崩の綾

160 崩の綾 ◆5SPf/rHbiE sage 2007/08/22(水) 04:52:19 ID:xpiNLpJO
宮入智恵が死んでから二週間、その両親に急かされて、学校側は夕里子とその周辺が宮入をいじめていなかったか調べたが、結局何一つ証拠は出てこなかった。
夕里子に対する心象は教師生徒問わず良好で、級友たちはみな、夕里子を庇う発言をしていた。
何かの間違いだろうという意見が大半で、学校側も何事もなかったという結論に落ち着きつつあった。
しかし、智恵の両親はそれでは収まらず、毎日のように校長室に押しかけた。
また、夕里子の級友たちは夕里子の人となりを知っていても、他の学年、他のクラスの者たちは知らない。
夕里子が廊下を歩けば、疑いと軽蔑の眼差しを向けられるのが、ここ二週間の常であった。
そしてその視線は、隣を歩く陽一にも向けられた。
「ごめんなさい……私のせいで」
「別に夕里子さんのせいじゃないだろ。気にしなくていいよ」
「でも、陽一さんまで変な目で見られることになりますし……学校の中では一緒に居ない方が良いのでは……」
「……」
陽一は無言で夕里子の手を握り、そのまま堂々と廊下を歩いた。
「え、あ、あの、陽一さん……? 手を握ったりすると、陽一さんが私の恋人だって知られてしまいますよ?」
「何か問題があるの?」
「いえ、だから、その……陽一さんまでいじめっ子の仲間だと思われてしまいますよ?」
「問題なし。あいつらが恥ずかしがって目を逸らすくらいに仲良くしてしまおう」
陽一はますます強く夕里子の手を握る。
夕里子は顔を上気させ、目を潤ませて「ほぅ……」とため息をついた。
「よ、陽一さん」
「ん?」
「私、今とっても陽一さんに抱きついてしまいたい気持ちなんですが……よろしいですか?」
「それはさすがに人前ではよそうか……」
夕里子はぐっとこらえたが、結局陽一の腕に抱きついて、ちらりと陽一の顔を窺った。
陽一は何も言わない。
そのまま二人は寄り添うようにして廊下を歩いた。

新学期が始まってからずっと、綾は教室ではなく中庭で昼食をとっていた。
陽一と夕里子を中心に、縁や夕里子の級友たちが集まって昼食を食べている席に、綾と小夜子が同席した形だった。
小夜子は皆で食事をとることを喜んだが、綾の目的はただ一つ、陽一と夕里子の監視だった。
自分の作った弁当を差し置いて、夕里子の作った弁当を食べられたりしたら、たまったものではない。
必要以上にべたべたするのも防がねばならなかった。
だから、その日中庭に現れた陽一の腕に夕里子が抱きついているのを見て、綾ははらわたが煮えくり返る思いだった。
「夕里子ってば、やるじゃないの!」
「え……あ……いえ、これは、その……」
級友からの冷やかしの声に、夕里子は顔を真っ赤にするも、陽一から離れることは無い。
寄り添うようにしたまま陽一と夕里子は隣り合って座り、弁当を広げ、談笑の輪の中に加わった。
学校全体からの重い視線を跳ね返すかのような明るい会話の中、綾は一人黙考し、深く思考の海を漂っていた。
(日に日にお兄ちゃんと夕里子さんが仲良くなっていく……)
陽一を見ると、温かな表情で夕里子と言葉を交わしながら、食事をとっている。
そして先ほどの、二人寄り添っての登場。
陽一と夕里子がより緊密な関係となっているのは間違いなかった。
(どうして……)
陽一が夕里子と付き合い始めてからのことを思い返してみる。
綾が夕里子を批判するのを陽一が庇い、綾の企てによって夕里子に害が出るのをまた陽一が庇うという構図。
結果二人はより互いを信じ合い、結びつきを強めているように思えた。
(何よ……これじゃ私、ただの当て馬じゃない)
自分自身に対するどうしようもない怒りと、悲しみと、虚無感が同時に襲い掛かってくる。
自分の無能さが許せなかった。
なぜここまで上手くいかないのか、何が悪かったのか。
綾は、集団の端で陽一と夕里子の仲睦まじい姿をにこにこと眺める三つ編みの少女を見た。
(宇喜多縁……あの女がいたから……)
縁がいたせいで、陽一と夕里子は付き合うことになった。
縁がいたせいで、夕里子を殺すことができずにいる。
縁がいたせいで、夕里子を陥れることに失敗してしまった。
(どうすればあの女に邪魔されず、お兄ちゃんを取り戻せるんだろう……)
この二週間、綾は縁について調べた。
うまく状況が揃ったら殺してしまおうとも考えていた。
しかし、機会は訪れなかった。


161 崩の綾 ◆5SPf/rHbiE sage 2007/08/22(水) 04:53:43 ID:xpiNLpJO
縁は、駅のホームでは必ず白線から一メートル置いて立ち、帰り道は人通りの多い道を通った。
もともとそういう習慣を持っていたのか、あるいは何かを警戒してのことなのかはわからない。
ともかくも縁は、綾が殺害をためらうに充分な用心深さを持っていた。
また、その機転は綾も認めるところだったし、運動神経も優れているという話だった。
(縁は簡単には消せない。縁が守っている限り夕里子も消せない。この状況でとれる手は……)
方法はいくつかあった。
縁と陽一の接触を断ち、縁が夕里子の弁護をできないようにして、夕里子を貶めて陽一に振らせる方法。
あるい陽一と夕里子、当人たち自ら、別れる気にさせる方法だった。
前者の難易度は明らかに高い。
縁は、陽一から遠ざけても、気付いたら傍に湧いて出ているような気がした。
(だとしたら、お兄ちゃんと夕里子に自分たちから別れる気にさせる方法しかないわけだけど……少し危いのよね)
自分が捕まっては元も子もない。
いつしか陰鬱な表情の中に険悪な視線を走らせていた綾に、夕里子の級友の一人が声をかけた。
「綾ちゃん? なに暗い顔してるのよ」
ショートカットの、活発な少女は、一年からの夕里子の友人で、名を佐久間愛といった。
「佐久間さん……私のことならお気になさらず。元々こんな顔なもので」
「そうなの? 陽一君を夕里子に取られてがっかりしてるとかじゃなくて?」
ぴくりと、綾はこめかみを震わせる。
「はは……おかしな事を言いますね」
感情の高ぶりを気取られぬよう、うっすらと笑った。
「夕里子さんの最近の風評のせいで兄も色々と言われているのが気にかかりますが、それ以上は特に思うところはありませんよ」
「ふーん……?」
「何か?」
「綾ちゃんて、お兄ちゃん大好きっ子だって思ってたから、意外だなって」
「誰がそんな馬鹿なことを?」
「誰がっていうか……ほら、綾ちゃんよく陽一君のクラスに遊びに行ったりしてたみたいだし」
「用がある時に行っていただけですよ。それ以上の意味はありません」
ショートカットの級友は、綾の言葉ににやにやと笑いながら、
「ほんとにぃ?」
とからかうように聞いた。
「本当ですとも」
「じゃ、陽一君と夕里子がこんな事しても、平気でいられる?」
佐久間は綾の背後に回り、突然制服の上から胸を揉んだ。
「……!」
「ほらほら。こんなことしちゃっても大丈夫?」
「な、何を……!」
払いのけようとするも、箸と弁当を両手に持っているので、ただ身を捩るだけになってしまう。
そんな綾の様子がおかしいのか、佐久間はますます強く綾の胸を揉んだ。
「うっふっふ。ほーら、気持ちいい?」
「や、やめてください!」
「夕里子と陽一君も付き合って二ヶ月だからね。そろそろこういうこと始めてもおかしくないかもよ?」
「そんな……と、とにかく、やめてください!」
助けを求めて、綾は陽一の方を見る。
陽一は、夕里子と何か会話を交わしながら食事をとっていた。
幸せそうな笑顔を浮かべて。
綾の声には気付かずに。


