よぞら)の機嫌は一気に急降下していた。
これで下らない用事だったならば、この男の未来は暗く閉ざされることになるだろう。
夜空の八つ当たりの感は否めないが、彼女はこの家における法に近い存在、仕方ないと諦めるほかはない。
彼女の声の異質を感じ取ったのか、男の身体が一度小さく震えあがった。
「ご、御報告が……」
声も幾分か、震えている。しかし、そんな事は気にも留めず、
「それは、こんな夜分に、女性の部屋に押し掛けて来てまで、話すこと?」
むしろ、態と威圧するかのように、一つ一つ言葉を区切って聞き返した。
障子の前に座る男は、まるで断頭台に座っているかの気分であろう。彼女は、障子越しとはいえ男の気持ちが手に取るように分かった。
「あ、朝陽様の事でございます……」
そして、この報告が果して夜空にとって良いものなのか否か、男には判別がつかない、その事が一層恐怖を駆り立てていた。
御鏡夜空が弟の一人、御鏡朝陽に可愛がっていた事は、御鏡に仕える者たちの間では周知の事実である。
更にその中でもごく一部が、それが並々ならぬ執着である事を知っている。男は、その中の一人だった。障子の向こう、夜空が蠢いた音に微かに体を震わせる。
「話しなさい」
ぴしゃりと凛とした声が、静かな夜に響く。は、と男は声を震わせた後、
「朝陽様が、今日、目を覚まされたとの事です」
「……何ですって?」
それは、夜空がこの二年間で最も待ち望んでいた言葉だった。しかしそれ故に、疑心の様なものが彼女のなかに芽吹く。
「朝陽様が、今日の正午ごろに目を覚まされたと、医師の方から報告がありました」
「……正午?私の方には、今の今まで、何の報告もなかったのだけれど?」
朝陽が目を覚ました事実が今の今まで、自分に届いていないと言うのはおかしな話だった。
朝陽の入院する病院は、御鏡の息のかかった病院で、普通ならば、いの一番に医師から直接報告が来るはずではないか。
それともまさか、またあの糞爺の介入があったのだろうか。ありえない話ではなかった。あの老害ならばやりかねない。
「実は、その……し、少々、問題がありまして……」
男の更に縮こまった声が夜空の不安を更に煽ってくれる。
この先を聞きたくない、耳をふさいでしまいたい。そんな気持ちに駆られてしまう。そんな気持ちとは裏腹、実際は耳を澄まし、神経をとがらせている。
「そ、その……医師の話によると、朝陽様は、どうやら記憶を失ってしまわれているご様子で……」
「――記憶を?」
夜空は思わず怪訝な声を漏らした。その声に何を感じ取ったのか、ひ、と男の息遣いが聞こえた。
「そ、ど、どうやら今までの、思い出全てを失われているようで……」
勉強したことや、一般常識などの知識は忘れていらっしゃらないようなのですが、そう男は続けているが、既に夜空には聞こえていなかった。
記憶を失った。あの子が?
「それは、記憶喪失という事かしら?」
「え、えと、そうですね。一言で述べるならば」
ピントの何処かずれた夜空の問いに、男は戸惑いの色を見せる。
夜空は、そう、記憶喪失。と小さく呟いた。
記憶喪失。テレビや漫画などを殆ど見ない夜空にとっては、あまり耳慣れない言葉であるが、その症状くらいは分かる。
朝陽が記憶を失った。それは、話を聞く限り、今までの事全てを忘れているという事。
夜空と朝陽が今まで過ごした、彼女にとっては一つとして無駄なものなどない十何年もの日々を、全て。全て。全て。
一緒の布団で眠った事も、笑いあった事も、喧嘩をした事も、鍛錬しあった事も。何もかも、全て。
「そん……」
呆然とつぶやこうとして、はたと気付いた。全て忘れた?
