翼をください 3

267 翼をください 3  ◆.MTsbg/HDo sage 2011/01/28(金) 22:28:24 ID:vLX1Uc3s

 #3-1
 御鏡夜空の朝は早い。朝の陽射しが登りきっていないころに目を覚まし、道着に着替える。
 まず1時間ほどの軽いジョギングの後、家の道場に戻り、竹刀を持ち鍛練を行う。
 ほぼいつものようにそこには夕陽もいるが、ほとんど共に鍛練を行うことはない。
 勿論夕陽は誘って来るのだが、他の武道ならともかく、剣道において夜空と夕陽では格が違いすぎて練習にもならないのである。
 かといって、護身術と剣道以外は、夜空もほぼ素人の域であり、今更それらを底上げするよりも得意なものを伸ばすほうが効率がいい。
 そう夜空は考えて、最近は剣道の素振り等をひたすら1時間ほど行っている。
 気分が苛々しているような時は、あえて夕陽と試合を行い憂さ晴らししているが、今日の夜空にその必要はない。
 練習を終え、シャワーで汗を流した夜空がいの一番に向うのは、離れに建つ使用人棟。目的地は、朝陽の部屋、である。
「――♪」
 その足取りは軽く。濡れ羽色の髪が朝の光を受けて艶々と。小鳥のようにささやかな、けれど耳触りのよい鼻歌を零しながら。
 朝日の部屋まで来た夜空は、おもむろにドアをつかみひねる――
「――む?」
 ドアには鍵がかかっている。
 当然何度ひねってもドアが開く手ごたえはない。
「むむむっ、私と朝陽の間を阻むなんて身の程知らずね」
 若干弾む声でおどけたように呟いて、夜空はポケットの中から銀色のカギを取り出した。
 こういうときのために作っておいた合鍵、である。
 夜空はさも当然といった様子で、鍵を差し込み、くるり。
 あっという間に、夜空を阻む扉は道を明け渡した。
 夜空は何の躊躇もなく部屋に踏み込み、朝陽の元へ近寄っていく。
 ベッドの上で、朝日はぐっすりと眠っている。どうやら寝相は良いようで、乱れた様子はない。
 そのことを少々残念に思いながらも、夜空は朝日に声をかける。
「朝陽ー。もう朝だよ、起きないといけないよー」
 しかし、朝陽が起きる様子はない。
 今度は朝陽の体を軽くゆすりながら呼びかけてみるが、むずがるだけである。
 以前の朝陽はここまで眠りが深い様子はなかった。というよりも、夜空や夕陽同様の生活を送っていた。
 これもあの事故の影響であろうか。このままにしておけば、朝陽はずっと眠り続けてしまいそうな――
 かすかな焦燥感に駆られて、夜空は朝陽の上に飛び乗るように自らの体を放り出した。
「っどーん!!」
「ぎゃん!?」
 これには朝陽もたまらず少々間の抜けた悲鳴とともに、目を覚まさざるを得ない。
 唐突な痛みと覚醒に混乱していた朝陽であったが、自分の上に夜空が乗っているのを見つけ、ぎょっとした顔ののち、呆れ顔に変わる。
姉さん、痛いんだけど……というか重、痛っ」
 不穏な言葉を言おうとした朝陽の機先を制し、夜空が朝陽のほおをつねった。
「朝陽、デリカシーがないよ」
「デリカシーって……」
 最もなことを言っているような夜空ではあるが、いきなり人の部屋に忍び込み、フライングボディプレスをかます人には言われたくない、と朝陽は思う。
 しかし朝陽のじとっとした視線に気付きながら、夜空は自らも身を倒し、朝陽に絡みつく。
「姉さん!?」


