ノスタルジア 第3話

329 ノスタルジア  ◆7d8WMfyWTA sage New! 2008/11/09(日) 08:24:56 ID:fqOuGLaE
秋日高校は旧制の中学校を前身とした歴史ある高校であり、広い敷地の中には十数年前に建てられた新校舎と、それ以前に使われていた旧校舎とがある。
新校舎が灰色のコンクリートで固められた、いわゆる普通の学校建築であるのに対し、旧校舎は重厚な赤茶色の煉瓦造りの建物で、その趣のある外観は戦前から連綿と続く高校の象徴の一つともいえた。
新校舎が建てられて以来通常の授業に使われることは無くなったが、いくつかの部活が部室として教室を利用し、またいくつかの施設が中に入れられてもいる。
その施設のうちの一つに、秋日高校第二図書室があった。
秋日高校の膨大な蔵書のうち、今となっては誰も読まない本のみ残して書庫として維持されることになったのが、この第二図書室であった。
木の本棚には立派な装丁の本がぎっしりと積まれ、古い紙のどこか懐かしい香りが漂っている。
赤茶色の煉瓦が剥き出しになった壁面には大きな窓が並び、旧校舎の中庭から夕日の光を招き入れているが、それでもどこか薄暗い。
その窓際の、これまた古めかしい机を、澄川文雄と澄川千鶴子、そして夏江統治郎の三人が囲んでいた。
机の上には、千鶴子が持ってきたデジタルハンディカムが置かれていた。
その小さな画面に流れている映像――ガラス戸の向こうに蠢く男と女の姿に、統治郎は呻き声をあげ、頭を抱えていた。
「おい……おい……これは何の冗談だ? 冗談だろ? 冗談だと言ってくれ……」
「現実ですよ、夏江さん」
統治郎の呻きに、千鶴子が応じた。
「彼女の言っていた人殺しとは、堕胎のこととみて間違いないでしょう。この交わりの中でも、以前妊娠をしたと思われる発言をしています」
三人のほかは誰もいない部屋の中に、千鶴子の声が響く。
絶望的な表情で画面を見る統治郎と対照的に、千鶴子はいつものすまし顔だった。
「どうしますか、夏江さん」
「どう……とは?」
「美山叶絵さんのことです。彼女について、まだ調べてみますか? あるいは、現状がお気に召さないなら、何らかの手を打ちましょうか?」
ただ、と続いて、千鶴子は文雄の顔を見た。
「その場合、また文雄さんが私に付き従うよう言っていただく必要がありますけれど」
千鶴子の視線に、文雄は思わず顔を背けてしまった。
昨日の、あの信じがたい出来事が頭をよぎった。
叶絵が虐待を受ける様を見ながら、実の妹の口による愛撫を受け、射精してしまった。
相変わらず千鶴子は平然と文雄に接してくるが、文雄は以前よりもさらに千鶴子を避けるようになっていた。
なので、統治郎が首を横に振ったときは、心の底からほっとした。
「いや、昨日の今日でここまで調べてくれただけで十分だ。後は俺が何とかする。何とかしなきゃ駄目なんだ」
統治郎は決意に満ちた目で言うと、立ち上がった。
「この映像はどうしますか?」
「ああ、千鶴子ちゃんが持っててくれ。俺みたいなおおざっぱな人間が持っていたら、どうなるかわかったもんじゃない」
「では、必要になった時には言ってくださいね」
「ああ。それじゃあ……」
鞄を引っ掴み、今にも駆け出して行こうとする統治郎に、文雄が声をかけた。
「お、おい、どこに行くんだよ」
「こうしては居られん。今夜もあいつは叶絵を弄ぶかも知れないんだ。叶絵に会いに行く」
言うが早いか、統治郎は走って図書室を出て行ってしまった。
後に残されたのは、文雄と千鶴子の二人きり。
机を挟んで向かい合う二人の間に、さらに赤みを増した日の光が射した。


330 ノスタルジア  ◆7d8WMfyWTA sage New! 2008/11/09(日) 08:25:52 ID:fqOuGLaE
「残念だったわね、文雄さん」
「……何が?」
「夏江さんが居れば、私と二人で帰ることにならずにすんだのに」
「何をわけのわからないことを……」
「……」
「帰るぞ」
無言で見つめてくる千鶴子の視線を避けるようにして、文雄は机の脇に置いた鞄を手に取り、席を立つ。
出口に向かって歩き出したその腕を、追いすがった千鶴子が掴んだ。
五本の細指が、学生服にしっかりと食い込む。
その意外な力強さに、文雄は思わず千鶴子の方を振り返っていた。
「な、何だよ……」
「文雄さん、さっきほっとしたでしょう」
「さっき?」
「夏江さんが、私の申し出を断った時よ。これ以上私と一緒に居なくて済むって、安心したでしょう」
「そんなことは……」
言いかけて、文雄は口を閉じた。
自分を見つめる、強い光の宿った瞳。
その瞳の前には、どんな嘘もごまかしも無意味だと思った。
「ああ……」
「どうして? そんなに私と一緒にいるのが嫌なの?」
「……聞きたいのはこっちだよ。何でそんなに俺を付き従わせたがるんだよ」
「昨日も言わなかったかしら。文雄さんが私を避けるから、傍に置いておこうとしているだけよ。文雄さんが私を避けなければ、何もしないわ。悪いのは初めに私から離れた文雄さんなんじゃないかしら」
「た、確かに避けてたのは悪いと思うよ。けど……そもそもお前があんなことするから……」
「あんなことって?」
真顔で千鶴子は聞いてきた。
「私、何か悪いことをしたかしら?」
「そ、それは……お前……」
「文雄さんとセックスしたいと言ったり、文雄さんのアレを口でしたりしたことかしら」
表情を変えずに言い切る千鶴子に、文雄の方が赤面してしまった。
なぜこの娘は感情を動かすことなくこんなことを口に出来るのか。
「……そうだよ。だから俺は……」
「わからないわ。私がそうしたことでどうして文雄さんが私を避けるのか。そんなにいけないことなの?」
「いけないことに決まってるだろ!」
「そう言うわりには……」
千鶴子が文雄の胸に顔を埋める。
図書室の床に伸びた影が一つに重なった。
「文雄さん、しっかりとここを固くしていたわよね」
千鶴子の手は、文雄の股間に触れていた。
文雄は慌てて離れようとしたが、千鶴子はもう片方の腕を文雄の背中に回し、それを許さなかった。
「文雄さんも気持ちよかったのでしょう? だったらいいじゃない」
「良くないだろ! お前、おかしいぞ!? 何であんなことするんだよ! ああいうことは、軽々しくするもんじゃ無いだろ!」
「これも場合分けよね」
千鶴子は淡々と言った。