がばっと、夜空は立ち上がった。二三歩大股に進むと、障子の前に立つ。頼りない壁を挟み、頭を下げていた男が、気配と物音に身を固くした。
「それは」
夜空の声は抑揚がなく、やけに平坦に響いた。
「それは、朝陽が生まれてこれまで出会った人間の顔も、名前も、まるっと忘れてしまったという事でいいの?」
「は、そう言う事になります。残念ながら、夜空様の事も――」
「――あの女の事も忘れた、そう言う事?」
「……」
「どうなの?」
「今のところ、れ、例外はないと言う事を聞いております」
「そう」
そう。そう。何度か呟いて、夜空は、ふらふらと数歩後ずさりした。
自らの、長い髪をかきあげて視線をさまよわせる。視線が、月を捉える。銀の月。何を思い、彼女を見下ろしているのか。夜空と月の視線が交錯する。
意識せず、夜空は口元をゆがめていた。何か、大きな感情がこみ上げてくる。
遠くから獣の遠吠えが聞こえる。ぐおお、ぐおお。喝采があがる。
夜空は、この時ばかりは感情に流されるまま表出する。
――くつくつ。
男は、笑い声を聞いた。
何か、地獄の底から這い上がってくるような、怖気の走る、そんな笑い声。大の男を逃げだしたい気持ちに駆らせ、けれど、その場に磔にする、そんな。
「ふ、ふふふふふ。そう、そう、そう。全て、あの女の事も……それは、それは」
笑い声の主は、当然夜空である。形の良い唇を下弦の三日月に歪め、いとも嬉しそうに。
「あの女、死んでも尚、無様な事ね。ふふふ、滑稽だわ。ねえ、そう思うでしょ?」
「……は」
「これは僥倖。不幸中の幸い、というのは、ふふふ、こういう事を言うのかな。考えうる最高の結末。ねえ、そう思わない?」
「……は……」
僥倖。弟が記憶喪失になった事をそう呼び、笑う夜空の気持ちを計りかね、男は曖昧な答えを返す。
夜空は、男の態度を気にした風もなく、笑い続けている。
「これはいいわ、最高よ。あの女のことも、かつての想いも全て忘れて、なかった事にして。
これからは、私と全部一から創り上げていくの。あの忌々しい女は、もういないのだから」
まっさらな朝陽。あの女は居ない。夜空と朝陽二人の間の障害は消え去ったのだ。朝陽の中の記憶ごと。
あの屑共も結果的には役立った事になる。
処分するのはやめにして、海外に奴隷として売り払うくらいですませてやればよかったかしら。ああ、でもそちらの方が苦痛かな。
そんな事を考えて、けれど、直ぐに彼女の思考は朝陽の事で埋め尽くされる。
漸く、彼女の世界を朝陽が照らす。けれど、浮かれ過ぎるのも良くない。今度は、二度と同じ過ちを繰り返さないようにしなければ。慎重に、確実に。
この機会を失えば、もう二度とこんな奇蹟は訪れないだろうから。
「朝陽、待っていてね、直ぐにお姉ちゃんと幸せになれるから」
漆黒の大海に浮かぶ満月に向かって、夜空は声を弾ませた。
――もう二度と、月のためになど泣いてやらない。今度こそ、唯一、望むものをこの手に。
#1-1
桜の花びら、桃色の花弁がいくつも風に舞っている。ゆらゆら、ゆらゆら。
木製のベンチに腰掛けて、ポカンと口をあけたアホ面でその様を眺める朝陽の身体も、自然と花びらの動きに合わせて揺れていた。ゆらゆら、ゆらゆら。
傍から見れば、まんま変人に変わりない朝陽の行動ではあるが、朝陽の周りには見事なほど人の姿がない。
朝陽が電車を何本か乗りつぎ降り立った小ぢんまりとした駅は、駅員の姿のない無人駅だった。
この駅で数人の乗客が乗り降りしていたが、その場に止まる者はおらず、朝陽はこうして一人ぼんやりとまちぼうけをくらっていた。
朝陽が確認したところによると、この駅には多くて1時間に2本しか電車が通らないので、朝陽の奇行を見知らぬ他人に見られる事はないだろう。
無人駅の周りに朝陽の気をひくものは満開の桜くらいで、花を愛でるような繊細な感性の持ち主ではない朝陽だったが、他にする事もなく体を揺らす。
時間を持て余しながらも朝陽がこの場所を動こうとしないのには理由があり、それは、彼がここで待ち合わせをしている最中だからである。