268 翼をください 3  ◆.MTsbg/HDo sage 2011/01/28(金) 22:28:59 ID:vLX1Uc3s
 またか。朝陽は心の中で呟く。
 隙があれば抱きついて来る夜空に、朝陽は自分がすでに慣れ始めていることに気づく。
 といっても胸の動悸は依然変わらず、湧きあがろうとする沸々とした感情からは目をそらして、ただ、耐える。
 耐えろ、耐えろ。
 これはどこにでもいるような、ごく普通の姉弟のスキンシップなんだ。
 そう念じながら数秒、しかし朝陽にとっては数分にも等しい間の後、
「ほら、もう満足しただろ。早く離れてくれ」
「はーい」
 夜空は満足したのかするりと朝陽から離れ、ベッドから降りた。
 彼女の反省の色など欠片もない能天気な声に朝陽は頭をかきながら、
「で、どうしたのさ、いきなり」
「ん?だって朝だから、朝陽を起こしてあげようかなーって」
「それなら普通に起こしてくれよ……」
「む、普通に起こそうとしても起きなかったのは、朝陽だもん。何度呼びかけても起きないから、だから、仕方なく」
「フライングボディプレス、というわけね」
「そそ」
 無邪気にうなずく夜空に対して、げんなりとした表情の朝陽である。
 もう何を言っても無駄なのであろう。
 それにしても、夜空に呼びかけられていた記憶はない。
 入院していたころから自分が朝に弱いことは気づいていたが、まさかここまでとは。
 もしかしたらこのベッドがふかふかだったから、余計に眠りが深かったのかもしれない。
 使用人部屋に押し込められた朝陽であったが、ベッドやテーブルといった調度品はかなり値の張るようなものばかりである。
 おそらく夜空が手をまわしてくれたのだろう。あの祖父がそのような事をするとは思えない朝陽であった。
 朝陽が祖父に会ったのはまだ一度であるが、それくらいは推察できた。
「さ、それじゃあ、朝ごはんももう出来てる頃だし、制服に着替えてきなさい。あ、荷物もちゃんと持ってくるのよ?」
「あー、うん」
 確かに此処と食堂を往復するのは時間がもったいない。いろいろと準備を済ませてからのほうがいいだろう。
 朝陽は着替えようとして、はたとある事に気付いた。
 脱ごうとした服に手をかけたまま、夜空をじっと見つめた。
 その視線の真意に気付かないのか、そうでないのかは朝陽には分からないが、夜空は、ん?と首を傾げて、
「ほら早く朝陽着替えないと、時間無くなっちゃうよ?」
「いや、姉さんがいるのに着替えられるわけないって……」
「もう、なに恥ずかしがってるの。あ、そうだ、私が着替え手伝ってあげ――」
「――いいから、もうさっさと出って行ってくれ!」
 朝陽は夜空の言葉をさえぎり、背中を押して部屋の外へと追い払った。
 もう、と不満げな様子の夜空であったが、大した抵抗もなく、朝陽のされるがまま部屋を出た。
「全く、恥ずかしがり屋さんなんだから。それじゃあ、私、先に行ってるからね」
 そう言って去っていく夜空の背中を見届け、朝陽は部屋のドアを閉めた。
 そして無駄だとわかってはいるが、鍵をかけて、はあ、と一息。
 全く、朝から騒々しい。
「もしかして、これから毎朝、これ?」
 朝陽の絶望にも似た呟きは、朝の涼しい空気と小鳥の囀りにかき消えた。



269 翼をください 3  ◆.MTsbg/HDo sage 2011/01/28(金) 22:29:35 ID:vLX1Uc3s
 私立尚学院。
 御鏡家も理事の中に名を連ねているその学院は、全国においても有数の進学校である。
 設備は私立なだけあり、そこそこ整っているが、スポーツ推薦を行っていないためスポーツはそこまで強くはない。
 近隣の学生からはガリ勉ばかりだと揶揄される事も少なくない。
 しかしこのご時世、すこしでもいい学校に行かせたいと思う親は少なくなく、毎年入学試験の倍率はかなり高いというのが現状である。
 学院は御鏡家の邸宅がある町の隣町に存在し、徒歩で行けるような距離でない。
 その隣町は県庁所在地でありそれなりに栄えていて、学院の他にも学校も多く存在する。
 そんな町の隣でありながら、山に囲まれたその立地のせいか田舎の域を抜け出せない朝陽の生まれ故郷に住む学生が高校に行こうとするならば、電車等で通うしかない。
 そこで朝陽も電車で通うのだろうと思っていたのだが、その予想は外れてしまった。
 漆黒の車体を春の陽光に輝かせ、朝陽を乗せたベンツは学院への道をなぞる。
「こんな車で登校とか、初日から絶対浮きまくるだろ……」
 学校に高級車で送り迎えをしてもらう高校生。
 自分だったらそんな奴とは余りお近づきになりたくないな、と朝陽は思う。
「でも、電車かバスで通学となると本数少ないし、不便だよ?」
 朝陽の呟きに同情している夜空が答えた。
 彼女は昨日朝陽が見た制服に身を包んでいる。
「いや、そうかも知らないけど、せめて違う車でとかさ……」
「大丈夫だってば。私もこの車でもう3年も通学してるんだよ。それでも特に問題はないし」
「んー、それなら何とかなるかなあ」
 夜空に言われ楽観的な朝陽のことである、直ぐに、別に気にするようなことではないか、と思い直してしまう。
 うんうん、何とかなるよー、と夜空は頷いて、そう言えば、と話題を変える。
「今日は入学式だから、新入生たちは午前で放課だけど、私達は授業があるの。朝陽、お昼御飯はどうする?」
「そんなの帰り道で適当に食べるって」
「適当にって、むう、やっぱりお弁当作ってくれば良かったかしら」
「いや、学院周辺も色々回ってみたいから。これから3年通う事になるんだし」
「そう?でも、明日からはちゃんとお弁当作ってあげるからね、私が」
「姉さんって、料理できるの?」
 朝陽は少々驚いたような顔をする。
 見た目は深窓の令嬢然としていて、実際料理人や使用人がいる御鏡家において夜空が、料理をはじめとする家事に触れる機会があるとは思えなかった。
 朝陽の驚きに、夜空は不満げに頬を膨らませ、
「それはどういう意味かな?料理くらい出来るもん。これでも花嫁修業はバッチリなんだから」
「へぇ……」
 凄いでしょう、とそのふくよかな胸を張る夜空。
 そんな子供っぽいしぐさを見せる夜空に苦笑しつつ、朝陽は夜空の隣に座る人物を窺う。
 学院へと向かう車。
 そこには当然、朝陽と同様、今日から学院生となる夕陽も同乗している。
 その夕陽であるが、車に乗ってから暫くは夜空に話しかけていたが、素っ気ない反応しかもらえず、今は不貞腐れた様に窓の外を眺めている。
 その様子に、朝陽は若干の違和感を覚えた。
 昨日の夕陽との接触において、朝陽が抱いた夕陽への印象と若干のぶれがあったのだ。
 傲岸不遜な夕陽が、少しばかり相手に素っ気ない態度をとられたくらいで子供の様に拗ねてしまうとは。
 そう言えば昨日の夕飯の時もそうだった。
 夜空に話しかけようとして、一度無視された形となった夕陽は再び声をかけようとはせず、不機嫌そうに食事を再開していた。……時折、朝陽を睨みつけながら。
 この車内でも、夜空と会話している朝陽を何度か横目で睨んでいた。
 昨日の夕飯の時は何故自分が睨まれるのか理解できなかった朝陽であるが、今は何となく推測できる。
 ――詰まる所、夕陽は自分に嫉妬しているのではないだろうか。
 全く推測の域を出ない結論であるが、かなり正答に近いような気もする。
 と、そこで朝陽の視線に気づいた夕陽が振り向いた。
「何だよ」
 ぎろりと睨みつけてくる。
 その視線を浴びながらも朝陽は怯むことなく、肩をすくめた。
 その態度が癪に障ったのか、
「おい、お前」
 夕陽が朝陽に何かを言おうとしたところで車が停まった。
「到着ー。ほら、朝陽降りて降りて」
 剣呑な雰囲気にも夜空はマイペースを崩さず、能天気な声を上げた。
 夜空に急かされながら車を降りると、朝陽の目の前には立派な校門があった。


