ノスタルジア 第6話

678 :おゆき ◆7d8WMfyWTA [sage] :2011/09/29(木) 06:33:35.59 ID:hiGtwjwo (2/12)
三条家でその事件が起こったのは十年前の秋だった。
三条家の当主である三条英一は実の娘を大変可愛がっており、毎年秋の休日に親戚を招いた盛大な誕生会を開いていた。
その年は十月の第三日曜日に誕生会を行い、宴席には親戚の女たちの振る舞った豪華な料理が並んだ。
そして、その料理を食べた者たちのうち六名――三条英一の祖父母と妻子の四名と親戚の男性二名が死亡することとなった。
当時の調査の結果、料理の材料とされた山菜やキノコの中に、強い毒性のあるものが含まれていたことが判明した。
地方有数の資産家の家で起きたことから、この事件は様々な憶測を呼んだが、三条家では日常的に敷地内で採れる野草を料理の材料として使っていたことから、あくまでただの事故として処理された。
一日で家族を全員失うこととなった英一は、その後しばらく家に閉じこもることになる。
気が触れてしまったのだという噂も囁かれたが、やがて分家出身の三条望と再婚し、亡くなった娘と似た年齢の優を養子として迎えて仕事にも復帰した。
以来彼は事業を着々と拡大し、三条家の地位を更に確固たるものとしていった。

「……ということで、彼はこの辺りだと名士として知られているわけだよね。三年に一度くらいのペースで新しく女の子を養子にとっていたものだから、
連続女児殺害事件の煽りを食って警察がお邪魔しちゃったけど。仕事関係では立派な人物みたいだよ」
トントンと書類の端を机で整えながら、切子はそこに書かれた内容を千鶴子と文雄と優の三人に伝えた。
放課後の、傾きかけた日の穏やかな光に照らされる海辺のカフェテラス。
丸テーブルを囲んで座る四人の間を、春の終わりの暖かな風が通り抜けた。
「はぁ……」
切子の話が終わると同時に千鶴子はテーブルに肘をつき、額に手を当てて深々とため息をつく。
あからさまに落ち込んだ様子だった。
「あ、あれ? 説明が下手だった? わかりにくかったかしら?」
「いえ、大変わかりやすかったです。角間さん、ありがとうございました」
慌てた様子の切子に、千鶴子は静かに礼を言った。
「というか、大丈夫なんですか? 警察の資料を私たちのような一般人に明かしてしまって」
「大丈夫な情報しか明かしてはいないよ。今話したことは、時間さえかければ当時の記事やインターネットから拾える内容だから」
「あら、意外とちゃんとしてるんですね」
「そう見える? 照れちゃうなぁ」
嬉しそうに笑う切子とは対照的に、千鶴子はいつもの無表情のまま再びため息をつく。
文雄と優が心配そうにその顔をのぞき込んでいた。
「優さん、これまでに風邪などの病気を患ったことはあるかしら?」
「それは……ありますけれど」
「その時のお父様の対応で、過剰に思ったことは?」
「過剰ということはないですね。総合医療センターに行って、二週間ほど検査入院をしてお終いですから」
にこりと笑う優。
「過剰ね」
「過剰だね」
「過剰だよ」
千鶴子と切子と文雄の声が重なった。


679 :ノスタルジア 第6話 ◆7d8WMfyWTA [sage] :2011/09/29(木) 06:34:47.37 ID:hiGtwjwo (3/12)
「過剰ですか? 幼いうちは当然なのでは?」
「幼いうちということは、このところは検査入院はしていない、と」
きょとんとする優に、千鶴子がさらに問いかける。
文雄と切子は興味深そうにその様子を見ていた。
「そうですね。中学校にあがった頃から、検査入院はしなくなりました」
「下の妹さんは、今も検査入院を受けることがあるわけね」
「体調を崩した時だけですけれど」
「そう……」
千鶴子は文雄を見た。
「文雄さん、悪い予感が的中してしまったわね」
「ええと、お前が言った通り、事故は毒物の関わるものだったわけだな」
「検査入院は、個人でできる毒物への対処としては最善のものでしょうね。原因を特定できなくとも、日常の環境から隔離して体調の改善を見ることで、普段の生活の中に原因があるか否かを判断できるわ」
あの、と二人の会話に優が遠慮がちに入りこんだ。
「よくわからないんですけれど、つまりどういうことなんでしょう」
「つまりね、優さん。あなたはお父様に肉の壁にされていたということよ」
千鶴子は何の遠慮もなく優にそう告げると、先日文雄に話したのと同じ推理を話して聞かせた。
三条英一が十年前の事故を、何者かが毒を盛ったのだと疑っているということ。
幼い子供を自分の生活の傍に置くことで、経皮毒や経口毒への毒見役としていること。
そして、ある程度体重が増えて毒への過敏性が薄らぐと、新たに養子をとっているということ。