長閑な田舎町。鶯の鳴き声が時折響いている。朝陽の足元には可愛らしい花をつけた草が、涼やかな風に揺られている。
朝陽の数十メートル先には車道があるが、殆ど車が通る事はない。
駅前には民家が建ち、見たところ商店の一つもない。
自動販売機はあるようだが、もとより朝陽は一文無しである、ジュースの一本も買う事が出来ない。
めざめてからこっち、都会にある病院で過ごした朝陽にとって何から何まで新鮮なこの町。
この町が、彼、御鏡朝陽の生地なのだという。この、思い出のない町が。
朝陽は、何か心の琴線に引っ掛かるようなものはないか、何処かで見たような景色はないか、と辺りを見回す。
けれど、そこには病院のTVでみたような、どこにでもある田舎町がひろがっているのみだった。
ゆらゆらと揺らし続けていた体を漸く停止し、朝陽は、はふ、と溜息にも近い吐息をひとつ。
その吐息に疲れの成分が多分に含まれている事を実感し、朝陽は、自分が予想以上に疲労している事を知った。
リハビリを終えたばかりの朝陽にとって、電車による旅はそれなりの負担であったようだ。
今まで疲労をあまり感じていなかったのは、朝陽の中にある緊張や不安が感覚を鈍らせていたのだろう。
朝陽は、これからこの町で暮らさないといけない。
ここは朝陽が生まれ、育った場所、故郷とも言うべき場所なのに、朝陽は、まるで自分が一人見知らぬ街に放り出されてしまったかのように感じた。
朝陽の生家である御鏡家の使いを名乗る男が現れたのは、朝陽が病院で目を覚ました3日後の事だった。
1年眠り続け、突然目を覚ましたと言う事で、検査やら何やらで忙しい朝陽の病室に現れたその男は、朝陽の疑問に答えてくれた。
曰く、自分は名家と呼ばれる家の出らしい事。この入院している病院は、御鏡家の息のかかった医者がいる事。
しかし、何故朝陽がこの病院に入院し、あげく記憶を失ってしまったのか、その原因を教えてくれる事はなく、把握していないの一点張りだった。
そして、1年間はこの病院でリハビリと、入院で遅れた分の勉強をするように言付けられたのだった。
何でも、御鏡家の当主の命令らしいが、どのみちリハビリなしではまともに動けない状態だった朝陽は、血を吐くようなリハビリと猛勉強の毎日を過ごすしかなかった。
正に地獄だった、と朝陽は思う。
起きている時間は、リハビリか勉強か。
錆びついた体に鞭打ち少々無理めなリハビリをこなしつつ、御鏡家が送って来た家庭教師のもとで、一日10時間程の勉強を毎日休むことなく続けさせられた。
まさに起きている時間は、リハビリか勉強家の2択しか朝陽には用意されていなかった。
その辛さたるやリハビリで病院内を歩き回る途中で、休憩室にあるTVをちらりと窺う事が朝陽の楽しみだったくらいである。
病院で患者に苦行を強いる様な事許されていいのかと朝陽は思ったが、そう言えばこの病院は御鏡家の息がかかっているとか言っていたな、とすぐに諦めた。
そして地獄の様な長い1年が経った頃、再び御鏡家から使者が現れ、御鏡の家で暮らすように通達を受けたのだった。
一方的な通達と言えばそうであったが、朝陽に断るすべなどなかった。
記憶もなく、先立つものもない朝陽が、この先天涯孤独で生きていけるはずもなく、その顔も知らない家族にすがる他なかったのだ。
ちなみに、朝陽が入院している間、朝陽の家族を名乗る者の見舞いはなかった。
自分は嫌われているのではないか、と朝陽は思っている。自分がこれから御鏡家で暮らす事を歓迎しているものなど居ないのではないか、と。
以前の自分が家族に対し何をしでかしたのか知らないが、一年ぶりに目覚めた家族のもとに見舞いに来る人間が一人も居ないというのはあんまりだと思う。
その事を考えると、これからの生活への不安で胃がキリキリしてくるので、朝陽は出来るだけ考えないようにしているのだが。
「ま、なんとかなるだろ」
不安はある。むしろ、いっそ清々しいくらいに不安しかないのだが、そう思って切り替えないとやっていけない。
大体、もう目を覚まさないだろうとさえ言われるような大事を経験したのだ、故郷でぼっちになるくらいなんて事はないだろう?