270 翼をください 3  ◆.MTsbg/HDo sage 2011/01/28(金) 22:30:06 ID:vLX1Uc3s
「へえ……」
 朝陽の口から思わず感嘆の吐息が漏れた。
 学院の外観などはパンフレットなどで見た事があるが、実物を実際この目で見るとまた違う。
 白亜の校舎は美しく、校舎へ続く坂道の両脇に咲く桜のトンネルが趣深い。
 この学院に入学するための病院での猛勉強を思い出した朝陽は、より感慨深い気持ちになった。
「入学おめでとう、朝陽」
 後ろから夜空に声を掛けられて、朝陽は思わず涙ぐんでしまう。
 夜空はくすりと笑って、
「私、色々用事があるから先に行くね。入学式、頑張って」
 と、朝陽に手を振りながら、坂道を急ぎ足で登って行った。
 朝陽も手を振り返しながら、坂道を登る。
「ふん、頑張るっつっても、お前は座ってるだけだけどな」
 朝陽の隣には、何故か夕陽が足並みをそろえていた。
 夕陽は不機嫌さを隠す事なく、はん、と朝陽を鼻で笑った。
 朝陽は相手をせず無視しようかとも考えたが、先程浮かんでいた推測をこの機会に口にする事にした。
「お前ってさ、もしかして、シスコン?」
「あ?」
 夕陽が激昂して掴みかかってくるかと身構えていた朝陽であったが、予想に反し夕陽は、はっ、と嘲笑するだけであった。
「シスコン?あり得ねーな。俺は夜空を愛してるからな」
「は?」
 思わず目が点になってしまう朝陽である。
「愛してるって、お前……。もしかして姉さんと血が繋がっていないのか?」
「は?繋がってないわけないだろ。俺にとってもお前にとっても、夜空は実の姉だよ」
「いや、それで愛してるって……」
「何か問題があるか?血のつながり?はっ、そんなの枷にすらならねえな」
 堂々と言ってのける夕陽に、朝陽は奇妙なものを見る視線を向ける。
 その視線をものともせず、夕陽は続ける。
「俺は夜空を愛しているし、夜空は俺と一つになる運命なんだよ。血の繋がりとか倫理だとか、知った事かよ」
 トチ狂っているとしか思えない、と朝陽は思う。
 記憶を失っている朝陽はともかく、これまで十何年一緒に過ごしてきたはずの夕陽が、夜空に恋慕の情を抱くとは。
 全く、常軌を逸しているとしか思えなかった。
 それにその自信はどこから来るのか。朝陽の見る限り、夜空が夕陽を思っている可能性は万に一つもない様に思えた。
 むしろ嫌われているか、歯牙にもかけられていないかのどちらかではないだろうか。
「アホだろ、お前……」
 朝陽は、それら諸々の感情をこめて呟く。
「言ってろ。そうやって上から物を言えるのも今のうちだけだからな」
 そう言い残して夕陽は足を速めた。
 朝陽はその背中を目で追いながら、
「やっぱり嫉妬、か?」
 朝陽と夕陽とでは夜空の対応が全く違っている。
 夜空が何を考えているのかは朝陽には知る由もないが、どちらも彼女にとっては弟であるのに、それこそ如実にその差は表れている。
 夜空から可愛がられている朝陽に対して、夕陽は面白く思っていないのだろう。
 ふう、と朝陽は一つ息をついて、空を仰いだ。
 視界には桜の花と突き抜けるような空がある。
 美しい景色。
 それがはたして朝陽の門出を祝しているのか、それとも。



