秋の綾

235 名前:秋の綾  ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/06/22(金) 14:07:15 ID:PsFHBAXj
鏡を割った次の日の朝、綾は包帯を巻いた手で朝食を用意し、起きてきた陽一を出迎えた。
「綾、手の包帯、どうしたんだ?」
「昨日部屋の鏡を割っちゃって、その時少し切ったのよ」
「切ったのよって……大丈夫なのか? 食事の支度、俺が代わろうか?」
「やあよ。お兄ちゃんが作っても、美味しくないもの」
「そりゃお前ほどには美味く作れないけどさ。怪我してると水仕事は辛いだろ? 無理するなよ」
綾は陽一の言葉に、ありがとうと礼を言った。
降り注ぐ朝の日差しの中に、端整な微笑が美しく輝く。
「でも痛いほうがいいのよ。これは罰だから。痛い方が自分が馬鹿だって忘れないで済むから」
「罰?」
「ええ、失くしちゃった罰」
「失くした?」
「……鏡よ。大きい鏡は高いからね」
それはともかく、とトーストを載せた皿をテーブルに置きながら、綾は陽一に尋ねた。
「一晩考える時間があったわけだけど、四辻夕里子さんとはどうするの? 付き合うの?」
「ん……まあ……付き合おうかなあと思ってる」
わかっていたことだった。
陽一がどんな夢を見ていたかはわからない。
しかし、性器に刺激を受けている時に、陽一は夕里子の名を口にした。
恐らく、今の陽一にとって、最も「女性」を感じさせられる人物は、四辻夕里子なのだ。
「へー、よかったじゃない。これでお兄ちゃんも女がらみで妙なことに巻き込まれなくなればいいけどね」
ごく平静な様子で綾は言った。
「まったく、今まで散々迷惑かけられたもんだわ」
「はは……いや、すまん」
「これを機会にしっかりするのよ? もし何も変わんないようだったら、四辻さんとの付き合いについて、私も考えさせてもらうからね」
「ああ……ごめんな、心配かけて」
「別に。これで私も楽になるわ」
ふん、と鼻を鳴らし、トーストをかじる。
テーブルの下で、綾は右の拳をぎゅっと握った。
力強く握り、小さく震わせる。
白い包帯に、じわりと赤い血が染み出した。


236 名前:秋の綾  ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/06/22(金) 14:07:55 ID:PsFHBAXj
「今日も会うの? 四辻さんと」
「ああ。返事をする約束があるしな」
「ちゃんとデートの報告はしなさいよね」
「いや、もうあれは……恥ずかしいから勘弁して欲しいんだが」
昨日のキスの報告がよほど堪えたのだろう。
陽一は困ったように言った。
「なに? この夏休み中私が鍛えてあげた恩を、もう忘れたっての?」
「そういうわけじゃないけどさ。夕里子さんにも悪いし」
「……まあいいわ。じゃあ今度その夕里子さんを家に連れてきなさいよ。どんな人かしっかり見てあげるから」
「そうだな。そのうち連れてくるよ」
「あんまりどうしようもない人だったら、その時は遠慮なくいかせてもらうからね。あと、いきなり不純な交際はするんじゃないわよ?」
「するか!」
顔を赤くする陽一を指差して、綾は笑った。
「ま、精々うまくやんなさい」
始業式までの一週間、綾は四辻夕里子についての調査はしなかった。
鏡を割って負った傷が完治するまでは、行動を慎むつもりだった。
怪我をした状態で事に当たっては、思わぬところでつまづくことになる。
夕里子の周辺を探っていたという痕跡を残してしまったら、それは致命的な結果を招く可能性があった。
「今年はもう二人殺しているものね……」
一方は事故として処理され、もう一方は別の容疑者が追われているが、被害者たちと綾に接点があったことを知っている者はそれなりにいる。
そして次に狙うのは、陽一の恋人となった四辻夕里子だ。
夕里子を排除することに成功したとしても、こうも立て続けに綾の周囲で人が消えていたのでは、疑う者が現れてもおかしくない。
だから、夕里子を排除するプロセスにおいて、証拠を残すことは絶対に許されない。
どんなに疑われても、証拠がない限り敗北はないのだ。
「お兄ちゃんが疑われる可能性があるのが嫌だけど……でも、お兄ちゃんが四辻夕里子に汚されるのは、絶対に防がなくちゃいけないしね」
綾は自室の天井板を一枚外し、天井裏から金属製の箱を取り出した。
蓋を開けると、中には鉈、金槌、包丁や異常な刃渡りのナイフが数本。
束ねられた細いワイヤーに、透明な液で満たされた小瓶なども入っていた。
廃品、盗品、合法的な入手物――綾が数年にわたって集めてきた、外敵排除のための道具だった。
「お兄ちゃんは渡さないわ」
水を入れた洗面器と砥石を床に置く。
鈍く光る包丁を握り、静々と研いだ。
「私のためにも。お兄ちゃんのためにも。私たちは、ずっと二人でいる方が幸せなんだから」
鋭い切っ先を見つめながら、綾は呟いた。
「馬鹿な女に穢されないよう、私が守ってあげるからね、お兄ちゃん」


