赤の綾

448 名前:赤の綾  ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/07/08(日) 03:59:36 ID:KZpfkP/i
自転車の一件があってから、夕里子は縁の言葉に従い、身の回りに注意して過ごした。
普段から二人以上で行動し、周囲に異変がないか気を尖らせた。
元々友人は多いので、同じクラスの親しい友人の協力も得ることができた。
綾はしばらくの間、夕里子を襲う隙がないかと観察していたが、どうにも難しそうだとわかった。
(慣れてるっていっても、所詮私も一人の女だしね……)
力は人並みだし、持っている道具もごく一般的な凶器に過ぎない。
警戒をしていない相手と警戒をしている相手とでは殺害の難易度は雲泥の差だし、二人以上を一度に葬る自信はなかった。
(やればできなくはないだろうけど、危険すぎるわね)
うまく殺せても、二人分の死体の処理や細工には、単純に二倍の作業が必要となる。
時間が長引けば人に見られる危険があるし、焦って作業が雑になることもあるだろう。
死体の処理で失敗をすると、警察その他に目をつけられる可能性が格段に高くなるのだ。
(しばらくは様子見ね……)
やれやれと、綾は溜息をついた。
「あーあ……うちが何かの工場とかだったら楽だったのに」
「綾さん、経営者になりたいのですか?」
綾の嘆きに、隣を歩く夕里子が、ほんわかとした声で応じた。
放課後、夕里子を送る陽一に綾が同行する形で、三人並んで夕暮れの道を行く途中だった。
「は? 何言ってるんです?」
「いえ……今さっき家が工場だったら云々と仰っていたので……」
「あー、それは……」
あんたとあんたのお仲間の死体処理に頭を悩ませてるんだよ、とは言えない。
綾は「まあ、そんなところですね」と、適当な相槌をうった。
「綾さんはどういった工場がお好みなのですか?」
「そうですねえ、溶鉱炉とか、大きな粉砕機とかあればいいんですけど。ああ、薬品を扱ったりするのもいいですねー」
「鉄鋼、食品、化学……綾さんは色々なものに興味をお持ちなのですね。すばらしいです」
「すばらしいですか。それはどうも」
感心しきりとばかりに頷く夕里子に、綾は微笑しつつ答えた。
「しかし、あれから一週間経つのに、ストーカーとやらは何もしてきませんね」
「え? あ、はい、そうですね。縁さんもあくまで念のためと言っておりましたし……ストーカーなどではなかったのかも知れませんね、あの自転車は」
「ということは、夕里子さんが自転車を貸した男がやったことだったんですかね」
「そうなるんでしょうか……。いずれにせよ、何も起こらないで良かったです」
「ははあ、お気楽ですね」
にこりと笑う夕里子に、それまでとは一転、冷たい声で綾は言った。
「夕里子さんが見知らぬ男に自転車を貸してしまったおかげで、お兄ちゃんもあなたの友達も気を張ることになったわけですが」
「ぅ……はい……それについては本当に申し訳ないと……」
「人望と言えば聞こえがいいですけど、少し他人に甘え過ぎなんじゃないですか?」
「はい……すみません」
綾の追及に夕里子はしょんぼりと肩を縮こまらせてしまう。
また始まったか、と脇で聞いていた陽一は内心溜息をついた。

449 名前:赤の綾  ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/07/08(日) 04:01:01 ID:KZpfkP/i
二人が顔をあわせてから一週間、綾は夕里子に対して常に丁寧な言葉遣いで応じたが、何かにつけて厳しい言葉を浴びせることがあったのだ。
「お兄ちゃんの恋人が他人に平気で迷惑をかける人間だとは、私も思いたくないんですがね」
「本当に……不出来なもので、すみません」
細い声で再び夕里子は謝る。
見かねた陽一が、綾の肩に手を置いて制した。
「こら、綾、夕里子さんをいじめるなよ」
「いじめてなんかいないわ。夕里子さんに、お兄ちゃんの恋人としてふさわしい人になってもらうべく、アドバイスしてるだけでしょ」
「その、俺の恋人にふさわしい人の基準ってのは、誰が決めたんだよ」
「この私がよ。文句ある?」
「大ありだろ! 何でお前が決めるんだよ!」
「たった一人の妹である私が決めないで、誰が決めるっていうのよ!?」
肩をいからせて陽一に詰め寄る綾。
陽一も退くことはなく、二人は至近距離で睨みあった。
「あ、あの……喧嘩は……」
今度は夕里子が割って入ろうとするが、消え入りそうな声は二人の耳には届かなかった。
「……お兄ちゃんは夕里子さんにやたら甘いわよね」
「別に甘くはないだろ。お前が細かいことを気にしすぎるんだよ」
「何よ? 私、間違ったこと言ってる? 夕里子さんの能天気が原因で、みんなが無駄に苦労しているのは確かでしょ?」
「夕里子さんの無防備なところは俺も時々不安になるけど……夕里子さんのために色々するのをみんながどう思うかは、お前が決めることじゃないだろ」
「……」
「少なくとも俺は、無駄とも苦労とも思ってない。これっぽっちもな」
「へえ~、お兄ちゃんも言うようになったわね」
半眼で睨んで、綾は陽一の脛を勢いよく蹴飛ばした。
「うぐぉっ!」
「よ、陽一さん! だ、大丈夫ですか?」
痛さに悶える陽一と、おろおろと慌てふためく夕里子を尻目に、綾は小走りに交差点を渡る。
「あ、綾……どこに……」
「夕飯の買い物! それじゃあね!」
突っぱねるように言って、そのまま綾は駆けていってしまった。
綾の姿が見えなくなると、陽一は道脇の植え込みの石段に座り、蹴られた脛を見るべくズボンをまくった。
夕里子もその隣にちょこんと座った。
「いてて……あいつ、本気で蹴りやがったな……」
「大丈夫ですか? 私、さすります。任せてください」
「え、あ、いや……」
言うが早いか、夕里子は陽一の脛に触れて優しくさすった。
恥ずかしいのでやめてくれと言おうとした陽一だったが、夕里子の真剣な表情を見て、とりあえずは任せることにした。
「どうですか……? その、少しは楽に……?」
「う、うん。ちょっとくすぐったいかも」
夕里子は綺麗な眉の端を下げて、今にも泣きそうになりながら、懸命に陽一の脛をさすった。

