「ということで、私の手で見つけられない以上、脅迫された通りにするかしないかの問題になるけれど、さっきも言ったとおり、脅迫にとことん従う覚悟があるならそれでよし。
それが無理なら、今この時点で警察に行くのが、一番傷が浅くて済むよ」
どうする、と縁は陽一と夕里子に尋ねた。
「俺は……別れたくない。だいたい、こんなやり方に負けるなんて我慢ならない。だから……」
「警察に行く?」
ためらうことなく、陽一は頷いた。
「私だって、せっかく陽一さんの恋人になれたのに……別れるなんて嫌です。でも……」
唇を噛み、夕里子はぽろぽろと泣き出してしまった。
「でも……皆さんに迷惑をかけるのは、私……」
「あのね、夕里子ちゃん、迷惑をかけているのは、夕里子ちゃんじゃないよ。この脅迫状を置いていった人が、一方的にみんなに迷惑をかけているんだよ。夕里子ちゃんはむしろ被害者の一人だからね、この場合」
「でも……」
涙を流す夕里子の肩を、陽一がそっと抱いた。
「陽一さん……」
ひし、と陽一に抱きつく夕里子。
縁は二人の様子を笑顔で見つめていた。
「綾ちゃんは、これでいいかな?」
「何で私に聞くんですか?」
「ほら、お昼休みには、別れるべきだって言ってたからさ」
ふむ、と綾は腕を組んだ。
「じゃあ、言いたいことを言っちゃうわね」
「あ、綾……?」
綾のただならぬ雰囲気に、陽一が不安げな声を出す。
そんな兄を、綾は鋭い目で睨んだ。
「お兄ちゃん、夕里子さんと別れるべきよ。別れなさい」
「……!」
「佐久間さんは強姦されたあげく、その写真をばら撒かれようとしているのよ? それがどういうことかわかってるの?
そんなことをされて、この先佐久間さんがまともな人生を歩めると思ってるの? 人一人の人生がかかってると言っても過言ではないのよ?」
綾は陽一と夕里子に向けて熱弁を振るった。
「別れたくない、一緒に居たいなんて言っているけど、要は自分たちの今の心地よさを手放したくないだけじゃない。
恋愛なんていう、ただ一時の快楽のために、佐久間さんを切り捨てようとしているだけにしか見えないわよ」
「そんなことは……」
「無いなんて言い切れるの? 自分が佐久間さんの身になったとして、それでも同じことが言える?
脅迫した側が悪いんだから言いなりになるな、自分のことは気にするな、裸だろうが犯された写真だろうがいくらでも晒してくれ、なんて言えるの?」
綾は夕里子の目の前に指を突きつけた。
「あなたに言ってるのよ、夕里子さん」
「え……」
「あなたは女なんだから、佐久間さんの苦しみがわかるはずでしょ? それも、あなたを狙っていたストーカーに佐久間さんは犯されたのよ? あなたは自分が犯された姿を大衆に晒されても、平然としていられるの?」
「……」
平気なわけがない。
夕里子はただ小さく首を横に振った。
170
崩の綾 ◆5SPf/rHbiE sage 2007/08/22(水) 05:09:08 ID:xpiNLpJO
佐久間愛の噂は、あっという間に全学年に広がった。
今日初めて話を知ったという両親も押しかけてきて、陽一と夕里子は、教師たちにこってりと話を聞かれることになった。
いつの間にか脅迫文の内容も噂として流れ、陽一と夕里子は、智恵の自殺の時のように周囲からの好奇の視線に晒されることとなった。
脅迫した者が悪いのか、脅迫者に睨まれた者が悪いのか、ということで、さすがに表立って二人を非難する生徒はいなかったが、それでも漠然と、重苦しい雰囲気が、行く先々で付いてまわった。
仲間の一人が被害者ということで、いつも中庭で一緒に昼食をとっていた面子もどこかよそよそしく、その日は四人で、例の空き教室で食事をとることになった。
「これで……よかったのでしょうか」
ぽつりと呟く夕里子。
陽一と付き合い始めた頃の笑顔からは想像もつかない、憔悴した表情だった。
「前も言ったけど、悪いのは脅迫をした側なんだから。夕里子ちゃんが気に病む必要なんて、全然無いんだよ」
「……」
縁の励ましに、陽一も夕里子も無言で弁当をつついた。