162 崩の綾 ◆5SPf/rHbiE sage 2007/08/22(水) 04:55:26 ID:xpiNLpJO
(お兄ちゃん……)
キンと、胸の中が凍りつくのを、綾は感じた。
(お兄ちゃん……気付いてないの?)
佐久間の悪戯に、やめて、と細い声を絞り出す。
二度、三度と、身を捩って抵抗する。
それでも陽一は、綾の方を見ることは無かった。
夕里子や、夕里子の級友と語り合い、時に照れたように顔を赤らめ、頬をかいた。
(お兄ちゃん、私を、見てないの?)
綾は唇を震わせ、
「お兄ちゃん……」
と小さく呟いた。
「ちょっと佐久間さん! いいかげんにしてください! 綾が嫌がってるじゃないですか!!」
佐久間を止めたのは、小夜子だった。
二人の間に割って入るようにして、佐久間を綾から引き離す。
本気で怒った様子で、佐久間に物申した。
「やりすぎです! 同性でもセクハラになるんですからね!」
「あ、ははは。ごめん。そんなに怒らないでよ」
「謝るのなら、私じゃなくて綾に謝ってください」
小夜子は俯いたまま何も言わない綾の肩を抱いて、
「大丈夫?」
と声をかけた。
綾は、やはり何も言わない。
ただ、その瞳から、ぽろぽろと涙をこぼしていた。
「綾……」
小夜子はキッと佐久間を睨みつけた。
「謝ってください! 先輩だからといって、ひどすぎます!」
「え……」
佐久間もようやく綾の涙に気付き、ばつの悪い顔をする。
「ごめん……ちょっとした冗談のつもりで……ここまで嫌がるとは思わなくて」
「嫌に決まってるじゃないですか! 佐久間先輩はいきなりセクハラをさせて喜べるんですか!?」
「う、まあ、そんなわけは無いんだけど……」
二人のやりとりを遠くに聞きながら、綾は涙を流し続けた。
胸を揉まれたことなど、もはやどうでも良かった。
陽一が気付いてくれない。
かつては綾の危機とあれば真っ先に駆けつけてくれた兄が、助けてくれない。
そのことが綾の胸に、冷たい杭を打ち込んでいた。
(どうしよう……涙が止まらない)
さすがに異変に気付いたのか、陽一が立ち上がって近づいてきた。
(お兄ちゃん……)
近づいているのに、それまでよりも遠く見える兄の姿。
透明な壁を介したような、不思議な距離感。
綾は、自分の心が崩れ落ちるような感覚を、確かに感じていた。


163 崩の綾 ◆5SPf/rHbiE sage 2007/08/22(水) 04:56:09 ID:xpiNLpJO
数日後、綾は、夕里子と陽一を別れさせるための策を実行に移した。
あの日の中庭での出来事以来、不思議と頭が今まで以上に冴え、何をすべきかはっきり見えていた。
(今私のするべきこと……何を犠牲にしてでも、お兄ちゃんを取り戻すこと)
これまでの綾にためらいがあったかというと、そんなことはないだろう。
しかし、それまで以上の冷徹さをもって、綾は実に手際よく事を進めた。
夜の住宅街。
立ち並ぶ家々の間に忘れ去られたように残る冬草の茂った空き地に、目隠しをされた少女が一人、転がされていた。
手は後ろ手に縛られ、口にはガムテープを貼られ、呼吸はあるもののぐったりと動かない。
傍らには、黒の上着と黒のズボンに身を包んだ綾が立ち、冷たい目で愛を見下ろしていた。
「佐久間愛……か」
綾は少女の名前を呟く。
いつものように、数日間のストーキングの末、気絶させてこの空き地に運び込んだところだった。
綾の手には、細めのスプレー缶が握られていた。
コンドームを被せた、金属の缶。
冷たい手触りは、ゴムの膜を通しても伝わってきた。
「本当は起きてから思い切りいたぶってやりたかったけど……気絶している間にやらないと、騙されてくれなそうね」
綾は愛のスカートをめくると、カッターでその下着を切り裂き、取り去った。
暗闇の、若々しい肌が白く映える。
綾はまったく気遣いを感じさせない手つきで愛の秘所を割り広げると、持っていたスプレー缶を無造作に押し込んだ。
ニチニチとコンドームが寄る音が小さく響く。
まったく濡れていない分、抵抗があったが、気にせず綾は押し込んだ。
「ん……」
愛がうめき声をあげ、身体をぴくりと動かす。
起きたらすぐに気絶させられるように、綾はスタンガンを構えなおしたが、どうやら目覚める様子は無かった。
「面倒ね……だから男手が欲しかったのに……」
ゆっくりとスプレー缶を出し入れする。
ゴムの被膜の表面には、ねっとりと血が絡みつき、わずかに地面に垂れていた。
「あら意外ね。処女だったのかしら」
綾は嬉しそうに笑い、おもちゃを弄るようにスプレー缶でグネグネと愛の膣内をかき回した。
まったく濡れていない上体で挿したせいで、膣内に傷が出来ただけなのかもしれない。
ただ、もし処女だとしたら、それは綾の目的にとって喜ばしいことだった。
「ショックが大きければ大きいほどいいものね」
五分ほど、綾は愛の膣を思うままに蹂躙して、スプレー缶を抜いた。
愛の目隠しと猿轡を取り去り、顔を露にする。
愛は眉根を寄せた表情で気を失い、股をだらしなく開いて、その膣口はぱっくりと無残に広がってしまっていた。
「汚い姿……」
ひっそりと笑い、綾はポケットからデジタルカメラを取り出して、愛の姿を何枚も写真に収めた。
「これでよし、と」
最後にスプレー缶につけていたコンドームを引き剥がし、愛の太腿に投げ捨てる。
さらに、用意しておいた便箋を一枚、胸の上に置いた。
『夕里子さんと支倉陽一を別れさせること。
別れたことの証明は、いずれかの転校を以ってする。
別れさせなかった時は、お前を犯した写真をばら撒くことになる。
警察にこのことを言った場合もばら撒くことになる』
一応、とある人物の文字を模して書いたものだった。
「さて、これでどうなるかしらね……」
まだ目を覚まさずにいる愛の手を縛っていた縄を切ると、綾は空き地を後にした。


164 崩の綾 ◆5SPf/rHbiE sage 2007/08/22(水) 04:56:53 ID:xpiNLpJO
次の日の昼休み、秋空の下、綾は小夜子と一緒に中庭に座っていた。
いつものように、夕里子の級友たちが集まり、食事を始めていたが、陽一と夕里子の姿がなかった。
「あの、お兄ちゃ……兄は、今日はどうしたんでしょう?」
「ん? ああ、何か用事があって遅れるって言ってたよ」
「まあ、そうなんですか」
綾は心の中で、よし、と頷いた。
この場に来ていないのは、陽一と夕里子に、縁、そして佐久間愛の姿もなかった。
(佐久間愛も必死になっているみたいね)
愛の思った通りの反応に、綾は冷たい笑みを浮かべる。
しかし、縁の姿が無いことが、綾の心に不安の影を落とした。
(あの女に引っ掻き回される前に、何とかしないと……)
綾は努めて冷静に尋ねた。
「兄たちが、どこに行ったかはわかりますか?」
「確か、西棟の空き教室に行こうとか話していたみたいだったけど」
もぐもぐと弁当を頬張りながら、夕里子の級友は気さくに答えてくれた。
綾は丁寧に礼をして、小夜子に弁当箱を預けて立ち上がった。
「綾……どこに行くの?」
「ちょっと、お兄ちゃんたちを探してくるわ」
「あ、じゃあ私も行くわよ」
「ううん、ここで待っててちょうだい。すぐに戻ってくるから」
返事を待たず、綾は駆け出した。
小夜子を連れて行くわけには行かない。
何しろ、今綾が敵としている相手は、小夜子の従姉なのだ。
「小夜子の前で夕里子さんを責めたら……小夜子が悲しむものね」
小夜子が夕里子の味方をしたら、綾は夕里子を責め切る自信がなかった。
「親友、か……」
スカートをなびかせて廊下を駆けながら、綾は複雑な面持ちで呟いた。