450 名前:赤の綾  ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/07/08(日) 04:02:05 ID:KZpfkP/i
「……陽一さん、すみません。私のせいで、また綾さんと喧嘩になってしまって……」
「ん? 気にしなくていいよ。俺たち昔からあんな感じだから」
「え……昔から蹴られたりしていたんですか?」
「ああ。しょっちゅうケチつけられて、殴られたり蹴られたりしてるよ。だから大丈夫大丈夫」
陽一は軽く笑うが、夕里子の表情は晴れない。
俯いてぽつりと呟いた。
「……綾さんは……まだ私を認めてくださってはいないみたいですね……」
「綾の言ったこと、気にしてるのか?」
「綾さんの仰るとおり、私に落ち度があったのは確かですし……」
「いや、まあ、そんなに気にしなくていいと思うよ」
「え?」
「綾はけっこうきついこと言うけど、それもいつものことだから。夕里子さんに限ったことじゃないし」
「そうなんですか?」
そう、と何でもないことのように陽一は頷いた。
「前に宇喜多にも話したんだけど、あいつ、同じ人に対してもその時々で寛容だったり厳しかったり、わけわからない変化をするからさ。基本的に気分屋なんだ」
「気分屋さん……ですか」
「まあ……心配性なところもあるから、俺と夕里子さんが付き合うことについても色々気にしてるみたいだけど……」
「ですよね、やっぱり……」
陽一も夕里子も共にため息をついた。
「やっぱり会わせるのが早かったのかなあ。……と言ってもあいつから会いに来ちゃったからにはどうしようもないんだけど」
「すみません。私が至らないばかりに」
「あ、いや、こっちこそ、妹一人黙らせることができなくてごめん」
お互い謝って、思いのほか顔が近付いていることに気が付く。
二人は顔を赤らめて姿勢を正した。
「ま、まあ……そんなわけだから、綾の言うことなんて気にせずに……」
「いえ、気にします。ご家族に認められてこそ、陽一さんとお付き合いする資格があると言えるわけですし……」
「そんな大げさな」
「大げさじゃありませんよ。私……胸を張って陽一さんの恋人だって言えるようになりたいんです」
日が落ちて、夕闇に街灯が灯る。
涼しい風が、夕里子の栗色の髪を揺らした。
少し色素の薄い瞳は真剣そのもので、綾の去った後の交差点を見つめていた。
ガラス細工のように繊細なその横顔を見て、陽一は、本当に綺麗な人だなと、一瞬見惚れてしまった。
「うーん……そうまで言われると、俺も夕里子さんの恋人だって胸を張って言えるように頑張らなきゃな」
「え!?」
夕里子は顔を真っ赤にして、あたふたと胸の前で両手を振った。
「い、いえ、陽一さんはそんな、十分にその……私、陽一さんが傍にいてくれるだけで嬉しいですから」
「また大げさだな」
「全然大げさじゃありません! 私、心の底からそう思っていますから! 今もこうして話しているだけで幸せで……」
「そ、そっか」
陽一も夕里子も赤い顔のまま俯いて黙り込んでしまう。
やがて二人はまた並んで歩き出した。
言葉はないままで、互いの手をとって歩く。
陽一と夕里子の付き合いは、初々しくも順調で、少しずつ心の距離を近づけつつあった。