「あくまで私の推論に過ぎないと思っていたけれど、今あなたに聞いた話と合わせるとそれなりに可能性は高そうね」
「そんな……父が……」
「正確な動機は謎ね。純粋に自らを守っているのか、犯人の接触にすぐに気付けるようにして復讐の機会を窺っているのか。いずれにせよ、あなたたちは使い捨ての命だったということよ」
「そんな……」
顔面蒼白になりながら、優は切子に問いかけた。
「角間さん、その十年前の事件は、あくまで事故だったんですよね?」
「報告書だとそうなってるね」
「なら、その報告書を父に見せれば、父も納得して……」
「捜査結果そのものは当時伝えてあるから、三条氏には見せても無駄だと思うよ」
ねえ、と切子が千鶴子を見た。
「そうね。これはあくまであなたのお父様の心の問題に過ぎないわ。実際に事故だったのか事件だったのかは関係ない。お父様が何を信じるかが全てなのよ」
「そう……ですか」
沈黙が降りる。
静かな波の音が堤防の向こうから響いてきた。
「それじゃ、私は帰るね」
「……ありがとうございました」
時計を見て席を立つ切子に、千鶴子が丁寧に礼をした。
「お忙しいところすみませんでした。今後こういったことは無いようにしますので」
「そんなにかしこまらないで。私もすごく楽しかったから、是非またどうぞ」
切子は本当に楽しそうに言って、ぱちりとウィンクをした。


680 :ノスタルジア 第6話 ◆7d8WMfyWTA [sage] :2011/09/29(木) 06:37:16.74 ID:hiGtwjwo (4/12)
カフェテラスから帰る道すがら、優はずっと無言だった。
並んで歩く千鶴子と文雄の後ろをトボトボとついてくるも、気を抜くとはぐれてしまいそうな様子だった。
「なあ千鶴子、今回の件はこれ以上どうにもならないか」
「どうにもならないわよ」
恐る恐る聞いてくる文雄に、千鶴子は冷たく返す。
「彼女、尊敬していたお父さんに毒見役にされていたなんて相当なショックだと思うんだよな」
「先程も言ったけれどね、あとは優さんのお父様の心の問題なのだから、私にはどうしようもないわよ。人の心を好きなようにはできないというお話は、いつも文雄さんがしてくれていることじゃない」
「まあ、な」
「優さんのお父様の奇行の理由を探るという、当初の依頼は果たしたつもりだけど、文雄さんは私の仕事ぶりに何か不満でもあるのかしら」
「無い……。お前が言うなら、本当にこれ以上は無理なんだろうしな」
二人は交差点で立ち止まり、後ろを振り返って優を待った。
優は相変わらず俯いたまま、夕闇の煉瓦道を肩を落として歩いていた。
「信号が赤でも気付かず渡ってしまいそうだな」
「そうね」
淡々と応じながら千鶴子が文雄の表情を横目に見る。
お人好しの兄は、薄闇の中で目を僅かに細め、心配そうに優を見つめていた。
「一目見てわかるわ。不満がありあり、未練もありありじゃないの」
「え……?」
千鶴子は人差し指を突きだすと、文雄の胸をぴたりと突いた。
「あなたにそんな顔をされたら、私は頑張らざるを得ないわよ。だけど文雄さん、覚悟はあるの?」
「覚悟?」
「文雄さんは、人が死ぬのは嫌なのよね」
「嫌だし、そもそも駄目です。というか、誰かが死ねば解決するみたいな口ぶりだな」
「その通り。優さんのお父様が毒殺犯に怯えているというなら、その毒殺犯がこの世から居なくなればいいだけのことでしょう」
「お前、十年前の事件の犯人が分かったのか!? さっきの角間さんの話だけで!?」
「そんなわけないじゃない。むしろ私は単なる事故だと思っているわよ。ただ、優さんのお父様にとって犯人と思しき人物が居るなら、その人に消えてもらおうということね」
「消えてもらうって、殺すってことか?」
「ええ。文雄さんはテストが近いのだし、ささっと済ませないといけないからね」
こともなげに言う千鶴子の冷たい瞳を見て、文雄はこの妹と約束を交わして本当に良かったと思った。
恐らくあの約束が無ければ、千鶴子は今の案を誰に話すこともなく実行して、明日には美山作蔵の時のように全てが解決していたのだろう。
口づけを交わした夜から一週間余り、実の妹である千鶴子と性的な関係を持つことに随分悩みもしたが、ようやく文雄は少し罪の意識が薄れた思いだった。
「千鶴子さん、頼むからそれはやめてください。俺にその覚悟はありません」
「そうなるわよね。じゃあ別の覚悟はどうかしら」
「別の覚悟?」
「誰も死なない、皆が幸せになれるやり方も無くはないのよ」
「そ、そんな方法があるなら是非頼む!」
飛びつくように妹の肩を掴む文雄。
その目の前で、千鶴子の艶のある唇が薄く笑みをつくった。
「でも、とっても面倒だから、今の文雄さんとの関係のままだと割りに合わないのよね」
「え……?」