237 名前:秋の綾  ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/06/22(金) 14:09:02 ID:PsFHBAXj
新たなる学期の始まりとなる九月一日、生徒たちが休み中の出来事を話し、教室はいつも以上のざわめきに包まれている。
普段より少し遅めに登校してきた綾に、小夜子はさっそく声をかけた。
「機嫌悪いね」
「久しぶりに会って第一声がそれ?」
綾はため息をつくと、乱暴に椅子を引いて座った。。
「別に、いつも通りよ。この通り、元気一杯」
「ふーん……?」
「……まあ、ちょっとは機嫌悪いわよ。休み中に手を怪我して、色々不便なの」
「陽一さんがお付き合いを始めたからじゃないの?」
「なっ……!」
綾は包帯を巻いていない方の手で、机を叩いた。
「何で私がそんなことで怒るのよ! お兄ちゃんが誰かと付き合ったくらいで!」
「怒ってないんだ?」
「別に、ようやく肩の荷がおりたって感じよ」
意外、といった風に小夜子は腕を組んだ。
「私、陽一さんが誰かと付き合うことになったら綾は絶対反対すると思ってたから、ちょっと驚いたわ」
「そりゃお兄ちゃんに憧れみたいな気持ちはあるけどね。ブラコンとかじゃあるまいし、誰と付き合おうが、私はお兄ちゃんの意志を尊重するわよ」
「ふーん……でもやっぱり不機嫌よね」
「だから、それは手を怪我したせいよ。まあ、あえて言うなら、お兄ちゃんと相手の四辻って人の付き合い方が、こそこそしていて嫌な感じはするけどね」
「こそこそ?」
「そうよ!」
綾はまた机を叩いた。
「お兄ちゃんが誰と仲良くしようがそれはいいわ。ただね、付き合うなんてことになったら、家族に顔見せくらいしてもいいじゃない?」
結局陽一は夏休み中、夕里子を家に連れてこなかった。
「もうちょっと待ってくれないか」
そう言われ続け、二学期になってしまった。
そして、やはりデートの報告は無い。
どんなことをしたのか聞いてもごまかされてしまい、いつどこでデートをするのかも教えてもらえなかった。
二人の仲がどれだけ進展しているのか知ることができず、綾はそれなりのストレスを感じていた。
「四辻って人はあれかしらね? 何か後ろ暗いことでもあるのかしらね?」
「いや、むしろユリねえは綾に会いたがってるんだけど、陽一さんが今はまだよしておこうって言ったらしいわよ」
「何でよ?」
「ほら、まあ、綾は怖いところあるから」
「はぁ? 何で私が怖がられるのよ」
声を低くして睨みつけてくる綾を、「まあ落ち着いて」となだめながら、小夜子は言った。
「ほら、陽一さんの付き合う人となると、綾は評価厳しそうだし。なまじ自分で何でもできる分、陽一さんの恋人にも同じくらいを要求するでしょ?」
「仮にそうだとして、どうして私に会うのはよしておこうって話になるのよ?」
「まあ、陽一さんも付き合い始めで夕里子さんに気を遣ってるところがあるんだろうし……」
それに、と小夜子は言葉を続けた。
「陽一さん、綾には絶対納得してもらいたいって思ってるだろうから、そのための準備期間なんじゃないかしら」
「別に、今来ようが後で来ようが、私が納得するかしないかに大した違いは無いわよ」
言って綾は苛立たしげに窓の外を見る。
紺色のリボンで結んだツインテールが揺れた。


238 名前:秋の綾  ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/06/22(金) 14:10:49 ID:PsFHBAXj
「ねえ小夜子、思ったんだけど……」
「なに?」
「あなた、やけに詳しいわね。そもそも、お兄ちゃんが四辻さんと付き合い始めたのをどうして知ってるの? ユリねえって誰?」
小夜子は一瞬首を傾げ、ぽんと手を打った。
「ユリねえは夕里子姉さん。言ってなかったっけ? 私、ユリねえとは従姉妹同士なのよ。うちは分家だけど。夏休み中に何度か会って聞いたのよ」
綾は絶句してしまった。
言っていないし聞いていない。
縁もそんなことは言っていなかった。
「従姉妹……? 小夜子と……四辻夕里子が……?」
「ええ」
小夜子は頷いて小さく笑った。
それまでの気さくな雰囲気とは違った、柔らかな微笑だった。
「実は私もそれなりのお嬢様だったのですよ」
「知らなかったわ……」
「まあ言うことでもないしね。家に来れば何となくわかったかもしれないけど、綾ってば何度誘っても来てくれないし……夏休み中だって……」
ぶつぶつと愚痴に転化する小夜子に、綾は落ち着いて尋ねた。
「夕里子さんとは仲がいいの?」
「年が近かったから、親戚の中じゃ一番仲がいいわよ」
「夕里子さんは、どうしてお兄ちゃんを好きになったのか、聞いてる?」
「んー……何かね、去年の今頃、助けてもらったらしいのよ。陽一さんに」
「いつどこでどんな状況で?」
やっぱり怒ってるなあ。
そう思いながら、小夜子は話を続けた。
「その……ユリねえはさ、去年の春くらいから、ストーカー被害に遭ってたのよ」
「は?」
「つけまわされたり、変な手紙や写真が届いたり。一時期は本当に大変だったらしいわ」
恐怖に震え、神経をすり減らされた。
警察には相談しなかった。
「ユリねえ、全寮制の私立に入るはずが、親御さんの反対を押し切ってこの高校に入学したのよ。
ストーカーに遭ってるなんて言ったら、もと行くはずだった高校に絶対に押し込められちゃうからね。
それで友達とかに相談して色々対策を練ったりもしたんだけど、なかなかうまくいかなくて……」
身の危険を感じるようにもなった。
決して一人にはならない。
慣れた建物にしか入らず、初めての建物はおおよその構造を把握する。
窓にはカーテンをかけ、傍には寄らない。
尾行確認ほか細々とした注意を怠らないようにした。
「ちなみにその時相談に乗ってくれたのが、宇喜多さんらしいわよ。あの、陽一さんのクラスの」
「へえ……あの人がねえ……」
「でも、なかなかストーカーが離れなくて困っていたところで、陽一さんが助けてくれたらしいのよ」
夕里子と女友達が、いつも通り二人で下校していた帰り道、ストーカーの男は夕里子に接触を試みてきた。
突如夕里子の手を握り、熱烈な愛を説いた。
そこにたまたま現れたのが陽一だった。
陽一は、男を止めに入り――
「殴られたらしいわ。思い切り」
倒れた時、頭に二針縫う傷を負った。
血を流す陽一を見て、男は慌てて逃げ出そうとしたが、何とか陽一が追いすがり、捕まえた。
それがきっかけとなった。
縁は、陽一の怪我を理由に警察に届け出ると言って男の家族を脅し、
男を県外の親戚のもとに住まわせて別の学校に転校させること、今後絶対に夕里子に近づけさせないことを約束させた。
そうして、夕里子は一連のストーカー被害から解放されることとなった。


