『きっと、壊れてる』第18話

555 名前:『きっと、壊れてる』第18話(1/8)[sage] 投稿日:2011/05/14(土) 10:56:10.97 ID:vqjfThIx
彼には『薄幸の少年』という表現が一番適切だった。
齢13歳にして病魔を患い、余命は長くて5年と宣告された、と
血の繋がらない姉に優しそうな笑顔で話す彼は、
それでも自分の理不尽な運命を誰に当たり散らすわけでもなく、
とある病院の消毒の匂いがする小さな病室で、静かに余生を過ごしていた。

「美佐さん、こんにちは」
廊下側からスライド式の白いドアを開けると、決まって彼は儚げな笑顔でこちらを迎え入れる。
「さん付けはやめて」と注意しても一向に直す気配がないのは、
後数年で消え行く自分とこれ以上仲良くなっても仕方がない、という彼の意思表示だったのかもしれない。

適当な場所に面会者用の丸椅子を移動し、腰を掛ける。
ベッドの脇に取り付けてある戸棚に、数年前一度だけ撮った家族写真が飾られていた。
左上には私の母親、右上には彼の父親、そして手前には私と彼がそれぞれ実の親の前に立ち、ぎこちない笑顔を浮かべている。
もうこの写真から3年経ったにもかかわらず、彼の外見は写真とさほど変わりはない。
病気との闘いが辛い癖に愚痴の一つも言わない彼に、義理の姉という立場で接してきた私は、
いつの間にか、学校帰りに彼の待つ病院へ面会に来るのが日課になっていた。

「林檎食べる? おねーちゃんが剥いてあげる」
果物ナイフを片手に赤く熟れた林檎を掲げると、彼は嬉しそうに頷く。
最近では彼の痩せこけた頬がなぜだか可愛らしく見えてくる。
18年近くも生きてきて、自分以外の人間がこんなに愛おしいと思うのは初めてだった。

「美佐さんは家庭的だね。きっと良いお嫁さんになるよ」
林檎を剥いたぐらいで褒めてくれるのは、彼が実の母親と早くに死別したからだろうか。
しかしながら、お嫁さんというものになるためには相手というものが必要だ。
愛どころか、ほのかな恋心すら抱いた事がない私は申し訳なくなった。
もしそういう経験が豊富な女なら、色々な話をしてあげたい。
そうすればあなたの中にある生への執着心を、肥大化させる事ができるかもしれないのに、とありもしない妄想に身を焦がす。

今朝も下駄箱に交際して欲しい旨が綴られた手紙が入っていた。
手紙の相手には申し訳ないが、返事をする段階にすら私は進めない。
興味がなく、断るのも面倒だった。
そんな女に目を付けた自分を恨み、別の構ってくれる女性を見つけて欲しい、と今はそう願うしかない。

「君は好きな人とかいないの? ほら、担当の看護師さんとかムチムチな感じが良いじゃん。パフパフしたくならない?」
お世話になっている人に対してそんな感情は申し訳なくて抱けないよ、と彼は笑う。
その真っ白なキャンパスに、私の黒い絵の具で下劣な言葉でも書いてみたいと言うと、
「美佐さんは自分で黒いと思っているだけで、本当は僕よりも白いんだよ」と再び彼は笑った。

もう病院に通い始めてどのくらい経った頃だろうか。
病院の受付で顔馴染みの看護師と当たり障りのない世間話をしてから、
彼の待つ部屋へと駆け個室の前まで来ると同時に、部屋の中から微かな違和感を感じた。

虫の知らせとでも言うのか、扉を開けるのが酷く億劫だったが、構わず力任せにドアをスライドさせると、
芋虫のように身体を丸め、病の痛みにもがく彼の姿がそこにはあった。
ナースコールを数度押下し、苦しむ彼の手を握る。
人の熱を嫌というほど掌に感じて、どこか別の世界から来たような透明で儚い彼もまた同じ人間なのだ、と私は安堵した。