331 ノスタルジア  ◆7d8WMfyWTA sage New! 2008/11/09(日) 08:27:23 ID:fqOuGLaE
「文雄さんの中では、ああいったことは軽々しくすることではない。ではなぜ私はあんなことをするのか。
一つは、私が文雄さんとは違った考えを持っていて、ああいったことを軽々しくしてもいいと考えている。私が淫乱な女である場合。
もう一つは、私が文雄さんと同じ考えを持っていて、それでもああいったことをした場合。どちらだと思う?」
「お前は……俺と同じ考えだと思う……けど……」
文雄の言葉に、千鶴子は微かに笑みを浮かべる。
「後者だとしたら、さらに考えなければならないわね。軽々しくすることではないと考えているのに、なぜ私は文雄さんに対してあんな言動をとったのかを」
「それは……」
「単純な話、私にとってあれらの言動は、軽々しい動機のもとで行われたものじゃないということになるわよね。ねえ、文雄さん……」
千鶴子の体が文雄から離れる。
手はしっかりと文雄の腕を掴んでいた。
「その動機が何か、わかる?」
「え……」
「わからない?」
「また……『面白いから』か?」
千鶴子の手に一瞬力がこもり――
「そうね。わかってるじゃない」
いつもと変わらぬ声で、そう言った。
「私にとって好奇心を満たすことはとても大切なこと。そして文雄さんは私にとっていつでも最高の興味の対象。だから文雄さんとセックスをしたいと思ったし、文雄さんに口唇愛撫をしたいと思ったの」
「お前……その考え方は普通じゃないぞ」
「普通じゃなくてもかまわないわ。私は自分の興味を追求することができて、文雄さんは快楽を得ることができる。双方に利益があるんだから、それでいいと思うけど」
「俺はいいとは思わない。今千鶴子が言った利益とやらよりも、自分の倫理観を侵される不利益の方が大きいんだ」
きっぱりと言う文雄を、千鶴子は目を細めて見た。
「倫理観、か……文雄さんはいつでもそれを一番にしているのね」
「千鶴子が好奇心を一番にしているのと一緒だよ。譲れるものじゃない」
「そんなもの後生大事にしても、何の得も無いでしょうに」
「前にも言ったけど、損得の問題じゃないんだよ。そうやって生きることが自分にとって一番心地よいからそうしてるだけだ」
「理解を越えるわね。まあ、だからこそ文雄さんは面白いんだけど」
微笑んで、千鶴子は文雄の腕から手を離した。
「先に帰ってて。私はここの戸締りをしていくから」
「……ああ」
気付けば床に伸びた影もだいぶ長くなっていた。
入り口へと歩き、図書室の扉に手をかける。
その文雄の背中に、千鶴子が声をかけた。
「文雄さん、今まで私が、自分の興味の対象を諦めたことがあったかしら」
「……」
文雄はそれには答えず、図書室を出た。


332 ノスタルジア  ◆7d8WMfyWTA sage New! 2008/11/09(日) 08:29:05 ID:fqOuGLaE
どうやれば千鶴子の興味を自分からそらせられるのか。
それ以前に、性的なものに強い関心を寄せるのはよろしくないと諌めるべきなのか。
あの不思議な妹との関係をどうすればいいのか。
文雄はその夜悩みに悩み、結局ほとんど眠れないまま学校に行くことになった。
いかにも疲れた顔で教室の戸を開いた文雄だったが、そこにはさらに疲労を顔に滲ませた統治郎の姿があった。
「おい、酷い顔だな。どうした」
文雄が声をかけると、統治郎は苦笑した。
「お前もなかなかに酷い顔だが……そうか。俺はそんなに良くない顔をしているか」
「一応言っておくと、顔の造りが悪いとかそういう意味じゃないからな」
「なかなかの冗談だ。少しは元気が出たかも知れん」
はっはと笑うも、いつものような覇気が無い。
「……叶絵ちゃんのことか?」
「まあ、そうなるな」
「昨日話をすることはできたのか?」
「できたにはできたが……」
良い内容ではなかったことは、統治郎がその姿で物語っていた。
二人はその日の午前の授業に出るのをやめて、第二図書室で休みながら話をすることにした。
「とりあえず、叶絵に言ったんだ。その……虐待されてるんだろうって」
「言ったのか……」
「ああ。お前たちの名前は出していない。俺が金を払って独自に調査を依頼したことにしてある」
「それで、どんな反応だったんだ?」
「そこが問題なんだがな……」