239 名前:秋の綾  ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/06/22(金) 14:11:43 ID:PsFHBAXj
「あの馬鹿……駅の階段で転んだって言ってたのに……!」
綾は昨年兄が怪我を負って帰った時のことを思い出していた。
そんな事情があったとは、全く知らなかった。
「そんなわけで、ユリねえにとって陽一さんは、恩人で、王子様ってわけなのよ。まあ陽一さんは、ユリねえのことはあんまし覚えてなかったみたいだけど」
「なるほどね……」
少し安心したように、綾は息をついた。
「大体わかったわ。お嬢様がちょっと暴力的な日常に触れて抱いた憧れっていうわけね。ま、すぐ飽きるわね、きっと」
「んんー……どうだろう。結構本気だと思うわよ。何しろ一年間ずっと好きだったわけだし。それに、ユリねえ、許婚がいたんだけど、陽一さんに助けられた頃、婚約解消しちゃってたから」
「い、許婚?」
「うん。四辻は本家だから、今でもそういうのやるのよ。これも親御さんに逆らって、ユリねえはかなりの労力を払ったはずだから……陽一さんに関しては、ユリねえは本気なんだと思う」
「なるほどねえ……」
どうやら生ぬるい説得や嫌がらせが通じる相手ではないらしい。
(やっかいではあるけれど……わかりやすくていいかもね)
話し合いが通じないなら消せばいいだけのことだ。
「ねえ……夕里子さんとお兄ちゃん、今日の放課後デートするらしいんだけど、どこでデートする予定なのか聞いてる?」
「聞いてるけど……?」
自分に一番近い友人と、目下一番の宿敵とで、同じ血が流れている。
聞いたときはショックではあったが、今のところその血の繋がりが綾に有益な情報をもたらしてくれるのは確かなようだった。
「今日は陽一さんが文化祭実行委員の集まりがあって一緒に帰れないから、駅前広場で三時に待ち合わせだって」
「ふーん……なるほどね」
「……あ、綾、まさかデートの邪魔とかは……」
「夕里子さんは私に会いたがってるんでしょ? 大丈夫。小夜子の従姉って聞いたからには、そう無茶はしないわよ」
目を細めて笑う綾に、小夜子は困ったように言った。
「やっぱり綾は……ブラコンだと思うよ……?」
「ちがうっての。あくまで、家族の幸せを願う良き妹よ。自分で言うのもなんだけどね」