数日後、彼は落ち着きを取り戻し、前と同じように邪のない表情を振舞っていた。
軽い冗談を織り交ぜ話す私は、会話が一段落すると唐突に「死ぬ事で一番怖い事は何?」と質問を投げ掛けた。
自分でも空気の読めない質問である事を承知の上だったが、
さも当然の様に病気を受け入れる彼の心が、笑う事を使命付けられた人形のように感じていたからだった。

「うん、そうだね。僕は僕が生きた証が、微塵もこの世に残らない事が少しだけ悲しいかな」
そう言うと彼は吐息を吐き、窓の外に生える季節外れの桜の木を見つめる。
「ほとんどの人はそうじゃない? 私だって今死んでも殆ど何も残らないよ」
私の言葉と彼が言った言葉は噛み合っていない事は理解していたが、今はそれしか言えなかった。
座っていた丸椅子を部屋の隅に寄せると、「じゃあ明日ね」とお決まりとなっている別れの言葉を述べ、私は部屋を出た。
彼の生の証を残す方法を考えながら帰宅する私は、家に着くまで2回もすれ違う歩行者とぶつかった。


556 名前:『きっと、壊れてる』第18話(2/8)[sage] 投稿日:2011/05/14(土) 10:56:49.74 ID:vqjfThIx
彼の容態が急変したのは、私が昼休みに屋上で一人昼食を取っていた時の事だった。
顔なじみ程度のクラスメイトに声を掛けられ職員室へ行くと、担任教師に状況を伝えられる。
教師は緊迫した面持ちで私に「落ち着いて聞いて」と声を掛けてから話し始めたが、
既に私は、彼がこの世から何も残さずに消え行く運命である事は知っているのに、今更何だと言うのだろう。
この人はおそらく綺麗な音楽が流れる中で人が死ぬような、『ハリボテ感動物』が好きなタイプで、
自分が登場人物の一人にでもなった気分なのだろう、と心の中で蔑み、私は早退の手続きを取った。

病室まで駆けつけると、医師と無邪気に話す想定外な彼の姿がそこにはあった。
医師が去った後、「なんだ、まだ生きてるじゃん」と私なりの安堵の言葉を伝えると、
「看護師さんの身体触るまでは死ねないよ」と彼は本当に健康そうな笑顔を浮かべた。
念のため事情を聞くと、発作が起きただけで大事には至らなかったが、
病院側の判断で家族には連絡をした、という事がわかった。
彼の前では「人騒がせな病院」と嘲笑ったが、
おそらく真実は『次にこういう事があったら本当に命の灯が消える可能性が高い』という警告だった。

汗をかいたらしく、着替えをしたがる彼を手伝う。
定期的に看護師さんに身体を拭いてもらえるものの、綺麗好きな彼は我慢できないようだ。
悪戯のつもりで入院服を脱いだ彼のやせ細った背中に手を這わすと、「ひっ」と可愛らしい声が聞こえた。
「やめてよ美佐さん、その手つき」
彼は珍しく怒った顔をしているがまったく怖くない。
小動物にちょっかいを出したら、相手をしてもらえなかった時の様な意地と熱情を覚えた。
再度、彼の背中を撫で私はわざと息苦しい吐息を吐く。
「君はこういう事した事無いの? お姉さんが教えてあげようか?」
「あっ、ぼっ……僕初めてだから……」
暫しの沈黙の後、私と彼は我慢できずに吹き出し、声を上げて笑った。
「……よしよし、演技うまくなったね。仕込んだ甲斐があった」
「こんなところ、誰かに見られたらどうするのさ」
私が精一杯作った声で妖艶なAV女優を演じると、彼は照れながら芝居に付き合ってくれる。
その断れ切れない優しさも、私にとっては彼が愛おしい材料の一つだった。
彼の背中から僅かに漏れる鼓動が、私の掌に生の主張をする。
それは決して力強くはなかったけれど、命の重さを伝えるには十分過ぎる。
以前より考えていた彼への手向けを近日中に実行しよう、と私はこの時決心した。