そんな事を自らに言い聞かせている朝陽の眼前に、一台の車が止まった。
「おいおい……」
朝陽は、思わず呟いた。朝陽の前に滑るように現れたその車は、黒塗りで妙に車体が長く、所謂ベンツと呼ばれるものだった。
こんな田舎町で、まさかこんな代物を見る事になるとは思っていなかった朝陽は、目を丸くした。
春の麗らかな日射しを受けて、漆黒の車体がきらりと目にまぶしい。
まさか毎日洗車してるんじゃないだろうな。朝陽は、ふとそんな事を考えた。
車のドアが開き、まず運転手が降りてきた。黒のスーツを着た几帳面そうな、初老の男。
彼は車のドアを閉めると、呆然と成り行きを見守るしかない朝陽に向かってぺこりとお辞儀をする。
慌てて朝陽も座ったままお辞儀をしかえすが、まだ事態を把握しきれていないせいか男を上目遣いでとらえたまま、しげしげと男を観察する。
そんなあまり行儀の良いとは言えない朝陽の行為を咎める事もなく、男はさっさと反対側の後部座席の方へと回り、ゆっくりとドアを開いた。
スッと車の中から足が伸びてくる。
一目で女性の足だと分かるくらいの細さのけれど、どこかふっくらとした足。黒いストッキングに覆われてはいたが、何だか朝陽は恥ずかしい気持ちになってしまう。
――果して車の中から降りてきた人物は矢張り女性で、とてつもなく美しい人だった。
その女性は、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。
その所作は洗練されていて、ベンツから降りてきたという事実を省いても彼女が生粋のお嬢様と呼ばれる存在である事が窺えた。
297 :翼をください 1 ◆.MTsbg/HDo :2010/12/16(木) 22:33:38 ID:+Dw3/ozY
春の日向で煌めく艶やかな黒髪はすっと腰のあたりまで伸び、ベンツの漆黒に勝るとも劣らない。
透き通るような白い肌は何処か儚げな印象を抱かせ、朝陽は思わず日傘をさしに駆けつけてやりたい気分になった。勿論、日傘なんて持っていないけれど。
身長も女性にしては高い方で、恐らく朝陽よりは小さいが、あまり差異はないように見えた。
といってもモデルの様にスレンダーという訳でもなく、適度に肉付きが良く、女性的なふっくらとしたラインを描いている。
年の頃は、朝陽とあまり変わらないようで、何処か見知らぬ学校の制服を着ていた。学校帰りなのだろうか?
そして、なにより朝陽の視線を集めたのが、その胸である。
体の凹凸があまり目立たない制服を来ても尚、ぐいと衣服を持ち上げるその胸は、余り女性と接しなれていない思春期真っ盛りの朝陽にとって、目に毒であった。
かああ、と顔が熱くなっている事を自覚し、何とかごまかそうと服をパタパタさせてみる。熱いなあ~とかそんな感じで。
「あー、熱いなぁ~」
言葉に出して、更に誤魔化し強化を図る。顔をそむけ太陽を睨むふりをするものの、矢張り視線はちらちらと胸元に。
そんな朝陽に女性は、くすりと笑みを漏らした。
「あ……」
足元に咲いている、小さく、可憐な花の様な微笑み。その笑みに思わず朝陽は、見惚れてしまう。
さっきまで胸が気になって仕方なかったのに、彼女の笑みに釘づけにされた。
「久しぶりだね、朝陽」
不条理だ。これだけ容姿と生まれる家に恵まれて、その声さえも美しいなんて。
そのぷっくりとした紅唇から、だみ声が聞こえてくるとは思っていないが、もう少し分かりやすい欠点があっても良いんじゃないだろうか。
目の前の少女は完璧すぎて、まるで現実感がないようにさえ朝陽には感じられた。
「……て、え、俺?」
数秒遅れて朝陽の脳が、彼女の言葉を噛み砕き嚥下した。
何か別の朝陽を探すように、きょろきょろとあたりを見渡す。
まだ朝陽と言う名前に慣れ切っていない事もあるにはあるが、彼女の口から零れると自分の名前が自分の名前でないかのように感じたのだ。
しかし周りに「あさひ」はなく、空を見上げても今は昼である。
第一、人でないものに久しぶりね、なんて話しかけるわけがないのだが、それくらい朝陽は混乱していた。
「そう。私が呼んだのは、御鏡朝陽、貴方」
フルネームで呼ばれ、さすがに朝陽も自分が話しかけられている事を理解する。
この少女、やけに親しげである。朝陽とはどうやら初対面ではなさそう、である。
しかし、こんな美人と知り合いだった記憶はない。といっても朝陽の記憶は1年分しかないのだが。