451 名前:赤の綾  ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/07/08(日) 04:03:31 ID:KZpfkP/i
家に帰った綾は、買ってきた鶏肉をまな板の上に置くと、包丁を手にとって思い切り突き刺した。
包丁がまな板に突き刺さる重い音が家の中に響く。
「くそ! あの女……!」
何度も何度も、綾は包丁を振るって肉を刺した。
この一週間毎日のように繰り返しているストレス解消法だった。
「何で……何でお兄ちゃんはあんな奴のことかばうのよ!」
綾が夕里子にけちをつけるのは、陽一の恋人にふさわしい人間になってもらいたいからとか、そんなわけでは当然ない。
陽一と夕里子が深い仲になるのを牽制するためにしていることだった。
あわよくば、文句を言われるのに疲れて、夕里子が陽一から離れていってくれたら、とも思っていた。
しかし、今のところ夕里子が陽一から離れる気配は全くない。
それどころか、陽一が綾の攻撃から夕里子をかばうという構図のせいで、むしろ二人の仲がより緊密になっているように思えた。
「くそ! くそ! くそ!」
綾は狂ったように刺し続け、やがて糸が切れたようにがくんと動きを止めた。
虚ろな目で時計を見る。
そろそろ陽一の帰ってくる時間だった。
「いけない……こんなことしてる場合じゃなかったわ」
綾は陽一の部屋に行くと、ゴミ箱を回収し、自分の部屋に敷いた新聞紙の上にゴミをぶちまけた。
紙くずやビニール袋が散乱する。
綾はそのうちのティッシュのゴミのみを選り集めた。
「一、二、三……今日は少な目ね」
包んで捨てられたティッシュを開き、臭いを嗅ぐ。
一つ目、二つ目と嗅いでいって、三つ目を開いたとき、何とも嬉しそうに微笑んだ。
「ふふ……これこれ」
両の手に捧げるように開いたティッシュを置き、口元に近づける。
微かだが、栗の花のような青臭い臭いがした。
「よしよし。お兄ちゃん、健全な生活を送っているようね」
当面は様子を見ると言っても、急がなければならない時もある。
それは、陽一と夕里子が肉体関係を持ってしまった時だった。
「お兄ちゃんが穢れるのは絶対絶対防がなきゃいけないものね」
陽一も年頃の男。
性欲はあるし、自慰もする。
綾は陽一が夕里子と付き合い始めてから、こうして陽一の自慰がどれくらい行われているかを毎日確認していた。
「これで今週は六回……一日平均〇.八六回……回数には異常なし、と」
安堵の息をつく。
陽一の自慰の回数は、夕里子とことに及んでいるかどうかの重要な指標だった。
自慰の回数が極端に減った時は、陽一と夕里子が肉体関係を結んだ時であり、多少の危険を冒してでも夕里子を排除せねばならない時だと綾は考えていた。
「どうやら今のところは大丈夫みたいね……と言っても、放っておく気もないけれど」
ゴミ箱にゴミを戻し、陽一の部屋に元あったとおりに置いておく。
ただし、精液のついたティッシュは戻さず、ベッドの枕元に置いてあった赤い箱の中にそっと入れた。
箱の中にはそれ以外にも、この数週間で集めた陽一が自慰で使用したティッシュが大量に入っていた。
「ふふ……お兄ちゃんの精子……」
綾はベッドの上で四つん這いになると、箱に顔を擦り付けるようにして、漂ってくる性臭を嗅いだ。
「お兄ちゃん……」
鼻を鳴らしながら、股間に静かに手を伸ばす。
上体を寝そべらせ、熱い息を吐いた。
「今は……こんなことしかできないけど……きっといつか……」
頬を紅潮させ、目を細める。
「大丈夫……お兄ちゃんは……あんな女すぐに嫌いになるはずだもの……ね? お兄ちゃん……」
声を押し殺し、夕影の差す部屋で綾は静かに自慰に耽った。

452 名前:赤の綾  ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/07/08(日) 04:04:13 ID:KZpfkP/i
数日後、綾は夜の街を静かに歩いていた。
綾の前方十数メートルの所には、予備校帰りの女子高生が一人、学校鞄を肩に提げて歩いている。
セミロングの髪を後ろで無造作に束ねた、地味な印象の少女だった。
彼女の名前を、綾は知らない。
ただ知っているのは、自分たちと同じ学校に通っていて、夕里子と同じクラスで学んでいるということ。
休み時間になっても話す友人もなく、机に向かって本を読んでいる、もの静かな人物であるということだけだった。
他にも夕里子のクラスに二、三人似たような人物は居たが、この数日調べたところ、定期的に一人になる時間帯が出来るのは彼女だけだった。
毎週木曜日、予備校の特進クラスで、彼女の帰宅は遅くなる。
帰る時は一人で、人通りの少ない道を通る。
綾が彼女を選んだのは、それらの条件が重なったからに過ぎない。
彼女とは話したこともないし、これといった恨みもなかった。
「気の毒だとは思うけど、これもお兄ちゃんと私の幸せのためだもんね」
綾はズボンのポケットの中で、束ねたストッキングを握た。
どこの店ででも簡単に手に入れることのできる、女性用のナイロンストッキングだ。
先を輪状にして、重みがかかると閉まるように結んである。
いわゆる、クローズドロープと言われる結びだった。
名も知らぬ少女の家は、街外れにある。
家がまばらに立ち、街灯がぽつぽつと立つ寂しい道を歩いて数分、綾は足音を忍ばせて少女に背後から近付くと、首にストッキングの輪をかけ、そのまま後ろに引き倒した。
「……!?」
驚きに、少女は顔を引きつらせる。
肩にかけていた鞄が道に転がった。
少女の尻が地面につかないよう、綾はストッキングの片端を腕に巻き、固定する。
少女は地面に足をつきながら、腰を宙に揺らめかせ、首を吊る形になった。
一秒、二秒と綾は心の中で数える。
少女は慌てたように首を絞めるストッキングを引き剥がそうとするが、しっかりと首に食い込んだそれは、指を割り込ませる隙間もない。
足を踏ん張らせて体勢を立て直そうとしても、綾が少し後ろに下がると、それだけで踏ん張りがきかなくなってしまった。
「……かっ……あ……!」
少女が声にならない声をあげ、綾が心の中で十秒を数え終える頃には、少女は動かなくなっていた。
「ふう……終わりっと」
とりあえず済んだが、のんびりしているわけにはいかない。
綾は少女の死体を引きずって道脇の林の中に運び込むと、適当な高さの枝にストッキングを投げかけて、少女の首をきちんと吊らせた。
綾の身長はそこまで高くないので、手の届く範囲で枝にストッキングの端を結び付けても、少女の足が少し地面についてしまう。
「まあ……自殺の形としては、結構多い型のはずだし、問題ないわよね」
道に転がった鞄を持ってきて、首を吊らせた少女の足元に置く。
さらに少女のスカートのポケットから携帯電話を取り出した。
アドレス帳を開くと、あ行の欄に『お母さん』と登録してあった。
綾は『お母さん』に宛ててメールを打った。