「いつかも言ったけれど、実は私、男女の情愛というものに興味があるの」
「千鶴子……」
「文雄さん、私とセックスしましょう。私の興味に付き合って。その覚悟を決めてくれたら、完全なハッピーエンドにしてみせるわ」
言い切る千鶴子の傍らの道を車が通り過ぎる。
そのライトが作り出す濃い影の中で、千鶴子の人差し指が文雄の股間へと下りていき、文雄の股間を撫でまわした。
文雄は無言のままで目を伏せたが、千鶴子を押し退けることはしなかった。


681 :ノスタルジア 第6話 ◆7d8WMfyWTA [sage] :2011/09/29(木) 06:38:04.52 ID:hiGtwjwo (5/12)
「あなたの覚悟一つで、優さんとご家族は幸せになれるのよ」
「……でも……俺とお前は兄妹で……」
「そんなに堅く考えなくてもいいじゃない。文雄さんは初めてというわけでもないのだし」
千鶴子の言葉に、文雄は苦しそうに顔を歪めた。
「千鶴子……その話はやめてくれ」
「文雄さんにはトラウマになっているのかしらね。でも、新しい経験をして新しい悩みを抱くことで、過去を塗り替えることもできる。そういうことよ」
言い終えて、千鶴子はそっと文雄から身を離し、ちょうど二人に追いついた優に声をかけた。
「優さんもあまりショックは受けないで。また上手い具合に文雄さんが解決してくれるかもしれないからね」
「ショックというより、可哀想で」
優はポツリと呟いた。
「父が可哀想で。ずっと怯えてきたのかと思うと。それをどうにもできない、助けてあげられない自分が情けないんです」
少女の目にじわりと涙が浮かんだ。
その表情は、初めて文雄と千鶴子が優に出会った時の表情と似ていた。
「あの時も優さんは、お父様を責めるのではなく、自分を責めていたわね」
「え……?」
「本当、よほど好きなのね、お父様が……」
千鶴子はため息をついた。
「優さん、お父様に兄弟姉妹はいるのかしら?」
「弟が……私からみたら、叔父が一人います。少し癖のある方で、もう数年は親戚の集まりでも見ていませんが……」
「仮に十年前の事故でお父様本人まで亡くなっていたとしたら、三条家の遺産は全てその人のものだったということね」
「そうなりますね」
相続の順位について千鶴子が語っているのは、優にもわかった。
「ちなみに先日優さんは、お父様とお母様は政略結婚をしたに過ぎないと言っていたけれど、どういうこと?」
「それは……父は家業についてとても義務感の強い人なので、その家業の安定を盾にした分家からの縁談を断れなかったらしいんです。母の実家が家業により深く関わるために嫁を押しこんだのだろうと、親戚では噂されています」
「あくまで噂であり、当人たちに確認したわけではないのね」
「それはそうですけれど、実際親族で一番発言力があるのは母の実家になっていますし……とにかく、二人が好き合っていたという話は一切ないんです!」
「前の奥さまが亡くなって一番利益を得たのが、お母様の実家であると」
ふむ、と千鶴子は頷いた。
「単純に考えると叔父様か、あるいはお母様とその実家が一番怪しいと思えるのかしらね。実際それらの方々と接したことのある優さんから見たらどうなのかしら」
「私から見るとですか?」
優は少し考え込んだ後、頷いた。
「そうですね。叔父も母も母の実家も、人間的にまっとうとは思えませんし、一番怪しいと思います」
「厳しいお言葉ね。まあ、そうすると、お父様から見てもそうなのかも知れないわね」
「父から見ても……」
俯いて、考え込む仕草を見せる優。
やがて信号が青に変わると、千鶴子は黙ったままの文雄の手を握った。
「行きましょうか。優さんにとって一番いい未来があることを祈っているわ。私も何か手伝えるといいのだけれど、ねえ、文雄さん?」
そう言って千鶴子は、満面の笑みを見せるのだった。


682 :ノスタルジア 第6話 ◆7d8WMfyWTA [sage] :2011/09/29(木) 06:39:00.71 ID:hiGtwjwo (6/12)
『三十九歳男性 アパートの階段から転落死』
二日後、新聞の地方欄にそんな小見出しが載った。
一人暮らしの男性が階段から転落死し、他に誰も住んでいない街外れの小さなアパートであったため発見が遅れたという記事だった。
亡くなった男性の名は、三条亮二と書かれていた。
「さあ、話を聞かせてもらうぞ」
昼休み、第二図書室を訪れた文雄は、持ってきた新聞を貸出カウンターに広げてそう言った。
「話って何よ?」
「この記事についてだ。転落死したこの三条亮二という男性、三条英一氏の弟らしい」
「ふむふむ。優さんの言っていた叔父様ってやつね」
「そうなるな。親戚のご不幸ということで、三条さんは本日お休みだ」
「それで、私に何を話せというの?」
文雄は緊張感に満ちた表情で尋ねた。