240 名前:秋の綾  ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/06/22(金) 14:13:15 ID:PsFHBAXj
始業式の後は、新学期の心構えを説くホームルームがあり、学校は午前中で終わった。
綾は小夜子と昼食をとって別れた後、一人で駅前広場に向かった。
この街で駅前広場というと、学校最寄の駅から一駅行った、中心街の駅前の広場のことである。
通学定期とは逆の方向なので、切符を買うかどうか迷ったが、時間に余裕もあったことから、綾は歩いて行くことにした。
ただ月がかわっただけなのに、風も日差しもどこか涼しくなったように感じる。
おしゃべりをする学生、子供の手を引く主婦、忙しなく電話をかけるサラリーマン。
淡い午後の光の中、人々の行き交う並木道を、綾は歩いた。
じわりと汗が滲んだが、初秋の風がすぐにかき消してくれた。
駅前広場には、二時前には着いてしまった。
「さすがに早く来すぎちゃったわね……」
綾はあたりを見回し、広場を見渡せて時間を潰せるような店はないかと探した。
と、そんな綾に声をかけてくる男が居た。
「あの、すみません」
柔和な笑みを浮かべた、全体的にほっそりとした男性。
手には、「現世幸福の追求」と大きく印刷された、いかにも怪しげな冊子を持っている。
一目でキャッチセールスか宗教の類だと見て取れた。
男性は、どこか疲れた笑いを浮かべながら、綾に話しかけた。
「この冊子を買っていただけませんか?」
「いりません」
冷たく言い切る綾に、男はくじけず話を続けた。
「幸福の追求に興味はありませんか? この冊子は幸福を呼び寄せるための能力開発について……」
「いりません」
「……どうか……一冊だけでいいんです……そうでないと今日のノルマが……」
「消えろ」
綾のひと睨みで男は言葉を飲み込み、肩を落として去っていった。
男はしばらく広場をうろついた後、今度は自転車を押して歩いてきた少女に話しかけた。
「すみません……この冊子を買っていただけませんか?」
「え? 私ですか?」
目をぱちくりとさせる少女。
綾と同じ高校の制服。
栗色の髪を腰まで伸ばした、穏和な顔立ちの、美しい少女だった。
「はい。現世での幸福の追求について説明したものなんですが……」
「申し訳ありません。私、特別な宗教には関わらないよう親の方から厳しく言われておりまして……」
「そこを何とか!」
綾の時とは違った柔らかな拒絶に活路を見出したのか、男は少女に頭を下げて、すがりついた。
「一冊だけでいいんです。そうでないと、今日のノルマが……」
「ノルマ?」
「はい。ほんの少しの寄付でいいんです。どうか人助けだと思って……」
「その、ノルマとやらを果たさないと、何か良くないことがあるのですか?」
「はい……その……先生からのお叱りが……身勝手なことだとは思いますが、どうか……」
必死な様子の男に、少女は少し悩んだ様子を見せ、やがてにっこりと笑った。
「わかりました。何か大変な御様子ですし、一冊でよろしければ」
「あ、ありがとうございます!」
おいおい、と脇で聞いていて綾は思った。


241 名前:秋の綾  ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/06/22(金) 14:14:31 ID:PsFHBAXj
少女は笑顔で男に尋ねる。
「寄付はいくらぐらいにすればいいんですか?」
「それは気持ち程度で十分ですので」
少女は自転車を広場の隅に止めて財布を取り出し、百円玉をいくらか男に手渡した。
それと交換に、冊子を受け取る。
「それでは。ノルマ、頑張ってくださいね」
言って頭を下げ、歩き去ろうとする少女を、男はまた引きとめた。
「あの、もしよろしければ、話を聞いていってもらえませんか?」
「え? 話……ですか?」
「はい。この近くの教室で、その本の内容についてわかりやすく説明会を開いておりまして」
「すみません。それは遠慮させていただきます」
「そこを何とか。ただ来ていただくだけでいいんです。これもその……ノルマがありまして……先生にお叱りを受けることに……」
「お気の毒だとは思いますが、私にも予定がありまして……」
男は去ろうとする少女の腕を掴んで、必死になって引き止めた。
困り顔の少女はどうやら強く言えない性格らしく、無理に引き剥がそうともしない。
五分、十分――男は少女を離さず、延々頼み込み、しまいには涙を浮かべる始末だ。
「本当に……大変なんですね」
と同情の色を見せ始めた少女に、やれやれと綾は頭を振った。
普段ならこんな場面に出くわしても我関せずと放っておくところだが、その少女についてはどうにも見捨てるのが酷に思えた。
「同じ学校のよしみか……」
綾は二人に近付くと、いきなり男の膝裏を蹴り、首根っこを掴んで地面に引き倒した。
「わっ……」
「きゃっ!」
男と少女が、それぞれ声をあげる。
綾は倒れた男の腹に蹴りを入れると、低い声で脅しつけた。
「嫌がってるんだから、いいかげんにしておきなさいよ」
「あ、う……」
男は咳き込みながら立ち上がり、逃げるようにその場を離れた。
男が広場を出て行くのを見届けるて、綾は栗色の髪の少女に向き直った。
「ああいった輩は、一度甘くすると調子に乗りますから、気をつけた方がいいですよ」
「……すみません。助かりました」
少女は心からの感謝を露に、深々と礼をした。
「ちゃんとはっきり断らないと」
「そう……ですね。でも何か困っていたみたいでしたから」
「お人よしも結構ですけど、それであなたが困ることになったら本末転倒でしょう」
「確かに……あなたにもご迷惑をおかけしてしまいましたし……すみませんでした」
また謝る少女の制服の校章の色を見ると、緑色の刺繍で描かれている。
一つ上の学年の生徒だとわかった。
「……まあ、丁寧にお礼を言っていただくのはいいですが……あれ、先輩の自転車ですよね?」
「え?」
広場の隅を振り返る。
なんと、先ほど少女の止めた自転車に、見知らぬ男が跨ろうとしていた。
慌てて少女は駆け寄り、声をかけた。