『勉強が辛い。友達もできない。クラスの人には無視される。四辻夕里子にはひどいことを言われた。もうやだ』

そう文面を打って、送信した。
首を吊らせてから既に数分経っている。
「まあ……多分助からないわよね」
もう数分置いて、少女の死をきちんと確認したかったが、長くここにいるのは危険だった。
少女の鞄には『宮入智恵』と名前が書かれていた。
「宮入さん、ね……」
暗闇の中、枝に首を吊った少女の顔を見る。
引きつったままの表情で、虚ろな視線を宙に向けていた。
「ごめんね、宮入さん。恨むなら私と……あと半分は宇喜多縁を恨んでね。あいつが余計なことをしなければ、死ぬのは夕里子さんだけで済んだんだから」
宮入智恵のポケットに放り込んだ携帯電話が、ブルブルと震えていた。
先ほどのメールを心配した母親からのものだろう。
「いいお母さんね……」
少し罰の悪そうな顔をして、綾は背を向けた。
道路に出て空を見ると、薄曇の中に星が見えた。
「まあ……夕里子さんだけ守れば済むと思っているのが、甘いところよね」
くく、と声を忍ばせて笑う。
陽一には買い物に行くといって外に出た。
遅くなった言い訳をどうしようか。
大いに頭を悩ませながら、綾は家路についた。

453 名前:赤の綾  ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/07/08(日) 04:05:16 ID:KZpfkP/i
翌日、学校で緊急の集会があった。
校長から短く、本校の生徒が亡くなったことが伝えられ、全校生徒が黙祷を捧げた。
教室に戻ってから、興味本位で話をする生徒たちもいた。
「なんかさ、自殺らしいよ」
「自殺?」
「ああ。俺、朝見たんだよ。その死んだ人の親が来てるの。凄い剣幕で校長室に怒鳴り込んでさ」
「なんで自殺だからって校長室に行くんだよ」
「よくわからないけど、いじめがあったんじゃないかって話だよ」
ひそひそと、囁くように教室のあちこちで会話が交わされていた。
「……死んだ生徒、ユリねえと同じクラスの人なんだって」
「あら、そうなの?」
沈痛な面持ちで言う小夜子に、綾は初めて聞いたという風に、驚きの表情を見せた。
「じゃあ夕里子さん、ショックを受けてるんじゃない? 優しい人だし」
「うん……多分ね」
はあ、と小夜子は陰鬱なため息をつく。
その顔は、どこか疲れているように見えた。
「何か、この学校ってけっこう人が死んでるよね」
「え?」
「だって……春には事故で一人死んでるし……今回も……」
「あー、まあ確かにね。でも世界では二秒で三人は死んでるんだし、そのうち二人がたまたまうちの学校の生徒になることも、十分ありうることなんじゃないの?」
「まあ……それはそうなんだけれどね……こうも立て続けに人が死んでいると、悲しい気持ちになるというか……」
よしよし、と綾は小夜子の頭を撫でた。
「小夜子はいい子ね。やっぱり従姉妹だけあって、夕里子さんに似てるのかしら」
「私はユリねえみたいに他の人のことを考えてるわけじゃないわよ。ただ、もしも自分が当人になったらって想像すると……悲しい気分になっちゃうのよね」
ねえ、と小夜子は勢い良く顔を上げた。
「綾は死なないでね。もしも綾が死んだりしたら……私……」
小夜子の目は、少しではあるが、潤んで見えた。
「まったく……よくわからない想像力ね。小夜子、泣かないでよ」
「泣いてはいないけど……」
「大丈夫、私は死なないわ。まだまだやりたいことがあるもの。小夜子こそ死ぬんじゃないわよ?」
「私が死んだら……綾は悲しんでくれるの?」
「あったりまえだのクラッカーよ。ま、せいぜい二人とも長生きしましょ」
そう言って、綾は力強く笑った。

454 名前:赤の綾  ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/07/08(日) 04:06:04 ID:KZpfkP/i
その噂が流れてきたのは昼過ぎだった。
死んだ宮入智恵は自殺する直前にメールを母親に送っていたらしいということ。
そのメールにはいじめを示唆する内容が書かれていたということ。
そして、午前中からずっと、四辻夕里子という生徒が話を聞くために職員室に呼び出されたままだということ。
「メールに、四辻って人になんかされたって書かれてたらしいぜ」
「じゃあ……やっぱりいじめで自殺したのか」
「これって、ニュースとかになるのかな?」
噂は静かに、しかし素早く広がり、昼休みが終わる頃には、全校生徒で四辻夕里子の名前を知らない者はなくなっていた。
「馬鹿馬鹿しい」
と小夜子は噂を切って捨てたが、綾は何も言わなかった。
どこか不穏な雰囲気のままその日の学校は終わり、生徒たちはあまり騒ぎ立てないよう教師から注意を受けて、各々教室を出た。
委員会に行くという小夜子と別れて、綾は昇降口に向かう。
どうやら校長室に押しかけた宮入智恵の両親が、メールのことも喚きたてていたらしい。
さすがに昼ほどではないが、四辻夕里子の名を囁く生徒はやはりいた。。
昇降口を出た綾は、校門を出ようとしている陽一の後姿を見つけ、慌てて後を追った。
「お兄ちゃん!」
呼びかけると同時に、後ろから抱きつく。
その勢いに、陽一は前につんのめってしまった。
「おわ! な、何だ、綾か」
「今帰りなの?」
「ああ、まあ、そうなんだけど……」
下校時間だけあって、周囲にはたくさんの生徒の目がある。
突然陽一に抱きついた綾と、抱きつかれた陽一を、道行く人が興味深げに見ていた。
「……何でいきなり抱きついてるんだよ、お前」
「ふふ……これ、今私たちの間で流行ってる挨拶なの。別に深い意味は無いわ」
綾は笑顔で言って、陽一から離れた。
「今日は一人なのね」
「ああ」
「夕里子さんは?」
「……ちょっと色々あって、遅くなるらしいんだ」
「ふーん」
陽一も当然事情は知っているのだろう。
綾の問いに、何とも言えない複雑な表情を見せた。
二人は一緒に帰ることにしたが、言葉少なく、駅に着くまでも、電車に乗ってからも、最寄り駅から自宅に歩くまでも、あまり会話をしなかった。
ただ黙々と道を歩いた二人だが、近所の大きな公園の脇を通ったとき、綾が口を開いた。
「お兄ちゃん、ちょっと寄って行かない?」
「え……」
「公園に。寄っていこうよ」
その公園は、アキラが浮浪者たちに犯され、命を落とした公園だった。
陽一は躊躇したが、綾は有無を言わさず陽一の手を引き、公園に連れ込んだ。