統治郎に家の近くの公園に呼び出され、作蔵との関係のことを言われた叶絵は、顔を青ざめさせた。
「それを言って……どうするつもりなの?」
「どうもこうも、かなちゃん、お前を助けたいんだよ」
統治郎は必死になって言った。
「夏江の家に来い。今なら俺はかなちゃんを守ってやれる。あの男からも、他の親戚からも……」
彼の言葉に偽りは一切無く、ただ自分の大切な従妹を助けたいという思いに突き動かされていた。
しかし、対する叶絵の態度は冷たいものだった。
「別にいいよ、守ってもらわなくて」
「かなちゃん……」
「そうだよ。確かに私はあの男にやられちゃってる。毎日毎日。でも、今更気にしたってしょうがないし」
「……辛くないのか、今の暮らしが」
統治郎の問いに、叶絵は顔を伏せた。
「辛いよ……凄く辛い」
「だったら……!」
「作蔵さんはね、心臓を患っているの」
「……?」
「私が居なくなったら、一人になっちゃう。一人になって、きっとそのまま死んじゃうよ」
ぽつぽつと呟く叶絵の肩を統治郎は力強く掴んだ。
「あんな奴……あんな奴、死んだところで、何がいけないっていうんだ!? あいつはお前を……!」
「確かに最低な人だけど、誰も居ない時にあの人が家族になってくれたのは事実なんだよ」
「でも、それで辛い思いをしているんだったら、恩を感じることなんて無いだろ!? あいつはそもそもお前をいいようにするために家族になっただけかも知れないだろ!」
「そうだね……たぶんそう」
統治郎の熱い叫びに対して、叶絵はあくまで冷めた口調だった。
「でもいいの。私は美山叶絵で居る」
「かなちゃん……」
「統にい、もう私にはかまわないで」
「そんなことできるわけ……!」
言いかけて、統治郎ははっとした。
叶絵は涙を流していた。
まるでそこに太い杭が刺さったかのように苦しそうに胸を押さえて。
「私は、この生き方で、大丈夫。これが一番なの。だから……放っておいて」
肩に置かれた手を振り切るようにして、叶絵は駆け出した。
統治郎は彼女を追いかけることはできなかった。


333 ノスタルジア  ◆7d8WMfyWTA sage New! 2008/11/09(日) 08:29:45 ID:fqOuGLaE
「なあ、文雄、俺はどうすればいいんだ? あいつを放っておくべきなのか? 辛くても、あの生活を続ける。それがあいつの望みらしいんだ。俺はそれを受け入れていいのか……?」
「いや、良くないだろ」
頭を抱える統治郎に、文雄はきっぱりと言った。
「あれは立場の強さを盾にした虐待だよ。本人が辛いと言ったのなら、そこから救い出してあげるべきだと思う」
「しかし、辛くても、今のままでいいと言ったんだ」
「本人がいいと言えば、麻薬漬けになることも自殺することもいいって言うのか? 俺はそんなの絶対に認めんぞ」
文雄の口調が熱の篭ったものになる。
統治郎は黙ってその言葉を聞いていた。
「辛くても今の状態がいい? 辛くない方がずっといいに決まってるだろ。彼女は今よりも幸せな未来があることを知らないだけだ。お前がそれを教えてやらないでどうするんだよ」
「文雄、お前は……本当に真っ直ぐだな」
「そんな考え方は疲れるだけだとか無駄だとかってんなら言うなよ。いつも千鶴子に言われてうんざりしてるんだから」
統治郎は苦笑した。
「そんなこと言うかよ。改めて、凄い奴だと思っただけだ」
そう言って、膝をぽんと打った。
その表情から迷いは消えていた。
「よし、となると、どうやって叶絵を救い出すかだ。文雄、何か良い方法はあるか?」
「美山さんは十五歳を過ぎているから、養父母を自分で選べるし……本人を説得するのが一番いいんだろうけど……」
「あの様子だと、それは難しそうだ」
「話を聞くに、そうだろうな」
どうしたものかと文雄は考えた。
結局、本人が現状を受け入れてしまっている以上、外部から無理矢理作蔵と叶絵を引き離す以外方法は無いように思われた。
「警察か児童相談所に相談するのが一つ。あとは……美山作蔵と直接話をするのが一つかな」
「作蔵に?」
「ああ。あまり大事にすると、美山さんの周囲にまで話が伝わる可能性がある。美山さんも、学校の人たちに自分が性的虐待を受けていたことを知られたくはないだろう。
だから、警察や相談所を介さないで、美山作蔵に内密に話をしにいく。虐待の事実を警察に知られたくないなら美山さんを解放しろ、とね」
「なるほど……」
統治郎は頷いた。
「いずれにせよ、例のビデオは必要か。あれを持っているのは千鶴子ちゃんだよな」
「ああ」
「千鶴子ちゃんは、何か手を打とうかとも言っていたが……」
「俺があいつに付き従えばな」
文雄と千鶴子が何やら複雑な関係にあることは、統治郎も気付いていた。
千鶴子は頼りになるが、親友である文雄に無理を言うのは、統治郎としても本意でなかった。
「……わかった。今回は千鶴子ちゃんに頼むのはやめておこう」
「そうしてもらえるとありがたい。お前にまた土下座された日には、俺は断り切れないからな」
話がひと段落付くと、昨晩眠りの浅かった二人を猛烈な睡魔が襲った。
「おい統治郎、床で寝るのって意外と気持ちが良いぞ」
「お、本当だ。冷たくていいもんだな、こりゃ」
そうして、男二人は、図書室の床で午前中を寝て過ごした。