という事は、記憶を失う前の知り合い、という事になる。
もしかしたら、朝陽が記憶を失っている事を知らないのかもしれない。
「……あ、えと」
どう切り出そうか、と困惑気味に顔を曇らせる朝陽であったが、直ぐにその表情は驚きに塗りつぶされることになる。
少女がいきなり抱きついてきたのである。
「ちょ、え、え!?」
何でやねん、である。TVで何度か耳にしただけの関西弁を朝陽は、心の中で力いっぱい叫んでいた。
唐突に現れた謎の美少女が、これまた唐突に抱きついてきた。
無意識なのか、はたまた意識的になのかは分からないが、少女のわがままボディが朝陽に押し付けられている。
ふにょん、という間の抜けた効果音が朝陽の中で再生された。
脳がしびれるような甘い香り。それは麻酔の様に、朝陽をからめとる。
こんな熱烈な抱擁、もしかしてこの少女は記憶を失う前の恋人だったりするのだろうか。だったら、かなり羨ましい。
自分の事ではあるが、基本的に記憶を失う前の朝陽と今の自分とを別人として考えている朝陽は、過去の自分に嫉妬してしまう。
朝陽が長い眠りについたのが二年前、ということはその時からすでにこんな美少女を侍らせていたという事になる。
そりゃあ、記憶を失うほどの事件に巻き込まれるわけである。自分はきっと人生における殆どの運を使いきっているに違いないのだ。
不意に、朝陽の心の中に邪な考えが過る。抱きつかれている少女の腰に、自分も手をまわしてみようか。
298 :翼をください 1 ◆.MTsbg/HDo :2010/12/16(木) 22:34:37 ID:+Dw3/ozY
彼女の柔らかそうな体を、ぎゅうと抱きしめてみたい。そんな気持ちに駆られたのだ。
朝陽は、そろそろと腕を持ちあげてみる。触れるだけで壊れそうなその体に触れようとして――
「っく、ひっ……くぅ」
――朝陽の胸の中で、少女は嗚咽を漏らしていた。
何とか堪えようとしているのか、体を縮こまらせて、それでも朝陽を抱く腕の力は一層強く。
そ、と窺うと、少女の瞳に大粒の涙が溢れては零れていた。
朝陽は、急に申し訳ない気持ちになる。彼女は朝陽との再会に涙を流して喜んでくれているのに、当の自分は邪な気持ちに流されそうになっていた。
自分があさましい人間の様に思えた朝陽は、さまよっていた両手を少女の方において、グイと押し離した。
「きゃっ」
驚いたようにまだ涙の浮かぶ眼で朝陽を見上げてくる少女と正対し、
「一つ、言っておかないといけない事があるんです」
少女との距離を計りかねる朝陽は、無難なところで敬語を使って話す事にする。
彼女の立ち居振る舞いや雰囲気などから見ても、少なくとも自分より年下の様には見えないという理由もあった。
少女は泣き顔を朝陽にみられるのが恥ずかしいのか、顔をそむけささっと手の甲で涙をぬぐった。
それから朝陽を再び見上げ、
「なあに?」
と、首を傾げた。この少女、大人っぽく洗練された所作の傍ら、時折子供っぽい行動をとる事もあるようだ。
朝陽は、少しばかり見とれそうになる自分を叱咤するように首を数度軽く横に振り、すぅ、と一度大きく息を吸い、
「実は、俺、記憶喪失なんです。だから、貴女が一体誰なのか、覚えていなくて……」
「……」
「あの、本当にすみませんっ!」
朝陽は、がばっと頭を下げて、誠意を示す。
記憶がない事だけでなく、さっきまで邪な気持ちになっていた事もこっそりと含めた謝罪。
暫くそのままの体勢でいると、くすくすと上品な笑い声が朝陽の頭上から降って来た。
え、と朝陽が顔を上げると、やはり少女が笑っていた。
「え、えと……」
少女のこの反応を予想していなかった朝陽は狼狽え、誤魔化すように頭をかいた。
「あ、ごめんね。いきなり大袈裟に謝りだすんだもん、おかしくって」
「は、はぁ……」
「ごめんね、うん、そうだよね、朝陽は覚えていないんだよね」
そう言って笑う少女がまるで朝陽が覚えていない事を喜んでいるように、朝陽には見えた。
どうやら少女は朝陽が記憶喪失である事を知っているようだ。
まあ、良く考えてみれば朝陽とある程度近しい関係ならば、朝陽の容体について知らされていてもおかしくはない。
そして、知っていて、朝陽の見舞いに現れた事がない、という事は恋人という線は薄いかもしれない。
少しだけがっかりとしてしまう朝陽である。
――というか、涙を流すくらい再会を喜んでくれるなら、見舞いに来ればよかったのに。それとも、あの涙はまた別の理由があるのか?
