翼をください 2

8 :翼をください 2  ◆.MTsbg/HDo :2011/01/05(水) 21:31:21 ID:Wzq3ITKE

 #2-1
「あ、あの……」
 使用人と思われる女性に導かれるまま、黙って屋敷の中をきょろきょろしながら歩いていた朝陽であったが、とうとう声をかけてしまった。
「はい、何でしょうか」
 女性は立ち止まり、朝陽の方を振り返った。
 あれから当然のように部屋まで付いて来ようとした夜空を使用人の一人が呼びとめ、何処かへと連れて行ってしまった。
 何でも、“旦那様”が呼んでいるらしい。その時の夜空の機嫌が悪くなったように見えた朝陽であるが、確かめる間もなかった。
 それから朝陽は、自分の荷物を持っている女性に連れられてここに至る。
 何となく、そう、何となくではあるが、夜空と別れてから朝陽に対する態度が険悪になったような気がする。
 ――気にしない、気にしない。
 朝陽は心の中で自分を励ましつつ、
「俺の部屋に案内してくれているんです、よね?」
「はい」
 即答、である。
「こっちで、あってるんですか?」
「はい」
 再び即答され、成程な、と朝陽はこっそり嘆息する。
 朝陽を連れた女性は庭に面した廊下を進み、その道中にあるどの部屋に入る事もなく屋敷の奥へ進み、庭を横切るように繋がった渡り廊下を渡ろうとしたのである。
 その先には小ぢんまりとした離れがある。こぢんまり、と言ってもそれさえ普通の家より若干大きくはあるが。
 その離れは屋敷とは異なり純和風ではなく、窓が多く、二階建てのアパートの様な外観であった。
 朝陽の立つ所から少し離れた場所にも渡り廊下があり、その先には矢張り少々小ぢんまりとした、けれどそちらは和風建築の平屋がある。
「向こうにありますのは道場です」
 朝陽の視線を察したのか、女性が簡潔に述べた。
「道場?」
「はい。御鏡家は、古くは武によって栄えた家でございますので。商業や政治へと宗旨替えしたのちも武道は御鏡家にとっての柱なのです」
「ふぅん。じゃあ、俺も武道やってたんだ……」
「はい。2年前まで、朝陽様も夜空様や夕陽様と同様、己を磨いてらっしゃいました」
姉さんも……」
 朝陽は脳裏に夜空の姿を思い浮かべてみる。
 あの華奢で柔らかそうな体躯からは、とても武道をたしなんでいるようには見えない。
 武道といっても幾許かの護身術とか、精神を鍛えるためとかその辺りなのだろう。そう朝陽は推測する。
 自分も体を鍛えていたらしいが、既に2年ものブランクがあるし、何より覚えていない。
 以前の朝陽が恐らくコツコツ積み上げてきたものは、全くの無意味となり塵と消えているのだろう。そう考えると、朝陽は少しやるせない気持ちになるのだった。
 一つの溜息をこぼし、朝陽は自分の部屋があると言う離れと、今まで歩いてきた母屋の方を見比べてみる。
 ――気にしない、気にしない、気にしない。
 朝陽は首を二三度軽く振り、再度歩き出した女性の後をついていく。



9 :翼をください 2  ◆.MTsbg/HDo :2011/01/05(水) 21:32:26 ID:Wzq3ITKE

「こちらになります」
「あ、はい、ありがとうございます」
 離れの中は、そのままアパートの様であった。
 廊下を挟んで、部屋へ続く扉が並んでいる。
 それは二階へ上っても全く同じ光景で、そのうちの一つの扉の前。この扉の先が朝陽の部屋だという。
 女性から荷物を受け取ると、彼女は一度頭を下げた後、さっさと帰って行ってしまった。
 朝陽は小さく溜息をつきつつ、その扉を開いて――
「――よお」
 これから朝陽の私室となるはずの場所に、先客がいた。
 8畳ほどの、一人部屋には十分以上の広さのフローリングの部屋。
 大きな窓からベランダに出られるようになっていて、勉強机とベッド、そして本棚が一つずつあるだけの簡素で殺風景な部屋。
 その勉強机の椅子に座り、一人の青年が部屋に入って来たばかりの朝陽を眺めていた。
「……はあ」
 その姿を見て朝陽は、こいつはチャラい、という確信をもった。
 髪型はどこぞのホストの様な長髪。黒縁の眼鏡は、所謂おシャレメガネという奴だ。
 対人経験の少ない朝陽にとって、初めてといっていい人種との出会いであった。
 朝陽は、闖入者を窺うようにしながら部屋の中に入り、軽い鞄をベッドの上に下ろした。
 近づいてみて、青年だと思っていたが自分とそれほど変わらないように感じた。
 青年というよりは、少年。黒縁の眼鏡をかけた彼の顔には、まだあどけなさが残っているように見える。
 美少年。成程、彼の様な少年を人はそう呼ぶのであろう。
「そのバッグ、やけに軽そうだな」
「まあ、なんも入ってないし」
 何となく敬語を使うのが憚られた朝陽である。それは対面の少年の態度が原因であろう。
 尋ねる彼のその表情には、何となく人を食った様な成分が含まれているような気がした。