334 ノスタルジア  ◆7d8WMfyWTA sage New! 2008/11/09(日) 08:31:00 ID:fqOuGLaE
二人が起きたのは、昼休み、いつものように教室を訪れて兄の不在を知り、学校中を探し歩いた千鶴子が、第二図書室にたどりついてからだった。
「……二人、死んでいるのかと思った」
千鶴子は、弁当の重箱を机の上に置き、起きたばかりの二人に食べるように勧めた。
「どうぞ」
「ありがとう、千鶴子ちゃん」
統治郎は喜んで手をつけたが、文雄は腕を組んだまま動かない。
「どうしたんだ、文雄。美味いぞ」
「……俺は先日、千鶴子にもう弁当は作らないでいいと言ったんだ。だからいらないよ」
それを言ったのは二日前の話。
腹が減っているとはいえ、自分の言を簡単に翻すのは、文雄の好むところではなかった。
「文雄さん、何をするにしても、食は大事よ。考えるのも、動くのも、元になるエネルギーが無ければできないのだから」
「後で適当に食べるさ」
「また購買のパンを? おなかは膨れても、栄養なんて無いのに」
「それで十分だよ」
「強情ね、相変わらず」
文雄と千鶴子の視線が机を挟んでぶつかる。
先に折れたのは、千鶴子だった。
「仕方が無いないわね……」
軽く息をつき、改めて千鶴子は文雄に問うた。
「それで、どうして授業を休んだりしたの? 夏江さんが文雄さんをよろしくない遊びに誘ったのかしら?」
「い、いや、違うぞ、千鶴子ちゃん。授業よりも大切なことがあってだな……」
慌てて否定する統治郎に、千鶴子はしかし、冷たい態度を崩さない。
「授業よりも大事なこと?」
「なんだっていいだろ。それより千鶴子、例のビデオ、統治郎に渡してやってくれ」
「なるほど」
文雄の言葉に千鶴子が頷いた。
「叶絵さんのことね。夏江さん、昨日会ったんだものね。どうだったのかしら?」
「……」
文雄も統治郎もすぐには答えない。
黙り込む二人に、千鶴子は苦笑めいた表情を浮かべた。
「警戒されているわね。大丈夫、ただ話を聞くだけだから、文雄さんをどうこうとは言わないわ」
「助言や協力を求めたら?」
「前に言ったように、相応の報酬をいただくことになるわね」
文雄はため息をついた。
「だったらお前に話す意味は無いだろう。その報酬とやらを払う意志が俺に無い以上、聞かせるだけで得るものがないんだから」
「助言くらいだったら、このお弁当を残さず食べるという条件でいいんだけど」
文雄は少し考え込んで、頷いた。
「……わかった。残さず食べよう」
「そうしてちょうだい。文雄さんの体が食品添加物に侵されていくと思うと、私も気が気じゃないから」
「お前は俺の保護者かよ……」
「年齢からすると、女房と言う方が正しいんじゃないかしら」
ひたりと見据えて言ってくる千鶴子に、動揺してしまう。
その心の動きを悟られないように、文雄は努めて落ち着いた声を出した。
「またお前は……そんなに俺で遊ぶのが面白いのか?」
「そうね」
千鶴子はどこか穏やかな雰囲気になり、改めて聞いた。
「それで、叶絵さんとの話はどうなったの?」
「それがだな……」
応じたのは統治郎だった。
統治郎は先ほど文雄にした話を、今度は千鶴子に語って聞かせた。


335 ノスタルジア  ◆7d8WMfyWTA sage New! 2008/11/09(日) 08:31:46 ID:fqOuGLaE
「なるほど。叶絵さんはそんなことを言っていたの」
納得したという風に、千鶴子は頷いた。
「それで、あのビデオを欲しがるということは、二人でどうにかしようと考えているわけね」
「……美山さんを助けるにはあれが必要なんだよ」
「助ける、ね。文雄さん、私なりに助言をさせてもらうと、彼女とはもう関わらない方がいいわよ」
眉をひそめる文雄に、千鶴子は淡々と言った。
「みんな不幸になるだけだから」
「……どうしてだよ」
「彼女は、辛くても放っておいて欲しいと言ったんでしょう? ならそうしておくのが一番よ」
「その辺は統治郎とも話したけどな。本人がいいと言ったからって放っておけるものじゃないだろ」
「それにしたって、文雄さんのやり方はよろしくないわ」
「どこがどうよろしくないんだよ」
「それを言うのは協力の域にまで入ってくるわね。文雄さんがまた一つ、条件を聞いてくれるというなら話すけど」
重い沈黙が訪れた。
いかにも不快そうな表情で妹を見る兄。
まったく気にした様子も無く、いつもながらの無表情でその顔を見つめる妹。
両者を間近にして、統治郎は心中穏やかではない。
「その条件っていうのは、俺に付き従えとか、そういうやつか」
張り詰めた空気の中、先に口を開いたのは文雄だった。
「そうなるわね」
「だったら駄目だ」
「文雄さん、悪いことは言わない。今度の件については、私を頼った方がいいわよ」
「そうだな、お前は本当に良くできた妹だし、頼れるものなら頼りたいよ。だけどな、その条件は呑めない。俺はお前の好奇心を満たすためにいるわけじゃないんだ」
統治郎が聞いているため、文雄は表現に気を遣って千鶴子に言った。
「お前の望むところは、俺が許容できる物事の範囲を逸脱してるんだよ」
「それはわかってる。普通に言っても聞いてもらえないとわかっているから、こうして取引の形をとっているんじゃない」
「……千鶴子、お前はさ。この先ずっと、何かあるたびに、こうやって俺を取引で縛りつけようとするのか? 自分の欲求が満たされない限り、ずっとこうやって……」
「ええ。ずっとずっと、私の願いが叶うまで、最大限の努力を続けるでしょうね」
千鶴子は自らの両手を開き、見つめた。
「そして絶対……逃がしはしない」
虚ろな眼差しだった。
見慣れたはずの妹の姿が、突如異質な、触れてはいけない何かのように感じられ、文雄は思わず席を立った。
その文雄を、千鶴子の妖しく揺れる瞳が見上げた。
「どうするの?」
「どうするもこうするも無い。自分の力で解決しなければならないんだってことが、よくわかった」
絶対に、千鶴子の力を借りては駄目だと思った。
今力を借りているようでは、これから先の人生でも困難に出くわすたびに千鶴子に助力を請うようになり、いつか絡め取られてしまう。
「お前なんて居なくてもやってみせるさ」
「いいのかしら、そんなことを言って。後で状況が不利になった時に泣きついたとして、条件はさらに厳しいものになるわよ」
「……そもそも、お前の言うとおりに、みんな不幸になるとは限らないだろう」
「なるわよ。私には見えるの」
実際、千鶴子の言葉を信じる理由は何も無い。
不安を煽るようなことを言ってはいるが、明確な根拠を口にしてはいないのだ。
しかし、千鶴子の知性に裏打ちされた言葉には、不思議な重みがあった。
得体の知れない恐怖感が文雄の胸に湧き上がり、やはり千鶴子の助力を得た方がいいのではと考えてしまう。
美しく澄んだ双眸。
虚ろで、底の見えない黒い色。
幼い頃、千鶴子はこの瞳で、足をもいだ虫たちがのたうちまわる様をじっと見ていた。
そして今、彼女は自分を見つめている――
文雄は恐怖感を振り払うように、はっきりと言った。
「俺は、お前の玩具にはならない」
そのまま去ろうとする文雄に、千鶴子が声をかけた。
「文雄さん、お弁当」
「……!」
「どうぞ」
手渡される弁当の包みをひったくるようにして、文雄は図書室を出た。