さらにそれから数日が経った。
夜の帳が下り病院内に静けさを呼び込んだ頃、隠れて面会時間の終了をやり過ごした私は、
仰向けに寝ようとしていた彼の体に跨り、脅えた瞳を完全な捕食者として見下ろしていた。
「美佐さん、どうしたの? 帰ったのではなかったの?」
気丈に振舞ってはいるが、彼はここ数日体調が芳しくない。
もう時間が残されていない事は明白だった。
ならば彼の意思を汲む必要はない。
座っている私の尻の下辺りにある、何かが膨張している。
生まれて初めて、股間に女の柔らかさを感じてしまったからだろう。
恥ずかしそうに顔を背ける彼を一瞥すると、私は制服のスカートに手を入れ、下着を下ろした。
大丈夫。迷う事はない。彼自身が望んだ事だからだ。
「君は前に言ったよね。自分の生きた証が世の中に欲しいって」
彼の望みを口に出し、間を置いてくすりと笑う。
そもそも特別な才能も開花させていない人間が、死去するだけで世の中に浸透するほどの何かを残せるわけはない。
殆どの人間は同じ。
家族ですら時が経つ毎に記憶は薄れ、最終的には年忌という名の宴会の口実にされる。
ただそれだけが、1人の人間に与えられる『果て』だった。
「それはね、残念ながらほぼ不可能なんだよ。けどね」
世には残せない。
しかし、本人より少しだけ長生きする人間に傷を付けておけば、その人間が生きている限り軌跡は残る。
「おねーちゃんが君の生きた証を抱えて、この先過ごしてあげる」
彼が何かを叫ぶように言っている。
なぜか私の耳にそれは届かず、手は嘲笑うかのように彼の入院服と下着を器用に剥がすと、
まだ汚れていないその砲身を手で固定し、私の膣の中に押し込んだ。

痛い。しかし、これで良い。
この傷はもう二度と再生しない。


557 名前:『きっと、壊れてる』第18話(3/8)[sage] 投稿日:2011/05/14(土) 10:57:22.57 ID:vqjfThIx
いつか観たアダルトビデオを真似て、腰を上下に動かしてみる。
多少の恍惚感があるだけで基本的には女性器がヒリヒリと痛いだけの運動だ。
こんなものが、命を生み出す神秘的な行為なのだろうか。
ふと、彼と目が合う。
望み通り、世に自分が付けた痕を残せたというのにもかかわらず、
彼の瞳は今にも涙が溢れそうなほど真っ赤であり、口元は悔しそうに歪んでいた。
痛みを我慢して、腰をさらに激しく上下に動かす。
「うっ」と漏らした彼の呻き声が愛しくて、手を取り私の胸元へと導いた。

「触らないの? そこまで大きくないけど」
制服のブラウス越しというのが気に食わないのか、彼の手と指はほとんど動かない。
腰の動きは止めずに、器用にボタンを全て外すと彼に私の下着が良く見えるように、ブラウスをダラしなく、はだけさせた。
ピンク色をした下着が露わになり、これで清純そうな下着が好きそうな彼も喜ぶと思っていた私だったが、
それでも頑として手を動かさない彼に、少し不愉快になった。

「ナマチチが良いなら自分で脱がせてよ。大変なんだから、動きながら脱ぐの」
彼からの返事はなく、挙句には私の手を振り払い、自分の顔を隠す様に腕で覆った。
きっと、恥だと思っているのだろう。
大人しくても男は男、彼は自分が上位となり私を獣染みた乱暴さで蹂躙したかったのだ。
その隙を虎視眈々と窺っている内に、私の方から行為に移してしまったものだから、
彼は自分を情けない男と思い込み、悔し涙を流しているに違いない。
その純朴さを想い、彼の真一文字に結んだ唇を眺めていると、微かに私の膣が快感を奏でている事に気付いた。

「ちょっとだけ、気持ち良くなってきた。こういう時って嬌声を出した方が興奮する?」
アダルトビデオに出ていた女性は、豚の鳴き声のような声を上げ、男の興奮を誘っていたが、
男性はああいうワザとらしいのが好むのだろうか。
それならば彼の為にサービスしよう、と私は喉の調子を気付かれないよう整えた。