そんな風に思わず邪推してしまう。それくらい、病院での1年は寂しいものだったのだ。
そんな朝陽の不満や訝しみが表情に出ていたのか、
「ごめんね、お見舞いに直ぐに駆けつけたかったんだけど、ちょっと事情があっていけなかったの。でも、本当に良かった。朝陽が目覚めてくれて、本当に……」
そこでまた少女の瞳にジワリと涙が浮かんだ。
ずるい、と朝陽は心の中で呟いた。涙なんて見せられたら、此方が完全に悪役だ。
すっかり朝陽は狼狽し、何とか場の雰囲気を誤魔化せないかと話題を探す。
「そ、それで、一体貴女は……」
慌てたせいか、少々詰問じみた聞き方になってしまったが、それは朝陽が少女と出会ってからこっち、ずっと気にかかっていた事ではあった。
「あ、そうだった。自己紹介がまだ済んでなかったね。ごめんなさい、いきなり馴れ馴れしくして。困っちゃったよね?」
「いえ……」
いい匂いがして、とても柔らかかったです、なんて言えない朝陽は言葉を濁した。
不意に抱きつかれた時の感触と香りを思い出して、かあ、と朝陽は顔を赤くした。
その理由に気付いたのか、少女は少し悪戯っぽい笑みを浮かべ、朝陽は更に羞恥を濃くする。
299 :翼をください 1 ◆.MTsbg/HDo :2010/12/16(木) 22:35:00 ID:+Dw3/ozY
少女はくすくすと笑った後で、表情を引き締めて見せてから、
「はじめまして、私は貴方の姉、御鏡夜空です。ふふ、はじめましてってちょっと変な感じ」
「あね……」
「そう、
姉さんでもお姉ちゃんでも、どう呼んでくれても良いよ」
恋人でなかったのは残念ではあるが、少女、夜空は朝陽の姉、という事らしい。
朝陽は、彼女を改めて観察するも、矢張り最初の頃と受ける印象は変わりない。言葉は悪いが、見知らぬ人間である。正直、いきなり姉と言われてもピンとこない。
彼女が言う様にお姉ちゃんだとか姉さんだとか呼ぶのは、少々むず痒い。
「あ、あの、以前の俺はどう呼んでいたんですか?」
「え?以前の?」
「はい、記憶を失う前の俺です」
「……何で?」
朝陽の意図を計ろうとするように夜空が顔を覗きこんできた。
彼女の整った容貌に見つめられどぎまぎしながらも、朝陽は自分の中にある考えを言葉にしようとする。
「俺は、自分を以前の俺とは別の人間だと思っているんです。
そりゃ、顔とか体とか外見は全く同じだし、以前の俺を知っている人からしたら違いはないように見えるのかもしれないけど、中身はどうしても違うから。それに……」
「それに?」
それに。色々と言い訳を言ってみても、結局は怖いのだ。
もし、記憶が戻ったら今の俺はどうなってしまうのかとか、以前の俺を知っている人からしたら今の俺なんて邪魔者以外の何物でもないのではないか、とか。
我ながらベタな悩みだな、と朝陽は思う。小説や漫画なんかの記憶喪失モノで記憶を失った人間の殆どがぶち当たる悩みで、自分もご多分にもれず、らしい。
そして、それ以上に恐ろしい事がある。それは、朝陽の心の奥に眠る、深い喪失感と罪悪感。凝り澱んだそれは、暗い絶望の色をしている。
それは朝陽が失くした記憶の残滓であるようだが、万一それに触れてしまえば絶望に飲み込まれてしまいそうで恐ろしいのだ。
朝陽はぶるりと小刻みに体を震わせた。
「いえ、何でもないです」
そう言う朝陽の顔は蒼白で、とても何でもないようには見えないが夜空は、そう、と呟くだけで特に追及しては来なかった。
「……そらねえ」
「え?」
「朝陽は私の事、空ねえって呼んでたよ」
「そら、ねえ……」
反芻するように呟いてみた。少し子供っぽい様な印象の呼び方。それを今の俺が呼ぶのは、以前の朝陽とは別人云々関係なく、難しそうだった。
それに、何処かで聞いた事があるような、とか懐かしい感じがする様な事はなかった。これは、始めから期待してはいなかったけれど。
ふむ、と朝陽は前置きの後、
「じゃあ、普通に姉さん、でいいですか?」
「姉さん……ふふっ、何だか朝陽にそう呼ばれるなんて新鮮かも」
そう言って夜空が笑った。