「で、アンタ誰?」
 その表情が癪に障った朝陽は、少しばかりつっけんどんな尋ね方になってしまう。
 対して少年は、少しばかり驚いたような顔して見せた後、くくくと笑い声をこぼし始めた。
 その態度からは、もはや朝陽をバカにしている事がありありと察せられる。
 更にムッとする朝陽であるが、少年の答えを待つ事にして堪える。
「そうか、やっぱ、忘れてんのか」
「やっぱり?」
「いや、話には聞いてたけど、実際に忘れていると分かると何つうかおかしくて……」
 そして再び、くくくと笑う。
 ここにきて漸く朝陽は、自分が挑発されているであろうことを悟った。
「……もしかして、俺、喧嘩売られてる?」
「俺?……くくく、そうか、俺、ね」
「……」
「とと、冗談だからそう睨むなよ。俺が知っていたアンタとは明らかに違ってたからさ」
 矢張り知り合いか、朝陽は少年を観察しながら推察する。知り合い、それもかなり近しい関係であるようにも思う。そうなれば……。
「成程、アンタが俺の弟って奴か?」
 朝陽の言葉に少年はにやりと笑って見せた。
 その所作はさぞ様になってはいたが、朝陽にとっては癪に障るもの以外の何物でもない。
「ご名答!つっても、ま、そのくらいバカでも分かるか。ご推察の通り、俺はアンタの弟だよ」
「……弟だというなら、それらしい態度をとったらどうだ?」
「ハッ、冗談だろ?俺は確かに弟だが、年が離れているわけでもなし、ちょっと生まれる時間が早いだけで兄貴面されてもな」
「ああ、そう……」
 傲岸不遜な少年の言葉に、朝陽はげんなりする。
 そう言えば、夜空が言っていた。朝陽には弟がいて、その弟というのは双子であると。
 一卵性ではなく二卵性という事だそうだが、確かに朝陽と彼はあまり似ていなかった。
 決して自分よりも向こうのほうがイケメンだとかそういうわけではないが。そう、決して。
 半ば自分に言い聞かせるようにしてうなずいた朝陽は、彼に呼びかけようとして名前を知らないことに気付いた。
「そういや、名前聞いてなかった。知りたくはないが、知らないといろいろ不便だし、一応聞いとくよ」
「ん?ああ、俺は夕陽。御鏡夕陽だ。どうだ、如何にもな名前だろ」
「……朝陽に、夕陽、か。確かにな」
 誰が名付け親か、朝陽には分からないが、確かにいかにも双子という感じの名前だと思う。
 それに、姉である夜空の名前も同一人物がつけたのだろう。そのセンスの是非はともかく、何らかの関係を意識しやすい名ではあった。


10 :翼をください 2  ◆.MTsbg/HDo :2011/01/05(水) 21:33:52 ID:Wzq3ITKE
「で、その夕陽が一体何の用だ?暇人じゃあるまいし、俺をおちょくりに来ただけってわけじゃないよな」
 いくばくかの皮肉を込めた朝陽の言葉に、
「いや、そのつもりだったんだけど」
 と、夕陽はあっさりと頷いた。
 へえ、と冷静を装って呟く朝陽ではあるが、怒りの感情は隠し切れていない。
 朝陽の額には漫画でよくあるような怒りマークが浮かんでいるようである。
「にしても、御鏡家の長兄がこんな使用人部屋に押し込められて。何ともまあ、哀れだねぇ」
 そんな朝陽の怒りを絶対に気付いていながら、夕陽はさらに燃料を投下する。
「……使用人部屋?」
「そうそう。ここはただでさえ田舎で、交通機関もあまり発達していないというのにこの立地だろ?だから、この家は住込みの使用人のほうが多いんだよ」
 ま、それでも最近は人手不足が深刻なんだけどな、と続く夕陽の言葉も今の朝陽の耳には入ってこない。
 ……使用人部屋。なるほど、ね。なるほど、なるほど。
 やはり、自分は歓迎されている存在ではないようだ。本当、一体何をしたんだ、前の自分。これからここで暮らす俺の身にもなってくれよ。
 朝陽はそうやって、過去の自分に呪詛の言葉を投げかけるが、その言葉は結局自分へのものだと気付き、はあ、と嘆息する。
 一年間眠りこけ、更には記憶を失うという普通では絶対にできない事を経験し、かなり楽観的な思考の朝陽ではあるが、やはりテンションは下がってしまう。
 これから毎日の様にこの態度の悪い弟と、まだ見ぬ、しかし自分を嫌っている事は確実の祖父と接していかなければならないというのか。
 途端に夕陽の相手をするのが面倒になった朝陽は、しっしと手を振りながら、
「もう充分俺をおちょくっただろ、満足したなら、もうこの部屋から出て行ってくれ」
 そう言ってベッドへごろりと横になる。
 既に朝陽の意識の中から、嫌味な双子の弟の事は抜け落ちていた。
 甘いものが食べたい。朝陽はそんな衝動に駆られる。
 今日一日色々あって、疲れ切った体や脳が糖分を欲しているという理由もあるが、朝陽は甘いものが大好きなのだった。
 記憶の中にある、朝陽が口にしたものと言えば殆どが味気ない病院食ばかりで、たまにデザートとして付いてくるフルーツやプリン、ゼリー等が朝陽の楽しみだった。