455 名前:赤の綾  ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/07/08(日) 04:17:48 ID:KZpfkP/i
アキラが死んだのはほんの二ヶ月ほど前のことだが、すでに公園は多くの人が平気で訪れるようになっていた。
木がたくさん植わっているおかげで、秋の彩をより身近に感じることができる。
広い芝の運動場では、子供たちが楽しそうにサッカーをしていた。
「元気よね、子供たちは」
「そうだな」
「夕日が真っ赤で綺麗ね」
「そうだな」
無邪気にボールを蹴る子供たちを見ながら、陽一と綾はベンチの脇に佇んで言葉を交わした。
「お兄ちゃん、この公園、覚えてるわよね」
「何がだよ」
「アキラちゃんが死んだ公園だよ」
「……ああ、覚えてるよ。当たり前だろ」
「お兄ちゃん、あの時すごく悲しんでたわよね。それに、自分を怒ってた」
「……まあ、そうだな」
「お兄ちゃんは正義感が強いのよね。ある意味、お母さんの影響なのかしら」
「綾……そんな話をするだけならもう行こう。俺はこの公園にいるのはあまり気が乗らないんだ」
「アキラちゃんのこと、随分引きずってるのね。そんなに悲しいことだったの? そんなに許せないことだったの? アキラちゃんを殺した人達が今も憎い?」
「当たり前だろ。人が死んだんだぞ? 忘れられないし、許せることじゃないだろうが」
憤りを露にする陽一の言葉に、綾は小さく微笑んだ。
「じゃあ、夕里子さんも許せないってことになるわよね」
「……!」
「お兄ちゃんも知ってるでしょ? 夕里子さんが自殺した宮入さんをいじめていたっていう話。
自殺する前に書き残していたんだってね。今日遅くなるっていうのも、その辺の話を聞かれてるんでしょ?」
「……まあ、そうみたいだな」
「いじめて自殺に追い込むのは、人殺しと違うのかしらねえ?」
「夕里子さんがいじめなんてしていたとは思えない」
夕里子の笑顔が思い起こされる。
穏やかな微笑を浮かべ、いつも心配になるくらい優しかった夕里子。
その夕里子がいじめをしていたなんて、到底信じられることではなかった。
「何かの間違い……だと思う」
「ばっかじゃない? 死ぬ前に送ったメールに、夕里子さんの名前がはっきり書いてあったんでしょ? どこをどう間違えるのよ」
綾は、陽一の逡巡を一言で叩き切った。
「別れなさいよ」
「え……」
「別れなさい、夕里子さんと」
「それは……」
「前に聞いたけど、お兄ちゃん、夕里子さんの裏表のないところが好きだって言ったんですってね
でも、ああやって笑ってる裏でいじめなんてして、しかも自殺まで追い込んだとなると……それって、思い切り裏表があったことになるでしょ? 
お兄ちゃんの好きだったところが、全部嘘だったってことになるんじゃない? そうだとしたら、もう夕里子さんと付き合う理由が無いんじゃないの?」
綾の口調はあくまで静かで、冷たかった。
赤い西日が逆光になって綾の表情は見えない。
ツインテールに結んだ髪が、血の中に揺らめく影のように、黒く風になびいていた。
その異様な威圧感に圧されて、陽一は言い返すことができなかった。
「ねえ、別れなさいよ。お兄ちゃんとあの人は合わないわ」
「合わないって……」
「私の知ってるお兄ちゃんは、いい人の皮を被った鬼畜を恋人にするような人じゃないもの」
「綾……お前……言い過ぎ……」
綾は歩を進めて、陽一に抱きつき、その胸に顔をうずめる。
突然のことに、陽一は言いかけた言葉を飲み込んでしまった。
「お兄ちゃん、お願いだから……私を守ってくれたお兄ちゃんのままでいて……あんなやらしい人殺しに穢されちゃ駄目よ」
「……」
「ねえ、もう一度聞くけど、夕里子さんを許せるの? 宮入さんを自殺に追い込んだ、夕里子さんを」
「それは……」