朝陽が敢えて夜空さんではなく、姉さんと呼ぶ事にした理由。それはきっと、心のどこかで繋がりを欲していたからかもしれない。
見舞いには来てくれなかったけれど、自分の帰還を涙をもって喜んでくれた人。
それは記憶をなくし、夜の色濃い大海に放りだされたような気持ちになっていた朝陽が、漸く実感することのできた繋がりだった。
姉さん、と呼ぶことで自分は一人じゃないんだと、そう思えるような気がしたのだ。
300 :翼をください 1 ◆.MTsbg/HDo :2010/12/16(木) 22:35:50 ID:+Dw3/ozY
#1-2
その後、朝陽は夜空に押し込められるようにベンツに乗りこんだ。今は、これから朝陽の住む家となる場所へ向かって移動中である。
最初の方こそ緊張でドキドキだった朝陽だったが、今では好奇心の方が勝り座り心地の良いシートをぽふぽふ叩いてみたり、車の中の様子を窺ってみたりと忙しない。
夜空は、そんな子供っぽい朝陽を柔らかい微笑みと共に暫く見守っていたが、
「ねえ、この景色に見覚えがあったりしない?」
聞かれて朝陽は、流れる景色を車の窓から眺めてみて、
「いや、ないかな」
「そっか」
夜空は朝陽の答えに素っ気なく呟いた。彼女も最初から期待なんてしていなかったのだろう。
ちなみに敬語ではよそよそしいから嫌だと夜空に駄々をこねられて、朝陽は砕けた口調で会話する事にした。
朝陽も余り敬語には慣れていないので、ありがたい申し出ではあった。
「でも、いいところだね」
「ふふ、自然だけが取り柄の何もない所よ。でも、そうね、」
半ばお世辞としての朝陽の言葉に夜空は苦笑し、窓の外に目を向けた。
その視界に映るのは、この町に対する思い入れのない朝陽とはまた違った景色なのだろうか。
「私は、この何もない町が嫌いじゃない。お気に入りの場所だっていっぱいあるの」
「お気に入りの場所……」
お気に入りの場所。朝陽は、口の中で数度そんな言葉を転がしてみる。お気に入りの場所、か。
もし、見つけることが出来たならば、その時は、朝陽はこの町の一員になれる様な気がした。
「朝陽にも見つかるといいわね」
そんな朝陽の想いを知ってか知らずか、夜空が朝陽の瞳を見据えて。
見つけられるだろうか。記憶のない、
真っ白な自分に。この、初めての故郷で。
不安は尽きない。夜空に聞いたところによれば、自分の家族はあと二人、弟と祖父がいるらしい。
両親は、朝陽がまだ小さい頃に事故で共に帰らぬ人となったというが、当然その事に朝陽が感じる事はなかった。ああ、そっか。そのくらい。
その二人について、夜空は答えにくそうに言葉を濁すばかりで詳しい事は聞けなかった。
自分は家族から嫌われている、そんな朝陽の疑惑がいよいよ現実感を持ってくる。
胃がいがいがする、なんつって。そんなくだらない親父ギャグを心で呟いて、楽観的に考えようと務める。
まあ、なるようになるだろ。先の事は分からない。けれど、逃げる過去もない朝陽は、ただ愚直なまでに前へ進むしかない。
それに、ついさっきまで何もなかった朝陽だが、今はそうじゃないと思える。
ちらと横目で隣に座る人を窺う。自分の姉。御鏡夜空。
再び窓の外を眺めているその人の横顔は、美しく、まだまだ見慣れていない朝陽はどうしても見とれてしまう。
――姉さん。
朝陽は、心の中でそう呟いてみる。
きれいなひと。彼女が自分の姉だと言う。
見舞いには来てくれなかったけれど、自分のために涙を流してくれた。
その涙が演技かもしれないという可能性を、朝陽は全く考慮に入れていない。
今のところ、朝陽には彼女以外に縋るものはなく、そんな彼女を疑っていたらこの先どうしようもないだろう。
それに、それにだ。
「ん、どうかした?」
じっと横顔を見つめる朝陽の視線を感じ取ったのか、夜空が首をわずかに傾げた。
い、いや、何でも、と、どもりながら朝陽は夜空から目をそらす。
くすくすと上品な笑い声が、隣から聞こえてきて、朝陽はさらに顔を赤くする。
きっと、この人なら。この温かい笑顔の持ち主であるこの人なら、無条件に信用しても大丈夫。そんな気がするのだ。