陽一たちのいる教室は、すぐに見つかった。
昼休みはあまり人の居ない西棟で、女の声が大きく響いて来たからだ。
「別れてよ! あんたたちのせいなんだから、別れてよ!」
校舎の端の空き教室から漏れてくるヒステリックなその叫びは、佐久間愛のものだった。
走る速度を緩ませ、足音を忍ばせて教室の入り口に近付く。
教室の中を覗き見てみると、愛が夕里子に掴みかかっているところだった。
「あんたたちのせいで……あんたたちのせいで、私は……あの男に犯されたんだから!」
以前の活発な表情はそこには無い。
ぽろぽろと涙を零し、夕里子を責め立てる。
昨晩は絶望の淵で過ごしたのだろう、目の下には深い隈ができていた。
「すみません……本当に……すみません」
「本当に悪いと思ってるなら、別れてよ! そうじゃないと、私はまた……」
やはり涙を浮かべて謝る夕里子に、愛はますます食って掛かる。
陽一は夕里子の傍らに立ち、何とも言えない顔で唇を噛んでいた。
縁はというと、いつもと変わらない笑顔を浮かべ、手に持った便箋を読んでいる。
昨晩綾が愛の元に残した、脅迫文の便箋だった。
「まあまあ、少し落ち着こうよ。話は大体わかったからさ」
「あんたは、他人事だと思って……何で私がこんなとばっちりを……!」
今度は縁に掴みかかる愛を、縁は正面から受け止め、優しく抱きしめた。
「大丈夫だよ、何とかするからね」
「何とかって、どうするのよ……もし写真が出回ったら……私……私……」
どうするのかという問いに、縁は答えなかった。
ただ笑みを浮かべ、愛を抱きしめる。
そこで、入り口から覗いていた綾と目が合った。
「綾ちゃん……」
「どうも……」
陽一が、夕里子が、愛が、はっと入り口の方を振り返る。
「聞く気はなかったのだけれど……聞いちゃったわね」
言って、綾は教室に足を踏み入れた。
愛は、昨晩からの心労があったのだろう、泣くだけ泣くと、床にへたり込んで何も言わなくなってしまった。
夕里子はその愛を壁に寄りかかって座らせ、介抱する。
椅子も机も何も無い空き教室の中心で、綾と縁と陽一の三人が、顔をつき合わせて話をしていた。


165 崩の綾 ◆5SPf/rHbiE sage 2007/08/22(水) 04:57:31 ID:xpiNLpJO
「なるほど……大体事情はわかったわ」
初め事情を話すことをしぶった陽一だったが、ここまで聞いてしまったのだからという綾の言葉に押しきられ、ついに全て話すこととなった。
「字体と、この脅迫の内容からするに、前に夕里子ちゃんを狙ってたストーカーの人だと思うんだけどね」
「お兄ちゃんと夕里子さんが別れるように脅迫、か……強姦までするなんて、かなりの執念ね」
縁の説明に、綾は苦々しい表情で呟く。
可哀想にと、床に座って俯いている愛を見た。
「縁さん、どうするんですか?」
「うーん……そうだねえ」
「警察にばらすと写真をばら撒く、とあるわけですし、警察には言えませんよね」
「そうなるかもね」
「だとしたら、どうするんです?」
陽一も、不安そうに縁の顔を見た。
「まあ、できることはいくつもないんだけどね」
縁は眼鏡をかけなおし、指を折りながら言った。
「結局は、脅迫文にあるとおり、支倉君と夕里子ちゃんが別れるかどうかだけど」
「なるほど。わかりやすいですね」
「わかりやすいけど、どちらが正しいかがわからないから、困るところだね」
縁は珍しく、迷っている顔をしていた。
「縁さんも、悩むことがあるんですね」
「それはそうだよ。いつも悩みっぱなしだよ」
「でも、今回はいつまでも悩んでるわけにはいきませんよね。『別れさせなければ写真をばら撒く』と、時間制限があるわけですから」
そうだね、と困ったように笑って、縁は綾を見た。
「綾ちゃんは、どうするのがいいと思う?」
「私は、お兄ちゃんと夕里子さんが別れるのが一番だと思いますけどね」
何のためらいもなく、綾は言った。
教室がしんと静まり返る。
陽一も夕里子も、綾の顔を見た。
「そうする以外ないでしょう? それとも、お友達の醜態を写真でばら撒かれてもいいんですか?」
「そ、そうよ! 別れてよ! 別れなさいよ! あんたたちのせいなんだから! 別れてよっ!」
不意に愛が顔を上げて叫び、また咽び泣いた。
「支倉君は?」
その様子を端目に見ながら、今度は陽一に尋ねる。
「俺は……別れるのは、嫌だと思ってる」
「そっか」
縁は最後に夕里子に向き直った。
「じゃあ、夕里子ちゃんはどうしたいかな?」
「私は……」
夕里子は愛をちらりと見て、そしてそのまま口をつぐんでしまった。
身を汚された悔しさと絶望に身をやつしながら、愛は憎しみを込めた視線を夕里子にぶつけていた。
「あんたたちさえいなければ……」
愛の呟きに、皆一様に俯き、黙りこんでしまう。
教室には、愛の咽び泣く声が、ただ静かに響いた。
結局、今はまだ落ち着いて話を出来る状況には無い、ということで、縁は愛と一緒に早退して愛を家に連れ帰り、綾と陽一と夕里子の三人は、昼食をとるべく中庭に向かった。
並んで歩く陽一と夕里子。
二人の間には、人一人分の距離が空いている。
その間に体を滑り込ませるようにして、綾は陽一の腕に抱きついた。
「お兄ちゃん! 元気出して!」
「綾……」
「ああは言ったけど、まだわからないわよ。縁さんが何とかしてくれるかもしれないしね」
優しく、兄を安心させるように言う。
しかし、言葉とは裏腹に、綾は今度ばかりは何をどうしても縁に邪魔をさせるつもりは無かった。
そのための策を打って行くつもりだった。
(あの女はどうにかしようとするんだろうけど……)
綾は陽一の腕を強く抱きしめた。
(必ず、お兄ちゃんを取り戻してみせるわ)