「あんっ! あんっ! 気持ち良いよ~! おちんぽ入ってるよ~!」
これは酷い。本物の阿保になったみたいだ。
顔を覆う彼の腕の隙間を見つけ、表情を覗き込む。
先程と何も変わらない。悔しそうに唇は歪み、私が腰を動かす振動で腕がずれ時折垣間見える瞳は、死んだように一点を見つめたままだった。
さすがに不快の限度を超えた私が、彼の腕を退かそうと手を伸ばすと、膣の中にあった彼の男性器がブルブルと震えている事に気付く。
何か体の中に吐き出されている感触がした。

「イったの? 中に出しちゃったね。妊娠したらまた一つ残せるものが出来たね?」
その言葉で、初めて彼は反応した。
首を左右に振り、何かを拒絶しているようだ。
「ん、大丈夫。わかってるから。今日はおねーちゃんのが壊れるまで突いて良いよ?」
まだ物足りないと主張する彼に、なぜか私の心は踊った。

こうして彼の望みを叶えた私は、夜間の見廻りに来た看護師に引き剥がされるまで、彼の上で延々と腰を振っていた。

それからの事は正直あまり良く憶えていない。
唯一、記憶の片隅に残っているのは、義父の気味の悪い虫を見るような目と、母の罵声を発する薄赤色の唇だけだった。
私は周囲にバレても別に気にしないと言ったのに、義父が世間体が悪化するのを危惧したのか、転校することを勧められた。
いくつかの候補の中から、都内にある適当な女子高を選んだ。
どうせ進学は東京の大学にしようと思っていたところだ。
特に断る理由はなく、受け入れられる。
異端は排除すべきだと私も思うし、進学費用も出してくれると言う親に怨恨もあるはずがない。
数日間で支度を終え、地方都市の中途半端に澄んだ風を肺一杯吸い込むと、私は軽い足取りで電車の中へと乗り込んだ。
走る電車の窓越しに見える彼が住む病院は、汚れを知らない聖域のように真っ白な壁で覆われていた。

暇を持て余す電車の中で、人生の中で性交渉など今回限りだろうとぼんやりと考えていた私は、
東京に来て数年経った頃、恋に落ちる。
それは決して偶然ではない。

彼の外見を大人っぽくした容姿、彼よりも寂寥の表情を見せる男。
運命、そんなありふれた言葉が私の空に舞った──。


558 名前:『きっと、壊れてる』第18話(4/8)[sage] 投稿日:2011/05/14(土) 10:58:01.43 ID:vqjfThIx
「何か反応してよ」
すべてを話し終えた美佐は、沈黙を守る浩介の瞳に急かす様に縋った。
自分が起こした行動に疑問を感じ始めたのは何時頃からだったか、
年齢を重ねるにつれ、人に打ち明けるにはそれなりの勇気が欲しかった事も事実だ。
「いや、美佐……そうか。なんて返せば良いのか、わからないけど」
美佐が茜と浩介の関係を知りながらも、以前通り接してくれた理由が今はっきりとわかった。
「でも4年前は本当にびっくりしたよ。私の上を行く猛者がいようとはね」
4年前、美佐に言われた「妹と変な事してる男なんて最低。気持ち悪いわ。サヨナラ」という言葉が頭の中で再生される。
当時の美佐の真意はわからないが、その頃既に葛藤があったのは確かだ。

「弟さんは?」
浩介はやっとの思いで、美佐に問いかけた。
「私が転校してからすぐ亡くなった、という連絡は受けた。お葬式とかは出席させてもらえなかったよ」
明言はしないが、おそらく勘当されたようなものなのだろう。
はにかむ美佐の表情が痛々しく映り、「彼はどんな思いで逝ったのか」と浩介は心の中で呟いた。
美佐の思惑通り、この世に自分の足跡を残せた事に満足していたのか、
取り返しがつかない義姉の行動を恨んだのか、今はもう知る由もない。
「ちなみに妊娠はしなかった。安全日だったしねぇ」
あまり聞きたくはない生々しい過去。
おそらく浩介が気になっている、と美佐は感付き、言葉を付け加えた。
浩介は軽い口調の中に美佐の気遣いを感じる。
しかしとても笑い話にはできず、浩介に複雑な過去がなければ即破談になるような内容だった。
沈黙が続き、その場にいた人間は微動だにできずにいた。