271 翼をください 3  ◆.MTsbg/HDo sage 2011/01/28(金) 22:31:42 ID:vLX1Uc3s
 #3-2
 入学式は特筆すべきこともなく、つつがなく終わった。
 朝陽は夕陽のスピーチを失敗すれば面白いのに、などと思いながら聞いていたのだが、夕陽は堂々とした風でスピーチを終えた。
 その姿が妙に堂に入っていて、おそらくこのような場に慣れているのだろうと思わせた。
 全体的に退屈な入学式であったが、夜空が上級生代表として壇上に登った時は、朝陽も目を丸くした。
 どうやら夜空は、学院の生徒会長を務めているようだ。
 彼女も夕陽と同様、堂々と、そして凛として音吐朗々と挨拶を述べていた。
 その姿からは、普段朝陽と接している夜空の様をかけらも見いだせず、朝陽には全くの別人に見えたほどである。
 何と言えばいいのか、そう、二人とも自分を相手に如何によく見せるか、その術を体得していた。
 そのあたりは矢張り、御鏡家、古くより栄えてきた名家の令嬢子息というべきか。
 二人の姿に朝陽は、すべてを失くした偽物の自分との違いをまざまざと見せつけられたような気がした。
 入学式の後は自分たちがこれから一年間を過ごすことになる教室に向かう。
 当然というべきか、クラスメイトの中に朝陽の知る人物はいない。
 それぞれ知り合い同士が固まって会話に花を咲かせる中、朝陽はひとり、ポツンと座っている。
 やがて担任となる教師が教室へ入ってくると、皆各々の席へ戻る。
 それを確認した担任教師は軽い自己紹介の後、生徒へと自己紹介をするようにと告げた。
 その言葉に従って、クラスメイト達は一人ずつ出身中学校や趣味などを述べていく。
 中には笑いを取りに走り盛大に滑るものもいて、この辺りはいかに名門校といえども普通の学校と変わらないと言えるのかもしれない。
 朝陽のひとつ前の順番まで来て、朝陽は自分の出身中学を知らないことに気付いた。
 朝陽はどう説明しようか悩むが、それは結果として杞憂と終わる。
 朝陽の順番が回ってくると担任が、
「あー、次の御鏡君だが、皆も知っている通り、不幸な事故に遭い記憶を失ってしまっている」
 という前置きの後に、朝陽の出身中学校を告げた。
 教室は色めき立ち、クラスメイト達は朝陽をちらちらと見ながら、なにやら近くの席の者同士ひそひそと言い合っている。
 そんな好奇の視線に晒されながら朝陽は立ち上がり、
「えっと、まあ、そういうことで分かんないことだらけなんで、色々教えてもらえると助かります。これから一年間、よろしくお願いします」
 順番が回ってくるまで何か面白いことを言ってクラスをドッカンドッカンわかせようかと考えていた朝陽だったが、ネタが思い浮かばず、結局無難なものに落ち着いた。
 そのことを残念に思いながら、椅子に座り、はあ、と小さく息を吐いた。
 その後も自己紹介はすすむが、クラスメイト達の関心は朝陽に向けられたままである。
 その様子を見て、色々と噂が飛びかっているんだろうか、と朝陽は若干の不安に駆られた。
 朝陽自身、自分がどのような経緯で1年も眠りこけ、挙句記憶を失ってしまったのか理解していない。
 真実は闇の中、しかも朝陽は全国でも有名な企業家のお坊ちゃんである。周囲の関心は高く、それに比例して根も葉もない噂が流れている可能性は否定できない。
 この環境の中、朝陽は一から、いやゼロから円滑な人間関係というものを築いていかなければならない。
 前途多難な船出に朝陽は再びため息をつきそうになり、寸でのところで堪えた。
 ため息をつくと幸せが逃げる。そんな言葉を信じているわけではないが、気分が沈んでしまうことは事実である。
 クサクサしていても何も始まらない、きっと、何とかなるだろう。
 朝陽は依然向けられる視線を受け止めながら、半ば口癖と化している言葉を心の中で呟いた。

 夜空が朝言っていた通り、その後は担任による伝達事項があり、すぐに放課となった。
 学院生初日の下校をどう楽しむか、各々が話し合いをしている中、朝陽はスクールバッグに配られたプリント類を詰めながら、これからの計画を練っていた。
 まずは昼食。朝、車の中から見た感じでは、学院周辺にはかなり商店が立ち並んでいた。コンビニもあったし、最悪、食いっぱぐれるという事態はないだろう。
 それよりも昼食の後、である。
 学院から駅までの道のりは基本的に一本道で、事前に把握はしていたが、実際に歩いたことはなく、ルートを外れてしまうと迷ってしまいかねない。
 今後のためにも探検しておきたい朝陽であるが、まずは正規のルートになれる方が先決であろうと思いなおす。
 つまり、ここから駅までのルートを外れることなく昼食を摂らないといけない。