166 崩の綾 ◆5SPf/rHbiE sage 2007/08/22(水) 04:59:00 ID:xpiNLpJO
放課後、綾と陽一、そして夕里子と縁の四人は、帰り道の途中の公園に集まった。
縁からの呼び出しで、今後の方針を話し合おうということだった。
陽一と夕里子は、一緒に来たものの、やはり佐久間の件の影響からか、微妙な距離感があり、互いにどこか気まずい顔をしていた。
そんな二人の様子を静かに観察しつつ、綾は縁に尋ねた。
「私まで呼んでもらって良かったんですか? 直接の関係者でもないのに」
「家族のことだから気になるでしょうし、呼ばなくても綾ちゃんは気付いちゃうでしょ?」
「ごもっともですね」
そんなやりとりの後、縁は話を始めた。
「結論から言うと、警察に行った方がいいと思う」
え、と陽一と夕里子が同時に驚きの声をあげた。
「どういうことだ?」
「警察に知らせるべきだっていうこと。これは明らかな犯罪だから、警察に任せよう」
「ま、待ってください」
夕里子が慌てた声を出した。
「警察に行くと、写真をばら撒くと……脅迫文にはありましたよ」
「そうだね」
「だったら警察には……」
「佐久間さんのために、脅迫状に従って、警察には行かずにおこうってことかな?」
「ええ……」
「なるほど、夕里子ちゃんらしいね」
腕を組み、ふむふむと頷く縁。
「でもさ、夕里子ちゃん、そうやって脅迫された通りにするとして、支倉君とは別れるってことなのかな?」
「そ、それは……」
「同じように、佐久間さんの写真をばら撒かれたくなかったら体を差し出せって言われたら、体を差し出せちゃうのかな?」
「……」
「それが出来るのなら、私も止めはしないよ。脅迫状の送り主……森山君の思うままにずっとされる覚悟があるのならね」
夕里子は黙り込んでしまった。
「もしそれが出来ないのなら、今森山君の脅迫をはねのけても、後で森山君の脅迫をはねのけても、写真をばら撒かれる危険性に最終的に変わりはないんだから、今はねのけた方がこちらの傷が少ない分お得だと思うよ」
「でも……佐久間さんが……泣いていましたし……」
辛そうに言う夕里子に、縁は「そうだね」と同意を示した。
「私も、佐久間さんは気の毒だと思うよ。本当は、警察に知らせないで、私たちの手で森山君をどうにかできれば良かったんだけどね」
森山浩史。
かつて夕里子を愛し、ストーカーとなり、危害を加えようとまでした男。
脅迫状を残す際に、綾がその筆跡を真似た人物だった。
「その森山さんとやらの居場所がわかっているのなら、そこに行けばいいんじゃないんですか? 縁さんが追い払ったという話ですし、縁さんは彼の引越し先を知っているんでしょう?」
「それが……一昨日から帰っていないらしいんだよね。親族の方にもう連絡はとっていたんだけど」
「そうですか。うまくいかないものですね」
綾にとってはわかりきった答えだった。
なぜ綾がストーカー森山浩史の筆跡を真似ることができたのか。
綾は既に数日前、森山浩史のことを調べ上げ、接触を図っていた。
佐久間愛を陵辱するために、男の手が必要とされたからだ。
「四辻夕里子をあなたのものにしてあげる。だから協力してくれない?」
今は別の学校に通っていた森山を帰り道で待ち伏せし、そう切り出した。
かつては縁の手をわずらわせたのかもしれないストーカー、森山浩史は、綾の期待に反して普通の高校生となってしまっていた。
「僕は、もういいんだ……」
「いいって……四辻夕里子はいらないということ?」
「ああ」
「本当にいらないの? 愛する人が、自分以外の人に抱かれてしまうのよ?」
「君がどうしてこんな申し出をしてくるのかわからないけど、世の中、自分の手に入らないものだってたくさんあるんだよ」
そう言って、森山浩史は綾への協力を拒んだ。
協力を得られなかったら、綾はおとなしく諦めるつもりだった。
しかし、森山の言葉を聞いて、気がついたら綾は、森山の首を両の手で締め上げていた。
「いちいち……気に障ることを言ってくれるわね」
「……君だってわかる時がくるさ……何でも望みどおりになるなんて、そんなわけはないんだよ」
綾はますます強く首を締め付ける。
森山は、何の抵抗も示さなかった。


167 崩の綾 ◆5SPf/rHbiE sage 2007/08/22(水) 05:01:51 ID:xpiNLpJO
やがて森山の顔色が真っ青になり、綾は手を離した。
「ぐっ……ごほっ!」
咳き込んで、俯く森山を、冷たく見つめる。
「あなたは諦めたのね。好きな人を」
「初恋が最後の恋じゃないさ」
「……私は、諦められないわ。何をどうしても諦められない。自分のできることは全部やって、それでだめなら世界を変えてでも好きな人の一番傍に居たい。私が諦めるとしたら……それは私が死ぬ時よ」
「僕もかつてはそう思ってたけどね。まあ、好きにするといいさ」
首を絞めたことを咎めもせずに、その場を去ろうとする森山に、綾は声をかけた。
「どうしたら諦められるのよ」
「え……?」
「好きで好きで仕方なかったんでしょう? なのに、どうして諦められたの?」
のろのろと、森山が振り返る。
改めて見るに、何の変哲も無い男子高校生だった。
「私、あなたの話がもっと聞きたいわ」
「まあ、いいけどね」
それから森山浩史の姿を見た者はいない。
学校から帰宅せぬまま、忽然と姿を消したことになっていた。
今彼は、綾以外の誰も知らない場所に居る。
その自由を、完全に奪われて。

「ということで、私の手で見つけられない以上、脅迫された通りにするかしないかの問題になるけれど、さっきも言ったとおり、脅迫にとことん従う覚悟があるならそれでよし。
それが無理なら、今この時点で警察に行くのが、一番傷が浅くて済むよ」
どうする、と縁は陽一と夕里子に尋ねた。
「俺は……別れたくない。だいたい、こんなやり方に負けるなんて我慢ならない。だから……」
「警察に行く?」
ためらうことなく、陽一は頷いた。
「私だって、せっかく陽一さんの恋人になれたのに……別れるなんて嫌です。でも……」
唇を噛み、夕里子はぽろぽろと泣き出してしまった。
「でも……皆さんに迷惑をかけるのは、私……」
「あのね、夕里子ちゃん、迷惑をかけているのは、夕里子ちゃんじゃないよ。この脅迫状を置いていった人が、一方的にみんなに迷惑をかけているんだよ。夕里子ちゃんはむしろ被害者の一人だからね、この場合」
「でも……」
涙を流す夕里子の肩を、陽一がそっと抱いた。
「陽一さん……」
ひし、と陽一に抱きつく夕里子。
縁は二人の様子を笑顔で見つめていた。
「綾ちゃんは、これでいいかな?」
「何で私に聞くんですか?」
「ほら、お昼休みには、別れるべきだって言ってたからさ」
ふむ、と綾は腕を組んだ。
「じゃあ、言いたいことを言っちゃうわね」
「あ、綾……?」
綾のただならぬ雰囲気に、陽一が不安げな声を出す。
そんな兄を、綾は鋭い目で睨んだ。
「お兄ちゃん、夕里子さんと別れるべきよ。別れなさい」
「……!」
「佐久間さんは強姦されたあげく、その写真をばら撒かれようとしているのよ? それがどういうことかわかってるの? 
そんなことをされて、この先佐久間さんがまともな人生を歩めると思ってるの? 人一人の人生がかかってると言っても過言ではないのよ?」
綾は陽一と夕里子に向けて熱弁を振るった。
「別れたくない、一緒に居たいなんて言っているけど、要は自分たちの今の心地よさを手放したくないだけじゃない。
恋愛なんていう、ただ一時の快楽のために、佐久間さんを切り捨てようとしているだけにしか見えないわよ」
「そんなことは……」
「無いなんて言い切れるの? 自分が佐久間さんの身になったとして、それでも同じことが言える? 
脅迫した側が悪いんだから言いなりになるな、自分のことは気にするな、裸だろうが犯された写真だろうがいくらでも晒してくれ、なんて言えるの?」
綾は夕里子の目の前に指を突きつけた。
「あなたに言ってるのよ、夕里子さん」
「え……」
「あなたは女なんだから、佐久間さんの苦しみがわかるはずでしょ? それも、あなたを狙っていたストーカーに佐久間さんは犯されたのよ? あなたは自分が犯された姿を大衆に晒されても、平然としていられるの?」
「……」
平気なわけがない。
夕里子はただ小さく首を横に振った。