時間はどれ位経ったのだろうか、誰からともなくこの場を離れようとしていた時だった。
髪を振り乱し憎悪の呻き笑いを上げる女が、浩介の視界に入った。
「くくくっはははっ、聞いた兄さん? この女、義理とはいえ弟とセックスしたのよ。 『気持ち悪い』って言ってあげて? ねぇ? ほら早く」
鬼の首を取った様に楓が笑う。
もはや楓は、美佐の後ろめたい過去を煽る事でしか自分の存在を保てなくなっていた。
「これで、結婚も無くなるわよね? ほら、早く拒絶して! 私にしたみたいに」
自分の腰に抱きつく様に纏わり下方から顔を覗く楓に、浩介は生まれて初めて嫌悪感を抱く。
最早、楓は可愛い妹ではなく、自分を誑し込む鬼のように思えた。

「 ねぇ? 結婚なんてしないよね? この女と別れるって言ってよ! お兄ちゃん!」
夕暮れに染まる空を軽く見上げ、ため息をつく。
何かを手に入れる為には何かを捨てなければいけない、と学生の頃冗談で言っていた大人ぶった台詞。
それを現実で言う事になるとは、浩介自身想像もつかなかった。
「楓……少し黙れ。俺は美佐と結婚する。お前は実家に帰れ」
数秒の沈黙の後、楓の獣の咆哮のような奇声が辺りに響いた。
どこから取り出したのか、手にはカッターナイフがあり、キリキリと音を立てて刃が出される。
目は涙が流れ落ちながらも血走り、舌を誤って噛んだのか微少な血が口から垣間見えた。
足は力が入っておらず、楓はたどたどしく浩介と美佐に向かって歩き出したが、
カッターの刃が浩介と美佐に届く事はなかった。

しばらく沈黙を守っていた巧が後ろから抱き抱える様に楓の身体を包み、カッターを持つ楓の手を優しく制していた。

「もうやめよう。君だけはまだ出直す事ができる」
密着すると良く分る。細く薄い楓の背中は、誰かを憎むにはまだ頼りなかった。
巧は今回の話に自分が入り込む余地などないと自覚していた。
巧にとってある意味雲の上の人物であった黒髪の美女が、今は嫉妬と怨恨に狂う亡霊と化し、
お世辞にも美しいとは言えない形相になっている。
それでも、楓だけは自分が支えてあげたい対象である事に変わりはなかった。
「離せよてめぇ。 邪魔するなよ」
巧の腕の中で大声で叫び暴れる楓は、カッターを振りまわす。
巧の腕に掠ったのか、コンクリートの浅黒い色に、小さな赤い斑点が飛び散った。

「やめろ楓」
声を出し、楓を止めようとする浩介の腕を、美佐の掌が力強く握った。
振り向くと美佐は冷たい瞳で「また妹を苦しめたいの?」と小声で言い放った。


559 名前:『きっと、壊れてる』第18話(5/8)[sage] 投稿日:2011/05/14(土) 10:59:03.05 ID:vqjfThIx
「なんでその女を選ぶんだよ。 姉さんはどうするんだよ。 姉さんの人生をボロボロしたクセに」
楓の罵声が身体を突き抜ける。
思えば、この隅田川のテラスに通りかかった時は一緒にいたはずの茜は、何処へ行ったのだろうか。
目の前にいる楓よりも、この場所にはいない茜を案じた浩介は、自虐的な苦笑いをした。

「笑ってんじゃねえよ。何で私じゃ駄目なんだよ」
最早、楓の叫びは浩介に届いていなかった。
助けを求める様に振り返ると、美佐は小さく頷き浩介の腕を取って楓から逃げる様に歩き出した。

「じゃあポチ君。悪いけど、楓ちゃんお願いできる? 私達が居ると、治まらないと思うから」
美佐はそう言うと浩介の肩を叩き、バッグから取り出したメモ帳に何かを書かせる。
そのメモを1枚破り折り畳んだ後、巧達の右前方にあるベンチに置いた。
巧は頷くと、楓を包む腕に再度力を込めた。
徐々に遠ざかる二人の姿を、気狂いのような目付きで追う楓は、飽きる事無く叫んだ。
「逃げんなよ! ……待ってよ……お兄ちゃん」