「お前……三条亮二を殺したのか? 美山作蔵の時のように」
「まさか。この男は文雄さんに直接害を為したわけじゃないし、文雄さんに頼まれてもいない。私が彼を殺す理由は無いわよ」
「本当に本当だな?」
「信用が無いのね。失うのは簡単で取り戻すのは難しいとは言うけれど、悲しいことだわ」
全然悲しそうではない口調で、千鶴子は言った。
「記事にもちゃんと事故として捜査って書いてあるじゃない。どうして私が殺したなんて思ったのよ」
「お前、言ってただろ。三条英一氏にとって犯人と思しき人物が居るなら、その人に消えてもらえばいいって」
「言ったわね」
「単純に考えると三条さんの叔父か、あるいは母親とその実家が一番怪しいと思えるって」
「それも言ったわね。こんな私の言葉でも文雄さんの記憶に残るのだと思うと、嬉しいわ」
「喜んでもらえるのは結構なんだがな、その……結局どうなのか、正直に言ってもらえると俺も嬉しい」
千鶴子は読んでいた本を閉じると、文雄の目を真正面から見つめる。
「大丈夫。殺してないわよ。文雄さんとの約束だもの」
はっきりとした声でそう言った。
「そうか……そうだよな。お前は色々変な妹だけど、約束を破ったりはしないよな」
「そうよ。文雄さんの覚悟が決まれば念願のセックスができるんだもの。殺してこのチャンスを逃すなんてありえないわ。文雄さんにあの提案をした時点で、私の戦略は引き延ばしの一択よ」
「少し褒めようとすると、すぐそういうことを言う……」
苦笑いしながらも、安心したことには変わりない。
文雄は一気に緊張が緩んで、ヘナヘナとカウンターの前の床に膝をついてしまった。
「とすると、やはり三条亮二の死は単なる事故なわけだな」
「まあ、優さんが手に掛けたということも考えられなくはないけどね」
「へ……? ど、どういうことだ、それは!?」
思いがけない千鶴子の指摘に、文雄は間抜けな声をあげてしまう。
カウンターに身を乗り出してくる文雄の頬を、千鶴子が手に持った髪の先で叩いた。
「どうもこうも、言葉通りよ。優さんが叔父様を殺した可能性はあるわよ」
「馬鹿な……あんないい子が人殺しなんて……」
「いい子って、優さんのどのあたりがいい子なの?」
「自分が毒見役にされていたと知ってなお、父親が可哀想だと言うんだぞ。いい子じゃないか。他にも、礼儀正しいところとか……って何してるんだ!」
文雄の三条優に対する人物評はすぐに終わりになった。
千鶴子がカウンターの席に座ったままでスカートをめくり、淡いピンクの下着を露わにしていたからだ。
「この図書室には二人きりなんだから、大丈夫よ」
「俺が大丈夫じゃないからしまいなさい! 最近お前、露出狂の気があるぞ!」
「うら若き乙女を捕まえて酷いことを言うわね。文雄さんが寝ぼけたことを言うから、目を覚まさせてあげようと思っただけよ」
千鶴子は唇を尖らせて言う。
「文雄さんは、ああいうおしとやかな人が好みなのかしら。困ったものだわ」
「いや、好みとかじゃなくてだな……」
「ともかく、人間としてであれ異性としてであれ、優さんを好きになるのはやめておきなさい。色々がっかりするだけだから」
「異性としてどうこうなんて考えてないけど、何でだよ」
「気付かなかった? 優さん、お父様のことが好きなのよ」
「いや、だから、家族想いだなあと……」
「いえいえ、そうじゃなくてね、愛しているのよ。女から男への気持ちとして、愛しているの。優さんのお母様に対する敵対心を見たでしょう」


683 :ノスタルジア 第6話 ◆7d8WMfyWTA [sage] :2011/09/29(木) 06:39:41.00 ID:hiGtwjwo (7/12)
「……え?」
文雄は唖然としてしまった。
娘から父への、女としての男への愛。
それは文雄にしてみればまったく想像したこともない感情だった。
「え……と、だけど、二人は血はつながっていないけれど父娘で……」
「関係ないわよ、そんなの」
「だって、それって……近親相姦……」
「結婚は禁じられていても、愛することまで禁じられてはいないわよ」
『近親相姦』という言葉を恥ずかしそうに口にする文雄の頬に、千鶴子がそっと手を当てる。
そのまま椅子から立ち上がると、カウンター越しに兄の唇にキスをした。
「……! ま、またお前はこんな時に……!」
「情報提供料ということで」
慌てて身を離す文雄に、千鶴子は優しく笑いかけた。
「とにかく、優さんのお父様に対する執着は相当なものがあるわ。それこそ、お父様の心の安寧のためなら、私が言ったように犯人と思しき人物を殺しかねないくらいにね」
「そんな……」
「先日の帰り道、落ち込んでいるように見えて優さんはこちらの会話に神経を集中させていたのかも知れないわね」
顔を青ざめさせて、文雄はますます深刻な表情になる。