 それが転じて無類の甘いモノ好きになり、退院したらケーキだけを食べて一日を過ごしてみたいなどと考える始末であった。
 ――ま、それもこの家じゃ無理かもしれないな。
 そのことを少しだけ残念に思いながら、うとうとと眠気に意識をかすませていく。
 そんな朝陽の様子に、ち、と夕陽は舌打ちした。
 既に朝陽にとって自分は眼中にない存在になっているようだ。
 まるで子供だ、夕陽は毒づく。自分を前にしてこんな態度をとるなんて、以前の朝陽にはあり得なかったことである。
 どうやら朝陽は、記憶喪失を経て一人称だけでなく、性格まで代わってしまったようである。
 夕陽の前にいる少年は、以前の朝陽を知る夕陽にとって朝陽とは言えない存在と言えた。
 そこにいるのは、顔や声、名前が同じだけの夕陽が知らない誰か、だった。
「おい」
 夕陽は苛立ちの滲んだ声で呼びかけるも、やはり朝陽は応えない。
 仕舞いには、寝息までが聞こえてくる始末である。
 まるであの朝陽にバカにされているようで、夕陽の中の怒りが膨れ上がっていく。
 いっそ朝陽に飛び掛かり、マウントパンチの雨を降らせようかと考え、しかし行動に移すような事はしない。
 体を鍛えている夕陽にとって朝陽の反撃が怖いわけではない。もっと怖いもの、それが夕陽に行動を躊躇わせた。
 朝陽はもう一度舌打ちを残して朝陽の部屋を出た。
 やり場のない怒りに、肩で風を切るようにして使用人の部屋が集まっている離れの廊下をドカドカと大股で歩いていると、丁度離れへとやって来た少女と鉢合わせした。
 黒髪をなびかせ、柔らかい笑みを浮かべた大和撫子。御鏡夜空である。
「夜空!」
 瞬間、夕陽は先程まで感じていた苛立ちをすっかり忘れ、彼にとって姉であるはずの少女を呼び捨てにして駆け寄っていく。
 駆け寄ってくる夕陽に気付いた夜空の顔から笑みが消え、眉がひそめられるが夕陽の目には映らない。
 彼女の傍にたどり着いた夕陽は、尻尾を振る犬よろしく、全身で喜びのオーラを発しながら、
「学校から帰ってきてたのか。探したけど居なかったし、休日出勤でこんなに遅くなるほど忙しいのか?それなら、俺が手伝って――」
 夕陽は姉であるはずの夜空に対し、常日頃から同等かもしくは上からの目線で接している。


11 :翼をください 2  ◆.MTsbg/HDo :2011/01/05(水) 21:35:18 ID:Wzq3ITKE
 夜空も、今更そんな夕陽の態度を咎める事はせず、けれど夕陽の言葉を遮って、
「――今日は朝陽を迎えに行ったから遅くなっただけよ。それと、未だ入学していない貴方に手伝ってもらう様な事はないわ」
 ぴしゃりと言い放つ。
 これで話は終わりとばかりに夕陽の横を通り過ぎようとした夜空の手を夕陽は、はっしと掴んだ。
「ちょ、何処行くんだよ」
 そんな夕陽の答えが分かり切った質問に、夜空は首を傾げた。
「そんなの言わなきゃ分からないこと?」
「っ……」
 冷たい瞳。彼女の名前と同じように暗く。お前には興味がないと雄弁に語る。
 凍てつく視線は、彼女の類まれなる容貌と相まって氷の杭となり夕陽の心の臓に、深く、突き刺さる。
 夕陽がこの瞳を向けられるのは初めてではなく、もう何度目か、数える事こそ馬鹿らしくなるくらいだ。
 その度に、夕陽は全身全霊をもって恨みの炎を燃やす。
 と言っても、その炎が焦がすのは当事者たる夜空ではない。当然だ、どうして愛しい女を業火で焼くような事が出来ようか。
 ――朝陽。そう、全部アイツのせいだ。あんな奴、あのまま死ねばよかったのに。
 夕陽は先程まで顔を合わせていた、形ばかりの兄の姿を思い浮かべ、ぎり、と歯を噛みしめた。
「そろそろ、手、離してくれる?痛いんだけど」
「っ、あんな、あんな落ちこぼれのどこがいいんだよ!」
 夕陽は、思わず声を荒げた。
 夜空の手首を握る手にも、知らず力が入る。
 けれど夜空は痛みを表情に見せる事はせず、寧ろ愉悦の表情すらうかべて見せて、
「どこが?ふふ、そんなの簡単よ」
 言いながら、夜空は掴まれた方の手を引いた。体勢を崩した夕陽に追い打ちをかける様に、足をかけた。
 それから夜空の腕が複雑な動きをして、夕陽はいつの間にか廊下の床に叩きつけられていた。
 夕陽も、生まれた頃より御鏡の慣習に従い武道で研鑽を積んできた。
 しかしそんな彼が、今は受け身すらまともに取れず床へと放り出されていた。
 ふん、と夜空は一つ侮蔑とも呆れともとれる吐息を漏らして、夕陽を見下ろす格好で、
「全部、そう、私はあの子の全てを愛しているの」
 そう言って、投げられた拍子に緩んでいた夕陽の手を払うと朝陽の部屋へと向かう足を進める。
 そんな夜空の背中に向けて、夕陽は立ち上がり、しかし床に片膝をついた状態で言葉を投げつけた。
「だとしても!今のアイツは、2年前のアイツとは全くの別人だ!記憶をなくして、人格すら変わってるじゃないか!」