168 崩の綾 ◆5SPf/rHbiE sage 2007/08/22(水) 05:02:38 ID:xpiNLpJO
「自分に出来ないことでも、佐久間さんにはさせると、そういうわけね」
「ち、ちが……」
「どう違うのよ。佐久間さんの人生よりもお兄ちゃんとの恋愛ごっこが大事だから、佐久間さんに犠牲になってもらおうってことなんでしょう?」
さらに綾は、黙ったままで自分を見つめてくる縁の方を向いた。
レンズの向こうの澄んだ瞳と視線が交わる。
縁は、何も言い出すことなく、ただ静かに綾の言葉を聞いていた。
「……縁さんが先ほど言った、一度脅迫に従ったとして、この後ずっと従い続ける覚悟があるのかという話だけど、そっくりそのまま返すわ」
「んん? どういうことかな?」
「一度脅迫を退けたとして、この後また別の人が犠牲になる可能性は大いにあるわ。その犠牲をずっと受け入れて、脅迫を退け続ける覚悟はあるの? 佐久間さんで終わりになるなんてわからないでしょう? 警察がすぐに犯人を捕まえるなんて、どうして考えられるのよ」
綾の言葉に、陽一と夕里子の顔が青ざめた。
追い討ちをかけるように、綾は自分の胸に手を当てた。
「私も女なのよ」
「綾……」
「縁さんも女、夕里子さんの他のお友達も、女の子がたくさん。それがみんな、犯されて、脅されることになるかもしれないのよ? それでもお兄ちゃんは夕里子さんと恋愛を続けたいの? そこまでして守るべき関係なの?」
陽一は唇を噛んだ。
自分の妹が、こうして気丈に話している妹が、同じように犯され、脅迫に利用される可能性。
今になって初めて、その可能性を意識させられたのだ。
「綾……不安なのか? 俺と夕里子さんが付き合っていると」
「……さあね。ただ考えておいた方がいいと思うわよ。お兄ちゃんと夕里子さんの恋愛が、どの程度のものなのか。たくさんの人に、一生モノの傷を負わせてまで守るべき想いなのか」
綾は夕日を背に、陽一と夕里子を見つめる。
秋風に、ツインテールに結んだ黒髪が、影のように流れた。
「恋の行く末はわからないわ。どんなに懸命に守った恋でも、冷めてしまえばそれでおしまい。でも、人の傷痕は、ずっとずっと残るんだからね」
それで綾は言葉を終えた。
重く、陽一と夕里子の心に圧し掛かる言葉だった。
誰もが沈黙し、夕暮れの公園は重苦しい雰囲気に包まれた。
そんな雰囲気を取り払うかのように、縁はぱんと一つ手を叩いた。
「よし、それじゃまとめようか」
「宇喜多……まとめるって……?」
「綾ちゃんのおかげで、私の言う通りにした時の良くない点もはっきりしたから、これでどちらか選べるようになったってことだよ。うん、綾ちゃんはさすがだねえ」
縁は指を二本立てて、陽一に向かって説明した。
「脅迫を退けるか、脅迫に従うか。自分たちの想いの強さを信じられるなら前者、自分たちの想いの強さに自信が無いんだったら後者だよ」
縁の説明に、綾は不快だとばかりに舌打ちをした。
「他人を犠牲にするなら前者、自分たちを犠牲にするなら後者、でしょう。綺麗な言葉で飾り立てるんじゃないわよ」
「あはは。まあ、ぶっちゃけるとそうなるね」
「……今更だけど、縁さんは、本当、お兄ちゃんと夕里子さんのことしか考えていないのね」
「そういうわけじゃないけど、支倉君と夕里子ちゃん優先なのは確かだよ」
小さく言って、縁はまたいつものように笑った。
「まあ、縁さんの考えなんて、どうでもいいことですけどね」
呟いて、綾は陽一を見た。
縁の望む方向がどうあれ、最終的に決めるのは陽一と夕里子なのだ。
陽一は、苦渋に満ちた顔をしていた。
脅迫を退けるか、脅迫に従うか。
綾と縁の提案に、真剣に悩んでいるのが見て取れた。
(……お兄ちゃんを傷つけることは本意じゃないけど……少しの間、我慢してね)
結局悩みに悩んだ末、陽一と夕里子は警察に相談に行くことに決めた。
「俺は……こんなやり方に負けるなんて、絶対に納得できない」
そう憤りを露にする陽一に、綾は何も言わなかった。
ただ、次に打つ手をどうするか、それだけを考えていた。


169 崩の綾 ◆5SPf/rHbiE sage 2007/08/22(水) 05:03:33 ID:xpiNLpJO
強姦については佐久間本人が居なければ警察に訴えられないので、とりあえず脅迫されたことを相談するという形で、陽一と夕里子、そして縁が、警察に行った。
森山浩史という、犯人の目星もついていたので、警察はすぐにその居場所を突き止めることを約束した。
それから三日間、警察の方からは特に何の音沙汰もなく、陽一たちは普段どおりに学校に通い、佐久間愛はずっと学校を休んでいた。
四日目の朝、陽一と綾が登校すると、教師たちが何やら慌しく駆け回っていたのが目に付いた。
「何だろう?」
「何かしらね?」
ふと見ると、昇降口の、靴を履きかえる台の下に、紙が一枚落ちていた。
陽一はそれを手に取り――
「……!」
ぐしゃりと手で握り潰した。
『佐久間愛の処女30000円で買いました』
そう印字された写真のコピー。
脚を開き、ぱっくりと開けた膣口から血を流した、佐久間愛の姿だった。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
「い、いや、何でもない」
陽一は動揺を隠せずに居た。
どうやら写真をプリントした紙は、学校のいたるところにまかれているようで、教師たちはその回収に躍起になっていた。
「やられちゃったね」
呆然としていた陽一に、一足先に登校していた縁が声をかけてきた。
「宇喜多……」
「本当にやるなんて、向こうも相当の覚悟なんだろうね。ちょっと驚いちゃったよ」
あはは、と縁は笑った。
「佐久間さん家の近所にもばら撒かれているみたいだね。凄い剣幕で電話がかかってきたよ」
「かかってきたよって……宇喜多、どうするんだ?」
「大丈夫。元々私の押しで警察に行ったわけだから、支倉君たちは悪く無いよ」
「いや、誰が悪いとかの話じゃなくて……佐久間は大丈夫なのか?」
「どうだろう。少し様子を見に行った方がいいかもね」
申し訳なさそうに、縁は言う。
その様子に、綾は思わず笑い出しそうになってしまった。
(頼りになる、誰よりも信頼できる友人、か……)
綾は前に陽一が縁を評した言葉を思い出した。
縁が信じるなら、自分も信じると、陽一は言った。
(頼りになるはずよね。縁は、いつもお兄ちゃんの望むように物事を動かしていくもの。そうと気付かれないよう、色々なものを切り捨てて)
智恵の遺言の時も、愛の先日の懇願についても、縁はそれらしい理屈をつけてはねのけたが、やっていることは要は切り捨てだ。
縁は、すべてにおいて冷徹なまでに、陽一と夕里子のことを優先しているに過ぎなかった。
今も、佐久間のことを言われて心配そうな顔をして見せているものの、縁に佐久間を哀れむような思考があるわけないと綾は考えていた。
(縁にしてみれば、これでお兄ちゃんと夕里子に対する脅迫の種は消えたわけだから、満足の行く結果なのよね……)
元々これが、縁の狙った結果なのだろうと、綾は思った。
警察は当てにならないと以前言っていた縁が、本気で警察を頼りにするわけが無い。
やはり、佐久間を切り捨てて陽一と夕里子を守ったということなのだろう。
綾は陽一の顔を見る。
陽一は青ざめて、何に対してか、怒りを露にした表情をしていた。
そこには、紛れも無い、後悔の色も見えた。
「お兄ちゃん……お兄ちゃんたちが決めたことだからって、そんなに気にしちゃ駄目よ」
そう言って、綾はにこりと笑った。