336 ノスタルジア  ◆7d8WMfyWTA sage New! 2008/11/09(日) 08:32:22 ID:fqOuGLaE
「おい、いいのか、文雄よ」
統治郎が文雄に追いついたのは、旧校舎から新校舎への渡り廊下を半分ほど行ってからだった。
文雄はいつになく早足で、感情が揺れていることが見て取れた。
「いいのかって、何がさ」
「千鶴子ちゃんとのことだよ。あんな言い方は……」
「俺だけじゃ不安か、統治郎」
しかめ面で言う文雄に、統治郎はアホかと応じた。
「そんなことを言ってるんじゃない。兄妹なんだから、もっと仲良くした方がいいと言ってるんだよ」
「俺だって仲良くしたいさ。でも、あいつにその意志が無いんだからしょうがない」
「千鶴子ちゃんは、お前に避けられて寂しかったから、あんなことを言ってるんだろう。いいじゃないか、一緒に居てやれば……」
「お前は、あいつが本当はどういう奴か知らないからそんなことが言えるんだよ!」
文雄の勢いに押されて、統治郎は思わず一歩引いてしまった。
確かに、先ほど図書室の中で、千鶴子にどこか違和感を感じはした。
二人の会話が、何かを隠してのものだということも、何となくはわかった。
しかし、何が文雄をそこまで怯えさせるのか、事情を知らない統治郎には理解できなかった。
統治郎の中では、千鶴子は稀に見る出来の良い娘という認識のままであった。
「……なあ文雄、千鶴子ちゃんと、何があったんだ?」
「あいつの悪い癖が俺に向いたんだ」
「悪い癖?」
「何でも自分のいいように弄ぼうとする。それを見て心から楽しんでいるんだよ、あいつは。昔からそうだった」
憎々しげに文雄は言った。
以前から抱いていた不安が確信に変わり、文雄は千鶴子への負の感情を昂ぶらせていた。
自分や両親も千鶴子にとってはただの観察対象に過ぎないのではないか。
自分が千鶴子に家族としての愛情を抱いていても、千鶴子は何の感情も抱いていないのではないかという不安。
考えすぎだと思った時もあった。
しかし、今回の件で、やはり千鶴子は自分を弄ぶ対象としてしか見ていないことがわかってしまった。
文雄はどこか裏切られたような気持ちだった。
「統治郎、美山さんの件、俺に任せてもらえないか?」
「仮にも俺の従妹だから、後は俺がなんとかしようと考えているんだが……」
「頼む、やらせてくれ。俺の手で解決したいんだ。俺自身が千鶴子の言葉を覆す力を持っていることを証明したいんだ。そうじゃないと、俺はこの先ずっと……千鶴子の言葉に怯えることになる」
勝手なことを言っているとはわかっていた。
断られても仕方がないと思っていた。
しかし、統治郎は、文雄の言葉にやや逡巡しながらも頷いた。
「そうだな……そもそも俺は叶絵を助けるか否か迷っていた身だ。お前に任せるのがいいのかも知れんな」
「すまんな」
「謝る必要は無いがな、成功させてくれよ」
文雄は頷いた。
それほど困難は無いように思えた。
ただ美山作蔵のもとを訪れて、例の映像を盾に、叶絵を解放する事を了承させる。
こちらが弱味を握っている以上、難しい交渉にはならない。
「ただ……美山さんがいる場ではできない交渉だな」
叶絵本人が恐れからか恩義からか、作蔵のもとを去ることに積極的でない以上、彼女が同席したら強気で押せなくなる。
そもそも、あの映像を出すこと自体気が引ける。
「統治郎、俺はもう、今から美山作蔵と話をしに行くよ」
「今から?」
「ああ、そうすれば、美山さんはいないしな。お前は放課後、美山さんを無理矢理にでもお前の家に連れて行ってくれ。それで全部終わる」
そう、全て終わる。
千鶴子の言うような不幸など、起こり得ない。
文雄は午後の授業も休んで、美山家を訪れる決意をした。
ただ、千鶴子との約束どおり、弁当を残さず食べることは忘れなかった。