242 名前:秋の綾  ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/06/22(金) 14:15:17 ID:PsFHBAXj
「あの、すみません。それ、私の自転車なのですが……」
「え」
男は驚いたように一瞬動きを止め、すぐに謝った。
「あ、す、すみません。別に盗もうとしていたとかじゃないんです」
「はあ……」
「その、すごい急ぎの用ができちゃって、どうしても自転車が必要だったんです。それで借りようと思って……」
「まあ……そうなんですか」
頬に手を当て、思案顔で栗色の髪の少女は頷く。
「ちゃんと返すつもりだったんです。だから警察とかには……」
「ええ。そういった事情でしたらお貸ししますよ」
「え? いいんですか?」
おいおい本気か、と綾は思った。
結局男は、ぺこぺこと頭を下げながら、自転車に乗って行ってしまった。
少女はというと、それをにこやかに見送っていたりする。
「大丈夫でした。やむをえない事情で借りたかっただけだそうですよ」
安心したように報告する少女に、綾はため息をついた。
「……たぶん、あの自転車、戻ってきませんよ」
「え? どうしてです?」
「どうしてって……」
無断で自転車を拝借しようとする人間の言をどうしてそこまで信用できるのか、そっちの方が聞きたい。
宗教勧誘を哀れんで、さらに自転車を目の前で奪われた少女。
(ある意味すごいけど……)
変な人だと綾は思った。
「まあいいです。でも自転車がなくなったら先輩も困るんじゃないですか? どこかに行く途中だったんでしょう?」
「いえ、それは大丈夫です。どうせしばらくここにいるつもりでしたから」
「この広場に?」
「はい。デートの待ち合わせでして……」
言って、恥ずかしそうに少女は笑う。
白い頬に赤みが差し、何とも可愛らしかった。
「あんまり楽しみで……ちょっと来るのが早くなってしまいました」
近くに立ってみると、少女は綾より幾分か背が高い。
自分より先輩で背も高い少女の、その初々しい姿に、綾もつられて微笑んでしまった。
「羨ましい話ですね。何時が待ち合わせだったんですか?」
「三時なんですよ。これから一時間、待ちぼうけです」
ふふ、と少女は笑った。
綾の表情が変わったことに気付かずに。
「……失礼ですが、先輩、お名前は?」
「あ、すみません。助けていただいたのに名乗りもせず……。私、四辻夕里子といいます」
どんな人なのかと思っていた。
兄の唇を奪った人間は、どんな顔をしているのか。
どんな性格をしているのか。
自分より優れているのか、劣っているのか。
(こいつが……)
動かないままの綾に、夕里子は心配そうに声をかけた。
「あの……?」
「あ、いえ、失礼しました……私も名乗らなければいけませんね」
綾は努めて静かな声で言った。
「支倉綾です。よろしく、夕里子さん」


243 名前:秋の綾  ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/06/22(金) 14:16:07 ID:PsFHBAXj
「支倉……綾さんですか?」
「はい」
「あの……ひょっとして……陽一さんの妹さんですか?」
「そうなりますね」
どこか不敵な表情で言う綾。
夕里子は身を固くして、深く頭を下げた。
「お、お初にお目にかかります! 私、陽一さんとお付き合いさせていただいております、四辻夕里子です!」
「ええ、聞いていますよ。兄も嬉しそうに話していました」
「そそ、そうですか……」
改めて綾は四辻夕里子を見た。
髪は長く、綺麗な栗色をしている。
睫毛も長く、少し垂れ気味の目は、いかにもおっとりとした気性を伝えていた。
背も高い。
そして、スタイルは非常によい。
(別にコンプレックスがあるわけじゃないけれど……)
綾は自分の胸と夕里子の胸を、じっと見比べた。
「あ、あの……綾さん?」
「……そんなに固くならなくてもいいですよ。私と話すのは緊張しますか?」
「え、いえ、その……」
「夕里子さんの方が先輩なんだから、もっと気楽な口調でいいですよ」
「いえ、私、この喋り方の方が慣れていまして……誰と話すにも、こんな感じなんですよ」
言ってほんのりと笑う。
まだ緊張はしているようだが、懸命に綾と話そうとしているのが見て取れた。
「あのまま勧誘に引っかかっていたら、お兄ちゃんとデートできなくなっていましたね」
「すみません……何とか逃げるつもりではいたのですが」
「少し隙が多いようですね」
「はい……ボーッとしてると良く言われます」
赤い顔で縮こまる夕里子。
綾は信じられなかった。
この、四辻夕里子という人物に、兄を奪われたことが。
縁のような機知は感じられない。
アキラのような過激なまでの自己主張も感じられない。
隙だらけの、凡庸な人物に思えた。
(どうしてお兄ちゃんはこんな女に……)
兄にとって自分が今のところ女ではないのは、先日痛いほど良くわかった。
だが、なぜこの女なのか。
今目の前にいる女が、陽一にとって自分よりも魅力的だなんて、認めたくはなかった。
「夕里子さん……私、夕里子さんに会ったら聞きたいなと思っていたことがあるんですよ」
「あ、はい……何でしょう」
「お兄ちゃんは、あなたのどこが気に入って付き合う気になったのだと思いますか?」
「え、ええと……それは……私もわからないんですけど、こう言ってくださったことはあります」
夕里子はその時のことを思い出してか、はにかんで言った。
「その……裏表がなくていいって」
「……!」