170 崩の綾 ◆5SPf/rHbiE sage 2007/08/22(水) 05:09:08 ID:xpiNLpJO
佐久間愛の噂は、あっという間に全学年に広がった。
今日初めて話を知ったという両親も押しかけてきて、陽一と夕里子は、教師たちにこってりと話を聞かれることになった。
いつの間にか脅迫文の内容も噂として流れ、陽一と夕里子は、智恵の自殺の時のように周囲からの好奇の視線に晒されることとなった。
脅迫した者が悪いのか、脅迫者に睨まれた者が悪いのか、ということで、さすがに表立って二人を非難する生徒はいなかったが、それでも漠然と、重苦しい雰囲気が、行く先々で付いてまわった。
仲間の一人が被害者ということで、いつも中庭で一緒に昼食をとっていた面子もどこかよそよそしく、その日は四人で、例の空き教室で食事をとることになった。
「これで……よかったのでしょうか」
ぽつりと呟く夕里子。
陽一と付き合い始めた頃の笑顔からは想像もつかない、憔悴した表情だった。
「前も言ったけど、悪いのは脅迫をした側なんだから。夕里子ちゃんが気に病む必要なんて、全然無いんだよ」
「……」
縁の励ましに、陽一も夕里子も無言で弁当をつついた。
じわじわと精神的に追い詰められつつある二人の姿に、綾は密かにほくそえんだ。
(縁……あなたの言うことは、確かに間違っていないけどね。この二人は、それでも罪悪感を感じてしまう人たちなのよ)
元気の無い陽一の背を撫でて、
「お兄ちゃん、大丈夫?」
と気遣う様子を見せる綾。
陽一は、やはり無言で頷くだけだった。
(……大分堪えているみたいね)
周囲の人間が傷つき、人間関係が壊れていけば、人はどうしても心を削られる。
縁が言葉でごまかしても、完全に罪悪感を拭い去ることはできないのだ。
(まだまだ、追い込ませてもらうわよ、お兄ちゃん……)
二人を別れさせるまで、追撃の手を緩めるわけにはいかない。
綾は、切れ長の目をますます鋭く細め、兄とその恋人の姿を見つめた。
(この二人にさらにダメージを与えるには、佐久間愛を自殺させるか、他の人間を同じように被害に遭わせればいい……でも……)
佐久間愛を自殺させるのは、そう簡単にはいかないだろうと思えた。
愛の事件を表沙汰にしたせいで、愛の家の周囲などは警戒が高まることになるだろう。
そして、こうして写真が出回ってしまった以上、愛が家から出てくることもしばらくは無い。
(自殺に見せかけて殺すことは、できないと考えた方がいい。だとしたら、別の方法を考えるしかないわね)
次の日も、その次の日も、愛の親は学校を訪れた。
さすがに父親は仕事もあるのだろう、一日目のみの来校だったが、母親は毎日放課後近くになると車で学校まで乗り付けていた。
陽一と夕里子について抗議をしているのか、あるいは転校などについて話し合っているのか、定かではない。
しかし、娘のために毎日学校にやってくる母親の必死な姿は、綾の目に留まるに充分なものだった。
「お兄ちゃん、今日は先に帰ってて」
放課後、綾は陽一たちと一緒に帰らず、学校から少し離れた路地裏に潜んだ。
佐久間愛の母親が、学校から車を走らせて帰る道の脇の路地裏である。
人目が少ないこと、曲がり角の直後であることなど、いくつかの条件から選んだポイントだった。
「本当、私も必死よね……」
秋が深まり、日が沈むとそれなりの肌寒くなる。
自分の体を腕で抱き、寒さをこらえながら、綾は自嘲気味に呟いた。
「でも仕方ないわよね。好きで好きで仕方ないんだもの」
先日、自分が陽一に言った言葉が思い起こされた。
「『たくさんの人に、一生モノの傷を負わせてまで守るべき想いなのか』……」
綾はじっと自分の手を見た。
路地裏に、ビルとビルの隙間から細く西日の光が差し、綾の手のひらを橙赤に照らす。
「今更よね」
と誰にともなく綾は言った。
「私にとっては、この世界の何よりも大切な想いだもの。それに……」
もう後戻りは出来ないところまで来ている。
そのことが、綾には充分すぎるくらいにわかっていた。
日が沈んで残照が西の空を照らす時間になって、綾の目当ての車がやってきた。
曲がり角を曲がってきた、白の軽自動車。
ナンバーの確認をして、綾は目の前を通り過ぎようとする車の前に躍り出た。
フロントガラスの向こうで、愛の母親が慌てた顔をするのが見える。
綾は車の端にかすかに体を接触させて、道に倒れた。
曲がり角の直後なので、そもそもあまりスピードは出ていない。
怪我らしい怪我はしていなかったが、それらしく見せるために、起き上がりながら綾は足を引きずる動作をした。
「ごめんなさい。大丈夫だった?」
車から愛の母親が降りて、様子を聞く。
綾に大した怪我が無いのを見て取ると、ほっとした表情を見せた。


171 崩の綾 ◆5SPf/rHbiE sage 2007/08/22(水) 05:09:48 ID:xpiNLpJO
「大丈夫ですけど、足を少しひねってしまったみたいですね」
「まあ……ごめんなさい。病院に行きましょう。あと、ご両親にも連絡をしないと……」
娘のことで頭がいっぱいだろうに、それでもきちんとした対応を見せる佐久間愛の母親。
綾は「そんなに気にしないで下さい」と笑顔を見せた。
「病院に行くほどの怪我ではありませんから。湿布を貼っておけば治るでしょうし。まあ……出来るなら、家に送っていってもらえると嬉しいですけど」
娘と同じ年頃の少女の丁寧な言葉に、佐久間愛の母親は快く頷き、車のドアを開けた。
「ありがとうございます」
周囲を見回してから、綾は車に乗り込む。
車に接触してから、今までの会話で、一分余り。
人に見られた様子は無かった。
(行けるかしらね……)
綾は佐久間愛の母親に、街外れに至る道順を告げた。
支倉家のある場所からは遠く離れた場所である。
佐久間愛の母親は、そこが綾の家なのだろうと思い、疑うことなく車を走らせた。
「ああ、もうこの辺で結構ですよ」
「あら、そう?」
着いた先は、ひっそりとした川沿いの、土手際の空き地だった。
民家の光は遠くに見え、住宅らしいものは辺りには見えない。
佐久間愛の母親は、戸惑いながらも車を止めた。
「……本当に、ここでいいの?」
「ええ」
「一応、ご両親に挨拶をしておいた方がいいかしら。もし見えないところに怪我をしていたら連絡をしてもらって……治療費は必ず払うから……」
「いえ、そんな必要はありません」
冷たい声に違和感を感じた佐久間の母は、後部座席の綾を振り返ろうとする。
と、首筋に冷たい感触がして、動きが止まった。
「動かないで。動くと刺し殺すわよ」
「え……」
綾は、鞄から取り出した刃渡りのある包丁を、佐久間の母の首にあてていた。
「な……!」
「騒がないで。騒いでも刺し殺すわ。言うとおりにすれば何もしないから、おとなしくしなさい」
街灯の光に、包丁の刃がぎらりと光り、佐久間の母はごくりと唾を飲んだ。
娘と同じ年頃の、同じ学校の制服を着た少女が、今こうして自分の首に包丁を突きつけている。
何が何だかわからなかったが、湧き上がる恐怖感が、綾の言いなりになることを選んだ。
「言うとおりに……するわ」
「よろしい。わかったなら、これを飲みなさい」
「え、な、何なの、これは?」
綾の手の平には、白い錠剤が何錠か置かれていた。
「薬……?」
「何だっていいでしょう。この薬を飲むか、今ここで刺し殺されるか、どちらかよ」
切れ長の目に、漆黒の瞳。
まるで人でないものを見るかのように、綾は冷たい視線を佐久間の母に向けていた。
すぐ目の前には、相変わらず鋭い包丁の切っ先が、首筋に向けられている。
「飲むわ……飲むから、刺さないで……」
恐怖に負け、佐久間の母は、綾に言われるままに錠剤を飲み込んだ。
十分もすると、佐久間の母は頭を揺らし、車のシートに身を預けて、動かなくなってしまった。
「さすが、市販の薬と違って、よく効くわね」
綾は車を降りて、鞄の中からゴムホースとガムテープを取り出した。
車の排気口とゴムホースをつなぎ、さらにゴムホースの先をわずかに開けた運転席の窓から差し込んで、ガムテープで隙間を塞いだ。
初めての作業だったが、単純な分さほど時間はかからなかった。
「意外と簡単なものね」
満足気に頷いて、綾は仕上げに、佐久間の母の手で握り潰させた、佐久間愛の強姦写真のプリントを一枚、運転席の足元に転がした。
遺書は残す必要は無い。
この一枚で充分と思われた。
キーをまわしてエンジンをかけ、車のドアを閉める。
後は、一定時間エンジンが止まらないことを確認すれば、自殺体の出来上がりだった。
空を見上げると、綺麗な秋の星空が見える。
「遅くなった言い訳、どうしようかな……」
時計を見ながら、綾は呟く。
秋の夜風が、空き地の周囲のススキを寂しく揺らしていた。