337 ノスタルジア  ◆7d8WMfyWTA sage New! 2008/11/09(日) 08:33:08 ID:fqOuGLaE
妙な感じがする。
統治郎がそう思ったのは放課後、一年生の教室に叶絵を訪れ、その不在を聞いた時だった。
「いないって……今日は学校に来ていなかったのかい?」
「いえ、早退したんです。体調が悪いからと言って……」
「何時ごろ?」
「五時間目の途中でした。授業中に、突然……」
叶絵の同級生から話を聞いた後、統治郎はすぐに叶絵にメールを出した。
そして、文雄にも。
双方から返信のメールは無かった。
「五時間目の途中……」
文雄が美山家に着いて話し合いを始めたとしたら、そのくらいの時間ではなかろうか。
どうしてよりにもよってその時間に、叶絵が学校を早退するのか。
奇妙な時間の一致が、統治郎の不安をさらに高めた。
統治郎は放課後のざわめきに溢れる校舎を走った。
向かった先は第二図書館だった。
扉を開けると、カウンターには千鶴子が一人座り、本を読んでいた。
それ以外、室内には相変わらず人は居ないようだった。
「あら、夏江さん、いらっしゃい。文雄さんなら来ていませんよ」
「その文雄の話なんだ!」
息を切らせて言う統治郎に、千鶴子は本を閉じた。
「お聞きしましょうか」
統治郎は、文雄が昼休みに美山家に交渉に向かったこと、五時間目の途中で叶絵が早退したこと、現在文雄とも叶絵とも連絡が取れないことを、矢継ぎ早に話した。
「というわけなんだが、どう思う、千鶴子ちゃん。俺は何だか嫌な予感がするんだ」
「どうもこうも、やってくれましたね」
言いながら、千鶴子はてきぱきと戸締りの準備をした。
「今日はもう閉館です。急ぎましょう」
校門を出てすぐに、千鶴子はタクシーを拾い、それに統治郎と共に乗り込んだ。
運転手に告げた行き先は、美山家だった。
「どれくらいかかりますか?」
「道路の混み具合によるけど、二十分くらいかね」
運転手の言葉に、千鶴子は小さく舌打ちをすると、統治郎を睨みつけた。
「夏江さん、なぜ文雄さんが行くことになったんですか? あなたの従妹の問題なのだから、あなたが行くのが筋でしょう」
それは、統治郎が初めて見る千鶴子の感情らしい感情だった。
剥き出しの敵意に動揺しながら、統治郎はあるがままを答えた。
「文雄が、自分に任せてくれと言ったんだ」
「文雄さんが? あの人はお節介でも、でしゃばりな人ではないはずですが……」
「それは……」
「何です? 遠慮なく言ってください」
統治郎は、昼休みに聞いた言葉を言っていいものかどうか迷ったが、千鶴子に促されて口を開いた。
「千鶴子ちゃんの言葉を覆す力を持っていることを証明したいと……文雄はそう言っていたよ」
「……!」
千鶴子は頭を抱えて呻いた。
「失敗……最悪の失敗だわ……私としたことが……」
綺麗な黒髪が方から流れ落ち、統治郎からその表情は見えなくなった。
ただ、喉の奥から搾り出されるようなかすれ声が、小さく聞こえてきた。
「でも予想外……こんな……もし……あの男……でも生きて……の場合……が……になって……利用……」
何を言っているのか、内容は掴めなかった。
ただ、千鶴子の様子が尋常のものではないことは、誰が見ても明らかであった。
「ち、千鶴子ちゃん、大丈夫かよ?」
話しかけても千鶴子は反応しない。
運転手もバックミラー越しに、気味悪そうに千鶴子を見ていた。
十分ほどして呟きが止まり、千鶴子は不意に顔をあげた。
「ち、千鶴子ちゃん?」
「はい?」
「大丈夫?」
「ええ、特に変わりありませんが、何か?」
統治郎の方を向いたその顔は、いつもの美しく整った澄川千鶴子だった。