じわじわと精神的に追い詰められつつある二人の姿に、綾は密かにほくそえんだ。
(縁……あなたの言うことは、確かに間違っていないけどね。この二人は、それでも罪悪感を感じてしまう人たちなのよ)
元気の無い陽一の背を撫でて、
「お兄ちゃん、大丈夫?」
と気遣う様子を見せる綾。
陽一は、やはり無言で頷くだけだった。
(……大分堪えているみたいね)
周囲の人間が傷つき、人間関係が壊れていけば、人はどうしても心を削られる。
縁が言葉でごまかしても、完全に罪悪感を拭い去ることはできないのだ。
(まだまだ、追い込ませてもらうわよ、お兄ちゃん……)
二人を別れさせるまで、追撃の手を緩めるわけにはいかない。
綾は、切れ長の目をますます鋭く細め、兄とその恋人の姿を見つめた。
(この二人にさらにダメージを与えるには、佐久間愛を自殺させるか、他の人間を同じように被害に遭わせればいい……でも……)
佐久間愛を自殺させるのは、そう簡単にはいかないだろうと思えた。
愛の事件を表沙汰にしたせいで、愛の家の周囲などは警戒が高まることになるだろう。
そして、こうして写真が出回ってしまった以上、愛が家から出てくることもしばらくは無い。
(自殺に見せかけて殺すことは、できないと考えた方がいい。だとしたら、別の方法を考えるしかないわね)
次の日も、その次の日も、愛の親は学校を訪れた。
さすがに父親は仕事もあるのだろう、一日目のみの来校だったが、母親は毎日放課後近くになると車で学校まで乗り付けていた。
陽一と夕里子について抗議をしているのか、あるいは転校などについて話し合っているのか、定かではない。
しかし、娘のために毎日学校にやってくる母親の必死な姿は、綾の目に留まるに充分なものだった。
「お兄ちゃん、今日は先に帰ってて」
放課後、綾は陽一たちと一緒に帰らず、学校から少し離れた路地裏に潜んだ。
佐久間愛の母親が、学校から車を走らせて帰る道の脇の路地裏である。
人目が少ないこと、曲がり角の直後であることなど、いくつかの条件から選んだポイントだった。
「本当、私も必死よね……」
秋が深まり、日が沈むとそれなりの肌寒くなる。
自分の体を腕で抱き、寒さをこらえながら、綾は自嘲気味に呟いた。
「でも仕方ないわよね。好きで好きで仕方ないんだもの」
先日、自分が陽一に言った言葉が思い起こされた。
「『たくさんの人に、一生モノの傷を負わせてまで守るべき想いなのか』……」
綾はじっと自分の手を見た。
路地裏に、ビルとビルの隙間から細く西日の光が差し、綾の手のひらを橙赤に照らす。
「今更よね」
と誰にともなく綾は言った。
「私にとっては、この世界の何よりも大切な想いだもの。それに……」
もう後戻りは出来ないところまで来ている。
そのことが、綾には充分すぎるくらいにわかっていた。
日が沈んで残照が西の空を照らす時間になって、綾の目当ての車がやってきた。
曲がり角を曲がってきた、白の軽自動車。
ナンバーの確認をして、綾は目の前を通り過ぎようとする車の前に躍り出た。
フロントガラスの向こうで、愛の母親が慌てた顔をするのが見える。
綾は車の端にかすかに体を接触させて、道に倒れた。
曲がり角の直後なので、そもそもあまりスピードは出ていない。
怪我らしい怪我はしていなかったが、それらしく見せるために、起き上がりながら綾は足を引きずる動作をした。
「ごめんなさい。大丈夫だった?」
車から愛の母親が降りて、様子を聞く。
綾に大した怪我が無いのを見て取ると、ほっとした表情を見せた。
171 崩の綾 ◆5SPf/rHbiE sage 2007/08/22(水) 05:09:48 ID:xpiNLpJO
「大丈夫ですけど、足を少しひねってしまったみたいですね」
「まあ……ごめんなさい。病院に行きましょう。あと、ご両親にも連絡をしないと……」
娘のことで頭がいっぱいだろうに、それでもきちんとした対応を見せる佐久間愛の母親。
綾は「そんなに気にしないで下さい」と笑顔を見せた。