456 名前:赤の綾  ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/07/08(日) 04:19:00 ID:KZpfkP/i
陽一は幼い頃に自分の母の壮絶な虐待を目の当たりにしている。
それで綾が死に掛けたことも覚えている。
そんな原体験を持つ陽一にとって、他人を傷つける行為、他人の命を奪う行為は、一般的な倫理観を越えたところで、許されざることだった。
「……許せることじゃないよ。もし……本当にいじめをしていて、自殺に追い込んだとしたら。でもまだ本当に夕里子さんが原因だと決まったわけじゃ……」
「仮にも恋人だから、どうしても贔屓しちゃうのはわかるけどね。死ぬ間際のメッセージを軽んじるのは、死んだ宮入さんがあまりに気の毒じゃないかしら。
絶望して、自ら命を絶とうという時に書いた最後の訴えなのよ?」
「……!」
綾は陽一に抱きついたままで顔を上げ、目で訴えかけた。
「別れてくれるわよね。アキラちゃんのために涙を流したお兄ちゃんなら……私を守ってくれたお兄ちゃんなら……わけもなく他人をいたぶる人を、好きになるはずないものね」
そう、夕里子があの笑顔の裏で級友をいたぶっていたとなると、それは陽一の許容する人物像ではない。
恋愛対象から嫌悪の対象に変わることは間違いなかった。
間違いなかったが――
「別れる……?」
「そう、別れるの。人殺しのいじめっ子が大好きって宗旨変えするなら、それはそれでいいんだろうけどね」
「それはさすがにないけど……」
「じゃあ別れてくれるのね!?」
「そう……だな……許されることじゃないもんな……」
次々と繰り出される綾の責めの言葉に、陽一はついに頷いてしまった。
「じゃあ、今すぐメールを打ってくれる? 夕里子さんに」
「え……? 何も今すぐしなくても……」
「ここからは私の都合になるけど、『級友を自殺に追い込んだ女と付き合ってた男の妹』なんて周囲に認識されると私も困るしね。手早く別れてもらった方がいいわけ」
「……まあ、そうだな。俺だけの問題ってわけじゃないんだよな、こうなると」
陽一はのろのろとした動作で携帯電話を取り出したが、夕里子へのメールを打つ段になってまた止まってしまった。
「どうしたのよ? 文面が思いつかないなら、いっちょ私がすっぱり別れられる強烈なやつを書いてあげようか?」
「いや、いい。自分で打つよ」
しかし陽一の指は動かない。
綾はじっと期待の目で見ているが、数分経っても陽一は動かなかった。
「……ちょっと、お兄ちゃん?」
「ん……ああ、まあ、意外と思いつかないもんだな、別れの言葉って」
これから打つのは夕里子に向けた別れの言葉だ。
凝った文面なんて考えなくてもいい。
書こうと思えばすぐに書けた。
しかし――
(いいのか? 本当に……)

『私……胸を張って陽一さんの恋人だって言えるようになりたいんです』

そう言って恥ずかしそうに笑った夕里子。
綺麗で、冗談だろうと言いたくなるくらい優しくて、一途に自分を想ってくれた夕里子。
いじめは許されることではない。
人の命を奪ったとなれば、なおさらそれは嫌悪の対象になる。
そして、夕里子が死んだ宮入智恵になんらかの嫌がらせをしていたのは――どうやら間違いないらしい。
何しろ、宮入の死の直前のメールがあるのだ。
(でも……)
陽一は携帯電話の画面を見つめたまま、動くことができなかった。
いい加減痺れを切らした綾が陽一の手から携帯電話を奪い取ってしまった。
「あ……」
「私が送ってあげるわよ」
陽一の手を払い、綾が素早くメールを打ち始めたその瞬間、
「支倉君? 綾ちゃん?」
二人のすぐ近くから声がかかった。

457 名前:赤の綾  ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/07/08(日) 04:21:18 ID:KZpfkP/i
振り返るまでもなくわかった。
きっちりと編みこんだ三つ編みの髪に、一切崩すことなく着こなした制服。
眼鏡の少女は、小首を傾げて陽一と綾を見つめていた。
「宇喜田……」
「あら、縁さんじゃないですか」
縁は嬉しそうに手を振って、二人の元に駆け寄った。
「あはは。よかった。人違いだったらどうしようかと思ったよ。西日がきついねえ、この公園は」
「……縁さん、こんなところにどうしたんですか? お家とは別の方向ですよね」
「ちょっと支倉君に用事があってさ。今から家にお訪ねしようかと思ってたんだ」
「何の用事ですか?」
「夕里子ちゃんについてお話があって」
綾は舌打ちをしたくなったが、努めて平静な声を出した。
「そうですか。後で聞きますから、近くの喫茶店で待っていてください。今、兄と大切な話をしていますので」
「夕里子ちゃんに関することだよね? だったら私も混ぜてほしいんだけどな」
「家族としての話し合いですので、ご遠慮願えますか?」
「何か迷ってるようだったら、別の意見も聞いてみた方がいいと思うけど?」
言って縁はちらりと陽一の顔を見た。
いつもの朗らかな笑い顔。
眼鏡の下の瞳には、知性のきらめき。
そして、陽一を見つめる眼差しからは、『力になる』という確固とした意志が感じられた。
陽一の沈んだ表情が、みるみるうちに晴れていった。
「……綾、宇喜多にも話を聞いてもらおう」
「お兄ちゃん!?」
「宇喜多は俺やお前よりも、夕里子さんのことを知っているわけだし、話を聞くのは悪いことじゃないだろう」
「う……」
前回のちゃちな自転車への細工とは違う。
人を一人殺してまで打った、夕里子を陥れるための罠だ。
死に際して残した言葉というのは、日常口にする言葉の何倍も重く見られる。
『自殺した』宮入智恵は、四辻夕里子の名前を残したのだ。
学校や死んだ宮入智恵の親は夕里子を追及する流れになっているし、全校生徒も、四辻夕里子が何かしたのだろうと考えている者が多数だ。
四辻夕里子の名は、級友をいじめの末自殺に追い込んだ生徒として、定着しつつある。
例え縁であっても、挽回の余地はないように思えた。
(でもこの女は……)
油断ならない。
できれば縁を関わらせないうちに、陽一と夕里子を別れさせてしまいたかった。
「……話なんか聞く必要ないでしょ? これまで人前でどんな振る舞いをしてきたにせよ、宮入さんを死に追い込んだ事実に変わりはないんだから。後はお兄ちゃんからメールを送っておしまいよ」
「それは違うんじゃないかな?」
綾の言葉に、陽一に代わって縁が答えた。
「夕里子ちゃんが悪いなんて言い切れないでしょ?」
「お前には言ってない!!」
綾は目を見開いて、縁を睨みつけた。
射殺さんばかりの視線を、縁は笑って流した。
「はは。まあ、私も支倉君に言ってるだけだから、お互い気にせずいこうか」
「ここに居るだけで邪魔なのよ! あんたは!!」
「二人にとってお邪魔なら居なくなるよ」
縁はまた陽一を見る。
「話を聞かせてくれ」
はっきりと、陽一は言った。
「というわけで、支倉君に話をするから、ちょっと我慢していてね」
「この……!」
「あはは。うーん、綾ちゃん怒ってるね。できれば綾ちゃんにも綾ちゃんにも聞いてもらいたいんだけどな。考えが変わるかもしれないし」
「何をどうすれば変わるのよ。夕里子さんのせいで宮入って人が死んだのは間違いないんでしょ?」
「そうとも限らないよ」
ふん、と鼻で笑って、綾は縁を見据えた。
「遺書が残ってたのよ? それで親御さんが学校に怒鳴り込んできたんじゃない」
「遺書って言ってもメール遺書だからね。本人が書いたとは限らないし」
「へええ、また面白いことを言うのね」
「うん、これは今さっき綾ちゃんを見て閃いたことだから、本当に単なる思い付きだけど」
「私を?」
縁は綾が手に握った陽一の携帯電話を指差した。