338 ノスタルジア  ◆7d8WMfyWTA sage New! 2008/11/09(日) 08:35:35 ID:fqOuGLaE
「運転手さん、止めてください!」
美山家近くの道に差し掛かった時、突如千鶴子が声をあげた。
言われた通り、数秒後にはタクシーは道の脇に停車する。
「夏江さん、払っておいてください」
財布を統治郎に投げて、千鶴子は転がるようにタクシーを降りた。
「文雄さん!」
千鶴子が見つめる先には、道を歩いてくる文雄の姿があった。
どこか憔悴したように見える兄に向かって、千鶴子は駆け出した。
「文雄さん!」
「……! 千鶴子……」
「良かった……心配したのよ」
「心配……?」
「あの男のところに一人で行っていたんでしょう? 怪我はしていない? 大丈夫?」
問いかけて、千鶴子は文雄の体に触れようとする。
が、その手を文雄はやんわりと押しのけた。
「ああ……うん。大丈夫だよ。気にしないでくれ」
「……そう?」
千鶴子は一歩引いて、まじまじと文雄の顔を見た。
「本当に、怪我はしていないのね」
「ああ」
「何もされなかった?」
「ああ、大丈夫だ。心配かけたな」
「そう……」
文雄は近付く千鶴子を拒絶するわけでもなく、ただ力なく問いに答えた。
そんな文雄を、千鶴子はそれ以上は追及しなかった。
しかし、文雄を見つめる視線はより鋭く、厳しいものになっていた。
「文雄! どうだった?」
遅れて統治郎もやって来た。
その問いかけに顔を俯かせ、
「駄目だったよ……」
文雄は言った。
「途中から、美山さんも来てさ。押し返されてしまった」
「やっぱり、叶絵はあいつに呼ばれて早退したのか……」
「今のままでいいんだってさ。もしあのことを他の人に漏らしたら、一生恨むとまで言われたよ」
そして、統治郎に向かって深々と頭を下げた。
「すまん」
統治郎は頭を掻いた。
「お前が押し切られたんなら、俺でもそうだったろうよ。何しろ俺は、叶絵を追うことができなかったんだ」
そうは言っても、統治郎の顔から落胆の色は隠せない。
文雄もそれ以上は口を開かず、気まずい空気が流れた。
「それについてはまたお話しするとして、今日はもう帰ってもよろしいですか? 文雄さんも疲れているようですし」
千鶴子が、文雄に寄り添いながら言った。
「あ、ああ。それじゃあ千鶴子ちゃん、タクシーを使ってくれ。適当な額を払っておいたから」
「夏江さんがですか?」
千鶴子は返された財布の中身を見て尋ねた。
「行きの分も払っていただいたようですね」
「ああ、気にせんでくれ」
「借りを作るのは好みませんが……今回はお言葉に甘えさせていただきます」
千鶴子は頭を下げて、文雄の手を引いた。
そうしてタクシーに乗り込むと、車内から一礼して去って行った。
後に残された統治郎は、少し先の高台にある美山の屋敷を見た。
「駄目だったか……」
春だけあって日は長く、ようやく西の空が染まり始めた頃合いだった。
「どうすりゃいいんだ……」
統治郎の呟きは、海風の中に消えた。


339 ノスタルジア  ◆7d8WMfyWTA sage New! 2008/11/09(日) 08:43:58 ID:fqOuGLaE
家に帰ると文雄はそのまま風呂場に向かった。
「文雄さん?」
「ちょっと汗かいたから……風呂に入るよ」
「なら、湯船を入れるわ。少し待っていてちょうだい」
先んじて風呂場に向かおうとする千鶴子を、文雄が止めた。
「いや、シャワーでいいから」
「でも……」
「いいから! 早く入りたいんだよ……」
文雄の剣幕に千鶴子はそれ以上何も言わず、制服の上着を受け取って脱衣場を出て行った。
文雄は無言で熱いシャワーを浴びた。
とにかく、自分の体を洗い流したかった。
流れる温かい水の筋に沿って、自分の体を見る。
どちらかというと色白な肌の、ちょうど腹のところに、青黒い痣が出来ていた。
つい数時間前までは無かった痕を見て、気付いたら文雄は涙を流していた。
「最低だ……」
湯が床のタイルに跳ねる音の中に、震える声が響いた。
突如、浴室の扉が開いた。
立っていたのは、部屋着に着替えた千鶴子だった。
白のブラウスに、黒のスカートという姿のまま、千鶴子は浴室に入ってきた。
足だけは素足だった。
「な、何だよ……!」
「辛そうな声が聞こえたから」
言って、千鶴子は一歩文雄に近付く。
「べ、別にそんな……何も言ってないよ」
「ううん。文雄さんの辛そうな声が聞こえたわ。文雄さんがお風呂に入ってからずっとここに居たから、わかるの」
「ずっとここにって……」
浴室と脱衣場を隔てる薄いガラス戸。
その向こうで、妹がずっと自分の挙動を聞いていた。
何のために――
文雄は逃げ出したい衝動に駆られたが、既に壁際に居たため、それ以上千鶴子から遠ざかることもできなかった。
ただできることは、局部を見せないように壁のほうを向いていることだけだった。
「文雄さん、頭隠して尻隠さずね。いえ、ちょっと違うけれど……ともかく、お尻は丸見えよ」
千鶴子の言葉に、文雄は慌ててその場にしゃがみこんだ。
「お、お前な! 男の入浴中だぞ!? 何しに来たんだよ!」
「何しに? 決まってるじゃない。文雄さんの体を見に来たのよ」
千鶴子はしゃがんでいる文雄の両肩をがしりと掴むと、そのまま力任せに文雄を床に転がした。
「おわ……!」
堪えようとするが、駄目だった。
文雄はあっさりと仰向けにされ、ちょうど千鶴子に押し倒されるような形になってしまった。