「病院に行くほどの怪我ではありませんから。湿布を貼っておけば治るでしょうし。まあ……出来るなら、家に送っていってもらえると嬉しいですけど」
娘と同じ年頃の少女の丁寧な言葉に、佐久間愛の母親は快く頷き、車のドアを開けた。
「ありがとうございます」
周囲を見回してから、綾は車に乗り込む。
車に接触してから、今までの会話で、一分余り。
人に見られた様子は無かった。
(行けるかしらね……)
綾は佐久間愛の母親に、街外れに至る道順を告げた。
支倉家のある場所からは遠く離れた場所である。
佐久間愛の母親は、そこが綾の家なのだろうと思い、疑うことなく車を走らせた。
「ああ、もうこの辺で結構ですよ」
「あら、そう?」
着いた先は、ひっそりとした川沿いの、土手際の空き地だった。
民家の光は遠くに見え、住宅らしいものは辺りには見えない。
佐久間愛の母親は、戸惑いながらも車を止めた。
「……本当に、ここでいいの?」
「ええ」
「一応、ご両親に挨拶をしておいた方がいいかしら。もし見えないところに怪我をしていたら連絡をしてもらって……治療費は必ず払うから……」
「いえ、そんな必要はありません」
冷たい声に違和感を感じた佐久間の母は、後部座席の綾を振り返ろうとする。
と、首筋に冷たい感触がして、動きが止まった。
「動かないで。動くと刺し殺すわよ」
「え……」
綾は、鞄から取り出した刃渡りのある包丁を、佐久間の母の首にあてていた。
「な……!」
「騒がないで。騒いでも刺し殺すわ。言うとおりにすれば何もしないから、おとなしくしなさい」
街灯の光に、包丁の刃がぎらりと光り、佐久間の母はごくりと唾を飲んだ。
娘と同じ年頃の、同じ学校の制服を着た少女が、今こうして自分の首に包丁を突きつけている。
何が何だかわからなかったが、湧き上がる恐怖感が、綾の言いなりになることを選んだ。
「言うとおりに……するわ」
「よろしい。わかったなら、これを飲みなさい」
「え、な、何なの、これは?」
綾の手の平には、白い錠剤が何錠か置かれていた。
「薬……?」
「何だっていいでしょう。この薬を飲むか、今ここで刺し殺されるか、どちらかよ」
切れ長の目に、漆黒の瞳。
まるで人でないものを見るかのように、綾は冷たい視線を佐久間の母に向けていた。
すぐ目の前には、相変わらず鋭い包丁の切っ先が、首筋に向けられている。
「飲むわ……飲むから、刺さないで……」
恐怖に負け、佐久間の母は、綾に言われるままに錠剤を飲み込んだ。
十分もすると、佐久間の母は頭を揺らし、車のシートに身を預けて、動かなくなってしまった。
「さすが、市販の薬と違って、よく効くわね」
綾は車を降りて、鞄の中からゴムホースとガムテープを取り出した。
車の排気口とゴムホースをつなぎ、さらにゴムホースの先をわずかに開けた運転席の窓から差し込んで、ガムテープで隙間を塞いだ。
初めての作業だったが、単純な分さほど時間はかからなかった。
「意外と簡単なものね」
満足気に頷いて、綾は仕上げに、佐久間の母の手で握り潰させた、佐久間愛の強姦写真のプリントを一枚、運転席の足元に転がした。
遺書は残す必要は無い。
この一枚で充分と思われた。
キーをまわしてエンジンをかけ、車のドアを閉める。
後は、一定時間エンジンが止まらないことを確認すれば、自殺体の出来上がりだった。
空を見上げると、綺麗な秋の星空が見える。
「遅くなった言い訳、どうしようかな……」
時計を見ながら、綾は呟く。
秋の夜風が、空き地の周囲のススキを寂しく揺らしていた。
172 崩の綾 ◆5SPf/rHbiE sage 2007/08/22(水) 05:10:30 ID:xpiNLpJO
佐久間の母の遺体が発見されるのには丸一日かかり、陽一たちがそれを知ったのは、二日後のことだった。
「自殺……らしいね」
また空き教室で、綾と陽一と夕里子と縁の四人は、昼休みに集まっていた。
学内にも、佐久間の母が自殺したことは知れ渡っていて、重苦しい空気が学校全体を覆っていた。
生徒が一人強姦され、写真をばらまかれ、その母親が自殺――
もはや、噂話を楽しむなどという者は生徒たちの中にも居なかった。