 その言葉に夜空はぴたりと立ち止まり、振り返った。
「あら、それに何か問題がある?」
「な――」
 夕陽は絶句してしまう。本気で何の問題も感じていないと言うかのように、夜空は首をかしげていた。
「言ったでしょ。私は朝陽の全てを愛していると。朝陽の顔も、体も、声も、そして魂すらも。全て、全て。ふふ、人格なんて些細なこと」
 夜空は恍惚とした表情を浮かべ、妖艶に嗤う。
 狂喜と狂気が併存した笑み。それすらも夜空を一際美しく彩る。
「それよりも、私はあの子が記憶を失ってくれて嬉しいの。そう、神様にでも感謝したい気持ち。否、そうね――」
 不意に夕陽を見下ろす夜空の視線が鋭さを増した。
 先程突き刺さった氷の杭すら生温い、それだけで人が殺せるような本物の刃の如き視線。
 視線を受けた夕陽は、ゾクリと総毛立つのを感じた。
 ごくり、と夕陽は唾を飲み込む。
「――夕陽、貴方にもありがとうと言っておいた方がいいかしら」
「……まさか、気付いて、」
「それ以上は言わない方がいいわよ。あなたを許したわけじゃないんだから。それこそ、ほんの拍子に殺しちゃうかも」
「……」
「ふふ、冗談よ。今や貴方は御鏡家次期当主筆頭。さすがにそんなことすれば、色々とややこしいもの」
 再び夜空が踵を返す。
「っ!あ、朝陽は当主にはなれないぞ。元々なれるはずもなかったが、今回の事で決定的だ。いずれ、間違いなくこの家から追い出される」
 再度、夜空の背中に投げかける夕陽の言葉は、力なく、何処か負け惜しみじみて。
 夜空も今度は振り返らず、立ち止まる事もなく、
「その時は、私が養ってあげるの。だって、私は、姉さんだもの」
 嬉しそうに笑いながら去っていく夜空の背中を、夕陽は今度こそただ見送ることしかできなかった。
 夜空は以前、そう2年前まで朝陽を当主にしようと、躍起になっていたはずだ。
 朝陽が記憶を失った事を切欠に、夜空も朝陽との接し方を変えたということか。夕陽は唇をかんだ。それこそ、唇が破れ、血が出てしまいそうなほどに。



12 :翼をください 2  ◆.MTsbg/HDo :2011/01/05(水) 21:35:59 ID:Wzq3ITKE

 夕陽をあしらった夜空は、朝陽の部屋の前で一度深呼吸した。
 夜空の心臓はドキドキと跳ね、気分の昂揚を伝えてくる。
 今日一日、ずっとこんな調子だ。無理もない、朝陽と2年ぶりに顔を合わせる事が出来たのだから。
 いや、一つだけ例外がある。あの老獪との対話の時ばかりは、事情が違った。
 先程の夕陽との会話も不愉快な部分こそあれど、正直どうでもいい、瑣末なことであった。
 しかし、あの、時代遅れの老害との会話では、殺意を抑えるのに一苦労した。
 朝陽への面会を許さなかった事もそうだが、御鏡家の人間である朝陽をこんな使用人部屋に押し込むなんて。
 威張り散らすしか能のないその男は、孫であるはずの夜空にとって不倶戴天の敵でしかなかった。
 ――まあ、そんな事今はどうでもいいか。
 そんな事よりも今は、朝陽である。2年も我慢をしたのだ、朝陽と過ごす時間は一秒でも無駄にしたくない夜空である。
 ふふ、人知れず夜空の頬がほころぶ。
 清潔で、無垢な、まるで花の咲くような笑み。
 これから朝陽と過ごす毎日に、心踊らずにはいられない。
 よし、と一つ気合を入れて。コンコンとドアをノックした。
「朝陽、夜空だけど、夕食までまだ時間があるようだから、家を案内しながらお話しよ?」
 しかし、朝陽の部屋から返答はない。
 あれ、夜空は首を傾げた。
 部屋は間違えていないはず、もしかして一人で家の中を探検しているのだろうか。
 今の朝陽はかなり好奇心旺盛の様だったから、あり得なくもない。
 でも、夕陽の後に擦れ違わなかったし。夜空は心の中で否定する。
 どうやら夕陽は朝陽と会っていたようなので、その後で探検に出かけたのならば擦れ違うはずだ。
「朝陽?」
 再び呼びかけながらドアノブをひねると、ドアが開いた。鍵は掛かっていないようだ。
 はいるよー?と一応の断りを入れながら、夜空は部屋の中に足を踏み入れた。
 朝陽の姿は簡単に見つける事が出来た。ベッドの上、うつ伏せになって寝転んでいる。
 耳を澄ますと規則正しい呼吸音。どうやら眠っているようだ。
 夜空は、そっと朝陽へと近づいていく。ベッドの脇に座り、朝陽の顔を覗きこんだ。
 あどけない寝顔。夜空は、それを眺めているだけで幸せな心地に包まれた。
 この寝顔を見ると言う行為ですら、夜空にとってどれだけ大切な事か。失いかけて、強く実感させられた。
 そ、と朝陽の元へと手を伸ばし、その頬に触れた。
 柔らかくて、そして何より、温かい。それは、朝陽が今ここに生きている証。
 無性に嬉しくなった夜空は、何となく朝陽の頬を、ぎゅ、とつねった。
「あ痛たたた?!」
 思いがけず力が入り過ぎていたのか、直ぐに朝陽が跳ねる様に起き上がった。