244 名前:秋の綾  ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/06/22(金) 14:16:49 ID:PsFHBAXj
裏と表。
(私は……)
今こうして夕里子と話している時も、綾はいかにして夕里子を排除するかを考えている。
鞄の中には、綾が扱える限りの道具が詰め込まれている。
(真逆、か……)
どうやら兄の好みは、自分とは対称の位置にある人物らしい。
(でも……この女にお兄ちゃんは渡さない)
好みなんてものはわかってしまえば何とでもなる。
裏表のない性格になればいいだけのことだ。
裏を見せないようにすればいいだけのことだ。
(こんな馬鹿な女と一緒に居たら、お兄ちゃんが苦しむことになるもの)
黙り込んだ綾に、夕里子は心配そうに声をかけた。
「あ、あのぅ……綾さん?」
(お前にお兄ちゃんは渡さない)
「その、大丈夫ですか?」
(お前にお兄ちゃんは穢させない)
「綾さん……すみません……私、何か変なことを……?」
(お兄ちゃんは、私が守ってみせる……! 私が幸せにしてみせる……!)
あの、あの、と困ったように話しかけてくる夕里子に、綾はにこりと笑って手を差し出した。
「よろしく、夕里子さん」
「あ、よ、よろしくお願いします」
嬉しそうに夕里子は握手を交わす。
その手をぎゅっと握り、綾はにこやかに言った。
「私、お兄ちゃんの恋人に関しては妥協するつもりは全くないので。覚悟しておいてくださいね」
「え、あ、はい。……え?」


245 名前:秋の綾  ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/06/22(金) 14:17:41 ID:PsFHBAXj
陽一がやってきたのは、待ち合わせ時刻の十五分前だった。
改札口からは、陽一に続いて縁と小夜子も姿を現した。
「あら、意外と早かったわね」
「小夜子ちゃんが教えてくれたんだよ。お前が夕里子さんに会いに行くつもりだって」
「ふーん。それで急いで来たの……」
ちらりと小夜子を見ると、小夜子は両手を合わせて謝ってきた。
「ご、ごめん綾。信じなかったわけじゃないんだけど、やっぱり気になって……」
「ま、仕方ないわよ、小夜子は自分で言ったことには責任感じる方だものね」
自分の発言のせいでデートがおじゃんになっては、従姉である夕里子に顔向けできないといったところだろう。
半ばそのつもりでもあったので、これに関しては小夜子を責める気は綾にはなかった。
「お前なあ……心配してくれるのはありがたいけど、そのうち家に呼ぶって言ったろ?」
「今日会いたくなったんだからしかたないでしょ。それに会いに来て良かったわよ。私、夕里子さんを助けたんだから」
「え?」
綾の言葉に、夕里子は再び「すみません」と謝った。
「その……恥ずかしながら、宗教の勧誘につかまってしまいまして……」
「それよりお兄ちゃん、夕里子さんはもう一時間近くここで待ってたんだからね。ダメよ、あんまり女の子を待たせたら」
「え? そんな前から?」
「お兄ちゃんとのデートが楽しみで仕方なかったんだって。それでずっと早くからここで待ってたのよ」
綾の言葉に、陽一は顔を赤くして夕里子を見た。
夕里子はというと、それ以上に赤くなっていた。
「あ、あの、それほど待ったわけではなかったんですが……はい……楽しみで……すみません」
「うん……俺も楽しみにしてたよ」
初々しい様子で挨拶を交わす二人に冷ややかな視線を送りながら、綾は縁に話しかけた。
「縁さんはどうしてこちらに?」
「私は今日は買い物があったから」
「てっきり私と同じでデートを見に来たのかと思いましたよ」
「それも面白いかもしれないね」
あはは、と縁は笑った。
そして、陽一と夕里子を見て、穏やかに目を細めた。
「良かった。うまくいってるみたいだね」
「ええ。まさかあんな人だとは思いませんでしたけど」
夕里子を見ると、小夜子と挨拶を交わしていた。
「ユリねえ、久しぶり」
「お久しぶりです。といっても、十日も空いていませんが……」
夕里子は、従妹である小夜子に対しても、やはり丁寧な言葉遣いを崩さない。
そういう躾を受けているのだろう。
「可愛いし、いい子でしょ?」
「大したいい人ぶりではありましたね。数分の間に勧誘に連れ去られそうになり、さらに自転車を盗られていましたよ」
「相変わらずだね、夕里子ちゃんは。前に色々教えて、ちょっとは注意深くなったと思ったんだけど」
「色々?」
「うん。夕里子ちゃん、ああいう性格だから、男の人に変に誤解というか期待されて、ストーカー被害に遭ったことがあるんだ。
ちょうどその時私はクラス委員だったから、相談を受けて対策を練るのを手伝ったわけ」
「ああ、その話なら聞きましたよ。……要は頭が緩くて隙だらけってことなんじゃないんですか?」
こら、と縁は綾の額を人差し指でつついた。
「冗談でもそんなこと言うもんじゃないよ?」
「兄を任すに足る人物とは思えませんね」
「夕里子ちゃんはね、優しい人なんだよ。本当にいい人で、優しくて、人を惹き付ける力がある。私とかとは違ってね」
「縁さんも人望はあるとお聞きしましたが?」
「私は、みんなに役立つ力がなかったら、誰にも見向きもされないよ」