272 翼をください 3  ◆.MTsbg/HDo sage 2011/01/28(金) 22:32:11 ID:vLX1Uc3s
 ちなみに朝陽の中に自宅で食べるという選択肢はない。
 すでに空腹である、というのも大きな理由であるが、あの家での食事に気が進まないのも事実であった。
 それに、昨夜から考えていた自炊のためにレシピ本やある程度の調味料や雑貨なども買っておきたい朝陽である。
 自宅周辺には小さなスーパーしかなく、そこで目当てのものをそろえるには少々心もとない。
 書店や雑貨屋が駅までの道のりにあるかどうかは分からないが、とにかく歩いてみるしかない。
 バッグにすべてを詰め込み、立ち上がろうとした朝陽の肩が後ろからポンポンと叩かれた。
 朝陽が振り向くと、男子生徒がにかっと笑った。
 夕陽のような美少年ではないが、笑顔が印象的な少年。まだ春先だというのに、若干の日焼けが見て取れるのは体質か、常に陽の下にいるからか。
 朝陽が戸惑いの表情を浮かべると、少年は、
「あー、もしかして自己紹介聞いてなかった?俺は小野淳平、よろしくな、朝陽」
 差し出された手を、朝陽は戸惑いながらも握り返した。
 その手はごつごつして、マメのようなものができている。何らかの運動をしているのは事実のようだ。
「って、そうかいきなり下の名前で呼ぶのはなれなれしすぎたか。でも一応御鏡とは、同じ中学出身でさ」
 クラスも違って、あまり親しいわけじゃなかったけどな、と小野は苦笑した。
 そこに来てようやく朝陽も戸惑いの色を消した。
「いや、同じ学年に弟がいるから、朝陽でいいよ。色々とややこしいだろうし」
「あーそうだったな。あいつがいたか」
「あいつ?」
「あ、悪い、気を悪くしたか?でも、俺あいつ苦手なんだよな。だって、ずるいだろ?イケメンで頭もよくて、運動もできてって。完璧すぎて話しかけ辛いんだよ」
 それなら双子である自分にはどうして話しかけたのか、理由を聞いてみたい気にもなった朝陽だが、愛想笑いを浮かべるにとどめた。
 無闇に藪をつつくのは、朝陽の趣味ではない。
 せっかくの友人候補である、ここでの対応は大切にしたい。
「わかるよ。兄である俺でも、そう思うからな」
 そう言うと、おや、という表情を小野は浮かべた。
 どうした、と朝陽が尋ねると、
「いや、何か中学の時と印象が違うなー、と思ってさ。いや、中学の時も接したことがないから勝手なイメージだけど、もうちょっと大人しい奴かと思ってたんだよ」
 なるほど、と朝陽は思う。
 昨日も夕陽から以前とは印象が変わったというような趣旨の言葉を言われた。
 どうやら以前の朝陽は、今の朝陽と違い消極的であったようだ。
 小野は理由を述べた後に、朝陽の記憶喪失云々に思い当ったらしく、しまったという顔をした。
 朝陽は、気まずい空気が流れそうになるのを感じ、
「ま、高校デビューってやつだよ」
 と軽い調子で、髪をかき上げる仕草、小野も朝陽の意図を察したのか、
「何だよそれ、今時流行んねー。っていうか、地味すぎるし。どうせなら金髪にするくらいしないとな」
 と茶化すように笑った。
 その小野の対応に、朝陽は、こいつとならいい友人になれるかもしれない、と嬉しくなるのだった。

 野球部の見学のため、学内で時間を潰すという小野と教室で別れ、朝陽は一人校舎を出た。
 友人と一緒に寄り道という、如何にも青春な初体験を果たせなかった事は残念ではあるが、中々幸先のいいスタートをきれた事に朝陽は満足していた。
 ホクホク顔で駅までの道のりをなぞりながら、何処か昼食のとれるような場所を探す。
 喫茶店や定食屋、ファミレス等を幾つか見つける事が出来たが、朝陽の意識は大手ファストフード店に引き寄せられた。
 格安でハンバーガーを販売しているその店に、引き寄せられるように歩いていく。
 朝陽は、入院していた頃にその店のテレビCMを何度も目にしており、退院したら行ってみたいと思っていたのだった。