 その勢いに驚き、夜空は、ぱっと頬から手を離してしまった。
「???」
 頭の上に多くのクエスチョンマークを浮かべ、頬をさすりつつ、朝陽はきょろきょろとあたりを見渡した。
 そしてベッドの横に座る夜空を見つけ、
「……あれ、姉さん」
「ふふ、おはよ、朝陽」
「え、あ、ああ、おはよう」
 夜空が笑いかけると、照れたように頬を染める朝陽。
 その仕草がたまらなく愛おしくなって、思わず夜空は朝陽に抱きついた。
 彼女の突然な行動に、朝陽は目を白黒させる。
「ちょ、ちょ、姉さん!?」
「ぎゅうー」
 夜空は、態々声に出して朝陽を抱く腕に力を込めた。
 朝陽の匂い。それは、記憶を失っても尚、変わっていないように夜空には感じられた。
 朝陽が、今、こんなにも自分の近くにいる。その事を全身をもって実感する。
 抱きつき癖がついてしまいそうだと夜空は思った。
 朝陽の体、呼吸、気配、何もかも全てを近く出感じる事が出来るこの行為に、夜空は病みつきになってしまいそうだった。
「い、いきなり、どうしたのさ」
「見て分からない?朝陽分を補給してるの。さっきまで、立て続けに不愉快にさせられたから」
「へ?」
 不愉快とはどういう事だろう。そう言えば、夜空は当主であるという祖父に呼び出されたはずだ。
 ……あまり、祖父との仲は良くないのだろうか。
 寝起きのぼやけた頭で考える朝陽だが、そも、祖父がどんな人物か知らないのだ、答えも出しようがなかった。


13 :翼をください 2  ◆.MTsbg/HDo :2011/01/05(水) 21:36:59 ID:Wzq3ITKE
「って、それよりも、早く離れてくれ!」
 朝陽が夜空を引き剥がそうとすると、以外にも簡単に夜空は朝陽から離れた。
「んもう……まだ恥ずかしいの?いい加減になれなさい」
 こんなのまだ序の口なんだから、と妖艶に見つめてくる夜空に、朝陽はドキリとさせられながら、
「それで、どうしたのさ。何か用?」
「む、用事がないと来ちゃ駄目なの?」
「い、いや、そんな事はないけどさ……」
 可愛らしく頬を膨らませて不満を伝えてくる夜空に、朝陽は言葉を濁した。
 夜空の方は朝陽に対し、家族相応に馴れ馴れしく接してくるが、朝陽の夜空に対しての接し方は聊かぎこちない。
 今までの記憶がないので朝陽にとって、結局夜空は、今日初めて会ったきれいな女性でしかないのだ。
 呼称だけ姉さんと呼ぶようにしたところで、それ相応の距離感を掴むにはまだまだ時間がかかりそうだった。
「でも今回は用事がないってわけでもないの。朝陽に家の中を案内してあげようと思って。それと……」
 そこで夜空の端正な顔が悲しげに歪められた。
「ごめんね」
 唐突な謝罪の言葉。
 朝陽は何の事か分からず、
「へ、何が?」
「この部屋。朝陽だって御鏡家の一員なのに、こんな使用人部屋なんかに押し込んで……。態々ここまでする必要なんてないはずなのに」
 次第に夜空の表情が悲しみから憤怒へと移り変わっていく。
 朝陽は初めて夜空が怒っている所を見て、その迫力に、彼にとって情けない話ではあるが気圧されてしまった。
 美人が起こるとこれほどの迫力なのか。朝陽は、これからは出来るだけ夜空を怒らせないようにしようと、心に誓うのだった。
 ビクつく朝陽であったが、夜空の怒りは幾分早く冷めた様で、直ぐにまたあの温かい笑みが戻っていた。
 そして、何か明暗を思いついたとでも言うかのように、パンと手を打ち合わせ、
「そうだ、私の部屋で一緒に暮らそ?そこまで広い部屋じゃないけど、そっちの方が一杯一緒に居られるし、色々便利だし、ね?」
「いや、ね?って言われても……それは無理」
「えー」
 さすがにそれはまずいだろう、朝陽は夜空の提案に呆れかえってしまう。
 一緒の部屋という事は、毎日夜空と一緒の部屋で眠るという事。
 そんな事態になった日には、朝陽の思春期真っ盛りの性が暴走してしまう事は必至だろう。
 朝陽は夜空の体をそっと窺う。
 学校の制服は着替えたようで、白いワンピースを着ている。
 フリフリの可愛らしい装飾やリボンが付いていて、きっとかなり値が張るのだろう。
 その可愛らしい服は確かに夜空に似合ってはいたが、幾分子供っぽく、夜空のイメージとは少し違っていた。
 夕陽は家の外観や、使用人が着物を着ていたのを見て、夜空も普段着は着物なのだろうとぼんやりと思っていた事も手伝って、かなり意外に感じていた。
「というか、普段着、着物じゃないんだね」
「え?ああ、着物は私にはあまり似合わないから、普段は着ないようにしてるの」
「……あ、あぁ、な、成程」
 ちら、と朝陽が視線を下ろすと、そこには自己主張の激しい胸部。
 胸の大きい女性には着物が似合わないと言う迷信は本当だったのか、などと朝陽はぼんやりと思う。
 と言っても夜空がいつも洋服を着ているのではなく、御鏡家に客人が訪れた場合や社交の場などでは着物を着る事が多い。