呻くように息を吐いて、その場で固まってしまった。
「三条さんが俺たちの会話を聞いていて、それで叔父を殺したんだとしたら、次は母親が狙われることになるんじゃないか?」
「もし優さんが殺したのならね」
「だったら止めないと……!」
力強く拳を握る文雄に、千鶴子が静かに問いかけた。
「文雄さん、一度関わった人間とはいえ、どうしてそこまで彼女に執着するの?」
「一度関わった人間が不幸になったら気分が悪いだろ」
「本当にそれだけ? それ以上の感情は無いと言い切れる?」
「それ以上も何も無いよ。ただのわがままと言われればそれまでだけどさ」
「なら……仕方ないわね」
千鶴子は俯いてカウンターに手をつくと、小さな声で言った。
「大丈夫。優さんは殺していない。三条亮二は事故死よ」
「そうだったら嬉しいけど……」
「優さんのあの細腕で、人殺しなんてできないわよ。それに何より、優さんのあの性格ではね。文雄さんの言う通り、彼女はとてもいい人だもの」
千鶴子はいつもの無表情に戻り、淡々と言った。
「三条亮二が亡くなったことで優さんのお父様の疑念が晴れて、優さんの悩みも解消するかもしれないわね。文雄さんとしては、私とセックスをしないまま全てが終わって、ひと安心というところかしら」
「人が亡くなっわけだし、そこまで思っているわけじゃないよ」
「まあ、私はいつでも待っているから。その気になったら言ってちょうだいね」
千鶴子はカウンターの席に座り直すと、ほぅと息をついた。


684 :ノスタルジア 第6話 ◆7d8WMfyWTA [sage] :2011/09/29(木) 06:40:39.20 ID:hiGtwjwo (8/12)
数日後の夜。
三条家の廊下を、優は静かに歩いていた。
叔父の三条亮二が亡くなったため、その生家である三条家はこのところ普段は無い人の出入りがあったが、それも既に落ち着いている。
夜の闇の中に、木の床の軋む音が微かに響いていた。
優が立ち止まったのは彼女の母、三条望の寝室の前だった。
襖に手をかけてそっと開き、質素な内装の部屋の中に歩を進める。
その右手には、銀色に光るナイフが握られていた。
部屋の中央に敷かれた布団に、優はまっすぐ近付いていく。
ついにその間近に立ち、改めてナイフを握り直したその時――
「はい、そこまで。望さんはそこには居ないわよ」
部屋の明かりがぱちりとついた。
「まさか本当に来るとは。あなたもなかなかのものね、優さん」
部屋の入口に立ち、小さく拍手を鳴らしながら感嘆の言葉を口にしたのは、千鶴子だった。
「千鶴子……さん」
「でもそのやり方はよろしくないわ。ハッピーエンドにならないわよ」
「どうしてここに……」
愕然とした様子で優は問いかける。
ナイフは変わらず手に握ったままだった。
「あなたが望さんの命を狙うかもしれないと思ったから、しばらく張り込んでみることにしたのよ。早めに行動してくれて助かったわ」
「どうして……」
「三条亮二の亡くなった今、あなたに一番都合の良い展開を考えただけよ。正直可能性は低いと思っていたけれど、恋する乙女は怖いわね」
黒いシャツに黒いキュロットという、黒一色の私服姿で、千鶴子は首を振る。
身を縮みこませながらナイフを構え直す優を、手で制した。
「そう攻撃的にならないで。あなたをどうこうしようというつもりはないわ。ただ、あなたが人を殺すと悲しむ人が居るからやめていただくようお願いに来たのよ」
「……父は、私が何をしたところで心を動かすことはありません。父の心を少しでも開くために、母を殺すことが必要なんです」
「いえいえ、あなたのお父様が悲しむかどうかはどうでもよくてね。文雄さんが悲しむからやめて欲しいの」
「え……と、文雄さんって、澄川君ですか?」
思いがけない名前の登場に、優は目をぱちくりとさせてしまう。
千鶴子は深く深く頷いた。
「文雄さんにとって優さんは、人殺しをするような人間じゃない。まっとうな道を歩んで、幸福を掴むべき人間なのよ。だからその通りに生きて欲しいの」
「それこそ、どうでもいいお話です。私にとって大切なのは、父の心を救うこと。澄川君の期待通りに生きる義務なんてありません」
「そこを何とかお願いできないかしら。優さん自身、文雄さんには少なからずお世話になった自覚もあるでしょう。それに、私がこうしてここにいるのは、優さんが望さんを殺す可能性があることをご本人に伝えたからで……あなたはもう詰んでいるのよ」
「……!」
優は悔しそうに唇を噛む。
ナイフを前に突き出していた腕から力が抜け、だらりと床に垂れた。
「一応聞いておくけれど、叔父様を……三条亮二を殺したの? それでお母様も殺そうと?」
「……いいえ。事故で亡くなったと聞いて、父の心を解放するチャンスは今しかないと思ったんです」