172 崩の綾 ◆5SPf/rHbiE sage 2007/08/22(水) 05:10:30 ID:xpiNLpJO
佐久間の母の遺体が発見されるのには丸一日かかり、陽一たちがそれを知ったのは、二日後のことだった。
「自殺……らしいね」
また空き教室で、綾と陽一と夕里子と縁の四人は、昼休みに集まっていた。
学内にも、佐久間の母が自殺したことは知れ渡っていて、重苦しい空気が学校全体を覆っていた。
生徒が一人強姦され、写真をばらまかれ、その母親が自殺――
もはや、噂話を楽しむなどという者は生徒たちの中にも居なかった。
あまりの痛ましさに、生徒たちは皆、休み時間もひっそりと静まり返っていた。
「心労があったんでしょうね。娘さんのあんな姿を写真に撮られてばら撒かれてしまっては……」
綾の一言に、陽一と夕里子は肩を揺らした。
「感想はどう? お二人の決断で人を殺したわけだけど」
「綾……!」
ますます俯いてしまう夕里子を見て、陽一は綾を叱り付けた。
「……その話は、今はよそう」
「今しないでいつするのよ? ……まあ、お兄ちゃんと夕里子さんは、お二人の恋に自信があるようだし、行けるところまで行ってみたらいいんじゃない?」
「……」
「私が何を言っても、縁さんのオススメにはかなわないみたいだしね。世間がどう言おうが、最後には私はお兄ちゃんの味方をするから、お好きにどうぞ」
それから綾と縁は黙々と弁当を食べたが、陽一と夕里子は一切箸が進まなかった。
夕里子の周囲は、ほんの一週間ほどで、劇的に変わっていた。
自分のせいで犯された友人。
自殺したその家族。
周囲からの視線。
離れゆく友人たちと、壊れつつある人間関係。
夕里子の傍に常にいる友人は、もはや縁だけとなっていた。
今までとあまりに異なる環境に、夕里子の精神はぎりぎちまで追い詰められていた。
さらに次の日、また衝撃的なニュースが陽一たちを襲った。
佐久間愛が自殺未遂をしたという知らせだった。
母親の死を聞かされて、発作的に手首を切ったらしい。
命に別状は無いが、すぐに病院に入院させられたと伝わってきた。
佐久間愛の自殺未遂は、綾にとっては想定外の出来事だったが、綾の思惑にしてみれば、実に都合の良い流れだった。
「もう、佐久間さんの家族もぼろぼろね。元は幸せな家族だったでしょうに」
帰り道、綾の言葉に、陽一はもはや答えることもなかった。
夕里子は愛の自殺未遂の報を聞いた時点で気分を悪くし、縁に送られて学校を早退している。
久しぶりの、綾と陽一二人だけの帰り道だった。
「お兄ちゃん、もう一度聞くけど……夕里子さんとの関係は、お兄ちゃんにとって、これだけの人を傷つけてまで守るべきものだったの?」
「……わからない」
「わからないけど、まだ別れないのね」
「……」
「他にも犠牲者がでるかもしれないのに」
「綾……俺は、間違っていると思うか?」
この数日で、陽一も全体的に疲労した感がある。
苦しみに顔を歪ませて、陽一は尋ねた。
「……夕里子さんへの気持ちが、どんなことがあっても変わらない愛だっていうんだったら、間違っていないと思うわ。それは何を犠牲にしてでも守るべきよ」
でも、と綾は続けた。
「もし、今少しでも心が揺らいでいるんだったら、お兄ちゃんの選択はやっぱり間違っていたんだと思う」
「……そうか」
結局陽一は、綾の何度かの問いかけに、夕里子と別れると答えることは無かった。
陽一の思いの外の頑固さに驚きながら、綾はふと思った。
自分と、夕里子との関係では、陽一にとってどちらが大切なのかと。


173 崩の綾 ◆5SPf/rHbiE sage 2007/08/22(水) 05:11:26 ID:xpiNLpJO
数日後、夜の八時を回ってから家に帰ってきた綾の姿に、陽一は頭の中身を直接殴られた思いがした。
制服のボタンははじけ、ブラウスは破れ、白い肌が露になっている。
冬が近付いて身につけるようになった黒のストッキングもところどころ破かれて、脚には土の汚れがついていた。
「あ、綾……お前、それ……」
「……」
綾は俯いたまま何も言わず、陽一の脇をすり抜けて、風呂場に駆け込んだ。
「綾……!」
慌てて陽一は追いすがる。
綾の肩を掴んで振り向かせると、その肩が小さく震えているのがわかった。
「綾……お前……」
綾は俯いたまま、声を忍ばせて泣いていた。
気丈な妹が、力なく涙を流すその姿は、陽一にかつてないほどの衝撃を与えた。
私も女なのよ、そう言った綾の言葉が思い起こされた。
「まさか……綾……お前……」
「……何で……」
小さな声で、綾は応じた。
「何で私が、こんな目に遭わなきゃならないのよ……!」
「綾……」
「何で私が……何で……!」
堰を切ったように泣き出し、脱衣所でうずくまる綾。
破れた制服から覗く肩の震えが、何とも痛々しかった。
「綾……待て、落ち着いてくれ。何があったんだ? まずは落ち着いて聞かせてくれ」
自分に言い聞かせるように、陽一は「落ち着け」と何度も繰り返した。
肩を抱いて、がくがくと震える綾。
そこには、いつもの気の強さは微塵もなく、ただ恐怖に竦む少女の姿があった。
「……学校が終わって……少し寄り道して家に帰ろうとしたら……あの……いつも通ってる公園で……いきなり後ろから抱きすくめられて……」
ますます綾の震えは大きくなる。
ほつれた髪が、ゆらゆらと揺れた。
「それで……茂みに連れ込まれて、押し倒されて……!」
「……!」
綾は床にうずくまって泣いた。
ひたすらに泣いた。
陽一が触れようとすると、怯えたように後ずさり、いやいやと首を横に振った。
「綾……万一のことがあるかもしれない。病院に行こう。あと警察にも……」
「嫌よ!」
「でも……」
「嫌よ! 絶対に嫌! 病院にも警察にも行かないから! だって……誰かにばらしたら、写真を……撒くって……そうしたら私の体が色んな人に……」
「……」
「お願い……もう……そっとしておいて……絶対……絶対に誰にも言ったりしないで」
こんな時どうしたらいいのだろう。
陽一は泣きじゃくる妹を呆然と見ていた。
佐久間愛の一件の時、綾は言った。
他人を犠牲にする覚悟があるのかと。
それを聞いた上で、陽一は警察に相談すると決めたのだ。
そして、その結果、佐久間愛の写真はばら撒かれ、母親は自殺し、愛本人も自殺未遂をした。
夕里子の級友たちも怯え、夕里子の周囲から離れつつある。
そして、新たな結果が今、目の前にあった。
汚された妹の姿が、目の前にあった。
「すまん……」
「……なんで……私がこんな……」
「すまん……すまん……!」
膝をつき、陽一は声を絞り出すように泣いた。