数分後、浩介と美佐の姿が完全に見えなくなると、楓の体から力が抜け倒れ込むように二人は地面へと尻餅をついた。
顔を歪ませ泣きじゃくる楓は、呼吸するのが苦しそうにしゃくり上げ、手で顔を覆った。

「明日から、あの二人が別れるまで延々と追いかけようか?」
後ろから楓に声を掛ける。
返事はない。
巧は微笑むと、楓を包んでいた腕を外した。
先程も大して力は入れていない。
本当に斬りつける気があったのなら、巧を振り切る事も楓はできた筈だった。

「……私はどうすれば良いのよ」
やっとの事で絞り出したのか、嗄れた楓の声は巧に助けを求めているように聞こえた。
「少し、休もう。何年か経って、それでもまだあの二人が許せないのなら、俺がなんとかするよ」

「何の根拠のない自信ね。それに貴方は裏切るから駄目よ」
目の錯覚だと思い、頭が真っ白になる。
楓が少し微笑んだ様な気がした。
初めて向けられた好意のある顔に、巧はおもわず楓の顔を覗き込んだが、
それと同時に楓の体が巧の方へと倒れてきた。
楓は精根尽き果てたのか、寝息を立てていた。

「おっおい、大丈夫か?」
支える体は驚くほど軽かった。
この軽い体で、何重もの業を抱えて生きて来たのかと考えると、
少しだけ、浩介と美佐に憎しみの情が湧くのを覚える。
「……お兄ちゃん」
涙を流しなら眠る楓の顔は、泣き疲れた幼児だった。
楓を抱えたまま起こさないよう少しずつベンチまで近付き、先程美佐が置いた帰った紙を取る。

中には、おそらく楓の実家であろう住所が書かれていた。
突然訪ねて、楓の両親にどういう顔をされるか想像すると、億劫になる。
それでも巧は楓を送り届けようと心に決め、2人分の重さを支える足を前に踏み出した──。


561 名前:『きっと、壊れてる』第18話(6/8)[sage] 投稿日:2011/05/14(土) 12:09:18.56 ID:DRd48p9v
川の流れは、昼間よりも少しなだらかに思える。
おそらく全ては終わったのだ、と良い方向に解釈すると、かつてない心地良い風が美佐の心に吹いた。

「ごめんね、呼び出して」
待ち合わせ場所としてこの場所を指定した事に特に理由はない。
老兵が戦場を懐かしみ当時の思いを馳せるのと同じ様な事だ、と美佐は自分の中で解決し、
テラスの階段を降りてゆっくりとこちらに近付く人物を迎えた。
「茜ちゃん、こんばんは」
「……こんばんは」
意識的に電灯がある場所を避けた為、茜の表情は確認できない。
美佐は右手に身に付けた時計も暗がりでよく見えず、仕方なくバッグから携帯電話を取り出し時間を確認した。
茜が現れた時間は待ち合わせの時間に1分も狂いがなかった。
「悪いねぇ、こんな夜中に。変態さんとかに遭遇しなかった?」
「用件はなんですか? 美佐さん」
美佐の隣に陣取ると、茜は隅田川を直視したまま軽口を無視し、問いかける。
私と美佐さんは仲間ではないのよ、と言われている気がした。
「楓ちゃんの事。ちょっと酷かったんじゃない?」
美佐が二人の家に訪問した次の日の事だった。
前日に履いていたパンツを洗濯しようとした際に、何か名刺の様な物が入っている事に美佐は気付いた。