「なら良かったわ。未遂で済んで何よりね。あまり慣れないことはするものじゃないわよ」
あくまで淡々とする千鶴子に対して、優はこの世の終わりのような悲壮感溢れる表情を見せていた。
「でも……母が居る限り父はずっと今のままで……きっとまた新しい妹ができることになって……」
「優さんは、お父様が他の女の子と仲良くすることが、そんなに悔しいの?」
「悔しいです。何よりも」
もはや何も隠すことなく、優は素直に頷いた。
「でも、こんなあからさまに殺人とわかるやり方でお母様を殺したら、あなたは捕まって、お父様と一緒に暮らせなくなってしまうのよ?」
「いいんです。それで父が心穏やかに過ごせるようになるなら。少しでも私が父の記憶に残るのなら」
「果報者ね、英一さんは」
優の胸中の吐露に応じたのは、千鶴子ではない別の人物の声だった。
優も千鶴子も、部屋の入り口を振り返りその声の主を確かめる。
そこには寝巻に身を包んだ三条望が立っていた。


685 :ノスタルジア 第6話 ◆7d8WMfyWTA [sage] :2011/09/29(木) 06:41:40.55 ID:hiGtwjwo (9/12)
「望さん……! 危険だから隠れているようにとあれほど……!」
千鶴子が珍しく慌てた声を出し、優を見る。
優はナイフを構え直したものの動き出す様子は無く、その理由に千鶴子もすぐに気がついた。
望は三十半ばの細身の女性には不釣り合いな、いかついクロスボウを手にしていたのだ。
クロスボウにはしっかりと矢が装填され、優に狙いが定められていた。
「あら。そんな顔しないで。自衛のためよ」
千鶴子の視線に気づき、望はにこりと笑う。
そして再び、優の立つ方を向いた。
「優ちゃん、私も死ぬわけにはいかないのだけれど、どうしたら諦めてくれるかしら?」
「お父様に心の平穏が訪れるまで、諦めることなんてできません」
「英一さんはあの通り、過去に縛られたまま、見えない敵に怯えてこの十年を過ごしてきたわ。もはや狂人と同じ。心に平穏が訪れるとしたら、死んでからの話よね」
冷たく言い放つ望の態度に、優の瞳は敵意で彩られた。
「あなたはまた……お父様を貶めるようなことを……!」
「貶めてなんかいないわ。事実なんだもの」
「……!」
優の体が小刻みに震えだす。
その様子を見て、千鶴子は二人の会話に割って入った。
「望さん、あまり優さんを挑発しないでください。彼女の心情は繊細なものですから、本気で斬りかかってきかねませんよ」
「大丈夫よ千鶴子ちゃん。この距離なら確実に当てられるから」
「それではいずれかに死人が出てしまうことになります」
「それも大丈夫! 私のは正当防衛になるから」
言って望はころころと笑いだす。
ここに至って、千鶴子は三条望の異様さに気がついた。
(先日優さんから命を狙われる可能性があることを告げた時は、ごく普通に怯えているように見えたのだけれど……)
まっとうではない、そう優は叔父と母を評していた。
全ては三条英一への愛情からくる母への敵意ゆえと千鶴子は考え、その発言を軽視していたところがあった。
(まずいかもしれない……)
千鶴子が望の手にしたクロスボウと、そこにつがえられた矢をちらりと見る。
望は笑い声をあげながら、気付けば千鶴子とも距離をとりつつあった。
千鶴子からすれば一足飛びには届かない距離。
そして、望からすればわずかな手の動きで優と千鶴子のいずれも狙える距離だった。
「でもね、私も英一さんのことを考えていないわけじゃないのよ。恥ずかしい噂が立たないよう、頑張って来たんだから」
「それはあなた自身のためでしょう!」
「いえいえ、違うわよ。英一さんのため。そして、優ちゃん含め可愛い娘たちの将来のためよ。そこの千鶴子ちゃんが証明してくれるわ。今回のことも、英一さんや優ちゃんのために千鶴子ちゃん一人の胸の内に収めておいてくださいって、誠心誠意お願いしたんだもの」
ねえ、と問いかけてくる望に、千鶴子は返事をしなかった。
実際その通り頼まれ、優が過ちを犯した際に文雄がショックを受けるといけないという千鶴子自身の思いもあり、誰にも夜の三条家での張り込みについて話をしていなかった。
それはすなわち、今ここで千鶴子が消えても、三条望が有力な加害者として挙がることはないことを示していた。
「どうしたの、千鶴子ちゃん。黙り込んじゃって」
「いえ。一応書き置きぐらいは残していますけどね」
「ふふ……そういうことにしておきましょうか」
さして気にした風でもなく、望は再び優を見た。
「とにかく、私が英一さんのためを考えているのは本当のこと。少なくとも、優ちゃんと同じくらいにはね」
「あなたに……あなたなんかに、私と同じお父様への想いがあってたまるものですか! 私はお父様のためなら何でもやってみせる! あなたみたいな、財産目当ての女にそれができるというの!?」