 それでも夜空は自分に着物は似合わないと思っているし、着物を着るために腰にタオル何かをぐるぐると巻きつけないといけないので、あまり好きではなかった。
「そんな事よりも、家の中の案内。早くしないと夕飯の時間になっちゃうし、今のままだったら、きっと朝陽、家の中で迷っちゃうよ?」
「いや、さすがにそれは……」
 ない、とは言い切れない朝陽である。
 この家はかなり広いようであるし、普段使うような場所くらいは知っておいた方がいいだろう。
「というか、夕飯は一緒に食べるんだ……」
 朝陽の部屋には必要最低限という感じではあるが、台所も完備していて自炊しようと思えばできないわけでもないようだった。
 ……ただ、料理経験のない朝陽が果してまともな料理を出来るかというと、それは無謀と言わざるを得ないが。
「当たり前でしょ。そんなところまで使用人待遇にしやがったら、さすがの私も黙っていないもん」
 語尾は可愛らしく言って見せる夜空であるが、その言葉には妙な迫力が内包されていた。
 もしかして姉さんって、凄く怖い人?
 朝陽は、今日会ったばかりの温厚で綺麗な姉というイメージを少しばかり修正しなければならない可能性に背筋を震わせた。


14 :翼をください 2  ◆.MTsbg/HDo :2011/01/05(水) 21:37:45 ID:Wzq3ITKE
 #2-2
 夜空との自宅探検は、つつがなく終わった。
 少し気になっていた道場はそこそこに広く、所々古さはあったが、個人の所有とは思えないほどのものであった。
 朝陽がこれから自分も武道をしなければならないのかと夜空に聞いたところ、その必要はないということにほっとするのだった。
 ちなみに武道と一口に言っても剣道や柔道など節操無くかじるようで、夜空の一番得意なものは剣道だと言う。
 夜空の華奢な腕に竹刀は不釣り合いの様に思えたが、華の女剣士という感じで逆に似合っているかもしれないな、と朝陽は妙な納得をした。
 その他にも様々なところを回ったが、一番気になった所は、屋敷の外観に比べてその中はそれ程和風でもないと言う事だった。
 客室の幾つかの部屋はフローリングの床であったし、今現在朝陽がいる食堂にもテーブルとイスがある。
 豪奢なテーブル。その上にかけられたテーブルクロスも丁寧に刺繍がしてあり、椅子も含めて幾らするのか考えて朝陽は、ゾッとしてしまう。
 もし何かこぼしたりした日にはと思うと、目の前に並ぶこれまた豪勢な夕飯の味が分からなくなってしまいそうなので、考えないように自分に言い聞かせる。
 それにしても、この料理、かなり美味しい。それこそ病院食ばかりだった朝陽にとって、両者が同じ食べ物とは思えないほどである。
 だからこそ、そう。
 ――もっと、違う場所で、気楽に味わって食べたかったなあ。
 朝陽は鳥肉を咀嚼しながら、心中で愚痴をこぼした。
 そして、こっそりとそちらの方向を窺う。朝陽とテーブルを挟み、右前方。朝陽の対面に座る夕陽の隣。
 朝陽の祖父であり、御鏡家で今現在、最も発言権を持つ男がそこにいた。
 名は御鏡智(みかがみ さとる)。齢60を超えても尚、御鏡の企業グループを纏める傑物とも言うべき人物。
 小柄ではあるが、眼光鋭く厳めしい容貌はいかにもといったところだろうか。
 その深く刻まれた皺すらも朝陽には恐ろしく見えてしまうのは、智戸の初めての対面の時に睨まれてしまった事が原因だろう。
 睨まれる、といっても智は一瞥を朝陽にくれたのみで、その後は声をかける事も朝陽の方を向こうともしないのだった。
 夕陽は何故か先程からじっと朝陽を、此方はあからさまに睨んでくる。
 唯一の頼みの綱であるはずの夜空も、先程から一言も発することなく食事を続けている。
 しん、と静まり返った食堂にフォークやナイフの音が響き渡る。
 朝陽を除く3人はテーブルマナーも身に付いているようで、朝陽のそれがやけに大きく響き目立っていた。
 もしかしたら御鏡家の慣習として、食事の時は無駄な会話はしないようになっているのかもしれないが、今日は朝陽が2年ぶりにこの家に帰って来た日である。
 何か積もる話があってもおかしくはない。それこそ、朝陽が嫌われているのであるならば、恨み辛みの一言でもあってしかるべきだろう。
 しかし、それすらもなく、ただ時間と皿の上の料理だけが淡々と消化されていく。
 これが毎日2回ずつあるのだ。朝陽は、自炊を本格的に始めるべきではないかと本格的に考え始めていた。
 経験のない朝陽の作るものである、目の前の料理より格段に劣るのであろうが、それでもいいと思わせる状況であった。
「そういえば」
 地鳴りのような声が食堂に響いた。
 朝陽はびくりとして、声の主、智を見やるが、智は朝陽ではなく夕陽の方を見ていた。
「明日から、高校入学だったな」
「はい、おじい様」
 おじい様!?