458 名前:赤の綾  ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/07/08(日) 04:26:01 ID:KZpfkP/i
「ほら、綾ちゃん、今支倉君の代わりに夕里子ちゃんにメールを送ろうとしていたでしょ? それと同じことができるじゃない」
「……!」
「メール遺書なんて、そんなものだよ」
「……あなた、自分が何言ってるかわかってるの? 本人以外がメールを送ったんだとしたら、それは……」
「そうだね。自殺じゃないね」
「警察も自殺だって言ってるんでしょ? それが間違ってるっての? さすがに妄想が過ぎると思うけど」
「あはは。突飛だと自分でも思ってるよ。でも警察も人間の集まりだから、間違えもするし面倒くさがりもするよ。自殺の形になってれば、適当にしか調べないからね。……でもまあ思いつきだから、忘れてね」
置いといて、と物を除ける仕草をして、縁は話を続けた。
「宮入さんが自殺したのはまあ間違いないとして、メール遺書も宮入さんが送ったとしても、本当に夕里子ちゃんが悪いのかどうかは、それとは別問題だから」
「は? 名指しされていてどうしたら別問題になるのよ? あんたも身内贔屓が過ぎるんじゃないの?」
「身内贔屓っていうか、信頼の問題だよね」
「どう違うのよ、それは」
「ちゃんとした理屈があればそれは信頼の問題になって、理屈がなければ単なる身内贔屓だね」
「はー、いちいち仰ることが違うわね。何よ、夕里子さんが悪くないっていう理屈があるって言うの?」
綾はもはや敬語など抜きで、縁に素のままでぶつかっていた。
縁は気にした様子もなく綾と陽一の顔を交互に見ながら話をし、陽一はただ黙って話を聞いていた。
「殺す意図があった場合と殺す意図が無かった場合とで、殺人の罪も重さが違ってくるのは知ってる?」
「まあ、そんな話を聞いたことがあるわね」
「例えば、殺す意図が無くて、百人が見たら百人とも『人の死に繋がるわけは無い』と思う行動をして、その結果人が死んでしまったら、それはその行動をした人が悪いのかな?」
「……言ってる意味がわからないんだけど」
「夕里子ちゃんが宮入さんに『頑張ってくださいね』と声をかけて、その結果宮入さんが自殺したのだとしたら、それは夕里子ちゃんが悪いのかな、ってことだよ」
言葉の捉え方は人それぞれ。
精神状態によっても大きく違ってくる。
メールには『ひどいことを言われた』としか書かれていなかった。
「本当に何気ない一言や単なる挨拶を、不安定な精神状態だった宮入さんが『ひどい言葉』に変換しちゃっただけってこともあるんだよ。その場合、声をかけた人が悪いのかな?」
「……勝手に死んだ人間が悪いと、そう言いたいのね」
「言い方は悪いけど、ぶっちゃけるとそうなるね」
さすがに決まり悪げに縁は笑った。
「……全部縁さんの想像でしょ? それこそ、夕里子さんが陰に隠れてひどいことを言い続けていた可能性だってあるんだから」
「一応色々聞きまわったけど、誰もそんな様子を見た人がいなかったからね。
元々友達の居ない子だったみたいだけど……どんなに隠れるのがうまい人でも、まったく他人に気取られずに人を害するのは至難だよ。
私は、夕里子ちゃんは責められるようなことはしていなかったんだと思うよ。まあ、このあたりが最初に言った信頼の問題になってくるわけだけど……理屈は通ってるでしょ?」
「仮にあなたの言うことが正しかったとしても、夕里子さんが宮入さんの自殺のきっかけになったことに変わりは無いんじゃない」
「その辺は、誰もが可能性のあったことだからね。運の悪い宝くじに当たったようなものだし、私はどうでもいいやって思うけど、これは人によるかな」
ということで、と両の手を叩いて、縁は陽一に向き直った。
「夕里子ちゃんを信頼するのが私の意見、夕里子ちゃんを信頼しないのが綾ちゃんの意見だよ。どっちも理屈としては同じくらいのものだから、後は本当に、夕里子ちゃんを信じるか信じないかってだけ。
私も夕里子ちゃんの知り合いじゃなかったら、ひどいことする人だなあ、で終わってただろうしね」
言い終えて息をつき、縁はいつもの笑いを浮かべた。
「後は支倉君次第。夕里子ちゃんを信じるかどうか選んでね」