246 名前:秋の綾  ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/06/22(金) 14:18:22 ID:PsFHBAXj
陽一と夕里子と小夜子が楽しそうに話している。
そこから数歩距離を置いたところに、綾と縁は立っていた。
「人を惹き付ける力、ねえ……」
「だって綾ちゃん、普段見知らぬ人を助けたりする?」
「いいえ」
「でも今日は夕里子ちゃんを助けたんでしょ?」
「……」
同じ学校の生徒だったから、たまたまそういう気分になっただけ。
それ以上の理由はないはずだった。
「それに自転車の件も、夕里子ちゃんは盗まれたとは思ってないんじゃないかな」
「貸したと言ってましたよ。正気を疑いましたけど」
「ほかの人ならそのまま盗まれちゃうけど、夕里子ちゃんがそう言ったなら、返ってくるんじゃないかな」
「どんな理屈ですか、それは……」
「そういう人なんだよ、夕里子ちゃんは」
言って、縁はいつものように朗らかに笑った。
結局その日は全員で遊んで、日が沈む頃になって再び駅前広場に戻ってきた。
談笑しつつ、「また明日」と各々別れを告げる。
陽一が夕里子を送っていくことを申し出て、夕里子は嬉しそうにそれを了承した。
別れ際、夕里子は綾にぺこりとお辞儀をした。
「今日は……綾さんに会えて嬉しかったです。その、今後ともよろしくお願いします」
「私はかなり小うるさい人間ですから、よろしくしない方が夕里子さんにはいいかもしれませんよ?」
「いえ、そんな! よろしくしたいです! 陽一さんの妹さんですもの!」
「……本当に、お兄ちゃんが好きなんですね」
夕里子は恥ずかしそうに俯いた。
「は、はい……大好きです……」
隣に立った陽一が、照れた様子で夕里子を急かした。
「じゃ、じゃあ夕里子さん、行こうか」
「はい。あ……自転車」
夕里子の呟きに広場の隅を見ると、もとあった場所に自転車が置かれていた。
籠の中にはチラシが一枚。
決して上手とは言えない字で、
『ありがとうございました』
と書かれていた。
「本当に戻ってきた……」
呟く綾に、縁が「ほらね」と声をかけてきた。
「夕里子ちゃんは真っ直ぐな分、色々あっても最後には好かれちゃう子なんだよ。愛されすぎて困ることもあるけど」
「へえー、まるで聖女様ですね」
友達として付き合う分にはいい人なのかもしれない。
しかし、陽一にちょっかいをかけた以上、人格の良し悪しなど関係はなかった。
どうしてやろう。
綾はただそれだけを考えていた。


247 名前:秋の綾  ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/06/22(金) 14:19:53 ID:PsFHBAXj
次の日、生徒たちはいつも通りに登校して、授業も始まる。
綾は一時間目の休み時間に、自転車通学者用の駐輪所を、一人訪れていた。
手にはいくつかの工具を持ち、周囲をきょろきょろと見回している。
すぐに、目当てのものを見つけた。
昨日はっきりと目に焼き付けた、夕里子の自転車だった。
「聖女様だか何だか知らないけどね……」
綾は自転車の脇に座ると、素早い手つきで前輪と後輪のブレーキワイヤーを切断した。
「その隙は致命的よ?」
誰にともなく語りかけながら、切断した箇所を接着剤で止めなおす。
かかった時間は、ほんの数十秒だった。
「まあ、運がよければ死んでくれるでしょう」
綾は間接的に事故で殺す方法はあまり好まなかった。
自分の目の届かないところで事が起こるため、確実性が下がり、どうしても運まかせになるからだ。
「当たればもうけ、ってとこかしらね」
誰にも見られていないことを確認すると、綾は駐輪場を後にした。