あまりの痛ましさに、生徒たちは皆、休み時間もひっそりと静まり返っていた。
「心労があったんでしょうね。娘さんのあんな姿を写真に撮られてばら撒かれてしまっては……」
綾の一言に、陽一と夕里子は肩を揺らした。
「感想はどう? お二人の決断で人を殺したわけだけど」
「綾……!」
ますます俯いてしまう夕里子を見て、陽一は綾を叱り付けた。
「……その話は、今はよそう」
「今しないでいつするのよ? ……まあ、お兄ちゃんと夕里子さんは、お二人の恋に自信があるようだし、行けるところまで行ってみたらいいんじゃない?」
「……」
「私が何を言っても、縁さんのオススメにはかなわないみたいだしね。世間がどう言おうが、最後には私はお兄ちゃんの味方をするから、お好きにどうぞ」
それから綾と縁は黙々と弁当を食べたが、陽一と夕里子は一切箸が進まなかった。
夕里子の周囲は、ほんの一週間ほどで、劇的に変わっていた。
自分のせいで犯された友人。
自殺したその家族。
周囲からの視線。
離れゆく友人たちと、壊れつつある人間関係。
夕里子の傍に常にいる友人は、もはや縁だけとなっていた。
今までとあまりに異なる環境に、夕里子の精神はぎりぎちまで追い詰められていた。
さらに次の日、また衝撃的なニュースが陽一たちを襲った。
佐久間愛が自殺未遂をしたという知らせだった。
母親の死を聞かされて、発作的に手首を切ったらしい。
命に別状は無いが、すぐに病院に入院させられたと伝わってきた。
佐久間愛の自殺未遂は、綾にとっては想定外の出来事だったが、綾の思惑にしてみれば、実に都合の良い流れだった。
「もう、佐久間さんの家族もぼろぼろね。元は
幸せな家族だったでしょうに」
帰り道、綾の言葉に、陽一はもはや答えることもなかった。
夕里子は愛の自殺未遂の報を聞いた時点で気分を悪くし、縁に送られて学校を早退している。
久しぶりの、綾と陽一二人だけの帰り道だった。
「お兄ちゃん、もう一度聞くけど……夕里子さんとの関係は、お兄ちゃんにとって、これだけの人を傷つけてまで守るべきものだったの?」
「……わからない」
「わからないけど、まだ別れないのね」
「……」
「他にも犠牲者がでるかもしれないのに」
「綾……俺は、間違っていると思うか?」
この数日で、陽一も全体的に疲労した感がある。
苦しみに顔を歪ませて、陽一は尋ねた。
「……夕里子さんへの気持ちが、どんなことがあっても変わらない愛だっていうんだったら、間違っていないと思うわ。それは何を犠牲にしてでも守るべきよ」
でも、と綾は続けた。
「もし、今少しでも心が揺らいでいるんだったら、お兄ちゃんの選択はやっぱり間違っていたんだと思う」
「……そうか」
結局陽一は、綾の何度かの問いかけに、夕里子と別れると答えることは無かった。
陽一の思いの外の頑固さに驚きながら、綾はふと思った。
自分と、夕里子との関係では、陽一にとってどちらが大切なのかと。
173 崩の綾 ◆5SPf/rHbiE sage 2007/08/22(水) 05:11:26 ID:xpiNLpJO
数日後、夜の八時を回ってから家に帰ってきた綾の姿に、陽一は頭の中身を直接殴られた思いがした。
制服のボタンははじけ、ブラウスは破れ、白い肌が露になっている。
冬が近付いて身につけるようになった黒のストッキングもところどころ破かれて、脚には土の汚れがついていた。
「あ、綾……お前、それ……」
「……」
綾は俯いたまま何も言わず、陽一の脇をすり抜けて、風呂場に駆け込んだ。
「綾……!」
慌てて陽一は追いすがる。
綾の肩を掴んで振り向かせると、その肩が小さく震えているのがわかった。
「綾……お前……」
綾は俯いたまま、声を忍ばせて泣いていた。
気丈な妹が、力なく涙を流すその姿は、陽一にかつてないほどの衝撃を与えた。
私も女なのよ、そう言った綾の言葉が思い起こされた。
「まさか……綾……お前……」
「……何で……」
小さな声で、綾は応じた。
「何で私が、こんな目に遭わなきゃならないのよ……!」
「綾……」