090-****-****
貴女と取引したい事があります。電話してください。
そのメッセージカードには丁寧な字でそう書かれていた。
嫌でも誰の仕業か気付く。
連絡を取ると茜は美佐が予想も付かなかった取引を持ちかけてきた。
美佐が受けている嫌がらせの犯人の素性。
その犯人と実行犯が落ち合う場所。
以上の2点を教えるという内容だった。
見返りは、美佐がある程度期日及び時間を絞り込む、そしてその現場へと乗り込んで犯人に嫌がらせをやめるよう説得する事、
その際には自分にも連絡が欲しい。茜が要求したのはその3項だった。
自分が何者かに嫌がらせを受けている事を茜が知っている事に関しては、さほど驚きは感じなかった。
理由は、『茜なら知っている気がする』という根拠も何もない、女の勘だ。
茜も気付かれているのは承知なのだろう、と美佐は思った。
その証拠に茜は特に断りも入れなければ、言い訳もしない。
それよりも、茜が今回の取引を持ちかけた理由を美佐は知りたかった。
双方ある程度のリスクを背負っている事から、嘘や罠という線は薄い。
つまり、現在美佐に嫌がらせをしている人物は茜にとっても目障りな人物である事が想像できた。

しかし美佐はそれでも疑問を持った。
茜はこの取引でどんなメリットを得るのか、という事だった。
犯人と犯人の拠点を知っており、犯人にそのような事をやめさせたいのならば、茜本人が行けば良い事だ。
ましてや自分は被害を受けている被害者であるため自分に得な事しかない、と美佐は怪訝に思い、茜の裏を読み取ろうとした。
目障りなだけではなく、相手にもしたくないというだろうか。
結局、茜の真意は読み取れず、美佐は取引に応じた。
今は鬱陶しい小蠅を潰してしまいたい気持ちが一番強かったからだった。
「まぁ、犯人が楓ちゃんというのはおおよそ検討はついていたけど、決定的な証拠がなかった。
ポチ……実行犯と落ち合う場所を教えてくれたのは、正直助かったよ」
「そうですか、それなら良かった。私も楓にはあんな事止めさせたかったから」
この女はあくまで妹を想っての行動だとアピールしたいのか、と美佐は皮肉った笑みを浮かべ、
茜と横並びに川の方へ体を向けた。

「でも、まさか浩介まで現れるとはね。茜ちんの目的は、浩介に楓ちゃんの醜い部分を見せて、
完全に拒絶させる事だったわけだ。茜ちんマジ悪魔」
気付かれぬよう、横目で茜の顔色を伺う。
変化はない。ただ目の前の川に視線を這わせるだけだ。
実の妹が壊れかけても知った事ではない、という事だろうか。
「まぁ、それはどうでも良いや。私が今日呼び出したのはね」
おそらく、これで動じなければこの女を攻略する術はない、と美佐は唾を飲み込む。
そして、闇夜に淡く光る高層マンションの窓を眺めながら少しずつ語り出した。


562 名前:『きっと、壊れてる』第18話(7/8)[sage] 投稿日:2011/05/14(土) 12:09:58.31 ID:DRd48p9v
「ずっと疑問だったの。なんで浩介と一緒に住んでいたわけでもない楓ちゃんが、私と浩介が再会したのを知っていたのか。
嫌がらせが始まったのはヨリを戻す前だから……これはほぼリアルタイムで知っていたという事だよね」
「……さぁ? 私も兄さんも教えていないと思うけど」
茜は淡々と答える。
感情のない人形のように美佐には感じられた。

「『教えていない』だよね? 楓ちゃんが察知できるように『仕向ける』事は可能だよ。
楓ちゃんが常に浩介の事を監視していた線も考えたけど、学校や予備校にはちゃんと通っていたみたいだし、
受験勉強もある。少し荷が重いかな」
いかに楓が執念深くとも、美佐と浩介が別れてからの約4年間、絶えず監視は非現実的だと美佐は判断した。
他には茜と楓の共謀説が美佐の中に浮かんだが、それならば茜が美佐に情報を与えた事を楓が責めないはずはない。
再度、茜の表情を覗き見る。表情に動揺は感じない。
喜怒哀楽が抜け落ちているような茜を前に、美佐はわざと大きくため息をついた。