459 名前:赤の綾  ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/07/08(日) 04:26:50 ID:KZpfkP/i
「俺次第、か……」
考え込む陽一を、綾は苦々しい表情で見た。
後は夕里子を振るメールを送るだけという状況だったのに、二択にまで押し戻されてしまった。
そして、縁は自殺についてまで疑いを抱いていた。
(この女はどこまで……)
危険を冒してでも殺さなければならないのはこの女なのかも知れない。
しかし、今まで出会ったどの女とも、縁は明らかに質が違った。
縁は小首を傾げたままで、考え込む陽一を見つめている。
やがて陽一は、縁に向かって問いかけた。
「宇喜多、お前は、夕里子さんを信じるんだな」
「うん」
「……俺も信じるよ。まあ、出会って数週間の俺が信じるなんていうのもおこがましいけど……俺の見てきた夕里子さんと、夕里子さんを信じる宇喜多を信じることにする」
「お兄ちゃん!?」
愕然として、綾は陽一を見た。
「お兄ちゃん……私よりも、縁さんの言うことをとるの? 私のことは信じないって言うの?」
顔から血の気が引き、膝ががくがくと震える。
傍目に見ても、普通ではない反応だった。
「綾……?」
「何で……何でそうなるのよ! 何で……!」
「おい、綾、別にお前を信じないとかじゃなくて……」
「うるさい! 馬鹿!」
綾は陽一を平手で殴りつけた。
乾いた音が響く。
そのまま綾は顔を伏せて駆けていってしまった。
「綾!」
陽一は慌てて鞄を持ち、走りだそうとして、縁に向き直った。
「宇喜多、すまん! 俺、綾を追うから……」
「うん、いいよいいよ。夕里子ちゃんのこと、後でちゃんと励ましてあげてね」
「ああ。それと、綾のこと、ごめんな。別にあいつも悪気があるわけじゃなくて……」
「わかってるよ。綾ちゃんは支倉君のことが大好きでだから、心配なんだよね、きっと」
「……ありがとうな」
今度こそ陽一は駆け出す。
綾はすでに公園を出て、その姿はなかった。
一人残された縁は、陽一の後姿に向かって呟いた。
「こちらこそ。信じてくれて、嬉しかったよ」

460 名前:赤の綾  ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/07/08(日) 04:27:35 ID:KZpfkP/i
綾は家に帰ると、部屋に閉じこもり、ベッドに伏せて泣いた。
すぐに後を追ってきた陽一も帰り着き、綾の部屋の戸を叩いた。
「綾! おい! ちょっと話を聞けって!」
「何よ……」
扉の向こうから聞こえる声はくぐもり、震えている。
泣いているのだとすぐにわかった。
「……余計なこと言って悪かったわね……っ……もう、夕里子さんとでも縁さんとでも、勝手に仲良くしてなさいよ」
「綾、さっきのは夕里子さんを信じるか信じないかって問題で、お前を信じるかどうかとは違うだろ。落ち着いてくれ」
「……お兄ちゃんは……私なんかより、縁さんがいいんでしょ」
「宇喜多を信じるって言ったのは、お前と比較したわけじゃない。夕里子さんを信じる理由の一つとしてという意味で……」
「例えば……変な話だけど、私が夕里子さんと同じ立場になって……縁さんが私の味方をしてくれなかったら……お兄ちゃんはどうするの?」
「どうするも何も……俺はお前の味方だよ。兄妹なんだから、当たり前だろ」
「……」
部屋の中から聞こえていた嗚咽が小さくなっていく。
しばらくして部屋の戸が開き、目元を赤くした綾が部屋着に着替えた姿で現れた。
「綾……」
「……」
「えーと……」
ぼんやりと、綾は陽一に顔を向けた。
「夕里子さんとは、別れないのね?」
「まあ」
「お兄ちゃんにも、よくない噂が立つかもしれないのよ?」
「ああ」
綾は細くため息をついた。
髪は解れ、荒んだ目をしていたが、だいぶ落ち着いた様子だった。
「……所詮、妹の心配なんて、余計なものよね」
「いや、ありがたいとは思ってるよ。ちょっと過激かなとも思うけど」
「……もういいわ。今回のことは、好きにすれば?」
腕を回し、コキコキと肩を鳴らしながら、綾は陽一の脇を通り過ぎた。
「さあて……今度はどうしようかしらね」
「え?」
「料理よ。最近つくねが多かったから。今度は何が食べたい?」
「ああ……別に何でもいいよ」
「そう」
綾が階段を下りるのを追って、陽一も階下に下りた。
開いたままの綾の部屋の扉がゆらりと動き、軋んだ音を立てる。
部屋の中には枕が一つ、綿を撒き散らし、包丁の突き刺さったままで転がっていたが、陽一がそれに気付くことは無かった。


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最終更新:2011年10月27日 23:43
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