174 崩の綾 ◆5SPf/rHbiE sage 2007/08/22(水) 05:12:59 ID:xpiNLpJO
風呂からあがった綾は、何も言わずに部屋に閉じこもってしまった。
愛のように、陽一に別れるようにと詰め寄ることもない。
ぼんやりと、陽一の呼びかけにも答えずに、部屋に入っていった。
陽一は隣の自室で机に向かい、ただうなだれるしかなかった。
自分の身勝手な正義感が恨めしかった。
「綾……俺のせいで……綾が……」
口うるさくはあったが、いつも自分の心配をしてくれた、可愛い妹。
食事の準備も、家の中の掃除も、洗濯も、身の回りの世話を甲斐甲斐しくこなしてくれた、しっかり者の妹。
その妹の、夕里子と別れて欲しいという頼みを二度無視して、ついにどうしようもない傷をつけてしまったのだ。
「馬鹿だ……俺は馬鹿だ……!」
時間を戻せるなら戻したかった。
ここまで色々なものを傷つけるまで事の重大さに気付かなかった自分が許せなかった。
「夕里子さんは、確かに好きだ……だけど……」
陽一は、震える拳で机を叩いた。
「綾……!」
もし綾が自殺したら。
その時を考えただけで、絶望的な気持ちになった。
「綾……」
「お兄ちゃん……?」
きい、とドアの軋む音がして、暗い部屋の中に一筋の明かりが差した。
見ると、入り口に、ドアを細く開いて、寝巻きを着た綾がぽつんと立っていた。
「綾……!」
陽一はすぐさま席を立ち、綾に駆け寄った。
「綾……その……」
大丈夫なのか、と聞こうとして、口を閉じてしまう。
大丈夫なわけが無いのだ。
何をどう言ったらいいのか、陽一は途方にくれてしまった。
「お兄ちゃん……眠れない」
「え?」
「眠れないの……眠ろうとすると、あいつの……あの男の顔が頭に浮かんで……」
綾は涙ぐみ、陽一の部屋着の裾を掴んだ。
「ねえ……お兄ちゃんと一緒に寝ていい? 私……怖い……あいつが……あいつがまた来そうで……」
「大丈夫だ。兄ちゃんがずっと傍にいるから、大丈夫だ」
「本当……? お兄ちゃん、私を守ってくれるの?」
「当たり前だろうが……! 俺はお前の兄ちゃんなんだぞ?」
「嘘……つかないでね、お兄ちゃん。約束だからね?」
綾の言葉に何度も頷きながら、陽一は綾を抱きしめた。
抱きしめられながら、綾は陽一の胸に顔をうずめ、小さく小さく微笑んだ。
二人で一つのベッドに入り、綾は陽一に擦り寄るようにして身を寄せた。
「綾……体は、その……痛いところとか無いか?」
「うん……大丈夫」
「あのさ……一応病院には行っておいた方がいいと思う。少し遠くの病院の産婦人科に行けば、知人に知られることもないだろうし……」
「……」
綾は陽一の提案には答えず、代わりにさらに体を寄せた。
「お兄ちゃん……私の体、ぎゅって抱きしめてもらえる?」
「……ああ」
「あと、頭を撫でてもらえると嬉しいかも」
陽一は体を横に向けて綾の体を抱きしめると、言われたままに頭を撫でた。
艶やかな黒髪からは、お風呂上りの香りがする。
綾は陽一の首筋に息が当たるほどに唇を近付け、呟いた。
「私ね、あの男に色んなことをされたの」
「え……」
「まず最初に、押し倒されて、両腕を押さえられてね、キスをされたわ。無理矢理に」
陽一は身を硬くして綾の告白を聞いた。
心が締め付けられる重いではあったが、それが自分への罰なのだと思った。
「顔の色んなところに、舌を這わせてくるのよ。犬みたいに、汚らしく唾液を塗りつけてくるの」
「そう、か……」
「それでね、ここにもされちゃった。キスを」
綾は自分の唇を指差した。
そして、声を震わせて、ぽろぽろと枕に涙を零した。


175 崩の綾 ◆5SPf/rHbiE sage 2007/08/22(水) 05:13:42 ID:xpiNLpJO
「汚れちゃったわね、私……はは……」
笑いながら涙を流す妹を、陽一はますます強く抱きしめた。
「お前は汚れてなんかないよ」
「ううん、汚れてるわ」
「汚れてなんかない。ずっと綾を見てきた俺が言うんだから、間違いないよ」
「私が何をされたのかは見てないでしょう?」
「それは……」
陽一は何も言えなくなってしまう。
悲しそうに唇を噛む兄を顔を、綾はすがるような目で見つめた。
「……お兄ちゃん……もし……」
「ん?」
「もし、お兄ちゃんが、あの男のつけた汚れを取ってくれるんだったら、私……自分がまだ汚れてないって、信じられるかもしれない」
「え……?」
綾が、陽一の首に腕を回し、これまでになく体を密着させ、抱きつく。
胸を押し付け、脚を絡ませるようにして、しっかりと体をつけた。
そして、陽一の耳元に唇を寄せ、わずかに震える声で言った。
「……お兄ちゃんがキスしてくれたら、私の体の汚れ……取れると思う」
「え、そ、それは……」
「……駄目なら、いいわ」
細く息を吐き、綾は陽一から身を離す。
オレンジの豆電球一つが照らす部屋の中で、涙に濡れた切れ長の瞳が静かに光った。
「お兄ちゃん……」
掠れた声で呟き、目を閉じる。
しばしの逡巡の後、陽一は綾の肩を抱いて、そっと口付けをした。
「……!」
綾は自分の顔がいっぺんに熱くなるのを感じた。
鼓動が高まり、胸の中にこの上ない幸福感が満ちていく。
ほんの数秒間の口付け。
陽一の唇が離れる。
その後を追うようにして、さらに綾は陽一とキスを交わした。
「あ、綾……」
「……私を守ってくれるんでしょう、お兄ちゃん? ちゃんと全部、汚れを取ってね」
「……」
二人きりの兄妹は、その夜、何度も唇を合わせた。

深夜、眠りについた綾の頭を撫でながら、陽一は枕元に置いていた携帯電話を開いた。
アドレス帳から、四辻夕里子の名を探す。
一文字一文字、何かを振り切るようにメールを打った。

『別れよう』

簡潔な、間違えようの無い文面。
それを陽一は、何度も確認するように読み直した。
数分間、暗闇に光るディスプレイを見つめた後で、ついに送信のボタンを押す。
ちかちかと画面が光り、送信完了の文字が表示された。
「これで……いいんだ」
木の板の天井を見つめて呟く。
涙が一筋、頬を伝ったが、陽一は決して声をあげることはなく、隣に眠る綾を抱くようにして眠りについた。


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最終更新:2011年10月27日 23:48
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