「できるわよお。だって亮二さんは私が殺したんだもの。英一さんの心を解すためにね」
「!?」


687 :ノスタルジア 第6話 ◆7d8WMfyWTA [sage] :2011/09/29(木) 07:10:12.28 ID:hiGtwjwo (10/12)
空気が一瞬で張りつめた。
「まさに千鶴子ちゃんの推理通り。気付いてる人がいたなんて驚いちゃったわよ。亮二さんが死ねば英一さんも少しは警戒を解いて、殺して楽にしてあげることもできると思ったんだけど、上手くいかないものよね。やっぱり、あの人の用心深さは狂人の類だわ」
「あなたが……十年前の、犯人?」
優が渇いた声で問いかける。
望は唇の端を吊りあげ、薄く笑った。
「すぐに愛しのお父様も後を追わせてあげるわ。気が狂って家族を惨殺の末自殺、なんてストーリーがいいかしら。そのうち優ちゃんの妹たちも、みんな逝かせてあげる。こんなリスクの高いやり方は嫌だったけれど、優ちゃんが私の命を諦めてくれないなら仕方ないわよね」
優がナイフを前に構えて駆け出した。
望は躊躇なくクロスボウの引き金を引く。
次の瞬間、優は矢を体に受けて、仰け反るように床に倒れ込んだ。
「優さん!」
反射的に千鶴子は優に駆け寄り、望からかばうようにして抱きかかえた。
矢は肩口に刺さっており、どうやら息はあるようだった。
「今のは正当防衛よねえ?」
クロスボウに矢をつがえ、望が余裕の表情で尋ねてくる。
千鶴子は肩越しに振り返り、笑って応じた。
「……はい、と言えば見逃してもらえるのかしら?」
「わかりきったことだわね」
望がまたころころと笑った。
「頭のいい子だと思ったけど、そうでもないのかしら。矢を放った直後があなたにとっての唯一のチャンスだったのに。優ちゃんをかばったところで、死んじゃったら意味ないでしょ」
「つい、ね。彼女が死んだら、私の大切な人が悲しむのよ」
千鶴子の言葉に、望は首を傾げた。
「よくわからないけど、千鶴子ちゃん、天国でも優ちゃんをよろしく。おとなしく死んでちょうだいね」
望がクロスボウを千鶴子に向けて照準を合わせようとしたその時――
「うおぉおおおおおおおっ!!!」
叫び声と共に廊下を駆ける音が響き、暗闇から飛び出した人影が望に飛び掛かった。
望は即座に体を翻し、人影に向かってクロスボウの引き金を引いていたが、バランスを崩したせいで矢は天井に突き刺さってしまう。
人影はクロスボウを取り落とした望を床に引きずり倒し、一発二発と殴りつけ、また大声で叫んだ。
「千鶴子! お前は静かな子だが、こんな時まで静か過ぎだ! 生きるか死ぬかの時なら叫べ! このおばさんの言葉が聞こえなければ、まったく気付かないまま終わってたぞ!!」
叫び声の主、人影は文雄だった。
「文雄さん……? どうして……」
「このところ毎日眠そうだったからな。夜遊びをしているなら注意してやろうと思ってつけて来たんだ」
「日頃あれだけの関係を持っているのに、何だか子供扱いなのね」
「子供というか、妹だからな。お前は」
「そう……」
千鶴子は心なしか寂しそうな顔をして、その場にへたりこんだ。
「まあ、正直助かったわ。私としたことが、無様な姿を見せてしまったわね。ありがとう、文雄さん」
「ついでにあっちの人にもお礼を言っておいてくれよ。家に入るために、色々協力してくれたんだ」
「……?」
文雄の指し示す廊下の奥から小走りに現れたのは、黒いスーツに束ねた髪の女性。
あの角間切子だった。
「どうも、角間切子です。警部補やっています。三条望さん、殺人未遂であなたを現行犯逮捕します。ついでに十年前の話も、ね」
提示された警察手帳を見て、文雄に組み敷かれてもがいていた望もついに観念して動きを止める。
その様子を見て満足げに頷くと、切子は文雄の頭をコツンと拳で突いた。
「文雄君、今のは一歩間違えたら死んでいたよ。警察官を目指すなら、今は生き延びることを考えないと。あ、救急車は呼んでおいたからご安心を」
「いえ、まだ目指してるわけじゃないです。というか、あのタイミングを逃したら、千鶴子は一歩間違えなくても死んでいたと思います」
「まあそうかな。でも私としては、あそこから千鶴子ちゃんがどうやって望さんを説得するかも見てみたかったんだけどね」
切子は明るく言うと、束ねた髪を元気に揺らして千鶴子に頭を下げた。
「お疲れさまでした、千鶴子ちゃん。危ない場面もあったけれど、事件解決おめでとう!」
「……なるほど、文雄さんの本当の好みはあなただったわけですか」
「え? 何が?」
「いえ何でも。ありがとうございました、角間さん」
頭を抱えながら礼を言う千鶴子だった。


688 :ノスタルジア 第6話 ◆7d8WMfyWTA [sage] :2011/09/29(木) 07:11:49.32 ID:hiGtwjwo (11/12)