273 翼をください 3  ◆.MTsbg/HDo sage 2011/01/28(金) 22:33:34 ID:vLX1Uc3s
 朝陽が店内に入ると、いらっしゃいませ、という溌剌な声と笑顔に迎えられた。
 朝陽は気圧される様に会釈を返しつつ、カウンターへと向かい注文を済ませた。
 ハンバーガー一つとシェイクを頼むと、テイクアウトか店内で食べるのかを尋ねられた。
 朝陽が店内をざっと窺うと、満席状態で座れるような場所はない。この時間帯である、仕方がないだろう。
 取りあえず待つのは面倒だったので、テイクアウトにして直ぐに出てきた注文の品をもって朝陽は店を出た。
 何処か座れる所を探しながら歩く。最悪、駅の構内ならば座る場所の一つや二つあるだろう。
 朝陽はそう思っていたのだが、幸運にもすぐ傍に公園を見つける事が出来た。
 都市緑化という事なのだろうか、やたらと木が植えられた公園。その端の方に設置されているベンチへと座る。
 木漏れ日が春風に合わせてゆらゆらと揺れる。
 朝陽は、わくわくしながらハンバーガーを取り出し、一口ぱくり。
 んー?と首を傾げた。期待が大きすぎたせいもあるのか、感想は、こんなもんか、といったところ。
 次はシェイクに手をつけた。
 バニラの甘さが程良く、冷たい喉越しが心地よい。こっちは朝陽のお気に入りになりそうだった。
 全てを食べ終えた朝陽は、電車の時刻表を取り出し、これからの計画を立てることにする。
 電車の時間は一時間に2本程度はあるので、余り気にする必要はないようだ。
 ここに来るまでに一つ本屋を見つけていて、そこに行こうかと立ち上がりかけた朝陽の耳が何かの音を拾った。
 何かの鳴き声のような音。それは木が多く植えられた林の様な場所から聞こえた。
 朝陽が近づいていくと、その音の正体がはっきりとした。
 猫である。小さな猫が箱に入れられて、か細い鳴き声を漏らしていた。
 真っ白な体の猫。ペットに詳しくない朝陽は、当然その猫がどういう種類なのかは分からない。
 朝陽が近づくと更に声をあげる。餌をねだっているのかもしれない。
 朝陽は箱の前に屈み、何やら思案顔で猫を見つめる。
 やがて考えがまとまったのか、徐に立ち上がると猫の傍を離れ、公園を出た。
 行き先は当初の予定通り、本屋。店内に入ると、朝陽はペットの飼い方などの本が置いてある場所を探し、一冊の本を手に取った。
 そしてもう一冊、料理のレシピ本も適当に一冊選び、レジにて清算を済ませた。
 猫の飼い方について書いてある本によると、普通のミルクは子猫には好ましくないらしく、朝陽はペットショップを探して辺りをうろつく。
 運よく十分ほどで目当ての店を見つけ、そこで猫を飼うために必要な物をそろえ、再び公園へと戻った。
 猫のもとに駆け付けた朝陽は、哺乳瓶にミルクを入れ猫の前に差し出した。
「ほら、飲め飲め」
 猫は暫し哺乳瓶をじっと見つめるだけであったが、目の前で小さく揺らしてやるとおずおずと手を伸ばし、哺乳瓶に口をつけた。
「おー」
 朝陽は思わず感嘆の声を漏らした。
 小さな猫が一生懸命になって哺乳瓶を吸う姿は、感動的に見えた。
「美味しいか?」
 朝陽は問いかけながら、子猫の頭を撫でた。
 少々うざったそうにしながら、子猫はそれでも哺乳瓶を離さない。
 それだけお腹がすいていたのだろう。
 一体誰がこの猫を捨てたのだろう。こんなに可愛くて、力強い命を。
 ある程度満足したのか、子猫は哺乳瓶から口を離し、朝陽をじっと見上げてくる。
 朝陽もその目を覗きこむように見下ろした。
「お前も、居場所がないんだな」
 そ、と朝陽は子猫を抱きあげた。
 訴える術も、生きる術も持たない子猫は、ただ流されるまま、緩やかに死を待つばかりなのだろうか。
「――お前、ウチに来るか?」
 同情、という面も否めない。というより、7割方同情である。
 けれど、このまま放置しておくことなんて朝陽には出来なかった。情が移ってしまった、という事なのだろう。
「まあ、俺も居場所がある訳じゃないけどな」
 朝陽は猫に語りかける様に呟き、苦笑した。
 夜空は朝陽に良くしてくれるが、それでも朝陽は居心地の悪さを感じていた。
 どうしても、夜空も以前の朝陽が戻ってきてくれるのを望んでいるのではないか、今の朝陽が消え去る事を待っているのではないかと邪推してしまうのだった。
 卑屈な考えだと言う事は、朝陽も分かっている。
 まるで、世界中で自分が一番不幸だと信じて疑わない人間みたいだ、と朝陽は思う。
 思うが、しかし、この事ばかりは、如何に楽観的を自負する朝陽といえど自制する事が出来なかった。


274 翼をください 3  ◆.MTsbg/HDo sage 2011/01/28(金) 22:34:43 ID:vLX1Uc3s
「あー、俺、何こんな所で、一人で鬱に入ってるんだ……」
 今の自分を傍から見れば、さぞかし痛い奴に見える事だろう。
「帰るか……」
 本当はもっと色々と町中を回ってみたかったが、気付くと結構いい時間になっていた。
 電車の中に猫を堂々と連れて行くのはさすがにどうかと思い、スクールバッグの中にタオルを敷いて、その上に猫を下ろした。
「頼むから、少しの間静かにしててくれよー」
 きょとんとした顔で朝陽を見上げてくる子猫。
 電車に乗っている時間は30分程で、その間に窒息したりする事はないだろうが、一応、若干チャックを開けたままにしておく。
 そして極力バッグを揺らさないように注意を払いながら、朝陽は、ゆっくりと駅へ向かい歩き始めた。