 あの傲岸不遜な夕陽の口から出たとは思えない言葉に朝陽は、思わず口の中のモノを吹き出してしまいそうになった。
 笑いを堪えるが、肩が震えてしまう。
 そんな夕陽の様子に、智は不愉快そうに眉をひそめた。
 げ、と朝陽は肩をすくめ、縮こまった。
「入学式で入学生代表として意気込みを述べるよう頼まれましたし、まあ心配されるようなことはありませんよ」
 ふん、と心なしか夕陽は朝陽を蔑視しながら、智に述べた。
 いや、智にというよりも朝陽に、かもしれない。
 入学式で入学生代表に選ばれたと言うならば、それは夕陽が入学試験において首席合格を果たしたという事だろう。
 朝陽も特別に病院で受験したのだが、正直合格できるかどうか合格通知が来るまでハラハラしっぱなしだった。
 その事を夕陽が知っているはずもないが、彼が朝陽よりも成績が上位だった事は確実で、その事を朝陽に対して自慢しているという可能性もあった。


15 :翼をください 2  ◆.MTsbg/HDo :2011/01/05(水) 21:38:34 ID:Wzq3ITKE
「ふむ、そうか。これから3年間、精一杯励む事だ」
「はい、御鏡の名に恥じぬよう頑張ります」
 御鏡の名。21世紀のこの時代に、何とも時代錯誤な事だと朝陽は思う。
 そんな気持ちが態度に出ていたのか、智がぎろりと朝陽を睨んだ。
「貴様も、せめて名に泥を塗るような事はしないことだな」
「……」
 智は鼻で不快の念を表し、静かな食事を再開した。
 朝陽も何も言えず、ただ目の前の料理を消費する事に専念する。
 夕陽は朝陽の姿に嫌味な笑みを微かに浮かべて、自らの左前方、朝陽の隣に座る夜空に目を向けて、
「そうだ、夜空――」
「――ごちそうさまでした」
 しかし、夜空は聞こえていないか、まるで気にしていないかのように、すっくと立ち上がった。
 そんな夜空を、智は、
「夜空、行儀が悪いぞ」
 と、咎めるが、夜空は、
「あら、申し訳ありません」
 と、全くそう思っていない態度で、形ばかり頭を下げた。
 再びその態度を咎められる前に、夜空はさっと踵を返した。
 朝陽の後ろを横切る時、女性特有の甘い香りが朝陽の鼻腔をくすぐった。
 その香りに惹かれて、朝陽は思わずその後姿を目で追ってしまう。
 朝陽の視線を感じたわけではないだろうが、夜空は食堂を出る寸前で朝陽の方を見やり、朝陽と目が合うとウインクをひとつ。
 そのまま廊下へと消えて行った。

 胃の痛い食事を終えてすぐに、朝陽は使用人から風呂に入るよう勧められた。
 御鏡家の風呂は朝陽の想像通り大きく泳げそうな程であった。
 実際に泳いだ朝陽は、御満悦の表情で風呂を出た。
 この家で数少ない楽しみを見つける事ができた彼からは鼻歌さえも零れていた。
 上機嫌のまま離れへ続く渡り廊下を行き、使用人部屋が集まる別館へ。
 その事に付いて朝陽は既に気にしていない、というか感謝すらしていた。
 夕陽と智。朝陽の弟と祖父であるはずのあの二人、母屋の方に部屋があればばったりと出くわす確率も高くなるだろう。
 それならば、此方の離れの方がよほど気も楽というものだ。
 部屋に篭っていれば、向こうが訪ねてこない限り会う事はない。
「食事も自分で作れるしな」
 明日、学校帰りにレシピ本でも買ってみようか。夜空から暫くの間の小遣いは渡されている。
 ひと月一人暮らしするに少々心もとない額ではあるが、食費のみと考えれば十分であろう。
 そんな事を考えながら、朝陽は自室の扉を開いて――
「おかえりー」
 矢張りそこには先客がいたのだった。
「……ちゃんと鍵、かけておいたはずなんだけど」
 事実、今も朝陽は鍵を開いてドアを開けたばかりである。
「そんなの、合鍵があれば一発だよ?」
「……」
 朝陽の部屋、ベッドの上。
 ちょこんと座る夜空は、手に持った鍵を揺らして見せて可愛らしく小首を傾げた。
 その姿は彼女も風呂あがりなのだろう、髪はしっとりしているし、何よりも薄着だ。
 その姿を極力見ないようにしながら、朝陽は部屋の中に入った。
 合いかぎを作り、態々中から鍵をかけて待ち伏せとは。全く用意周到というものである。
「ほら、こっちにおいで」
 夜空がベッドをぽんぽんと叩き、隣へ座るよう催促してくる。
 そのはずみで彼女のふくよかな胸が薄着越しにぷるんと揺れる。……間違いない、ノーブラである。
「いや、さすがにそれは」
「なに、お姉ちゃんの隣が嫌なの?」
 理性が保てるか怪しい朝陽はもちろん断るが、夜空は途端に目を潤ませた
 嘘泣きの可能性が高いと踏んだ朝陽ではあったが、女性の涙を見せられて自分の意志を貫き通せるべくもない。