248 名前:秋の綾  ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/06/22(金) 14:22:37 ID:PsFHBAXj
放課後、小夜子が図書委員の集まりがあるということで、綾は一人で帰ることになった。
(久しぶりにお兄ちゃんと帰りたいな……)
そう思って校内を探す。
陽一はすぐに見つかった。
駐輪場で、陽一と縁と夕里子の三人が、夕里子の自転車を囲むようにしていたのだ。
「お兄ちゃん、何してるの?」
「お、綾、今日は小夜子ちゃんは一緒じゃないのか」
「小夜子は委員会だって。それより何やってるのよ?」
綾の問いに、縁が代わって返事をした。
「うん、ほら、昨日夕里子ちゃん、自転車を貸したじゃない? 知らない人に」
「ええ」
「だから念のため具合を見ておこうと思って。変なところがないか」
「へえー……」
「タイヤの方は異常はなかったけど……」
綾の見ている前で、縁は後輪を回し、ブレーキのチェックをする。
何度か普通にブレーキはかかったが、さらに勢いよく車輪を回してレバーを引いたその瞬間、軽い衝撃と共に突如ブレーキが弾けた。
「お?」
「え……?」
「あらら」
「ふーん……」
四人がそれぞれ反応を示す。
縁は靴を当てて、摩擦で車輪を止めた。
「あはは、ちょっと危なかったね」
ブレーキワイヤーを調べながら、縁は言った。
慣れたもので、すぐにワイヤーの切れた箇所を見つけ、「ほら」と夕里子に見せた。
「一度切れたのを、接着剤か何かでつけたみたいだね。軽いブレーキなら普通にかかるけど、ちょっとスピードの出た状態でかけると、ワイヤーが切れてブレーキがきかなくなるみたい」
「そんな……」
「危なかったね」
陽一も夕里子も顔を青くしていた。
綾も信じがたいという顔をしていた。
陽一たちとは驚きの理由は違う。
こうも簡単に看破されるとは思っていなかったのだ。
(この女……)
綾は縁を見た。
感情を押し殺していたが、自然視線は冷たいものになった。
「何かな、綾ちゃん」
「いえ……縁さんが注意してくれていて良かったなと思って。下手したら大事故になっていましたね」
「そうだね。まさかとは思ったけど、支倉君と夕里子ちゃんが付き合ったら、ちょっと注意しなきゃならないかなと考えてたから」
「それはまた……どうしてですか?」
綾だけでなく、陽一も夕里子も疑問の顔で縁を見た。
「ん? ほら、前に夕里子ちゃん、ストーカー被害に遭ったって言ったでしょ? 支倉君と付き合うことになったら、ひょっとしたらまた何かしてくる人がいるんじゃないかと思って」
「あの……でも……去年のあれは……ここまで危険なことはありませんでしたし……」
まだショックから抜け出せないのか、弱々しい声で夕里子が言う。
確かに、と縁は頷いた。
「今回のは、それこそ昨日自転車に乗っていった人が、壊れたブレーキを無理矢理直しただけなのかもしれないから、何とも言えないんだけどね」
「……警察に言うか?」
「あはは。警察っていうのは、意外に動かないものだよ。こういう時に役立つのは、周りの人」
縁は夕里子の肩に手を置いた。
「夕里子ちゃん、念のため、これからしばらくは、前に教えた通り身の回りに注意して」
「……はい」
「支倉君も私も、送り迎えするから。家の人には……うーん……話したくないなら話さなくてもいいかな」
「はい……。縁さん、すみません……またご迷惑をおかけして……」
ぱたぱたと手を振り、縁は笑った。
「気にしないでいいって。私が二人の仲を取り持ったわけだしね。できるだけの協力はするから」
言って、綾の方を振り返る。
「綾ちゃんもよろしくね」


249 名前:秋の綾  ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/06/22(金) 14:23:51 ID:PsFHBAXj
「は? 私が?」
「もし夕里子ちゃんを狙うストーカーだったら、今回は夕里子ちゃん自身よりも、支倉君が危害を加えられる危険が高いでしょ? 彼らの思考からすると『奪われた』わけだから」
「……! なるほど」
ひょっとしたら縁は自分に対して疑念を抱いているのかも知れない――綾は思った。
縁の言葉は裏返せば、陽一が狙われず夕里子に危害が加え続けられる場合、それは、陽一を『奪われた』と感じている人物がいるということだ。
夕里子ではなく、陽一に執着する人間がいるということになるのだ。
(あからさまに夕里子さんだけを狙うのは、こちらも危ないかもしれない……)
縁の言葉は、それだけで夕里子に防御壁を張り、綾の行動を見えない網のように縛り付けた。
(やりにくい……)
これまでに、縁に何らかの物的証拠を見られたことはないが、敵意は露にしてきた。
縁が綾を疑っていたとしても、それは感情を根拠にした、小さな推測のレベルだろう。
(それでも……この女が警戒しているとなると……)
考えながら、綾の視線は知らず知らず縁へと向いていた。
「綾ちゃん、あんまり見つめられると照れちゃうよ」
縁は微笑んで、綾の頬に指で触れた。
「わ、綾ちゃんの肌、つるつるだね。どうしたの? ボーッとして」
「……いえ……縁さんは、凄いなあと思って。こういったことに、慣れてるんですか? 普通気付きませんよ?」
「慣れてるわけじゃないけど。ただ私は、自分だったらどうするかなって、それで予想を立ててるだけだよ」
「じゃあ縁さんは、意外とストーカーさんと気が合う人なのかもしれませんね」
「そうなのかな? あまり嬉しくないけど」
陽一は元気をなくした夕里子を慰めている。
恐らくこの数日、陽一の瞳に収まった回数が一番多いのは夕里子だろう。
綾は胸の内が引き裂かれるように感じた。
「……わかりました。お兄ちゃんに何かあっても嫌ですし、私も力の限りを尽くしましょう」
やりようはいくらでもある。
こちらは十年間戦ってきたのだ。
夕里子が綾の前に歩み出て、頭を下げた。
「すみません……綾さんにまでご迷惑をおかけしまして……」
「いえ、気にしないで下さい。まだストーカーかどうかはわかりませんし」
「そう……ですね」
綾は夕里子の手を取り、ぎゅっと握った。
「夕里子さん、力の限りを尽くすといっても、前に言ったことについては変わりませんからね」
「え?」
「お兄ちゃんの恋人に関して、私は絶対に妥協しないということです」
「あ……はい」
「夕里子さん、家事が苦手と言うことですし……せめてお料理くらいはできるようになってくださいね。そしたら私も安心ですから」
「は、はい! 頑張ります!」
笑って互いの手を握る妹と恋人の姿に、陽一はほっと安堵の息をついた。
その陽一の背中を、縁がパンと叩く。
「良かったね、仲良さそうで」
「ああ……ホント、良かった……」
澄んだ秋空には、雲ひとつない。
「このまま晴れてくれればいいんだけど」
縁は一人、呟いた。


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最終更新:2011年10月27日 23:39
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