340 ノスタルジア  ◆7d8WMfyWTA sage New! 2008/11/09(日) 08:46:11 ID:fqOuGLaE
「しゃがんでいると、腰と足先の距離が縮まるからね。モーメントの問題。非力な私でも簡単に転がせるようになっちゃうのよ」
「お前、な、何を……」
「お尻を見せているだけの方が、まだ良かったかしら」
千鶴子は文雄に馬乗りになり、その体を見下ろした。
シャワーがあたり、白いブラウスの下の下着がうっすらと透けたが、気にした様子も無かった。
文雄は何とか千鶴子から逃れようとしたが、いわゆるマウントポジションをきっちりと取られていて、抜けられそうもなかった。
「文雄さん、怪我をしているわね」
千鶴子の指先が、文雄の腹についた青痣に触れた。
「どうしたのかしら、これは」
「……ずっと前からの怪我だよ」
「そんなはずはないわ。昨日の夜はついていなかった痣だもの」
どうしてこの妹は昨晩の自分の体の状態を把握しているのか。
文雄は疑問に思ったが、それを口にする猶予は与えられなかった。
「文雄さん、あの男に口止めをされたのでしょう」
「な、何を……」
「叶絵さんに押し切られた? だから何? 美山作蔵と直接話し合うことに失敗しただけなんだから、警察にでもなんでも行けばいいじゃない」
「あの事を他人に漏らしたら、美山さんは一生恨むって……」
「麻薬患者や自殺志願者に、止めたら一生恨むと言われたら、彼らを放置するの? 文雄さんはそんな考えの人ではないでしょう?」
文雄は口をつぐんでしまう。
千鶴子は文雄の両肩を押さえ、顔を近づけていった。
「正義感の強い文雄さんが、どうやって口止めされたのかしら」
千鶴子の吐息が文雄の頬に触れるくらいの近距離で、千鶴子が言った。
「暴力? ううん、傷は一つしかないんだから、それは違うわ。お金でもない。文雄さんはお金で動く人じゃない」
「……」
「ねえ、文雄さん、他に何があると思う?」
千鶴子の問いかけに、やはり文雄は黙ったままだった。
その様子に、千鶴子は、小さく体を震わせた。
「最悪……最悪だわ……」
文雄の肩を押さえる手に力がこもり、爪が皮膚に食い込んだ。
「はは……本当に……最悪……あははははは」
「千鶴子……?」
ついには喉の奥から笑い声まで漏らし始めた妹に、文雄の方が声をかけた。
「何が……おかしいんだ……」
「そうやって黙っていればわからないと思うの? 黙っているからこそわかることもあるでしょう。
文雄さんが私や夏江さんに相談もできない口止めなんて、限られているじゃない。
ねえ……ねぇ、どうして、叶絵さんはわざわざ学校から呼び戻されたのかしらね? 違うなら違うと言ってね? ねえ、文雄さん……」
ひたと、千鶴子の空虚な目が文雄を見据えた。
「あの女と、関係を持たされたの? それを撮られたりした? ちょうど、文雄さんが持っていったビデオのように」
「……!」
文雄の顔色が変わった。
それだけで、千鶴子には十分だった。


341 ノスタルジア  ◆7d8WMfyWTA sage New! 2008/11/09(日) 08:46:46 ID:fqOuGLaE
「文雄さん……」
静かに呟いて、千鶴子は文雄の首元に噛み付いた。
白い犬歯が肌を突き破り、血が湯に溶けて流れた。
「ち……づこ……? 何を……」
千鶴子は答えない。
体全体で呼吸するようにして、ますます強く文雄の肩を首元を噛んだ。
食い千切らんばかりの勢いだった。
「や、やめろ……千鶴子……千鶴子!」
文雄の必死の叫びに、ようやく千鶴子は口を離す。
改めて文雄の上に跨り、冷たく見下ろした。
「文雄さん、どんな気持ち? 自分の力で何とかしてみせるだなんて言って、この様なわけだけど」
唇についた血を舌で舐め取りながら、千鶴子が言った。
「情けないと思わない? 申し訳ないと思わないの?」
「思う……思うよ……当たり前だろ」
文雄の目から涙が溢れた。
死にたいと思った。
全てを台無しにした自分を、本当に最低の人間だと思った。
「だから言ったじゃない。不幸になるって」
「……こうなることが、わかっていたのか?」
「文雄さんがこうなるとは予想外よ。だから最悪。私も最悪なの。自分の愚かさに反吐が出そう。あなたを穢させてしまった私が、憎い。心の底から……」
千鶴子は、文雄に覆いかぶさるようにして抱きついた。
「文雄さん、このまま諦めるの?」
「諦めるも何も……もう俺は黙っているしか……何かしようものなら、俺だけならまだしも、美山さんに迷惑がかかるんだ……」
「私と取引してくれるなら、あなたに降りかかる災難は全て排除してみせる。今回のことも、明日の朝には一夜の夢だったとなるように消し去ってあげる」
文雄は耳元で囁く千鶴子の表情を窺おうとするが、千鶴子にきつくきつく抱きしめられて、それはかなわなかった。
そのままでいると、千鶴子はますます腕に力を込めた。
「私と約束をするのが怖い? でも、文雄さん。あなたが我慢しさえすれば、叶絵さんは幸せになれる。夏江さんも。あの二人への償いの気持ちが少しでもあるなら、考えてみてもいいんじゃないかしら」
「……俺は、何をすればいいんだ……?」
「私を……私のことだけを、ずっと……」
言いかけて、千鶴子は口をつぐんだ。
「ううん。これから先、一日一回は、私の好奇心を満たすこと。それでいいわ」
その言葉の意味するところは、文雄にもわかっていた。
自分の倫理観に著しく反する行動をとることになるであろうことも。
しかし、既に一度信じるままに行動し、破れた文雄の心は、千鶴子の言葉をはねのける強さを有していなかった。
「……あなたの倫理観の拒むところのただ一つを受け入れるだけで、他の全てを守ることができるのよ」
「わかったよ……」
自分に抱きついたままの妹の温かい体を、文雄は震える手で抱きしめた。
結局、自分は逃げられなかったのだと思った。
「わかったから……助けてくれ、千鶴子……」
文雄は涙を流して言った。
千鶴子はそっと身を離し、そんな文雄の顔を見つめた。
「今日の好奇心は、これでいいことにするわね」
そのまま文雄の唇にキスをする。
貪るような、激しい、妹から兄へのキス。
それは、血よりもさらに濃く、真っ黒な関係の始まりだった。


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最終更新:2011年10月28日 00:29
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