 #3-3
 家に帰りついた朝陽は、始めに子猫が過ごすスペースを作る事にした。
 作る、といっても使用人に段ボールを貰い、その中にタオルやトイレ用の砂を入れたトレイを入れるくらいの簡単なものだ。
 あっという間に準備を済ませた朝陽は、子猫と戯れる。
 そこでふと、ある重大な事に気付いた。まだ名前を付けていない。
 朝陽は猫を抱きあげて、下から覗きこんだ。
 ……ついていない。雌である。
 朝陽のされるがままの猫だが、そのくりっとした目に咎められているように見えて、
「悪い悪い、レディに失礼だったなー?」
 朝陽は優しく猫を下ろしてやり、そっと体を撫でる。
 猫は心地よさそうに目を細め、にゃーと鳴き声を上げた。
 その様子に朝陽も嬉しくなりながら、猫の名前を考える。
 女の子の名前を思い浮かべて、朝陽は直ぐに一つの名前に行きついた。
「ヒカリ!ヒカリにしよう!」
 なーと猫が鳴く。
 まるでヒカリという名に応えてくれた様に感じて、朝陽はうんと頷いた。
「気に入ったか?よし、今日からお前は、ヒカリに決定だ」
 朝陽はヒカリを最後にひと撫でして、段ボールハウスの中に戻してやる。
 その中に一つボールを入れてやると、ヒカリはボールと戯れ始めた。
 その姿を朝陽はニコニコしながら眺めていたが、はたとある事に気づいて今日購入したばかりのレシピ本を手に取った。
 今日は食材はおろか、調理器具すら整っていないので料理は出来ないが、何が必要なのか本を眺めるだけでも十分だろう。
 朝陽は流し読みしながら、ペラペラとページをめくっていく。
 暫く真剣な表情の朝陽だったが、次第に顔が曇っていき、最後まで見終わると、ぽいと本をベッドの上に放り投げた。
「あー、なんかかなり面倒くさそうだな……」
 朝陽は床に大の字になって、天井を見上げたまま呟く。
 食べられるようなご飯くらいなら簡単に作れるだろう、と朝陽は軽く考えていたのだが、本を見た限りそうは問屋がおろさないらしい。
 一から調理器具や調味料をそろえるとなるとかなりの出費になるし、毎回毎回食材を買うとなると、今渡されている小遣いでは心もとなくなってくる。
 こうなると、ヒカリを飼うための道具による出費がかなり痛くなってくる。勿論、朝陽はそのことを後悔していないけれど。
 見通しが甘かったと言わざるを得ない。
 それに、もともと自炊しようと思った切欠は、食事の場で夕陽や智と顔を合わせる事が嫌だと言う理由だけだということも朝陽の熱を冷ますのに拍車をかけている。
 それさえ我慢すれば、準備や後片付けの面倒もなく、美味しい食事が食べられるという、まさに至れり尽くせりといったところなのである。


275 翼をください 3  ◆.MTsbg/HDo sage 2011/01/28(金) 22:36:28 ID:vLX1Uc3s
「どーすっかなあ……」
 そう言葉にはするものの、既にほぼ答えは出ていると言ってもよい。
 一度冷めてしまった熱は、もう戻る事はない。朝陽は自炊する気力を完全に失ってしまった。
 朝陽はずりずりと床を這って、段ボールハウスを上から覗きこんだ。
 ヒカリはボール遊びに疲れたのか、体を丸めて眠っている。
「なあ、どうすりゃいいと思う?」
 朝陽の言葉は、一体何を指してのものなのか。
 当然、ヒカリからの返答はない。
 しかし元からそんな事期待していない朝陽は、ヒカリをただじっと見つめる。
 壊れてしまいそうな小さな体。これ程小さいのに、きっとそれなりに、壮絶な過去があるのだろう。
 けれどきっとヒカリはそれを忘れて、或いは深く考える事なく生きている。
 それは幸運なことなのだろうか。ヒカリは失った過去を惜しむ事はないのだろうか。
 ただ流されるだけの、抗う術を待たない己の無力を呪う事はないのだろうか。
 朝陽は取り留めもない事を何の脈略もなく考えている自分に気付き、苦笑した。
 さっきから思考が変な方向に飛んでいる。もしかしたら、初めての学校生活などで精神的に疲れているのかもしれない。
「一緒に、頑張って生きて行こうな」
 何の疑心もなく、ヒカリだけは自分を裏切ったりしないと朝陽は信じる事が出来た。
 それは、相手が人間ではなく猫だからという事もあるが、それ以上に何か、そう信じさせるものがあった。
 ヒカリを見つめる朝陽の表情は、慈愛に満ちていて。
 満たされた気持ちに気をとられている朝陽は、先程から都度都度胸に去来する微かな痛みに、気付かない。

「―――」
 夜空は扉を開け、手をドアノブにかけたまま、硬直していた。
 視線の先には、朝陽がダンボールの中を見つめる姿がある。
 ダンボールの中には何故か猫がいて、その事についても夜空は戸惑ったが、問題は朝陽の表情であった。
 慈愛と優しさに溢れた表情。それは何かを愛おしむ表情だ。
 そんな満ち足りた朝陽の表情を、夜空は見た事がなかった。
 否、見た事がない、というと語弊があるかもしれない。
 朝陽が記憶を失う以前ならば、この類の表情をした朝陽を何度か見た事があった。
 人格を失い、今の朝陽になってからは、という言葉が正しい表記であろう。
 そして今の朝陽も、愛しいものを見る表情で、それは矢張り夜空には向けられていない。
「あ――」
 朝陽。そう呼ぼうとして、夜空は一度躊躇した。
 それは、朝陽との時間を一秒も無駄にしたくないと考える彼女にとって、珍しい事であった。
 ぶるり、と夜空は体を小さく震わせた。
 予感。そんな形をもたない不確かなものが、彼女を恐怖させた。
 声になれなかった細い息を吐き出して、もう一度息を吸った。
「朝陽」
 漸く言葉にした呼びかけも、朝陽には届かなかったのか、彼は微動だにしない。
 視線は変わらず、小さな猫を愛でている。
 夜空の存在に気付く事なく、それはまるで、あの時の――
「――朝陽!!」