「何で私が……何で……!」
堰を切ったように泣き出し、脱衣所でうずくまる綾。
破れた制服から覗く肩の震えが、何とも痛々しかった。
「綾……待て、落ち着いてくれ。何があったんだ? まずは落ち着いて聞かせてくれ」
自分に言い聞かせるように、陽一は「落ち着け」と何度も繰り返した。
肩を抱いて、がくがくと震える綾。
そこには、いつもの気の強さは微塵もなく、ただ恐怖に竦む少女の姿があった。
「……学校が終わって……少し寄り道して家に帰ろうとしたら……あの……いつも通ってる公園で……いきなり後ろから抱きすくめられて……」
ますます綾の震えは大きくなる。
ほつれた髪が、ゆらゆらと揺れた。
「それで……茂みに連れ込まれて、押し倒されて……!」
「……!」
綾は床にうずくまって泣いた。
ひたすらに泣いた。
陽一が触れようとすると、怯えたように後ずさり、いやいやと首を横に振った。
「綾……万一のことがあるかもしれない。病院に行こう。あと警察にも……」
「嫌よ!」
「でも……」
「嫌よ! 絶対に嫌! 病院にも警察にも行かないから! だって……誰かにばらしたら、写真を……撒くって……そうしたら私の体が色んな人に……」
「……」
「お願い……もう……そっとしておいて……絶対……絶対に誰にも言ったりしないで」
こんな時どうしたらいいのだろう。
陽一は泣きじゃくる妹を呆然と見ていた。
佐久間愛の一件の時、綾は言った。
他人を犠牲にする覚悟があるのかと。
それを聞いた上で、陽一は警察に相談すると決めたのだ。
そして、その結果、佐久間愛の写真はばら撒かれ、母親は自殺し、愛本人も自殺未遂をした。
夕里子の級友たちも怯え、夕里子の周囲から離れつつある。
そして、新たな結果が今、目の前にあった。
汚された妹の姿が、目の前にあった。
「すまん……」
「……なんで……私がこんな……」
「すまん……すまん……!」
膝をつき、陽一は声を絞り出すように泣いた。
174 崩の綾 ◆5SPf/rHbiE sage 2007/08/22(水) 05:12:59 ID:xpiNLpJO
風呂からあがった綾は、何も言わずに部屋に閉じこもってしまった。
愛のように、陽一に別れるようにと詰め寄ることもない。
ぼんやりと、陽一の呼びかけにも答えずに、部屋に入っていった。
陽一は隣の自室で机に向かい、ただうなだれるしかなかった。
自分の身勝手な正義感が恨めしかった。
「綾……俺のせいで……綾が……」
口うるさくはあったが、いつも自分の心配をしてくれた、可愛い妹。
食事の準備も、家の中の掃除も、洗濯も、身の回りの世話を甲斐甲斐しくこなしてくれた、しっかり者の妹。
その妹の、夕里子と別れて欲しいという頼みを二度無視して、ついにどうしようもない傷をつけてしまったのだ。
「馬鹿だ……俺は馬鹿だ……!」
時間を戻せるなら戻したかった。
ここまで色々なものを傷つけるまで事の重大さに気付かなかった自分が許せなかった。
「夕里子さんは、確かに好きだ……だけど……」
陽一は、震える拳で机を叩いた。
「綾……!」
もし綾が自殺したら。
その時を考えただけで、絶望的な気持ちになった。
「綾……」
「お兄ちゃん……?」
きい、とドアの軋む音がして、暗い部屋の中に一筋の明かりが差した。
見ると、入り口に、ドアを細く開いて、寝巻きを着た綾がぽつんと立っていた。
「綾……!」
陽一はすぐさま席を立ち、綾に駆け寄った。
「綾……その……」
大丈夫なのか、と聞こうとして、口を閉じてしまう。
大丈夫なわけが無いのだ。
何をどう言ったらいいのか、陽一は途方にくれてしまった。
「お兄ちゃん……眠れない」
「え?」
「眠れないの……眠ろうとすると、あいつの……あの男の顔が頭に浮かんで……」
綾は涙ぐみ、陽一の部屋着の裾を掴んだ。
「ねえ……お兄ちゃんと一緒に寝ていい? 私……怖い……あいつが……あいつがまた来そうで……」
「大丈夫だ。兄ちゃんがずっと傍にいるから、大丈夫だ」
「本当……? お兄ちゃん、私を守ってくれるの?」