301 :翼をください 1 ◆.MTsbg/HDo :2010/12/16(木) 22:37:23 ID:+Dw3/ozY
「でけー」
これが目的地、御鏡家を見て朝陽の感想だった。
駅から車で約5分。見えてきた住宅地を抜けて、山の方へ入り込み更に5分。
山を切り開いた所にそれは鎮座ましましていた。
家、というよりは、邸宅、いや屋敷という方がしっくりくるだろう。
純和風で、その家構えには歴史の香りがする。築10年程度はくだらないだろう。
この玄関先に来る前にも厳かな感じの門があったし、庭を含めて敷地はどのくらいになるのだろうか。
これが、自分の生まれ育った家だというのだ。
気圧され立ち止まった朝陽の手を取る者がいた。勿論、夜空である。
「わっ」
夜空はいちいち驚いて顔を赤くする朝陽をくすりと笑ってから、
「ほら、行こう」
「あ、ああ」
朝陽は夜空に手をひかれ歩き出す。
彼女の手は柔らかく、温かい。そんな事を意識して、朝陽はもうどうしようもないくらいドキドキしてしまう。
異性に対する耐性をそろそろ付けないと、これから苦労しそうだと朝陽は思うのだが、如何せん経験不足はどうしようもない。
ちなみに朝陽が通う事になる高校は共学らしく、正直喫緊の課題じゃないかと、朝陽の不安の種、その一つとなっている。
「おかえりなさいませ」
――門扉をくぐった途端に、複数の、けれどぴたりと揃った声がかけられた。
朝陽はびくっと体を震わせるも、何とかひっ、と声を上げるのまでは堪える事に成功した。
声の主たちは朝陽の両側に並び、頭を下げていた。
家政婦というやつだろうか、着物を着た女性たちである。
まあ、これだけでかい家だし、と妙に納得してしまう朝陽である。メイド服じゃないのがちょっと残念だな、とも。
そのうち、一人の妙齢の女性が、すすと音もなく進み出てきて、
「お荷物をお預かりします」
と、朝陽の荷物を取り上げてしまった。
荷物、といっても中には何も入っていないのだけれど、女性に荷物させるのはどうかと思った朝陽だったが、時すでに遅く、荷物はその女性の手である。
仕方なく、朝陽は、
「あ、どうも……」
とぎこちなく頭を下げた。
女性はそのことに反応をすることもなく、朝陽と夜空の手元にちら、と視線をよこした。
その視線に気づき、朝陽が夜空の手を放そうと試みるも、思いのほかがっしりと握られていて外れてくれない。
長い間眠っていた朝陽の体力や筋力は人並み以下まで落ち切っていて、それは一年のリハビリ程度では戻るものではなかった。
自分が女の子の力にも勝てないことと、人前で異性と手をつないでいることに羞恥を覚える朝陽に家政婦たちの視線が集まる。
それは、朝陽の気のせいだったろうか。先ほどまで無表情に近かった彼女たちが僅かに顔を曇らせたように見えたのは。
確認しようにも次の瞬間には再び元の表情に戻っていて、
「……長旅お疲れでしょう、お部屋にご案内させていただきます」
朝陽の荷物を持った女性がそう言って朝陽を先導しようとするが、
「ちょっと待って」
と、夜空がさえぎってしまった。
「夜空様?」
「ちょっと、やりたいことがあるの。少しだけ下がっていなさい」
「……はい」
朝陽に対するものとは違う、冷たさを含む凛とした声音。
朝陽はさっきまでの印象とは正反対のそれに、つい夜空の顔をまじまじと見つめてしまう。
夜空は掴んでいた朝陽の手を、両手で包みこむようにして彼女の胸元へと引き寄せた。
ふにょんとした柔らかな感触にぎょっとする朝陽だったが、夜空はやはり柔らかく、そして温かな笑みを浮かべ。
「おかえりなさい、朝陽」
その笑みと言葉に、朝陽はつんとこみ上げる何かを感じた。
この時ばかりは、朝陽の中に周囲の目や、異性との接触を恥ずかしがる気持ちはなくなっていた。
そして、おそらく彼女が待っているであろう言葉を、
「ただいま、姉さん」
その時、自分の声は果たして震えずに言えていただろうか。
あまり自信のない、朝陽であった。
最終更新:2011年01月24日 22:20