 それが例え、真実の輝きであろうと偽りであろうと、女性、とりわけ美しい人の涙というものは男に有無を言わせぬ魔力をもっている。
 嫌な予感しかしない朝陽であったが、夜空に誘われるようにふらふらと彼女の元へ歩み寄り、隣へと座った。
 そしてその嫌な予感は、見事的中する。


16 :翼をください 2  ◆.MTsbg/HDo :2011/01/05(水) 21:39:02 ID:Wzq3ITKE
「んー」
「ちょ、やっぱり!?」
 本日だけで3度目のハグ。朝陽は、風呂上がり特有の一際強い女性の香りにくらくらしてしまう。
 豊満な胸は、薄着、ノーブラで破壊力倍、更に倍。やわらかやわらかー、と朝陽の頭の中で誰かが叫んでいる。
 瞬間沸騰機よろしく朝陽の顔面は赤く、熱く煮えたぎる。
 そのうち血管が切れて死んでしまうんじゃないか、と朝陽はぼやけた意識の中で思う。
 絶世の美女に抱かれたまま死亡。まあ、わるくはない死に方ではある朝陽はまだ若い、しかも相手は姉。
 ある意味何とも最低な死に方ともとられる。少なくとも、世間的には。
 朝陽は、奔流に流されてしまいそうになってしまいそうな自分を叱咤し、後ろ髪をひかれまくりながら、べりべりっと夜空を引き剥がした。
 夜空の方に手を置いてグイっと押す。それだけの行為なのに、朝陽は既に青色吐息、いやむしろ桃色吐息とでも言うべきかもしれない。
「やん、もう、寝る前に朝陽分補給しないと、朝まで何時間もあるのに……」
「……いや、ほんと。勘弁して、つかーさい」
「つかーさい?……何か疲れてるみたいだね。まあ、今日は色々と大変だっただろうし、明日は入学式だし、早く寝た方がいいかな?」
 しょーがないね、と夜空は残念そうに息を吐いて、ベッドを立ち上がった。
 そしてドアのところまで歩き、朝陽の方を振り返った。
「それじゃあ、おやすみ。……あ、ちゃんと明日の準備しておくのよ?」
 悪戯っぽい笑みを残し去っていく。まるで、台風一過、朝陽は疲れの色濃い溜息を吐きだして、ベッドに倒れ込んだ。
「やべー」
 やべー、である。
 夜空の一連の行為が自覚的であるならば小悪魔、無意識であるならば悪魔。どちらにせよ女性の扱いに長けていない朝陽に防ぐ術などない。
 朝陽の頭の中にある明日からの学校生活を含めた未来への不安は隅に追いやられ、年相応のピンク一色である。
 悶々と、夜空の体の感触が蘇る。
 彼女の美しい顔、豊満な肉体、妖艶な吐息、甘い香り。
 全身の血が頭に上っているように顔が熱いが、ある一部にも確りと血が集まっている。
 朝陽は自らのテントを見て、苦笑した。
「姉さん、か」
 朝陽は、天井を見つめてぽつりと呟く。
 姉。血のつながった、綺麗なひと。そんな女性に興奮している自分は、正常ではないのだろうか。
 実姉に対する性欲。それは、世間からすれば十分気持ちの悪い感情なのだろう。
 朝陽はその感情を鎮めようと心掛けるが、上手くいかない。
 血の繋がり。朝陽はそれを実感できないのだ。
 当然だ、それは実体をもたないのだから。
 普通ならば日々を近くで過ごし、その過程において実感するものではないか。
 そうすることで、家族と異性の境界が引かれていく。朝陽はそんな風に考えている。
 しかし朝陽の中にその記憶はないのだ。
 今日会ったばかりの異性に対して、血の繋がりだとか遺伝だとかそんなモノ、どうやって感じろと言うのか。
「ああ、もう。やめやめ」
 朝陽は首を振って、答えの見えない問いを追い出した。
 朝陽の考えのように、血の繋がりというモノが日常の中で積み上げられるものならば、これから積み上げていけばいい。
 きっと、直ぐにどこにでもいるような仲のいい実の姉弟として日々を過ごせるようになる。朝陽はそう信じ込むことにした。
 夜空が言った通り、明日は入学式。
 これから朝佐陽は、自分と同世代の人間ばかりの空間で、1日の大半を過ごす事になる。
 明日はその重要な一歩、である。そこで地雷を踏もうものならば、高校3年間が灰色に煤けてしまいかねない。
 只でさえ朝陽には重大な問題があるのだから、せめて気力くらいは十分で挑まないといけないだろう。
 そんな事を考えていると、どっと眠気が朝陽に襲いかかって来た。
 きっと、肉体的にも精神的にも疲れ切っていたのだろう。朝陽はゆっくりを瞼を閉じた。
 すぐに泥の様に眠る朝陽の、規則的な呼吸音が聞こえ始めるのだった。

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最終更新:2011年01月24日 22:20
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