「多分ね……茜ちゃん、貴女が誘き寄せたの。貴女が癇癪持ちの楓ちゃんを焚き付けたの。
何かしらの方法を使って。しかもそれを楓ちゃんには悟られないように」
さらに、楓の浩介に対する感情を茜は以前から知っていたのだ、と美佐は確信していた。
最終目標は浩介に楓を拒絶させ、絶望を味あわせるためだったに違いない。
ただし、楓が浩介に只ならぬ感情を持っていると知っていなければ、その目標も生まれない。
しかし美佐には茜がなぜ楓を絶望の淵に追いやる必要があったのか、いくら考えても答えは出なかった。
「楓ちゃんに恨みでも持っていたの?」
問いかけに茜は反応せず、ただジッと流れる隅田川の一点を見つめている。
目を逸らさない美佐を迎え撃つように体の向きを変えた茜は、無表情のままだった。
「美佐さん……私、美佐さんが何の事を言っているのか、わからないわ」
「そう。じゃあ質問を変えるよ。これであんたの望み通りに楓ちゃんはとりあえず戦線から退場したわけだけども、
私はどうするつもり?」
「ですから……私は楓に変な事をするのを止めさせたかっただけです。私が言ってもあの子聞かないから、美佐さんにお願いしただけです。
それと……私は、美佐さんと兄さんに結婚して欲しいと思ってる。本心ですよ」
嘘を言っているようには見えない。
どこから見ても、兄の幸せを願う献身的な妹だ。
この女はどこまで白々しいのか、と美佐は不快に思った。

「兄さんにも約束してもらったのだけど」
「何?」
「兄さんの事をちゃんと愛してくださいね? 二人が幸せになる事が……私の幸せにもなるから」
鳥肌が立ち、美佐は思わず身震いをした。
どこかの少女漫画のセリフでも引用したのか、悲劇のヒロイン気取りに反吐が出る。
美佐は嫌悪感を通り越し、畏怖の念すら感じた。
「……別に言われなくてもそうするよ。茜ちんは? どうすんの、これから」
まだ、浩介と籍を入れた後の生活は相談できていない。
ただ、もし浩介と新居を構える事になれば、茜の収入だけで今住んでいるマンションの家賃を支払うには厳しいと容易に想像できた。
実家にも戻り辛いであろう茜に、それでも美佐は情けはかけない。
「3人で暫く暮らそう」等と浩介が言った場合には頬でも叩こうと、決心している程だった。
「私が今の家を出ます。元々兄さんが働いたお金で借りていたようなものだし、二人が新生活を始めるにも何かと入り用でしょう?」
はなから決めていたのか、茜は饒舌にそう答えると「もう引っ越し先も決めてあります」と最後に付け加えた。
「……私に何か恨み言はないの? 今だけは聞いてあげる」
「義姉さんとなる人にそんな感情は持っていません」

そう言うと、茜は「他にないなら、失礼します」と踵を返しテラスの階段を上る。
そして階段を上りきり、美佐の表情を確認するように少しだけ振り向くと、そのまま茜は闇の中に消えた。


563 名前:『きっと、壊れてる』第18話(8/8)[sage] 投稿日:2011/05/14(土) 12:10:36.48 ID:DRd48p9v
一人取り残された美佐は、羽織った白いカーディガンのポケットから、
録音スイッチが押されたままのICレコーダーを取り出す。

「二人が幸せになる事が……私の幸せになるから」

清廉潔白な茜の言葉を一度だけ再生すると、美佐は左右の肘を抱え、上下に擦った。
「あぁ、気色悪かった。でも……それで正解だよ、茜ちゃん」
茜が目的を達成した喜びから、今回の裏事情をペラペラと喋れば、
今後美佐にとってきっと役に立つ音声が撮れるはずだった。
しかし茜は何も語らず、懐疑的な点は複数あるのにもかかわらず、証拠はない。

駄目で元々な賭けだったが、いざ失敗すると思った以上に気分が悪い。
美佐は舌打ちを1度だけすると、茜と同じように闇の中に消えた。
最後まで美佐は茜の奥底に眠る心情を、欠片も把握する事はできなかった。

どこかに潜む夏夜の虫の音だけが、出演者の居なくなった舞台に取り残されていた。

最終話へ続く


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最終更新:2011年07月23日 18:43
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