「文雄さん、学校はどうしたの?」
三条家での事件の翌日、千鶴子は学校を休んで半日眠り、目覚めての第一声はそれだった。
「学校は休んだ」
ベッドの脇に置かれた椅子に座って、文雄はきっぱり言う。
「駄目じゃない、テスト前なのに」
「そんなことはいい。千鶴子、そこに座りなさい」
「座ってます。というか寝てます」
場所は千鶴子の部屋、午後の日差しがカーテンを淡く照らしている。
両親とも千鶴子のことは文雄に任せ、いつも通り仕事に出ていた。
「千鶴子……俺は怒っている」
「優さんは大怪我をして、望さんはあんなことになってしまったものね。でも、あの家族の根本の問題は解決したのだから、そこは評価していただけると嬉しいわ」
「そんなことを言ってるんじゃない!」
文雄は千鶴子の額をぴたりと叩いた。
「結局お前は、三条さんが望さんを殺す可能性を考えていたわけだな」
「まあそうね」
「それを一人で止めようとしていた」
「あってるわ」
「それで意外なところに更に危ない人物が居て、死にかけたと」
「お恥ずかしい限りだわ」
文雄は両の拳を握りしめると、千鶴子の横たわるベッドを叩いた。
「どうしてそんな無茶をするんだ! お前は!!」
「優さんが人殺しだったら、変な幻想を抱いている文雄さんが可哀想かな……なんて思って。私なりに文雄さんの一番の好みを追求したつもりだったのよ」
「お前が傷つく姿の方がよっぽど見たくないよ……」
千鶴子の言葉に、文雄はそれ以上怒る気をなくしてしまう。
表向きは反発することを言いながら、自分のことを思いやってくれる千鶴子の気持ちが嬉しくもあり、また申し訳なくもあった。
「俺がわがまま言い過ぎたのも悪かったけど、頼むから無理はしないでくれ。無理をするなら、事前に相談してくれ」
「相談なんてできないわよ。結局私が文雄さんの望むように事件を解決しようとしているとわかったら、文雄さんは今後二度と私の興味に付き合ってくれなくなるでしょう」
「それは……そうかも知れんが……」
「難しいものよね。文雄さんの望み通りにしたいけれど、同時に私自身の願いも叶えたい。事件の解決を約束しながら、文雄さんが私との取引に応じる気になるよう誘導しなければならないのよ」
「俺が取引に応じるように……」
「そう。何の不安も無いと、私の言葉なんて本気で聞いてはくれないでしょう。文雄さんの心の中に不安を残したままで事に当たるのが、効果的な方法となるわけよ」
「言わんとすることはわかるがな。それでいちいち身を危険にさらしていたら意味がないだろ」
「それは私が決めることよ。今のところは……私の欲しいものを手に入れるためなら、このくらいのリスクはどうということはないわね」
ベッドに横たわったまま、千鶴子が真っ直ぐな目で文雄を見つめた。
「これからも私は、自分のやろうとしていることの全てを文雄さんに話すことはないわ。今回のように失敗して、自分や他人を危険な状況に追い込んでしまうこともあるかもしれない。
だけど、文雄さんとの約束を守りながら私自身の願いを叶える方法が他にない以上、仕方がないわよね」
「千鶴子の願い、か……」
「そう。今以上の関係をね。実際、性的な意味以外でも、私たちはパートナーとして相性がいいと思うのよ。優さんの家族の件も、最終的に二人が揃ったから解決できた。
もっと深い結びつきを持って、常に協力して事に当たるようになれば、より多くの人を助けられるんじゃないかしら」
文雄の表情が固くなる。
既に互いの性器を舐め合っている二人。
それ以上の関係――肉体の繋がりという関係。
「……俺たちは、兄妹なんだよ」
「兄妹だけれど、そうすることで全てが上手くいくのよ。今回の事件は、優さんもその家族も、下手したらみんな殺されていたわ。
今後も同じことは起こりうるけど、それでも……その程度じゃ、文雄さんは兄妹の壁は越えられない?」
「…………」
文雄は俯いたまま黙っていた。
千鶴子はずっとずっと返事を待ったが、望んだ言葉は返ってこなかった。
「……文雄さんが私を受け入れてくれるのは、本当に大切な誰かを失いそうになった時だけなのかしらね……」
そしてその本当に大切な誰かは、自分ではないのだろう。
千鶴子の胸に、冷たく突き刺さる現実があった。
「……まあ、今のところは、あの時命懸けで望さんに向かってくれたことだけで良しとしておこうかしら」
天井を見つめ、ポツリと呟く。
昼の日差しは既に、黄昏の色を帯びていた。


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最終更新:2011年10月28日 00:48
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