276 翼をください 3  ◆.MTsbg/HDo sage 2011/01/28(金) 22:37:01 ID:vLX1Uc3s
 一瞬浮かびかけた考えと、誰かの顔を頭の中から掻き消すかのように、夜空は声を荒げた。
 さすがに今度は朝陽も気付き、びくりと体を跳ねさせて、夜空の方を見た。
「……姉さん?」
 困惑した声をあげる朝陽であるが、夜空は自分の声に朝陽が気付いた事を安堵した。
 夜空は普段よりも不出来な笑みを浮かべて、
「ただいま」
「え、あ、ああ、おかえり……」
 その笑みが朝陽には何故か恐ろしいもののようにみえ、朝陽は更に戸惑いの色を濃くした。
 不機嫌なのだろうか、朝陽は心の中で呟いた。
「それ、何?」
 夜空は顎で猫を指して問う。
「何って、猫、だけど」
「そうじゃなくて。何で、猫が朝陽の部屋にいるの?」
「あ、ああ、実はさ駅近くの公園に捨てられててさ、拾って来たんだ」
「拾って?」
 そう、と頷きながら、朝陽は猫をその腕に抱いて見せた。
 眠っていた猫は目を覚まし、朝陽の方を見上げて、にゃあ、と小さく不満げに鳴いた。
 ごめんなー、と朝陽は謝りながら、猫の体を軽くゆする。
「ほら、こんなに小さくて可愛いのに、そのままにしておくわけにはいかなくてさ。それで、ここまで連れてきたんだ」
 説明する朝陽の声には、善い事をした満足感からくる誇らしげな声色が混じっていた。
 それは、朝陽は意識していないが、まるで自分の善行を褒めて貰いたくて親に自慢する子供の様で。
 そう、偉いわね、と夜空は流されるように呟いた。
 朝陽も満更ではないといった様子で、照れくさそうに笑った。
「ほら、ヒカリ、あの人が俺の姉さんだぞー」
 朝陽は腕を小さく揺らしながら、子猫に語りかける。
 朝陽の言葉に、え、と夜空は声を漏らした。
「今、何て言った?」
「へ?」
「その猫の名前、何?」
 尋ねる夜空から、何か鬼気迫る迫力の様なものを感じ、朝陽は怯えながら、
「ヒカリ、だけど……」
「――ヒカリ」
 呆然と鸚鵡返しに呟いて、夜空は朝陽の元へ歩み寄った。
 ごっそりと表情が抜け落ちたまま近づいてくる夜空に、朝陽は思わず後ろに一歩下がろうとして、けれど床に足が張り付いたかのように動けない。
 ゆるゆると夜空が、朝陽の腕に抱かれたヒカリへと手を伸ばす。
 その腕をじっと見つめていたヒカリだが、突然夜空の手を引っ掻いた。
「おっ、おい」
 突然の事に朝陽はワンテンポ遅れて、夜空から一歩分、距離をとった。
 朝陽に対しては最初の方こそ警戒していたが、それ以降は直ぐになついたヒカリの行動に朝陽は目を丸くした


277 翼をください 3  ◆.MTsbg/HDo sage 2011/01/28(金) 22:37:22 ID:vLX1Uc3s
「こら、ダメだろ人を引っ掻いちゃ。……だ、大丈夫?姉さん」
 夜空は引っ掻かれた手を抑えて、ええ、と頷いた。
 ふー、とヒカリは依然夜空を威嚇している。
 その行動に朝陽は戸惑うばかりである。
 もしかしてヒカリは人嫌いの傾向にあるのだろうか、と疑うが、自分には直ぐにな懐いたことから、朝陽はヒカリの突飛な行動に首を傾げる。
 夜空は無表情のまますっと目を細め、ヒカリの視線を受け止めている。
 朝陽には、夜空が果して怒っているのか窺う事が出来ない。
 そのまま数秒の時が流れ、
「そう、また、邪魔をするの」
 やがて夜空がぽつりと呟いた。
「え?」
 上手く聞き取れず、聞き返す朝陽に夜空は、何でもないわ、と首を振った。
「それよりも、その子の名前の由来は何?」
「由来?んー」
 夜空に問われ、朝陽は思案するもハッキリとした答えは出てこない。
「……何となく、かな」
 そう、正に何となくであった。
 名前を考えるときに、一番初めに浮かんできた名前がそれで、別の言葉にするならば、ピンと来た、というべきだろうか。
 しかしよく考えてみると、ヒカリという名前を猫に付けるのは珍しいのかもしれない。
 何でだろう、と朝陽も改めて首をひねった。
「もっといい名前があるんじゃない?タマとかシロとか、ヨゾラとか」
「ヨゾラって、姉さんの名前じゃないか……。でも、うーん、やっぱりヒカリが一番いいよ。コイツも気に入ってるみたいだし、今さら変えられないって」
「そう……」
「それよりお腹減った。もう夕飯出来てるかな?」
「え、ええ。多分、もうそろそろじゃないかな」
 既に窓の外はどっぷりと暗くなっていた。
 朝陽は抱いていたヒカリをダンボールに下ろす。
 ヒカリの視線は今も夜空に向けられたまま、まるで招かれざる侵入者を咎めているかのようである。
 睨み返している夜空を、その奇妙な緊張感を打破しようと朝陽は、
「ほら、早く行こう、姉さん」
 そう急かし、夜空の背中を押しながら、廊下に出た。
 食堂に向かうまでの間、夜空は何か考え込むようにして、朝陽も声をかけられず、二人無言のまま。



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最終更新:2011年01月31日 20:21
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