「当たり前だろうが……! 俺はお前の兄ちゃんなんだぞ?」
「嘘……つかないでね、お兄ちゃん。約束だからね?」
綾の言葉に何度も頷きながら、陽一は綾を抱きしめた。
抱きしめられながら、綾は陽一の胸に顔をうずめ、小さく小さく微笑んだ。
二人で一つのベッドに入り、綾は陽一に擦り寄るようにして身を寄せた。
「綾……体は、その……痛いところとか無いか?」
「うん……大丈夫」
「あのさ……一応病院には行っておいた方がいいと思う。少し遠くの病院の産婦人科に行けば、知人に知られることもないだろうし……」
「……」
綾は陽一の提案には答えず、代わりにさらに体を寄せた。
「お兄ちゃん……私の体、ぎゅって抱きしめてもらえる?」
「……ああ」
「あと、頭を撫でてもらえると嬉しいかも」
陽一は体を横に向けて綾の体を抱きしめると、言われたままに頭を撫でた。
艶やかな黒髪からは、お風呂上りの香りがする。
綾は陽一の首筋に息が当たるほどに唇を近付け、呟いた。
「私ね、あの男に色んなことをされたの」
「え……」
「まず最初に、押し倒されて、両腕を押さえられてね、キスをされたわ。無理矢理に」
陽一は身を硬くして綾の告白を聞いた。
心が締め付けられる重いではあったが、それが自分への罰なのだと思った。
「顔の色んなところに、舌を這わせてくるのよ。犬みたいに、汚らしく唾液を塗りつけてくるの」
「そう、か……」
「それでね、ここにもされちゃった。キスを」
綾は自分の唇を指差した。
そして、声を震わせて、ぽろぽろと枕に涙を零した。
175 崩の綾 ◆5SPf/rHbiE sage 2007/08/22(水) 05:13:42 ID:xpiNLpJO
「汚れちゃったわね、私……はは……」
笑いながら涙を流す妹を、陽一はますます強く抱きしめた。
「お前は汚れてなんかないよ」
「ううん、汚れてるわ」
「汚れてなんかない。ずっと綾を見てきた俺が言うんだから、間違いないよ」
「私が何をされたのかは見てないでしょう?」
「それは……」
陽一は何も言えなくなってしまう。
悲しそうに唇を噛む兄を顔を、綾はすがるような目で見つめた。
「……お兄ちゃん……もし……」
「ん?」
「もし、お兄ちゃんが、あの男のつけた汚れを取ってくれるんだったら、私……自分がまだ汚れてないって、信じられるかもしれない」
「え……?」
綾が、陽一の首に腕を回し、これまでになく体を密着させ、抱きつく。
胸を押し付け、脚を絡ませるようにして、しっかりと体をつけた。
そして、陽一の耳元に唇を寄せ、わずかに震える声で言った。
「……お兄ちゃんがキスしてくれたら、私の体の汚れ……取れると思う」
「え、そ、それは……」
「……駄目なら、いいわ」
細く息を吐き、綾は陽一から身を離す。
オレンジの豆電球一つが照らす部屋の中で、涙に濡れた切れ長の瞳が静かに光った。
「お兄ちゃん……」
掠れた声で呟き、目を閉じる。
しばしの逡巡の後、陽一は綾の肩を抱いて、そっと口付けをした。
「……!」
綾は自分の顔がいっぺんに熱くなるのを感じた。
鼓動が高まり、胸の中にこの上ない幸福感が満ちていく。
ほんの数秒間の口付け。
陽一の唇が離れる。
その後を追うようにして、さらに綾は陽一とキスを交わした。
「あ、綾……」
「……私を守ってくれるんでしょう、お兄ちゃん? ちゃんと全部、汚れを取ってね」
「……」
二人きりの兄妹は、その夜、何度も唇を合わせた。
深夜、眠りについた綾の頭を撫でながら、陽一は枕元に置いていた携帯電話を開いた。
アドレス帳から、四辻夕里子の名を探す。
一文字一文字、何かを振り切るようにメールを打った。
『別れよう』
簡潔な、間違えようの無い文面。
それを陽一は、何度も確認するように読み直した。
数分間、暗闇に光るディスプレイを見つめた後で、ついに送信のボタンを押す。
ちかちかと画面が光り、送信完了の文字が表示された。
「これで……いいんだ」
木の板の天井を見つめて呟く。
涙が一筋、頬を伝ったが、陽一は決して声をあげることはなく、隣に眠る綾を抱くようにして眠りについた。